「テサグリテツナギ」




 付き合いが長いと、わかってくることがある。

 ちょうど、二年前の話だ。十二月で、冬で、寒い日だった。雪がちらつきそうなくらいに、曇天の空だった。
 もちろんそんな中で、鋭利な風の吹きつける廊下に好きこのんで出ていこうとする生徒なんて、年末帰省もせずに残っている数少ない中にだっていやしない。子供は風の子論理が通用するのはもっとずっと昔の話でしかなくて、あたしゃあんたの子だよ、と言い返せる相手が、しかしあたしにはいなかったっけか。まあ、そんなことは、どうでもいいのだけれど。
 ともかくそんなわけで人影も見あたらない廊下を、あたしは綾那ともども室内履きをぺたぺた鳴らす歩き方を後ろの染谷から叱られたりなんかしながら、ただでさえ寒い廊下の中でも格別に寒そうな、よりによってこんな日に窓の開けられている一角――夕歩が白い息をほそくほそく流しているそこへと、近づいて行ったのだった。

「ゆーうー……ほっ!」
「あ、順……なに? テンション高い」
「セリフはごくごく普通でもその目つきの悪さで言われるとたまらないね! 順さん新しいなにかに目覚めちゃいそう!」
「訂正、うざい」
「はいセリフまできつくなりましたー! ……っていうか、なにも感じないの、夕歩?」
「なにが?」

 なにが、って、ねえ。あたしの苦笑に気がついてはいても、表情にある理由までは見えてこないらしく、夕歩は細い首の上にのっかった頭を、かくんと小さく傾けてみせた。少し眠たそうな目にかかった栗色の髪が、やわらかに揺れる。夕歩の髪は細い。細くて、たとえば指先にふと触れる毛先は、とてもつめたいのだ。
 と、顔の前から髪をどけてやろうとしたあたしの手は、他でもない本人によってうるさそうに振り払われてしまった。なまあったかいからやだ、って、言うに事欠いてそれはないんじゃないかなあ、夕歩。それはまあ、今の今まで暖房の効いた教室にいたあたしの手は――いったいいつからここにいたのかわからないくらい、冷え切きってしまったきみの頬からすれば、どんなにか、なまあったかいだろうけどね。
 そうしてあたしは頬にあてるのを、正しくはそれで少しでも暖を取ってもらうのを諦めて、持っていたホットココアの缶を手渡した。頬を真っ赤にしたままの夕歩が、まだすこしぽやっとしたままの顔でそれを受け取る。あたしの手にはちょっと熱いくらだったホットココア缶でも、たぶんあまり感覚の残っていない彼女の頬をあたためるには、役者不足らしかった。

「さむ、ううー、寒っ! おい、こんなとこあと数秒もいたら死ぬぞ、あたしは」
「綾那ったら……でもほんとに今日は冷え込むわね、夕歩、もう寮に戻らない?」
「ん、うん……うん、そうだね」

 おお、さすが染谷さん、できる女だ。綾那は、まあ、あんたにはとくに期待していたわけではないので、それで良し。ていうより、流れ的には全然オッケー。あんたがボケかましたぶんを、あんたのできる嫁さんが、なんとか拾ってくれるんだもんね。
 溜息のようにふたつ返事をした夕歩は、染谷に背中の真ん中をとんとんと撫でられながら、ふらりとした足取りで寮のほうへ足を進めてくれた。染谷と夕歩、二人の後ろをぺたぺた着いていきながら、あたしだけで行ってたらどうだったかなあ、とぼんやり考える。うん、まあ、たぶんだけど。
 たぶんだけど――あたしが言ったって、聞いてくれなかったろうなあ。

