うづりん



 きっと、信じられないことがあまりにも多すぎるからいけないのでしょう、というのが、わたしの出したひとつの答えでした。とっても、はい、とってもなさけない話だなぁ、と、自分でも思うのですが。
 しかし十七年とちょっとのあいだ、わたしは島村卯月というひとりのにんげん、いえつまりわたし自身なのですけれど、そんなにんげんと付き合ってきて思ったことには、どうやらこのひと、それほどかしこくできているわけではないようなのです。わたしは小学五年生だったころ、みりあちゃんのようにくるくると器用に頭を回して次から次へと面白い話題を思いついていく、なんてことはできませんでしたし、長電話が趣味になってしまったのは、どうもわたしの会話のテンポにも原因があるのではないでしょうか。
 それにわたしはたとえ十九歳になったとしても、美波さんのようにみんなの前で堂々と筋の通ったわかりやすい説明なんて、とてもとてもできる気がしません。いえ、勉強は得意でも好きでもなくて、それについて唯一誇れることがあるとすれば宿題を一度もすっぽかしたことがないぐらいであるわたしが、特に定期テスト前の時期になるとノートを持ったメンバーの子たちで長蛇の列ができる美波さんについて比べて話すこと自体、そもそもおこがましいことなのかもしれませんが。(というか、わたしもテスト前はすがるような気持ちで数学のノートを抱きしめて、美波さんの前に並んでいる立場ですし。うう。)
 ともかく、わたしの頑張りが足りていないせいもきっとあるんでしょうけれど、とにかく、わたしの頭はそんなにできがいいわけじゃないんです。緊張しいだし、あわてものだし、二つも三つも並行して考えをすすめようだなんてしようものなら、ものの数分でパンクしちゃいます。
 そう、だからきっと、パンクしちゃってるんです、わたし。信じられないことがあまりにも多すぎて。あまりにもたくさん、いっぺんにやってきすぎてしまって。せいいっぱいの、いっぱいいっぱいで。
 だってこんなの、どうやってひとつひとつ信じていったらいいんですか。
「卯月」
 だってこんなの。
 わたしの頭てっぺんよりすこし高いところに、凛ちゃんの頭のてっぺんもあって。
 空気の中かすかに混ざるあまいあまい香りすらふわりと感じられるくらい、目線がかちんとぶつかればきっとその、ふかい緑がかった瞳にうつるわたしのことですら見つめられそうなくらいそばに、凛ちゃんがいて。
 ふんわりやさしく光る唇がきれいにうごいたかと思えば、胸の底がむずむずするくらいやさしい声で、凛ちゃんがわたしの名前を呼んで。
 そういうのひとつひとつが、わたしにとってはあまりにも大きなことで、あまりにも信じられないことで、たまらずパンクしてしまうくらいのこと、なので。
「……卯月?」
「へぁ、はいっ!?」
 ――ほらまた、へんな声、でちゃいますし。
 のどをくっくっとならすのは、凛ちゃんのちょっといじわるなときの笑いかたです。いじわるで、いじわるなのに涼やかな目元がふにゃっとゆるむのがびっくりするほどかわいいところなんかは、ちょっとずるいなって思います。いじわるですよとできれば一から十まで怒ってしまいたいのに、わたしのみっともなさをくっくっと肩までふるわせて笑ってしまう凛ちゃんの横顔はいじわるでいたずらっぽくてそういうところがとてもかわいくて、怒ってしまいたい気持ちが一から十どころか一から一・五くらいに減ってしまうのが、わたしのたいへんな悩みなのです。
 それでもわたしがいくらかむすっとしていること、凛ちゃんはどうやら気づいてくれたみたいでした。たぶん、向かいの窓を見たのでしょう。陽の落ちた街中をひた走る電車の窓には、ひとつ空いた席に腰掛けてワインレッドの携帯電話をいじっている女のひとも、その隣でたがいに頭をぶつけそうなほどぐらぐらゆらして眠っているスーツの二人組の男のひとも、そしておかしそうに笑っていた凛ちゃんの隣でちょっと眉根を寄せていたわたしのことも、みな鏡のようにきれいに映し出されているのでした。
「ごめんごめん。なんかびっくりさせちゃったのかな」
「いえ、いいんですけど……えっと、なんですか、凛ちゃん?」
「あーうん、……ごめん、笑ってたら忘れちゃった」
「凛ちゃーん……」
「ごめんってば。なんかかわいい声だったなーって思ったらおかしくなっちゃって」
 そういうこと。
 そういうこと、を、言っちゃいますし、このひとは。
 そういう、さっきまでそれでも一・五だけは怒っていたはずのわたしの中身を、あっというまに十どころか百くらいまで、どきどきで埋め尽くしてしまうようなこと、言っちゃいますし、このひとは。
「あ、思い出した」
「はい?」
「どうかしたのって聞きたかったんだった」
 信じられないことがあまりにも多すぎるから、いけないのです。わたしはそうやって毎日パンクしているから、いけないのです。
「卯月、どうかしたの? さっきからずっとこっち、見てたみたいだけど」
「え、っと」
 厳密にいうと、わたしは凛ちゃんのほうを見ていた、わけではありませんでした。わたしも凛ちゃんもそろって手には携帯電話を掲げていましたし、そこではシンデレラプロジェクトの子たちがはいっているグループトークがぽこぽこフキダシを流していたことだって、わたしはちゃんと知ってます。だから、きちんと顔を向けて、凛ちゃんのほうを見ていたわけではありません。
 きちんと顔を向けて、凛ちゃんのほうを見ていたわけではない、というのが、きっとこの場においては、いちばん大きな問題なのでした。
「な、……なんでも、ないです」
「……ほんとに?」
「ほんとです。ほんと、です」
 凛ちゃんがこんなにこんなに、そばにいると、あまりにも信じられないことが多すぎて。
 わたしのあまりできがいいわけではない頭はあっというまにパンクして、使いものにならなくなって、なんでもないわけじゃないのに、ほんとじゃないのに、わたしはなんにも言えないまま、俯いてしまって。
 そのくせやっぱり、手元でみんなが繰り広げている今日の各ご家庭および美城プロ女子寮のお夕飯メニューについての話題に目を落としているふりをして、向かいの窓に映るあなたのこと、見つめないでは、いられない。びゅんびゅん通りすぎていく、たくさんの明かりが灯った夜の街すらわたしの目にはうつらない。名前が呼べたらいいのに。瞳がのぞけたらいいのに。だいすきなんだよって、言えたらいいのに。それであなたに、このわたしにふりかかっている信じられないことの半分でも、同じように与えてあげられたらいいのに。
 目の前にあることがあまりにもたくさん信じられなくて、それほどできのよくない頭を抱えたまま、わたしはなんにも、できなくなるのです。

