「それのなにが、いけないんですか。」 




 その日の私は不機嫌であった。
 いや、大別するならば何時も私は不機嫌という部類に入るのかもしれないが、その日は格別そうだった。理由として考えられるのは大体三つあって、一つは放課後にとうとう教師から呼び出されたこと、もう一つは見計らったようなタイミングで親から二週間ぶりの電話が掛かってきたことだ。あと一つは割とくだらない理由なので、言い直せば私が不機嫌な理由は大きく分けて二つ。
 舌打ちをしてハンドルを握りなおす。今では体の一部のようにすら感じられるトラックだが、相変わらずハンドルは鉛のように重いし、いくらイライラしているとはいえそれは慎重に扱わなければならない。が、今日は平均して速度が速めだったと思う。勿論ネズミ捕りに引っかかるような真似はしないけれど、法が許す限りギリギリまでアクセルを踏み込んでトラックを飛ばした。おかげで今日の仕事はやたらと早く終わり、どうやら気を良くしたらしい社長が給上げの話を持ちかけてきた。タイミングがいいのか悪いのか分からない。そんなことを考えながら舌打ちをもう一つしている間に、イヤホンから流れる音楽が変わった。カーステレオをガンガン鳴らすのは嫌いだったので、少し無理をしてポータブルプレーヤーを購入したのだが、中々に良い選択だったと思う。遮音性の高いイヤホンは、ロックでもかけようものならたちまち外の音を遮断してくれる。汚い音や煩い音を全て取り除いて、まるで私を一人切り離してくれるかのように、頭の中までガンガン音楽を鳴らしてくれる。独りになった私の頭の中では、やたらと長い名前のアーティストが、世界の終わりを歌っていた。
視界の隅を、オレンジ色に光る街灯が走り抜けていく。
 もう本当に世界なんて終わってしまえばいいとは思うが、世界が終わると私まで終わってしまうのでそれは困る。だがしかし、汚い大人の蔓延る世界などは、一度消えてしまった方がいいのかもしれない。例えば高校の担任教師だが、今まで生徒のことなんて何一つ見ようともしないで、ただ目の前の仕事を片付けることしか目にも入らなかったくせに、少しうちの親が騒ぎ立てただけで、突然でかい顔をして放課後に職員室に来なさい、なんて言い始めるのだからお笑い種だ。もっと哂えるのは懇々と私に諭してきた内容で、一体どこの本から引っ張ってきたのかは知らないが、黴が生えすぎて咳き込みそうな理論であったことだけは確かだった。家出なんかして、親がどれくらい悲しむか考えてみろ、なんて言っていたが、その親は私に連絡を取らないで、昨日でちょうど二週間だったのだ。教師に私の家出の件について言ったのだって、近々三者面談があるから、もう隠し通せなくなったと見てのことだろう。
 大体にして、親の元を離れたのはもう半年も前のことなのだ。出て行った当初は一応、親らしい説教を偉そうに携帯の留守録に残してはいたし、高校から帰る私を待ち伏せて捕まえようともしていた。しかしそこで捕まるほど私は愚な人間ではないわけで、上手いこと逃げおおせているうちに、親からのコンタクトは一ヶ月も経てばぱったりとなくなってしまっていた。うちにはもっと出来のいい弟も妹もいるのだから、恐らくそちらにのみ関心が向くようになったのだろう。つまり、親――彼らにとって、私はその程度の価値しか持たない人間だったのだということだ。

 その癖に、自分達の立場が危うくなると見るが早いか、正当性を嵩に着て、いわゆる「大人の理論」を振りかざす。それに乗っかった教師は、いかにも立派な大人らしく、親と一緒になって私に理論を押し付ける。まるで自分達が私の全てを支配しているのだとでも言うように、蹂躙するのだ。

