私はいつもきみのなかでたったひとりの私でありたいから、ほかのひとにはぜったいにてにはいらないものがほしいのだ。

「わ、いたたたた……ううう、いたぁい」
「ん……どうしましたー、シンクさん?」
「うー、シャンプー、目に入ったぁ……」
「あ、あらら……」
 ぼんやりとリバーブのかかった声が近づいてくる。デュースの声はもともと柔らかいから、そうするとなんだかふわふわした真綿みたいに、耳の辺りをくすぐるのだ。いいなー。ああでもそれより、もうちょっともうちょっと。ふわふわしていた耳のすぐ横をふっと温度が通っていく。目を閉じると感覚が研がれるというのはとても便利だと思う。きみのことがすぐわかる。背中にもほんのちょっとわかる、かな。
 そんなことを考えていると、きゅっと高い音がして、途端に私の頭上からはあったかい雨がさらさら降ってきた。だいじょうぶですか。デュースの声が水音で消されそうになる。うーん、うるさい。いや、もっとも、デュースにそうするよう仕向けたのは、ほかでもない私なのだけれど。
「ありがとうねー、デュース」
 言いながらさっと顔を流す。まあどうせ同じことをすることのだから、いつ洗い流そうが同じことだ。だから本当にせっけんが目に染みていたかどうかなどというのはどうでもいいようなことなのだ。無くなってしまった時には、初めから無かったのと同じことになるような。
 そうでもしないと、きみときたらなぜだかこういうとき、ちっとも近づいてきてくれないのだし。それじゃあ全然、たのしくないよぉ。色んなたのしみ逃してる気分だよぉ。おっきいちっちゃいはいいじゃない。これからの私に任せればいいじゃない。
「………?」
 なんてことは言えるはずもないのだけれど、それ以前になんだか妙だと思って、私は口を噤んだ。礼って言葉をいつも背負って歩いているような子だから、お礼の言葉にお礼を返さないようなことが、あるわけないのに。私を救わんがために隣の洗い場からこちらまでやってきてくれた背中のデュースは、ぽたりぽたりとシャワーから落ちる水滴にも負けて、黙りこくってしまっている。
 いったいどこにおっことしてきたのかな、礼。ともかく目をこすって視界をクリアにした私は、一応のところ遠慮がちに振り返ってみたのだけれど、正直それをちょっと後悔した。なんでって、なんにも反応しないんだもん、デュース。そんなんだったら思いっきり振り返っておけば良かったなー。体ごととかで。
 という後悔を取り戻すように私はじいっと、肩ごしに振り返ったまま、瞳で彼女の姿をなぞった。ぺったりと張り付いた髪がしっとりとえろっちい。鎖骨から肩にかけてのライン。腕が描く柔らかな曲線。白。白。白。その中に散る、微かな熱と桃色。
 きれいだなあ。すごく、きれいだなあ。そしてもうどうしようもないほどひねくれたりねじくれたりしているようにも思える私に、そんなすなおな感想や気持ちを叩きつけてくれるのは、この子ひとりっきりにちがいないのだ。きれいだなあ。ほんとに、ほんとに、
「あっ……え、と!」
「んー?」
「め……そうっ、目、目、大丈夫ですかっ!?」
「うんー? へいきへいき。それよりデュース、のぼせた?」
「いえ、ぜんぜんっ」
 へえそうか、じゃあいまきみの顔がびっくりするほど赤いのには、もっと別の理由があるってことなんだね。言わなくてもわかるようなことをわざわざ聞いて確認することがどれだけ楽しいかってことを私はもう知ってしまっていた。素直に答える――あるいは、応えなければならないと思っている――子、というのは、本当にかわいそうでいとおしい。
 耳や首まで赤くしたデュースはいつものようにかたいガードと壁をそのまま体現したかのようなポーズでからだを隠して、わたわたと洗い場の方へ戻って行ってしまった。私はいつもとは違う理由でその背中を目で追いかける。三歩目で躓いたことも六歩目で滑りかけたことも知ってる。みのがしてあげないよ。残念、シンクちゃんってば、デュースみたいにいい子じゃ、ないんだなぁ。
「ねー、でゅーすー」
「は、はい?」
「髪。洗ってあげよーか、私」
「かみ……えっ、あの、シンクさんっ!?」
「さっきのおーれいー。はいはい、あっち向いて、座ってくださーい」
「あの、でもわたしっ、えっと、ひとりで、できますし」
「あはは、そりゃー、できなかったらびっくりだよぉ」
「あ、はい、ですね……って、あの、いや、そうじゃなくっ、て……」
 しってるしってる、あれこれ一所懸命早口で並べるときって、最初の一手さえうまく行けば、すっかり黙ってしまうしかないのだ。そのときだって例に漏れず、たたたっとシャンプーを手ですくってデュースの頭にえいっとつければ、つめたさにちょっとぴくっと肩が動いたっきり、デュースは縮こまって動かなくなった。
 真っ赤なのは逃げ場なく私の目にまで届いてしまう。だって隠してくれるものがないんだもの。全体に泡を広げてから、こしこしと指先で丁寧に梳いていく。デュースの髪は、とてもやわらかかった。性格と体質というのはある程度似通うのかもしれない。
 初めこそ肩を丸めて、亀の子みたいに首をすくめてちいさくちいさくなっていたデュースだったけれど、しばらくするとふうとほそくほそく息をつくのが聞こえて、ちょっとだけ力が抜けたのが私からでもわかった。いたくないかなー。くすぐったくないかなー。
「……その、」
「んー?」
「上手、ですね、シンクさん」
 手をぎゅっと握り合わせたりして緊張をのりこえたきみが言ってくれる言葉は、だけど私がどんなにか広く巡らせた想像のすべてを通り越したくらいに嬉しかったりするので、こまったものだなあ、と、思ったりも、するのだ。
「ふっふー。力の入れ方なら、シンクちゃんにおまかせなんだよー」
「はい、とってもきもちいい、です」
 あっあー、でも、あんまりそう喜ばせると、シンクちゃん、じりじりしちゃう、なあ。

