あの星の名前を、わたしは知っている。

 ふとよみがえってきた記憶は、隔てた年月からすればすこし驚くほどには鮮明だった。いったい今までどこに隠れていたのか、指先から頭のてっぺんまで急速に駆けあがってきたそれらに、美波はつい深く息を吸いこみたいような気持ちになってしまう。夜の匂いだ。しんと冷たい。そうだ、覚えてる。たしか、まだ美波がとても幼かった頃のことだ。わたしは知っている。春の夜に、お父さんの腕に抱えられながら見た、あの星の名前を。
 父はその頃だって忙しそうだったし、仕事に対して情熱を注いでいるのだろうということを美波だって幼いなりに感じてはいた。けれど父は同じかそれ以上に、家族との時間を作ることも大切にしているようでもあったから。時々見かけるホームドラマや本の中に出てくる典型的な忙しい父親たちのように、誕生日も忘れるほどほったらかしにされる、だなんて扱いを受けたことは、美波はこの十九年の人生の中でついぞない。
 あの日の夜だって、変わらずそうだった。仕事で疲れ切っていたようであった父は、それでも眠れずに部屋から出てきてしまった美波に優しく笑いかけてくれた。「おいで、美波」
 まだ幼かったあの頃のわたしは、お父さんの大きな手に抱き上げてもらうのが大好きで。お母さんに言われて伸ばすようになっていた髪を、額の付け根からうなじのあたりまで、つるんつるんと何度も撫でてもらうのも、ちょっとくすぐったかったけど大好きで。上機嫌なときにワンフレーズだけ歌う、お気に入りの曲を鼻唄でうたいながら、父は美波を抱いて、ベランダのある大きな窓の方へとゆっくり歩いて行った。
「また重くなったなぁ……あ、いや、もう重くなった、なんて言ってはいけないかな」
「え? どうして、パパ?」
「美波はちょっとずつレディーになっているからね。レディーに重いだなんて、失礼になってしまうよ」
「……ふうん?」
 よくわかんない、と言った美波に、まだわからなくてもいいさ、と父は答えた。
 よく晴れた日の真夜中だった。春になりたての外気はまだ少しだけ肌寒かったはずで、けれど大きくて立派なガラス窓と、そしてなにより父の大きな手が、寒さからは守ってくれていた。
 だから私が覚えているのは、あの夜の星が綺麗だったことだけ。
「パパ。パパ、まぶしいね」
「うん? 星のことかい? どれかな、美波が見てるのは」
「あっち。あの、すごくすごーくあかるいの。あおいの」
「青いの……ああ、スピカかな」
 お父さんの教えてくれた星の名前が。
 初めて耳にした、その響きが。
「すぴか?」
「そう。あの星の名前は、スピカというんだよ、美波」
「……スピカ。」
 なんだか、とても、とても、きれいだと思えたことだけ。


「ドーブラエ ウートラ……あー……おはよう。おはよう、ございます。おはよう、ございます……」

 あの星の名前を、わたしは知っている。
 廊下の角を曲がったところで思わず足を止めた美波が、はじめに思ったのはそれだった。どうしてだかは、わからない。ただ女の子を見かけたのだ。少し短めの銀髪に、それこそ雪みたいに真っ白な肌をしている、女の子を。
 ちょうど美波も目的地にしていた扉の前で、その子はなんとなく肩をちいさく縮めて、俯きがちになにか口にしていた。後半は聞き取れる。ここ――プロダクション内ではしょっちゅう耳にするあいさつだ。美波だって、今の立場になるにあたって最初に叩き込まれたのは同じあいさつだった。同じアイドルの子たちとすれ違うとき、現場に入るとき、プロデューサーさんに会ったとき。いつでも大切なのは、まずにっこり笑って「おはようございます」なのだ。そういう各地にあるきまりごとをきちんとクリアして初めて、ひとは場所に属することができる。世の中というのは概ね、そういうふうにできているのだ。
 だけどあの子は、ただあいさつの練習をしている、というのとは、少し違うように思えた。どうしてだかは、やっぱりわからなかったけど。
「おはよう、ございます。ミーニャ ザヴート アーニャ……わたし、私の名前は、アーニャ。……と、いいます。ん、んー」
