「美優ちゃん、みーゆーちゃん! ……あーあー、だめねこれは」
瑞樹さんがそう言って優しく肩を揺らしてくれたのに反応のひとつもできなかった私が言うべきことではないのかもしれないが、あのときの私が正常な機能をすべて放棄していたのかといえば、意外とそうでもなかった。
「くてんくてんですねえ美優さん、あっはっはっはっは!」
「ぐでんぐでんの友紀ちゃんが指さして笑えるものでもないと思うけれど」
「えー? あたしはぜーんぜん酔ってないでーすーよっ。あれぇ? 瑞樹さーん、髪形変えましたぁ?」
「友紀さん私瑞樹さんじゃありません、美波です、新田美波です……っひゃん!? あ、ちょっ、つ、捕まるのは構いませんから位置を! んぅ、腕の位置を考えてくださいっ、友紀さんてば!」
「いやー、美波ちゃんのソレってほんとある意味では才能よねー……で、楓ちゃん?」
「はぁーい。なんでしょうか、瑞樹さぁん」
「……ほんとに任せていいの? 美優ちゃんのこと」
「ええ、もう。どんとこーい、ドンタコス、です」
「……うーん、その駄洒落の適当具合から考えるにあまり大丈夫でない気がするのだけど」
たとえば瑞樹さんがとうとう楓さんの極寒ギャグにめげるどころか上手に利用して正気具合をはかり始めているあたり、このお二人は本当に仲が良いのだなあ、とか。
友紀ちゃんはもともと元気なのにアルコールが回ると余計元気になるだなんてひょっとすると普段はあれでも抑え気味なのかなとか、美波ちゃんはどうしてそんないけないところで神様からの才能を頂いてしまったのかしらとか、楓さん、今きたタクシーはわたくしーが乗るものですってそれ扉開けて一番に聞かされる運転手さんがむしろかわいそうだと思うのですが、とかとか。返事ができないからといって意識がまったくなかったのかというと案外そうでもなく、たとえば視覚や聴覚あたりの機能ならそこそこ正常に働いているとうのがしばしばある。泥酔している人間というのが等しくそうであるかはわからないけれど、少なくとも私の酔い方に関していえばそうだった。
酔い方、そう、ひどく酔っていた。その夜の私だ。瑞樹さんに楓さん、友紀ちゃん、それからお酒が飲めないのに毎度付き合わされている美波ちゃんという最近どこか馴染み深くなってきたメンバーで、瑞樹さんお勧めの『女子会若返りコース』なるものが存在する居酒屋さんに足を運んだのだ。
そういえばいつのまにこの四人との会合が馴染み深くなってしまったのか、改めて考えてみると正しい理由はあまり見当たらない。無類のお酒好きである楓さんが瑞樹さんとしょっちゅうお酒を飲みに行っていることは知っていた。いや、というか、早苗さんに礼子さんに志乃さんにと、楓さんとよくお酒を飲みに行く人なら、ほかにもけっこうたくさんいるのだけれど。(その全員と「よく」飲みに行っていると評される楓さんは総計していったいどれほどお酒を飲みに出かけているのか、今となっては謎を通り越して神秘だ。)
だから最初は、楓さんと瑞樹さんの二人組から始まったのだろう。それに続いて、ある日樽生ビール大放出祭りなるものに今夜これから行くのだけれどどうか、という誘いに二つ返事で乗っかったのが、元気いっぱい野球大好きビールも大好きな友紀ちゃんだ。これは本人が、やっぱりその時も唇のてっぺんに真っ白な泡をくっつけながら話して聞かせてくれた。
