今日はなるべく、文香の言う通りにしてあげよう――というのが、その日の晩を迎えるにあたり奏がひとつ心に決めたことだった。
 とはいえ普段から聞き分けの悪い態度を取っているつもりはないのだけれど、この場合は余計に気を付けるという戒めに近い。とにかく今日、というか今晩は、特に文香の言動或いは態度へ気を配るようにしようという自戒だ。言葉に出なくとも抱えている思いはとても大きい、なんていうのは、鷺沢文香にはよくあることだから。
 本または本の内容についてなら途端に饒舌になる文香は、そのぶん補って余りあるほど平素は言葉少なだ。そしてこれは奏の予想だけれど、今夜は特にその癖が顕著になるような気がする。案外聡い方だいう自覚はあるけれど、それでもよく気を付けておかなければ。今日はなるべく文香の考えたとおりになるように。思い描いたことを叶えられるように。
 そんなことを改めて思いながら、リビング内のソファに腰掛けたままで、ふいと扉のほうに目をやる。室内を照らす光が、照明の落ちた暗い廊下へ向かってくっきりと光の筋を伸ばしていた。リビングから廊下への出入り口にあたる扉が拳二つ分程度の隙間を残し開いたままだったのは、奏と入れ替わりにリビングを出て行った文香が閉めなかったからである。
 意図的にしたことだとは思えない。そういう計算を元に行動を起こすタイプには見えないから――というのは些か見くびりすぎであるにしても、ソファから部屋の出口に至るまでに積みあがった本の山を三つも崩した人間がしでかすミスとしては妥当に思える。部屋中に整然と積みあがった本の山も、いつもなら勝手知ったるバベルの塔群と言わんばかりにするすると歩いてのけるのが、この部屋の主たる文香であるというのに。
 彼女はきっと焦っていた。バスタオルと着替えを、指先が白っぽくなるほど強く強く、いっそどこか縋るように抱きかかえていた文香は。「ぉ、……お風呂に、行って参ります」掠れた声で特段報告する必要もなさそうなことをぼそっと口にして、まるで逃げるように部屋を出て行った彼女は。きっとひどく、焦っていたのだと思う。
 細く開いたままである扉の隙間からは、シャワーから流れ出る水滴が浴室のタイルを叩いていると思しき音が囀りのように響いていた。しかし、無垢な小鳥の声というには、やや艶めかしさを孕み過ぎているようである。脱衣所へ続く扉と浴室へ向かうすりガラスの引き戸、二つを隔ててくぐもった音は、そのくせどこか痛切に鼓膜を叩く威力をもっているかのように思える。
 草臥れているという程でもないがそれなりの年季は経ているアパートの浴室備え付けの蛇口が、弱々しく捻られ金属質な悲鳴を上げた。シャワーの音が止む。湯船に浸かったころ、だろうか。甘く湿気を纏った、濃い靄にも似た想像を払うように、奏は少し頭を振る。こんな時に何の皮肉かとも思うが、先ほどまで奏も浸かっていた湯は、綿菓子をそのまま溶かしたかのような淡い白桃色だった。それこそ頭の中に広がったものの色みたいに。
 入浴剤が入った湯だったのだ。
「あの、奏さん。これ」
「ん?」
 文香が持ってきた、ものである。
「入れさせていただいても、よろしいでしょうか」
「……入浴剤?」
 両手の親指できちんと挟み頭まで下げた、さながら恋文かなにかのような差し出され方をしたのでいったい何事かと思ったのだが、粉末の入っていた袋のパッケージイラストがやたらとほのぼのしたものだったので、妙に拍子抜けしてしまったことを覚えている。小洒落た雑貨店なんかに置かれているものとは異なる、どちらかというと健康志向の家族なんかに向けられたような雰囲気の入浴剤。というか実際、非常に単純な造形のイラストで描かれていたのは祖父母と孫兄弟が揃って入浴している姿だった。
