「Hero」




 私の外見を一言で表現せよというお題を与えられた十人がいたとして、十人全員が中性的と答えるであろうことを私は知っている。知らない間に男子をも追い抜く勢いで伸びてしまった身長と、結ぶのが面倒だという理由だけで短くしている生まれつき色の薄い茶髪とは、他でもない私自身が毎朝毎朝鏡の前で向き合っているんだし。
 ただ外見と中身が必ずしも一致しないのは多分にありうることであって、私がとりたてて乙女っぽい性格でなかったにせよ、見た目どおりの少年っぽいはきはきとした元気な人柄なんて求められたって、困る。困るのだ。

「……困るんだよなぁ」
「なに、いっくん、口より手を動かして欲しい感じのこの状況で……まぁ愚痴ぐらいなら聞くけど。作業しながらでもいいならね」
「うん、ごめん……」

 いい加減減らない仕事に疲れているのか、現在同じ美術部室内で作業に励んでいる同学年の友紀は、ちょっと雑に私の言葉に反応する。といって、疲れていても反応してくれるのが、優しい友紀らしいとは思うんだけど。言葉どおり、作業をしながらでも友紀は小さな身体を捻ってこっちを向き、僅かな間促すような目で私を見た。私はそんな彼女の思いやりに苦笑しつつ、ごめんね、と小さく謝る。筆を置いて、手は止めさせていただいた。話しながらだと集中が切れてろくなものが描けないってのも勿論あるけれど、それよりも現在の心境だと、新入生勧誘のポスターなんて前向きなものは、どうにも描ける気がしなかったのだ。
 現在新三年生三名、新二年生二名、計五名の美術部は、三名以上が部活として認められる私達の高校の規則だと、三年生が引退した時点で同好会に降格。大会やら部費やらのことを考えればかなりの危機的状況であることはわかってる。だから新入生をどれだけ引っ張りこめるかが重要になるのだし、そのためにこうして新入生が入る前から部活勧誘の準備に勤しんでいるんだ。いくら美術部だからって、計50枚のポスターを全部気合入れて手描きは無理がある気はするが。
 因みにその提案をしたのは三年生の現部長で、でも作業をしているのは専ら私と友紀だけ。まあ、なんというか、もともとトンデモな部分の多い三年生方であるので、そこのところは今更突っ込みようもないとは思っている。つまるところ、私達には手を動かすしか今すべきことはないのだけれども。現在の私だと、こう、元気良く筆を掲げている新入生歓迎のポスターに、びっくりするほど暗い印象の色を塗りかねないというか。

「勘弁してくれ……今の時点で描き直しなんて、考えただけで気が遠くなるって。なに、取り返しつかなくなる前に話しなよ」
「え、あ、うん……っていうか、それほどたいしたことじゃないんだけどさ」
「でも落ち込んでるじゃん」
「うん、まぁね、それは……うーん、なんていうか」
「……わかった、オーケイ、君もたいがい隠しごとが苦手だよね。私が言うことじゃないけど。……鳴海先輩でしょ?」
「鋭……くはないか、わかるよね。うん、その通りです」
「そこ別に普通に鋭いって言ってくれても良かったと思うんだけど……いや、まあ、あんだけ熱烈アタックされてて気がつかないほうがおかしいっちゃおかしいけどさ」

 つい、視線が鞄の方に落ちる。授業もなく部活だけなので、制鞄は持ってこずそれだけ抱えてきた補助鞄のスポーツバック、その内ポケットに入っているものが、今の私を悩ませている直接の原因であるといえば、そうだ。もしかしたら、どこか折れ曲がったかもしれないけれど、受け取ったときはそれはそれは綺麗な封筒で、子犬の柄が可愛くて、これでも動物ものが好きな私はちょっと見惚れたりはした。流行なのか封筒からは仄かにいい匂いがして、中身の便箋にも薄っすらと匂いがついていた。そんなことを思い出して、つられて、渡してきたときの鳴海先輩を思い出す。これ、よかったら読んで。ちょっと赤くなっていた。はにかみながら鳴海先輩が差し出したそれを私はおずおず受け取って、言われた通り家に帰って読んだ、読んだよ、読んだんだけど。

「内容は大体わかってるから話さなくて良いよ……しかしなあ、身分が身分なら、いっくんは相当の幸せものだねえ。超絶美人じゃん、鳴海先輩って」
「友紀までそんなこと言わないでよ、頼むから! ただでさえ最近三年生の男子から睨まれてるんだよ!? 私何もしてないのに!」
「してないといえばしてないけど……まぁそれを言っちゃったらいっくんの容姿やらの話になっちゃうもんなあ」
「……別に私じゃなくても他にカッコいい人とかいっぱい居るし。付き合ってって、恋人になるって事だよ? 私女だよ!? っていうか、私じゃなくても先輩なら引く手数多じゃん!」
「そーれーは言っちゃいけないだろ、いっくん」