体育会系として先輩を立てていた名残りなのか、元気な方とはお世辞にも言い難い私とだって友紀ちゃんは分け隔てなく接してくれる。それに、多少申し訳ない言い方になってしまうのだけれど、友紀ちゃんのように大好きなものがひとつあって、それについてとにかく熱っぽく話し続けてくれる子は、なにか話さなければならないという強迫がなくて非常に付き合いやすい。私は残念ながら面白い話がいくつも思いつくタイプではちっともなく、どころか延々と聞き役に回っているのを好んでしまう怠け者なところがあり、友紀ちゃんはそれを無意識のうちに許容してくれるありがたい子だった。野球はしたことも見たこともほとんどなかったし、彼女がひたむきに愛情を注ぐキャッツのことだって私は名前すら聞いたことがなかったのだけれど、今となっては友紀ちゃんの口にする「げっつー」というのがとにかく間が悪くてひとを落ち込ませることなのだな、ということならなんとなくわかるし、マスコットであるらしい「ねこっぴー」のストラップなら鈴のついたものがポーチについている。
それで、酒豪の三人が揃ったところで次に白羽の矢が立ったのが、その時点でアルコール摂取を法律に許されていなかったはずの美波ちゃんだった。彼女が楓さんと瑞樹さんにいたく可愛がられている後輩であることは一応私も知っていた。なにしろ美波ちゃん本人の口からその二人の名前をよく聞いていたから。友紀ちゃんとはまた違ったベクトルで礼儀正しい彼女は、思うに一緒にいる誰かと性質を合わせるのが驚くほど上手い。友だちを作るのが上手な子なのだろうなというのは第一印象の柔らかさからどことなく感じてはいたけれど、卯月ちゃんたちやアーニャちゃんのように年若い子とやや無邪気にはしゃいだかと思えば、時々二言三言言葉を交わす程度である私の横でも自然な笑顔を浮かべ続けていた美波ちゃんには素直に感心してしまった。
きっとそういう底抜けに「善い子」なところを楓さんも瑞樹さんもかわいがりつつ気にかけていた末の行動、なのだとは思うけれどしかし誘っている場が場だ。それに、お仕事関連でそのお二人にはとてもお世話になっていましたから、とやや苦笑気味にその時のことを美波ちゃんは語ってくれたけれど、にしたってひたすら烏龍茶一択だったはずの最年少である彼女が最終的に酔い潰れかけた全員を家に送り返すところまで受け持ったというのは、なかなかに奇妙というか、大人というものの定義について今一度問い直したくなる話ではある。それでもアイドルとしても人生という意味でも先輩の皆さんからお話が伺えるのは良い機会です、となんのてらいもなく答えてみせる美波ちゃんはやっぱりひたすらにいい子で、ただ後者に関しては教訓しか手に入らなかったのではないだろうかというのが私なりの予想だ。
まあ――ともあれ、楓さんに瑞樹さんに友紀ちゃん、そして美波ちゃん、と確かにここまでは一応納得のいく揃いかたをした四人がいて。
その中に最後、ぽんと放り込まれたのが、どういうわけか私だった。
「……飲み会、ですか?」
「はい、飲み会です」
仕事を終え、事務所から出て行こうとするまさに一歩手前で声を掛けられたので、随分テンポの悪い受け答えをしてしまったことをよく覚えている。いや、もとからそれほどテンポのよいやり取りができるほうではないのだけれど、あのときはちょうどこれから帰るところで、意識のうえでのスイッチみたいなものがオフに切り替わりかけていたところだったから、私の頭の処理能力はよけいに低かったのだ。
そんな私の言葉を軽やかになぞって、声を掛けてきた楓さんはにこにこ笑っていた。左右で微妙に色の違う不思議な瞳は、そのときはくすぐったそうに緩められたまぶたに隠れていて。だからその時の私はあ、泣き黒子だ、なんて奇妙なほど間抜けなことばかりを考えていた。