 少し困ったように眉根を寄せたあとで、その子はどこかひんやりと光る銀髪をかるく揺らして、ふる、と小さく一度首を振った。それからまた、小声で噛みしめるように何度も繰り返す。おはよう。おはようございます。私の名前は。けれどしょっちゅう言葉のどこかに美波の聞き慣れない音が混ざって、そのたび、その子が胸の前あたりで握りしめていた左手に、きゅっと力が入っていく。おはようございます。私の名前は、アーニャといいます。「ヤー スタラーユシ……私は、がんばります。……がんばりましょう?」
 その手に込められた力が、美波のそれよりひと回りほどほっそりした華奢な指先には、なんだか不似合いなほど強い気がして。
「あの」
 だから、思わず声を掛けてしまった。
「っ!」ぴくん、と痩せた肩を跳ねさせたその子が、ぱっと美波のほうを振り向く。あ、と思う。そうか、どうしてだかわかった。はっとするほど長い睫毛をしたまぶたが、ぱちぱちと何度もしばたかれる。
 ああ、そうだ。これだ、と美波はそこでようやく納得した。きっとこれだ。わたしがさっき唐突に、お父さんに教えてもらった星の名前を思い出した理由。
 きっとそれは、この子の瞳が、あの星と同じ色をしていたからだ。夜の藍を一滴だけ混じらせたような、どこまでもしんと深く澄む、青の色。
 この子の瞳は、星の色をしている。
「ごめんなさい、急に声かけちゃって」
 驚かせてしまったことについて美波が謝ると、まばたきを繰り返すばかりであったその子は、不意を打たれたように少し目を見開いて、それからどこか慌てたように首を振った。気にしなくていい、の意思表示だったのかもしれない。
 それから何か言おうとするように、色の薄い唇が動く。けれど、結局美波がもう一度口を開くまで、その子が言葉を発することはなかった。
「もしかしてあなたも、シンデレラプロジェクトのメンバーなのかな?」
「ダー!」
 それは本当に、美波がもう一度口を開くまで、きっかりそこまでのあいだ、だったけれど。
 ぱあっと目を輝かせたその子が、聞き慣れない言葉と共に大きく頷く。スピカの色をした瞳が、初めてまともにこっちをとらえる。きれい、――うん、きれい、だ、すごく。たとえほんの一瞬でも、頭がそれだけでいっぱいになってしまうくらいには。
「あっ……イズヴィニーチェ、あー……」思わず言葉を失っていた美波を見て、すこし不安になったのだろうか。また俯きがちになってしまったその子が、おずおずと言い直す。「はい、そう、そうです。私、このプロジェクトのメンバー、です」
「やっぱり、そうなんだ! 初めまして、新田美波です。私も、このプロジェクトのメンバーなの。よろしくね」
 美波はなるたけそうあるようにと意識して、その子に向かって優しく笑いかけた。なるたけ穏やかに。なるたけ、ほっとできるように。
 プロデューサーはスカウトの際、美波がメンバーの中で一番の年上になる、という話をしてくれていた。きちんとそうできるかはやってみないとわからないけれど、みんなわたしよりも年下の子たちなら、なるべくリードできる、お姉さんのような存在でありたい。特にこのハーフの子は、日本語を話すのもまだ不慣れみたいだし、きっと不安も多いだろうから。
 美波がにっこり笑ってその子に向かって手を差し出したのは半分くらいがそんな背伸びのような気持ちで、もう半分は単純になんとなくひとのめんどうをみたがってしまう、大学の友人たちにも大いに指摘されがちな美波のくせだった。それがいつしか余計なトラブルを招く悪癖になりはしないかと、美波の多少世間離れした家庭環境を知る友人たちは、どうやらいたく心配しているようなのだけれど。
「ニッタ、ミナミ? ……サン?」
 どうやら今回に限っては、心配されるようなことはちっともない気がする。差し出された美波の手をそうっと握って、いくらかほっとしたように繰り返したその子にいっそう目を細めて笑いかけながら、そんなことを考える。うん、ちょっとでもほっとしてくれたのなら、嬉しいな。こんなに綺麗な手をしているのに、ひとりで爪が刺さりそうなくらい握りしめてしまうだなんて、なんだかもったいないもの。きゅ、とていねいに握り返してあげながら、星色の瞳をまっすぐ見つめて言う。「美波、でいいよ」
「……ミナミ。美波?」
「うん」
「オーチン プリヤートナ……よろしく、お願いしますね、美波」
「うん! よろしくね。えっと」
 美波の続く言葉を先に感じ取ったらしい彼女が、あ、と唇を開く。が、それはすぐに閉じられてしまった。