 たとえば最近夕歩が呆けている時間がいつもよりかはちょっとだけ多くなってきていることになんとなく気がついてしまうのと同じように、あたしはあたしが夕歩の前でどんな態度をとってしまうのか、ある程度は理解しているのだ。自分が少々度を超してこの子に対して過保護なことも、この子がそれについて、なにかくすぶった気分でいることも。まあ、それがなんなのか詳しくわかっているわけではないから、残念ながらあたしはあたしのままなのだけれど。
 二人がずっと二人だけでいられるには、あたしたちはきっと、少しちぐはぐすぎたのだと思う。あたしたちは、じゃないな、あたしは、かな。何かの、例えば生まれのせいやなんかにするつもりはないけれど、ともあれあたしのあっちこっちがなにかしらおかしな形で欠落してしまっていることは確かで、だからあたしは、上手に夕歩に伝えられない。傍に居ることと、心配したり大切に思ったりすることに、姫とお庭番の理由を与えると、だって夕歩はいつも、不機嫌そうな顔をする。
 だから最近どことなしに様子のおかしいことについてだって、気づいてはいても、言及することは許されていないような気がしていたのだ。またそうやって順は。夕歩が続きを言わなくなったのは、いつからだっただろう。あたしがあきらめたように笑うのが嫌いだと夕歩はいつも言って、だけど、何にも言えないあたしに、どっかで夕歩にもあきらめかけられているあたしに、一番ぜつぼうしてるのが、他でもないあたしだった。
 でもあたしにはそれしかなくて、ほんとはちがうのになんて言えなくて、言う資格もなくて、いつもそれしか、なかったから。

「それにしても。順、あなたもポケットの中に小銭入れる癖があるの? そういうのチャラチャラさせてるのって、ちょっと女の子としてどうかと思うわ」
「え、そお? 便利じゃん……ていうか、綾那が最近小銭持ち歩いてないのって、もしかしなくても染谷サンのせいかー」
「おま、なんで知……って違う、い、いきなり人に振るな!! ていうか、関係ないだろ!」
「順、あんまりからかったら、可哀想だよ……いくら綾那が、ゆかりには絶対逆らえないからって」
「夕歩まで……」
「なんていうか、夕歩って、人に止めを刺すのが地味に上手よね?」

 だから、あんたたちにはいつも、感謝してるよ。
 わかることとわかることを組み合わせれば、伝えられないあたしにだって、方法のひとつくらいは思いつくものだ。寒い寒いと文句は垂らしても、他でもない夕歩のことなら、綾那はのっそりその重たい腰を上げてくれる。しょうがない子ね、と――あたしに対してなのか、夕歩に対してなのかはちょっとはっきりしていないが――苦笑しながら、染谷は先頭きって歩き出して、それでどこに行けばいいの、なんて聞いてくれる。
 うまくは言えないあたしが居ても、わりとそれで、なんとかなる。つまりはこういうふうに、というわけで、増田ちゃんがのほほんとした笑顔で迎え入れてくれる寮の一室まで、あたしたちのだいじなだいじなお姫様を、送り届けた。

「っ、くしゅ」
「あれ……ゆーほ、カゼ?」

 部屋に入るなりひとつくしゃみをした夕歩に、増田ちゃんは慌てて駆け寄って、自分が肩に巻いていたストールをかけてくれた。増田ちゃんの優しさは、あたしの過保護さよりずっと上手に、夕歩のことを包んでくれる。暖色チェックのストールに負けないくらいあったかい微笑をふわりと浮かべた夕歩は、ひたむきに眉を八の字に垂らす増田ちゃんに、たいしたことないよ、と言ってみせた。
 身体の調子がどう、というわけでは、ないらしい。最近の夕歩の動向に何か感付くなら、あたし以外で一番可能性が高いのは同部屋である増田ちゃんで、彼女がでも、と言う言葉を夕歩に振られたっきり、その困ったような瞳をそのままあたしに向けてきたのは、きっとそういうわけだったのだろう。でもごめんね、あたし、何も聞けてないんだなあ。

「綾那、ゆかり、送ってくれてありがと」
「ああ、いや、別に。じゃ、おやすみ、夕歩」
「また明日ね。あったかくして寝るのよ」

 小さく鼻をすすった夕歩は、こどもじゃないよ、と染谷に向かってちょっと頬を膨らませたけれど、染谷はわかっているわと夕歩の額に静かに手を当てた。こういうことができるひとだった。できるひとがいるのなら、できないひとがいるのも、また当たり前のことなのだと思う。背中の後ろで、両手を握り合わせる。一人で握り合わせる手は、祈りのようで、願いのようで、いつもへんなかたちだ。
 だけどもう行かなければ。いつになくどこを見ているのだかわからない目をする夕歩が見ているものとか、なんでもないと大丈夫の信憑性とか、わかることわからないことやどうしようもないことがたくさんあっても、はっきりしていることはいつもあるものだ。