彼女のことを知らなかったわけではない。というより、このプロダクションに所属していて彼女の名前を知らない人なんて、そうはいないのではないだろうか。なにしろ街を歩いている際広告塔を見上げる余裕のある人間なら、まず顔くらいなら知っているであろうとされる大きな星を背負った人だ。街のCDショップに行けば『高垣楓』の名前と共に大きく印刷された写真と店員さんの気合の入ったポップが飾られた棚が目に飛び込むし、ライブをやるとなれば彼女がセンターになる曲がほとんど必ずと言っていいほどセットリストの一番とラストを飾る。高垣楓とはそういう人で、そういうアイドルだった。
だから、自信満々な顔でとんっと胸を叩いてみせる彼女のことを知らなかったわけではない、のだけれど。
「その……私、ですか?」
「はい、美優さんをお誘いしました。お酒は、お嫌いですか?」
「……好きでも嫌いでもない、というか」
「あまり飲まれたことがない?」
「そうですね……」
「では、これを機に好きになってみるというのはいかがでしょう」
「……なれるでしょうか」
「お任せあれ!」
私とて彼女に遠く及ばないとはいっても、同じプロダクション所属のアイドルなのだから、二言三言の会話くらいなら交わしたことだってあるけれど。しかしそれを関わりと躊躇なく呼べるほど大きい心臓は持ち合わせていなかったし、端的に言って高垣楓さんの私的な場に御呼ばれする理由など欠片も思いつかない、というのがその時の私が抱いていた素直な感想だった。おかげではあ、かはい、かもはっきり聞き分けられないような気の抜けた返事しかできなかったと記憶しているのだけれど、それでもその三十分後にはいわく楓さんの「とっておきのお店」にて乾杯の音頭に合わせグラスをのっそり差し出していたので、実に不思議なことだと思う。
不思議といえば、一応初参加ということになる(もっともそのときはこれが続いていく集まりだなんて予想もしていなかったけれど)そのお酒の席において瑞樹さんと交わした会話も、そういえば不思議だった。
「美優ちゃん、楽しんでる?」
「瑞樹さん……はい、あの、楽しませて頂いています」
「そう? ならよかった。楓ちゃんのことだからどうせ直前にいきなり声かけてびっくりさせたんでしょうけど、リラックスしちゃってね。友紀ちゃんや美波ちゃんとは、もともと仲がいいんでしょ?」
「えっ? ええ、まあ……二人ともいい子なので、よくお話させてもらっていますが……そうですね、こういう仕事をしているくせに、恥ずかしながら人見知りをしてしまうので、見慣れた子がいてくれるのは正直にありがたいです」
「うんうん。……なら、ここまでは楓ちゃんの作戦勝ちってとこかしら」
「……作戦勝ち?」
「いえ、気にしないでちょうだい」
あれは、今考えてみてもどういうことだったのかわからない。ビールの大好きな友紀ちゃんと、楓さんや瑞樹さんともともと先輩後輩として仲の良かった美波ちゃんがあの場にいたことに、いったいどんな意味があったというのだろう。
飲み会は楽しかった。前述のとおり友紀ちゃん美波ちゃんとの交流はその前からあったけれど、基本的には仕事前後の空き時間でしか話をしたことがなかったので、ああいう私的な場での二人を見るのは初めてだった。アルコールは友紀ちゃんの元気っぷりをさらに際立たせ、そこだけ真夏日みたいな笑顔を眺めているのは純粋に元気を分けてもらえる気がした。美波ちゃんはこんなところでもきちんと気の回る子で、ぼうっとしがちな私に何か飲みたいものはありますか、とか美優さんと飲みに来られてうれしいです、私は飲めませんけど、とか逐一声を掛けてくれた。姉心とか御大層なものではないけれど、いい子たちだなぁとついしみじみとした気持ちになってしまったことはよく覚えている。
