空を飛ぶための方法を、ここのところずっと、探している。

「ミナミ」
 話しかけるのはひどく躊躇われたが、アーニャはついに声を上げた。美波の靴とレッスン室の床が擦れて、きゅっと軽快な音を立てる。雪解け水みたいによどみがなくて、迷いのなかった美波のステップがとうとう止まった。
「ん、どうかした?」わずかに上がった呼吸を短く掃出しながら、美波がきょとんとこちらを見る。「あー……」話しかけておきながら、水を差してしまった罪悪感が喉を軽く詰まらせる。美波の集中力はすごい。プロジェクトメンバー内でいえば少し年上ではあるものの、それを差し引いても目を見張るものがある、とトレーナーたちはよく口にした。だから本当は、邪魔したくなかったのだけれど。その証拠にアーニャが最初に声を掛けようと思ってから、ゆうに二十分強の時間が経過していた。
 けれど、ここで何も言わずに放っておくのも、それはそれで罪悪だ。まちがいなく。発語の遅い自分のことを、ん、とやわらかい瞳で待ってくれている美波。彼女をなるたけまっすぐ見つめ直して、アーニャはふたたび口を開く。
「ヴリエーミァ……時間、だいじょぶですか?」
「……あっ!」
 弾かれたように時計の方を見上げた美波が、思わずといったふうに声を上げた。
 ダンスレッスン終了の時間は、既に過ぎている。しかし偶然この後のコマに予約が入っていなかったので、居残りしたいなら無理をしない程度に許可する、という言葉をダンスレッスンのトレーナーから言われたのがつい一時間ほど前のことだった。
 彼女たちはそういう仕事をしているのだから当たり前なのかもしれないけれど、よく見ている、なんて思ってしまう。実際、トレーナーの言葉で美波はぱっと表情を輝かせて、厳しいレッスンの後とは思えないほどきらめいた声で「ありがとうございます!」と言っていた。
 練習が、したくてしたくてたまらない。振付通り述べられた手の指先から、ターンのたびに躍るまとめられた栗色の髪の毛先まで、美波はそんな気持ちに溢れているように思えた。「ごめんね、アーニャちゃんは疲れてるだろうから、私に付き合わなくてもいいんだよ?」「ニェット! 私も一緒に、練習します」急いで食い下がってはみたものの、結局最後までは付き合うことができなかった。三十分が経過したところで体力よりも集中力のほうに限界が来てしまったのだ。ミスが増え、このままでは美波の邪魔になってしまうととうとう理解せざるをえなくなり、自分の方から見学を申し出た。
 でも、万全に整った状態で一緒に練習していたら、今の美波に最後まで付き合うことができただろうか。壁際に座って、緊張が解けたせいかいっぺんに吹き出てきた汗を拭いながら美波の練習を見ていたけれど、それはふと気にかかったまま今でも答えが出ていない。指導をしてくれる人はもういないから、悪いところは自分で見つけ出さなければならない。大きな鏡の前で踊る美波は、何度も同じステップを繰り返していた。ワンフレーズが終わる前にぴたりと足を止め、またそのフレーズの最初から。きっと美波は、どこがどう悪くて、どう直さなければならないのかを自分でもしっかりわかっているのだろう。傍で見ていただけのアーニャにも、どんどん良くなっていることはわかる。――どんどん良くなっていくことだけが、わかった。
 もともと、自分に対してとても厳しいところのあるひとだったけれど。ここのところ、特にユニット曲の練習に関しての美波は、それこそ隅々まで妥協をゆるさないような、切りつけるほどの気迫を感じることがある。ここのところ。
 美波が熱で倒れ、LOVE LAIKAとしてサマーフェスのステージに上がることができなかったあの日から、ずっと、そうだ。
「ごめんねアーニャちゃん、もう行かなくちゃ……あっ、お、教えてくれてありがとう!」
 上着とドリンクと携帯電話を急いで抱え、慌ててレッスン室を出ていく美波の後を追う。ずいぶん慌ててしまったらしい美波は更衣室のロッカー前で携帯電話を落っことしてしまい、それはアーニャが拾ってあげた。「うう、ごめんねアーニャちゃん」「パジャールスタ。気にしないで、ミナミ」
 いつもだと、土曜のレッスンが終わって何も仕事が入っていない時は、美城プロのカフェでお茶を飲んだり、短いショッピングに出かけたりするのが美波とアーニャの日常だ。けれど、今日のレッスンが始まる前、ちょうどここで着替えているとき、美波が今日は用事が入ってしまったのだと謝ってきた。とはいえ、もともといつも約束をしていたようなことでもないのだし、謝ることではない。それに、首を振って頷いた二時間と少し前のアーニャは、美波の言う用事がなんなのかもすっかり知っていた。内容も、ついでに相手も。
 手早く着替えを済ませ荷物をまとめた美波が、更衣室内に置かれた時計を見て短く悲鳴を上げる。そんなに慌てなくてもきちんと事情を話せば叱るようなひとたちではないから大丈夫だと思うけれど、生真面目な美波にとって問題は責められるか否かではないのだろうから、こっそり苦笑するだけに留めた。
「そ、それじゃあ! えっと、お疲れ様、アーニャちゃん!」
「パカー、美波。気を付けてくださいね」
 少し気恥ずかしそうに笑って部屋を出て行った美波は、もしかしてアーニャが慌て過ぎて転ばないかどうかを気に掛けたとか、そんなふうに思っているのだろうか。それもすこしはあるけれど、どちらかというとこの後に彼女を待っていることについての心配というか、応援みたいなもののほうが、アーニャとしては濃かったりもする。もっともこれからどんなことが美波を待っているのか、具体的なところについては、アーニャもあまりよくわからないのだけれど。
「……ウヴィーヂムシャ。また、あとで、ミナミ」
 廊下をぱたぱたと、走りはしないものの全速力の急ぎ足で歩き去っていく音が聞こえる。耳を澄ましながら、アーニャはひとりで時計を見上げた。十八時四十分。
 楓と瑞樹、それと美波の三人が約束をしているはずの時間まで、あと二十分だった。

 メンバーに名を連ねていないアーニャがそのことを知っているわけはひとつ、他でもないその約束が発生した場に居合わせていたからだった。ちなみに、そのとき張本人であるはずの美波はそばにいなかった。だから、楓と瑞樹に誘われて美波が今日十九時から飲み会の約束をしている、とアーニャは知っているけれど、アーニャがそれを知っている、ということを美波は知らない。