「……いいなぁ」
 ほとんど無意識のうちにぽろっとこぼれた一言は、ちゃんと聞きとられてしまったみたいでした。
「シト?」
 アーニャちゃんのくりっとしたびいだまみたいな瞳が、こっちに向かって光を放ちます。アーニャちゃんはとっても耳がいいのよと言っていたのは、たしか美波さんだったでしょうか。「ほんとうに、とっても耳がいいの。広いスタジオ、ううん、外なんかで撮影しててね、あっちの端っことこっちの端っこくらいで離れてても、呼んだらすぐに飛んできてくれちゃうから」
 でもわたしが思うに、いえわたしだけでなくあの場で一緒にいたみくちゃんや未央ちゃんや杏ちゃんも同じことを言っていたのでどちらかというとみんなが思うに、耳がいいというよりも、それはただただひとりのひとが呼ぶ声に関してとっても敏感だっていうことの証なのではないでしょうか。という話を美波さんにしたほうがいいのかなぁと思ったら、一緒に聞いていた三人ともからすごく切実に止められました。いわく、めんどうなことになるから、だそうだったのですが、どういうことかはちょっとわかりません。
「卯月、どうしましたか?」
 しかしどっちにせよ今回も、きょとんと訊ねてくれるアーニャちゃんの耳がいいかどうか、ということについて役に立つ情報は、あんまり得られなかったんじゃないかなぁと思います。
 なにしろわたしとアーニャちゃんはそのときプロジェクトのルームにあるソファのお隣どうしに座っていたわけですし、ほかには杏ちゃんがいつものように大きなクッションのうえですうすう寝息を立てている以外だれもいない室内だと、わたしの声くらいちゃんとアーニャちゃんの耳まで届いてしまうでしょう。たとえ口にしたくてしたわけではないのだとしても、それは変わりません。
 だいいち――わたしがそう呟くに至ったのだって、アーニャちゃんのかすかだけれどとってもたのしそうな鼻唄を耳にしたから、だったので。隣どうしの距離が伝えあえることは、わたしたちが望むほどには多くないけれど、わたしたちがたかをくくるほどに少なくもない、のでしょう。
 アーニャちゃんはかすかにうたっていました。手にはスケジュール帳、ソファの前のテーブルには筆入れとペンが四色。書かれている文字は全部ロシア語、いえキリル文字、でしたっけ、だったので、わたしには読めませんでしたけれど。ただ、そもそもアーニャちゃんは手帳に新しく文字を書きくわえているわけではありませんでした。彼女はふんふんとわたしの知らない、たぶんどこか遠くて寒い国の歌をうたいながら、再来週の日曜日のところに星マークをつけくわえている最中でした。ライトブルーでまずかたちを書いて、レモンイエローでふちどって。
 あ、と思ったのは、その話をしたのがちょうど昨日のことだからなのでした。ロッカールームで着替えていたときのこと。美波さんの荷物から、ぱさっと落ちた一枚のチラシ。そこに記されていた日付。「……カップルデー割引?」背後で一生懸命ジャンプしているシャチがちょっと隠れそうなくらいでかでかと書かれていたせいでつい読み上げてしまったわたしを見て、美波さんはちょっぴりあわてていました。「ふ、二人、えっと、二人組だったら適用範囲内だって書いてあるのよ? ほら、そもそも"couple"は二つとか二人とかが原義だし……」
 アーニャちゃんにとっては星マークなんだなって、わかったのはそのときです。チラシに書かれていた日付と、アーニャちゃんがていねいに星マークを書きくわえているところの数字は一致していました。美波さんの言葉を借りるなら「二人組」で行くのでしょう。大きな文字で隠れそうだったシャチを、大きな水槽で抱きしめられそうなくらい近くで見たりなんかするのでしょう。そういう日は、アーニャちゃんにとっては星マークなのでした。ハートマークじゃなくって、アーニャちゃんの大好きな、青い星のマーク。
 素直に、いいな、と、思ってしまいました。そしてその気持ちは、わたしのしらない間に、ぽろんと言葉にまでなってしまいました。
「卯月?」
 じいっと見つめてくるアーニャちゃんの瞳には、なんだかあらがえないものを感じてしまいます。――なんて言って、もしかしたらわたしはただ、誰かに話してしまいたかっただけ、なのかもしれませんが。
「アーニャちゃんはいいなぁって……いえ、すごいなぁって、思ったんです」
「スゴイ?」
「その……美波さんのこと、ちゃんと大好きで」
 大小三つの星マークで彩られた日曜日を見つめながら、わたしは美波さんのことを思いだしていました。
 カップルデーはたしかにちょっぴり、いえいえとっても恥ずかしいけれど、でも、誘ってくれたから、とくすぐったそうに笑っていた美波さんのことを、思い出していました。「アーニャちゃんがね。行きたいですって、誘ってくれたから」
 とっても頭が良くて、わたしなんかではいくら勉強したって全然追いつけそうにないくらいかっこいい美波さんにあんな顔がさせられるのは、きっとアーニャちゃんだけ、なのでしょう。
「ちゃんと、大好きっていっぱい、伝えられてて。それで美波さんのことも笑顔にできて、アーニャちゃんは、すごいです」
 わたしももっと頑張らなくちゃ、と、続けたつもりだったのですけれど。
 たしかにそう口にした覚えはあるのですけれど、どうしてでしょう、隣どうしなのに、わたしたちのほかに音を立てているものなんて杏ちゃんの安らかな寝息くらいしかなかったのに、それはとてもではないけれど、アーニャちゃんの耳まで届けられた自信がもてなかったのです。そんな力を持った言葉には、なってくれなかったように思うのです。
「アー……」いつのまにかペンも手帳もテーブルに置いてしまったアーニャちゃんは、すこし考えるようにしていました。ふらっと天井の方をさまよった瞳は、けれどきちんとまたわたしの真正面まで戻ってきます。話をするときはひとの顔を絶対にまっすぐ見るところ、すこしだけ似てるなぁって、思いました。
 アーニャちゃんのそんなとこ。すこしだけ、凛ちゃんと似てるなぁ、って。
「好き、はちゃんと伝えなさいと、グランマから教わりました」
「おばあちゃんから?」
「ダー。ンー……好き、はうれしいと思うなら。ヤラッド、自分のうれしいを、相手にも分けなさいと」
 ひとがなにをどう感じるかなんて、結局のところそのひとにしかわからないものよ、と、アーニャちゃんのおばあさまは教えてくれたんだそうです。相手が自分のしたことをどう受け取るかなんて、考えたってしようのないこと。だからせめて、自分がされていやなことは、相手もしない。自分がされてうれしいことは、相手にもしてあげなさい、と。
「私はミナミから好き、が、とてもうれしいです。ヴィエーチ……だから、私もミナミに、好き、と言います。うれしい、を分けます、たくさん。なるべく、たくさん」
 そう言って、アーニャちゃんはにっこり笑いました。すこしだけ首をかしいだせいか鎖の長いピアスがちゃらりとゆれて、白い貝殻の月がきれいでした。アクセサリーをたくさん持っているアーニャちゃんは、でも、きっとどんなものをつけていたとしたって、いちばん輝いているのはアーニャちゃん自身なのだろうと、そう信じ切れてしまいます。
「卯月は……あー、卯月にとって好き、は、うれしいですか?」
「……はい。とっても、うれしいです」
 うれしいんです、って、口にしたのは、きっとわたしの思った以上に、大きなきっかけになってしまいました。
 ぱちんと音がしたんです。耳か頭の奥か、もしくは胸のそばのところで。うれしいんだって口にした瞬間、ぱちんと、なにかの弾ける音がしたんです。今まで大きな大きなものを薄い膜のなかにどうにか閉じ込めていたのが、とうとうあふれだしてしまうみたいに。
「とってもとっても、うれしいんです。ほんとに、信じられないくらい」
「ダー」
「隣に並んで座れるのも、身体の半分がわだけすごくあったかくなるのも。名前を呼んでもらうのも、ちょっとだけ撫でてもらうのも、全部、うれしいです」
 一気に話し始めてしまったわたしがほんのいっとき立ち止まったのは、にこりと笑ったアーニャちゃんが、どうしてだかわたしの両手をそっと握ったからでした。「え、っと」「プラダルジャーチェ。続けてください、卯月」びっくりするほど長い睫毛がゆっくりまばたきをするのに合わせ素直に頷いてしまったわたしは、胸のつぶれそうなほど酸素の足りなくなっていた身体にはっと短く息を吸ってから、またあふれさせてしまいます。
「振り向くときにね、ん、っていうんです。くせなんですね、きっと。その、ん、っていうのがやさしくて、すごくやさしくて、んっていいながら振り向いてくれるのが、うれしいんです。電話、そんなにしないっていってたのに、たまにかけてきてくれるのがうれしいんです。携帯があったかくなるくらいしゃべっても、まだ寝たくないねってわたしより先に言ってくれるの、すごく、うれしいんです。ううん、ほんとは、電車とかで一緒に座ってて、窓の向こうのところに映ってるのが見ちゃえるんだって、もうそれだけでもうれしくて、……うれしくって、すき、なんです」
「ダー」
「だいすき、なんです。ぜんぶは、伝えられそうにないくらい」
 あ、言えた。言えたし、言ってしまい、ました。
 わたしの手を握っていた指先に、アーニャちゃんがきゅっきゅっと二度やわらかい力を込めたのは、そのときでした。
「さっきのは、グランマに教わったこと。ママに教わったこと、ひとつあります」
「お母さん、ですか?」
「ダー。日本語が上手く話せない、ちょっと悩んでいたときでした」
 握ってくれた手を、アーニャちゃんがたからものみたいにそっと持ち上げます。アーニャちゃんの指先はすこしだけひんやりとしていて、ほっそりとした爪の先がぴかぴかで、きれいな手でした。それが、わたしの手を、とてもていねいに包んでいました。
「ルカパジャーチィ……握手すると、気持ちはよく伝わる、と。言葉が伝えられないとき、手が伝えてくれることもあると、ママは言いました」
「……手が」
「ダー。私たち、握手をしていましたね? 卯月の好き、私にはたくさん、わかりました」
「わかりました、か?」
「カニェーシナ。もちろん、です。卯月は凛が好き。大好き、いっぱいわかりましたね? だから、卯月は凛にうれしい、分けられます。きっと、分けられます」
 きゅ、ともう一度手を包まれて、そのときわたしはすこしだけ、つま先のあたりがふわりとあたたかくなるのを感じました。
 ほんとうなのかもしれないって、思いました。私はアーニャちゃんじゃないから、アーニャちゃんがどんな気持ちでこの言葉をわたしに送ってくれているのか、本当のところどうなのかなんてわたしには確かめるすべはないのですけれど。それでもこうして手を握って話をしていたら、だいじょうぶだよって、もしかしたらアーニャちゃんが手から伝えてくれたかもしれないことが、わたしのつま先をふわりとあたたかくしたのです。立ち上がって歩くための力でした。ほんとうなのかもしれません。言葉だけでは無理でも、手から伝わることって、たくさん、あるのかも。もしかして。きっと。
「ジェラーユ ウダーチ! がんばって、卯月」
「は、はい! がんばりま……って、あれ? ……あの、アーニャちゃん? わ、わたし、凛ちゃんのことって、ひとことも」
「アー……」
 ぱっと手を放したアーニャちゃんはおどけたようにそれを広げて、ちょっと肩をすくめて、ぺろっとみじかく舌をのぞかせていました。
 思いっきり熱くなった頬と、またもやパンク状態の頭が、ぼんやりと美波さんのことを思い出します。「うん、いい子よ、いい子なんだけど」あれはなんのときだったかな、そこまではもう思い出せません。あついです。あつい。ああ。やられちゃった、な。「ときどきちょっぴり、いたずらっ子。」