 耳元で「Why? Why? Why?」が唄われると同時に思い出したくないことまで思い出して、苛々をつのらせたまま、宿に向かうために路地を曲がった。時刻は深夜に差し掛かっていて、歩道にも人通りが殆ど見受けられない。そして夕方に掛かってきた電話からこっち、親からの連絡はやはりぱったりと途絶えている。そうだ、そうして今までどおりそ知らぬ顔をしていればいいのだ。社会的に言えば子どもで未成年の私も、働いてお金を稼げば、今の世の中でならば生きていける。
 トラック運転は女性には辛い作業だったし、仕事そのものも少々危険なものが多かったし、実は免許ですらも少々法に引っかかるような方法で無理やり取らされたようなものだが、代わりに給料は良かった。私の望みどおり、両親の養いがなくとも生きていける程度、いや、それを十分補って余りあるほどの給料が毎月私名義の口座には振り込まれていた。
ある意味で、そういう職場を見つけられた私は、幸運だといえるのだろう。
 そうでもしなければ、私たちは絶対に社会的な支配からは逃れることが出来ない。そんなものはなくなればいいといくら願っても、不条理に耐えながら耐えながら、早く大人になりたいと夢を見ながら、矛盾だらけの支配のもと、血反吐を吐いて生きていくしかない。しかしそんなものが私たちの全員に必要であると一体誰が説いたのだろうか。社会的弱者を、守るという理由を振りかざして、存在を支配し蹂躙してよいと、誰が取り決めたのだろうか。実際に私はこうして独りででも生きていけるし、会社は私を一人の人間として、一人の大人として認識して仕事を与えてくれる。それでもまだ、親や教師は、私を一人の人間としてみない。まだ子どもなのだから、という、理由にならない理由を、しかし絶対的な理由を掲げて、私のことを支配する。
 勉強は嫌いじゃなかったし、立派な大人になりたいとも思っていた。ただ、そう思えば思うほど、この不条理さに気がついてしまったというだけだ。そうどれほど願っても願っても、私たちは自由ではない。そんなわかりきったことが、そんな当たり前のことが、私を叩きのめした、まぁ、ただそれだけのことだ。高校の友人達は、一足先に働き親元を離れて生きている私を見て、凄いだの格好良いだのと形容するが、私は一般的に言って甘ったれた存在なのだろう。少なくとも、子どもの社会において不適応な人間であることは確かだ。だが、だからといってどう、というわけでもない。

 苛々が巡り巡って冷静な怒りになり始めた頃、漸く私は、何時も宿にしているホテルの駐車場に辿り着いた。ブレーキを踏み込むと、大きな車体が少し軋みを上げながら止まる。
しかし、エンジンを止めようとしたその時、目の前を小さな影が走り抜けていくのが見え、続けて、大きな人影がいくつもいくつも、小さな影を追いかけるように横切っていったのが見えた。暗いせいで全ての人影を正確に視認することは出来なかったが、点きっぱなしのトラックのランプの前を後者の複数の影だけが横切ったので、その影だけは一瞬姿がはっきりした。何を叫んでいるのかは知らないが、何事か懸命に叫んでいるらしいその影は、青い制服を身に纏っていた。見覚えはやたらとあるが、できればお世話にはなりたくない姿だ。

「警察……補導か?」

 ひとりごちながら、音楽を一旦止める。エンジンをかけたまま外に出ると、中々の騒ぎになっているようだ。その時少しだけ興味が沸いてきたのは、別に野次馬根性からなどではなく、単にその時の気分が関連していたのだと思う。とどのつまり、私はイライラしていたのだ。少なくとも、警察が小さい影――子どもを追い回していることに、腹を立てる程度には。
 外に出てみればそこは警察で大賑わいで、相当の人数で探しているのだろうということが理解できた。また、会話の端々から、追いかけているのは少女であるということがわかる。しかし、何かをしたというわけではないらしい。どうやら、深夜に制服で辺りを歩いていたから、補導対象になってしまったようだ。予想通り過ぎて吐き気がする。自分達は夜中にふらふらと酔って歩き回り、大声で叫び散らしても目を瞑るだけの癖に。子どもに偏った理論と笑うのも構わないが、それ以前に少し自らの腐敗っぷりを見直してみるといい。制服を着ていなければ、私程度に成長していれば大人か子どもかの見分けもつかないようないい加減さも。
 なんて考えていると、小さな影が私に向かってとびこんできて、避ける術を持たなかった私は、灰色のビル壁に背中を打った。