 そのやや奇妙な状況が発生したのは、土曜日から遡って四日前、火曜の夕刻過ぎのことだった。
「お待たせしましたぁ、ドリップコーヒーです!」
「スパシーバ。ありがとうございます、ナナ」
「いえいえ。アーニャちゃん、どうぞごゆっくり」
 美城プロのカフェで一人、アーニャはコーヒーを飲んでいた。コーヒーは好きだ。夜と少しだけ似た色をしているから。
 平日の美波は忙しい。その日も美波はレッスンを終えるが早いか彼女の所属しているラクロスサークルの打ち合わせに出てしまった。カップの取っ手を握る手のひらには、また明日ね、と言って別れるとき最後にひたりと合わせた、レッスン後の熱気で少しだけしっとりした美波の手の感触が、まだ残っている。別れ際にああする癖がついたのははたしていつからで、そしてどちらからそうしようと持ちかけたのだかアーニャはもう覚えていないし、そんなことを言い合うタイミングなどなかったようにも思える。だけど自然とついてしまった、私たちのくせ。手を合わせたきり美波は行ってしまった。だから、店先に立つとすぐ駆け寄ってきてくれた菜々に立ててみせた指は一本だけだった。
 一人でいると、美波はどうしたの、と聞かれるときがよくある。シンデレラプロジェクトのメンバーはもちろん、寮で一緒に生活している友人たちや、徐々に仕事を共にしたり言葉を交わしたりする機会の増えた美城プロ所属のアイドルたちからも最近は言われるようになった。アーニャからするとどちらかといえば美波は忙しくてなかなか一緒にはいられないのだ、という印象の方が強いのだけれど、他の人から見るとそうでもないらしい。いつも一緒の二人、というイメージのほうが先行するようだ。それがアーニャには、ときどき不思議でたまらない。
「ふふっ……それはそれは、なんだか微笑ましい話ですねえ」
「ン……?」
「はたで見てる人からすれば、いっつも一緒にいるお二人なのに。それよりももっといっぱい、一緒にいたいお二人なんですねぇ」
 いやー若いっていいです、と口にしてしまったが最後すっかり慌ててしまった菜々は、多分にばつが悪くなったようですぐ別のテーブルへと駆けて行ってしまったが、菜々の言葉はアーニャの耳に残っていた。耳、か、もしかするともう少しだけ心に近い部分。
 まともに触れ過ぎるとやけどしそうなほど温まったカップの表面を、指先で引っかく。自分でもよくわかっていることなのだけれど、アーニャの手は冷たい。多分人より、少しだけ。だから美波の手に触れると、温度を分けてもらっているような気がしていた。時々奪っているようにも思えて遠慮したこともあるけれど、そうすると美波は首を振って、今度は両手を使っていっそう温度を分け与えられるようなかたちでアーニャの手を包んでしまったのだ。「アーニャちゃんとこうしていると、私もあったかいの」うそじゃないよ、と美波は言った。うそだったかどうかは、わからない。ただ、そんなことを思うと、触れてもいない手でもまだあたたかくなってしまうように思えた。皮膚のどこかにいつまでもいつまでも残っている、美波の温度のおかげで。
 ちょっと恥ずかしい話だけれど、ヘッドホンを取り出したのは胸がすんとしてしまったからだ。美波がそばにいないときに、美波のことを考えすぎると、アーニャの胸はすんとする。これがどういうものなのか、むずがゆさなのか痛みなのかさえも、よくわからないのだけれど。ただなにか、なにかしなければならないという奇妙で切実な焦りを孕んだそれが、アーニャは少しだけ苦手だった。
 ヘッドホンを耳に掛ける。周囲の音がぼんやりと遠くなる。ポータブルプレイヤーの設定をランダムにして、とりあえず再生ボタンを押してみる。アイスランドのバンドが出した三枚目のシングル。父の好きな曲だった。もちろんアーニャも大好きだったのに、イントロが流れたところでなんとなく曲送りのボタンを押してしまう。
 それから何回も、ひょっとすると何十回も、同じことを繰り返してしまった。イントロのイントロ、ひどいときはドラムスティックが打ち鳴らされる音だけを残して曲が送られてしまう。実家から持ってきたお気に入りの青いヘッドホンはアーニャの頭をゆるく締め付けるばかりで、なかなかまともな仕事をさせてもらえない。聞きたい曲があるわけではなかった。それなのにボタンを押す親指ばかりが、かちかちと勝手に何かを探し求めている。
 アーニャの親指がぴたりと止まったのは、コーヒーから濃く立ち上っていた湯気が徐々にその色を薄くしはじめていたときのことだった。
 どうして、止まったんだろう。固まった自分の身体は答えを教えてくれない。何十回何百回、何千回と聞いた覚えすらあるようなイントロが終わって、歌が、始まる。――"独りよがりの 冷たい雨に打たれながら"。
 ヘッドホンを、外側からそっと両手で押さえる。少しだけ身をかがめたのは、胸のあたりを風に晒していられなくなったからだ。すん、と、する。――"繰り返される時間の中で 溢れ始める"、
「"すべて消えてしまわないように"」
「っ!」
 刹那、記憶と違う声が重なって、両肩が跳ねる。
「だったわよね?」
 いつのまにかコーヒーに映っていた、つめたいほど整った顔とオッド・アイ。
 こっそりヘッドホンに頭を寄せて、どうやら一緒に聴いていたらしい高垣楓そのひとが、驚かせてごめんねと言ってころころ笑っていた。
「ご一緒しても?」
「あ……ダー、……どうぞ」
「ありがとう、アーニャちゃん」
 さらりと笑ってみせた楓は慌ててヘッドホンを外したアーニャの向かいに腰掛けて、テーブルの上でゆっくりと手を組んだ。
「アーニャちゃんにはヘッドホンが似合いますね」
「そうですか?」
「ええ。……ちなみにあの本棚にあるのはイヤホンだな、なんて」
「ン……? 本棚、どこかにありますか?」
「うふふ」
 つめたい石からていねいにていねいに削り出したようなかたちをしている綺麗な指先が、目の前で弄ばれている。たとえばテレビの向こうだとか、そういうとても遠くにいるように思えていたひとがそれこそ触れられそうなほど近くにいるというのは、実におかしな光景だ。舞台を共にし、一緒に円陣を組んだことすらあったとしても、そう思えてならないのは変わらなかった。