「せなかを、」
「ん?」
「背中を、かしてくれませんか、凛ちゃん」
 凛ちゃんはすこしだけふしぎそうな顔をしていましたが、すぐに「いいよ」といってわたしをうながすように自分の背後へと目をやりました。
 わたしは息をひとつ吸って、吐いて、さいごの勇気をなんとかかためます。それは石とかじゃ全然なくて、プリンかゼリーくらいのかたさがせいいっぱいだったんですけれども、それでも、なんとか。板張りのレッスンルームのかわいてひんやりした空気が、熱くさざめいている胸の中をさわりと撫でました。「えっと……しつれい、しますね」「なんでそんなにかしこまってるの、卯月」
 へんなの、って笑う凛ちゃんの背中に、わたしはおそるおそる、自分の背中を寄せました。
 いつものかっこいいジャージに身を包んだ、凛ちゃんの背中。風通しのいい布越しだと体温はどきどきするくらい心地よく伝わってきてしまって、あったかいのは背中なのに、お腹のあたりまでむずむずするみたいでした。へんだなぁって思います。へんになるくらい、好きだなぁって思います。
 へんになるくらい好きだから、同じようにへんにすることなんてわたしにはきっとむりですって、思うん、ですけど。
「……卯月?」
 何度か失敗しました。床をぺちぺち叩いちゃいました。そのせいで、きっとばれてました。
 背中合わせのまま、どこかについてあるはずのあなたの手をわたしが探し当てるより先に、わたしが手を握ろうとしてるって、きっと、ばれちゃってたんですよね。
 それなのにどうして凛ちゃんが動かずにいてくれたのかは、わたしにはわかりません。背中合わせのままで手を握るのがこんなにむずかしいだなんてそのとき初めて知りました。そんなによろしくない頭には、計画性っていう言葉もきっと少々足りていないのです。だから握るというよりも、つかむ、みたいになっちゃいました。凛ちゃんの、お肉がうすくしかついてなくてちょっとうらやましい手。細くて、でも指のはらのところだけはちゃんとやわらかい手を、わたしはなんだかだいぶん不恰好に、ぎゅうっとつかんでしまいました。
 ああこんなので、うまくいくはずがない、ないって、思うのですけれど。
「凛ちゃん」
「うん」
「……りん、ちゃん」
「なあに、卯月」
「すきです」
 ぎゅ。
 ぎゅ。
 と、二回、握って。
「凛ちゃん、すき」
 ぎゅう、と、ちょっとだけ強く。さいごに、握って。
 凛ちゃんあのね、わたしはね。
 うれしくってうれしくって信じられないくらい、考えようとしたらパンクしちゃうくらい、なんにも言えなくなっちゃうくらい、あなたのことが、好きなんです、よ。
 わたしはきっとあなたにもらってるぶん、全部どころか半分、いえ、十のうち一ですら返すのも、難しいとは思うのですが。でももし、せめて、言葉と一緒に、手から伝わることもあるのなら。それもみんなつかって、すこしでもわかってくれたのなら、うれしいです。わたしがまいにちまいにち、くらくらするくらい感じているうれしいを、あなたにも、ほんのすこしだけわけられたのなら。
 そうなったら、いいなって――。
「卯月」
「っは、はい、……ぁわ、」
 もふっという音がしたのでなにごとかと思ったら、あ、はい、わたしの鼻先でした。
 もうちょっとだけちゃんと言うと、急に振り向いて握っていた手ごと巻き込んで、残ったもう片方の手で器用にわたしを抱きすくめてしまった凛ちゃんの、肩にすっぽり埋まった、わたしの鼻先でした。もふってしました。凛ちゃんは、ため息をついてうらやましがってしまうくらい痩せているんですけれども、こうして触るとちゃんとやわらかいのがふしぎです。神秘です。――あ、いえでも、そうでなくて。
「り、りんちゃ」
「もう一回言って?」
「はい!?」
 それほどかしこいわけではないわりに、凛ちゃんが何について言っているのかだけはすぐに理解できるなんて、いったいどういうわけなのでしょう。でもわかります、というか、ええとちょっと、くるしい、いえくるしいくらいでもわたしは全然大丈夫なのですが、あれ、これ、なんの話でしたっけ。あれれ。
「もう一回言って。……あ、いやごめん、もう十回……あ、うーん……」
「り、凛ちゃん? あの、凛ちゃん? もしかして数っ、数を増やそうとしてませんか!?」
「だって」
 くるしい、くらい、抱きしめられた。
 凛ちゃんの心臓が、どきどきいっていました。
 手を握って伝わることがたくさんあるのだとすれば、抱きしめあって伝わることは、どのくらいたくさんあるのでしょう。アーニャちゃんは、それもちゃんと知っているのでしょうか。おばあさまに教わったのでしょうか、お母さんに教わったのでしょうか、それとも、自分で? ぼんやりと、そんなことを考えて。でも、凛ちゃんのわたしよりたしか少しだけ大きかったはずの手のひらが、わたしの背中をぐっと抱き寄せたのがわかると、なんだかそれも弾けて消えてしまって。
「しょーがないじゃん、うれしかったんだし」
「う、……うれしかったん、ですか」
「うん」
 間髪いれず答えられる凛ちゃんは、ああ、やっぱりずるいって、思います。
「もう十回っていうか、もう百回っていうか、……一生聞いてたいくらいうれしいよ、あたりまえでしょ」
 凛ちゃん、ああもう、凛ちゃん。
 ひとが、ひとがですね、せっかくがんばって、あなたにわけてあげようって、してるのに。

