「ちゃんと、わかったよ。」




 毎朝毎朝頼みもしないのに勝手に天気予報を届けてくれたりするのだから、最近の携帯電話ときたら進歩している。そんなことを呟いたら、楓からお姉なんかばば臭い、と言われてしまった。そうだろうか。相変わらず手厳しいというか、どちらかというと母似で可愛気のある顔立ちをしている割に口が悪い妹に苦笑を返しながら、携帯を繰って週間天気を表示させる。最高最低気温と、天気と。まあ情報があるっていうのはありがたいと思うのだ、私みたいなずぼらなタイプだと折り畳み傘なんて気の利いたものを持ち歩いたりはしないから、午後から雨、なんてことが事前にわかると助かる。
 でもなんというかそう、病は気からっていいますか、いくら頭でわかっていたとしても現実的な数値で叩きつけられるとそれはそれで辛いものがある、っていいますか。今日の天気を見ても週間天気を見ても、ため息を尽きたくなるような最高気温と天気しか表示されていないのを見ると、学校に行こうとする足がなんだかとっても重たくなった気がする、といいますか。


「今日も暑いなー、明日も暑いなー……」
「うっわ、お姉やめてよ……ただでさえ雨続きで気ぃ滅入ってんのに」
「まあ、梅雨だからな、仕方ないと言えば仕方ないさ。雨が降らなかったら降らなかったで、困ることもある。収穫なんかにも影響してくるんだぞ?」
「え、なんか桂兄がまともなこと言ってるんだけど気持ち悪い……」
「お前は少し俺に関する認識を改めてくれないか、楓。樹もそこで頷くな……ああ、あと突然の雨からの制服透けというロマンがなくなるのも困るな」
「あー……いってきまーす。あと任したから、お姉」
「えっ!? え、ええと……榊兄は暑かろうが雨だろうが元気だよね、とりあえず」
「んん、おお、心頭滅却すれば火もまた涼しと言うしな!」
「まず兄さんはもともと存在自体が暑苦しいから問題ないんじゃないか?」

 通常運行はお互い様の癖にだいぶ酷いことを言っている桂兄にはそろそろ突っ込む気がなくなっていたのだが、その時点で母からとっとと食えとのお叱りをいただいたので、大人しくパンを口に詰め込んだ。暑いのなんのと愚痴をこぼしたくなってはいても、そろそろ行かなければバスの時間に間に合わなくなってしまうのも確かだ。バス停に行く前に、寄らなければならない場所もあるわけだし。
 大皿から唯一一本だけ残っていたソーセージをとって口に放り込む。四人兄弟ともなると皿に分けるのがめんどくさくなるらしいが、そうなるといつも私の取り分だけがみょうに少ない。これぞ格差社会。なんてことについて嘆いている場合でもなく私はテーブルに放置してあったお弁当代金を受け取って、できるだけ台所の向こうまで届くようにでかい声でごちそうさま、いってきますと言った。

「おー、行って来い、ちゃんと勉強しろよ!」

 暑さのせいで幾分機嫌が悪いらしい母さんだけれども、とりあえずいつもの返事だけはくれた。しかしこれは、今度の中間で悪い点でも取ろうものなら、いつもより若干厳しいお叱りを受けることになりそうだ。とりあえず今わからないところだけは、友紀なりに彼方なりに頼ってなんとかしなければならないな、と思いつつ、部活用具なんかが入ってる補助鞄を肩に掛け、黒革の手提げ製鞄をぶらつかせる。
 外では蒸すような空気がなまあたたかく頬に絡み付いてきた、たぶん、今朝は開口一番暑いね、なんて言ってしまうんだろう。そしたらどんな顔をするかな、うんざりされちゃいかもなあ、なんて、どうでもいいことをふつふつと考えながら、私は段々と慣れ親しんできた陽の家への道を、たったか歩いた。ついこの間まで気が付かなかったけれど、通りを抜けたところにある家の庭に、それはそれは綺麗なアジサイが、咲いていた。




「あっ……え、もう移行期間だっけ!?」
「おーおはよう樹、てか、知らなかったの? プリント配られたじゃん」
「きゃはははっ、いっくん、ばっかでー!!」
「うぅっ……言われて見ればそんなプリントも見たような見なかったような……」