「そいじゃ、あたしも……」
「じゅん」

 ――ぴたり、という表現がここまで合致する動きを見せたのって、ある意味すごいことなんじゃないか。
 寒さでなく凍りついた脳の中で、あたしはそんなふうにちっとも関係ないことを考えていて、それはつまり、目の前のことから、ほんのすこし逃げ出したくなっているという証拠なのだ。分析をしてはみても、逃げ出せないままでいた。
 奇妙にあどけない、かたかたと不安定なリズムを持って呼ばれたあたしの名前は、呼び慣れたものとして音が空気へ落ちないのと同じように、呼ばれ慣れたものとしてあたしの中へは落ちてくれない。夕歩がこっちを見ている。前髪に隠れた向こうで、いつも眠たそうな、だけど奥の奥の光がとても強い瞳が、こっちを見ている。どこを見ているのかわからない、うそだ、この子はいつも。いつも、あたしを。
 染谷と綾那は一瞬足を止めたようだったけれど、すぐに歩き出してしまった。夕暮れが終わって、夜がゆっくりと染み込んでいきつつある空気は、ますます鋭さを増していく。廊下では夕歩の吐き出す静かな吐息が、あたしの目の前で閃いては消えていった。それをふたつ、ふたつくらい、見た頃だろうか。

「ねえ、もう少し、外に居たい」

 夕歩は冷たくってほそっこい指先をぐっとあたしの肩にあてて、ふとゆがませるような笑みを浮かべた。あたしは知っている。こういう時の夕歩は、きっと、あたしがなにを言ったって、てこでも納得しない。せっかく肩にかけてもらったストールは、そうして、すっかり困り果てた顔をしている増田ちゃんの手に、返されてしまう。
 でも、きびすを返す少し前、夕歩がしかめ面をしたのは――そうだな、きっとあたしがまた、夕歩の嫌いな顔で、笑っていたからじゃ、ないかな。


 天地学園の空はいつもにぎやかだ。会長さんいわくバカを詰め込むのにはこのくらいの方がちょうどいいらしい広大な敷地は、しかし利便性というより自然性に富んでいて、具体的に言うとド田舎だった。夕歩の療養にはちょうど良さそうだと思ったものだけど、剣待生というのは療養なんて言葉とは真逆のイメージのことをやっているので、プライマイマイナスくらいなのかもしれない。ともあれ、今日も天地の星はでかくてまぶしい。
 星という言葉それ自体は他の天地剣待生大多数にとっても特別で、空に浮いている星は、あたしにとってちょっと特別だった。その向こうに思い出す、友人の顔があるからだ。その気になれば、空に浮いてるホントの星でも。あんたのその、危ういくらいのまっすぐさが、たまにどうしようもなく、うらやましい。
 夕歩がもう一つくしゃみをしたから、あたしは反射的に上着を脱いでいた。ストール、やっぱり借りたままでくればよかったのに。白い息を惜しみなく空に放る夕歩の肩に、どうにか押しつける。おお、姫、目つきが悪いです、姫。上着を地面にたたきつけられなかったのって、もしかすると幸運だった。優しさは、ひとに対しては優しくない。
 大丈夫だって、言ってるのに。上着の替わりに投げ捨てるように夕歩は言った。うん、そう、きっと夕歩はいつも、大丈夫なのだ。大丈夫じゃないのは、ひとりだけです。吹き抜ける風が肩に染みて、縮めて丸くなったあたしは、叱られてでもいるみたいな情けないかっこうだったろう、そう思う。

「……鐘、次は、大晦日に鳴るのかな」
「えっ? あ、あー、そっか。宮本さんって除夜の鐘も鳴らしてるんだっけか、会長とご近所さんのために……いやあ、あのクソ重たそうなのを百八回って、すごい話だよね」

 亀よろしく縮こまっていたあたしに、届けるつもりもなさそうな声で言った夕歩は、またひとつ息を吐き出すと、くちもとに手を当てた。指先が真っ赤になっていた。夕歩みたいに白い手だと、月明かりの下でも、はっきりわかる。手袋だけでも、してくれえば。さっきからそんな後悔ばかりだな、と、ひとりでこっそりわらう。またきっと夕歩の嫌いな笑顔だから、これは。