 またわたしに、一生ぶんくらいの「うれしい」をくれてしまって、凛ちゃん、わたしに、どうしろっていうんですか!



新田ーニャ



 白状すれば、四日ほど前から狙ってはいた。

 たとえば一昨日の夜、台所に立ってお皿を洗ってくれているのを眺めているときだってそうだった。アーニャが美波の部屋に来るのも、もう何度目か思い出せないくらいになったけれど、おおむね七割くらいの確率で食事の用意をしてあげるのは美波のほうだ。アーニャのほうだっていつもいつもそれを良しとするわけではないし、そもそも美波が台所に立とうとするとほとんど必ずといっていいほど「ミナミ、ご飯は私、作ります」と言ってくれるよいこなのだけれど、美波の側には「せっかくアーニャちゃんをおうちに呼んだから、少しくらいおもてなしさせて?」という必殺の言い訳がある。
 大切なのは私にさせてほしいの、という意味を込めてささやくことだ。そうしたらきちんとおとなしく引き下がってくれる、なんて確信を持つのは、美波の気持ちをいつだってとても大事にしてくれるアーニャのやさしさを利用しているみたいで、少しだけ良心が痛むけれど。そのくせ、自分の作った料理を口にしたとたん両耳ともくすぐったくなるくらいの「おいしい」と「うれしい」を弾けさせてくれる子の笑顔が見たい気持ちとの勝負に関して、罪悪感の勝率は三割を下回っている。
 今回の一戦でも残念ながら罪悪感は早々の大敗を喫し、アーニャは美波の作った小えびのリゾットとサラダ、ミネストローネを綺麗に平らげてにこにこしてくれた。家の中なのでゆるく降ろしている髪にこっそり隠れた自分の耳は、きっとそうでなければあのミネストローネの中に浮いていたトマトみたいな姿をさらしていたのではないかと思う。そのくせ「どう? リゾットの味付け、ちょっと濃かったかな」なんて聞いてしまうあたり、罪悪感の脆弱性がここのところ深刻な問題だ。「ニェット! フクースナ、オーチン フクースナ! とてもおいしいです、ミナミ」「そう? よかった」ふふ、なんて笑いが漏れてしまうあたり、聞きたかっただけなのだという態度もそろそろ隠しきれない。
 美波が食事の用意をすると、片付けはアーニャがするといって聞かなくなる。とっても綺麗に食べてくれたお皿を洗うのは美波にとってもひどくお気に入りなのだけれど、さすがに大人げないかと思うので、ここばかりはさすがに譲るようにしている。だいたいそういった経緯で、今晩二十一時過ぎも同じく、アーニャは美波に代わってキッチンに立っていた。流れ出す水がぴかぴかのシンクを叩く音が、カウンターキッチンからダイニングのテーブルまでさらさらと届いてきていた。
 いつもだったらそれを、テーブルについてレポートのひとつも仕上げながら聞いているのが、美波のお気に入りなのだけれど。
「ミナミ?」
「あっ、うん?」
「どうか、しましたか?」
 キッチンの入り口に突っ立っていた美波に、アーニャがとうとう声をかけた。手に泡のついたスポンジを握ったまま、細くやわらかな銀髪を揺らしてことんと首を傾げる。きちんと水を止めてから話しかけてくれたせいでさっきまで響いていた水道の音も止んでしまって、沈黙と二つの青い瞳が、美波の返答を待っていた。
「う、ううん! ちょっと……そう、お水……お水をね、取りに来たの」
「ああ……イズヴィニーチェ、ごめんなさい。ミナミのグラス、まだ洗っていません」
「大丈夫よ、新しいの出しちゃうから」
 嘘は嘘を連れてくるし、不都合なことは必ずといっていいほど手をつないでやってくる。我ながらへたくそな言い訳を重ねる羽目になったのも、きっとその法則に基づくものなのだろう。潔白ではいられない。特にこの子の前では。
 ややきょとんとしていたふうであったアーニャだけれど、美波が冷蔵庫を開けミネラルウォーターを取り出したタイミングで、お皿洗いに戻ってくれた。すきとおるほど真っ白な肌だけれど、もこもことお皿を覆っていく泡よりかはきちんと色がある。あたりまえのことがやけにくっきりと目につくのは、きっと彼女というものまるごとが、自分の目にとって特別だからなのだろう。泡をつけた陶器の表面を、水が流れるのにあわせてついっとなぞっていくアーニャの指先。まばたきを忘れた瞳の表面がじわじわとよろこんでしまう。
 だから、ただ見つめてしまいたくなったのもほんとう。だけど最初の目的は、それじゃなかった。ときどきかわいらしい鼻唄を交えながらお皿を洗っているアーニャのところへそろりと寄っていったのも、ちょうどシンクと背中合わせになる冷蔵庫にいらない用事を作ってやってきたのも。ほんとうの理由は、別にある。
「ミナミの料理、とっても上手です。いつもおいしい。ママやグランマにも、食べさせてあげたいくらい、ですね」
「アーニャちゃんだって上手じゃない。お母様とおばあ様が、アーニャちゃんの料理の先生なんでしょ? 私、満足してもらえる自信ないよ」
「ニェット、そんなことありません。二人ともきっと気に入る、そう思います。ミナミの料理も、ミナミも」
「わ、私のことも?」
「ダー! ミナミのことも。きっと気に入る、いつか会ってくださいね」
 こういうのは深読みをしたほうが負けだ。けれどしっかり負けながらも、美波はアーニャの後ろから立ち去ろうとはしなかった。見ていたのは手元、ではなくて背中。美波がいつも貸してあげている(だから、ほんとうはアーニャのものになっている)レモン色のエプロンがバッテン型に紐をかけている、薄い背中。気温が少しでも高くなるとすぐに薄くなる服の生地に、肩甲骨のふくらみと背骨のへこみがびっくりするほどうつくしくかたちづくられている、アーニャの背中だった。
 簡単なことだ。経験だって無数にある。いつもとほんの少しばかり役回りが異なるだけ。しかも、クリアしなければならない手順なんてたった三つしかないのだ。
 そう、手順はたった三つだけ。私たちの「いつも」を思い出すかぎりだと、それは間違いない。私が台所に立っているときアーニャちゃんがしてくることを思いだすだに、そのはずだ。手順は三つだけ、書き記すまでもなく以下の通り。
 その一、背中にぴたっとくっつくように抱きつく。
 その二、「どうかしたの?」と相手が聞いてくるのに、首を振って答える
 その三、くっついたまま名前を呼んで、「ミナミ」にっこり笑って、「だいすき、です」。
 これら三つ、そう、三つだけだ。簡単なこと、なのだ。とても。
「あー……ミナミ?」
「はいっ!?」
「ン……お水、ずっと持ってたら、ぬるくなりますね?」
「……あ、あぁ、うん……そうね……あっち行って、早く飲むね……」
 白状すれば、四日ほど前から狙ってはいた。いつもいつも、言ってもらってばかりいる気がしたから。それではさすがに申し訳ないなと思って、一応自分の方がお姉さんであるはずなのにこれまで甘やかされすぎだと反省して。――でもいちばん大きいのは、私も、あなたに、伝えてみたいと思って。あなたが好きって、急に抱きしめたくなるくらい、あなたのことがとても好きって、私だって伝えてしまいたいと思って。
 ただ、それでまさか四日間すべてのチャレンジにおいてあろうことか大失敗を繰り返すことになるだなんて。まさかそこまで自分が不器用な人間だったなんて、さすがに考えもしなかったのだ。