 教室に入ったとたんそんなふうにして挨拶よりも前に展開したのは、制服移行期間、つまり、冬服から夏服へと衣替えする期間についての話。なぜなら挨拶をしてきた友人たちが、軒並み夏服だったから。確かに、人が必死に長袖で我慢してきたというのに、教室にはすでに夏服であるところの半袖カッターを着ている生徒の姿が見受けられる。いや、どうやら移行期間を忘れてたらしい私が悪いんだけど。でもほんとにそんな話あったっけと必死に記憶を手繰る私に、横の陽から黙ってそっとプリントが差し出される。タイトル、衣替えについて。証拠はばっちりだった。つまり馬鹿だった。
 とりあえず鞄を机に置きながら肩を落とす私を、わざわざ席までやってきて爆笑しに来たのはやはりというかなんというか智と美穂で、そんな二人はと言えば早々に夏服へと移行していた。そりゃあそうだ、ここんとこの真夏日の情報が入ってきているなら、普通はとっとと着替える。よくよく見てみれば教室から廊下から、半数以上がもう衣替えを済ませているようだ。バスの中では結局陽に頼ってしまったテスト対策で必死だったので気付かなかったけれど、今にして思えば普段の紺を身にまとう生徒たちから比べれば、妙に白っぽい人が多かった、ような。

「え、樹って陽の隣に居ると人のこと色でしか判断してないの……?」
「へ!? いや、そういうわけじゃない……と、思う、けど……ええとっ、ていうかきずなはまだ冬服のままなんだね?」
「ああ、うん、わたしはまだいいかなって」

 確かに暑いとは思うんだけど、まだ六月だから。きーちゃんは暑さにも寒さにも強いんだよ、と横からひょっこりと、なぜか誇らしそうな智が補足を入れてくれる。なるほど我慢強いというのも確かにありそうだけれど、彼女の場合、季節の仕分けというのをきっちりしておきたいとか、何かそんな意味もこめられていそうな気がした。きずならしいといえば、らしい。
 そういえば去年も、それなりに寒くなるまで夏服のままでいたしね、と美穂までもが補足を入れてくれた。きずなの話だけで二人が入ってくるとは、きずな、相変わらず人気である。とか話しつつ、なんだかんだいつものグループが私――と、前回の席替えにて私の前になった陽の周りに集まったところで、席に横座りして、とりあえず会話を見上げていた陽に、智がひょいっと話しかけた。

「まーいっくんはアホだったからいいとして……よーちゃんはー? よーちゃんも暑さに強い感じのヒト?」

 さりげない酷さを感じはするが言い返せないのも事実なので私は黙るとして、そういえば陽もいまだ冬服のままだった。プリントを持ってたんだから、いくら転校生とはいえ衣替えを知らないわけじゃない。というか私以外にすっかりとそんなことを忘れていたような馬鹿はいなそうだ。自分で言えば多少は空しくない。ええと、多少はね、多少は。プリント、どうせ何かの落書きにでも使ってしまったんだろう。
 ところで陽は突然話しかけられたことにびっくりしたらしく、一瞬返答に戸惑ったようだった。無理もないというか、どちらかというと智があんまり突然にひとを巻き込みすぎな面もある。それでも、誰があんまり発言してないだとか、誰が話に参加できてないだとかいうことを瞬時に見抜いたりできるあたりは、彼女のすごいところ、というか人気者な理由なのだ、とも思うけれど。
 だからそのときも、智が陽に向かってそう言ったのにつられて、みんなが陽の方を見ていた。もちろん、私も、だけれど。きずなと美穂と智と、みんなが陽のほうを見ていた。暑さに強い、か、そういえば、そうなんだろうか。でもちょっと違うような、なんてことを私はぼやっと描いていて、だけどそれがなにか明確な形を持つ前に、考えは頭からすっと、飛ぶ。

「…………」

 どうしてって、だって、陽が、ひどくひどくあいまいな顔で、わらったからだ。
 陽は、ほんの少しだけど考えるような間を持ってから、あいまいにわらった。首を振るでもなく、頷くでもなく、何か書くわけでもなく。ただかすかに唇をゆがめて、智、と、それからみんなに、なんにも云わないまま、あいまいにわらってみせた。眼鏡の奥で、薄く開かれたまぶたの間、陽のくろいくろい瞳。そのむこう。