「いい曲よね、Memories。LOVE LAIKAはとっても素敵なユニットだと思うわ」
「スパシーバ……ありがとうございます」
「美波ちゃんはどんな子と組むのかなぁって、シンデレラプロジェクトの話を聞いてからずっと、楽しみにしてたんだけど。アーニャちゃんみたいないい子と一緒になってくれて、本当によかった」
 とはいえ、アーニャにとってはそうなのだけれど、美波にとっての楓は、思うにやや異なる存在だ。
 高校生以下の子で遠方から出てきた子たちは、特例を除きだいたいはアーニャと同じ寮に入っている。デビューした時期やアイドルとしての立ち位置は大いに異なっても、輝子や小梅と仲良しなのはそういうわけだ。アーニャはアーニャで、シンデレラプロジェクト以外の部分でも別種の繋がりを持っている。
 それと同じく、美波も美波で彼女だけの誰かとの繋がりを持っていて、その先にいるうちの一人が、この高垣楓というひとだった。美波がしてくれる話の中にはときどき楓が登場することがあって、最初はずいぶん驚いたから、よく知っている。(もっとも今だって、すっかり酔いつぶれてしまった楓さんを家まで送ったあと介抱をしたなんて話を聞くと、そんな話と自分の良く知る〈アイドル〉高垣楓とが結びつかなくて、首をひねってしまうのだけれど。)
 となると、今ここでこうして一対一ではほとんど面識のない自分に話しかけてくれているのも、美波の影があるからなのだろうか。何とか予想してみながら楓のほうを向くけれど、きょとんとするアーニャを眺めて、楓はくすくす笑うばかりだ。だれか、人間ではなさそうだからおそらく神様みたいなものがつくりだしたようにも見える彼女の表情は、触れようとしてもさらさらと心地よく手がすべるばかりで、なにかをつかめそうにもない。
 直後に菜々が慌てて駆け寄ってきたところを見ると、本当にするっと店内へ入ってきてしまったのだろうか。カフェ・モカとケーキを二つ、迷うことなく注文していく楓の横顔がそこにあるのはやっぱり不思議で、ついまじまじと見つめてしまう。いつのまにかケーキを奢られていたことに気づいたのは、組み合わせの異様さに驚いたらしい菜々がおっかなびっくりロールケーキを二皿運んできてからのことだった。
 楓を見つめ、そしてアーニャを見つめてなぜか腕まくりして自分の肌を眺めてなにごとかぶつぶつ言っていた菜々の背中を見送ったのち、楓がまた口を開く。話させてばかりいるのはわかっていたが、アーニャの喉はドリップコーヒーでもうるおせないほど渇いていた。端的に言って、緊張していたのだ。
「泣かないんですね」
「……シトー?」
「美波ちゃん。」
 だから、だったのだろうか。
 楓の言葉に、ずくんと重く、胸が脈打ったのは。
 なんの話をしているかは、説明がなくてもすぐにわかった。あのサマーフェスから、時間はそれほど経っていない。高垣楓も、あのステージを彩ったメンバーの一人だ。
「ミナミ、は……泣きましたよ」
 鼓動が、ずくんずくんと胸を叩いている。痛い、は、きっと熱い。だから言葉と共にその時アーニャが吐き出した息はとても熱くて、あっという間に火傷を負ったかのように喉がひどくひりついた。
 頭の中にも瞼の裏にもあれほどくっきりと焼き付いているのに、それを改めて声にした衝撃に、どうして耐えられないのだろう。ここ数日ずっと、ずっとだ、ずっとずっと何度だって思い返してきた。噛みしめてきた。膿んだどこかを押し広げるようなこわさに歯をくいしばって耐えながら、何度だって描いてきた。そうすることでなにかが変わるとも、変えられるとも思わないけれど。でも、そうしていなければいけないと思ったから。
 だからアーニャは、サマーフェスが終わってからずっと、涙を流した美波のことをいっときたりとも忘れていない。
「うーん……泣いたけど、泣いてません」
 でもきっと忘れていなかったから、楓の言葉は、ひどく正しく頭に響いた。
 確かに美波は泣いていた。救護室のベッドの上で、美嘉から聞いた話の中で、フェスを無事成功させた舞台の上で。美波は泣いた。
 でも、まだ、美波は泣いていないと、アーニャだってほんとうはよくわかっている。
「それから、アーニャちゃんも」
 楓の口元は、ずっとやさしく笑っている。
「……私は」
「アーニャちゃんも、泣いてないでしょう」
「私は、泣きません」
「どうして?」
「……泣きません」
 どう言えばいいのか、どう言葉にするものなのかわからなかったから、できたのはただ繰り返すことだけだ。「泣きません。私、泣きません」だけどそのぶん、何度も首を振った。
 アーニャ、言葉にできなくてもいいから。母がいつか言ってくれた言葉がかすかによみがえる。かわいいアーニャ、上手に言えないことは、あってもいいから。それでもどうか、伝えることを諦めないで。たとえ言葉にはできなくとも、伝える方法ならいくらでもあるわ。微笑みかければ、あなたのよろこびは伝わるでしょう。手を取り祈れば、あなたのかなしみは伝わるでしょう。抱きしめてキスをすれば、あなたの愛は伝わるでしょう。「だから、かわいいアーニャ、あなたはあなたの気持ちを、きちんと大事に持っているのよ。隠して、そのまま失くしたりなんか、してはだめよ」
 だれも自分の言葉を介してくれない世界にぽんと放り込まれたアーニャにとって、母の言葉はひとつの失くせない光だった。だからアーニャはいつでも、言葉ももちろんだけれどそのほかすべてをいっぱいいっぱいまでつかって、気持ちを示すようにしている。
 だからアーニャは楓に向かって、「泣きません」、「泣けません」と言って、何度も首を振ってみせた。それが、アーニャにとって、とても大切な気持ちだったから。
 だってあんなに、あんなに練習して、あんなに頑張って、それでもステージに立てなかったのは、美波のほうなのに。髪がひたひたになるまで汗をかいて練習した。足がもう絶対に動かなくなるところまで踊った。夢にも見そうなくらい歌詞を読み返して、鼻唄は趣味ではなくて義務だった。全部知ってる。そんな美波の隣に、ずっといたから。
 その美波が泣いていないのだ。なのに自分が泣いていいなんてこと、――あるわけがない!