「鐘が鳴ったら、今年も終わりだね」
「そうだねー、早かったねえ」

 もう少しだけ、言葉が重ねられたならよかったんだ。そしたら。思ってはみても手遅れなのだ、ほんとは初めからずっと手遅れなのだ、あたしはもう続きが思いつかない。夕歩がまたどこを見ているのかわからない瞳をする。さいきん、そんな顔を、するようになったね。
 付き合いが長いと、わかってくることがある。もう絶対にあたしにはわかることができないのだということも、わかってくる。

「ねえ、順」
「…………」

「私たち、あと――どのくらい、いっしょにいられる、かな」


 たとえば、きみの手の、握り方。



「あー……」

 最悪な寝覚めもあったものだと思いながら、あたしはほとんど頭からかぶるように、冷水で顔を洗った。手が他人の物みたいにじんじんする。夢の中の記憶の手は、あんなにもリアルだったというのに。いや、リアルじゃなくても、よかったんだけどね。あのとき血がにじみそうなくらい握りしめてた手のこと、なんてさ。
 二年前の話で、あとほんの少しで三年前の話になりそうだというのに、そして言ってみればただの夢の中のことだというのに、それはあたしの胸で、妙にちりちりとくすぶる。起きたとたんに忘れている夢がほとんどだって聞くくらいなのに、実家から見えるのとはまた違う星空の瞬きのひとひらすらこんなにはっきりと覚えているのだから、難儀な話だった。
 でもこうなってしまったわけが、まったく思い当たらないというわけでもない、のも、難儀な話か。がりがりひっかいた後ろ頭には寝癖がしっかり残っていて、目の前に冬の課題がしっかり残っているのは、取り組み初めて数十分もしないうちにうたた寝を決めたという動かぬ証拠だった。天地生の学力状況は厳しい。けれど集中できなかったのは、どうしてもこの問題で使わなければならない公式が引っ張り出せなかったって、それだけじゃ、ないんだな。

「うああ。おーちーつーかーなーいー。」

 あたしは無事ドナーになれたし、手術も成功した。でもそれだけで万々歳、というわけにはいかない。夕歩がきついのはこれからで、そしてはっきりしているのは、あたしがここにいるのは夕歩にとってそう良いことでもない、ということだけだ。脇を見れば、すぐにでも家を出られるように、まとまった荷物がある。父さんが用事から戻ってきたら、あたしはこっちを離れて、天地に向かう。

「……ああ、そうか」 

 ふとつぶやきが、漏れた。ああそうか、似ているんだ。年の瀬って時期だけじゃ、なくって。あの頃のあたしと、今のあたし、ちょっと笑っちゃうくらいに、ようく似てる。
 なにができるのかわからなくって、伝えるためのことばも届けるための方法もしらなくて。だから。だからあたしはいつも、こっそりかくれるみたいに、きみの嫌いな笑顔を、浮かべてきた。うん、そうだ。
 ――そうだ、けど。

「けど……夕歩、それはやめようよって、言ってくれたっけ、なあ」

 ねえ、順。
 いろんなこと、たとえばからだのことを言いわけにしたり、しないで。ままごとみたいな役割ごっこに興じるのも、もうやめて。
 順の、順のほんとうにやりたいと思う、ことを。

「…………」

 笑おうとしたのでなく浮かんだ笑顔は、ほかでもないきみのくれたそれは、一応のところきみの嫌いな顔にはならなかったらしくって、でもそういうことをふと考えたそのころにはもう、あたしは外に飛び出していた。

 走り出すついでに寒っ、と叫んでやろうかと思うくらいに、一年の終わりが迫る外の空気は冷え切っていた。まだうまく履ききれてもいなかった靴が、大股で通りを駆け抜けていくたびに、ひどい形で、それでも足にだんだんとはまっていく。スピードが、上がる。犬を連れてのんびり歩いていたご近所さんが、少し目を丸くしているのが、あっという間に後ろへ流れていった。そりゃまあ、トレーニングって速度でもないよなあ、これは。
 体の中で生まれた熱が、空気に触れて白に変わる。真冬になると、あたしはよく夕歩の前で、機関車の真似をしたっけ。肺活量なら、あの頃からけっこう、自信、あったんだな。幸い今は剣待生として体も鍛えているわけだし、あとちょっとだけスピードを上げても、止まらずにはいられそうだった。といって、自分のスピードメーターを振り切ることなんていうのをのんびり考えている自分は、少しだけ、おかしくて。
 ただ、それでも止まらずにいられたのは、あたしのこのどうしようもない頭とかそのほかいっさいの重たいすべてを置き去りにして、なによりいちばんあたしの足が、どこまで走ればいいかを、知っていたからだ。