瑞樹さんも、思った以上に気さくで心やすい人でほっとした(別に付き合いづらそうだと思っていたわけではないけれど、他人と向き合うに際して一段階目を勝手にばか高く置くのは、私の悪くて治らない癖の一つなのだ)。友紀ちゃんと一緒になって場の盛り上げ役を買って出たかと思えば、店員さんとあれこれ話してメニューにはない美味しい料理を運ばせてくる。場において多くの顔を発揮できる人は、能力の高い人だ。「瑞樹ちゃんはとにかくスペックはパーフェクトなのよ。そう、スペックはね」とやけに重々しく繰り返していた早苗さんのことが、ふと思い出される。
それから。
「美優さん、美優さん。さっきのお酒は、いかがでしたか」
「あっ、はい。口当たりが良くて、ほんのり甘くて……こんなにのみやすいお酒は、初めてです」
「ふふふっ、なによりです! この銘柄は女性の方にも人気が高いんですよ。んん……そうですね、美優さんはフルーティな方がお好みですか?」
「ええと……どう、なんでしょう。すみません、まだ自分の好みさえよくわからなくて」
「いえいえ、謝らないでください。それじゃあ、ちょっと果実酒にもチャレンジしてみましょうか。……すみませーん、注文お願いしまーす!」
楓さんはというと、お任せあれの言葉どおり、私が好きになれそうなお酒をあれこれ探してくれているようであった。
その日に連れて行かれたのは驚くほどお酒の種類が多いお店で、そういえば思い出すだにあの夜ほど様々なお酒の名前が連なったメニュー表を見たことはそれ以降でもついぞない。ちなみにその時までは興味も知識も皆無であった私は様々に並ぶ日本酒や焼酎の名前がわからないどころか、そもそも正しい読み仮名が振れないといった有様であった。
だというのに楓さんが勧めてくるお酒は本当にどれもおいしくて、ゆうに数か月ぶりくらいに、身体がしんからぽかぽかしてくるような、いわゆる酔ったような気分を思い出してしまったのが、その夜の私である。職業柄付き合いで飲み会に連れて行かれることはそれなりにあったけれど、そんな場で口にする飲み物はひたすら薄く喉を焼くばかりで、そもそも愉しむものだという印象がなかった。
それを、あの一晩で好きになることができたかどうか、と言われれば、――それはよくわからない。
「ふふふ、私も同じのを頼んじゃいました。……それでは美優さん、はい」
「……はい?」こっちに向かってす、と差し出された盃を見て、ようやく何を求められているのかを悟り、慌てて自分も同じ乳白色のとろりとした液体が揺蕩う盃を持ち上げる。「あ、えっと、……はい」
急いたせいでとぷんと揺れた水面にまた狼狽えて、片手持ちから妙に腰の引けた両手持ちに変える。恐ろしくテンポの悪かったであろう私を見つめて、楓さんはくすくす笑っていた。嫌味な笑いではなかった。どうしてだか、素直にそう思えた。不思議に色の異なる瞳は、お酒を飲んでいるせいなのか灯す光が艶を増していて、青と緑の違いがいつもより少しだけ顕著になっている。
「かんぱーい!」
「かん、ぱーい?」
「かちーん」
「……そこまで口で言う必要があるのでしょうか?」
「うふふ」
仄かなほろ苦さを底に揺蕩わせながら、よくよく濾されたような濃い桃の味が喉の奥をとろりと滑っていく。
お酒を好きになれたかどうかについては、よく、わからなかったけれど。――ただ、愉しむことのできるものである、という印象は、こわごわぶつけた盃の向こうで浮かべられていたゆるくてまろやかな笑みが、教えてくれたような気もする。
そうして五人での飲み会を仕事柄予定の合わない中でもどうにか定期的に繰り返してから数か月、恐らくなのだけれど、楓さんはとうとう私の好みの真ん中をすたんと射抜いてしまった、ということになるのだろう。
瑞樹さんお勧めのコースがあるお店と聞いていたのでてっきり瑞樹さん御用達なのかと思っていたのだけれど、その後の会話のやりとりから察するに、どうやらそこは楓さんと瑞樹さんの二人で見つけたお店らしかった。駅からは多少遠く繁華街の大通りからも二本外れたところにある、打放しコンクリートの外装が特徴的な、創作料理と和酒のお店。