「泣きたいのに絶対に泣いてはいけないようなことを、割り切れないこと、と呼ぶんですよ」
 かちん、とかたい音が鳴る。
「割り切れないとね、ほら、余りが出ちゃうじゃないですか。その余りって、でも、どうしても自分で抱えなくちゃいけないんですよね。他のだれかと分け合えるようなものじゃないんです、こればっかりは」
 上品な花模様のあしらわれたお皿の上で、楓がロールケーキを切り分ける。コーヒーは徐々に冷めつつあった。シナモンパウダーが上にかかった、ココアクリームのロールケーキ。器用に一口分切り分けた楓が、それをはい、とこちらに向かって差し出す。
「それは、どうしようもないんですけどね。どうしようもないから、どうしようもないことは、ときどき、どうしようもないなぁって泣かないといけないんです。ぱんぱんになってしまう前にそうやって少し絞って、スペースを空けておくんですよ。それからもまた絶対に抱えなくちゃいけなくなる余りで、自分が溢れてしまわないように」
 美波だ、と、思ってしまう。目の前にいるのは楓なのに。美波は、よくそうやって、自分のぶんであるはずのケーキをアーニャに食べさせていた。
 だからアーニャはいつも、それは美波の分なのにどうしてあげてしまうのだろう、と、不思議で、それからだいぶん申し訳ないような気持ちになっていて。「美波ちゃんは、あなたにこうするのがとっても好きなんですよ。それをあんまり楽しそうに話すから、私もいつかやってみたいなぁって思っていたの」
 なのに楓は、そんなことを言うのだ。どこまでが冗談でどこまでが本当なのかちっとも切り分けられない言い方で楓が口にするから、なぜだかアーニャは、大人しく口をぱくんと開くほかなくなる。場違いなほど甘ったるいココアクリームが、ひりついて渇いたのどをてろりと滑っていく。「……ああ、なるほど、ちょっとわかったかもしれません。ふふ、かわいい、アーニャちゃん」
 結局それから、どういうわけか二つ頼んだケーキを二つともアーニャに食べさせてしまうまで、楓の手は止まらなかった。そういえば一度面白いと思うととことんまで面白がってしまう人だ、という話を、美波はしていただろうか。そんなことを思いだしているうちにも苺のたっぷり入ったロールケーキまで楓は切り分けにかかってしまって、気づけばもうあと一口だ。
 そして、目を白黒させているアーニャのことなど露知らず、最後の一口まできっちりこちらに差し出してくる楓は、最初からずっと変わらない笑顔で、言うのだった。
「さて、かわいいアーニャちゃん。夜更かしは得意ですか?」
「シトー……?」
「ひと晩だけ、シンデレラの魔法を解いてあげます。」
 大人はそのためにとっても有効なやり方をひとつ、みんな知っているものなのよ。
 そんなふうに微笑みながら、楓が携帯電話を取り出していた。LINEの画面に表示されていた名前も、アーニャの知っている名前だった。〈川島瑞樹〉。
「ふふ。ああ……美波ちゃんが二十歳になってくれて、私、とってもうれしいわ」
 七・二・七。アーニャがその大切な数字の羅列を忘れたことなんて、一度だってなかった。
 新田美波は、誕生日を迎えていた。

 あのカフェでの自分はとにかく驚いてばかりだったから、楓の質問にもまともに答えられた覚えがちっともないが、今更ながら答えを返せば、夜更かしはどちらかというと得意な方だった。小さいころから、夜になるほど心を躍らせてしまうほうの子どもだったから。
 珍しい夜空が見られるだなんてテレビで知らされた日には、それがたとえ何時であろうとベッドを抜け出して、屋根裏部屋に隠れ天窓から星を見ていたから。ロシアにいたころは、祖母からあまり痛くないげんこつを笑いながらもらったことすら何度かあったくらいだ。「アーニャちゃんが言いつけを守らないなんて想像できないけど、それはちょっとだけ想像つくかも」そんなことを言って、美波はくすくす笑っていただろうか。流星群を待ち焦がれた結果朝からちいさな欠伸の耐えないアーニャの頬を、指でふにふにつつきながら。
 寮の消灯時間は早い。個室の電気まで強制的に消されてしまうということはさすがにないけれど、それでも廊下や食堂はもう真っ暗だろう。しんと満ちる静けさに合わせたつもりでもないが、アーニャは自室の電気を点けていなかった。夕飯もお風呂も宿題も、輝子と小梅と蘭子と交わす他愛ない会話もみな済ませて、まるでもう寝てしまったかのような部屋の中で、一人身を起こしている。普段着のまま裸足でベッドの上に座って、細く開けたカーテンの隙間から夜空を見ていた。東京は、ほとんど星が見えない。
 午前一時。
「……アリョー?」
『ありょー、アーニャちゃん。ふふふ……楓です』
 ずっと握りしめて放さなかった携帯電話が、とうとう、震えた。
 電話の相手は名乗られなくてもわかっていた。もともとそういう約束だったから、画面すら見ることなくワンコールで電話に出た。ずっと待っていたのだ。美波と別れたときからずっと、アーニャは、楓から連絡がくるのを待っていた。
『零時はとっくに過ぎちゃったから、ガラスの靴も消えちゃいましたねぇ』
 楓は相変わらず、何も読み取れない軽やかさでくすくす笑っている。声が少しだけ聞き取りづらいのは、多分に酔いが回って舌っ足らずになっているからなのか、それとも向こうがやけに賑やかだからか。『ち、ちょっと楓ちゃん、――!』電話口の少し近くで、瑞樹が何か言っている。やや焦った声のように聞こえたのは、気のせいではないのだろう。向こうがどういう状況になっているのか、アーニャにはまだ全然わからないけれど。
『もうこんな時間ですから、アーニャちゃんが王子様じゃなくても、大丈夫ですよ。さあ、かわいいかわいいアーニャちゃん! あなたの大切な女の子を、迎えに来てくださいね』
「ダー、行きます。すぐ、行きます」
 電話を切り、薄いパーカーを一枚引っかけ、キャップを被り、アーニャが持っているうちで一番小さい鞄を抱えて外に出る。
 手順はみな事前に瑞樹が教えてくれていた。LINEひとつで楓から呼び出された瑞樹は、楓から何事か耳打ちされややひきつった顔をしていたが、無数の言いたかったことをため息ひとつで追い払ってくれるほどの立派な大人だった。それから、また知らないうちにテーブルの客が増えていると焦った菜々にシフォンケーキとエスプレッソの注文を告げつつ、アーニャに一枚のメモをくれた。これからしなくてはならないことを瑞樹がたった十数分で書きつけてくれた(そしてさすがですと呑気に手を叩く楓を見て「誰のせいでこんなことが上手くなったと……!」と危うく握りしめかけたので若干文字が掠れている)、大切なメモだ。ショートパンツのポケットに、今もそれはきちんと入っている。