 と、途端に、目の前に筆が突きつけられる。黄色い絵の具が数滴顔につくのがわかったが、もっと気になったのは、そうしてきた友紀の目線。童顔の彼女はあまり厳しい目つきなどしないのだが、そのときは違った。違う、と思ったんだ。
 友紀はなんだか、いつもへらっとしている彼女からは考えられないくらい、真剣な顔をしていた。だから私には、顔についた絵の具を気にするよりも、友紀の目を見返すことのほうが大事なことのように思えて、そうした。どうやら学年一らしい背の低さを誇る彼女とだと、妙にでかい私のほうが明らかに座高が高く、完全に見下ろしているのは私なのだけれど、それを忘れてしまうくらい強い目でこっちを見る友紀を、見返す。友紀は口を開いて、びっくりするほど真剣な声音で、言った。

「女の子同士、引く手数多、それでも、鳴海先輩が好きなのは、二宮樹、君だよ。それくらいわかってあげなよ」
「…………」
「まあ、いっくん乗り気じゃないっぽいし、それはそれでいいと思う。気持ちの問題だからね。それは普通に断ればいいんだしさ。でもほら、一応軽んじないであげなよ、彼女本気なんだし」
「ん……そだね、ごめん、なんか」
「えっ、あ、いや、謝られるとなんかこう私も偉そうな顔はできないっていうかなんていうかですね……」

 友紀はそう言って、ていうかなんか偉そうにごめんほんとごめんわかってあげなよとかいって私もいつもいつももっと気持ち考えろって怒られてますごめんなさいなんて、何度も何度も謝ってきた。元来、友紀はこういうひとである。でも多分彼女が謝る理由はどこにもなくて、やっぱり謝るのは私のほうで。軽んじてる、か、確かに、そう思われても仕方がない。本気だって事はわかってたはずだ。昨日読んだ文面がそうだった。きっと死ぬほど緊張してたんだろう、少し震えた字で、どこか取り留めなく、でも、鳴海先輩の想いがこもった手紙。
 彼女は、彼女のありったけの想いをこめて、私が好きだと、私と恋人になりたいと云ったのだ。

「……別に、軽んじてたわけじゃないんだ。ただ、わかんない」
「わかんない? ん……女の子同士だから?」
「じゃなくて。なんていうのかな……友紀ならわかると思うけど、私さあ、みんなが思ってるような人間じゃないよ」

 見た目ほどスポーツができるわけでもなく、少年っぽい性格でもなく、カッコよく振舞う方法なんて全然知らない。好きな気持ちを貰うのは嬉しい、でも、それは本当に私に向けられたものだろうか。よく、そんなことを考える。絵がほんの少し得意で好きで、それから小さい動物のキャラクタが好きで、友人全員が口をそろえる意気地なしのお人よし、優しいだけが取り得、私を言い表すのは多分それが正しい。だから、勘違いされるのは怖い。好きな気持ち、真剣な気持ちがわかればわかるほど、私は不安になる。そんなに期待されたって、私に好きになってもらえるとこなんて、ほんとはないよ。
 ねえ鳴海先輩、それから今まで私に告白してきた人たち、ほんとうに私と付き合いたいんですか。自分からメールする勇気なんてありませんよ。二人で出掛けるなんて恥ずかしくて無理ですよ。いいとこなんて、私にはないよ。こんな見た目でもない限り、好きになってもらえるはず、ないんだよ。例え付き合ったって、私に出来ることなんて、してあげられることなんて、ないよ。
 幸せそうに笑うカップルはうちの学校にもそれなりにいて、多分私に好意を向ける人は優しくエスコートしてくれる私を想像してて、あんなふうに幸せそうな笑顔を作れる私を期待してる。その期待に応える自信がない。応えられるはずがない。だってもともと出来ないんだから。もっと他にいい人がいるよって言うぐらいしか、私には思いつかない。

「そーかなぁ……私は、いっくんいいとこいっぱいあるって思うよ」
「……うん、ありがと」

 それはそう言える優しい友紀が私の親友だからで、寧ろ君のそういうところが、いいところなんだよ。私はいつものように心の中でそう言って、卑屈に笑って、会話をやめた。
 コンプレックスは別に誰だって持っているものだし、誰だってそれが乗り越えられなくて悩んでるから、私だけが特別なわけじゃない。そう言い聞かせて、私は笑ってる。笑うことができる。そうして笑ったまま、きっと私はいつものように部活を終えて、そして鳴海先輩にメールして、できるだけ誠実な文で彼女の手紙にNOの返事をするんだろう。彼女は泣くだろうか、泣かないといい。泣かせたくない。泣かせたくないならYESを言えばよくて、それは多分簡単なことだけど、失望して泣かれるのが一番嫌だった。あのときの君は、泣いていた君は、もう新しい誰かを見つけたかな。それで、幸せにしてるといいな。
 君は失望を叫んで居なくなってしまったけれど、そのときから変われたかといえば、変われてません。でも、君のような人をもう一度作らないようには、しています。そんな意気地なしだとは思わなかったなんていって泣かせないように、もっといい人が居るよってちゃんと言い聞かせられるように、私は私として、どうにかこうにか稼動しています。私はただ笑って笑って、卑屈に笑って、ひとの好意を受け流す。真剣な想いが怖い、期待が怖い、私に失望する人が怖い。それはそれで、仕方がない。私は変われない。コンプレックスは乗り越えられない。そういうものだと、諦める。乗り越えられないんだったら、一人で。
 けらけら一人で笑っている私を友紀は少し怪訝そうに見ていたが、微かな足音と、数秒後に開かれた美術室の扉とで、彼女の顔からそんな表情は全部消失した。私は筆を持って洗い場へ行く。水はまだ冷たくて、手先が冷えた。いつかの君の手先は寒そうで、でも、握ってあげることも出来ないのが、私で。触れあうばかりが恋人の定義ではないし、そうしなくても仲良くできることだってあると思うけれど、それは真剣に相手に向き合っていたときの話。取るに足らない恐怖心で、私はいつも、いつも、相手から目を逸らしていた。考えても仕方がないけれど、仕方がないって、わかっているけれど、たまにやりきれなくなる。
 ――たまに、このどうしようもないことを、このどうしようもない私を、どうにかしたくなる。

