「ゆめみたいなこと、さけぶんだ!!」




 最初に浮かんだ言葉は、たぶん、"分不相応"だった。
 どんな場所にでもそこに合うひとと合わないひとがいるのは当たり前のことで、そんなのは魚は空を飛べないだとか、鳥は海を泳げないだとか、暗い中では何も見えないだとか言うのと同じくらい、当たり前のことだ。白熊が暑い場所ではなく、自らの生きやすい北極に住むことを選ぶのを、誰が責めるだろう。
 同じようにその合う合わないというのは私たちにもあって、水が合わない場所では苦しくなってしまうのは当然のことで、それはぜんぜん悪いことなんかではないんだ、と、よく言われた。私はそういう意味で、難しい子だったようだから。端的に言ってふつうにできない子の部類に入る私は、でも優しい優しい周囲から、それでもいいよ、とよく言ってもらえた。あなたはあなたでいいのだ、あなたの呼吸できる場所に在ればそれで良いのだ、と。そしてそれはとてもありがたいことだった、と思う。でも、だからこそ、私はきっと知らなければならなかったのだ、とも思う。
 だってお母さんもお姉ちゃんも先生も出会った友達もみんな優しくて、私は、そんなひとたちにいつまでも心配を掛け続けるようであってはならないのだ。それなら私は知らなければならない。できないことはできないと、理解しなければならない。私が居られる場所というのを、理解しなければならない。
 だから、晴れた空の下を歩くことへの憧れなんて、もう、捨ててしまって。

「…………」

 扉を開けるところまでは許されていたんじゃないかと思う。きみが毎日来てくれるのは玄関扉を抜けたその向こう、門扉のあたりだったから。毎朝毎朝文句の一つも言わずに、どころか穏やかに笑ったままできみはそこに立っていて、私が俯いてしまうよりもずっとずっと早く、おはようと声を掛けてくれるんだ。そう、あのあたり。あのあたり、までは。
 少し重たい玄関扉を開けた、門扉までのわずかな距離を歩いた、今日はやけに蒸し暑くて、南天する太陽はまっすぐとまっすぐと私の腕を焼く。強い陽光は家の前に広がっているアスファルトの地面をあたためていて、その上にはどんな影も落ちていなかった。見慣れた背の高い影も、ない。こんなに早く脱水になるわけがないのに、気が付けば口の中は妙にからからだった。
 でもそうしていつまでも立ち止まっているわけにもいかなかったから、私はひどく重たい足を前に進めたんだ、倒れるよりも前にもう片方の足を前に出せばいいの、歩き方なんてふつうはひとつひとつ考えたりしないものでしょう、みんなちゃんと知っていることなんだから。それでも一歩一歩やけに小さい、多分にひどく不格好な歩き方で私は這い蹲るみたいにじりじりと前に進んで、太陽熱で暖まった門扉を、開けた。
 そこは住宅街の間を格子型に走っている狭い道の一本でしかなかったけれど、門を出た瞬間にやっぱり私の両側はすっと開けたようで、暑くて暑くてたまらなかったのに、涼しいような――寒いような、気が、して。額から流れた汗が、こめかみを伝って頬へ流れ、それからぽたり、と地面に落ちる。

「…………」

 いつの間にか足は止まっていた、細く繰り返しているだけのはずの呼吸が、やけにうるさい。心臓の音がそこに混ざって、おとが、おとで、いっぱいになる。それは急速に私のつま先から頭のてっぺんまで膨れ上がって、外にまで漏れ出ていきそうで、喉の奥が押しつぶされるように苦しかった。
 そう、このあたり、でも、このあたり、までなんだ。探しても誰もいないのは当たり前なのに、私はこちこちに固まってしまった体とは裏腹に、ぎょろぎょろとひっしに目だけ動かす。熱い熱いアスファルト。マンホールと陽炎。お隣さん家の植木、葉擦れ、入道雲、青、緑、灰色、黒、くろ。背中でまだ閉められてもいない門扉が、きいきいと静かな音を立てる。
 晴れた夏の日曜、昼過ぎ。誰も歩いていない、静まり返った道。そこに私の影はすとんと落ちていて、ただ、それは、それはひどく、噎せ返るような夏の匂いには、似合わなく、て。ちがう、わたし、わたしはあるこうって、そう、まちあわせばしょに、いかなくちゃ、あしを。あしを。あし、が、おもい。