 手順その一。楓から電話があったら、寒くないようにと一応顔を隠すようにとだけをきちんと気を付けて、なるべく少ない荷物でこっそり寮を出てくること。寮に住んでいる子たちの職業が職業であるせいか、夜間でも出入りそのものは一応可能だ。とはいえ記録が残るので、事前に届け出を出すか後で報告をしなければならないけれど。今回は後者になる。しかも嘘をつかなければならない。嘘は、まだ思いついていない。でも思いつかなければならない、と、ここ数日ずっと考えている。
 手順その二。寮を出て右手の、なるべく明るくて大通りに面した歩道を歩き、駅のほうまで行くこと。「終電近い時間だったら、絶対いるから。タクシー」果たして瑞樹の言う通り、二台のタクシーが駅のそばの路地にて停車していた。ややためらいつつもアーニャが近づくと、扉ががたりと開かれる。その音で、勝手に覚悟が決まった。
 手順その三。
「ここまで、お願いします」
 タクシーの運転手に、メモの裏をみせること。そこには瑞樹がとても綺麗で読みやすい字で書きつけてくれた、行先の住所がふたつ書いてあった。ひとつはアーニャの知らない、お店の住所。そしてもう一つは、アーニャのよく知っている住所だ。
 初老の男性は分厚いレンズの眼鏡を胸ポケットから取り出し、ライトをつけてしばらく目を細めていたようであったが、やがて車を発進させてくれた。エンジンの重い音が、少しだけ強張っていたお腹の底に響く。深夜料金のランプを傍らに灯したメーターが、ぼうっと光り始める。本当は交通費らしき金額の入った封筒も瑞樹が渡してくれたのだが、それは鞄の底にしまっておいた。財布を握りしめているあいだに、車体を時々大きく揺らしながら、空いた通りをタクシーがぐんぐん駆け抜けていく。
「あっ」そうだ、忘れるところだった、手順その四。アーニャはパーカーのポケットに突っ込んだままだった携帯電話を、慌てて取り出す。ランプをちかちかさせていたそれには、既に瑞樹からの心配がこもったメッセージが届いていた。我ながら最低限過ぎる言葉のような気もするが、手早く返信文を打ち込んで、送信。〈のりました〉。手順その四、タクシーに乗ったら、必ず連絡を入れること。
 いくつか瑞樹とやり取りを交わしているうちにタクシーがゆっくりと減速し、停車した。
「お客さん。到着ですよ」
「ダー、スパシーバ……あー、ありがとうございます」
 手順その五。タクシーの窓から外を覗くと、人影が二つ――いや三つ、近付いてくる。うち一人がこんこんと助手席の窓を叩き、運転手が応えて窓を開ける。
「すみません、もう一人乗せてください」
 瑞樹が言うと、後部座席の扉がもう一度開かれた。ゆるい熱気を孕んだ、夏の夜風。に、濃く混ざった、不思議な匂い。
 多分これが、アルコールの匂いだ。アーニャの知らない匂いが、胸の奥までくうっと広がる。
「アーニャちゃん。あとは、任せたわね」
「アーニャちゃ……え、アーニャちゃん……?」
 笑った瑞樹の肩から降ろされた美波から香る、知らない匂い。
 多分、あれがきっと、アルコールの匂いだった。
 瑞樹が書きつけてくれたもうひとつの住所、新田美波の暮らしているアパートまでつくと、タクシーはいよいよ完全に停車した。一万円札を一枚と千円札を三枚払っておつりを貰い、タクシーを降りたあと、足元が若干覚束ない美波を支えて玄関まで歩いていった。「ミナミ、だいじょぶ?」「大丈夫……うー、楓さん、瑞樹さん、ひどい……まさかアーニャちゃんを呼ぶなんて……ごめんね、アーニャちゃん……ごめんね」こんなときでも頭の回転はそれなりに早いらしい美波は概ね状況を把握しているようで、普通ならこんな時間にこんなところにいるはずのないアーニャという状態についても、前後関係まで含めてそれなりに察しがついているようであった。素直に、美波はすごい、と思う。
「ごめんね、アーニャちゃん……アーニャちゃ、……あれ」
「シト……っと、み、ミナミ?」
「つめたい……」
「ん、ン?」
「アーニャちゃんのほっぺ、つめたい……きもちい……」
 美波はすごい、のだが。
 すごい美波は、今まさに、とんでもなく、酔っ払っていた。

「だってね、ひどい、ひどいのよ、楓さんも瑞樹さんも」
「ダー」
 ソファに座ってぴっと背筋を伸ばしたまま、アーニャはこくこく頷く。とはいえ、アーニャの隣に座って、肩に寄りかかるというよりはなんだかもう腕とか胸のあたりまで思いきりしなだれかかってきている美波には見えていないんだろうな、ということなら、さすがにわかった。
 ちなみに背筋をぴっと固めているのは、そうでなければ美波の頭が足まで落っこちてしまいそうだったからである。いや、格好としてそちらのほうが美波にとっても楽ならそれでもいいのかなと思うけれど、問題は現状美波が両手にしっかり握っているグラスなのだ。手順その六に瑞樹が書きつけてくれたとおり、アーニャは水のたくさん入ったグラスを美波に手渡したけれど、飲むどころかこぼしてしまいそうなこの状況を考えるに、もしかすると失敗だったのかもしれない。膝のあたりで持っているのに美波が足をゆるくばたつかせるから、水面がちゃぷちゃぷ踊って危なっかしい。が、美波はあんまり気づいていないみたいだった。
「ひどいのよ。二人とも、おいしいお酒を教えてくれるって言ったのに、強いのばっかり」
「ダー。おいしくなかった、ですか?」
「にぇーと! おいしかったの、ぜんぶ! とっても、とっても」
「そうなんですか?」
「そうなんです。……でも、おいしいって、ひどいわ。アーニャちゃんは、そう思わない?」
 体重をアーニャに預けきったまま、美波がわずかに頭を動かして、こっちを見上げてくる。いつもはやさしく透きとおっているように見えるヘーゼルナッツ色の瞳が、ふしぎな光を放っていた。か弱いようで、揺らめいているようで。でもひどく、甘ったるい光。「ン……ダー、思います」
「だー。えらいです、アーニャちゃん」
 それが、さっきからにこっと細まったり、ぷんすか吊り上ったり、やたらと忙しい。
 酔っ払ってしまうというのは、こういうことなのだろうか。なんだか不思議な気持ちになりながら、アーニャは背筋を伸ばして、視界の下のほうでもそもそ動く美波の頭を眺めていた。身体がぴったり寄り添っているせいで、身体の右半分かそれ以上がふんわりあたたかい。あたたかくて、ぐんにゃりして、うすく湿ったような感触は、子猫を抱いているときの気持ちとすこし似ている。