 アーニャにお皿を洗ってもらったあと、ソファに並んでテレビを見た。二十二時開始のちょっとテンションがおかしなことになっている旅番組では、一生懸命まともにリポートしようとしている瑞樹をからかっては遊ぶ楓の姿が映し出されている。バラエティーに染まりきらないよう必死になっているところも、それでも隠しきれない隙を器用につつかれているところも、川島瑞樹という先輩は変わらずチャーミングだ。隣でゆるゆる笑っている楓は切れのあるダンスも悠々とこなしたかと思えば磨き上げられた結晶のようにすきとおった歌声を披露し、そして今はたった今吊り上げられたばかりの元気な蛸を瑞樹に向かって嬉々として差し出すおちゃめさを存分に発揮できる、どこまでいってもポテンシャルの読めない人である。
 先輩二人のそんな様子は、現在駆け出しアイドルという立場である美波からすればきちんと見て学ぶべきところの多いものであるに違いないのだが。しかし、現状自分が学ぶ姿勢でいられているかというと、きっぱり首を横に振らねばならない。というかそもそもこの二人の番組を見ているのだって、別段バラエティにおける立ち居振る舞いについて勉強したかったからではなく、身もふたもない言い方をすればテレビを点けたらやっていたからだ。そして、そもそもテレビを点けたのだって、美波が見たかったからではない。
 アーニャに見せておきたかったからだ。
「オー、アスミノーク……たこ、大きいですね」
 言い換えれば、アーニャの意識をそらして時間稼ぎをしたかったから、ということになる。
 点けたらやってくれていた番組は、顔なじみの先輩たちが出ていることもあってアーニャの気を多いに引いていた。美波はもともと瑞樹や楓、美優あたりの年上組と交流があったけれど、ユニットを組んでからはアーニャも同じように彼女たちと関わりを持つようになった。(職業柄縦の繋がりは大切だから、アーニャにとってとても良いことだとは思うのだけれど、ただ割合しょっちゅうアーニャのことについて年上組から突かれるようになったのは、美波としてはやや頭の痛い事案である。)
 蛸の吸盤の痕がしっかりついてしまった腕を指して激昂する瑞樹をにこにこいなす楓を見て、アーニャがくすっと肩を揺らす。『見てよこれちょっと! どうしてくれるの!?』『まあまあ、瑞樹さん……ここは、何もなかっタコとに』『できるか!』。よかった、楽しんでくれているみたいだ。
 自分もテレビを見ているふりをしながら、美波はゆっくりとひとつ息を吸って、吐く。十五分番組は撮影している身だととても長いのだが、見ている側からすればあっという間だ。四日目、もう四日目である。ここまで全敗もいいところだ。いい加減決定打をうたなければならない。
 だっていつも、私ばっかり、もらってるから。胸のところをそうっとおさえると、鼓動があたたかくて、あてがう手すらもじわりと熱を持ちそうだ。横顔がきれいだと思う。きれいだ、という気持ちが、私にあたたかな熱をくれる。あたたかでやさしくて、困るくらいのすてきな熱。私ばっかり、もらっているような気がするから。ごはんがおいしいって何度も、私がこずるく求めさえすればほんとうに何度だって口にしてくれるアーニャちゃん。撮影のときはたまにもう少し無邪気に笑ってみて、なんて言われるのが信じられないくらい、私の前ではにこにこ笑ってくれるアーニャちゃん。「ミナミがすき」「とってもすき」「だいすき」って、いつもいっぱい伝えてくれるアーニャちゃん。ねえアーニャちゃん、私もね、私も、――私も、なんだよ。
『それではまた来週、この時間に!』
 楓とぎゃあぎゃあ言い合いをした直後でも、きちんと時間ぴったりに澄んだ声であいさつをする瑞樹が番組を締める。ふう、と隣でアーニャが息をついたタイミングを見計らって、手元のリモコンでテレビの電源を落とした。画面がぷつんとブラックアウトする音が、いやにきちんとリビング内で響き渡る。
 二十二時十五分。長く時間を共にしていると、二人だけの不文律が生まれることがある。美波とアーニャの間にも、それはちゃんとできてしまっていた。合図の種類はほかにもいくつかある。本や雑誌をぱたんと閉じること、レポートを書いていたノートパソコンの電源を落とすこと、音楽を止めること、などなど。でも合図の意味はいつも同じだ。二十二時以降に美波がしていることを止めたときは、
「……ミナミ?」
「え、っと」
 アーニャちゃんこっちおいで、の合図だ。
 それをこの上なくちゃんと覚えてしまっているよい子のアーニャは、暗くなった画面と美波とを一回ずつ見比べただけですべてを理解してしまったようで、ぱあっと顔を輝かせるが早いかソファをきしっと元気よく揺らして、美波にすり寄ってこようとした、のだが。
「み、ミエスタ!」
 美波がぎりぎり発した一言で、両手を広げんばかりのアーニャがピタッと止まった。
 うん、もう完全に私が言ったとおりの『待て』だね、アーニャちゃん。いい子いい子と褒めてあげたくなるくらいではあるが、子犬っぽいところがたくさんあるとはいっても本当に犬じゃないのだし、さすがにそれはやめておく。言うに事欠いてこれはなかったのではないかとさすがに自分でも思うが、アーニャの勢いを止めるにはほかに言い方が思いつかなかったというのも正直なところではあった。
「ミナミ……?」すり寄ってこようとした格好のままで、眉をちょっぴりかなしそうに垂らしたアーニャが首を傾ぐ。合図をもらったはずなのに、という気持ちが星色の瞳の奥でゆらゆらしている。こうやって目でもじゅうぶん言葉をくれるのだから、アーニャちゃんはほんとにたくさんたくさん私にくれるな、と、思って。
 それが、ちょっとずるいな、と、大人げないことに、思って。
「あのね、アーニャちゃん」
「ダー、なんですか、ミナミ」
「……あっち、向いて?」
 みなみ、決めます。
 手順はとっても簡単、三つだけ。
 その一、背中にぴたっとくっつくように抱きつくこと。
「ミナミ? どう、しましたか?」
「……んーん。」
 その二、相手が聞いてくるのに、首を振って答える。
「なんでもないの。……アーニャちゃん」
「ダー?」
 その三、くっついたまま名前を呼んで、にっこり笑って、――は、ごめんなさい、はずかしいので、とてもとても、どきどきしすぎているので、ちょっと、むりでした。
「すき。……だいすき。」
 だからそのぶん、ちょっとだけ強く抱きしめてみたけれど、苦しくなかったかな、大丈夫だったかな。アーニャちゃん背中がとっても細いのね、頬のところは冷たいのね、首のところは、じんわりあったかいのね。埋めた頭に銀髪がさらさらかかって心地いい。ドキドキするほどいい匂い。でも、薄い背中をとおして聞こえてくるアーニャちゃんの鼓動も、どきどきしているのがわかる。
 つたわって、いるかな。うじうじ失敗し続けた四日ぶん、ほんとはもっともっとたくさんの時間ぶん、たった今でさえあふれてくるぶんみんな、つたわって、いるかな。そんなこときっとできないとわかっているから、もどかしくてもどかしくて、抱きしめる手から力が抜けない。じりりと焼き付くほど熱い喉から、もう一度だけ絞り出す。「アーニャちゃんが、だいすきなの」
「……み、」
 そこで聞こえてきた声がなんだかあまりに震えていたので、美波は慌ててアーニャを解放した。
 苦しかったのかもしれないと思ったからだ。自分でもどのくらい強く抱き寄せていたのかはわからなかったから、きっとわからないくらいひどく力を込めてしまっていたのだろう。苦しかったかもしれない。痛かったかもしれない。
 だからごめんね、と言おうと思って、美波の言ったとおりに背中を向けてくれたままなんだか小さくなっているアーニャの正面に急いで回り込んで、「っ、ミナ、ミ」
「えと……あ、アーニャ、ちゃん?」
 ふたり、なんだかまぬけに名前を呼びあってしまった。
 ここで新田美波がひとつ犯していた大誤算を挙げるとすれば、自分のすべきとても簡単な三つの手順についてあまりにも気を取られ過ぎて、その後のアーニャの反応についてをなにひとつ予想していなかった。というより、予想する必要もないと無意識のうちでも思ってしまっていたというのが本音だ。なにしろ、いつだって告げてくれるのはアーニャだったから。背中にぴたっとくっついて、どうしたのって聞いたのには首を振って、にっこり笑って「すき」って言ってくれるの、いつもアーニャちゃんだったから。だから。
 だからてっきり、もっと、なんともないような顔、するのかと思ったのに。いつも伝えてくれる時と同じくらいにっこり笑って、わたしもです、なんて返してくれるような余裕、あるかと思ったのに。
「ぅ、……うぅー……」
「え、あれっ、えっと、……ご、ごめんね!?」
 まさか、それこそミネストローネのトマトみたいに真っ赤に熟れた顔を両手で覆って恥ずかしがってしまうだなんて。
 恥ずかしがって、くれるだなんて、思いもしないじゃないですか!