「お疲れ様! 家庭部でクッキー焼いたんだ、食べる?」
「わ……ありがと彼方、いっくん、どう?」
「あー、私はいいや。っていうか友紀、ちょうど彼方も迎えに来たとこだし、今日はもう上がっていいよ。あとはやっとくから」
「ん……え、でも、後片付けとかまだ残ってるよ? ほんとにいいの?」
「いいっていいって。彼方、お得意のパワーで連れ去っちゃっていいよ」
「んー……樹、パース!」
「えっ、あ、うわっ!?」

 突然友紀も頬張っていた、彼方製作のクッキーが彼女の手によって宙を舞って、私のほうまで飛んでくる。綺麗な猫の手形のクッキーだ。放られたものをうまくキャッチする能が私にないといっても、それを補って余りあるコントロールが投げ手のほうにあったので、難なくキャッチ。してから彼方を見返すと、美人な顔を幼く歪めて、少しいたずらっぽく笑う彼女。

「樹も疲れた顔してるよ、あんまり無理しない。甘いもの食べたら、元気出るよ!」
「はは……サンキュ」
「どうしたしまして。でもお言葉に甘えて、連れ帰らせていただきます。じゃあ、また明日ね! みけ、はい」
「うおっ……え、や、あの」
「……はい、って言ってるの」
「……そうですね」

 渋々、でもちょっと嬉しそうに、友紀は小さく頷いて、彼方が差し出した手を握る。彼方が妙なあだ名で友紀のことを呼ぶことを知って以来、私は彼方と友紀の関係を知った。彼女達がいわゆる恋人同士であることを知った。それは確かに驚いたし、正直初めは信じられなかったが、片割れが同じ部活にいれば、彼女達がどれほど深く繋がっているかはわかる。わかりすぎるほど、わかる。そこに、色んな世の中の常識なんて通じそうにないことも。友紀の小さな手をごきげんに握り返した彼方は幸せそうで、はにかみながら私に小さく手を振る友紀も幸せそうで、彼女達は恋人で、多分、ふたりで笑顔になれる関係だった。証拠なんてそれで充分だ。
 クッキーは甘くて美味しい。料理には自信があるらしい私の妹も唸るであろう、絶妙な味だ。類稀なる容姿と運動神経と料理の才能、その他諸々に恵まれた彼方。そんな超人の隣にいながら、ただ優しく、純粋に彼方が好きな友紀。そうそう深い話はしたこともないが、一年見てれば、それくらいはわかってきた。二人がどれくらい、誰にも負けないほど、互いが好きなのか。そんな姿はやっぱり羨ましくて、だから私もどうにかならないかなって思って。

「……おいし」

 どうにもなるわけがない、私が友紀みたいに、彼方みたいになれるわけがないと、いつものように、いつものように、私は諦める。クッキーは口の中から甘く甘く、疲れた体と頭に染みていく。おいしくて、少しあたたかい気持ちになって、放ってきた彼方と、心配したふたりとを、ふっと思い返す。並んだ足音が、段々と遠くなる。温かくて優しいリズムが、静かな美術室にしんしんと響く。なれるわけがない。私があの二人みたいに、なれるわけがない。
 早く後片付けして帰ろう、鳴海先輩に返事をしなければ。いつもどおりの返事を、しなければ。






「えーっと……まさか私には無理ですなんて言うわけにもいかないし……好きな人、もいないしな、じゃあなんでだめなんだってことにならないかなぁ……?」

 暗くなった校舎内、携帯と月明かりにぼんやり照らされながら、私は鳴海先輩へ送る文面と格闘していた。独り言は、そのほうが考えがまとまるから。誰もいないんだし。まとまるから、なんて言って実際今まとまっていないのだが、それは仕方がない。正直に言ったってわかってもらえることじゃなく、というか、わかってもらえたことがない。ので、言わない。どうにかこうにか言い訳を搾り出そうと今度は唸りながら、靴箱まで歩く。森閑とした廊下に響くのはぶつぶつ言ってる私の声だけ。

