「……アーニャちゃんが」
 おかあさん、ああ、おかあさん。
 みなみはずいぶん、ほんとうにずいぶんわるいこに、なってしまったみたいなのです。
「アーニャちゃんが、わるいんだから、ね。」

 よく聞いてちょうだいね、というのが母の口癖だった。私や弟が、まだ幼かった頃の話だ。
 父は優しくも厳しい人であったから、大声で叱りつけられたことも一度や二度ではきかないけれど、逆に母はそれをいつも宥める役回りばかり負っていたと記憶している。母はとても気性の穏やかな人で、それからいつも楽しそうだった。たとえば高校生の頃だったか、帰りが遅すぎると怒る父と部活の大会が近いのだから少しは多めに見てほしいと主張する私で話がこじれそうになった時があったが、弟の頭上であわや怒鳴りあいに発展するかといったところで、色好く焼けたクッキーをたっぷり天板にのせた母がやってきたのだ。私や父のあいだに流れる緊迫した空気など露ほども気にかけず、たくさん焼き過ぎてしまったからどんどん食べてちょうだいなとのたまった母は、いつだってそういうふうに話題の中心を笑顔で攫っていってしまう人だった。
 時折生真面目すぎるところのある父をしいてそうしようともせず上手に支えられるのは、母だけが持つ偉大な才能なのだと、私は幾度も感心させられてきたことを覚えている。概ねどんなことでも柔らかに笑って包み込む母は、新田家にとって土壌のような存在だった。剛健な柱の父も、屋根の下で平穏無事に暮らさせてもらっていた私たちも、気づかないほど自然と、母の上に成り立っていたのだ。
 そんな母が私や弟に何かをよく言って聞かせるときの口癖が、「よく聞いてちょうだいね」だった。「いい? 美波」そう口にするとき、母はいつもしゃがんで私や弟の手をきちんと握る。ひとの手を握るただしいやり方を私が覚えるタイミングがもしあったのだとすれば、それはあのときだったのではないだろうか。母の長く温かな五指は未発達で頼りない私の手の甲を優しく包んで、安堵を誘うリズムの通りに、ぎゅ、ぎゅ、と丁寧な力を込めてくれるのだった。「よく聞いてちょうだいね」
 温厚な母は、私や弟を叱り付けるようなことはけしてしなかったけれど。それでも、怒鳴るような大きな衝撃などなくとも、ひとの心に言葉を残すことはきっと可能なのだ。母は、きっとその手順をとても確かに知っていた。相手がどんなに小さくとも、目線よりやや低いところまでしゃがみこんで目を合わせる。手を握る。ゆっくりと、深呼吸のように語りかける。
「どんなことでもね、相手が十のうち十悪い、ということはないものなのよ」
 母がそうして教えてくれ、今もなお私の胸に残り続けているうちのひとつが、それであった。
「どんなことでも?」
「ええ、どんなことでも」
 どうしてそういう話になってしまったのかは、残念ながら思い出せない。
 私はなんだかんだ言って頑固なところが昔からあったし、そのあたりが原因で友だちとぶつかりでもしたのかもしれない。母に相槌を打つにしても、まず詰まりきってしまっていた洟をどうにかするところから始めねばならなかったので、あの頃から喧嘩がへたくそであったらしい私は、手を握って語りかけられながら、泣きじゃくってでもいたのかもしれない。喧嘩がへたくそ、というのは、成人して四年経った今になってもなお友人たちが揃って口にする、私の困った性質なのだけれども。
「ひととひととの間に起こることで、どちらか一方だけが悪いなんてことはないのよ。……だからね、美波。たとえ相手が八か九悪かったんだとしても、それを責めるより、一か二だけでも自分に残った悪いところを省みられるようになりなさい」
 そのひとのことを最もよく理解してあげられるのはいつだってそのひと自身であるのだとすれば、他人の罪を糾弾することに、さしたる意味などないのかもしれない。なんていうのは少々言い過ぎかもしれないけれど、人間の抱く感情の中でも罪悪感は致死性が高いものである、ということは間違いがないように思う。犯した罪を責めるのは、きっとそのひと自身だけで事足りているのだ。他のものを少しでも注げば、たちまち溢れてしまうほどに。