『え……じ、順! どうしたの、もう面会時間、終わるよ?』
「ひー、はー……や、その、なんていうか……うん……」

 といって、まあ、颯爽登場、っていうには、あたしの家から病院は、いろんなものをくれたひとがいる、そのゴールまでは、ちょっとばかし、遠かったんだけどさ。いやいや、もう、そんなことは、とりあえず、いいわけですよ。
 無菌室の夕歩は時計とあたしを見比べながら、それでもおずおずと受話器を取ってはくれたのだが、ええっと、あたしのこの状況だと、ものすごい雑音が入っちゃってるんじゃないかな、受話器。少しく呆けた表情で耳に当てた瞬間に、夕歩がちょっと眉をひそめたのは、たぶんそういうわけ。あたしは手で謝って、どうにかこうにか、深く息をする。
 ただため息は途中から、のどの奥をくすぐられたような笑い声に変わってしまって、夕歩の顔はいっそう、怪訝そうなものになってしまった、わけで。でも、なんだかなあ、なんだかな、そういう顔で、こういうときに――つまり、どう考えたってあたしにはどうしようもないようにつらいきみの前にいるときに、笑えるようになっちゃったんだよ、あたしは。

「あのさあ、夕歩」
『うん……?』

 ほかでもない、きみのおかげで、だ、夕歩。

「来年になっても。再来年になっても、十年後になっても……もっと、もっとずーっと、先になっても、さ」

 そうだよあたしは、きみのためになるような言葉を、伝えられない。
 はじめから誰かのために在るような、誰かに優しくできるような言葉を、あたしはただのひとつだって、知らない。だからなにも言えないんだなって、黙っていた方がきっといいんだなって、あたしはあきらめたのだ。もうあたしは、きみに届けられない。それでいい、なんて、あたしはわらって。
 わらってきた、けれど。

「それでもあたしは……あたしは、ずっーと夕歩と、一緒にいたいよ」

 たとえばあたしたちふたりともしわくちゃのおばあちゃんになっても、どっちがどっちだったんだかわかんなくなったねえって、何回話したんだかわかんないような思い出を、くりかえしくりかえし、指を重ねて、なぞろうか。
 そうして眠る前には、またあしたって言ったり言わなかったりしながら、きっとこのままがずっと続いていくってことを、無条件に、ばかばかしく、信じきってみようか。
 それはきっと夕歩のための何かとか、伝えたり届けたりするための何かでは、なかったのだろう。いつの間にか伸ばしていた手は、どこまでも自分勝手だし、それだけでしかない。あたしはきっと、いつも、そのままでしかいられない。うまく届かないんだ。その先はないんだ。
 でも、無菌室の向こう、ビニールが滲んで溶けていくその向こうで、夕歩は同じ形で、手を伸ばしてくれる。でもきみは、いつかのきみは、そしておそらくはじめからのきみは、あたしはあたしでいいのだと、あたしが思うこと、あたしがほしいと思うものを、それでいいのだと、そうであっていいのだと、教えてくれた、から。
 ゆっくりと、ゆっくりと、目線がぶつかったりほつれたりからまったりしているあいだに、あたしたちの指先は、ふたつ離れきったそれは、とおいとおい距離を隔たままで、つながっていく。いま、いまこうしてできるようになったこと、もっと早いうちに、知っていれば良かったかな。ううんきっと、そういうんじゃ、ないね。

「「順、待ってて」」
「うん」
『私、がんばるから。絶対、戻ってくるから』
「うん……うん、待ってる。待ってるよ、夕歩」

 ねえそれで、いまここにある距離がいつかゼロになったら、今度はちゃんと、握らせてね。


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