 ――じゃ、ないと、靴箱に差し掛かった時点で、私は気がついた。

「……?」

 声がする。いや、これは、声と呼べるものなのかどうか。声、よりも、気配、に近い。よくわからないが、直感的にそう思った。
 とにかくふっとそんなものを感じて、私は足を止めた。足を止めて、耳を澄ましてみる。そうすると余計はっきり感じられる、誰かの気配、みたいなもの。気配なのか声なのかはっきりしないっていうのもまた不思議なことだが、とにかくそうしか言い表せないものを、私はなんとなく感じて、それから、なんとなく、どこからなのか目で探っていた。
 しかし日が暮れた校舎内は暗く、誰かの姿がはっきり見えるというほどの明るさはない。それに、さっきまで携帯の明るい画面を見ていた目は、暗闇に慣れていない。携帯は仕舞わなきゃ良かったな、とそのとき思って、すぐに、思い直した。靴箱を越えた向こう、部屋の隅っこ、ぼんやりとした月明かりの下。 

 そこに、綺麗な女の子が居た。


 顔立ちとか、そういう意味でなく、私は見た瞬間に、綺麗以外の言葉が思いつかなかった。
 靴箱が立ち並んでいる、その影に隠れるようにして、でも、月明かりだけには仄かに照らされて。それはひどく切実に彼女の孤独を私に伝えて、私は声も出さずに立ち尽くす。誰だろう、うちの学校の制服を着てる。でも、見覚えがない。窓の桟に手をかけて、佇んでいるその子。俯いている彼女の表情は、少し長めの前髪と、明かりを反射する眼鏡に覆われて見えない。けれど、彼女が抱える感情は、痛いほど伝わってくる。
 とめどなく、とめどなく、少しだけ見えている白い頬を伝う涙。声も上げず、すすり泣くということもなく、ただただ、痛いほどの静けさの中で、涙だけが零れ落ちる。ぽたり、ぽたり、一粒、二粒、見えない瞳からこぼれた雫は頬を伝って、床へ。意味もなく胸が締め付けられるような思いがした、心の奥がぎゅっとして、ひどく苦しいような思いがした。ああ、また零れる。彼女の、悲しみ。

――真摯に思った、私は、こんなに悲しそうに泣く人を、はじめて見た。


 雫を追って私は視線を下に落とし、段々と目が慣れてきていたのか、彼女の室内履きの色を判別する。緑色。同学年だ。そう思ったときに一瞬驚いたのは、見覚えがなかったからだけではなくて、彼女の持つ印象はもっと小さかったからで。小柄といえばそうだ、学年で一番小さい友紀と同じくらいかもしれない。背の小ささもさることながら、ここから見えるシルエットでも判断が付くほど彼女はひどく華奢な体躯をしていたし、だから小さい、という形容は、確かに似合っているけれども。
 でも、そうじゃなくて、もっとなにか。

「…………」

 小さく震えている、その彼女は、もっと小さく、小さく見えて。まるで、消えてなくなりそうに、見えて。
 ああ、もう一粒零れる。大粒の涙。私はそれを見ていて、じっと見ていて。

 ――気が付いたら、彼女の目の前にいた。







「っ……あ、あの、えっと!」
「…………」

 おかしい、歩き出した覚えなんて全然ないのに。でも私はいつの間にか数メートル歩いて、泣いていた子のすぐ近くまで来ていた。とっくに顔を上げていたらしい誰かは、目にまだ乾かない涙を浮かべたまま、呆けたようにじっと私を見ている。何か言わなきゃ、とは思うけど、言葉が出てこない。というか、何を言えばいいのか全然わからない。どうして近づいたのかも、どうして泣いているのかも全然わかってなかったのに、その子はすぐ近くだ。顔が見える。なんだか、鳴海先輩やら彼方やらえらくレベルの高い美人達を見慣れている私だが、ええと、すごい可愛い。
 いやでも、それどころじゃない。頭に血が上ってかっとなると完全に思考停止してしまうのが私の悪いところで、そのときも私は完全にオーバーヒート、何か言うどころか、ただやっとはっきり見えた彼女の顔に見惚れるくらいしかできない。二人、黙り込む。彼女のほうが何か聞いてきてもよさそうだが、向こうも私をじっと見るばかりで、何も言わない。眼鏡の奥、まだ潤んだままの、深い黒。悲しみに沈んだ色。
 瞬間、静寂を破ったのは彼女のほうで、でも何か話したわけでは、なかった。かん、かん、からから、甲高い音がして、彼女の手からシャープペンが落ちる。そのとき私は初めて、彼女がそれをポケットから取り出そうとしていたことを知った。音にびっくりしたのは私よりも彼女で、細い肩がぴくりと震える。どうして今そんなものを、と思いつつも、私のほうが近かったので、腰を屈めてそれを拾い上げる。持ち歩ける小さいタイプのやつだ。左手に載せて、彼女に向かって差し出す。