 ――なにかが、ゆがんでみえた、気がした。

 ああだって暑くても平気だったなら、玄関先で会ったとき、あんな憂鬱そうな顔してなかったんじゃないかなって、思うんだ。暑いねって言葉に、陽にしてはおっきい頷きなんて返さなかったんじゃって。どれくらいが気が付いただろうか、それは本当だっただろうか、全部わからない。わかる前に、私はどうにかこうにか言葉を搾り出すってことに、頭の全部を使ってしまったから。
 だめだなにか言わないとって、考えるよりも先に唇は開いていた、人間が動くときって実は命令が最初なんだって、理由は全部、後からついてくるんだって。そんな難しいことを言ってたのは、誰だっけ。何の備えもないまんま開いた唇から初めに出てきたのはため息で、あの一瞬でいったいどのくらい必死に頭を回したんだか、後から考えると、ちょっと笑ってしまいそうだ。

「あー……あ、そうそう。二組の子が言ってたんだけど、次の数学、予習テストやるって」

 でも、と、私はなんとなく、思っていて。
 思い出したくないこと、触れてはいけない部分、いたいとこ、つらいとこ。そういうのが陽にはきっとたくさんたくさんあるのだ、それこそ私の想像をはるかに超えるだけ。口を開いたのが私だったからみんなは陽ではなく私のほうに目を向けた、陽は、俯いていた。話したくないところなら、言いたくないことなら、それでも、いいんだよ、なんて、直接は言えないが。
 言葉はもしかするとゆがんで伝わってしまうかもしれないからだ、彼女自身から口を開く機会を奪ったりは、できるだけしたくない。抱えきれない分持とうかって伸ばしてる手は、できれば傍にあって欲しい。言いたくないんだったら言わなくていい、なんていったらさ、もしかしたらだよ、突き放す言葉に、聞こえるかもしれないでしょう。だって私、ぶきっちょだからさ。だから、何も言えや、しないんだけど。
 できないこともわからないことも多いから、なにより私は君にうまく伝わるように話せたりはしないから、どうにかやっと届く範囲だけ、できることを、する。触れられたくない部分には、触れないように。別に伝わらなくてもいいし、何も言わない私は実際そこにいるんだから、だからわかってもらえなくても、いい。それでも、ほんの少し、軽くなったなら。それはとっても、いいことなんじゃないかなあ、なんて。
 ところで課題と小テストの厳しさになら定評のある私たちの学校で私が選択した話題といったら状況としてはベストだけど内容としてはワーストで、もちろんその一言は一瞬にして場の空気を変えた。何より数学である、最近余計にわけがわからなくなってきた数学の、しかも予習部分の小テストである。基本的に満点合格という数学担当山崎先生の意向を知っているなら、顔を青くせざるを得ない。

「っはあああ!? うわっ、出たよザキヤマ、マジあいつ性格悪ぃわ……チッ」
「美穂っち美穂っち、出てる出てる。昔取った杵柄的な何かが出てる」
「おっとっと。てかそんなら勉強……樹、聞いてるなら範囲わかるっしょ、教えて! 不合格で追加課題とかマジごめんだから」
「あ、うん。38ページの……」

 ところから、と言った時点でチャイムが鳴って、同時に糸井先生が入ってきたので、会話はそこで中断した。ここから遠い席である美穂と智は慌てて戻りながら、あとで終わりの範囲も教えて、と言い残す。それに片手を振って答える。そんな彼女たちが大人しく席に着くのは英語の時間かホームルームのときだけであって、糸井先生の影響力ときたらなにかすごい。先ほど出た山崎先生は、だいぶ苦労してるから。
 にしてもどうにか話題を搾り出せたわけで、朝っぱらからなんだか頭が疲れた。慣れない事はするものではない、頭脳労働向きじゃないんだよね、もともと。なんて、一人で苦笑してみる。