「いっ……た」
「ひっ!」

 鈍い痛みが走る。しかし、それよりも私の興味を引いたのは、自分の背中に走る痛みよりも何よりも、目の前に転がり込んできた、見覚えのある影だった。小さな影は、自分はどこにも打ち付けていないはずなのに、私よりも大分悲痛な悲鳴を上げた。暗順応が終わったと同時に、私はその影が酷く何かに怯えていることを理解する。
 何かに怯えて、辺りをきょろきょろと見回している小さな影の正体――少女は、少し乱れてはいるものの、制服を身に纏っていた。さっきまで怒っていたおかげで、私の頭は妙に冷静に働く。冷静に考えて、冷静に決断を下して、そして私は、行動に移した。つまり私は、未だ怯えて何も話さないままの少女に向かって、エンジンが掛かったままのトラックを、指し示したのだ。

「……乗って」
「え、っ?」
「乗れ! いいから早く!」
「は……あ、あの、っわあ!」

 突然の提案、提案というか命令、に混乱しているのか、ぐずぐずしている少女の首根っこを掴んで、トラックの中に放り込んだ。ちょっと不吉な音が中からする。頭でも打ったんだろうか。しかしそれを気にしている場合ではなかった、直後、警察がこちらへと駆け寄ってくるのが見える。息を切らしている二名の年かさの警官は、私の姿を見つけるなり、疑り深い調子で質問を投げかけてきた。

「君! ちょっと、君!」
「こっちに女子高生が走ってこなかったか!?」
「女子高生?」
「ああ、わりと小柄な……知らないか?」
「さあ……あ、そこの角を誰か曲がっていきましたがね。まぁ、暗くて女子高生かどうかはちょっと」
「そうか、ありがとう! ……おい、あっちを探せ!」

「……ばぁか」

 走り去っていく警官の背中に舌を出して、私はトラックの中に戻った。
 中ではまだ怯えていたらしい少女が、しかし疑問の色を強くした目でこちらのほうを見ていた。何かを問いたそうに口を開けているが、言葉が出てこないようだ。小さな手荷物――鞄だろうか、それを抱きかかえて、じっとこちらを見ているばかりだ。その状態にいつまでも付き合っている暇もないので、少し先回りさせてもらうことにする。小さくこほんと咳払いをすると、小柄な肩をいっそう震わせる彼女に、私は。

「で……いったい何をしているんだ、柳」

 私は、少女――柳あかりに向かって、そう声を掛けた。

 影の正体であった少女は、見覚えがありすぎるほどある、私も現在在校している高校の制服を身に纏っていて、現在は酷く怯えた様子でこちらを見つめていて、それから、実は私が本日不機嫌な理由の三つ目に関係している人物であった。柳あかり、一応同部の後輩、話したことは割とある。他人というには深すぎるが、友人というには少し浅い。そんな考察が頭に浮かぶ。と、柳あかりは、私のその問いにびくりと顔を歪め、それからゆっくりと口を開いた。

「ごめん、なさい……ごめんなさい、武岬先輩」

 か細い声でどうにか搾り出した柳は震えていて、とにかく震えていて、私を見上げる瞳にすら、恐怖の色が見て取れた。柳は何度も、何度も何度も何度も小さな声で私に向かって、もしくは別の何かに向かって謝って、それからしがみつくように私の腕を掴む。その手はとても冷たくて、腕は少し痛かった。柳は顔を上げない。暗いトラックの中、冷たい空気が蔓延るそこに、いっそう冷たくなるかのような柳の謝罪の声は、静かに、静かに、響いて響いて響いて。