 誰かに勧められて買った、わけではないのだろうか。文香らしからぬ行いであることには違いない――入浴どころか食事や睡眠といったような生命活動維持における必須活動ですら、とにかく本で頭が一杯なこの困った彼女にとっては、残念ながら興味の対象外である――のだが、大抵彼女がそういう行動を起こすのは、背後に誰かの助言がある。
 例えば同い年でそれなりに親交もあるらしい美波だとか。行動としては納得できる。しかし目の前に差し出されているものについては、あのお育ちのよろしそうなお嬢様が選ぶようなものには、なんだかあまり思えない。パッケージに描かれた点と棒線で構成された簡易的な笑顔を眺めながら、そんなことを考える。はて、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。
 尤もあれこれ考えを巡らせたところで、理由が多少気にかかるというだけで、申し出を断るつもりなど毛頭ないのだが。なにしろ今日は、なるべく文香の言う通りにしてあげよう、という日であるのだし。いや、そもそもだ。
「私は構わないけれど……というより、あなたの部屋のお風呂でしょう、文香」
 私に許可を取るものでもないんじゃないのかしら。少し可笑しくなりながら告げてやると、そんなことも失念していたのか一瞬ぽかんとしたようであった文香が、どこか慌てたように何度も頷いていた。「あ……そう、はい、そう、そうです、よね」彼女がそうするたび長い前髪が僅かに揺れて、軽く熟れた頬が見え隠れする。
「ええと……じゃあ、入れておくわね?」
 放っておけばそのままいつまででも突っ立っていてしまいそうな文香の手から、入浴剤を受け取った。弾かれたように顔を上げた文香が、また何度もぎこちなく頷く。
 文香の部屋に泊まる際の入浴順は、いつも奏が先と決まっていた。部屋にいる場合文香は概ね読書に熱中しているため、何をするにしてもまず奏が動かなければ話が進行しないのだ。話し合いの場を持ったわけでもないし、今でも時折泊まっている身で一番風呂を頂き続けてもよいものかしらという考えが頭を過らないでもないが、その日とて例には漏れなかった。
 だから、湯船に入浴剤を入れておくのは現状奏の役目ということになる。袋の右下のほうに、いかにも手触りの柔和そうな字体で記された『ぽかぽか』がなんだか間抜けでいっそ面白い。
「あの……桃の香り、だそうなので」
「うん?」
「桃の香りは……γ−ウンデカラクトン、俗称ピーチアルデヒドから成るもので……特に女性に対しては、精神的な安定を……リラックス効果をもたらす、と、何かの本で読んだので……」
 ――なるほど。どうやらこれは間違いなく、文香一人で考え、買ってきたものと見ていいみたいだ。そう思うとこの気が抜けるパッケージイラストも妙に可愛らしく思えてくるのだから、我ながら現金だと思う。
 そこまで一度も奏の顔を見ることなく、ふらふらと視線を彷徨わせていた文香の顔を少し覗き込みながら、奏はそっと笑いかける。
「そう、それなら今夜にぴったりかもね。文香にも、ちゃんとリラックスして愉しんでもらいたいし」
 まだぎりぎり淡い色で済んでいた文香の頬が、完熟と言って差し支えない色まで染まってしまう。
 本当はあなたの、あなた自身の放つ匂いが私はとても好きだから、つくられた香りなんかでそれを消してしまうのはあまり気が進まないのだけれど。でも今日はなるべく文香の言う通りにしてあげたいから、桃の香りがするのだというただただ健康にだけ良さそうな『ぽかぽか』入浴剤を、奏は出来る限り丁寧に湯へと注いであげたのだ。
 ねえ文香、今日はなるべく、あなたの言う通りにするから。声でも言葉でも行動でも、若しくは微かな瞳の揺らぎにでもいいから、どんなに小さなものでも拾ってあげられるようにするから。だから、無理だったら教えてね、怖かったら教えてね、少しでも嫌だと思ったら、隠さないで教えてね。きっと、きっとよ、文香。
「いいの?」
「……はい」
「本当に?」
「っ、……はい。はい、……あの」