けれど正直な話、それ以上でもそれ以下でもないと思っていたのだ。いつものように、瑞樹さんか楓さんのどちらかもしくは両方が気に入っているお店に、友紀ちゃんと美波ちゃんとついでに私を招待してくださった。あまり賑やかにはできない退屈な人間ではあるけれど、幸いと今回も声を掛けて頂けたのでありがたいことだな、と思いつつ友紀ちゃんにどうにか笑い返し、お酒の飲めるようになった美波ちゃんと緩やかに言葉を交わし、それから瑞樹さんと楓さんのあとをくっついて出かけていく、なんとなしに繰り返されていく日々とはほんの少し違う夜。きっとそういうものだと思っていたのだ。
まさかそこにまったくべつの目的が存在していただなんて、知る由もなく。
「どうしても美優さんに飲んでみてほしいお酒がありましてですね」
「はあ」
そういえば、席に着くなり変装用の縁が大きな伊達眼鏡を取りながら、楓さんはそんなことを言っていたような気もする。しかしあれがゆうに数か月にわたった研究成果の発表をこれからしますという、半ば宣戦布告のようなものだったといったいどの私だったら思い当たることができただろうか。
なにしろ私自身最初期に楓さんから言われた好きなお酒探しについてだなんてすっかり忘れていたというのに、私などよりよほど多くの人とお酒の席に出かけているはずの楓さんがまさかそれを記憶に留めているだなんて予想できるわけもない。精々、リアクションならどちらかというと友紀ちゃんのほうが見ていて楽しいだろうしお酒一年生の美波ちゃんに教えてあげるのでもよかっただろうに、向かい側に座ってしまったのが私だったばかりにたいして面白くも初々しくもない反応しか見られないであろう私にとっておきを教えねばならなくなったのが楓さんにとっての運の尽きなのだろうか、などとぼんやり思うのが関の山だった。(ついでに言うとこの五人で飲みに行くとなれば毎度のように向かいの席だったことも、この時は気付いていやしなかった。ええと、そうでしたっけ、そういえば。)
ともあれ、「それでもよろしいですか」なんて大人の女性向けファッション誌をばんばん飾っているのが嘘のような無邪気な瞳で訊ねられて、首肯しない術はあいにく持ち合わせていなかった。気が付けば卓の上には瑞樹さんと友紀ちゃんのビールジョッキが二つ、美波ちゃんのカクテルグラスが一つに私と楓さんの徳利と御猪口が二つずつ並べられていて、いつも音頭を取ってくれる瑞樹さんが「じゃ、とりあえずね」と乾杯の準備を促していた。
「美優さん、美優さん」
楓さんから徳利をこちらに向けられて、慌てて御猪口を差し出す。年功序列というほど歳が離れているわけでもなし、なにより界隈での大先輩はどう考えても楓さんのほうだ。こういうところでのフットワークセンスみたいなものが、私にはとかく足りていない。とくとくと注がれていく半透明の液体を眺めながらも私は勝手に反省しきりで、――そうであったので、すっかり虚を突かれた。
「……ふふ」
彼女の手から徳利を受け取り、同じく注ぎ返そうと顔を上げた瞬間にぱちん、と自然に向けられた、『高垣楓』のほほえみに、なんの準備もない私は面白いほど見事に、やられてしまった。
こうして飲みに連れ回されたり、口からぽんぽん飛び出てくる無数のどうしようもない洒落の数々を聞いていると、時々忘れそうになるのだけれど。こういうとき、ありありと思い知らされる。このひとは。喉の奥がきゅううと詰まる感覚がして、思わずまばたきを忘れる。このひとは、ほんとうに、ほんとうに。二色の瞳がやや薄暗い間接照明を受けてしんと光っているのや、うすい唇がつやつやしているのが驚くほど目を焼く。