「はい、これ……っ」

 ぱしん。
 もう一度、甲高い音が、静かな靴箱に響く。それの後を追うように、シャープペンが転がった音が、また。零れたのは、私の手の平から。彼女に向かって差し出した、手の平からだ。
 私は呆然と、もう一度転がったシャープペンを見て、変な格好のまま固まっている左手を見た。左手は微かに痛い。すぐ消えてしまう痛みだけど、確かにある痛み。でも、痛そうな顔をしているのは、私じゃなくて。それも、私じゃなくて。今にも叫びだしそうなほど、痛そうな顔をしているのは、私の手を振り払った彼女の方だ。

 手がぶるぶる震えてた。
 私の左手を払った、その子の小さな手は、痛々しいほどぶるぶる震えてた。
 見れば、彼女は少し荒い呼吸で、肩まで小さく震えてて、それから、瞳が。

 瞳の中が、恐怖に揺れていたのを、私は確かに、見た。

「あ、ちょっ!」

 たん、と踵を返す音、彼女は私の横をすっとすり抜けて、学校の中へ走って行ってしまう。追いかけようとしてもどうしてか体が動かず、私は制止の声だけとりあえず上げて、そこに立っていた。影はあっという間に見えなくなって、廊下の方に消えていく。
 もう一度拾い上げた小さなシャープペン。それを私の手の中に残したままで、彼女は突然、居なくなった。





 それから数日私は毎日部活で学校に行ったけれど、彼女を見かけることは二度となかった。友紀や彼方にも一緒に探してもらったけれど、見つかることはないまま、新学期。入学式も無事に済んで、部活勧誘のポスターも描けて、やることは全部終わったはずだったのに、ポケットの中にはずっと小さなシャープペンが入ったまま。それを見ても見なくても、私はどこにいてもなんとなくあの子のことが気になって気になって、気が付けばそればかり考えている自分が居たりして、ここ数日で十人以上の友人からぼんやりしていると言われた。
 誰なんだろうと気になってはいたが、同じ学年だったら誰か知っててもおかしくないはずなのに、同じく来ていた部活生の誰に聞いても、そんな子は知らないし、シャープペンの持ち主なんていわれてもわからないと口をそろえて言う。終いには幽霊でも見たんじゃないかと先輩方からからかわれる始末。いや確かに悲しそうではあったけど、でも、私は確かにあの子に触れたじゃないか。今でもぼんやり思い出せる、手の痛み。そんなに痛くなかったのに、どうしてだかそれは私にしっかりと刻まれていて、忘れられない。

「いっくん? ……おーい、いっくんてば」
「えっ? あ、ごめん、なに……?」
「……なんかいっくんぼんやり具合増してるよね、最近。知らない人についていかないようご注意ください。いや、教室こっちだよ。そっち三年生」
「うわっ、と! ご、ごめん、ありがと……」
「や、いいけどさ……まだ考えてるの? なんだっけ、その、ペンの持ち主」
「……ん、まぁ」

 曖昧に頷いた。確かにこのペンについても気になっているが、多分そうじゃなくて、私は考え込んでる。頭から離れないのはあの子の涙で、呆けたように見上げてきた顔で、恐怖に歪んだ瞳で。特に何がどうというわけでもないけれど、考えてみれば結構印象的なシーンだったというか、あんなに悲しそうに泣いてる人を見て気にならないわけはない。お人よしだから、とかじゃなくて。
 友紀はまあ私ももう少し探してみるよ、じゃあ私隣だから、といって、二年二組の教室の中へ歩いていった。友紀に手を振って、私も新しい教室、二年三組へ行く。考え事はあっても時間は過ぎるもので、終わったクラス替えと既に割り当てられている教室に入らなければいけないのが、今日の私のやることだった。ペンを返すこと、は、どうやらいつまでも後回し。
 大体持ち主が見つからないことにはどうにもしようがないしな、なんて思っていると――元気な声が、飛んできた。

「ぶっぶー、飛んできたのはノットオンリー声、バットオルソ体! いっくん、いえー!!」
「ちょっ、オンリー声にしといて、智、危ない、あぶなっ……うわあっ!」
「そいでもってぇ、ノットオンリー智、バットオルソ美穂っち!」
「樹いくよー、とうっ!」
「え、いや、待っ……わあああ!!」

 要約すると声と二人分の体がいっぺんに飛んで来たわけで、いくら体が大きいとはいえさすがによろける。先に飛びついてきた智はそこそこ小柄だからいいものの、後からきた美穂は背も高いわけで。それ以前に色々突っ込まなくちゃいけないことがあるとは思いつつ、呼吸の点で私は少々ピンチを迎えていて、まず二人にどいてもらうのが先決だった。飛びついてきた智と、突進してきた美穂を順番に剥がして、一息。智はいつもの調子で悪気が感じられないからいいとして、美穂の方はなんだか悪意が見え隠れする。行動的に。