「ん?」
「その……奏さん、なら。奏さんに、なら」
 あなたになら、なにをされても構いませんから、と、ふるえた笑顔で言ってくれた、あなたのこと。あなたの中にその他たくさんあるのであろう、あったのであろう『初めて』を、いくつも私にくれた、あなたのこと。そしてきっと最後の大きな大きなひとつまでをも、私にくれると決めてしまった、あなたのこと。
 そんなあなたのこと、必ず私に、大事にさせて。きっときっと、大事にさせて、ちょうだいね。
[newpage]

 いいの、という言葉を文香と交わしたのがちょうど先週木曜のことで、そういえばあんなの奏のほうとて初めてであったけれど、あの後奏は文香と二人で予定を決めた。いくつかの重要な条件――その一、翌日に仕事やレッスン、授業が互いに入っていないこと。その二、泊まっても差し支えのない曜日であること、など――を満たした日を二人でよくよく話して割り出し、お互い持ち歩いている手帳に丸印まで入れた。
 奏が手帳に予定を記す際は赤色で仕事、青色で学校、緑色で私事というように法則性を定めるようにしていたけれど、翌週土曜の日付を囲んだ丸印は紫色だった。たった一色だけ紛れ込んだそれを見返すたびに少し可笑しくなったことを奏はよく覚えている。なんだかむず痒い笑いが止まらなかったのだ。
 だってそうでしょう。手帳に『この日私は彼女と会ってセックスをします』なんて書いてあったら、可笑しいに決まっている。
 それでもくすくす笑みを零しては同級生や友人からいいことでもあったのかと訝しがられている間に日は過ぎて、気付けばもう、紫色の日付の夜だ。食事をして少し寛ぎ、入浴と身支度を済ませれば時計の針は二十二時を回ったところ。そこまで綿密なタイムスケジュールを立てた覚えはないのだが、どういうわけか完璧にほど近い時間配分で、余計可笑しくなってしまう。
 脱衣所のほうから聞こえてきていたドライヤーの音が、とうとう止んだ。ひたひたと控えめな足音ののちに、文香が顔を出す。が、そこで彼女は足を止めてしまった。だから、この部屋の主はあなただって言っているのに。まるで入室許可でも求めているかのようにリビングへの入り口際で突っ立ってしまっている文香を見て、少し苦笑してから、傍まで行ってやる。
「行きましょうか」
 手を伸べながら告げると、文香の両肩が面白い程びくりと跳ねた。肘のあたりで寝間着の袖を握っていた文香の手に、強く力が篭ったのがわかる。ブラウスの袖に濃い皺を寄せた方とは逆の手がふらりと伸び、奏の手と重なった。風呂から上がったばかりとは思えない指先の冷え方に、いたいほどの緊張が感じ取れる。取って食いやしないから大丈夫よ、とは残念ながら言ってあげられないのが、少しばかり困った話ではある。
 板張りの床が軋むたびにびくりとし、寝室の扉を開けたときにはとうとう爪でも食い込みそうなくらい強く奏の手を握った文香は、並んでベッドに腰掛けてからも、暫く俯いて黙りこくったままであった。とはいえ、まあ、この反応は概ね予想通りである。ここまでは、予想通りであった。だから、あとは彼女の様子を見ながら、このまま行くかそれとも戻るかをのんびり考えるべきかしら、なんてことを思いながら奏は文香の方に目をやったのだが。
 その時文香が唐突にこちらを向き、しかも先に口を開いたのは、奏としても予想外の出来事だった。
「あの、奏さん」
「文香……どうかした?」
「……これを」
 ついでに言うと、寝間着のポケットから取り出された布――否、リボンだろうか――を顔の前に持ち上げられたのは、もっと予想外であり。
「これを、……これで、目を、塞いで頂けないでしょうか」
「……はい?」
 さらに続いた彼女の言葉について言うなら、予想外などという言葉では大いに足りていなかった。
