「ともぐいのはなし」



 なにかがまちがっているのだとして、あなたが傍にいなくなるという方がまちがっているのだったら、どんなによかったろう。

 飲みかけの缶コーヒーが手の中で温度を失くしたのはいったいいつのことだったか、わたしはもう、思い出せない。
 冬の夜明けがこんなに寒いだなんて、と思った。思ってすぐに、思うのをやめた――そうだったらよかったのに。思うとか考えるとかいうのは、往々にしてわたしの手の届かない範囲にあることだ。頭もこころも目には見えないのだから、抑えつけて止めるというわけにもいかないのだし。だから結局思考がある程度の帰結を見るまで、わたしはしかたなくそれに付き合うのだ。次に何を考えるかなんて、もうわかりきったこと。
 あんなにさむがりなのに、どうして沙英は、徹夜がへいきなのかしら――ほらやっぱり。わたしの思考がぐるりとめぐってたどり着くのは、そこなのだ。そういうふうにできてしまったのだ。線の上をすばやく辿るように、わたしの思いはあの子にたどり着く。ふつりふつりと音がする。わたしのくちびるから漏れ出た白い息がしんしんと冷えた空気にうかぶのと一緒になって、それは急激な拡散をみせる。
 手書きだし、指先とか冷たくなったり、しないのかしら。だってカイロもあったかい飲み物が入ったカップも、持ったままじゃ執筆なんてできないでしょうし。足先なんか、こんな寒さじゃ、スリッパ履いてたって意味なんかなさそうだわ。日があるうちのそれと比べれば格段に鋭利さを増している寒さは、靴の中で縮こまるわたしの足先まで容易に浸食して、すっかり固めてしまったのだし。といっても、室内と室外じゃ、ちょっとは違うのかな。
 思って、吹き消すように息をついて、外にいる側であるわたしは、雪でも降りそうな曇天を見上げた。お日様がなかなか顔を出さないのは、冬の夜明けが遅いというのだけではないのだろう。お天気、悪いのかな。お布団干したかったのに。ふと思い出したら、今更な眠気が頭をかすめる。少しずり落ちた肩がすぐ隣にあった鉄扉にふれて、思わず悲鳴を上げそうになった。つめたい。雪より氷よりずっと。
 でも何も言わなかった、良かった。何か言ったら、きっと、この扉の中のひとに、気づかれてしまうもの。
「………!」
 すると、中から聞こえてきたファックスの音のせいで、結果的にわたしは二度目の声を抑える努力を強いられる羽目になった。
 しかも一度目よりずいぶん手ひどい。なんといっても習慣になってしまっている。沙英、お疲れ様。自分の声の幻聴というのはさすがに珍しいと思った。声どころか息までどうにかひっしにおさえつけて、扉の中の音だけを聞く。そろそろガタがきていそうなファックスが、一所懸命な稼働をする音。原稿、上がったのね。
 ほわりと目の前が白くなったので、なにかと思ったら、吐息だった。はっと手をあてると、わたしのくちもとはじつにゆるんだかっこうを呈していて、自分ひとりで少し気恥ずかしくなる。俯きかけの目線が、冷えているであろうドアノブを一瞬捉えてしまう。慌てて、逸らす。
 そう、お仕事やっと終わったのね、そう、だから。
「…………」
 だからもう、なんにも言わずに、いかなければ。ここを、立ち去らなければ、いけない、のに。