 それきり真っ白な肌を真っ赤にしたまま、恥ずかしがってソファの上で膝を抱えて頭を埋め小さくなってしまったアーニャを前にして美波はおろおろとごめんねごめんねを繰り返すことになるのだけれど、一度だけうっかり口にしてしまった「……かわいい」で完全に拗ねてしまったアーニャの機嫌を取り戻すため朝食のメニューをアーニャの大好きなものでかためなければと決意するのは、これからおよそ三十分後のできごとである。



みくりーな



 ことの顛末について述べるにあたりまず最も重要なことを最初に申し上げておくと、一連の出来事における最終的な勝利者は、誰がなんと言おうと前川みくである。
「……息」
「ふぁ、」
「切れた?」
「っ、……」
「苦しい?」
「り、…なちゃ、んっ」
「ごめん。でも無理」
 やめないよってあたし言ったよね、なんて、まるでこちらの覚悟の足りなさを糾弾するかのような物言いを、彼女はするけれど。髪が頭の後ろのほうで李衣菜の手によってぐしゃぐしゃにかき乱されているのも感じてるけど。どろっと溶けた瞳の熱を上からまともに浴びせかけられているのもこっちだけど。
 それでも、最終的に勝ったのは絶対に私だ。誰がなんと言おうと、それは間違いないのだ。だから、たぶんきっとアイロンかけなくちゃいけないくらい李衣菜ちゃんの服を握りしめちゃってるのだって、これは、そう、つまり、勝利の証みたいな、ガッツポーズみたいな、そういうのなんだから。そういうのにしか、してあげないんだから。ぜったいに。
 頭の奥のむず痒いところにべったりはりつくほど甘い感触が、唇のあいだをノックしている。このままどこまでいくんだろう。ふっと思いついたそんな言葉の手触りはこわいくらいにひやりとしていて、なのに皮下では背筋がぞくぞくするほどの熱がざわめいた。このまま、どこまでいっちゃうんだろう。どこまでもいっちゃえばいいのになんてどこか破滅的な言葉が浮かんだのは、きっともう全部熱のせいだ。李衣菜ちゃんがはふって吐きだした息があんまり熱くって、ちょうど鼻先のあたりにかかったそれを私はあまりにもまともに吸い込んでしまった。その熱のせいだ。李衣菜ちゃんが悪い。
 李衣菜ちゃんが、悪いんだから。
「みく」
 そうだ、くちあけてよ、なんて言いたげに名前を呼んだあなたの甘いのがもしも中まで入ってきたら、ちょっとくらいは噛みついてやろう。
 びっくりしてしまえばいいんだ。勝者には笑みを、敗者には罰を。あったかくてやわらかい中に尖った牙を隠しているというのは、女の子と猫のあいだに多くある共通点のうちのひとつだと思う。びっくりして、ちょっぴりくらい痛かったらいいんだ。だってあなたは、私に負けたんだから。
 だって、先にキスしたがったのは、李衣菜ちゃんのほうだったんだから。
 ――そうでしょ?