 我ながら間抜けな声が出たものだが、さすがにそのようなことにかかずらっている場合ではない。塞ぐ。目を。これで。触れてみると想像以上に大変柔らかな生地であったそれをどこかぼんやりした気持ちで矯めつ眇めつしながら、つい先程言われた言葉を馬鹿丁寧に咀嚼する。時間を掛けてそんなことをしている間に冗談であるなら種明かしをして欲しかったのだが、文香の長い前髪の隙間から覗く瞳は、あくまでも真剣な光を放っているのだった。なんということか。
「その……なるべく、肌触りの良いものを、と……美波さんにもご協力頂いて、探したのですが」
「ああ、こっちで噛んでくるのね、美波」
「えっ?」
「いえ、なんでもないわ。……ええと、これで目を塞げばいいの? 私の?」
「は、はい……お嫌、でしょうか……?」
「嫌、というわけではないのだけれど」
 藍色のリボンを手慰みに何度も撫でつけながら奏は軽く苦笑した。実際のところそれは動揺を指先で散らしている行動であったのだけれど、奏の方を見上げて表情を窺うのに一生懸命であるらしい文香は、恐らく露程も気づいていまい。彼女のそのいっぱいいっぱいな様子は、都合が良いのだか良くないのだか。
 まさにこれこそあのお嬢様が選んでくるには相応しいといえる、恐ろしく手触りのいいリボンをしゅるしゅると撫でながら、奏は文香の方を見やる。
「理由は、聞かせてほしいかな」
「理由、ですか」
「だって今目を塞いでしまったら、私、あなたのことが見えなくなっちゃうのよ? それって、とっても残念だもの」
 なるべく軽い口調を取り繕って言ってあげたつもりだったのに、文香の肩は震えてしまった。何かまずいことを言っただろうか。いや、どちらかというとこれは、核心をついてしまったせいか。
「み、見えてしまうから、です」
 そして奏の予想は、どうやら当たっていた。というのも、見える、という言葉を口にした時も、文香の痩せた薄い肩には、はっと息を詰めるような力がこめられていたようであったから。
「ん……どういうこと?」
「……あまり、その……自信を持ってお見せできるようなものでは、ない、ので」
 裸体について自信を持ってお見せできるだなんて表現はさしもの奏も初めて耳にしたので、正直な話危うく吹きだすところだったが、必死に堪えて唇の端をぴくりと強張らせるだけに留める。
 なるほど、文香の言いたいことはだいたいわかった。多くはないが情報はもう十分だ。特に本日の奏にとってはそうである。美波に協力を依頼してまで探してきたらしい肌触りの良い布と、見えてしまうから、自信を持ってお見せできるものではないから、という言葉。文香が望んでいることを、その深さまで含めて推し測ってやるには、それだけでもう十分である。
 いいわ、今日はなるべく、あなたの言う通りにしてあげたいと思っていたから。嫌がっているかどうかがなおも気になっているようで、不安げにこちらを見つめてばかりいる文香に少し笑いかけて、奏は大人しく目を受け取ったリボンで塞ぐ。頭の後ろで端をきゅっと結んで、はい、完了。
 目を閉じた状態で布を当てたので、視界は本当に真っ暗だ。動く影すらもわからない。徐々に澄まされた感覚が、文香の気配の概形だけをぼんやりと伝えてくれる。
「これでいいかしら?」
「は、はい……お手間をおかけして、すみません……」
「いいわ、このくらい。それよりも、文香」
「なんでしょう……?」
「確認するけれど、やめたくなったわけではないのね? 無理も、していない?」
 このくらいの位置、にいるのだろうか。感覚を頼りに顔を向けたが、きちんと目を合わせられているかはわからなかった。もちろんこの状態では目を合わせるもなにもないといえばそうなのだけれど、それとはまた別種の話として。
