1108・熟れすぎた天国のはなし





 あなたが私の名前を呼ぶ、その声に滲む熱をほんのわずかでも上げることができるというのならば。
 私はそのたった一℃のために、この手にあるものひとつ残らず、すべて炎の中に投げうちましょう。

 なにかひとつのものごとのはじまりやおわりというものは、たいてい無音のうちにやってくる。たとえば目線の交わりだ。質量などこれっぽっちも持っていないはずなのに、それはいつでも私のことをその場に立ち尽くさせるのに、じゅうぶんすぎるほどじゅうぶんな力を隠している。赤城さん、あかぎさん、あなたの、瞳は、いつでもただただ穏やかに、凪いでいるようにみえるというのに。
 それでも彼女がこっちを見ていた、たったそれだけのことで私は動けなくなった。身体の両脇でだらんと垂れたまま脱力し、どちらかというと物質性のほうを色濃く帯びていたような自分の指先が、ほとんど意識しないうちにぴくりと動いて、骨がわずかにすれ合うような軋みだけが、脳の底あたりを鈍く刺激した。たとえば赤城さんにせっつくちいさな子たちのように、めまぐるしく表情を変化させることはできなくとも、強張りはきっと色濃く表に現れてしまう。そうだ、ほかでもない、あなたの瞳を相手にしてしまったら。
 濃い雲のたなびく夜だった。それでも隙間からわずかに光をのぞかせていた星も、次々と姿を消しつつあった夜半過ぎ。ぴったりと閉じられた窓はさらさらという潮騒もしんとざわめく葉擦れの音もみんな敢然と拒絶してしまって、どちらかというと健康的な子たちばかりがいる鎮守府内では、きっと部屋の壁を二つ超えても動く影などないのだろう。寝癖の悪い子の足が、布団を蹴たぐるようなことならあったにしても。
 そういう断絶された空間で、もっとも濃い色を持つことのできる音は、おそらく自分の身体の音だ。或いは呼吸で、或いは拍動で、また或いは、全身にはりめぐらされた血管でも神経でもないなにかが、皮下でざわざわとさわぐ音。
 いつのまにかがんじがらめになってしまった目線と目線をいいようにむすばせて、私は立ったまま、赤城さんは椅子に身を預けたまま、二人とも黙していた。けれどもそこにれっきとした意思が介在してたのは赤城さんのほうだけで、私は、たぶん、たぶんなにごとか言おうとしていたと思うのだけれど。長い長いと他の艦型の子たちから舌を出される入渠を、こんな時間にようやっと終えたらしい彼女を迎えた、そんなときのために発せられるべき一言を、私なりに探して口にしようとしていたのだけれど。風呂上りの乾きを抱えているのは赤城さんのほうであるはずなのに、喉でひゅうひゅう掠れた空気を流してばかりいるのは、どういうわけか私だった。
 だから、先に口火を切ったのは、赤城さんだ。
「……加賀さん、」
 そこに、火を灯してしまったのは、赤城さんだ。
「加賀さん。」
 あなたはいくらかしっている、あなたがそうやってひとつふたつと名を呼ぶたびに、私の頭からいともやすやすと、統制を取り払えてしまうことを。
 けれどもあなたはしらないのだ、あながそうやってしめったくちびるを開くたびに、私の全身にいともやすやすと、支配を与えられてしまうことを。
 みずからによって動かすことも押さえつけることもできなくなった、「私」と呼ぶのもなんだか奇妙な気のするなにかは、手招きされることすらなく、赤城さんの傍へと歩み寄る。まるで夢遊でもしているかのような定まらない歩調で地面を踏むと、裸足にしてもあまりにぶよぶよとしている床の感覚が、やけに奇妙で滑稽だった。ひたりひたりと、私が動いているそのあいだに、あなたはけっして動かない。
 灯りのともされていない部屋の中では、鈍い鈍い月明りだけが影を作り出している。その私の影がすっぽりと赤城さんを包んだとき、鼻先から喉をすぎて胸に至るまで一瞬にして、あなたの、とても、とてもうつくしい香りが、湯としゃぼん玉と檜とをかすかにはらんだそれが、ふうわりと通り抜けていった。
 従順という言葉をとうに飛び越してしまったものをこうして体現していると、まるでそこに「私」などないように思えてしまうのだけれど。でもこういうときはやはりどうしようもなく私なのだ、あなたを、あなたを感じ取るその私は、まぎれもなく私なのだ。あなたのすみずみによって頸を絞められる、それはただの私だった。
「加賀さん、こっちに」
「……はい」
 胴着といつもの赤い袴、足袋だけを身に着けた赤城さんは、そうして私の膝を折らせる。身体が身体に触れるとき、肌よりも先に触れてくるのはきっと温度だ。そしてあの広い浴場に立ちこめる湯気をまだすくなからずその身に纏っていた赤城さんの手は、なによりもまずその熱でもって、私の両肩を包みこむ。
