完璧な庭




「ひっ……くしゅんっ」

 くしゃみで目が覚めた。というとまるでわたしが自分でくしゃみをしたようだけれど、じつは違う。唐突に浮き上がった意識はまだはんぶん泥の底。でもふたつまばたきをすれば、まぶたの向こうに広がっているようすだけは、なんとかつかむことができた。
 やわらかい、ああ、うで、だ。頭の動きは鈍いけれども、それがだれのものなのかは一瞬で理解する。なめらかでしろい肌がベッドに横になったわたしの視界の右半分をおおっていた。しかして右向きに横たわるわたしの左半分をおおっているのは、あたたかい、というにはちょっと苦しいような気もする温度だ。
 そのほっとするのにどきどきしてしまうというふしぎな体温のもちぬしであり、さきほどのくしゃみの発生源であるところのシンクさんは、わたしの後ろ髪に顔をうずめるようにしてすうすうと寝息を立てていた。(苦しくないのだろうか、このひとは。)

「あ……」

 それにしてもどうしてくしゃみなんてと思って、ようやっと覚醒しきったらしい頭が最初に感じたのは、なんともいいようのないくすぐったさ。ひとはそれを、恥ずかしさと呼ぶ。身動きしたら肩から落ちてしまったシーツをあわてて引っ張り上げる。なぜってそうしたらわたしの肩は、すっかりとむきだしの状態で空気にさらされることになるから。
 ああ、えっと、そういえば、し、しましたね、そういうこと、を。えらく眠りが重たいと思ったら倦怠感はわたしの全身に残りっぱなしなのだった、思えば寝入ったときの記憶もないわけだし、これはまたほとんど気絶のようにして意識をとばしたと考えていいのかもしれない。
 吐息はため息のつもりで吐き出したのに、余韻の熱でのどと肺が焼かれた。くちもとを手でおさえてみたら、指先が触れた頬に熱がともっていることがわかった。さっきまで意識してなかったくせ、うなじにかかるシンクさんの吐息がとてもむずがゆい。だめ、だめ、あんまり考えたら、か、からだが。
 いっそしばらくシーツに頭までくるまったほうがいいのかもしれない、さいわいシーツはたくさん余裕があるみたいだから、わたしひとりがもぐりこむ分、くらいは――。

「あれ……? っいた!」
「ん、んー……」

 なにかおかしい、と思って振り返って、たぶん、首の筋を痛めた。無理な動きを強いた自分が悪いとわかっていながら、思わず漏れた悲鳴を必死で飲み込む。
 今度は息も潜めてしばらく背中で気配をさぐるけれど、特に動きはない。起きて、はない、みたいです、よかった。わたしがそう安堵の息を付いたとき、振り返ったのに一瞬で元の位置に戻されるというひどいらんぼうを受けたわたしの首は、かあっとした痛みを拡散させているところだった。
 だって、でも、びっくりします、いや眠る前にそういうことをしたのだと思い出した時点で、ある程度予想しておくべきことだったのかも、しれないけれど。でも、だって、まさかほんとにあのまま、何にも着ないで寝てるなんて、思いもしないじゃないですか!
 そこでやっとわたしがすべて把握しきったことには、どうもわたしをたっぷりのシーツでくるんだシンクさんは、それも一緒にしてわたしを抱きすくめたまま、自分は惜しげもなく肌をさらしきってすやすや寝ていたのだった。ええと、なんでしょう、とてもおかしいところがたくさんあるような気が、するのですが。

「もう……かぜ引いちゃいますよ、シンクさん」

 でももしかしたら眠る前に、このひとは今のわたしと同じことを考えてくれたのかな、あんまりそんな顔をしない眉根をぎゅうっと寄せて。なんて思うと、やっぱりちょっと、ふわふわした気分になってしまって。
 なんだかひとりで笑えてしまったわたしは、どうか起きませんようにと願いをかけながら寝返りをうって、白いシーツをシンクさんにかぶせる。ふうと真夜中の部屋に舞ったそれは、すこしつめたくなってしまっているシンクさんの肩の上に、ゆっくりとおちる。