 とにかく、こうしていればいつ発見されるか分かったものではないので、私は未だ落ち着く様子のない彼女を宥めすかして、宿まで連れて行った。常連になっていたおかげで、彼女を連れ込むことに問い詰められることもなく、少し安心する。受付の中年女性は疑り深そうな目でちらりとこちらを見はしたが、特に何も言わなかった。そういう世界だ、ここは。
 しかし安心から程遠かったのは柳であり、何がそんなに恐ろしいのか、顔色は悪いし、足元もどこかふらついていて、部屋に入るまで危なっかしいといったらなかった。そもそも歩いている時点から、殆ど私が担いでいたようなものであったのだから。柳はふらふらと糸の切れた人形のような歩き方を繰り返していて、時折あちこちに身体をぶつけて、それでも痛そうに顔を顰めることすらせず、真っ青な顔に固まった表情を貼り付けていた。
 少し奇妙だったのは、そんな風に力の入り方がおかしい様子であっても、手に抱えた鞄は決して手放そうとしなかったというところである。何かとても大事なものでも入っているのだろうか。ぼんやりと私はそんなことを考えつつ、彼女をゆっくりと部屋まで案内する。外は静かだった、ここなら、暫く追手はつかないだろう。私と彼女の関係に警察が辿り着くのはもう少し先であろうし。


 古ぼけたルームキーを差し込んで、鍵を開けて、彼女を先に中に入れる。覚束ない足元でふらふらと進んだ柳は、半ば倒れこむように、埃っぽい部屋の床に座り込んだ。鞄が彼女の手から、その時初めて滑り落ちる。そして、座り込んだ途端柳は、大粒の涙を溢れさせた。蹲って、黴臭い畳の上で小さな手を握り締めて、彼女はぼろぼろと、ぼろぼろと泣いた。

「っう……う、う、うぅぅ……」
「お……おい、待て、待て待て待て。泣くのはいい、いいが、せめて説明してからにしてくれないか」
「う、っぐ……せん、ぱ……先輩ぃ……!」
「わ……っ、ちょっと、柳!」

 慌てて柳の隣に屈みこんだはいいが、雫をぽろぽろ零しながら柳は私を見て、それから、なんだか勢い良く飛びついてきてしまった。バランスを崩しかけて、慌てて床に手を着く。しかし、私の体勢が変わっても柳はなお私にしがみついてきた。両肩を掴んで、肩に額を押し当てて。腕に、服の上に、柳の涙が次々と跡を残す。
 それは冷たくて、とてもとても、冷たくて。

 ぼろぼろ泣いている柳はどうにもきちんと状況を説明できそうな風ではなく、私は心の中だけで嘆息する。ともかく少しでも情報が欲しい、と思って、私はふと、床に転がって、中身を覗かせている柳の鞄を見て。

――そして、その時初めて私は、背筋が凍るのを感じた。
 
 見た瞬間、ざわり、と、嫌な予感が私の中で騒ぎ出し、それはあっという間に現実のものになってしまった。予感を確信に変えてしまったのは、未だ私の肩口で泣き続ける柳の、くぐもった声。小さな声は真実を告げる、いつだって残酷でどうしようもない、どうしようもないくらいの現実である、真実を。

「わたし……どうしよう、わたし、わたし……」

 震える声を聞きながらも、私は鞄の中身から目が離せなかった。柳が一生懸命抱えていた鞄からは、少しだけだが、服がはみ出していた。それは淡い黄色のTシャツか何かで、可愛らしいクマのプリントが施されているのが辛うじて見えたため、恐らく柳のものであろうと私にも予想がつく。しかし、それは最早、可愛らしいなどと形容できるようなものではなかった。