 だというのに、どうあってもそのひと以上にはそのひとについて理解できない他人があれこれ口を出したところで、事態はきっとこじれることにしかならないのだろう。母が私に言って聞かせたのは善い行いの姿をしていたものでもあったけれど、恐らくそれと同時に、健康的な行いでもあった。何も知らない大多数からは善く映り、そして無駄にエネルギーも消費しない、賢い生き方のひとつ。ひょっとすると母は、後者の意味合いをより重く伝えたかったのかもしれない。なにしろ母はこれまで私を育ててきてくれた二十四年間のうちで、私に「善い子になりなさい」とはただの一度も求めなかったのだから。
 それでも結局「善い子」のステロタイプのようにしか育つことのできなかった新田美波二十四歳は、しかもそのうえ、母の言いつけを守ることにも失敗していた。紋切型が紋を捨ててどうしようというのだろう。――どうにもならないから、いつも、どこかふわふわして覚束ない、糸の切れた風船のような心地が、つま先から襲い掛かってくる。そんなどうしようもなくて終わりも見えない不安の中に、私はふっと放り込まれる。
「アーニャちゃんが」
「はい」
「……アーニャちゃんが、わるいのよ」
「はい、そうですね」
 そんな私のふわふわした気持ちを過たず縫い止めてしまう力を、彼女の透き通った青い瞳は、いつだって持っていた。放り込まれた不安の中にまっすぐ落ちていくと、どうしてだろう、そこではいつでも、ご褒美を待ち焦がれた子犬のような瞳の子が、両手を広げて私を受け止める時を待っているのだ。
 おかあさん。いつの間にか伸びてきていたアーニャちゃんの手が、シーツに隠れきらない剥き出しの肩をひたりと撫でてくる。冷たい手。アーニャちゃんの手の温度は低い。低くない時を、すらりと長い指先からうすい手のひらまでもがかっと脈打つほど熱を発する時を、私の皮膚はとてもよく知っている。だからこそ、余計にそれがわかるようになった。なってしまった。
 おかあさん、ああ、おかあさん。それなりに値の張りそうなよくできたシーツは裸の私をたいへんに快く包んでくれて、甘ったるく柔らかな感触はあまりにも毒だった。向かい合わせに寝そべったアーニャちゃんの惜しげもなく晒された肌は、くらくらしそうなくらいに白い。なのに雪とよく似たその身体は、いっそ暴力的と呼んでもいいくらいの熱を持つときだってあるのだ。私はそれについてだって、とてもよく知っている。どんなときって、――つまり、吸い付くほどに汗ばんだ身を寄せて、私に圧し掛かっているとき、だとか。
 おかあさん。
 おかあさん、みなみは。
「あ、アーニャちゃん、が」
「はい」
「アーニャちゃんが、えっちなのが、わるいのよ」
 みなみは、どこまで、わるいこになってしまうのでしょう。緩い倦怠感と、蕩けるくらいに皮下でさざめいていた熱の残滓と、お腹の奥でゆるく巡り続ける心地よさと。セックスの余韻に爪先から頭のてっぺんまでを浸して、裸のままシーツの海に浮いている、私と、アーニャちゃん。
 まるきり喧嘩した子どもの言い訳のようなことをいえば、先にキスをしてきたのはアーニャちゃんだった。でも、それこそ自分が最もよくわかっている罪悪というやつだけれど、キスをしてくるように仕向けたのは私だった。
 ソファに並んで座った時不意にかち合った目線でも、軽く重なっていた彼女の手の甲をそうっとひっかいた小指の先でも、それからもどかしそうに足を擦り合わせる仕草でも、白状すれば私はそういう意味の熱をばら撒いたのだ。彼女にそれが伝播することを心底願って。黙ってそうすることが余計罪を重くするのに、一言たりとも口を開かず。
 そして彼女は昔から、私がしてほしいと願うことを叶えるのに、手間を惜しまないでしまうのだった。
 そういうところは、今でも変わらない。私がたった一度名前を呼べば、すぐにでも駆け寄ってきてくれたアーニャちゃん。私の手を取って、ちゃんと目を見て、使えるところはみな使って私の話を聞こうとしてくれたアーニャちゃん。かわいいかわいい、子犬のような目の、アーニャちゃん「美波」
 だけどいつの間にか、とっても綺麗な発音で私の名前を呼べるようになってしまった、アーニャちゃん。「美波。シャワーを浴びてきますから、少しだけ待っていてもらえますか?」「……アーニャちゃん」「すぐ戻ってきますから。美波に触れるなら、ちゃんと、綺麗な手で。ね?」