「………、」

 ところで、純粋にきれいなものに出会ってしまうと、ひとはまばたきをするくらいしか、おもいつかなくなってしまうのかもしれない。


 ふわふわだなあと思って、自分がシンクさんの髪を触っていることに初めて気が付いた。髪をまとめさせてもらったことは何度かあるのだけれど、触るというだけで触ったことは、きっとそんなにない。いつもそれをしてくるのはむしろシンクさんの方で、だけどいざ自分がしてみるといよいよわからなくなる、こんなにすてきなものを自分で持っていて、どうしてわたしのそれをいとおしそうに梳いたりなんかできるんだろう。
 日に照らされた秋の麦畑みたいな色と、もったいないなんて変なことを考えてしまうほどかろやかな手触りと。毎朝大変な苦労をしてまとめられていることは知っていたけれど、そうできることがほんの少しうらやましかったりもした。そのうちむき出しの鎖骨あたりを毛先が触れるのがくすぐったくなったのか、シンクさんは小さく身じろぎをする。

「ん、ぅん……」

 そうしてわたしのごくごく近くの空気を揺らすくぐもった声は、たとえば合わせたくちびるの隙間からこぼれるそれと、よく似ていて。
 ああきっと今わたしの頭の中はとてもよくない状態なのだということだけが真摯にわかった。普段だったらこんな方向にばっかり思考が行かないはずなのだけれど(それもどちらかといえばシンクさんの役目のはずなのだけれど)。シーツを掛ける段階で向かい合ってしまったことを今更後悔しても遅い。肌がまぶしく目を焼いて甘やかな匂いでいっぱいになってしまうことを予想していなかった自分が悪い。
 だから、すこしだけ。

「だから、って、なんだろ……」

 まったくそのとおりだと思うけれど、のばしてしまった手は、ほんとうにあっけなく柔らかな肌に触れてしまった。
 胸、に、触れるのはちょっと、勇気とか度胸とか、あとちょっとのコンプレックスとかで、実現不能。あの、ほんとに楽しいですか、わたしの胸とか、さわって。そんなことを思うとかならず耳元でたっぷりの湿った吐息と一緒にかわいいよ、とささやかれることがわかっていて、わかっているわたしの体は今それはないとわかっていながらかるく耳に神経を集めてしまったりなどして、いよいよなんだかわたしはくるっている。

「シンク、さん」

 くるっているとおかしくなる。返事はもちろん返ってこない、だってシンクさんは眠ってしまっている。だけど夢からは、さめないでほしい。それはきっとわたしにも優しい夢だから。
 こんなにきれいなひとに愛されているのだと思うと、とてもうれしくて、うれしくてうれしくて、それからちょっぴりかなしくなる。きっとわたしはわからないのだ。どんなに優しい声で囁かれても、シーツとあなたとで抱きしめられても、すぐわからなくなってしまうのだ。
 変な時間に起きているのがいけない。熱が残ったはだかなのがいけない。くるってしまっているのがいけない。いろんな言い訳を並べ立てて、わたしはわからない不安にわりとあっさり負ける。夜に牙をむかれると、ひとりでは絶対に立ち向かえないのだ。でもそれならどうしようって、ちゃんと方法を考えないのも、きっと逃げ。それがひどいことだと、わたしのいつの間にか深く沈みこめたどこかは、ほんとはちゃんと知っているのだから。

「んっ、」

 起きているのか起きていないのかはわからないしもうきっと考えないほうがいいことになってしまったのだ。わたしは目を閉じているのに、シンクさんの肌のきめこまやかさであるとか白さであるとかはしっかりと頭の中でひらめいてしまう。
 たとえばそういうふうにして。あなたと出会って生まれたあたらしい感覚器官が、わたしの中であばれまわる。だからこんなにひどいことができるんだ。そう考えると、力を抜かなくちゃいけないのに、もっとこわばってしまうのだ。シンクさんの肩をつかまえる手に、隙間を埋めるようにくっつく体に、そして、あなたを痛めつける、歯に。
 のどがふるえて、たぶんわたしもがくがくふるえながら目を開けたら、てんてんとあかい痕が残っていた。のこるように、したんだ、わたしが。ああ。痛みは強いから、とても強いから、きっとどこかがものすごく弱いわたしは、そのあかしの強さに負けてしまうのだ。

「……ねえ、デュース」

 そのとき、まるでいつものままの調子で、ゆるやかな声が夜に落ちて。 

「あ……っ、し、シンクさ、」
「いいよぉ、やめないで」

 いつから。考えない方がいいと思っていたわりにそれはかなりあっさりと私の頭に帰ってきてしまって、けれどもシンクさんはそれも全部押し留めるように、ただわたしの頭を撫でた。いとおしそうな瞳で、撫でた。ああだから、わからないって、言ってるじゃないですか。言ってるのに。

「もっと、」
「……は、い?」

「もっとつよくかんでも、いーんだよぉ?」

 いってるのに、あなたにそんなふうに笑われると、きっと一周くるりと回って、なにもまちがっていないような気がしてしまうのだ。

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