楓さんは、ほんとうに。
ほんとうに、きれいなひと、だった。
「美優ちゃん? ……どうかした?」
「へ、……っあ、は、はい、すみません」
どきっとして、どきどきしていたことに、うっかり気づいてしまう。瑞樹さんから声を掛けられ我に返らなければ、私はいったいどれほどの間ぼうっとしていたのだろう。
有り体に言って答えの出そうにない疑問を抱えながらした酌は相手が相手なら叱られそうな雑さであり、笑って許してくれた楓さんは多分に優しかった。それなのに零してしまった分を拭こうと布巾で撫ぜた、しんみりと冷たい皮膚の表面だとかぎくりとするほど細くうつくしい手首のあたりだとかが妙に気になってしまったのは、全く以てよくないことだったと思う。どきん、どきんと胸の奥あたりにへばりついてしまったおかしなのぼせを一人でひっそりとしたため息で逃がして、すみませんと取り繕う。
「いい? いいわね? それじゃ、みんなお疲れ様! かんぱーいっ」
「かんぱぁーい!」
「お疲れ様です。乾杯!」
「かんぱぁい」
「かんぱい、です」
楽しませることはできないにしても、邪魔をしてしまうのは一番よくない。そんなふうに自分を戒めながら、どこか慣れられないぎこちなさでおそるおそる盃をぶつけ、御猪口の隅にちびりと唇をつける。
そして、ものの見事に驚かされた。
「……おいしい」
心から出る言葉というのは、思っている以上になんの判断も介さずぽろりとこぼれ出てしまうものだ。
とどのつまり、そのときの私がまさにそうだった。就いている仕事を考えれば全く情けない話なのだがほかに何の言葉も出てこないし浮かばない。私の両手の中でゆらりと波紋を広げた楓さんお勧めのお酒は、ほんのりと甘く後味が実にさっぱりとしていて、驚くほど素直に喉を滑ってくれた。実に語彙が貧困で申し訳ないのだけれど、とにかく、おいしかったのだ。
「でしょう!」
と、挟んでいた掘りごたつのテーブルも超えんばかりの勢いで身を乗り出してきた楓さんがそう言って、私はつい素直にこくこくと何度も頷いてしまう。赤べこではないのだからもう少しましな反応もあったと思うのだが、幸いとそれだけでも楓さんは満足してくれたようであった。
先ほどのどこまでもきれいな笑みはどこへやら、してやったり、なんていうのがよく似合いそうないたずらっぽさで唇の端をきゅっと吊り上げている。――あ、いや、なんだろう、少しだけ、そう、こんな、こんな人にこういうのは、とても失礼なのかもしれないけれど、
「きっと美優さん、絶対、気に入ってくれるって思っていたんですよ。ふふふ、大成功、ですね!」
ちょっとかわいい、なんて、思って、しまって。
しかし今にして思うに、あれがいけなかった。おいしいお酒はおいしいけれど、それはあくまでもお酒なのだ。飲み会或いは酔いというものに対する経験値があまり高くなく、端的にいって恐ろしさに対する知識の足りていなかった私は、ものの見事にそれが隠していた罠にはまった。
要するに、楓さんの教えてくれたお酒がほんとうにびっくりするほどおいしくて。「あら? 美優さん、徳利がもう空なんですが……どうしますか?」おいしくて、おいしくて。「美優さん、欲しそうな顔をしていますね? ふふ、大丈夫ですよ。ちゃんと頼んでおきましたから」
そして、飲み過ぎたのだ。
「それじゃね、楓ちゃん。美優ちゃんのこと、頼んだからね?」
「はぁい、頼まれましたとも」
「……頼んだからね?」
「まあ瑞樹さん、どうして二回言ったんですか? 大事なことだからですか? うふふっ」
最初にも言ったけれど、意識が飛んでいたわけではなかった。