「ふふ、なに一人で笑ってるの、樹」
「えっ? あ、ああ、や、なんでもない……」
「そう? でも、すごいね、樹」
「……へ?」

 比較的席が近いきずなは私に向かって笑いかけていて、そんな彼女が次に続けたのは、不思議な言葉だった。きずなはかき消されてしまいそうな小さな声で、もう一度、すごいね、と言った。一瞬数学のテストのことかなって思ったんだ、流れとしてはそうだったから。普段からそういう話題には疎いはずの私が情報を持っていたことに関することばかなって、そう、思って。
 でもきずなの声があんまりにも静かだったものだから、たぶんそれは違うんだろうな、って、思って。なにが、と聞く代わりに、席に着こうとしてる彼女のほうを見た。

「ちゃんとわかるんだなって、思って」
「……え、」

 何か言おうとしてた、続けようとしてた、でも飲み込んだ。先生がいつもの気だるげな声で出席を取り始めたからじゃない。きずながさっと教壇のほうに向き直ってしまったからじゃない。私はそれを自分で飲み込んだのだ、自分の頭の命令が、ひどくまっすぐな命令が、私から声も思考も、ついでにまわりの情報全部も、奪い取ってしまったのだ。
 そして私にそんな切実な命令を与えられるのはたったひとりしか居なくって、まだ前を向いていなかったそのひとりは、陽は、黙って俯いたまま、手だけこっちに伸ばしていた。袖だけ、よわくつまんでいた。引っ張られたわけでもなく、陽がこっちを向いたわけでもなく、だけど私はほかのこと全部置き去りにして陽の横顔を、俯いてるせいで細い細い髪がさらりと流れ落ちているそっちを、見る。
 黙っている陽、横顔、ほそいゆびさき、つめが桃色、だった。ふっと遠くなったのは、もしかすると周りじゃなくて、私だったのかな。握られた袖、よわくよわく、だけど、それはいつだって、ひどく切実で。
 いつもレンズの向こうだった瞳が、そのときばっかりは、なんの遮蔽もなく見える。横髪の隙間、ちいさくゆがんでいた光。どきっとするほどきれいな、でも、かなしい顔。

「…………」

 陽がそうしていたのは長い間じゃなかった、先生があ行の男子生徒から呼び始めて、相田と榎本と加茂川ってそんだけ呼んだくらいだったんだ、始まったのと同じかそれ以上に終わりは突然だ。ふっと離れてしまった手は何の余韻も残さないようで、陽がしずかに髪を揺らして前に向き直るのもほんの一瞬のことだった。ただなにか、なにかちいさくくちびるが動いたのを、私は見た。
 なんていったかは、わかんなかったよ、読唇術なんてもってない、から。覚えたほうがいいのかな、なんてぼんやりした頭で考える、置き去りにしたものはまだ、もどってこない。静かな私、左腕、ジャケットの先っぽ、つままれたことだってわかんないようなとこ。余韻はなかった、なかったはずなんだよね、思っても、どうしてか右手はそこに伸びる。

「木村、は休みか、ええっと、雲野ー……おい、誰か雲野起こせ、一時間目前から寝やがって。せめて授業始まってから居眠りしろ」
「せんせーもうさすがの智ちゃんも突っ込みつかれたっすよ」
「そうか、せっかく頑張るお前に次のテストについてのヒントでもやろうと思っていたんだが、ならしょうがない。はい次、澤田……澤田まで寝てんのか、よく寝る健康優良児でよろしい」
「ほらちゃっちゃと返事してー!!」
「って先生ならそこ注意するとこで・す・しー!!」
「ようしよく言った智。ヒントをやろう」
「なんすかなんすか、テスト必勝法!! 早く早く!! 正直英語も数学もそろそろ助けが欲しい感じなんですから!!」
「いっしょうけんめい、がんばれ。」
「オチたぁあああ!!」

 相変わらずのやり取りに教室はにわかに沸いていて、そのうちに続けて名前を呼ぶ声と、眠たそうな、あるいは元気そうな返事がして、私の周りは、とおくとおく、いつもどおり。そうでなくとも暑い暑い朝なのに、どうしてだかそこだけがひりついているような気がして、私は右手で、さっきまで陽の手があったとこを、握った。ちょっと、いたいくらい。