「ヒロさんと沙英さんは、こんな感じですよねー」
「ふわあっ! み、宮ちゃ、えっ!?」
「へ?」
 思考のプロセスというものが一から十まであったとしたら、宮ちゃんは一と十しか話してくれないタイプなので、その全てを最初の一言で理解するのはなんとも難しい。
 それは突然ゆのさんに後ろから抱きついたまま机を挟んで向かいにいるわたしにそんな言葉を投げかけてきたときも同様で、すっかり宮ちゃんの腕、ついでに胸に挟まれてるゆのさんと一緒に――といってもゆのさんの場合、あの豊かなふたつに挟まれているのだから動けるはずもなく、ただの比喩になってしまうけど――首を傾げることになった。
 わたしと沙英の話が、どうして宮ちゃんがゆのさんに抱き着くところに結びつくのかしら。至極当然な疑問にしかししっかり答えてくれるわけもなく、むしろさっきの一言なんてすっかり忘れてしまったんじゃないかというくらい無邪気な笑顔を零しながら、宮ちゃんはゆのさんを持ち上げたり降ろしたりしている。人間シーソーみたいね。
「おおっ、熱視線! でもヒロさんに同じことしたら、私腰やっちゃうと思うんで勘弁ですー」
「別に羨ましがってないわよ!! 二重の意味で失礼ね!!」
「あわわ、ひ、ヒロさん、沙英さんなら力あるから大丈夫かなって……!」
「あははは、ゆのっちのフォローになってない一言でついに切れたヒロさんの鉄拳はー、だけど私の頭に降ってきたのだった!!」
「当たり前でしょう!?」
 ああもうほら、何の話だったかわからなくなったじゃない。すっかり宮ちゃんに背中と体重を預ける形になっているゆのさんは、わたしと宮ちゃんを見比べるばかりだし。当の宮ちゃんは、頭には立派なたんこぶをこさえているのに、ゆのさんの両肩から腕を回したまま鼻唄でも歌わんばかりにご機嫌そうだし。 
「いやいや、ほら。この場合、よっかかってるのはどっちでしょー? っていう話でね」
 とはいえ――宮ちゃんの場合、そのプロセスが辿りにくいのと同じように、どことどこが繋がっているなんて予想もつかないのだから。
 だから、へらりとした笑顔を浮かべるくちもとからふっと飛び出すひとことに、いつも、はっとさせられるのだ。
「えっ、と……どう見ても、私、だよね?」
「って、思うじゃん?」
 当然のように思えるからこそぽつりとしか言えなかったらしいゆのさんは、予想通りというかあっさり否定されて、がんとしてしまっていた。でも宮ちゃんが見ているのはわたしだった。多分、最初っから最後まで、わたしだった。ゆのさんの小さなからだをくいくいと揺らしながら、宮ちゃんはくもりのない顔で笑う。
 くもりのないのはいつもずるい。そんなふうにすなおなのは、いつも、ずるい。
「あったかくなるのは、私の方だったりするんだなぁ」
 結局宮ちゃんが何を言いたかったのか、ゆのさんはちっともわかっていないようで、ひょいと視線を落とした宮ちゃんに、いいように髪をいじくられていた。
 わたしも、わからなかったらよかっただろうか。手から滑り落ちそうになったお盆を握りなおして、痛くなるくらい握りなおして、そんなことを、考えた。

 それでもきっとそういうことなんだわ。踏み出せなかった一歩を記憶と一緒に踏みつぶしながら、わたしは思う。思ってしまう。宮ちゃんはとても正しかった。正しいのはざんこくだ。ちゃんと刺さって抜けなくなるから。耳鳴りではなくはっきりした音として。言葉として。よっかかってるのは、どっちでしょう。わたしか、沙英か、どっちでしょう。
 いつもいつも頭の中に置いて、隣の部屋に住ませてもらって、ご飯を一緒に食べて、仕事の合間に軽食を持って行って、いつだってすぐそばに。その手を伸ばせる位置を、そのぬくもりを、隠れて手放せなくなっていたのは、はたしてどっちでしょう。世話を焼いているつもりで。寄りかかられているつもりで。
 だから、いつもごめんね、とあの子に言われるのはきらいだったのだ。それを沙英のほうが感じ取ってくれたのか、ごめんね、はありがとう、に変わったけれど。沙英の発するそういう一言一言は、全部わたしが言わなければいけないことばかりなのだ。知ってる。だから言葉を変えてもらった。痛くない形に変えてもらった。ちゃんと刺さらない形に、変えてもらった。
 ということは、わかっているのだ。わたしが言わなければいけない、正しい言葉を、わたしはわかっている。
「ヒロ、なんで」
「沙英……」
 開いてしまった扉から、ひょいと覗いた少し顔色の悪いあなたにわたしが言うべきは、きっとあなたの名前なんかじゃなかった。
「と、とにかく入って。寒かったろ」
「あ、う、ううん、今日は」
 ちがうの。
 ちがうの、今日はただ、確認に、そう、確認に。その時点でわたしの行動が初めから何もかも破綻していたことに気づいて、その気づきはどこまでもあっさりとわたしの喉を詰まらせた。沙英が首を傾げながら、それでもわたしの肩に手を置いてくれる。それはきっとわたしを招き入れてくれるかたちだ。ちがうの。今日は。
「今日は、あの、早く目がさめちゃったから。ちょっと様子、見に来ただけ」
「え、あ、そう……そうなの?」
「うん。原稿上がったのね、お疲れ様。まだ学校まで少し時間あるから、ちょっとでも眠ったら? あ、ちゃんとお布団は肩まで被ってね、今日はほんと、寒いから――」
 だってずっと一緒にいられるなんてこと、あるわけ、ないんだから。
 だから今日こそは、あなたの隣にしがみつくのをやめてしまえるようにって、伸びをするときの少し清々しそうな目元を甘いお菓子の向こうに見つめるのも、いちばんに言うお疲れ様も、誰にでも譲ってしまえるようにって、そう、思って。
 思って、いたのかな、どうだろう。
「ヒロってさ」
「えっ? あ、」
 沙英は、慌てるわたしに構わず、その細いわりにたよりがいのある力でしっかりとわたしの手を――冷え切ったホットコーヒー缶の握られた手をつかむ。それはあまりにも立派な証拠だった。わたしが一晩中ここに立っていたことの、どうあっても離れられずにいたことの、立派で、酷薄で、はっきりした証拠だった。
 どうしてわかってしまったのかと、きっとわたしたちの間では考えることすら無意味だ。沙英はぽやっとしているわたしに向かって、眼鏡の奥の視線をやわらかく、やわらかく、ゆるめてみせた。
「結構、うそ、下手だよね」
 その後沙英が続けた、だいたいヒロが早起きするなんてことあるわけないじゃんって、ちょっとばかり失礼にも思えるその言葉を、しかしわたしが聞き逃してしまったのは、もうしかたのないことだった、とおもう。
 そんなときにわたしの身体は困ってしまうほど正直にふらついてしまうわけで、おっと、と言いながらまったくふらつかずに、背中などをゆっくり撫でてくれたあなたは、わたしが眠いせいだって、思ってくれたかな。手遅れな期待かもしれないけれど、わたしのエゴに沙英が気づかないという都合のいい奇跡を願わずにいられないわたしは、沙英のどこにも手を伸ばせずにいた。
 だらりと垂れた手から缶コーヒーが滑り落ちて、徹夜明けのふたりの耳には少し甲高すぎる音を立てて転がる。ちょっとだけ残っていた中身は零れることがなかった。凍ってしまっていたのかも、しれない。立っていた時間の長さは、そのままエゴの重さになって、わたしの重さになって、沙英にのしかかる。今も。いつも。
「……沙英、」
「ひ、ヒロ! さ……今日、あ、っていうか昨日からだけど、その、全然、来なかったからさ」
 ――それなのにどうしてあなたは、わたしが離れようとする一瞬前に、必ず手を伸ばしてくれたりなど、するのだろう。
「や、その……終わったし、ね、寝ててもいいから、寝顔でもいいから、ちょっと見に行こうかなって思ったら、ヒロ、いてさ……だから、つまり、なんていうか……」
「……うん」