「えーちょっとなにそれひどいー、智ばっかり差別しないでよ、いくら智が可愛いからって! このロリコン!」
「いや、同い年だよね、私達……だって美穂、肘構えて突進してくるのはもう完全に悪意としか……」
「なんて言いがかり、ちょっとあたしの肘の位置が悪かったからって! いいわわかったわよ、もうあたし達終わりにしましょう!」
「大丈夫美穂っち、寂しいときはこの智が慰めてあげちゃうんだから!」
「智!」
「美穂っちー!」
「タイミング外したけど、とりあえず、私と美穂は終わるも始まるもないからね……?」

 新見智にしろ五条美穂にしろ軽音楽部なのだが、二人の熱演と情熱こもった抱き合いっぷりからして、演劇部にでも入った方がいいのかもしれない、なんて、どうでもいいことを考えたくなる。多分現実逃避だ。いい加減先ほどからクラス内の視線がばしばし刺さっていて、正直新学期初日から大変いただけないことになっている気がする。ただでさえ色んな意味で悪目立ちしている私なので、今年は、ひっそり暮らしたかったんだけど。
 明るいという意味で彼女たちを受け止めるならいい友達なのだし、そう悪い子でもないから憎めないんだけど、周りを全く危惧してくれないのが玉に瑕。ついでに私も目立っているのは、玉が割れそうだ。けれど教室の片隅で異空間を演出しているそこに、難なく近づいてくる人が一人。

「あ、おはよう、三人とも。樹、今年は同じクラスだね、よかった」
「おはよ、きずな……そうだね、去年は違うクラスだったもんね。今年はよろしく!」
「うん、よろしく。あ、美穂も智も、おはよう」
「はよー、朝からほのぼのだねえ、きーちゃん。そのふわふわオーラで傷心の美穂っちを癒してやってください!」
「っていうだけじゃなくて単に抱きつかせろー! おっはよーきずな!」
「はいはい、美穂はほんとに抱きつくの好きだね……ところで傷心、って樹、喧嘩でもしたの?」
「してないしてない、全然してない……きずなはお願いだから美穂の言うこといちいち真に受けないで……?」
「んー……樹、そこまで言わないの。美穂だって、十回に一回くらいは真剣なことも言うよ?」
「えっと……フォローが下手くそで正直なきずなも大好きっ! アイラブ!」

 美穂に勢い良く抱きつかれながらも、それを優しげな微笑を浮かべるだけで受けとめられるある意味凄い人間を、今のところ私は溝口きずな以外に知らない。心の広さ的な意味でもそうだが、美穂の抱きついてくる勢いといったら殺人的なものがあるわけで。現在彼女は文芸部で、彼女らしい優しい言葉をたくさん盛り込んだ散文を執筆したりと文学少女まっしぐらの生活を送ってはいるが、以前は合気道でならしていたらしいというのもあながち信じられない噂ではない。
 ともかく、美穂と智というたいそう姦しいメンバーと同じクラスになってしまったわけで、なんだか苦労が耐えない気がしてはいたけれど、きずなが居れば少し癒しが出る、なんて、私はちょっとほっとして。

「ねーねー美穂っち、いっくんがね、なんかちょっと智たちに失礼なこと考えてる気がするの! 智センサーが働いてるの!」
「なにぃ聞き捨てならん、女の嫉妬は醜いんだからね、樹! そんなに妬いたってあたしは心も体もきずなのものなんだからっ!」
「いや、ちょ……もう、どこから突っ込んでいいかわかんないから、ほんと……」
「大丈夫、樹? えっと……あ、そうだ、友紀でも呼んでこようか」
「ええと、突っ込み要員……? 流石にその用事だけで友紀を隣のクラスから呼んできたら、もう可哀相過ぎるよね」


 ああ、うん、そういえばきずなはどこかずれているのだったと思い出して、結局ため息をついたりも、した。呼んで来たりはさすがにしないにしても、いつもいろんな人の発言に綺麗に突っ込んでくれる友紀が、ちょっと欲しかったり。

「はいよー、全員席につけー。ショート始めるぞぉ、ショート」

 なんてことを考えていると、教室前方の扉が開いて、担任教師らしき人が、間延びした声で指示を飛ばしながら入ってきた。雑談していたクラス全体が一瞬そちらを見て、それからがたがたと言われたとおり席に着き始める。室内用サンダルをぺたぺたいわせながら、担任はのんびり歩いて、教壇に立った。始業式の時は大概の先生が少し固い服装をしてくるものだというのに、その人はえらくラフな格好だ。見たことはないが、なんだか変わった先生のように見える。眠たげな目線で、それでもクラス全体を見渡しているらしい先生は、四人まだ立ち上がっているこちらを見ると、席に着くことを促すように、手で席のほうを示した。

「おっとっと、アタシらも席いかなきゃね。んじゃまた、次の休みに!」
「え、まだ騒ぐ気……?」
「まあまあ、樹……緊張して元気がないよりは、いいと思うよ」
「って言ってもぉ、美穂っちはちょっと元気ないくらいでちょーどいいかもしんないよねっ!」
「……智、ごめん、正直言って智が言うことじゃないと思う美穂っちだよ」
「おーい、そこの四人、いつまで喋ってるんだー。あれか、夏休みボケか」
「せんせー、まだ春も初めっす! まだ綺麗な葉桜が見えるっす!」
「おー、元気があってよろしいぞ、えーっと、クサカ……サトか?」
「サトじゃないっす、トモ! 日下智、よろしくお願いしまーすっ!」
「うんうん、自己紹介はあとでどうせ全員にさせるからな。まず席に着こうな」