 さっきまでの様子が、ふと思い出される。扉の前で、聞きなれない言葉とたどたどしい日本語を何度も繰り返していたその子の姿。まだお話するの、そんなに慣れていないのかな。
 とても当たり前のことで、だからこそどうしようもなく逃げられないことだけれど、言葉が通じないのは、きっとこわいことだ。きっと、美波が思っている以上に、とても。わたしたちはほかに、人に自分のことをわかってもらう方法をほとんど持たないから。ルールに則った挨拶をして初めて居場所を得るように、名前を呼んで初めて振り向いてもらえるように、わたしたちはそれ以外に、自分を世界に当てはめる方法を持たないから。
 だけどまだ、手は一緒に握ったままだ。
「ゆっくりでいいから」
「……?」
「あのね、ゆっくりでいいから。ちゃんと聞くから、あなたの名前、聞かせてもらえるかな?」
 だけどまだ、わたしは、この子の手を握ったままだった。
 だけどまだ、わたしたちは、一緒に手を握ったままだったのだ。
「……ダー。……はい、」一度力の抜けた、離れてしまいそうだった透き通るほど白い指先に、あたたかな力がぎゅ、とこもる。「はい!」
 とおい春の夜の記憶と同じ色が、きらり、瞬く。
 ちゃんと笑ったところを見たのは、思えば、あの時が初めてだった。そしてわたしはこれから、その時のことを何度も思い出すことになる。あの時のわたしじゃ考えもつかないくらい、ほんとうに、何度も。
「ミーニャ ザヴート アーニャ。私の名前、アーニャといいます。アーニャ、は……ん……ニックネーム、です。全部は、アナスタシア。でも、アーニャと呼んでください」
「わかったわ。アーニャちゃん、ね?」
「ダー! アーニャ、です」
 アナスタシア、はきれい。アーニャ、だとかわいい。星みたいにきれいな瞳をしながら、真っ白な頬にうすい赤を散らしてにこにこ笑うその子には、どっちもよく似合っている。アナスタシア。アーニャちゃん。呼ぶとなんだかくすぐったくなる名前だ。きっと、いい名前。
「よろしくね、アーニャちゃん。……中、入ろっか? みりあちゃんとか莉嘉ちゃん、先に来てるみたいだったから」
「……ミリア? リカ?」
「うん。一緒に、みんなに挨拶しよう? アーニャちゃん」
 その時まで握り合ったままだった手をそうっと持ち上げられたのは、ちょうどそのときだった。
 突然のことにやはりいくらかは驚いてしまって、え、と目を見開くばかりだった美波の手を、アーニャが両手で包み込む。そういえば、背丈、わたしと同じくらいだ。ふと、そんなことが頭に浮かぶ。同じくらいの高さで、だけど絶対的に違う『きれい』を持った瞳が、ふんわりとゆるむ。
「スパシーバ、……ありがとう、ございます、美波」
 ちゃんと笑ったところを見たのは、さっきが初めて。
 そして、笑った顔がとてもかわいい、と思ったのは、このときが初めてだった。


 最初に話しかけたのがよかったのか、それとも美波にはわからないべつの理由があったのかはわからないけれど、アーニャはどうやらずいぶん美波に懐いてくれたみたいだった。
 どうやらとってもいい子みたいだと知ったのはあの一日目の帰り道でのことで、分かれ道の横断歩道に差し掛かった時、青になった信号に背を向けて、美波はアーニャのほうを振り返った。アーニャは美波の行動にずいぶん驚いていたようだったけれど、どうしたの、と声を掛けると、少しためらうように黙ってから、また口を開いてくれた。「ん、と……美波」背中のほうで点滅していた信号が、とうとう赤になる。けれど、美波は黙ったまま、アーニャの言葉をじっと待っていた。「イショーラス スパシーバ……とても、ありがとう、美波」「うん?」
「美波のおかげで、みんなとお話、できました。だから、……ありがとう」
 一緒に部屋に入ってから、みりあや莉嘉に囲まれたとき、智絵理やかな子に笑いかけられたとき、アーニャはいつも少しだけ戸惑ったように、隣の美波のほうを見てきた。そのたび美波がしてあげたのは、それほど大きなことでも難しいことでもない。わずかに光を曇らせてしまったアーニャの瞳を、じっと見つめてあげただけ。まだ会ったばかりの子だけれど、彼女の瞳がとてもきれいであることなら、なんだかずっと昔から知っているような気がしたから。だから、曇らせたりなんかしないで、まっすぐ向けてあげれば、きっと向こうもわたしと同じことを思ってくれるはずだよ、なんて。そんなことを思いながら、笑いかけてあげただけ。