 だってひとの目を見て話すのが苦手で、前髪で視界を遮る彼女は、それでも瞳が綺麗だといつかの奏が思わず口にしたとき、少しだけ嬉しそうに笑ってくれたから。それがどんなに小さなことでも、叶えてあげられることがあるのなら、ひとつひとつ取りこぼさないようにしていたかった。正しい方法は今でもよくわからないし、きっと確立した最良のものがあるわけでもないのだろうけれど。それでも、目の前の彼女のことを、いつでも上手に慈しんでいたかったのだ。
「無理は、して、いません」
 震えた文香の声が、近付いてきたのがわかる。
 ひとつ失くしてしまった分だけ、他の感覚は恐ろしく鋭敏になっていた。シーツの上を膝が擦るような音と、ふわりと香った安っぽくて甘ったるい桃の匂いと。全身で感じ取る文香の気配が、近付く。
「やめたく、も……ありません」
「そう。よかった」
 しかし、接近してから唇が合わさるまでたっぷり一分強の時間を必要としたのは、仕掛けるのが文香でなければならなかったからである。なにしろ奏は目を塞がれているのだから、大人しくしている以外に方法はないはずだ。
 ――といって、文香からしてもらえる体のいい言い訳が手に入ってしまった、と少しばかり悪どい気持ちになってしまったのは、否めないのだけれど。まあこのくらいの悪戯心は、せっかくの初夜に恋人の身体を見せてもらえない残念な気持ちを慰めるためにということで、ちょっぴり許してほしいものだ。
 最初に自分から触れてくれただけで、十二分に合格点。手探りで肩を抱いて、背中からたどって頭を支えるまで手を這わせて、あとはどうぞ、お任せあれ。重ね合わせるだけの優しい優しいものを、丁寧に何度も繰り返す。「ん、…っ、ん」湿った表面どうしがぶつかりあって、ちゅ、とちいさな音が弾けると、肩を抱いた手の中で文香がぴくりと強張るのがわかった。かわいい。
 最初はそれこそすぐに酸欠になるほど耐えがたい行為のようであったから、ひょっとするとこういったこと自体が苦手なのだろうかと訝しんだこともあった。しかし子どもの戯れにも似たちょんと触れるだけのものを会うたびしてあげていたら、どうやら慣れてくれたらしく、別れ際に初めて文香の方からしないのでしょうか、と言ってもらえるようになったのだ。いやだったらいけないからと思ってぎりぎりのところで踏みとどまってきたが、その時ばかりはもういっそ全力で唇を味わってしまいたい気持ちでいっぱいだった。とはいえ、どうやらそれを口にするだけで精一杯で今にも卒倒しそうに赤くなっている文香を見た瞬間勝手な欲は吹っ飛んで、少しずつ慣らしていくためのステップを冷静に考える羽目になったけれど。
「ん、……文香?」
「ふぁ、っ、…は、はぃ」
「……はい、吸ってー、吐いてー。ゆっくりね」
「ふ、……はぁ……。」
 たとえ目を塞がれていたとしても、彼女が苦しそうなことくらいならすぐにわかるようになったのは、多分なるべく低い段差をたくさん置くようにして、それでも転びそうになる彼女の手を引いてゆっくり上ってきた結果なのだろう。もどかしくて時々悲鳴を上げそうな日々も、そう思えば案外悪くなかった。なんていうのはあまりに現金かしらね、と思いながら、文香の背中をとん、とん、とゆっくり叩いてやる。
 しかして、ようやく呼吸をそこそこ安定させたらしい文香は、すっと奏から身体を放した。「ん、文香?」
「は、はい?」
「……どうかした?」
「え、いえ」
 後から考えれば、この時どうして文香がひどく狼狽えたようであったのか気づけなかったのは、大変な過失であったと言わざるを得ない。
 というのも、先ほどちゃんと自分から唇を寄せてくれたこともそうであるけれど、少なくとも文香は奏の視界を奪ってしまったことに関して若干の負い目を感じているのだ。読書家にして聡明な彼女は、自分が奏に対してどういう行為を求めたのかもわかっているし、それによって発生するいくつかの不都合についてもきちんと予想がついている。というより、つけたのかもしれない。私たちが予定を決めたのは先週木曜日のことだ。考える時間なら、いくらでもあった。だから。
「……ぬ、脱ごうか、と」