 私はそこを、ぎゅっと、ぎゅうっと、にぎりしめた。



 ちゃんとわかるんだってきずなは言った、そこに言葉はなかったけれど、多分陽のことだった。陽のこと、ちゃんとわかるんだなって、思って。きずなはそう言いたかったんだろう。だとするときずなだってわかってたんじゃないか、ということにはなるけれど、ともかくとして鈍い方である私が、確かに陽のことなら、ほんの少しだけだけど、たくさん拾える。
 でもそれは別に、私が聡くなっただとかそういうことじゃあ、ないのだ。そうだったならどれだけよかったかな、もっと上手にできるようになっていたなら、よかったんだけど。ただ私が陽についてほかのひとより少なからずよくわかるのだとしたら、彼女が見せるちいさなサインにほかのひとより幾分早く気がつけているのだとしたら、それは、なにか。
 なにか、私が、すこしおかしいからなのではないか、と。さいきん、思うようになった。

「うう、あっついとやっぱり食欲出ないよぅ……でも食べなかったら元気も出ないぃ……」
「そんなときは! きずなきずな、はい、お箸持って。えーっと、あ、煮っ転がしがいいな、これつまんで」
「ん? えーっと……こう?」
「あーん」
「はい、あーん」
「うん、うまぁっ! いくらでもいける!! どうだ智、美穂印の即効性食欲減退治療法!」
「すっごーい!! それだけの言葉を噛まずに言えるなんて、美穂っちのそんなとこにしびれるあこがれる! まんげつそうも真っ青だね!」
「うんうん、感動ポイントはそこかぁ……あとドラクエはほどほどにね、智。レベル上げハマってたらキリなくなるから」

 周りで楽しそうに二人のやりとりを聞いているクラスメイトたちにしても、結局智にも食べさせる羽目になったきずなにしても、もしかしたら陽自身と比べたって、私は多分おかしい。さっきから陽の食べるペースががっくりと落ちていることだとか、そういう細かいことに、見逃してもいいようなことに気が付いてるのは、だから、私だけが鋭い観察眼を持っているとか、そういうのでなく。単に私が、ちょっとおかしいくらいに陽のことを気にしてるって、つまり、そういうことなんだろうと、私は思うのだ。言いかけた食欲無いの、を、冷えたご飯と一緒に飲み下す。
 おかしかったのはもしかすると最初からで、ひどくなってきたなと思うのは最近。きずなはまるでそれを褒めてくれるかのように言ったけれど、少し考えるとちょっと怖いことだ。鋭いのだとしたらそう、辛い部分に気が付いてあげたい、だとか、そういう目的あってこその手段として、彼女を見つめるのかもしれない。でも私の場合は、そうじゃなくって。目的があるんじゃ、なくって。
 ただ気が付いたら目で追ってるんだ、小さく笑ってるのを見つけたらふわっとしあわせになるんだ、泣きそうだったらがくんとさむくなるんだ、周りの音は、いつだってとおくとおく。ねえでも、それはやっぱりさ、なにか、おかしいことだなあって、自分でもわかるんだ。そのまんまの流れできずなに食べ物を差し出されて、慌てる陽。ちょっとほっぺたが赤い。目を、逸らす。そしたら、うっかりしてたみたいに周りの音は戻ってくる。暑さとなにかが相俟って箸が止まった、あとは部活の後にでも、取っておこう。そっと弁当のふたを閉じた。
 具体的になにがおかしいのか、どのくらいおかしいのか、そもそも普通とは何だったのかなんて考えだすとキリがなくって、そうする前にチャイムは鳴って、答えが出る前に部活が始まる。ただそのときの私がたった一つちゃんとわかっていたこととすれば、自分で抱えてるくせにその変にふわふわしたものがいったいなんなのか、自分にはちっともわからないっていうこと。陽と他の子が、どうして少しでもちがうふうに見えるのかが、私には全然わからないっていうこと。

「………?」
「ん、あ、ああ……なんでもないよ、陽」

 そして、恐らくそれは、陽には言わないほうがいいんだろうな、って、そのくらいだった。そのくらいわかってれば、十分かもしれないけど。自分でも底が見えないようなものをひとに向けることほど恐ろしいことは、きっとないのだ。むき出しの気持ちは、だって、ひとを傷つけることのほうが、多いから。心配そうに覗き込んできたけど、私が手を振って答えれば、陽は二三度こっちを気にするように見たあとで、おずおずとまた前に目線を戻す。この子も多分、そこまで踏み込むことをしない子だ。
 でもどうかこの子になにも、なにもこわいことが起きませんようにって私は必死に願うことだけちゃんと覚えていて、それはしていたくって、祈る代わりにぴりっと痛んだそれをまた、飲み込む。
 だいじょうぶ、おかしいことなんて、なにもないよ。