 先にキスをしてきたのはアーニャちゃんだし、私のからだじゅうを上手に食べてしまったのもアーニャちゃんだし、なんだかやけに感じやすくて早々に気をやった私の耳元で「もっと?」と囁いてきたのもアーニャちゃんだ。けれど正確なところを言えば、誘ったのは私で、誘われてくれたのがアーニャちゃん。ここのところ忙しそうでちっとも構ってもらえなかった埋め合わせを無言の内に求めたのが私で、綺麗に笑い恭しく頭を垂れてくれたのがアーニャちゃん。
 そうでしかない、ということなら、誰より私が一番よくわかっているのだけれど。どう考えても、十のうち七か八、いやひょっとすると九くらいは私が悪いと、頭ではよく理解しているつもりなのだけれど。
「美波。機嫌、直してもらえませんか?」
 それでも、今のところアーニャちゃんが十悪いという態度を取り続けてしまっているのが、現在の新田美波という度し難く悪辣な生き物なのだった。
「……怒ってなんか、ないわ」
「でも、ここは怒っていますよ」
 私の眉と眉の間を指で優しくつついたアーニャちゃんが、笑ったことは謝りますから、と恐らくそこに寄っているのであろう皺をむにむに押して伸ばそうとしてくる。でもそれを口にしながらだって彼女はくっくっと可笑しそうにほっそりとした肩を震わせていたのだから、やや納得はしがたい。
 まだ笑うなんて、ちょっとひどいと思う、アーニャちゃん。しようがないでしょう、――力が入らなくなって、くたっとあなたにもたれた瞬間お腹が大きな大きな音で鳴るなんて、私だって思いもしなかったんだから!
「ごめんなさい、美波。お腹、まさかあんなに可愛い音で鳴くとは思わなくて」
「ああもう、もう、言わないで、もうやめて……」
 そう言ってお腹を押さえたのが、よくなかったのだろうか。あろうことか私のお腹は本日二度目の鳴き声を上げ、アーニャちゃんはとうとう言い訳ができないくらい盛大に吹きだしてしまった。
 ボリュームとしては最初のものより幾らかましだったけれど、今回は長さがひどい、きゅうぅなんて余韻までしっかり歌い上げてくれたお腹に拳の一つも入れてしまいたい気持ちをぐっとこらえ、私は黙ってシーツを頭まで被った。芋虫さながらになってしまった私に気づいたアーニャちゃんが、ちっとも笑いの堪えきれていない声で一生懸命話しかけてくる。
「み、……っふ、あははっ! ああ、美波、美波ってば」
「しらない……」
「ごめんなさい、謝ります、謝りますから」
 そう言いながらもやっぱりひとしきりは笑ったアーニャちゃんは、シーツの上から私の頭をぽんと撫でた。
「お腹、私も空きました。何か食べましょう、ね?」

 往々にしてあることながら、こんな時に限って部屋の中には食べ物のストックがなかった。といっても、今日はゆっくり寝て、明日起きたらスーパーに行きましょうなんて話を帰ってきてすぐしたばかりなので、確かめなくとも明白な事実ではあったのだけれど。一応冷蔵庫と台所の棚の中を探ってくれたアーニャちゃんは苦笑しつつ肩を竦め、外に出ましょうかと言った。
「リクエスト、あれば買ってきますよ?」
「……ううん、一緒に行く」
「だったら」
 シーツの中からのそのそ這い出ると、いつの間にかベッドの傍まで戻ってきていたアーニャちゃんが、私の肩にぱさっとパーカーを掛け、それから上手に眼鏡を掛けさせた。次の瞬間に視界がちょっぴり暗くなったのは、パーカーのフードを被せられたから。度の入っていないぺらぺらのレンズの向こうで、彼女が少しいたずらっぽくウインクをする。
「顔、ちゃんと隠してくださいね」
 それは私みたいなしがないアナウンサーなんかでなく、国内海外問わずファッション雑誌の表紙をばんばん飾っているトップモデルのアナスタシアさんにこそ、ぴったりな言葉だと思うのだけれど。しかし私がなにか言い返すよりも早く、ジャケットを羽織っていつものキャップとサングラスを身に着けてしまったアーニャちゃんがこっちに向かって手を伸べ、柔らかに微笑んでしまうから、私はそれを黙って握り返すほかなくなってしまうのだ。
 伸ばしたら指の半ばくらいまで隠してしまう長い袖。繊維の隙間からそっと香る涼やかな匂い。以前は全く変わらないサイズだったために戯れに服を交換することだってできていたのに、いつの間にやらずいぶん背が高くなって、私にはひと回りほど大きくなってしまった、アーニャちゃんのパーカー。あまり意識しないようにしていたつもりだったのに、すん、と鼻を鳴らしてしまって、ひとり胸の中だけで慌てる。アーニャちゃんがちょうどスニーカーを履いている時でよかった。でも、うん、いい匂い。あったかい。