 だからきっと彼女は、こういった状況に際して自分が何をしなければならないのかを、とても正確に認識している、のだ。
「ああ、……そう、そうね。お願いするわ」
 しかし言うに事欠いてお願いするわはなかったのではないかと即座に後悔することしきりなのだが、なんだかもうさすがにしようがないということにしてほしい速水奏、十七歳である。
「はい」という蚊の鳴くような返事の後で、弱々しい衣擦れの音がごく微かに聞こえてきた。布をひどく躊躇いがちに握った時、のような。一瞬にして脳裏にありありと広がった光景に、頭の理性的な部分が警鐘を鳴らす。耳を澄ましてはならない。視界がないときに耳を澄ますのは、本能に近い行為だ。状況を鑑みるに、そういう野性を呼び覚ますような行為は、全くお勧めできない。
 ぷつ、と、爪の先とプラスチックの釦がぶつかったような音が、また、耳をくすぐる。
 耳を澄ましてはならない、なんて。
 無茶を、言わないでちょうだい。
 ブラウスの前の合わせの部分を、文香の指先がこわごわ滑る音がする。普段は目ばかり使っているかのように錯覚しがちであるからつい忘れてしまうけれど、聴覚は五感の中でも非常に強烈で、そして想像以上に使い勝手のいいものだ。ある程度訓練を受けた人間なら、手を打って反響させることによって目で見ずとも部屋の概形を掴むことくらいなら可能になるらしい。
 もちろんのこと奏は、さすがにそのような訓練を受けたことはないけれど。目を塞がれ勝手に追い詰められたと誤認でもしたらしい全身の感覚が、一気に研ぎ澄まされているのだ。目の前、多分に少し身を寄せれば触れ合うほどの距離にいるはずの人間がなにをしているかなら、わかる。わかって、しまう。
 ぷつ、ぷつりと釦の外されていく音はリズムも休符の長さも滅茶苦茶で、表情の見えない彼女の躊躇いが、そこにはぞくりとするほどよく表れていた。小さめの釦、襟元をひとつ飛ばして一番下まで、きっちり六つ分。音を数え終えた頃には、呼吸がひどく苦しかった。いつ止めたのかは思い出せない。細心の注意を払って恐る恐る吐き出すと、喉の奥が火で炙りでもしたかのようにひりひりした。
 次だ。裾がきゅ、きゅ、と何度か握り絞められたような、布の潰れる音がする。タンクトップ。先ほどのブラウスと違って一気に抜き取らなければならないから、勇気を出す時間がきっと文香には必要だった。「……ん、」深呼吸をしたような、微かに息を詰める声が聞こえたのは、多分にそのせい。薄い背中をしゅる、と固めの布が撫で上げていく音。巻き込まれたらしいセミロングの髪が、静電気かなにかでぱちぱちいっている。この部屋は静かだ。静かすぎる。だから、一瞬舞い上がった髪がまた元に戻っていくごくごく微かな音だって、聞こえてしまうのだ。
 それからシーツと膝が擦れる音がまた聞こえて、距離が少しだけ遠くなった。同じく音も遠くなったけれど、今度は予想が状況把握を手助けしてしまう。ブラウスと、タンクトップまで取って、次。緩いゴムがくっと引っ張られて、さっきより少しだけ長く、布が皮膚の上を滑っていくような音が聞こえる。寝間着のズボンが、取り払われた。多分。
 声の沈黙だけはひたすら守ったまま、ベッドの上に彼女が戻ってくる。然程上等な作りをしているわけでもないが、スプリングはきちんと軋んだ。ただその揺れ方は現在身体の奥がひどい収縮を繰り返している奏にとってやたらと緩やか過ぎるもので、それがよけいに邪悪でもある。空気を孕んだぱたぱたいう音は、きっと服を畳んでいる音だ。目隠しをされて、恐らく目の前では下着姿の彼女が服を畳んでいて、なんだろう、この不思議な状況は。――なんてからかいめいた思考にしてしまおうとしても、大いに無駄な足掻きである。