 そして土日に入った頃にはほとんどの生徒が夏服への移行を完了していた、ちなみにきずなも衣替え済みで、それは今年の夏の到来がいかに早かったかを示していた。まだ六月だっていうのに。地球温暖化ってやつは四季から春と秋を根こそぎ奪い去っていくものらしいなんてことを朝のニュースで言ってたな、と思いつつ、外に出た瞬間噴き出てくる汗を拭く。夏服でも、これはちょっと辛い。私自身もすでに衣替えを完了してはいたけれど、それでも暑いものは暑い。通気性はそれなりによく作られているはずの半袖カッターでも、スケッチ中で動いてなかろうとも、やっぱり暑い。

「……陽? だいじょぶ?」
「…………」

 だとすれば、未だ紺のジャケットと長袖のカッターという冬服姿のままでいる陽の過ごしにくさといったら、想像を絶するものがあるんじゃないだろうか、というか、考えるだに暑い。一応ポジションとしては木陰に彼女も私も腰掛けているけれど、どちらかというと日差しよりも湿気のほうが今のところは大きな問題なのであって、結局のところ陽の表情は辛そうだ。スケッチについてきたいといった時点で私も断るべきだったんだろうが、なんというか、ええと、はい、そうです、彼女に頼まれるとたぶん、大概のことは断れません。友紀にも言われたけども。といってもさすがに暑いし、冬服のままでいたいならそれはそれでジャケットを脱ぐなり袖をまくるなりといくつか手段はあるので私も提案したが、全部小さく首を振って却下されてしまった。
 そんなわけで現在も、暑さを思いっきり吸収しそうな紺の制服をきっちり着こなしたまま、木陰の草の上に腰掛けて、陽は膝を抱えている。私はその隣で頭を抱えたくなりながらスケッチをしている。いくら時期的に高総体の応援ポスターの締め切りが迫っていたとはいえ、家庭部活動の無かった彼方と陽が部室にきていたときに、スケッチに行くなんていうんじゃなかった。後に悔いるから、後悔と書く。
 いやでもあれはなんというかそう、一年生もそれぞれスケッチに繰り出していたことだし、あと準備も済んでいたから別に突然の陽の来訪になんか焦ったとかそういうんじゃなくて。ないんだ、けど、ああもう、それは今、どうでもいいっけ。とりあえずあればましかと思って買っておいたパックジュースを飲んで、思考を冷やそうとしてみる。無意味ではあった。
 でも安っぽい桃の味は、それがある程度暑さを緩和させてくれるものだったってことはなんとか思い出させてくれて、つまり私の視線は、陽に向く。なんとなくぼんやりしているようにも見える陽の目は、私から3テンポくらい遅れて、ゆるりとこっちに向いた。ああやっぱり辛そうだなって、それだけは、すごくわかった。

「えっと、飲む?」
「…………」

 陽の口がえ、の形にちいさく開く。わけもわからずつめたいよ、などと補足してみる。あんまりするっと言葉が出てきたものだから、自分でびっくりしてしまった。なんせ自分でも後から後から言い訳をくっつけなきゃいけなかったくらいだ、いや、べつにそれ、意味はなかったと思うんだけども。全然、なかったんだけども。