「…………、」

 角の向こうからみぃつけたって私を私をゆっくりと或いはどろりと呼ぶような声がしてそれはたぶん真っ赤な色をした音だったのだけれどももう私の中は音で音で音でいっぱいだったからそれ以上はいりきらなくて開いた口からは吐息か影か黒かそのようなものがまき散らされてそれは当たり一面をべったりと汚したのだ私はそうだからカンバスの上にぽたりと落ちた黒い染みになるのだそれは綺麗な夏と昼と太陽にはあまりにも似合わない似合わないから吐き気がして頭痛がひどくてこわくてこわくてこわくてこわくて、

 倒れないようにと踏み出せばよかっただけのはずの足はもつれて反転、熱いアスファルトの上、膝と頬のあたりがじんじん痛むのだけ、感じていた。感じながら、ぼんやりと、ぼんやりと、ああ智ちゃんに、やっぱり行けないってメールしないと、なんてことを、かんがえた。



「ねー、ねー、ねーねーネバーランド!」
「どうしたんだいウェンディ、妖精の粉なら品切れだよ」
「美穂っちまでそういうこと言うの!? もう大人の決めたルールに縛られるのはごめんなのに!!」

 智ちゃんと美穂ちゃんがそんなやりとりをしていたのは、金曜の昼休みのことだった。智ちゃんはだいぶ勢い良く首に抱きついていたみたいだけれど、美穂ちゃんはさすがに慣れてるのか、余裕の表情で冗談まで切り替えしてる。前々から思っていたけど、ほんとに、仲良しだ。
 二人はどうしてだかよく私といっくんの席の近くで賑やかに話をしてくれるので、実際のところ私は、休み時間に退屈したことが――小テストの対策をしなきゃいけなくても、基本的にこの二人の楽しいやりとりをBGMにやるから――あまりない。
 それは私にとってはすごく楽しいことなんだけれども、良く巻き込まれては苦労する羽目になっているいっくんは、呆れたような、あきらめたような、そんなため息を一つついてから、ぼそりと言った。

「……なんかダジャレから若者論までえらい無理な展開を見せてるけど、要は智、来週からのテスト期間が嫌で騒いでるだけだよね?」
「るっさいなー、きーちゃんとかよーちゃんならまだしも、成績どっこいないっくんに言われたくないし!! どうせ今回も一夜漬け仲間でしょ、握手!!」
「すごい嫌な仲間に入れないでよ!? ていうか、最近は一夜漬けじゃないよ、私! この間の小テストだってちゃんと追試免れたし」
「どーせよーちゃんのおかげなんでしょー!? 智をおいてくような真似はやめて一緒に底辺うろつこうよ!!」
「あー、はいはいはいはい、ちょっと君ら、醜い争いはやめたまえよ……しょーがないな、ぎっすんぎっすんになる前に、女神のような美穂っちからすてきな提案があるんだけど」
「提案? なあに、美穂?」

 場を取り仕切るみたいに手をたたいた美穂ちゃんは、にこにこと続きを促したきずなちゃんの肩をひどく自然な仕草で抱いてみせてから、どかっといっくんの机に腰掛けた。なんだか美穂ちゃんのこういう仕草は一つ一つびっくりするほど決まっていて、ベースの軽音部長はかっこいいってファンを集めてる、なんて話をよく聞く理由も、最近わかってきた、気がする。
 ちなみにいっくんはひとの机に座らないでよ、と弱々しく反論していたのだけれど、当然のように美穂ちゃんは受け流して、肩を抱いていない方の手で、わくわくした目で自分を見上げている智ちゃんの手を、ぽんぽんと軽く撫でた。

「テスト期間って、確か来週からっしょ? てことは、あたしたちにはまだ、今週末っていう猶予があるわけだ」
「ああ、まあ……でも、さりげに部活は今週くらいからなくなりはじめるよね」
「そう!! そうなんだよいっくん、たまにはいいこと言うじゃん」
「……たまには、うん、はい、たまに、ですね」
「で、だ、あたしもまあこのまま夏を横目に勉学に励むのはちょぉっと辛いものがあるしさ。ちょーどよーちゃんも馴染んできたわけだ、そろそろいっちょ、この面子で遊びに行こうよ」