 美波がお酒を口にすること自体は、確か初めてではないはずだ。もちろん誕生日の後ではあるけれど、何度か楓たちとも飲みに行っているはずである。ライブの打ち上げの時だって、美波はいわゆる大人組のひとたちと一緒にアーニャの見たことのない色をしているドリンクを飲んでいた。だけど、こんなふうにふにゃふにゃになってしまった美波を見るのは、間違いなく初めてだ。「なんでも器用にこなすヤツだと思っていたが、お酒の飲み方までそうなのか」と、トレーナーまで感心していたのはまだ記憶に新しいことだというのに。(いや、もしかするとあれはその隣で今日も元気に大暴れしていた楓に聞かせたかっただけなのかもしれないけれど。)
 と、そのとき美波が突然身体を起こしグラスの中身を一気に飲み干してくれたので、アーニャはすこしばかりほっとした。いくら水とはいえ、美波の部屋のカーペットを濡らしてしまうのは忍びなかったのだ。ふわふわのカーペットにちょこんと座って、美波がキッチンに立っている背中を眺めるのが大好きだったアーニャにとってはなおさら。
 しかし、こんっと音のしそうなくらいの勢いでグラスを置いた美波は、そのままぐるんとアーニャの鼻先近くまで顔を寄せてきたものだから。「み、……ミナミ?」なんだかんだと抱いていた思考なぞいっぺんに吹っ飛ばされてしまった。顔を近づけること自体は、もういっそアーニャの方から仕掛けていくくらいなのだけれど。
 なんだろう、なにがおかしいからなんだろう。美波の顔がぺかっと赤いからなのか、整然と話しているようでちっとも要領を得ない会話内容のせいなのか、それとも美波からこうして近づいてくることがそういえば珍しいからなのか。おかしい、と思わざるを得ない事態に、おかしい、としかいいようのないほど速くなってしまった鼓動が、アーニャの胸の内側をさっきからずっとどこどこ叩いていた。
「だめよ、アーニャちゃん」
「ダー……?」
 いつのまにか目を逸らそうとしていたことに、顔の向きを戻されて初めて気が付く。美波のあたたかいを通り越してすっかり熱い手のひらが、アーニャの頬をむにゅんと包んでいた。ちょっと頬がつぶれてしまうくらい強いのは、わざとなのだろうか。多分に変な顔になってしまいながら、とりあえず目をぱちぱちさせて美波のほうを見つめ直すほかないアーニャである。
「どうしてこんな時間まで起きてるの? どうして寮、出てきちゃったの。だめよ、アーニャちゃんったら」
「あ、あー……イズヴィニーチェ……」
「……みなみに会いたかったの?」
 叱っている、ような。でも、ぜんぜん叱っていない、ような。
 とにかくさっきからずっとわからない、くるくる変わってばかりの瞳を、アーニャは必死に見つめる。
「ダー! 会いたかった、はい。会いたかったです、ミナミに」
「みなみに?」
「ミナミに!」
「……そう」
 それが、ふわぁ、とお花かなにかでも咲きそうなくらいにそこがきれいにゆるむから。ほら、胸の中が、またおかしくなった。
 ひどく満たされたような顔をしていた美波は「でも、だめだからね、夜だもの。遅いんだもの、だめよ、アーニャちゃん」なんてぶつぶつ言いながら、さっきまで頬にあてていた両手で今度はアーニャの頭をくしゃくしゃにかき混ぜてくる。
 ひょっとしてこれは罰なのだろうか。ふとそんなことを考える。頬をつぶされて変な顔になり、それから髪をくしゃくしゃにされる。お世辞にも素直に言うことを聞く方とはいいがたいアーニャの髪は、ちょっとした風でも元気に跳ね回るくらいだから、こんなふうにされてはさぞかし妙ちきりんなかたちになってしまっていることだろう。それが、美波のアーニャに与えた罰なのだろうか。そうなのだとしたら、やや甘ったるすぎるのではないかと罪人の方が不安になる。
 なんだかしばらくのあいだ、そんなことばかり繰り返していた。水をこぼしてしまう心配は確かになくなったが、それが十全に良かったことなのかといえば、アーニャにはちょっとわからない。その枷がなくなってしまった結果美波はアーニャの膝に頭を預けることもできたし、足をぱたぱたさせることも存分にできたけれど、美波がそういうことをするたびアーニャの胸の中はおかしくなってしまってただでさえうまくない言葉がよけいに出てこなくなるのだから。
「アーニャちゃん」
「ダー」
「だー。ふふっ、アーニャちゃん」
「ン……ミナミ?」
「だー」
 それなのに美波は、すっかり調子のくるっているアーニャの言葉でも、ふわふわ、嬉しそうに笑って。しばらくのあいだ、そんなことばかり繰り返していた。
 ふっとそれが途切れたのは、ふたたび頭をくしゃくしゃにされていたアーニャがくすぐったさのあまり顔をそむけてしまった際、テレビのほうに目が向いたからである。
「……ミナミ、あれ」
「ん……?」
 電源を落として静まりかえっている、テレビ台の上。
 開けっ放しのケース、暗めにつけた部屋の灯りを反射しなおも光っている、出しっぱなしのディスクが一枚。
 美波の部屋には、何度でも来たことがあった。それこそ今日彼女を抱えて部屋まで行くのに、何の迷いもなかったくらいには。だから、そのたび彼女が何度「散らかってるから」と口にしようと、それが真っ赤なウソであることをアーニャはよく知っている。美波の部屋はいつでも隅々まで片付いていて、カーペットはふわふわで、ソファにはアーニャと二人で一緒に選んだクッションが二つ並べて置いてあるものだった。
 その、アーニャの瞳の奥に残る光景と出しっぱなしのディスクは、ちぐはぐで合致しなかった。
「見ちゃうの、毎日」
 酔っていても、美波は美波だ。とてもかしこく、すっきりと、アーニャの目線の先を見抜いてくれる。
 プロデューサーの生真面目な字で描かれた〈2015 サマーフェス〉の文字が、眼球の表面をちりりと乾かしていく。
「ついね、見ちゃうの」
 部屋まで歩くのも覚束なかった彼女が。グラスに入った水すら、あわやこぼしてしまいそうだった彼女が。
 すっとソファから立ち上がってディスクをプレイヤーにセットし、テレビの電源を入れる。ソファに戻ってきた美波は、いつのまにかぼうっと動向を見守るばかりになっていたアーニャの隣にぎしっといきおいよく腰掛けた。きし、し、とスプリングが何度か振動して、その揺れが収まったころ、美波の頭がまた再びアーニャの肩にぽすんと降りてくる。――再生。