「いつもありがと、ヒロ」

 ごめんなさいや、言わなければいけなかった言葉が、わたしの抱える重たいエゴが。
 あなたのくれる言葉や、伸ばされた手のひらのうえ、きれいなきれいな、色になる。

「わたし、」
「へっ?」
「わたし、今……けっこう、膝とか、つめたいわよ?」
「ん……ヒロは、あったかいよ、いつも」
「……ばか」
 ああやっぱり、すなおはずるいなあ。特に、普段ちっともすなおじゃないひとのすなおは、ほんとに、ずるい。つめたいだなんて言っても手を引かれるとあくまでも自然なうごきのひとつとして靴を脱いでしまうわたしは、たとえばその足のあたりは、もうあなたの頭を受け止めることしか考えていやしないのだ。
 沙英はあーあと一回伸びをして、やっぱりゆるんだ顔で伸びをして、それはなんだか可愛いのだった。誰にでも手渡せる日なんて来るのだろうか。わからないし、わかりたくもないことだ、と思う。布団の上で寝転がって、わたしを枕にした沙英は、平素よりとてもあどけなく笑う。ひゃあつめたい、なんて無邪気にはしゃいでみせる
「私さあ」
「うん?」
「このままじゃ、だめだよねえ」
 しかしうとうとと眠りに落ちていく手前で、ぴたりと目蓋を止めた沙英は、ふとそう零した。
 このままじゃ、だめだよね。このまま、ヒロに頼り切りっていうんじゃ、だめだよね。だってずっとこのままってわけには、どうしたって、いかないんだし。つらつらと、自分でも何を言っているのかほとんどわかっていないような顔で、沙英は言う。
「……そうね。きっと、だめだわ。」
 あなたも、わたしも。

 だけどこまったことに、どんなだめなことも、どんなまちがいも、あなたと一緒におかすのだったらべつにいいのではないかと、わたしは、思えてしまう、から。

「沙英」
「うん?」
「今日は原稿上がったんだし、ちょっとごちそうにしましょうね」
「ん……ありがと」

 ひたりとくっつけた額が、ふたつおなじ温度になるあいだ、あなたの隣は、わたさない、わたせない。

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