 にっと笑って告げられた提案にはほかの三人は一斉に賛成して、智ちゃんから無邪気に話をふられた私も、思わず頷いてしまう。お姉ちゃんから何となく聞いていた以上に北洋高校はずっと忙しい学校で、部活をしながら毎日それこそ自分で考える必要もないくらい大量の宿題と戦っていると、遊びに行くひまなんてほとんどなくって、気がつけばそれは初めて学校外で、この新しい友達と会う機会だったのだ。
 その後すぐに予鈴が鳴ってしまったからいったん話は途切れたけれど、休み時間のたびにやっぱり集まるメンバーは、その話題でもちきりになった。特に智ちゃんなんかは本当に楽しみみたいで、掃除の時間までモップと一緒にこっちまでやってきたから、なんだか可愛かった。

「だってさだってさ、んなクソ忙しい学校だと、同じ部活でもなきゃほんと一緒に出かけたりしないじゃん。智はねー、よーちゃんに見せたいものとか、一緒に行きたいとことか、すっごいいっぱいあるんだよ!?」
「あー、確かにあたしと智は案外寄り道してるしね……てか、行くんだったらやっぱりあそこは外せないっしょ、智」
「トルテ!! トルテやばい、まじやばい、あっよーちゃん甘いもの好きだっけ? うん、だったらすっごいいいとこ見つけたんだ、こないだ!」

 ちなみにそんなふうにして騒いでいたら、いったいどこから見ていたのやら不思議なほどにすっと現れた糸井先生からいつもの暢気な調子の注意が飛んできたんだけれど。
 ただそれでもやっぱり部活に行く前には、大きく手を振った智ちゃんが、それじゃあ二時に駅前で、と教室中に聞こえそうな声で言って、私はそれが、その言葉が、あるいはそのとき智ちゃんが浮かべていた笑顔が、ほんとに、ほんとに、まぶしく見えた。
 まぶしくてまぶしくて、なんだかずっと、見ていたいような気がして。だからいつでも思い出せるように、ぱっとあたりに散ったそのきらきらを集めて、抱きしめて。

 それを一番最初に思い出すことになったのは、日曜日の真昼より少し前のことだ。
 あんまり早起きだったかな、と思いながら、塾に行くお姉ちゃんと仕事に行くお母さんの朝ご飯を作ってみたりなどして時間を潰したけれど、結局二人の背中を見送ってからも私が出るまでにはずいぶんと時間が余ってしまって、何となく部屋の窓から、今日も焦げ付きそうなくらい強い日差しを眺めていたとき、携帯が鳴った。
 画面を見たら表示されている名前はまさに今日これから会う予定だったはずの智ちゃんで、不思議に思いながらメールを開いて、最初に目に飛び込んできたのは、頭に並んだ残念そうな顔文字が、みっつ。

"今日、いっくんが風邪引いて、来れなくなっちゃったみたい"

 できごとというのはたいがい知らされたその瞬間には三分の一くらいしか理解していないもので、そのときの私も例によって例に漏れず、ああ、そういえば昨日の夜はちょっと涼しかったかな、それとも月がすごく綺麗だったから、いっくんの場合だとそれに惹かれてふらっとスケッチにでも行ったのかな、なんてことを、考えていたのだ。
 だから私にいろんなことをすうと突きつけてくれたのは次の言葉。その次に、まるでなんでもないことのように、智ちゃんが送ってくれた言葉。

"いったん集まったらよーちゃんの家まで迎えに行くから、ちょっと待っててくれる?"