 言う通りにしてあげよう、と思ったのだ。やめたいといわれたのならいつでもやめてあげようと決めていたし、彼女が嫌だというのなら二度としないようこの場で誓ってもいいとさえ思っていた。どんなことでもいい。それが自分にしてあげられることなら、ひとつずつ取りこぼさないように、全部、大事に、してあげたかった。
 だって、あなたが、初めてです、なんて言うから。
 まさか、自分が人からそういうふうに思われることがあるだなんて、考えもしなかった、なんて言うから。
 まさか、自分が人をそういうふうに想うときがくるだなんて、もっと考えもしなかった、なんて言うから。
 全部、奏さんが初めてです、なんて言うから。
 ――あなたが、私の初恋なんです、なんて、言うから。
「脱ぎ、ました、奏さん」
「……ええ。じゃあ、まずは抱きしめさせてもらえる?」
「あっ、は、はい」
「ん。……文香、少し体温が高い?」
「そう……かも、しれません」
「緊張してる?」
「はい……はい、あの、とても」
「そう。私もよ」
「え?」
「私も緊張してるわよ。……なに、意外そうな声出さないでちょうだい」
「す、すみません」
 だから、怖い思いや、嫌な思いを、なるべくすることのないように。
 あなたの一度きりしかない大事な大事なたくさんの初めてが、正しくて優しいものになるように。
「ただ、その……すみません、本当に……意外で」
「どうして?」
 そう、思っていたんだけれど。
「私、など……み、見て愉しいものでも、ありませんし……その、触れて愉しいもの、というわけでも、ありません、ので」
「……文香。」
 思っていたんだけれど、ねえ。
 どうしたもの、かしら。
「はい? あ、……か、奏さん」
「使い古された台詞の陳腐さって、使い古される程度には名台詞であったことの証明でもあると思うから、私は案外好きなのよね」
「……は、はい?」
 多少乱暴に横たえられて、恐らくは目を白黒させているであろう彼女に覆いかぶさる。手を着く場所を探ろうと、抱いていた剥き出しの背中から肩まで撫でるように這わせると、微弱な電流に痺れるように彼女の身体が強張った。
 そうね、大事に大事に、してあげたいって、思っているのよ。
 だから本当は今すぐにでもこんな目隠し取り払ってあなたのことをしっかり目に焼き付けてしまいたいのを堪えて、私はこうしているのだけれど。
「だから、黴臭さなんて気にしないで言わせてもらうわ」
「奏さ、……ん、っ」
 大事に大事に、してあげたいって思っているけれど。
 でもよく覚えておいて、というかそろそろわかってちょうだい、文香。
「そんなこと言う口は、塞いでしまうわよ?」
 覚えておいて。
 大事に大事にしてあげたいっていうのは、ね。
 大事にできそうにないときがあるくらい、あなたのことが、好きだからなのよ。
「ふ、ッん…ぁ、か、かなでさ、んんっ」
 見て触れて愉しんでどころか、許されるならもうほかになにも考えられなくなるくらい滅茶苦茶にしてしまいたいって、そんなことは、口が裂けても言えないけれど。
 でも、ひどい我が儘だろうか、言えないけれど、わかってほしい。生来の性格だとかとにかくそういう子だからとかいろいろ事情はあるのかもしれない。でも理解できても納得できないくらい、こっちの中にある想いは大きくて深くて熱くて、そしてとても扱いづらい。
 本当は、毎日必死だ。いつだって必死だった。涼しい顔をして泳ぐには、水の中で目も当てられないバタ足を繰り返すしかないのだ。本当は、嫌になるくらい、毎日必死。絶対に素直なイコールでは繋がらない、『大事』とか『好き』とか『愛したい』とか『きらわれたくない』とかそのほかたくさんを秤にかけて、いつも彼女にとって優しい方ばかりが傾くように、いくつも笑顔の錘をのせてきたつもりだけれど。触れるだけのキスでいいって、何度だって言い聞かせてきたけれど。
「んっ、く、ぅんっ…! ぁ、は…」
 ああ、もう、わかって、わかって、ごめんなさい。
 天秤の皿がいい加減、壊れそうなの!