 それを思うと、あんなふうにゆっくり微笑んで言われるようなことなんかは、ちっともしてあげられていないんだけど。美波にとってはどうしてだかわからないことを、どうしてだかわからないくらいうれしく思ってくれたらしいアーニャは、その日からしょっちゅう美波と話をしてくれるようになった。
「日本、来たのは、ヂェーシチ……十歳の時です。だから、聞くはできるけど、話すは、まだ下手です」
「そう? アーニャちゃん、ちゃんとお話しできてると思うけど」
「ん……美波は、ちゃんとわたしの話、聞いてくれます。だから」
 そう言って、やっぱりわからないくらいうれしそうにするアーニャは、くふっと頬のあたりをゆるめて笑った。
 未央やきらり、みくなどもともとプロジェクト内に賑やかな子が多いからそう見えるのかもしれないけれど、多分それを抜きにしても、アーニャはあまり口数の多いほうには思えなかった。どちらかというと、話はするよりもされているほうがずっと多い。というより、この子は、ひとの話を聞くのが上手なのだ。とても素直に耳を傾けてくれるし、少しばかり突拍子もないことでもきちんとまともに受け止めてくれる。受け止めてしまう、といってもいいのかもしれない。みくに促されて(引っ張り込まれて)一緒に「にゃー!」「……にゃー?」なんて両手をグーにしていたり、蘭子と一緒にやや難解な方の日本語を覚えていっているところを見るとちょっと心配になってしまうくらいには、みんな大好き聞き上手のアーニャだ。
 けれど、なんとなく――本当になんとなくなのだが、美波相手には、それが少しだけ、違うように思えて。
「美波。美波、いいですか?」
「うん? いいよ。なあに、アーニャちゃん」
「カフェ、下にあるって、凛たち言ってました。ダヴァイ ヂェーラエム ヴメースチェ……一緒、いいですか?」
「あ、うん! いいよ、行こう行こう。わたしもね、行ってみたいなって思ってたの」
「ウラー! いきましょう、いきましょう」
 早速立ち上がって手を引こうとするアーニャの目は、やっぱりきれいにきらきらしている。話しかけられているのもわたしだし、それについて考えることができるのもわたしだけだから、わたしの勘違い、といわれたなら、そうなのかもしれない。
 けれど、ただアーニャちゃんはいつもどこか懸命に話しかけてきてくれて、わたしが答えると必ず、あのきれいなスピカをきらきら光らせてくれるから。彼女をモデルにするカメラマンさんやスタッフさんがよく口にするように、十五歳とは思えないほど落ち着いた、どこかとおいくらいに神秘的な雰囲気が、一気にふんわりした、やわらかなものに変わるから。それがどういうものなのかは美波にもうまく説明できないのだけれど、しいていうなら、「アナスタシア」が「アーニャちゃん」に変わる。きっとそんなふうなことなのだ、と、美波には思えている。
「……美波」
「ん、どうしたの? アーニャちゃん」
「さっきのは、おかしくなかったですか?」
 そしてやわらかなものはきっとそれと同じだけ、へこみやすいようにできているんだろう。それは必ず同時に在らねばならないものだから、どちらかだけ、なんてわがままは多分通らない。やわらかい顔で笑えるようになったアーニャちゃんは、時々そうやって、わたしの手の指先ちょこっとだけを、そうっとつまむように握ってくるときがあった。「言葉。さっきの、おかしくなかったでしたか?」
 ごくごくかすかに震えるように、きゅ、と握られる指先。アーニャちゃんは、とっても優しい子だから。それは徐々に徐々に一緒にいる時間を積み上げてきた美波が彼女についてもっともよく感じ取ってきた性質のひとつだ。だから、優しいアーニャちゃんはきっとそのぶん、こわいんだろうなとも思う。おかしいことを言いませんでしたか、悪いことを言いませんでしたか。うまく、話せていましたか。しょっちゅうは目で、そして時々はこうして言葉にしてまで、アーニャは美波に懸命に訊ねる。
「ううん。大丈夫だよ、全然おかしいことなんてなかったよ、アーニャちゃん」
「プラーヴダ? ……ほんと、ですか?」