「…………」

 これはおかしいって、思うでしょう、私も最初に、思ったよ。
 だけどその後に愕然としたんだ、おかしいって、だけどこれがかりにおかしいのだとしたら、私は最初から何もかもおかしかったんじゃないか、って。そう本当は、一人で外に出られなくて、お姉ちゃんから果てはいっくんまで巻き込んで、毎日迎えに来てもらえないと学校にも行けなかったような私は、最初から、なにもかも。
 だっておかしいじゃないか、いっくんが風邪を引いてしまって私を迎えに来られないからと行って、それは言ってみれば今までどこか狂っていたものが正常に戻っただけのことで、代わりに智ちゃんたちがみんなでうちまで来てくれるなんて、そんなのどうして私が甘受していいだろう。
 そもそも私はそんなふうに、トクベツな存在なんかじゃないんだ。握りしめた携帯の画面では、多分に私へのやさしさでくっついているかわいい絵文字が、ぴかぴかと光っていた。目を閉じる。これは違う。私はトクベツなんかじゃなくて、ただ、ひとより劣っているだけなのだ。
 だから私はひとつ息を吸って吐いてから返事のメールを送った、智ちゃんのぶんぶん振られてた小さな手なんかを、はんぶん白くてはんぶん黒い意識の中にフラッシュバックさせながら。こちこちと繰る携帯は声が出ないせいでだいぶ頼ってきたから、操作もかなり慣れてきていて、もしかすると私は、自分が打った文字を自分で理解するよりも早く、智ちゃんに送りつけていたのかもしれない。

"いいよ、大丈夫だから。二時に駅前で、待ち合わせだよね。"

 いいや私は、その言葉がどんなにかゆめのような意味を持っていたなんて、ちっともわかったいなかったの、かも。だってそうして家を出て、僅か10分後の話。
 私は、膝と頬のあたりからどろりとなにかみにくい液体をにじませながら、部屋の中に、また部屋の中に閉じこもって、行けませんでした、なんてばかばかしいことこのうえないメールを、智ちゃんに送っていた、のだ。


 智ちゃんから返事は来なかった。いやもしかすると、そういう意図を込めた文章を、私は送ったのかもしれない。わからない。わからない。自分で書いたことすらもう覚えていないし、さっきと同じように、理解は行動に追いついていなかったんじゃないだろうか。また確認するにはくらくらするほどの勇気が必要だった。
 ただそんな私でもどうにかわかったことはあって、たったひとつだけあって、ああさっきの私はなんてばかだったんだろうって思ったんだ、いったい何を、なにをゆめみたいな、ことを。ゆっくりと持ち上げた手を額に当てた、炎天下のせいでまだ乾ききらない汗が、べったりと手のひらを濡らす。それでもきっとこの感覚は私にとってのリアルではない。まるでゆめみたいだって、ほら、思っているんでしょう。手のひらから先は消失してしまったんじゃないの、たった今。

 消えてしまいそうなのはつまりそこでは私は呼吸ができないということで、そう、似合わないのだ、私はあそこに。まさに分不相応、くらい場所でしか生きられないなら、そこでゆっくりと呼吸していればいいじゃないか、目を灼くほどの晴れすぎた空なんて、見つめなければいい。
 だいたいうまくやれもしないのにそこにあこがれるなんていうのはほんとうにおかしな話で、だから、待ち合わせってどんな感じだっただろう、とか、ともだちとあそぶっていうのはどんな、とか、トルテのお菓子はどんな味なんだろう、とか、そんなのは、ぜんぶ、ぜんぶ。あなたをきずつけるだけのせかいなら、すててしまって。

"今日はごめんね、陽。明日も、学校行けそうになくて、ほんとにごめん。だから、"

 携帯がもう一度鳴ったのは夜になってからのことで、私は途中で読むのをやめてしまって、すぐに返事を打った。理解しないのはもしかすると、考えないようにする為なのかもしれない。突出した自己防衛の能力だけが、正常に稼働し続ける。
 いっぱいいっぱい謝っているいっくんに私は大丈夫だよって送った、大丈夫、ちゃんとお姉ちゃんにお願いするから、だから心配しないで、ゆっくり休んで。うまくやれないならやれないなりに、できるだけ迷惑を掛けないように――きっと無理をして心配をかける方が、ずっとずっと迷惑なのだから――私は私のせかいで、ただ生きて、いくのだ。

「…………」

 ぱちんと軽い音を立てて携帯を閉じる。風邪、どのくらいなのかな、夏風邪かな。熱、高いのかな。ぼんやりとそんなことを考えるけれど、そう私は、きみの風邪を心配する内容を送るなんて、そんなおこがましいことは、できない。外にも出られないような私が、ひとりではなにもできないような私が、そんなこと、言ったって。
 きっときみは、ううんみんなは、ばかばかしいって、嘲うよね。