「奏、さ…ぁ、んむ、…っん」そうして零れたものをとにかく受け取ってほしくて、たくさん彼女に口づけた。目を塞がれているせいで舌先には余計に神経が集中したようで、少しでも反応のいいところがあったらほとんど脊髄反射的にそこをひたすら攻めて、舐って、擽った。まとわりつく滑りを絡め取って飲み込んで、覆い被さった身体が剥き出しの肌に触れ合うのにぞくぞくして、もっと、――もっと、「文香、」
 頭を撫でてあげたいと思って手を動かしたら偶然シーツを握りしめていた彼女の手に当たって、そうしたら痛いほどぎゅっと握られたので、同じように握り返してあげた。縋るような行為が可愛い。好きだ。もっと愛して、しまいたい。
「文香」
「……ふぁ……、はぅ」
 その時、だった。
 爪が食い込みそうなほど強く握り合わせていた文香の手から、ぱたん、と力が抜けたのは。
「……えっ?」
 へんじがない。
「文香? え、ちょっ……文香? ……文香!」
[newpage]

 非常にという言葉ではかなり足りていないほど朝に弱い文香が、目を醒ましたのち状況を理解するまでにはたいへんな時間を要し、それは残念ながら一人でひたすら朝を待つことになってしまった奏を完全に疲弊させるには十分すぎた。いわゆるひとつの止めである。泣きっ面に蜂である。
 確かに悪いのは調子に乗って彼女のことを気遣うのを忘れた自分であるし、慌てて目隠しを取り顔色と呼吸を確認したら健康的にすやすや寝ているだけであったので、こうして無事に朝を迎えられよかったといえばよかったのかもしれないけれど。しかし剥き出しの体温ばかりをひたすら背中に感じながら窓の外が明るくなっていくのを見つめていた身としては、よかった、の一言で片づけられてはさすがにたまったものではない。
「す、すみませんでした、奏さん」
「いえ、いいのよ、本当に。あまり気にしないで、文香」
 とはいえ、文香のことを責める気は毛頭なかった。前述のとおり、悪いのは私の方だ。焦りすぎである。そう、彼女はとにかくもっと、ゆっくり階段を上らせてあげなくてはならないのだ。低い段差から、ひとつずつ。でないと、みんなみんな『初めて』ばかりで慣れていない彼女は、昨日の夜みたいに転んでしまうから――。
「本当に、すみません、奏さん。あの、私、ええと……奏さんに、あんな、その、たくさん、キスをして、もらえて……その、し、幸せ、というか」
「……ん?」
 なにか話がおかしい、とその時になって気づいたのは、きっとあまりにも遅すぎだったのだ。
 本当に、遅すぎ。彼女のことをわかってあげなくちゃ、なんて、ことここに至っては笑い話になってしまう。
 だって。
「き、気持ちいい、というか……あのっ、ふわっと……ふ、ふわぁっ、と、なって、しまって」
「……文香」
 すみませんでした奏さん、と、謝る、彼女が。
 ほんとうは私なんかの思っていたよりずっと、ずうっと、それこそくらくらして意識も飛びそうなほどの気持ちを、こっちに向けてくれていたことに、今更気づいてしまうだなんて。
 水面下で必死にみっともなくもがいて、上辺を必死に取り繕っても、醜い家鴨の子は醜いままであったりする。上手に愛する方法なんて、自分には一生わからないのではないだろうか。
「……チャンスをもらえる?」
「えっ?」
「もう一回、私にチャンスをくれるかしら、文香」
 はっと顔を上げたのち一瞬動きを止め、そしてじわりじわりと真っ赤になりながら小さく何度も頷いた文香のことを、抱き寄せる。計画を立て直そう。紫色のペンを持って。
 上手な方法は一生わからない気がする。それでも大事にはしていたい。必死に泳ぐ。必死に笑う。必死に取り繕う。あなたが好き、ほんとうに、好き。
「あと、ごめんなさい。ひとつだけお願い」
「はい、なんでしょう……?」

「目隠しは、ちょっと勘弁して。」

 だけどもしみっともないところを少しだけ見せてしまっても、お願いどうか、きらわないで、ね。

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