 泊めてほしいとか言ってきたくせに放ったらかしにするとはどういう了見だ、と問い詰めたい気持ちのほうが大きかったのはだいたい先週くらいまでの話で、最近になるとそれは、あれこれと無理に話をしたところですぐ意見が噛みあわず言い合いになって終わることが多くて疲れるしめんどくさいしなんかもういいかなぁ、のほうに傾いてきてしまった。
 だいいち趣味が合わないのだ。せっかく買ってきた、全国猫カフェ巡り歩きレポートの載った雑誌をじっくり眺めないだなんて考えみくには理解できないし、「こっちのヘッドフォンはこうなんていうかそう……低音……ベース……じゃなくてバス……? とにかくなんか低めな部分がロックな感じで、こっちはギターのぎゅいいんってとこがロックに聞こえるんだよ」とか言われてもさっぱりわからないしそもそも李衣菜のほうこそわかっていないという気がする。
 要するに同じ時間を共有するだとかいう試みは、李衣菜相手だとまず根本の部分から破綻しているのである、ということがここのところのみくの出した見解だ。土台からしてぶっ壊れているところになにものかを積み上げようだなんて、そんな無駄なことに労力を費やすのはばかばかしい。確かにみくがいつも使っているイヤホンと比べればなんとなく音がいいような気がする、ということくらいならわかるけれど、李衣菜からそのヘッドフォンの値段を聞いた瞬間それでいったい何べん猫カフェに通えると思っているのかという換算をしてしまった時点で、相互理解とは程遠い位置にいることはお察しだ。
「あ、いい音、かも」なんてつい口走ってしまったのは、今となってはかき消したくてたまらない失態である。
「でしょ!? でしょ!? なぁんだみくも少しはわかるじゃん!」
「い、いや、なんとなくにゃ、みくそーいうのはちょっと」
「いーからいーから今度はこっちで聴いてみなって!」
「ひゃあああ!?」
「おわ!? ……え、なに今の声」
「っ、……ッ、ひ、ひとの耳に気安く触るにゃああ!!」
「あいったぁ!? ちょ、引っかかないでよ! ヘッドフォン取ってあげようとしただけでしょ!?」
 いやもうほんと、なんとかやり直せないだろうか、あのやり取り。人生におけるタイムマシンの本格実装が待たれるところで、なんだか考えてみれば最近とみにそういうことの増えてきたような気がする、前川みく人生わずか十五年である。わずかって言ったって、生きてきた私にとっては、それでもしっかり長いんだけど。
 ともあれそういった苦い過去をこれ以上増やさないためにも過干渉は避けるようになったというか、ひとの部屋にやってきておいてみくの趣味とはまったくかみ合わないことに熱中する李衣菜という図に、みくは最近とても寛容になった。なってあげた、というのがより正確だろうか。
「みくさぁ」
「なんにゃ」
「グリーンと濃いめのブルーだったらどっちが好き?」
「ピンク」
 だから今だって、ひとんち来といてそれってほんとありえないにゃー、と思いながらも、エレキギターがばんばん載っている雑誌を捲っている李衣菜について、なにも言及しないでおいてあげている。
 あろうことかユニットを組む羽目になってしまった以上仕事の前日に少し長話をしなければならないことも多くなってきたし、どうせ同じ現場へ向かうのだからスタート地点から一致しておいたほうがいろいろ面倒が少なそうなのも事実だ。だから、明日はBスタジオでプロモーションビデオの撮影ですといつものように淡々とした調子でプロデューサーから言いつけられたあと、ちらっとこっちを見てきた李衣菜が言いたいことくらいはわかった。
 趣味も話も合わないけど、お互い仕事のできぐあいに関しては絶対に妥協したくない。まるで競うように失敗箇所を無くしていくから、たとえユニットでなくても一緒にレッスンをさせたいぐらいだとダンストレーナーはかっかと笑いながら言っていた(それはさすがにごめんだけど)。だから、いい加減必需品が二セットになりつつあったみくの部屋に二人で帰って、とことん満足がいくまで打ち合わせをする。このときも意見がぶつかることなんて五分どころか二分に一回くらいはあるけれど、必ずお互い納得のいく着地点を見つける。それは別段口に出したわけではないけれど、みくと李衣菜のあいだにある、とても大切な約束事の一つだ。
 打ち合わせを終えたら、食堂に行くかスーパーに向かうかして食事をとってお風呂に入る。そうして髪を乾かしたあとの時間については、もう好きに使えばいいんじゃないの、というのが、現状みくの出した答えではあるのだ。もう、いつコード進行とやらを覚えるのやらわからないギターをべんべんいわせようが、ひとのノートパソコンを使ってCDジャケットだけ画像検索で眺めて「はぁ、ロックってやっぱいいなぁ」などと呟こうが好きにすればいい。
 好きにすれば、いいと思うけど。
「ん……みく?」
 それなら、都合のいい時だけ構ってもらおうとしたって無駄だってことは、ちゃんとわかっておいてよね。
「寝たの?」
 別に寝てなかったけどそういうことにしてやろうと思ったのは、李衣菜の言葉を聞いてからだった。そっぽを向いて寝転がっていたのが、どうやら幸いしたらしい。机に雑誌を置いたような、ぱたんという音を耳にしつつさっと目を閉じる。寝ちゃってますよぅ、こっちはこっちで好きにやってます。犬じゃないんだから、そっちの気分に合わせて付き合ってもらえるだなんて思わないでほしい。わんちゃんならどうだかしらないけど、猫ちゃんっていうのは人間側からすればキホン的に、撫でてるんじゃなくて撫でさせてもらっているんだにゃあ。
 いかんせん目をつぶってしまっていたので詳しいところはわからないが、どうやら李衣菜は、ベッドに丸くなってしまったみくのことを覗き込むかなにかしたらしい。まぶたの裏側に映る景色がふっと暗くなったので、なんとなくだがそうとわかる。こういうとき、眦も眉もぴくりとも動かさないことになら、みくはけっこう長けていた。
「……寝るなら布団入りなよね」
 それ、しょっちゅうあぐらかいて雑誌広げたまんま後ろにもたれかかってすかーなんて寝息立てちゃう李衣菜ちゃんにだけは、かなり言われたくないにゃあ。そう、心の中で言い返していた――そのときだった。
 ぺた、と頬に触れられても全く身じろぎしなかった名演技については、喝采ものだったように思う。
 わあみくってばもう女優さんとしても全然いけちゃうかもなんてめでたい思考が頭をよぎったのは間違いなく現実逃避を従っている証拠で、そんなことをし始めてしまったというのは状況に改善がみられないということの証拠だった。李衣菜ちゃん。ちょっと。手。なんで。お風呂上がりの熱気を皮膚の表面ぎりぎりのところにふんわり残した手、てが、ほっぺたから離れない。指先。指。手のひら。ぜんぶ。
 こわがるみたいにゆっくりと、そのくせ踏みしめるみたいな確かさで以て、李衣菜の手がみくの右頬をひたりと包む。熱い手だ、と思った。触れられたところも触れられてないところもかぁっとするほど熱くて、それからひどくやわらかい。ごくごくわずかにさすりと撫でられて、ぴくりとも動かさないでいた、動かせないでいた背筋が内側の神経だけびりっとする。きっと腹が立っていた。頭が茹だりそうなくらい、そう、いらいらしていたんだと思う。だから必殺の一言が脳裏を過った。言えば必ず李衣菜を怒らすことのできる、必殺の一言だ。
 李衣菜ちゃんの指、ふにふにしててやわらかくって、ああもうそゆとこほんと、ぜんぜん、ロックなんかじゃない――。
「……っ」
 ふ、と息を詰めたのがわかって。でもこっちなんか、最初からずっと呼吸が苦しいまんまで。
 ギタリストのそれになんかちっともなれていないふにふにの指先が、みくの唇を、なぞる。
 乾燥、してなかったかな。どうしてそんなことを一瞬でも考えてしまったのかはみく自身が一番理解に苦しむのだが、ほぼ反射的に浮かんでしまったのだからどうしようもない。乾燥、してたのかもしれない。ほんのいっとき止まった李衣菜の、たぶん親指の腹が、端っこから下唇までをつっとなぞっていく。李衣菜ちゃん。手、ふるえてるよ。ここでぱちっと目を開けてそんなことを言い放ってやれたら、もっと必殺になっただろうか。いい気味だって笑ってしまえるくらい、びっくりさせること、できただろうか。
 きっとできた、と思う。
「ん、……」
 できたのに、それをしなかったのは。
 食むようなかたちでつぷっとわずかにもぐりこんできた指先に、思わず鼻にかかった声を上げてしまって、きっともう破綻してしまっていたはずの狸寝入りすらやめられないでいたのは。
 きっとその先に、このむずむずするくらいじれったい行為の先にあるものにほんの少しだけ、そうほんの少しだけ、期待してたからで。