「んっ、」
 デュースがぴくっと声を上げたのは、洗い終わってからあらかた泡も流してしまったころだった。それが先ほどまでのほわほわしたものとはちょっと違って、くるしそう、というのに少し近かったので、私は思わずデュースの髪から手を離す。
「あれ、痛かったー? おかしいなぁ、そんなに強くしてなかったけど……」
「あっ、いえ、そういうのじゃないんですけど」
「うんー? じゃあ、どういう――」
 の、は、ぽたっと私の手のひらから指先まで伝って零れた泡と一緒に、お湯に飲み込まれていった。目を縫いとめたのは、赤。しろいしろい肌の上に、はっきりとした道筋を描きながらゆっくりゆっくり流れゆく、赤。あか、あか、吐き気がするほど見覚えのあるいろ。
「どこ?」
「……え?」
「ねー、どこ?」
 はやくこたえたほうがいいよ。私ではない私がデュースに懸命に囁きかけている。いいから黙っててほしいなあ。そんなことより探さなければ。しっとりと濡れて手に指にここちよく触れる、深い栗色の髪をらんぼうに払いのける。ぴっと雫が飛ぶ。ねえどこ。
 ねえどこ、どうして血が流れてるの。私のだいじなだいじなだいじなきみは、いったいどこからこんなふうに痛々しく流れ出てしまっているのですか。
「あ、の、くび……うなじの、右の、とこ」
 デュースはかすれた声で答えた。かすりきずなんですたいしたことないんです。必死に続けられた定型句みたいな言葉は音というよりは記号となって、私の頭を右から左へ流れていく。右のとこ。慎重に、髪を上げる。手がびくりと止まった。どきどきしていた。
 赤く細い筋がすっと走って、そこからつぷりと玉のような雫をつくっては流れ落ちていた、それはあか、あか、
「っぅえ、し、シンク、さ」
「ん……」
 血。私がかがみこんだのと、デュースがびくっと跳ねたのと、口の中にすこしにがい味が広がったのは、全部いっぺんに起こった出来事だった。
 すっかり白状してしまうときっかけはああきみがこのまま流れてしまうのはもったいないとか、そういう、自分でもちょっとよくわからないようなものだったのだけれど、それ以降に私のくちびると舌がきみの味を欲したのは、私でもよくわかる名前がついた感情だった。胸がひりひりやけついて、のどが渇いていた。
 脱水でたおれそうだから水が欲しいっていうのは、言い訳になるかな。ひどいことを考える。熱が上がる。湯船にもまだまともに浸かってないのに、おたがいのぼせてしまったような顔をして。こわごわ振り返ろうとしているのがわかったけれど、私はそれを押しとどめるように、舌先をゆっくりと赤い線の上に走らせた。にがいにがいにがい、にがくって、あまい。
「っふ、ぁ……ぁのっ、し、んく、さん?」
「んん、んー?」
「あ……の、なんで、舐め……っ!」
 ああほんとうに素直で。かわいそうで。いとおしい。自分がひくひく震え始めていることにきっと本人は気がつくひまもないのだ。なんでっていうのはきっと私も考えなければならなかったことなのだろうが、舌先に染みて唾液と混ざって脳まで廻ったにがくてあまい毒は、たとえばそういう、およそ他に見つめなければならないすべてのことを排除していく。そうしてきみだけになる。
 濃いバターみたいな血液としおっからいのと熱と熱と熱と、ひくりとふるえる身体と、きゅっと閉じられた瞳と、何か言いたそうにしたまま噛みしめられたくちびると。私のすべては、きみだけになる。吸い付くあまえた音が立ったとき、とってもくるしそうにした表情が、ほんとうにきれいだと思った。
「ねえ、デュース」
「…………」
「さっきさあ。なんで、ぼーっとしてたのぉ?」
「…………」
 とろけた瞳で私を見上げたデュースは、もうなにも答えることができない。いや、そうじゃないかな。応えられないってことはないんだよね、デュースは、いつも。まじめですなおでかわいそう。それが私のいとおしくてたまらないきみだった。私をすぐいっぱいにしてしまうきみだった。
 ただ――ただ、ただきみが、まさか、
「……シンクさん、が」
「へ?」

「とても、きれいだった、ので」

 まさか耳元でそっと囁くだなんてわざを使ってくるとは思わなかったものだから、膝が砕けそうになった私は、それを誤魔化すように屈んだふりをして、このおばかあいしてるって、キスをした。

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