 その時、玄関からも見えていた時計の電子表示が、きっかり午前四時を指した。「ねえ、アーニャちゃん」
「はい?」
「いいの? こんな時間に食べて」
「たまには、です」
 ちゃんと取り戻しますよと彼女がはっきり口にしたから、私もミュールに足を通してしまった。彼女の仕事やそれに伴う調整に関して、同じフィールドに立っていない私がこれ以上意見することはできない。できないし、多分、必要もないのだと思う。
 本当に手のかからない子で、と語っていたのは、アーニャちゃんのマネージャーさんだった。「大した実績があるわけでもない私が、なんでアナスタシアさんみたいなトップモデルと組ませてもらえたのか、最初は不思議でしょうがなかったんですけど。今ならわかります。あの子ほんとにしっかりしてるから、私の仕事、とっても楽なんです」ちょっと楽過ぎるくらい、と笑っていた彼女が言うには、スケジュールや体調の管理はばっちりで、遅刻や欠勤もない。仕事は取ってくるまでもなく向こうから舞い込んでくるし、現場でどんなパフォーマンスをしていけばより高みに昇れるかのプランニングもしっかりしていた、とのことだった。
 苦労も問題もみな跳ね除けて、最短距離で上まであがっていこうとするアーニャちゃんがどうしてそこまで頑張れるのか、マネージャーさんは不思議でならなかったらしい。だからあなたはどこへ行こうとしているの、何か目指しているものがあるの、と訊ねたそうだけれど、その時彼女が答えたのは、これだけだったそうだ。――「迎えに行きたいひとが、います」。
「結局、あとはなにも教えてもらえなかったなぁ」「結局?」「うーん、なんとなくなんですけど……アナスタシアさん、もうそのひとのこと、迎えに行っちゃった気がするんですよね」これはマネージャーとしての勘ですが、とおどけたように口にした彼女は、それでも瞳の奥にきちんと確信を覗かせていた。部屋で身支度を整えていたアーニャちゃんが出てきたのは、マネージャーさんがちょっとだけ嬉しそうに「そういえば最近、アーニャって呼んでほしいって言ってくれたんですよね」と教えてくれた、その直後のことだ。
「美波?」
「あ、うん?」
 ぼうっとしていたらしい。
 ひょいと顔を覗き込まれて、心臓が跳ねる。造形が良すぎるというのも時々考え物だな、なんて思ってしまう。キャップを被っていてもサングラスをかけていても、アーニャちゃんは美人だから。
「んー……もしかして、眠いですか?」
「ううん、大丈夫よ、大丈夫」
 首を振って答えた私をなおも心配してくれているのかじいっと見つめてきたアーニャちゃんは、それから黙って私に片腕を差し出してきた。え、と口にしかけた私を、有無を言わさぬ瞳が静かに覗き込んでくる。こういうときは絶対に譲ってもらえない。おとなしく従って腕を取った時、私はこんなにも気恥ずかしいのに、満足そうにふわりと緩むブルー・アイがほんの少しだけ恨めしい。必殺のタイミングで、あどけなくて可愛いかわいい、昔そのままの顔を見せてくれるアーニャちゃん。
 だけど、周りの皆がびっくりするほどの駆け足で成長して、どんどん、どんどん、立派になっていったアーニャちゃん。
 アーニャちゃんの真っ直ぐな瞳と、真っ直ぐな気持ちに耐えられなくなって、その目映さが浮き彫りにした自分のいびつさに耐えられなくなって、彼女から三年間も逃げ続けたみっともない私の前に、アーニャちゃんはやっぱり真っ直ぐ立っていた。立って、笑っていた。覚えている。「美波。――あなたを、迎えに来ました」
 覚えている。
 きっと一生、忘れないと思う。
 腕を組むのになんら不自由がないほど、彼女は背を伸ばしていた。すっかり追い抜かれちゃった、ところころ笑っていたのは、今のアーニャちゃんとも一緒に仕事をすることの多いらしい楓さんだ。お母様のことも追い抜かしてしまったらしい彼女の長身は、恐らく父親譲りなのだろう。それから、髪も少しだけ伸びていた。しなやかに長い首の後ろを隠して襟のあたりにさらさらかかる綺麗な銀髪は、今でもときどきとんでもない寝癖で跳ね回ってくれることはあるし、寝ぼけ眼の彼女の代わりにそれを整えてあげるのは、変わらず私の役目だけれど。その髪を自然と靡かせた姿がはっとするほど綺麗な一枚は、春物特集が組まれた女性ファッション誌の表紙を飾っていた。