 マーカーは、LOVE LAIKAのステージの前で止まっているようだった。ヘッドホンで聴くのとは違う、どこかこもったような音のイントロに、あれほどうるさかった胸が一気にしんとする。
「あ、ここ。ここの、アーニャちゃん」
「ダー?」
「ほら、ぴょんぴょんって、するでしょ」
 リモコンを握ったままの美波が、器用に巻き戻してもう一度再生ボタンを押す。イントロ部分のダンスのことを言っているらしい。「ほら、ここ、ここ」預けた頭をわずかに動かして、美波がつんつんとアーニャの首筋をつつく。つむじのすぐそばの細い髪の毛が肌をくすぐって、背筋がぞくんとするほどむずがゆい。「ここのアーニャちゃん、かわいくて好き」
 再生ボタンを押した美波は、ため息のように続ける。「こっちのアーニャちゃんは、かっこよくて好き」
「……ミナミ」
 ライブ映像を見ているあいだ、美波はずっと、そんなことばかりだった。
 ここのステップ、難しいのによくがんばったね。ここのリズム、少し取りづらいのに、蘭子ちゃんともよく合わせられてる。ここ、きつくなかった、大丈夫だった。アーニャちゃん、ここが苦手って居残り練習までしてたけど、ちゃんとうまくできてるよ、えらいね。ときどきまぶしそうに目を細めながら、美波はそんなことばかりだった。
 何度見たのだろう。ゆるやかに笑んだ顔を見下ろしながら、アーニャはこっそりこぶしを固めていた。そこ以外、このぎゅうっとした気持ちをどこで晴らせばよいのかわからなかったから。出しっぱなしになってしまうまで、美波は何度これを見たのだろう。何度、ひとりで、これを見たのだろう。
 それなのに美波は、アーニャのことばかり口にする。
「あ、ここ。ここのアーニャちゃんの歌、すごく好きよ」
 ずんと重くなる。これが楓のいう、割り切れないこと、なのだろうか。すっかり酔っ払っている美波が満たされたようにふわりと笑えば笑うほど、そうしてやさしい声でアーニャの名前を呼んでくれればくれるほど、圧し掛かる余りが増えていく。それが苦しくて、痛くて、両目の奥が炙られているかのように熱くなって、それでも涙は流さなかった。アーニャの気持ちにきちんと呼応して、瞳はぐんぐん渇いてくれる。それはきっとアーニャにとって、ひとつの救いでもあった。
 美波のもっているそういうやさしさについてなら、すごくよくわかっている自信があった。誰よりも、とかみんなより一番、とかは考えたことがないけれど、たとえばアナスタシアという一人の人間が、美波の向けてくれる優しさに何度も救われたことならなによりもよく知っている。それは私自身のことだから、私は、私自身の中にのこったミナミの優しさについてなら、胸を張って知っているといえるのだ。美波はいつでもほっとするほどただしくて、やさしい。今だってそうだ。映像を見ながら、美波は、アーニャのことを口に出してばかりいる。アーニャちゃんのここがよかった、ここもよかった、ここが好き。ここは不安ならあとで一緒にまた練習しようね、大丈夫だよ、アーニャちゃん。
 今だってそうで、――あのときだって、そうだった。
 ずんと、重くなる。「でも、アーニャちゃんは!」ひどい顔色をしていた美波。いやな汗にまみれて、ベッドに横たわっていたくしゃくしゃの美波。「アーニャちゃんには、一人でも出てほしいんです」美波の声が静まり返った救護室の空気をしたたかに打って、鼓膜を突き破って、心のいちばんやわらかいところに、突き刺さる。美波の声。美波の、声が。美波。「だって、……あんなに、がんばって、きたのに……!」
 美波。
 泣かなかったのに、泣いた、美波。
 泣いたのに、泣かなかった、美波。
 美波。
 アーニャちゃん、と、よんでくれるの、好きです。ミナミの声、私の名前、好きでした。
 だけどあのとき、私は、初めて。ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい、ミナミ。
 あなたに、私の名前、呼んでほしくなかった、と、思いました。
 私のこと、いつも、たくさん考えてくれる、やさしいあなたに。
 私のこと、もう、考えないでほしいと、思いました。
 ――ごめん、なさい、ミナミ、
「……ゆーうーやーみーのー、さーき」
「っ、」
 掠れた声で、美波が歌った。
 頭をアーニャの肩に預けたまま、すっかり酔っ払ってしまっている美波が、か細くてたのしそうな鼻唄のように、メロディを零しはじめる。「ひーかるー、ほしたち」ちら、とこちらを見てきた美波の、期待するような瞳に負けて、アーニャもそっと息を吸った。唇の先だけでくすぐるような、かすかなうた。「はかないよるぜーんぶ、からーませ」
「こころぼそーさーを」
『かんじる』
 目を合わせて、少し笑う。歌いながら、美波がゆるりとソファの前に伸ばしていた足先が、すこしだけ愉しそうに揺れていた。「さよならだねって、さーいーごーのこーとば」「むねに、のこる、かーらー、いーたーいよいーまも」『あいしーているー、かーら』
 映像が終わって、ブラックアウトしたままのテレビ画面。表の通りは、深夜タクシーすらもう通らない。数滴の水だけを残して空っぽになったグラスと、ぱたぱた揺れる美波のつま先。二人の唇からぽろぽろこぼれるちいさな音の粒だけが、午前二時半の室内を仄かに彩っていた。割り切れないこと。余ってしまったこと。私たちに、できなかったこと。
「さーびしいはーねーを、かーさーねて、もう」
「あーしーたーをー、ゆめみーてるの」
「はーろー、……」
 美波の声が。
「ぐっばい、っ」
 ふるえて。
「……ふり、むーかない、よう、に」
 アーニャに寄りかかっていた身体が、声をかけるまもなくきゅうと丸まって。薄手のサマーブラウスの布地を透けて、美波のやせた背中の骨がぽっこり浮いていて。ちいさな、ちいさな、背中が、ふるえていて。「……っ、……あぁ」
 美波。と、声を上げそうになったところを、すんでのところで飲み込んだ。血を吐くような気持ちで、飲み込んだ。きっと間違ってなかった。

「でたかった、なぁ」
 
 きっとあそこであなたの名前を呼ばなかったから、あなたは、それを、口にすることができたのだ。私がそこで、踏みとどまった、から。
 ごくごくわずかに鼻の鳴らされた音が、きっとあれからずっとおかしいままだった耳から胸まで一気に響いてくる。泣いた。ミナミが、泣いた。出たかったって、泣いた。
「あ、ごめん。ごめんね、アーニャちゃ」「ミナミ」
 やっと。
 ――やっと!