「わたし、お父さんをっ……殺しちゃいました……!」


 それは淡い黄色のTシャツで、それは可愛らしいクマのプリントが施されていて。

 それから、まるで作り物みたいに、それは赤黒い血に染まっていたのだ。もとが淡い黄色なことなど、信じられないほどに。

 それは、紅い紅い、血に染まっていたのだ。

 恐らく全てが、柳の父親の血で。

 彼女は、自分の父親を殺してしまっていて。

 彼女は、私に縋りついてわんわん泣いていて。

 私はぼんやりと、

 ぼんやりと、

 ぼんやりと、

 彼女が泣いているのを、見ていた。

 頭の中でわんわん鳴っていたのは、

 まるで虫の鳴き声のようにわんわん鳴っていたのは、

 どんどん大きくなって。


 私は、飲み込まれて、しまいそうで。



 柳あかりは私の一つ下で、たった一人の図書部の後輩であった。因みに図書部というのは私が望んで入部した部活ではなく、元々所属していた剣道部をバイトのため退部したときに無理やり入らされた部活である。それも学校の、生徒全員が何かしらの部活に所属していなければならないという、よくわからないくせに支配的な取り決めによってであった。殆ど活動の内容すら把握されていない図書部に配属されている辺り、杜撰な管理のいい例である。無論腹立たしいことこの上ないと思った私は、図書部に一度たりとも顔を出すつもりはなかったのだが、入部してから一ヶ月経った頃――働き始めたのが二年の夏であるから、もう一年も前のことになる――突然、新入部員が来たからといって、図書室に呼び出されてしまったのだ。
 それまで図書部の部員は私一人であり、実質活動は停止中もいいところだったので、相当予想外の事態である。いったいどんな物好きがやってきたのかと思いつつ、私は仕方なく図書室まで足を運んだのだが。そこにいたのが一年生だった柳あかりであり、さすが図書部希望といおうか、私が図書室に辿り着いたときには彼女はもう、窓際の本棚付近で、一心に本を読みふけっていた。
 友人関係が希薄な私は、他人との出来事を記憶に留めるということなどあまりしないのだが、そのときのことはなんだかとても明瞭に覚えている。柳は、難しそうな本と、難しそうな顔で睨めっこしていて、無造作に垂らした短髪が、微風に揺れていた。小さな手は分厚い本を重そうに抱えていて、しかし微動だにせず、彼女は本との睨めっこを続けていた。顔立ちはかなり幼げだった、だからこそ真剣に顰められた眉毛は緊張よりもどこか微笑ましさを持っていて。場所が場所だったなら、くすりと笑いの一つも零していたのだろうか、などと思うが、まあ、私にはそういう感情が無かった。誰かを見てどうこう思うということ自体疎かにしがちだった私は、ほんの一呼吸だけその彼女を見つめて、だが自分の目的を果たしてとっとと場を去るためにも、彼女に向かってずんずん歩いて、そして話しかけた。
 ――ところで、私が彼女との出会いを酷く鮮明に記憶しているのは、多分この後の会話が面白かったからかもしれない。

「好きなのか?」
「え? あ、わっ!」

 相当集中していたのか、私が声を掛けると同時に柳は肩を震わせて、本を取り落としそうになるまで慌てた。その様子もなんとなく面白かったが、もう少し面白いのはこの後である。

「……好きなのか?」
「え、ええっと、あの、決してそういう不純な動機じゃなくって、一回お話してみたいなーとかそういうこと思ってたわけじゃなくってですねっ」
「……は?」
「……え?」
「いや……あの、本が好きなのか、って、聞いたんだが」
「っ……ぁ、う、ご、ごごめんなさいっ! わ、わわ、忘れてください、さっきの全部忘れてください、忘れてくださいね!」

 一瞬にしてぽかんと口の開いた少し間抜けな顔も、そのあとの真っ赤になった必死な弁解も、何もかも面白かった。手をぶんぶん振りながら彼女はそう私に懇願してきたが、こうしてうっかり思い出してしまう辺り、要求には未だ応えられそうにないようだ。全部忘れてくださいといった彼女はしかし、その後も幾度か私と関わることになったわけで、そもそもとして、忘れて欲しいという願い自体どこか破綻しているのだから、そこはおあいこということにしてもらおう。因みに、難しそうな本と睨めっこしていたのは、私が本好きだと勘違いした彼女が、何か話題でも探しておかなければと必死になっていたかららしい。後で勝手に彼女が白状したのだが。