 コンビニの雑誌棚に並べられている彼女の横顔は、ほんとうに、きれい。
「美波、美波」それなのに、店内の短い距離でもぱたぱた足音を鳴らして駆け寄ってくる彼女は、相変わらず綺麗というよりはかわいい子だ。どちらにもなれるようになったんだ、と、思う。「どれにするか決めましたか?」
「ううん、まだ迷い中。ごめんね、優柔不断で」
「なら、あれはどうですか?」
「あれ?」
 なんだかやけにわくわくしているように見えるアーニャちゃんが指したのは冷凍庫で、連れて行かれたのは色とりどりに並ぶアイスクリームの中でもひときわ大きなものの前だった。チョコレートアイスパフェ。そういえばこういうの、コンビニだとよく売ってた気がする。買ったことはないけれど。
 それにしても、『パフェ』という音の響きにはどうしてこう、不可避の魔法がかかっているのだろう。甘いものをほんの少しでも愛する心があるのなら、その効き目はいつだって抜群だ。ね、と目をきらきらさせているアーニャちゃんはすっかりその魔法の虜で、僭越ながら、手を伸ばした私も同じ運命を辿る身だった。
「二つだと、ちょっと食べ過ぎかな」
「半分こ、ですね。じゃあ、美波には私が食べさせてあげます」
「え!? ど、どうしてそうなるの」
「さっきのお詫びです。機嫌、直してもらえますか?」
「余計恥ずかしいよ……」
 そうですか、と首を傾げる彼女だけれど、部屋についてカップを開けたら、結局スプーンを差し出されるような気がする。
 美城プロのカフェなんかでケーキを食べていたとき、こっちも食べてみる? なんて言ってあげてたのは、確か私の方だったはずなのだけれど。あの時は日替わりケーキのどっちにするか決められないアーニャちゃんと二択まで絞って、私と彼女で頼み分け、どっちも最低一口ずつは食べさせてあげるなんてこともやっていた。
 なんだかそんなことばかり、増えてしまったように思えるのだ。すっかり追い抜かれてしまった背丈のせいなのか、スクランブル交差点の電光掲示板にすら時折現れてくる活躍ぶりのせいなのか、それともよりによって自分から誘った情事の後お腹を鳴らしてアイスなんか買ってもらっているこの状況のせいなのかは判然としないけれど。恐らくそれら全部をひっくるめて、私はずいぶんと彼女に敵わないことが増えてしまった。ほとほと嫌になるほどたくさん持っているままの情けない部分を、ちっとも隠せなくなってしまった。
「美波」
 コンビニ袋を片手に提げ、もう片方の手をアーニャちゃんが差し出してくる。その手に本当は泣きだしそうなくらいほっとしていたって、口にできるようになったのはつい最近のことだ。
 前から手を引いてあげられていた時間は、いつの間にか地続きの過去になっていた。後ろでにこにこ私の手を握っているばかりであったはずの、かわいいかわいい女の子は、私が黙って、あまりにも自分勝手に突き放しても、私の手の温度だけはけっして忘れずにいてくれた。どころか、見えなくなるくらいまで必死に逃げ出したはずの私に全力駆け足で追いついて、そしてとうとう私の顔を正面から見つめてしまったのだ。後ろにいるあいだは見えないでいてくれたはずの、本当はいつだって情けなかった泣き顔を。
 そうして私はついに正面から抱きしめられ、ただしい言葉で何度も何度も愛を囁かれて、きっと、だめになってしまった。
「……アーニャちゃん。ねえ」
「はい?」
「機嫌、直してほしい?」
 ものすごく、だめになってしまったのだ。
 ちゃんと立っていようとして、ちゃんと立っていられなくなって。
 だけどアーニャちゃんが、必死に大人になってくれたアーニャちゃんが、どうぞ、倒れてきて、と笑うから。
「はい、とっても」
「そう」
 だから私、きっとどんどん、あなたに寄りかかって。
 だめに、なってしまったのよ。
「なら、帰ったら、いっぱいキスして」

「……アイス、溶けちゃいますよ?」
「と、溶けないくらいでやめようよ」
「んー……それは、多分無理だと思います。私も、美波も」
「……ばか」

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