「ミナミ。……っ、ミナミ、ミナミ、ミナミ」
「……いたいよ、アーニャちゃん」
 美波の困ったように笑うふふふという声が、耳元すぐ傍で響いている。
 なぜって、ほかでもないアーニャが美波の頭をそこに押し付けているからだ。ほんとうはみんなと同じようにきちんとちいさい美波の背中を丸ごと包むように腕を回して、真っ直ぐでさらさらな髪が乱れてしまうぐらい手のひらで頭を抱え込んで、だきしめて、だきしめているからだ。「ね、アーニャちゃん、いたいってば」放して、と、美波がまたふふっと笑う。
 かまうものか。こんなにいけないことを考えたのはほんとに初めてかもしれないと、心のどこかが呑気に驚いている。まさかこの自分が美波に対して、かまうものか、だなんて。しかもそれがどうあっても今のアーニャの本心に違いがないのだと確信が持ててしまっているのだから、よけいに驚くべき事だと思う。かまうものかと思った。もっと苦しくなってもいいとすら思って、手にあらんかぎりの力を込めた。美波の身体の軋みみたいなものが手のひらから伝わってきて、それにはひどくぎくりとしたけれど、それでもやっぱり、かまうものかと思った。
 痛いならもう、痛くていい。
「アーニャちゃん、ってば。……いたい、って、いってるでしょ」
 痛くて泣いてくれるなら。
 後からいくらでも叱られることになったって、もうおまえなんかきらいだって言われることになったって、それでも、よかった。いいってことに、してしまった。
「っ、あーにゃ、ちゃん」
「お酒、たくさん飲んだら、覚えてません」
 手順その七。
 台詞はみんな、楓と瑞樹が一緒に考えてくれた。アーニャひとりでは伝えきれないことが、ぜったいにあるから。それもきっと、やっぱり、飲みこまなければならない余りだ。十五歳のアーニャには、お酒のことがまだよくわからない。楓がどうやって美波のがんばりやさんの魔法を解いてしまったのかだってわからない。いつもアーニャのことばかりな美波に、いつもほかのみんなのことばかりな美波に、自分のことで子どもみたいに泣いてもらう方法が、アーニャひとりではちっともわからない。
「お酒、ミナミはたくさん飲みました。だから、明日はもう、覚えてません。話したこと、泣いたことも、ぜんぶ」
「……アーニャちゃん」
「わたしっ、私も今、眠いです。すごく、眠い。二時半、です。寝ぼけて、忘れちゃいますから。……だから」
 ふふ、と、美波がまた、アーニャの耳元でおかしそうに笑う。
 けれど、アーニャがそれからまたどうにかメモの内容を思い出す前に、美波はアーニャの背中をぎゅっと握りしめてくれた。
「アーニャちゃんのうそつき」
「う、……ミナミ」
「ぜんぜん、眠たくなんかないでしょう」
「うぅ」
「ふふっ、もう……ふ、っふ、……ぅ」
 ああ、ひとが、泣いているときの声は。
 笑っているときの声と、実は、よく似ているのだ。
「ぅ、……うぁ、……あ、――っ!!」
 そんなことですら今になってわかるような自分は、きっと、ちっとも美波のことをうまく思いやれてなんかいない。
 腕の中で美波のやせた身体がひっきりなしに震えて、肩のところがぽたぽた落ちてくる雫でびしょ濡れになっても、アーニャは絶対に泣かなかった。私の目、目、いくらでも渇いてゆけ。
 美波は泣いている。アルコールの力を借りて、溺れてここまで落ちてきてやっと、美波は泣くことができた。いいことなんかじゃ全然ない。この事実が示している最も目をそらしてはならないことがらはたったひとつ、そうまでしなければ、新田美波を泣かせてあげられることができなかったということだ。みんなにやさしくて。私にもやさしくて。たくさん、たくさん私のことを呼んでくれる、たくさん、たくさん想ってくれる、あなたのことを。
 アーニャは、こうまでしなければ、きちんと抱きしめることすらできなかった。
 美波のことをよく見ているねと、みんなはアーニャに言ってくれる。楓や瑞樹ですらそうだった。アーニャは美波のことをとてもよく見ていて、彼女のようすの変化によく気づけていると褒めてすらくれる。いつも一緒にいる二人だと思われているのと同じだった。――ほんとうは、そんなことぜんぜんないのに。
 だって、いつもはそうして想わせてくれている、ということですら、きっと美波のやさしさでしかない。美波がアーニャに与えてくれるそのほか無数のたくさんのもののひとつでしか、きっとない。不自由な言葉にたくさんの気持ちをむりやり詰め込んだ言葉でも、美波はきちんと受け取ってくれる。手を取ることでせいいっぱいでも、美波は笑い返してくれる。それだってきっと、美波のやさしさなのだ。ちっとも上手にはできない自分にすら思い遣らせてくれる、美波のとても丁寧なやさしさである。
 だからアーニャは、ほんとうはいつも、美波に想ってもらってばかりで。
 だから。
「ミナミ」
「っ、あーにゃちゃ、……アーニャ、ちゃん」
 だから、いちばんそうしなければならないときに、いちばんあなたが追い詰められているときに、私はなにもできなかった。
 ほんとうに大切なときに、私は、あなたの名前を呼ぶことも、あなたの手を取ることも、もちろんあなたを抱きしめることも、なにひとつ、できなかったのだ。
「ごめ、っ、ごめんね、アーニャちゃん、ごめんね、ごめん、ごめんなさい、でも、アーニャちゃん、くやしくて……っ、わた、わたし、だって、アーニャちゃんと、……っ、ちが、ちがうの、ちがうけど、ごめんなさい、アーニャちゃん、アーニャちゃん」
「ミナミ。……ミナミ」
「ごめんなさい……っ、アーニャちゃんと、いっしょに、……でたかった、の」
 絞り出すように言って泣く美波を、今まででいちばん強く抱きしめながら、アーニャは奥歯を噛みしめていた。ほんのわずかでも泣きそうな気持ちが湧いてしまったら、即座に磨り潰して粉々にしてしまおうと思って。泣いてはいけない。泣いてはいけない。泣いたら、きっと美波は泣いてしまった自分にすぐ気づいてしまう。それは、絶対にいけない。耐えなければならないし、耐えていたかった、それで、美波が泣き続けてくれるのなら。
 美波のことが、大好きで。やさしいところも真面目なところも、笑うと目元がふわっとゆるむところも、つむじのあたりの髪がやわらかくてくすぐったいところも、頑張り屋さんなところも、重い名前を背負ってしっかり立とうとするところもみんな、大好きで。
 大好きだから、触れられなかった。大好きだから知っている。美波は高いところにいるのだ。きっと今のアーニャでは、どんなに手を伸ばしても届かないくらいに高いところ。美波はそこで、いつもひとりで頑張っている。高くて眩しくて、とても綺麗なところで。
 行かなければならないのだ。
「……ミナミ」
 私は、そこまで、行かなければならない。
 ミナミ、とても眩しくて、綺麗な、大好きなミナミ。
 こんな時でしか抱きしめられない私を、――どうかぜったいに、ゆるさないで。

 翼が欲しかった。羽じゃなくてもいい。蝋でできててもかまわない。
 ただ、空を飛ぶための方法を、アーニャはずっと、探している。

inserted by FC2 system