 そう、だから、柳あかりの第一印象は、面白い後輩、だったのだと思う。だからといって、仕事もあるし、その後私が部活に勤しむようになったかというとそうではないが、それでも時折顔を見せるくらいはするようになった。理由というほどの大層なものはなかった。でもそうすると柳がなんだか面白い反応を沢山返してくれたので、週に二度、月曜日と木曜日だけ、私は図書室に顔を見せることにした。
 希薄で無味乾燥な学校での生活で、そういう習慣ができたのは、私にとって少し不思議なことだった。働き始めたときから私は学校に意味を感じていなかったが、月曜と木曜だけは少し意味が出来ていた。といってもそんなに特別なものではなく、ただ、ただ微かに、気が上向く。 ぶらりと足を運んだ図書室で、何冊も本を抱えては、今まで誰も手をつけていなかったせいでめちゃくちゃになっている図書館の整理を律儀に続けている柳と、ほんの少しだけ会話を交わす時間。そういう時間を少しでも楽しいと思わなかったかといえば、私は顔を顰めるしかない。実際、柳は面白い子だったのだから。

 だからかもしれない、今日は、柳が顔を見せなかったから。木曜日なのに図書室に顔を見せなかったから、私はまた少しだけ不機嫌になった。不機嫌な理由の三個目に、恐らく知らぬ間に該当している柳は、未だ、私の手の中でくうくう喉を鳴らしていた。私はゆっくりゆっくり柳の髪を撫でてやる。いつか会った時よりも、少しだけ伸びていた。手入れなんてちっとも気にしたことが無いです、なんて言っていたのは、本当だったのか、どうだったのか。ただ私は何度か彼女が鏡の前で髪と格闘していたのを見たことはある。指先をするすると通っていく一筋一筋からは、柔らかく香る優しい匂いがするのに、それはこの異常な空間では何処か不具合ですらあった。転がった鞄、飛び出した血濡れのTシャツ、泣き続ける柳、黙ったままの私。

 ここからどうしたらいいかなんて私が思いつくはずもなく、だからもう少しだけ私は、思考に耽ることにする。
 


 ここまで言うと、何か柳が相当特別なものを、例えば絶世の美女であるだとか、そういう特性を持ち合わせているように感じられるかもしれないが、柳は、いたって普通の子だった。少なくとも私はそう感じていたし、一般的に言ってもそうなんだろうと思う。そこそこに頭が良くて、そこそこに可愛らしくて、そこそこに友達が多くて、毎日図書室に通っているせいか段々本が好きになってきてしまった、柳はそんな普通の十六歳だった。
 特別であるところといったら、そうだ、多分、どうしてだか彼女が、不思議なほどに私に懐いていたということだろう。

「入学式の総代で、壇上に上がったのって先輩ですよね? あれがすっごくかっこよくって……」
「よく覚えてるな、そんなの」
「覚えてますよっ! だって、ほんとにかっこよくて」
「柳は……確か、入学式の入場のとき、一人だけシートに躓いて転んだ生徒だったっけ」
「な、なんて覚えてるんですか!?」
「上にいたからね、そういうの全部見えるんだよ」

 半ば無条件に「憧れてしまった」らしい柳は、そんな日常的な会話でもくるくると表情を動かす。話しかけるだけでも顔いっぱいに喜びを浮かべるし、私がからかうとすぐに顔を真っ赤にする。懐いているという言葉は信じがたかったが、彼女の態度がそうであったことに対し私は否定の意見を持たない。それから、これも私が彼女に羨望を向けられていたという件について一つの証拠になってしまうのだが、柳にはまた、無意識のうちに心の内に秘めておきたいであろう余計なことを自分でぺらぺら話してしまうという困った癖があった。あらかた彼女が言った後で全部忘れてくださいなどと柳自身から懇願されたのは一度や二度ではなく、またそれについて私がからかったことも一度や二度ではなかった。楽しんでいた、という形容をしてしまうなら、そうなのだろう。