「…………」
「…………」

 けど陽が受け取ってくれるまでには残念ながらそれなりの間があったから、私は紙パックを陽のほうに差し出した姿勢のままで暫くなんとか自分を保ち続けなければいけなかったわけで。まあ、いやこれ別におかしい流れじゃ無かったよな、だって陽はまだ冬服のままで暑そうだったし、暑いときに冷たいものを飲むって自然な行動だし、等々考えるほどには、辛かったりした。手がなんとなく痙攣し始めそうなのは、別にジュース差し出してるこの手が辛いとか、ペンより重いものはもてませんとかそういうんじゃなくって、単に引っ込みがつかない自分との葛藤がすごいから。
 陽が動いたのは、私と、ジュースと、それからもういっかい私を見た、そのあと。ゆっくり、ゆっくりと伸びてきた手は、パックをそおっと持つ。あんまりおずおずとした調子だったから、思わず私はいつ手を離したらいいかわかんなくなっちゃって、もしかすると、いやわかんないけどさ、それはえらく緩慢な手渡し、だったのかもしれない。それこそ、私と陽が一緒にパックを持ってた時間ってそれなりにあったんじゃないだろうか、なんて、そんな変なことまで、考えてしまうくらいには。なんて私の思考はさておき、陽はちょっと会釈する。
 多分ありがとう、って言ってくれた、のだろう。さっきから結構な量の汗をかいているようにも見えるし、って、いや、見てないです、何も考えてないです、ほんとです、ええと、たぶん。普段は多分可愛い、っていうのが似合いそうなんだけど、そういうときはどっちかっていうと綺麗なんだよな、なんて、いや、うん、大丈夫、大丈夫、おかしくない、おかしくない。
 にしても、えらく暑そうな割には、ほっぺたが赤かったりはしないんだな、なんて考えている間にも陽は両手でジュースをそっと持って、口に――。

「あ……ストロー」

 ああ、私ときたら、なんて馬鹿なことを口走ってしまったんだろう。でもだって、見た瞬間そう思ったんだからしょうがないじゃないか、ってそういうことじゃ、ないだろうに。ぽろっと出た言葉はどうしようもない、覆水盆に返らずだよって頭の隅っこで友紀が苦笑する、いやいやそれどころじゃないんだってば、きみきみ。これは、未曾有の大ピンチ、というやつだよ。私がそう言うが早いか陽はばっとこっちを見た、でもストローはまだくわえたままだった、タイミング悪すぎだ、私。なにも飲み始めようとした瞬間に言うこと、ないじゃないか。

「って!! あ、い、いや、な、なんでも、なんでもないよ!?」
「………っ」

 急いでフォローを入れたところで今更感しか増さないのは残念ながら自明の理であって、つまり陽はストローをちょっとくわえただけで飲みもしないまま、慌てて私の手にそれを戻したのだった。その行動に一瞬ふっとかなしくなったのはでも多分に勘違いというかそうでなければいけないわけで、ええと、だから、でもちょっとはくわえたんだよなって、そういう話じゃないぞ、私。ジュースはまだ冷たいはずなのに、手があんまり熱いからなのか、それともほかの事なんて気にしちゃいられないのか、冷たいパックを握ってようがなにしようが私はかあっとした気分で居た。
 もう一回ジュースを勧めようかと思って、その場合このストローを何とかしなきゃいけないんだけど他に飲む方法といったらパックを切り開くくらいだろうし、でも私今鋏持ってないし。というかちょっとなぜか首のほうが固まっていらっしゃって陽のほう向くどころじゃないんっていうか、まあでも本来私はスケッチをしにきたわけだから前だけ向いてればいいといえばいいのか。にしてもさっきパック突っ返されたときに思ったんだけど陽の指先ってあんなに冷たいんだ、汗はかいてるように見えるけど体温は低いのかな。など、など、など。
 自分でもびっくりするくらいいろんなことが頭を駆け巡ってなんだかくらくらした、暑いせいってことには、ちょっと、できそうにもない。まともにそっちも向けないまんま、飲もうかなって手を伸ばしてはいやいや無理だってパックを置いた、そのくせ突っつき回した挙句に倒れそうになったときは慌てて支えた。ちくしょうこれ、持って帰ることになりそうだ、でもそのあとは。どうする、って、そりゃ、パックあけて飲めばいいんじゃないかな、いや、そういうことじゃなくって。