 そうして、笑い声と泣き声はなんとなく似ているなあなんてどうでもいいことを考えているうちに朝は来て、昨日の夜のうちに言った申し出を、お姉ちゃんは快く受け取ってくれた。

「それじゃあ……そろそろ、行こっか、陽」
「はい、二人とも、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん、行ってきます」

 お弁当を鞄に詰めたお姉ちゃんは、私が追いつくまで待ってから、門扉を開ける。最近は台所から声を掛けるだけだったお母さんが、今日は玄関先まで見送りに来ていて、振り返ると目が合って、小さく手を振られる。口元は笑っていた。口元だけ、笑っていた。
 お母さんそんな目で、私をみなくても、いいんだよ。私は無理なんてしたりしないし、私は私のできないことを、もうわかっているから。お姉ちゃんの背中を追って、できるだけ元気良く見えると願いながら、歩き出す。右手に持った黒い手提げの制鞄は、今日もずっしりと重い。
 ここのところ続いている真夏日は朝だろうが容赦ない日光を降り注がせていて、暑いのがとても苦手なお姉ちゃんは、足取りが少しだけ重たそうだった。うっかり追い抜かしてしまわないように、ちょっと歩調を変える。蝉はもうすぐ、鳴き始めるだろうか。それよりも今日からテスト期間だねってお姉ちゃんが言ったように、たぶんそんなことを、考えた方がいいだろうけど。

「なんだか、久しぶりだね」
「……?」
「一緒に、学校行くの……ううん、こうやって、外で二人で居るのも……久々じゃない、かな」

 言われてみれば、家じゃない場所で、こうしてぽつり、ぽつりというお姉ちゃんの口調を聞いたのは、久々だった。いや、というよりも、以前の方が異常だった、の方が正しいのかもしれない。そもそも高校三年生で今年受験であるお姉ちゃんは、二年の私よりもずっと課題が多いし、放課後も遅くまで補習がある。そんなふうに生活リズムはぜんぜん違うのに、北洋に転校してきてから暫くの間は、私はお姉ちゃんに、それこそべったりだったから。
 だけど今は、と言われれば、確かにお姉ちゃんと居ることは少なくなった。でも、それは、だって、ただ。ただいっくんが、いてくれたから。代わりに、という言葉が一瞬浮かんで、驚くほど必死に打ち消した。違う、そういうんじゃない、そういうんじゃ、ないんだけど。でも。
 でも、結局のところ、私が誰かに頼ったままであるというのは、変えようのないこと、で。

「陽……すこし、変わったね」
「…………」

 なのにお姉ちゃんはそう言って、ふいに見上げた私の目をまっすぐ見つめ返したまま、ゆるりと微笑んでみせた。普段からどことなく気弱なお姉ちゃんは、いつもなんとなく困った顔をしていると同級生からも定評があって、そうかなあ、なんてことすらも、少し眉を垂らした、やっぱりなんとなく困ったような顔で言っているような、そんなひとだったのに。そのときは、確かに、笑っていた。
 でも、いや、だから、私には余計に、お姉ちゃんがいったいなにを言っているのかが、わからないように思えた。変わったって、なにがだろうか。外からすれば、この故障した私の隣に居てくれるだれかがお姉ちゃんからいっくんに変わったって、私がどんなにそれを否定したくても、結局そういう風にしか見えないはずなのに。お姉ちゃんの黒ほうせきみたいな瞳は嘘じゃないよとつよく語り掛けてくれるけれど、私の中にその理由はみつからない。

「……だいぶ、暑くなったね。もうすぐ、期末テストだし」
「…………」

「もうすぐ、夏休みだよ、陽」

 お姉ちゃんは額の汗を手の甲でそっと拭いながらそう続けて、私は、まぶしい太陽を見上げるよりもずっとひくい視線で、だけどお姉ちゃんのそんな顔を、たしかに見上げていた。隣から、見上げていた。
 そうしてそのときやっと私は、何度も何度も一緒に通ったはずのこの通学路で覚えているのは、前を歩くお姉ちゃんの"背中"だけであったと、ふっと、思い出したのだ。
 だからといって、どう、ということも、ないのだろうけれど。