 さっきあんなに乾いていたせいで、随分大きな唾液の塊を飲みこむのは、私にとってひどく大義なことだった。ぎゅうぅと鳴った、悲鳴にしてもさすがに情けなさすぎるような気のするそれを、赤城さんは聞いただろうか。今度こそはその手のひらで、私の肩を抱いて、そして抱き寄せた彼女は。
 わざとはっきり擦れあうほどにすこしつめたい鼻先を寄せて、唇の隙間からこぼす吐息でふ、ふ、と私のことを擽っても、赤城さんは最後の最後、爪一枚ほどの隙間を、けっして埋めてくれようとはしない。それは私の役目なのだ。彼女が、赤城さんが決めてしまったから、私のなかでも決まってしまった、それは私の役目だった。
「ん……、……、」
 だから私がそれをいつまでも踏み越えずにいれば、私たちはいつまででも幼子のように頬だのまぶただのに鼻先をやわやわ押し付け合うことになって、でも私は正直なところそれはそれで好ましい時間だったりもするのだと白状したら、あなたはどんな顔をするのだろう。加賀さんは意外と子どもっぽところがありますからね、などと笑われてしまうかもしれない――加賀さんってそういうこと言う人でしたっけ、と、頬のひとつも染めてくれれば、と思うのは、恐らく、きっと、身に余ることだ。(あなたにそんな顔をさせてみたい、というのは、少なからず私の中で膨らむ願望ではあるのだが。)
 ぴったりと閉じられているか、ごくごく細く開かれているかだけであった赤城さんの唇が、待ちくたびれたかのようにはっと開いた。それは私にとってありがたいきっかけで、そういう合図めいたものがなければいつまでも先に進まないのは、もはや悪癖だった。
「っ、ふ」
 接吻をするときは、目を閉じるのが作法というものらしいんですよ、加賀さん。
 あなたはいつか、それこそ駆逐艦の子たちに対するような姉ぶった顔つきでそんなことを言っていたけれど、私の目に指まで突きつけて訴えかけてきたけれど、それでも私がその言葉に準じられないのは、あなたが瞳を閉じるその瞬間が、この距離でしか感じられない睫が震えるのが、とてもうつくしいと思えるからだ。そういう、望みというにもすこし下卑ているところばかりが色濃く残っているあたりが、どうしようもなく「私」である。
 私のほうが下に位置していたことを考えれば、赤城さんのほうが私に流れ込んでくるのが自然というものであったけれど、どうやら喉が渇いているらしい彼女は、真っ向から不自然を求めた。絡め取るというよりは引っ張りあげてくるような舌先は、語るためにつかわれているだけにとても雄弁だ。というのはきっと詭弁だけど。
「ん……っ、加賀、」
 唇の、端だの先だのをひたひたに濡らしたままいっとき離れると、薄く開かれた赤城さんの瞳が、かすかに責めるような光りかたをした。どうして目を閉じないの、という抗議の意だったのか、それとも焦れた色だったのか、私には判然としない。考えるための余裕も、あまり残されていない。しらないうちに下唇を舐めていた舌が、そこにかぶさっていたぬめりに、今更ながら驚く。あまい。あまったるい。水とは似ても似つかなくて、渇きの喚びかたもひどく暴力的。
 むっとしたように濡れた瞳を光らせている赤城さんに、今度こそうまく自分のぶんを掬い取って、そっと流し込む。とろりと飲みこまれていったそれの行く先も味も、どんな熱を与えてくれたかも、私には知ることができない。ただはっとしてしまうほど細い喉が、目に見えてはっきりと丸く動くのは、ありふれたしぐさであるにもかかわらず、ひどく淫靡に映るのだ。
 あまり屈んですらくれない赤城さんの唇を追うように、跪いた私は、身体を彼女の足のあいだに割り込ませて、どうにか必死に押し付ける。それでも手が支えのひとつにもならないのは、私のそれが触れている部分が彼女の腿であるからで、やわらかく押し返してくるその肌を乱暴に圧すことなど、私には到底できそうになかったのだ。そんなためではなくとも、こういうときは、少しばかり鍛えているのがありがたい。
 ひたり、ぴたりと、あそぶように逃げてゆく、もしくは招きいれるように引っ張りあげてくる、あなたに、私を、重ねて。
「っ、はあ……ねえ、加賀さん」
「……はい?」
 それにしても今夜の赤城さんは、やけに熱っぽい息をつく、なんて。
 もしかすると、そんなことを考えている場合ではなかったのかもしれない。
「違うところに、してみて?」
 さっきの口付けの湿り気を十二分にふくんだまま、そのくせあどけなさまで浮かべてくるといういっそ破壊的な笑みをくすくすと浮かべた赤城さんは、たのしそうにそう言った。「違うところにも、してみて、加賀さん」