「…………。」

 陽にはできるだけ聞こえないような大きさで――まあ、どっちにしろそっちは今見られないんだけど――スケッチブックに頭を押し付けるようにして、ひっそりと、ため息をついた。ああ、もう、わかってるんだ、わかってるんだよ、おかしくないよっていくら言い聞かせても、これは多分私の理解だとか理性だとか、そういうのが全然及ばないとこの話だから。
 もうどうしようもないくらいになっちゃうんだ、だからたまになんにも目に入れたくなくなる、かっと腫れ上がりそうな頭だけ抱えて、暫くしなきゃ落ち着かないって、そんな。何か病気みたいなものですか、病気だったらまだよかったんじゃあないだろうか、なんてったってそれには治療法がある。こっちはだって、わけ、わかんない、から。
 言ってみればこんなのどうでもいいことなんだ、潔癖なほうでもなんでもない私は兄二人とも妹ともカップをシェアできたりするし、美穂たちとジュースの回し飲みなんて日常茶飯事だ。大体にしてそれをひどく気にしてしまうような関係に私たちがあるのかといったらそんなことは絶対にないわけで、となるとやっぱり、おかしいのは私だってことに、なる、わけで。
 ああわかってるよ、こんなのはへんだ、そして私がへんなのだ、わかってても勝手にそれは膨れ上がってしまって、だから私は陽のこと、たまに、見ていられなくなる。見てたらだってそれは私の手の届く範囲も何もかもこえて膨れ上がっていってしまいそうなんだ、それは、なんだか少し、怖いことで。どんどんおかしくなるのは、やっぱり、なにか。
 そう、たぶんそのくらいまで、考えたころだった。

「……っう、え?」

 一瞬、頭が真っ白になった。頭の中が頭の中だったから、しょうがないといえばそうだったのかもしれないけれど。なにせ今の今まで、目にも入れられなかった子が、触れてきたのだ。といってもそれは手を伸ばしたとかそういう話ではなくって、そうではなくて、もう少し私がどっきりするようなやり方で。すとん、と音がしただろうか、したかもしれない。そのくらい突然に、音よりも先に感覚が届いたんじゃないかってくらいに、陽は私の肩に、頭を、あずけていて。あずけて、いや、これはなにか、おかしい、ような。
 これはだって、どちらかというと、くずれてきた、っていうほうが、正しいんじゃ――。

「陽……ちょっ、と、陽!?」

 そして、事態は私が考えていたよりもずっとずっと、じつは深刻だったのだ。

 浅い呼吸、青白い顔。からだはひどく冷たいように感じるのに、汗だけがすごい。そして、多分意識が、だいぶ遠ざかっている。完全に失神してるってわけではないみたいだけれど、呼びかけには答えない。医療知識なんてものはからっきしで、ついでに文化部系統にしか所属経験の無い私にも、これは多分熱中症だかなんだかそのへんの、こう、まずいやつだ、っていうのは、いたくわかった。
 しかしわかったにはわかったとして、それからどうしたらいいかっていうのにはやっぱり知識が必要なわけで、さっと背筋が寒くなって脳内が大渋滞するだけの私では、だめだ。がっくりと頭をもたれてしまった陽を、できるだけそっと木陰に寝かせながら、必死に頭を回す。考えろ、考えろ、どうするのが一番いいんだっけ。ええと、こういうとき、は。

「そうだ、せん……」

 先生を、と思ってぺちりと自分で頬を叩いた、だめだ、今日、土曜日じゃないか。土曜日ったら部活の顧問くらいしか学校にはきてない。もちろん保健室も、開いてるはずもない。しかもそうだ、よくよく考えてみたら、というか目の前のスケッチブックが思い出させてくれるけど、今は高総体前なわけで、となるとほとんどの運動部が土日は遠征に出てる。学校に残っているのは準レギュラーの部員とか一年生とかばっかりで、先生は多分、遠征組みの引率に出てるはずだ。グラウンドにも体育館にも、そういえば先生を見かけてない。
 ああもう、こんなことなら保健体育の授業とかもっとちゃんと受けていればよかった、一人じゃどうしようもないじゃないか。陽は浅い呼吸を繰り返して、くるしそうに目を閉じたままだ。頭は異常なくらいにフル回転してるのにいい解決法が思いつかない、もういっそ救急車でも呼んでしまおうか。ここで携帯出したら後で確実に没収されるけど、そんなのはもう、どうでもいい。と思って、もうひとりじゃむりだって、携帯を取り出しかけて。

「……っ友紀、彼方!!」

こういうときはものすごく頼りになる友人が居るってことを、私は思い出したのだった。







 

 

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