水でも吸ったかのように重くなってしまった身体はぴくりとも動かせなかったし、私をしっかり担ぎ出してくれた案外力持ちな友紀ちゃんや、心配して何度も声を掛けてくれた瑞樹さんや美波ちゃんには返事のできなかったことを明日にでもきちんと謝らなければならなかったけれど。それでも私は二十三時過ぎの喧騒に沸く街のネオンが視界にぼんやり映っていたことや、タクシーの運転手さんに行き先を説明するときはきちんと地に足のついている楓さんの声なんかを、ちゃんと認識してはいた。告げられた行き先が、どう考えても楓さんの自宅なのではないかということでさえも。
そうはいっても酩酊状態にはあったので、どのくらいのあいだタクシーに揺られていたのかはよく覚えていない。とても遠いところまで運ばれてしまったような気もするし、その割には自動扉ががちゃりと開く音を聞いたときもう降りてよいのかと驚いてしまったような気もする。反対側の扉から降りて行ったと思しき楓さんが私の肩を器用に取る。「美優さん? 立ちますよ、いいですか? せー、のっ」
私より数段華奢である楓さんがいったいどのようにして足元の覚束ない私を運んで行ったのかは運ばれた身としても謎なのだけれど、ともあれ少しの距離を歩いて、さっきのタクシーとよく似た真新しい匂いのするエレベーターにしばらく揺られ、また数メートルほど運ばれてとうとう、私はあの『高垣楓』さんの自宅前に着いたらしかった。金属のちゃらちゃらとぶつかる音がしたかと思えば、玄関扉が楓さんの手によって迷いなく開かれる。
ひとの暮らしている家からは、そのひとのものなのかそれとも別のなにかなのかわからないけれど、とかく固有の香りがする。そしてそれはどうしてだかいつも、それまでの人生で一度も嗅いだことのないような香りに思えるのがいつも不思議だった。そんな、はっとするほど不思議な香りの中へと、無抵抗で導かれる。「いらっしゃいませー」
いえ、それは、ひとを家に上げるときの台詞としてはどうかと思うのですけれど。
よいしょよいしょとまるで歌でも歌うかのように口にしていた楓さんがやっと私を降ろしたのは、どうやらベッドの上だった。多分そう、だと思う。ひんやりとしたシーツが背中を受け止められながら私は一度薄くまぶたを開けたけれど、身体はそれすらも億劫がってすぐ目を閉じてしまった。それでも一瞬だけ見えたのはひどく小奇麗に片付いた寝室の風景だったのだろう。
認識することは、できていた。おいしいおいしいお酒にすっかり狂わされても、目は機能を失っていなかったし、触覚だってちゃんとわかっていた。今私の身体を包んでいるのはベッドのシーツ。額のあたりにかかっていた髪をそっとわけてくれたのは楓さんの指先。ここは楓さんのお部屋で、もっといえば多分寝室。すべて、ただしく認識はできていた。
だとすれば、おいしいおいしいお酒にすっかり狂わされてしまっていた、のは。
「美優さん。みーゆーさん、お水、飲みましょう?」
「ん……」
たぶん、思考のほうだ。
なにしろこうしてただしく認識していることのすべて、それこそてっぺんからつま先まで余すところなくすべてが、どう考えてもあり得ない状況である。通常の思考が保てているのであれば疑問が尽きなかったに違いない。なぜ私は今楓さんの部屋にいて、楓さんのベッドの上で横になって、頬に冷たいペットボトルをあてがわれているのだろう。なぜベッドに座ってくすくす笑いながら顔にかかる髪を何度も撫ぜているのがあの『高垣楓』なのだろう。なぜあのお酒はあんなにおいしかったのだろう。なぜ楓さんは私を飲み会に誘ったりなどしたのだろう。なぜ。なぜ。なぜ。
普段であればそれだけで頭を埋め尽くしていたであろう、いわばとてもまともな疑問ばかりが、圧倒的なまでの置いてきぼりを食らっているのがその時の状況だった。要するにそのときの私の思考は、どう考えてもまともではなかった。