 赤城さんはたのしそうに言う、それはとても、とてもやさしい、そしてけっして逆らうことの許されない命令だ。もっとも逆らうことを許していないのは、赤城さんなどではなく私自身なのだけれど。私は多分自分で自分の頭に矢のひとつもつっこんで、彼女の言葉に逆らうための器官のようなものを、はなから突き壊してしまったのだ。きっと自分でも気がつかないうちに。
「違う、ところ、ですか」
 それは、どこに? 私の声がみっともなくふるえていたのは、ひとつは戸惑いのせいであって――そしてもうひとつは、その数倍か数十倍か、もしかしたら数百倍にまで膨れ上がっている、期待めいたなにかだった。きっと赤城さんだって、気づいている。
 だから彼女は、しっとりと笑みを深めて、言うのだ。
「あなたの、好きなところ」
 ぞわりと肌が粟立つような静穏さを以て、上から伸びてきた赤城さんの片手が、てが、私の頬を、ふわりと撫でて、
「どこでも、好きなところよ、加賀さん。」
 顎を持ち上げたわけでも、ないのに、つうっと顔を、上げさせる。
 あなたは気付いている、そう言われたとき、あなたの腿に触れたままだった私の手が、ひどく強張ってしまったことに。一気に敏感さを増した神経が、はりつめた肌のつめたさと、その奥にじんとかくされた温度を、あまりにも鮮やかに伝えだす。もはや暴力に近い。私はあなたに打ちのめされる。こうして、たぶん、何度だって。
 そうして立ち上がれなくなれば、ひとつの終焉が訪れてしまうだけだから、私はまたふるえながら、あなたの前に傅くのだ。
「……失礼、します」
 いわば作法通りに瞳が閉じるほど、にこりと笑った赤城さんの足袋に、ぐっと手をかける。ひどく柔い腿肉と白い布に挟まれて、私の指先がいたくつぶされる。手を、ゆっくりと、おろしてゆくたびに、あなたの身体の形が、ほんのすこしずつ変わっていく。それは軌跡だった、私が、あなたに、あまりにも確かに触れてしまった、それははっきりとした軌跡だった。
 彼女は椅子に座ったままだったから、私の手は足袋を膝まで脱がせた時点で必然的に止まって、私はすこし身体を後ろにずらした。赤城さんは足を閉じなかった。そこに必ず戻ってくることを予見するように、あるいはさせるように。しなやかに肉のついたなかでも、すこしだけこつこつと骨ばっている膝のかたちをまるごとなぞって。細く張った脹脛と、きゅうっと細くなった足首と、触れてみると不思議なほど小さい踵と――指先、と。
 その爪の先の先にいたるまで、すべて触れるように足袋を下ろした。赤城さんはしっとり笑ったままでいる、が、頬の紅潮がさっきよりもわずかに増しているようにもみえた。夜闇に惑わされた見間違いだと言われれば、それでも私は納得してしまうだろうけれど。(そしてそれを意気地がないと、物怖じしなさすぎるきらいのあるあの後輩は、指をさしてまで攻めて立ててこようとする。やっかいだ。)
「赤城、さん」
「ええ。……どうぞ、加賀さん」
「は、……はぃ」
 すうっと、足の裏で水面を滑って、最後に親指の先で波紋を残すような。そんな丁重さで、赤城さんの足を、わずかに持ち上げる。
 もちろん赤城さんはそれを自らの力で支えようだなんてしないから、それは私が持ち上げているしかないのだ。五指をたっぷりと肉に沈みこませて、彼女の肌の上に、私の痕を、くっきり浮かびあがらせて。だからそう、跪いているほうであり、傅いているほうでもあるのだけれど――それでも、彼女からからだを奪い取っているのは、やはり徹頭徹尾私のほうだった。
 そうやって、まるで目の前で切り分けてでもみせるかのように、私に自分をたべさせる。お腹いっぱいたべさせる、彼女は、私の、頬や頭を、片手で、ただ片手で優しく撫でるのを、ひどく好んでいる。
「かわいい顔」
「そう、でしょうか」
「ええ、とってもよ」
 いいえあなたがなんと言おうと、それはあなたに敵わないに違いないのです。それを刻み込むために、私は、すっかりと露わになった赤城さんの腿に、そうっと額を触れさせる。
 手でもなく唇でもなく鼻先でもなく、この場において選び取れるいっとう鈍そうな部位を選んだつもりだったけれど、多分に無駄な抵抗だ。濡れてもいないのにぴったりと吸い付いてくる柔らかさが、私に停止をゆるさない。どんどん変わっていく形を、皮膚にかくれた温度を、遠く遠くで鳴る脈拍を、やわり、やわりと、触れてたしかめることしかゆるさない。
 足を、撫でていた手に触れた自分の吐息が、あまりに熱くて火傷を負う。とうに焼き尽くされていた胸が、ふっふっと徐々に間隔の短くなる呼気を動物的に吐き出す。赤城さんが、くすりとわらう。
「加賀さん、とってもかわいいわ」

 ねえ、だからはやく、そこに口付けて、もっと痕をのこして、そんなにかわいく求める私を、はやく、たくさん、たべてしまって。

inserted by FC2 system