「ほんとだよ。わたし、嘘は言わないよ、アーニャちゃん」
 けれどもそれは、やっぱりそのまま、彼女の心がとてもやわらかくて、きれいなままでいられていることの証明でもあるから。
 だから、ときどきそういう瞬間があるのは、アーニャちゃんにとってもいいことなんじゃないかな、なんて思うことにして、美波はいつも、アーニャの手を握り返してきたのだ。きれいな心の子がもっている、きれいな瞳のことを、きれいだ、と思いながら。
「よかったね、アーニャちゃん」
「……シトー? あ、はい、なんでしょう?」
「ドリンク。卯月ちゃんたちにちゃんと渡せて、よかったね」
 初めてのステージに向けて厳しい練習を重ねる卯月たちをいたく心配していたようだったアーニャに声をかけたときも、そうだった。
 半分は懐いて、頼りにしてくれている子にちゃんとお姉さんとして答えてあげたい、という背伸びの気持ち。もう半分は、美波の中にいつもある、ちょっとしたくせ。自分だって毎日激しいレッスンをこなしているのに、休憩中もずっと考え込んでしまうくらい三人のことを心配しているようだったアーニャに、美波は差し入れを提案した。
 最初はずいぶん、ためらっていたみたいだったのだ。まだ短い付き合いながら少しずつわかってきたことなのだけれど、アーニャにはちょっと、そういうところがある。とても素直でやわらかい心をしている彼女は、いろんなことを、もしかするとほかの誰かよりもずっとたくさん考えることができる。けれど、それをうまく伝える方法を持たないから、最後まで自分の中にそれを閉じ込めてしまうきらいがある。扉の前で立ち止まっていたあの日のあなたも、ひょっとしたら、そうだったんじゃないのかな。
 だけどね、アーニャちゃん、わたしにはちゃんと、お話、してくれたから。
「美波……彼女達、オーバーワーク。大丈夫ですか?」
「本番近いから。みんな、がんばってるんだよ」
「ン……」
「……心配?」
「ダー……はい、とても。応援も、していますが」
「そっか。……じゃあ、差し入れする?」
「さしいれ?」
「うん!」
 半分はわたしの意地っぱり、もう半分はわたしの自分勝手。
 でもわたしは、そんなあなたの手を、引いてあげられたならいいなって。
 そんなことをね、いつも、思っているんだよ。
「アーニャちゃんの心配な気持ちと、応援してるって気持ち。両方伝えられる方法、だと思うよ」

 卯月たちに差し入れを渡すことができた日の帰り道、アーニャはずいぶんはしゃいでいるように見えた。その前日は緊張していたみたいで、時々ため息と一緒にちょっと聞き取れないくらいちいさな声のロシア語でなにごとか呟いていたみたいだったから、余計そう見えたのかもしれないが。
「渡せた! 渡せました、美波!」
「うん、よかったね、アーニャちゃん。三人とも喜んでたよ」
「ダー! 美波、ありがとう、ありがとう、です!」
 にこにこ、きらきらしながら、アーニャは美波の隣を歩いている。ぴったり同じくらいの背丈なのに、なんだか今日はちょっとだけアーニャのほうが大きく見える気がするのは、そのままぴょんっと飛び立ちそうなくらい軽い足取りで彼女が歩いているからなんだろう。こういうところはまさに「アーニャちゃん」だなあ、などと思いながら、時々一歩ほど前に飛び出てしまうアーニャの後ろで、美波はくすっと少し笑った。
 気づいた、いや、きっと気づいてないんだろうけど。うれしそうな顔のまま、何を言うでもなく、アーニャが美波のほうを振り向く。揺れる銀の髪、その下できらきら、光る、「あ、……そういえば、アーニャちゃんは星が好きなんだよね?」
「ズヴェズダ! はい、好きです、星。どうしましたか?」
「ううん、ちょっと」一番星が見えたから、というのを言い訳にするには、もう空に光の粒が散りばめられすぎていた。春の夜はまだまだ早い。街灯からすこし離れたところで立ち止まって、おかしな質問を取り繕えもしないで、肩を竦める。素直に白状するしかないかな、もう。「アーニャちゃん、一番好きな星、とか、あるの?」
「いちばん……ん、ンー……いちばん、ですか」
「うん。あ、ちょっと気になって聞いてみただけなんだけど」
「んんん……ヤ ニ パニマーユ……ちょっとむずかしい、ですね」
「……スピカは?」
 春の夜なら、ちょうど見えるはずだ。