「美優さんてば。……もしもし、寝ちゃってるんですか?」
ふつうだったら、返事しなくちゃいけないのにな、とか。
「寝ちゃってるんですかー? ふふ。……お水、飲ませちゃいますよ?」
かえでさんは、なにをいっているんだろうな、とか。
どうしてボトルのキャップをあけるおとがしたのかな、とか、どうしてほほにふれるのかな、とか、どうしてまぶたをなぜたのかな、とか、どうして、かおりが、そう、かえでさんの、とてもとてもうつくしいかおりがこんなにちかくにあるのかな、とか。「っんふ、」
そういう「まとも」な疑問は圧倒的なスピードで置いてきぼりになって、私はただ、ただただ、しっとりと触れた唇のことや喉をすべっていくどこかふわふわするほどあたたかくてとろっとした、かぎりなく水である液体が喉をてろんとすべっていくのを、ひたすらに、ばかげて素直に、感じていて。
「美優さん」
「ふぁ、……」
「お水、もっと飲みますか?」
ああ、もう、だから。
――赤べこじゃ、ないんだから。
当然ながらそういったまともでないことをしかもお酒のせいでしでかすと、翌朝には必ずといっていいほど恐ろしい量の後悔が襲いかかってくるものだ。例によって例に漏れず私もそうであり、なにしろベッドの傍らに空っぽのペットボトルが落ちているのがいけなかった。証拠物品は破壊力が高い、高すぎる。とてもではないが見ていられない。そう思って顔を覆った拍子に自分の唇に触れてしまい、一気に蘇ってきた感触でよけい意識が遠ざかりそうになる。
そんな私の前に、キッチンあたりから戻ってきたのか楓さんが呑気に姿を現してくれたのだからたまらない。
「あ、美優さんお目覚めですか、おはようございま……すごい顔ですね? この世の終わりでも見たんですか」
「楓さんっ!!」
がばっと腕を取って、そのままベッドの上に引き戻す。あら朝から積極的ですね、なんてとんでもないことを囁かれたような気もするがこの際気にしていられない。できのいいスプリングの上でぽんぽんと揺れていた楓さんの肩を掴んで、あらん限りの疑問をすべてぶちまけさせていただく。
「なん、なんで楓さんお家にっ、いえありがとうございますご迷惑おかけしました、でもなんでベッドに、なんであなたも同じベッドに、なんでキスを、なんで、たくさん、なんで……っ!!」
「あーちょっと、ちょっと落ち着いてください、美優さん」
そしてしどろもどろにもほどがあった私のそれらを、なんということか極上の微笑みひとつであっさりと受け流した稀代のアイドルさんは、私の唇にちょんと人差し指を当てただけで、会話の主導権をすべて持って行ってしまった。
「そうですね。……これは美波ちゃんに教わったことなんですけれど、ロシア語の語順というのは案外自由度が高いそうなんですよ。それで、一般的には強調したいものを語順の最後に置くそうですね。つまりヤ ティビャ リュブリューだと『愛する』という言葉を強調したもので、ヤ リュブリュー ティビャだと『あなたを』という言葉を強調したものになるそうですね」
「は、……え、あ、は、はい」
「はい。……で、美優さんはどちらのほうがお好みでしょうか?」
ふふふと華奢な肩をさながら少女のように揺らした『高垣楓』さんが、膝頭のこつんとぶつかりあうような距離でベッドに座って、私の手を取っている。うつくしい香りを放ちながら、なのに、寝ぐせの残った頭で。
「それとも、どうやら美優さんはすこうしばかりにぶちんさんのようなので、もっとわかりやすいほうがよろしいですか?」
「あ、あの」
「なるほど、わかりました。では、最高にわかりやすくいきましょう」
極上の笑みを、浮かべる。
「あなたを愛しています、美優さん」