 バスの中は一応冷房が効いていてそれなりに快適だけど、降りた瞬間の熱気はやっぱりすごくて、それでだいぶエネルギーを削られたらしいお姉ちゃんは、でもちゃんと私に、それじゃあ六時半くらいに補習終わるから、と告げてくれた。部活もないだろうからだいぶ待たせることになるけど、と申し訳なさそうに続いたのには、首を振って答える。

「あっ……陽、いたいた! おはよっ」

 さわやかな挨拶が飛んできたのはそんなお姉ちゃんと別れてからすぐのことで、見ると、同じ部活で一番仲良くしてくれている彼方が、高い背に比例して大きな、でもとてもきれいな手を、ひらひらと振っていた。
 違うクラスである彼女と朝から話をするのはそう良くあることじゃなくて、そもそも学校に来る方法からして違うから時間帯も合わないのに、と思っていたけれど、どうも靴箱付近で待っててくれてたみたいだ。ちょっと用事があって、と彼方は続ける。用事、と頭の中でだけ繰り返して、次の言葉を待つ。

「あのね、もうテスト期間だから、基本的に部活はなしってことになってるんだけど……陽の学力なら一日くらい大丈夫って信じて! 今日、放課後、家庭科室に来てくれない?」
「………?」
「もちろん、ほかの部員は来ないんだけど……ね、だめかな?」

 彼方は、低い私の背に合わせるようにかがんだまま、両手を合わせてまるで拝むようにして言った。強制的なものは、彼女の人徳からかあまり感じないけれど、なんだか必死な感じはした。学力の下りに関してはだいぶ誤解されている気がするけど、でも、とりあえず、頷く。どちらにせよお姉ちゃんを待たないといけなかったから、断る理由もない。

「ほんと、大丈夫!? ありがとっ、じゃあ、放課後、待ってるから!!」

 すると彼方は――しっかりしているように見えて、意外と突っ走ってるところもあると知ったのは、最近のことだ――私がそう返事するやいなやぱっと顔を輝かせて、じゃあ放課後にね、なんて元気な声を残すと、走って行ってしまう。
 呆然と見つめる背中で、お姉ちゃんのそれとはまた少し違う、癖のついた黒髪が、さらさらと揺れていた。


 教室に行くと三人がなにも聞かずにいつもどおり声を掛けてくれて、これおみやげ、と、可愛い包装のクッキーを貰った。渡してくれた智ちゃんの笑顔は、私のどこかにやきついているそれと全く変わらない。ただそれ以上は土日のことについての話が出ることはなかった。代わりに。

「でさ、いっくんちょっとやばくない? そりゃテスト当日休むよりテスト期間中でも休んで治したがいいっていうのはわかるけど……なんだかんだ結構大事な授業やるよねー」
「ふむぅ、美穂っち、智もそれについてちょっと寝ながら考えたんだけど、まさに神のごとき結論にたどり着いたよ!!」
「え、なになに」
「バカは風邪を引かない、風邪引いたいっくんはバカじゃない、つまり、テストは大丈夫……!! どうこの段々論法!!」
「うんうん、とりあえず智は美穂っちと一緒に常識の勉強からやり直そう、ね?」
「でもやっぱり、心配……そうだ、授業内容のこともあるし、みんなでお見舞いに行かない? ……ね、陽も!」

 代わりに話題に上ったのはいっくんで、きずなちゃんは相変わらず黙っていた私の方に、どこまでも自然とそう持ちかけてきた。
 智ちゃんや美穂ちゃんはすっかりその気になっていて、今からどう元気づけてやろうかと盛り上がっている。あの二人と居るとどっと疲れるよなんていつかいっくんは言っていたけれど、結局のところ苦笑の隙間に楽しそうな表情が見え隠れしていたから、きずなちゃんと一緒にお見舞いに来たなら、きっと元気になるんだろう。
 かりに話がだんだんと元気づけるからからかう方向に変わっているのだとしても、最後の最後で美穂ちゃんと智ちゃんのコンビはひとを笑わせてしまうから、きっと。

『ごめんね 私は、やめとくね』

 だから私は、そんなみんなの迷惑にどうかどうかなりませんようにと、ただそんな言葉を、書いたのだ。






 

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