 街の灯りの絶えない明るい空でも、ひしゃくの形は案外容易く見つけられる。あとはそこから、指でなぞっていくだけ。初めて名前を教わったころからもう少しだけ大きくなったとき、本当にお父さんが私に「重くなった」と言わなくなったときに、教えてもらった。私の大好きな星の、見つけ方。
「スピーカ? 美波は、スピーカが好きですか?」
「うーん……うん、そう。……あのね、アーニャちゃんの目」
「め?」
「アーニャちゃんの、瞳の色がね。スピカに似てて、青くてきれいだなーって、思ってたの、ずっと」
 そういえばスピカはおとめ座の星だから、そういう意味でもアーニャちゃんにぴったりだね。そんなことを慌てて言い添えたのは、どう考えても気恥ずかしかったからだ。そのくせ本当に素直なところがかわいいこの子ときたら、め、なんて繰り返しながら、手で自分の目のあたりをたし、たし、なんて押さえてみせたりするものだから。ううん、なんだかみくちゃんの影響なのか、アーニャちゃん、たまに仕草が猫っぽい。かわいいけど。かわいいんだけど。
「……レグルス」
「えっ?」
「シーニー……青い星、リゲル、レグルス、スピーカ。みんな青い、きれいです」
 レグルスは、あそこ。
 肩が思わず跳ねてしまったこと、アーニャは気付いただろうか。スピカを指さしていた手に、アーニャの手が重なる。その手はいつもの彼女と同じ、ひんやりつめたい手だったのに、どうしてだろう。
 いま、すごく、あつい。
「レグルスは、リェーフ……しし座。美波の、星ですね」
「え、……っと」
 アーニャちゃんが、うれしそうにうれしそうに、にっこり、笑う。
 きらきら光る、青。
 ――ちかい。
「私。レグルス、好きです」
 とても、好きです。ほかほかしそうなくらい頬を赤くしたアーニャちゃんが、言う。
 そんなことに、そんな、今までだっていくらでもあったようなことにいちいちどきりとしている自分にも、じゅうぶん驚いたけれど。
 それ以上に驚いたのは、
「美波?」
「あっ、……う、うん! うん、ごめんね。帰ろっか! 遅くなっちゃう、ものね」
 離れた手が、思った以上に、立ち尽くしてしまうほどに、冷えたこと。

 練習室の隅で壁に寄りかかって座り込んだまま、アーニャは寝息を立てていた。
「……疲れちゃったのかな?」
 アーニャちゃん、がんばりやさんだものね。背格好が同じくらいであるせいか、それとも単純にアーニャがよく懐いてくれているからなのか、組んでレッスンをすることの多い美波は、もうアーニャのそんなくせに少しずつ気づき始めていた。素直でまじめな、がんばりやさん。注意されたことは絶対に繰り返さないように、言われたことは全部聞き入れられるように。言葉で伝えるのが得意でないかわりに、それ以外のやりかたで意思を発信することに彼女は全力を注いでいる、ように見える。
 もう少しだけ、寝かせていてあげたいかな。隣の練習室からは、みくと未央たちが騒いでいる声が聞こえてきていた。ここからだとその賑わいも少し遠いのは、かるく防音の利いている部屋だからか。どちらにせよ起こしてしまうようなことにならなくてよかった、そんなことを思いながら、そっとアーニャの前に跪く。寒さにはすごく強いみたいだけど、それでも眠って体温が下がってしまうのは良くない。起こしてしまわないように細心の注意を払って、美波は自分の上着をアーニャの身体にそっとかぶせてやった。
「っと、」アーニャちゃん、痩せてるなぁ。肩が細いせいでするんと落ちてしまったのを、慌てて引っ張り上げる。背丈は確かに同じくらいなのだけれど、わたしと比べるとアーニャちゃんはだいぶスレンダーに見える。ううん、ちゃんとご飯食べてるのかしら、好きだって前に話してたし、今度肉じゃがでも作ってあげようかな、なんて、なんだかお母さんみたいなことを考えてしまう。これはわたしの、いつものくせ。友だちもみんなよく口にする、わたしのよくあるくせ。
「……うん?」
 そのとき、上着を掛けてあげたまままだアーニャの身体から離れていなかった指先に、ふ、と温度を感じる。
 いつまでもそばにいては起こしてしまうから離れようと思っていたのに、どうやらそれはできなくなってしまった。というのも、感じた温度のその場所では、寝ぼけたらしいアーニャが美波の手をしっかり握ってしまっていたのだ。「あー……」