「……みく。みーくー、起きてよ。寝るならちゃんと寝なきゃ」

 なのに何事もなかったかのようにぱっと手を放すとかって、ほんと、ほんと李衣菜ちゃん、そーゆうのって、ありえない。


 その時点で多田李衣菜側の敗北はもうほとんど確定していたと言ってよかったのだから、翌日みくが仕掛けたのは、つまるところ止めのひと刺しだった。本当は少しくらい慈悲の心をみせてやろうかとも思ったけれど、朝ご飯から移動までいっぺんもみくと目を合わせられなかったくせに、まるで何事もなかったかのように振る舞おうとしてくるところにいたく腹が立ったので、情けは捨てた。こうなったら、決定的に負かしてあげる。
「李衣菜ちゃん」
 きょとんというかぽかんというか、ともかく爆笑ものの間抜け面であることだけは間違いない顔をしている李衣菜の背中で、ドアを閉めた電車が重い音を立てながら走り出す。それとなく扉際に立つよう仕向けたのに気づかないなんて、隙が多いことこの上ない。笑っちゃうんだから。
 でも握った手を強く引いたのは彼女を電車から引っ張り出すためのあの一瞬だけで、今はもうたいした力を込めてはいない。柔軟性ならともかくみくは正直なところそこまで握力だのに自信がある方でもないし、振りほどくことならいつでも可能だ。仕事終わり、二十時五十七分。次の電車はまだある。選択の猶予は全部残しておいた。だから、責任を取るのもあなた。悪いのは、あなただ。
「みく、なんで」
「気づいてたよ」
「え?」
「寝てなかったもん。気づいてた」
 うっと黙ったあなたにはもう、逆転の余地など残されていない。
「来て」
「えっと」
「うち、来て。」
 ぽつりと言った私の提案を断らなかった、あなたがみんな、みんな悪い。
 駅から寮までの道のりについてはよく覚えていない。塀の上に最近必死に手なづけようとしている猫がでんと座って尻尾を揺らしていたことなら気づいていたけれど、ほんの少しでも立ち止まれば後ろを歩く李衣菜に追いつかれてしまいそうだったから、後ろ髪をびんびんに引かれるような気持ちで必死に足を動かした。あとでこれも謝ってもらおう、なんて、きっと李衣菜からすればわけがわからないであろう罪もひとつ上に重ねておきながら。
 寮の玄関で小梅と、廊下ではアーニャと蘭子の二人と会ったけど、挨拶と必要最低限の言葉しか交わさなかったし、李衣菜なんてずっと黙っていた。二歩くらい後ろをずっと着いてこさせていたので、部屋に着いてから中に入って鍵を締めるまでのあいだは、李衣菜がどんな顔をしていたかはよく知らない。
 でも、振り向いた瞬間の表情を見て、みくは勝利を確信した。
 こうしているのがやっとです、みたいに今にもふらつきそうな足で、まだ電気もつけていない部屋に突っ立ったりして。
 頼りない光のぐらんぐらんに揺れる瞳で、そのくせ飲みこみでもするんじゃないのみたいな必死さで、こっちを見つめてきたりなんかして。
「……みく」
 掠れた声で、名前なんか、呼んだりして。
 きっともう、あとひと押しだ。止めを刺してしまおう。
 どこか汗ばんでいるようにも思える手を、みくは軽やかに取ってみせる。李衣菜の、焼け付くほどに渇いて、必死に何かを求めているかのような目が、ぐうっと見開かれる。
 そうして、全然ロックなんかじゃないふにふにの指先に、唇を寄せて。今度は乾燥なんかさせてない、リップはしっかり塗っておいた。ぴたり、湿った音が、ごくごく小さく弾ける。「李衣菜ちゃん」
 ほら。
 あなたの触りたかった、唇です、よー。
 うに、と案外艶やかな爪を食んであげて、止め。
「したいんでしょ、キス」
 細っこい喉のところをぐうっと動かした、あなたの負け。

「っふぁ、はー、っ、はぁ……っ」
「あー……ごめん、きついよね」
 だから。
 もう、前川みくの完全勝利は、決まってしまったのだから。
「ん、……っ、い、いい、から」
「うん?」
「いいからっ……つ、づけて、よ」
 だから、まあ。

「つづけて、……やめないで、りーなちゃん」

 ほんの、ほんのちょっぴりくらいなら、負けてあげても、いいかなって。

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