 担任と智とのそんなやりとりで室内にはさざ波のような笑いが起きて、固まっていた雰囲気が少しだけ和らぐ。智や美穂のようなタイプは、こういうときには役に立つ、といえばそうなのかもしれない。元来人見知りの激しい方である私も、幸か不幸か一年生で彼女たちと同じクラスになったため、あっという間にクラスの輪の中に放り込まれ、とけ込まざるを得ない感じになってしまったこともある。二年生でも同じクラスなら、どうやら友達に困ることはなさそうだ。
 それにしても少し驚いたのは担任教師の態度で、どここかのんびりした口調といい、眠そうにしか見えない顔つきといい、智に対する受け答えといい、なんだか先生とは思えない。去年の先生団には居なかったから、私の頭の中に彼……いや、彼女、かな、のことはなかった。私が迷う程度には彼女の風貌は中性的で、短く切りそろえただけの髪だとか、飾り気のない眼鏡だとか、ラフというより適当な格好だとかは、彼女の肩書きからすれば結構変わっている。
 なんて考えていると、無意識のうちに私はじっと先生の方を見ていたらしく、智とのやりとりを終えた先生と、ものの見事にばっちり目があった。逸らすのもおかしいので、とりあえず眼鏡の奥で細く見える眠たそうな目を見返してみる。先生は、数秒私を見た後で、名簿に目線を落とした。

「ニノミヤ……ニノミヤイツキ、か。あってる?」
「え、あ、はい、あってます」

 なぜか突然名前を呼ばれて、慌てて答えると、なぜか担任はにっと笑って、ひらひらと手を振った。彼女の眠たげな目は、でも、不思議に真剣な光を持って、私の方を見ている。

「おーけい、君にはお世話になると思うが、宜しく。えーっと、まず最初にあたってだな、君には一つ席を後ろに動いて欲しいわけだ」
「は……え、後ろ、って、詰まってるんですが……」
「うんそうだ、だからつまり西野以降は全員一個ずつずれまーす。気づいてる人は気づいてると思うが、実は席、一個空いてるはずなんだな」

 言って、担任は緩慢な仕草で教室の一番隅、本来ならば名前順の末尾の人間が座るであろう席を指差した。教室に居た全員が、なんとなくそっちのほうを見て、ぽっかり一つ空いた席を見つける。普通なら席の数だとかは学期が始まる前にぴったり合わせてあるはずで、余るなんてことはまずない。けれど、クラス全員38人が整然と座っている現在において、最後に席は一つ余っていて、それは、私たちに可能性を一つ提示する。私たちの表情を、どうやら可能性に気が付いたらしい表情を見て担任はまた笑うと、はいずれてー、と行動の開始を告げながら、教室の外に一瞬目をやった。がたがたと一つずつ席をずれて、結果、私の前に空席が一つできる。

「よーし、行動が早くてよろしい。えーっと……あぁ、そうだ、アタシはイトイソラっていうんで、よろしく。ついでに言うと英語担当」

 言って、先生は軽い挨拶のつもりか、ひらひら手を振る。最低限の、ひどく適当な自己紹介をした担任――糸井先生は、英語の先生らしいというか、早書きの達筆な字で黒板に「糸井空」と書いて、チョークを投げ出すように置いた。それから軽く手を払って、糸井先生は教壇を降りる。自然と目線がそっちに集中する。可能性が現実になりそうな予感で、クラスの雰囲気が変わったような気がした。ぽっかり空いてる席が持つ可能性と言えば、一番早く思いつくのは一つだ。

「んで、早速だけど、クラス全員に重大連絡。……転校生だ」

 教壇を降りた先生は扉を開けて、外で待っていたらしいその転校生を、そっと中に招き入れる。うちの制服に身を包んだ、でも見慣れない生徒が、そろそろと中に入ってきた。クラスがちょっとだけ沸き立っていたのは、高校に転校してくるというもの珍しさだったり、そもそも転校生ともなればだいたいはなんとなく気分が高揚するからだったりで。

 ――多分、入ってきた転校生を、息を飲んで食い入るように見つめていたのは、私だけだろう。

 肩まで伸ばした髪、顔に引っかかってる縁のない眼鏡、低い背、華奢な体つき。それから、長い前髪に覆われた、可愛らしい顔立ちと、隠れそうな瞳に揺れる、どこか怯えたような光。フラッシュバックするのは、ぼんやりとした月明かりに照らされた小さな影で、あまりにも悲しそうな涙で、必死に払われた手で。私は彼女を知っていて、彼女をずっと探していて。
 漸く見つけたいつかの子は、新しい私のクラスへの転校生だった。