 どうしようかな、とひとり苦笑する。きゅ、きゅ、と確かめるように握られるのはなんだかいじらしくって、かわいらしいけど。
 そういえば言葉が通じているかどうか不安そうに訊ねてくるときの、あの握り方とちょっとだけ似てる。でも大きく違うのは、眠っているせいか遠慮がないこと、だろうか。どうやら引き抜くのは無理そうだし、そうする気も美波の中にはあまりなかった。それに見間違いかもしれないけれど、少しだけ――本当に少しだけ、アーニャちゃんの寝顔が、ふわっとゆるんだように見えた気がしたから。それならわたしはいつもみたいに、この子の手を握っていてあげよう。そう思って、美波は起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら、アーニャの手にもう片方の自分の手を重ねてあげた。眠っているせいかな、アーニャちゃんの手、いつもよりちょっとだけ、あったかいみたいだ。寝顔も、その高めの温度も年相応にかわいらしくて、ついお姉さんの気持ちでくすぐったく微笑んでしまう。
「チョー、ブルィ……」
 ぽつ、とアーニャがなにか口にした。なんと言ったのかはわからない。聞いて覚えたのと、あとは少しだけ自分でも勉強してみたのとで、それこそ日々のあいさつだとか簡単な単語くらいなら、美波もロシア語を解するようになってきた。しかしそこはそれ、世にある言語のうちでも相当習得の難しいロシア語であるから、勉強自体はなかなかに難航している。
 ごめんね、わたしもがんばるからね。あなたががんばっているのと同じくらいに。美波が起こしてしまうかもしれないという危険を冒してまでアーニャの口もとに耳を近づけたのは、せめてちゃんと聞いて、あとで調べてみようと思ったからだ。
「マーマ……んん……ヤー ハチュー……イェースチ……」
 ぽつぽつと、アーニャは何事か呟いている。わかってあげられたらいいのに。わかって、あげたいな。どうしてだかわからないけれど、やっぱりどうしてだかわからないくらい、ふっとその気持ちがみるみるあふれてきた。
 美波はアーニャの口もとへ、どんどん耳を近づける。アーニャは眠り続けている。遠く聞こえる、隣の部屋のジェンガのブロックが崩れ落ちるような音が一瞬聞こえて、――消えて、
「……み」
「っ、え、」

「みなみ」

 アーニャちゃんが。
 ふふ、って。
 笑っ、て。
「……っは、」
 きっとその音はあまりに近すぎて、耳から鼓膜を突き破り、そうしてわたしの心のふかく、ふかくまで、届いてしまった。
 急いでばっと離れてももう遅い。心臓の音がうるさい。息が苦しくなるくらい、内側からどんどん、どんどん、胸の中で膨らんでいく。すごく、すごく、うるさい。どうしよう。聞こえて、起こしてしまったら? ――ばかだ、なにを考えているんだろう。そんなことって、あるわけないのに。「は、」胸を、服の上から握りしめる。そのまま握りつぶしてしまえば、ずいぶん静かになっただろうに。
「あ、れ?」
 それができないから、わたしはずっと、ひとりで、うるさいままだった。
 それができなかったから、わたしはとうとう、握りしめたまま、手を放すことができなくなった。
 手を、放すことは、できなくなっていたのだ。
「……あれ?」
 みなみ。
 やわらかく呟かれたそれは、もうきっと胸の中にしがみついたまま、二度とは剥がれてくれない。どうしてだろう、絶望的なくらいに、そう思える。
 手。わたしたちはまだ、手を握り合ったままでいた。わたしはまだ、手を握ってあげていたまま。アーニャちゃんはまだ、わたしの手を握ったまま。半分は意地っぱり、半分は自分勝手で握った、手を。わたしは。
 けれど気が付いたら、もう、半分もなにもない。ぜんぶ、あなたがかわいくて。「きいて、きいて美波」「美波」「美波!」「みなみ」ただ、かわいくて。もうどうしようもないくらい、知らないうちに降り積もって、そうして溢れ出してしまうくらい、かわいくて、かわいくて、たまらなくて。

「……アーニャちゃん、」

 握って、引いてあげていたはずの手を。
 もう放せないのは、だれ?

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