 忘れるにしては期間が短すぎて、それから、忘れるにしては印象が強すぎた。私は先生が何事か話しているのを意識の片隅で聞きながらも、ずっと顔を下げてクラスの視線を一身に集めるその子をぼんやりと見つめ、無意識のうちに、ポケットの中のペンを握る。そうか、道理で見覚えも無かったし、誰に聞いても知らなかったわけだ。そもそも彼女はこの学校の生徒じゃなかったのだし。この前は、多分、用事かなにかで偶然来てただけだったんだろう。
 でも、やっと見つけた。私はふっとそんなことを思って、なぜだか妙に嬉しくなっている自分に気が付いて、少し不思議な感じがする。ペンを返せることがそんなに嬉しかったのかといえば、確かに返さなくちゃいけないのもそうなんだけども。ずっと頭の中、ぐるぐる巡って気になっていたひとが目の前に現れたら、どういうわけか、私はそれを嬉しいと思っていた。もう一度会えたこと、ただそれだけを、誠実に嬉しいと感じていた。小さな、本当に小さな気持ちだけれども、そうだった。

「えーっと、まあ、だから、そういうわけで……あとは自分で自己紹介してもらおうかな、高二なんだし。……おーけい?」

 と、ほんの少しぼんやりしている間にも、どうやらざっくばらんな担任による紹介は終了していたらしく、糸井先生は間中ずっと俯いていた転校生の肩に手を置いて、自己紹介を促す。転校生の子は、そこで漸く顔を上げて、糸井先生の方を見た。糸井先生も先生で相当背が高いが、彼女も彼女で小柄なので、ちょうど見上げる形になる。顔を覆い隠すようだった髪がさらりと流れて、不安気な表情が少しだけ露になった。綺麗な笑顔とかではないのに、思わず目が惹きつけられる。なんだろう、あの時も思ったけれど、あの子にはどこか、不思議な魅力がある。飛びぬけて可愛らしい、だけじゃなくて。

 ――私はそんなことを考えかけて、でも、その子が次に起こした行動で、私の思考なんてあっという間に飛んでしまったが、それは多分私だけじゃなかった。

 彼女は先生の質問に小さく頷いて答え、ずっと脇に抱えていた小さめのスケッチブックをめくって、ポケットからペンを取り出した。クラス全員が、その子のある意味奇妙とも思える行動に水を打ったように静まり返り注目する中、彼女はペンの蓋を開ける。痛いほどの沈黙が教室を包む中、彼女が画用紙の上にペンを走らせる音だけが、静かに静かに響く。

『私の名前は長野陽(ナガノ ヨウ)です 私立釧路北高校から転校してきました』

 ざわ、と、クラス全体が静かに波立つ。転校生――長野さん、は、簡単な自己紹介を書いたスケッチブックを握り締めたまま、小さく小さく俯く。それでもクラス全員の視線は彼女に集まる。
 何も言わない長野さん。何も言わずに、黙って長野さんのほうを見ている糸井先生。ざわめくクラス。私はその中で、その異様な空気の中で、一人シャープペンを握って、思い出す。あの夜、私が近づいてきたときに、同じように黙ったままこれを取り出した長野さん。持ち主のことばかり気にしていたけれど、よくよく考えてみたらその行動だって不思議だったはずだ。記憶は私の頭の中でゆっくりと繋がって、答えはしかし、長野さんの手が示した。綺麗な、でも少し震えた字体で。

『私は声を出すことができません 迷惑をかけると思いますが 宜しくお願いします』

 何も言わない長野さん。何も言わずに、黙って長野さんのほうを見ている糸井先生。静まり返った、クラス。

「……っていうわけだ。長野、頑張って全部話してくれたなぁ、偉い偉い。えーっと、まぁ、声が出ないだけであとは全員と変わらないわけだから、言われなくてもわかるだろうけど、仲良くするように」

 沈黙を破ったのは先生で、緊張の糸が張り詰めていたクラスの中で、緩やかな声は響いた。少しだけ雰囲気が柔らかくなる。それを同じく感じたのか、長野さんもスケッチブックを抱えなおしながら、漸く縮こまっていた身体を少しだけ緩めたようだった。やっぱり糸井先生は、ちょっと不思議な先生みたいだ。見た目はかなり若いから、そう経験豊富というわけでもないだろうに、妙な落ち着きがある。そしてそれを、生徒に伝染させる力がある。
 その糸井先生はまた長野さんの肩に手を置くと、優しく押し出しながら、私の方――正確には、私と私の前の空席のほうを見た。長野、そうだ、名前順が二宮の前だ。長野さんは促されて、ちょっと先生のほうを振り返ってから、歩き出す。席は前から三番目、彼女の小さめの歩幅でもすぐに辿り着いて、そして長野さんはスケッチブックと鞄を机の上に置く。

「あ……」
「……………」

 長野さんが椅子を引いて座ろうとするその一瞬前、私たちの視線は、ぶつかって。



 振り返ってしまう刹那、初めてはっきり見た目の中に、いつか見た恐怖の光が宿ったのを、私は確かに見たんだった。
 

 

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