「柳、ほら、これ。やるよ」
「えっ? これ、は……えっと、映画のチケット、ですか?」
「そうだが」
「く、くれるんですかっ!?」
「観たい、って言ってたしな……ちょうど先日給料日で、財布も温かいんだ」
「う、うっわぁ、嬉しいです……! ありがとうございます、覚えててくれてたんですね!」
「まぁ……ああ、因みに、二枚はちょっと無理だったよ。神様はお願いを聞いてくれなかったらしい」
「ちょっ!! だ、だからそれは忘れてくださいって言ったじゃないですかっ!!」

 私が興味も何もない映画のチケットを人生で初めて購入したのも、多分に柳の焦る顔が見たかったからであって、結果はどうかと言えば上手く行き過ぎるほど上手くいった。柳はチケットを大切に持ちながらも顔を真っ赤にしてそう抗議の声を上げていて、私はそれが、なんだか、おかしくて。そう笑っていたのだ、私は笑っていた、数日前に映画の話をしたとき、柳が神様が二枚チケットプレゼントしてくれたら先輩と一緒に、あ、じゃない、いや、違うんです違うんです、なんて言っていたのを、ぼんやり思い出しながら。
 私がくすくす笑っていることが多少気に入らなかったのか、柳はもういいです、なんてそっぽを向いて、それから鞄を抱え上げた。帰り支度でもするのかと思って見ていると、柳は鞄のチャックを開いて、ファイルの中に大切そうにチケットを仕舞う。まるで壊れ物でも扱うようなその手つきに、私は思わず笑ってしまうが。柳は、そんな私のそれとは全く違う、本当に嬉しそうに、そう傍から見ていた私が信じそうになるほどに、綺麗な微笑を、口元に浮かべて。

「けど……先輩から、初めてプレゼント、貰いましたね」

 と、言ったのだ。

 多分凄く純粋で、多分凄く真っ直ぐで、それから、多分凄く私からは遠い子なのだろうな、ということを、私はわかっていた。けれども柳は傍にいて、月曜と木曜の図書室でだけ傍にいて、私にとってはそれが、少しだけ心地よかった。普通の子、確かに普通の後輩だ。その「普通」を、私が一つも持っていなかった人間でなかったなら、私は柳のことをこんなに覚えていなかったんだろうか。時々、そんなことを考える。

「武岬先輩って、誕生日、今日でしたよね……?」
「ん? うん。……教えたっけか、私?」
「うっ……いやあの、小耳に挟んだっていうか、人伝に聞いたっていうか……寧ろ、調べたっていうか……」
「……?」
「あーっ、とにかくですね! これっ、あの、良かったら!」
「これ……あ、リボン」
「です……えーっと、あんまり可愛くないんですけど、うん……でも、先輩ほら、髪長いじゃないですか、で、青とか似合いそうだなー、なんて、いや、赤でも似合いそうなんですけど、寧ろ全部似合いそうなんですけど」
「そうかなぁ……あ、でも、リボンの結び方なんて知らないぞ、私」
「えっ!? あ、じ、じゃあわたしが結び……む、結べるかな……」
「難しいの?」
「いえ、難しいというか、先輩の髪触るとかわたしちょっと心臓発作でも起きるかなぁなんて」
「は?」
「え、あ、わああっ! な、なんでもないです、なんでもないです!」

 夕日よりもずっと赤くなりながら彼女はそう言った。私はそれを聞きながら、ちょっとだけ笑っていた。笑っている私に気がついた柳は機嫌を悪くしたようで、喜んでくれてる笑いなんですかそれは、なんて言っていた。因みに喜んでいるかどうかと問われればその答えはイエスだ、焦る柳が面白くて言うタイミングを逃してしまったけれども、誕生日にものを貰ったのは初めてだったから。人伝に誕生日を聞いた、なんて彼女は言ったが、私の誕生日を知っている人間すら相当稀であるから、きっとそれを探すのは大変だっただろうな、なんて。
 ああ、思えば、結構色々なことを覚えていたんだ、私。辿れば辿るほど浮かぶのは柳の少し幼くて、やさしく、あたたかい微笑ばかりで、それは私の心の中に、小さなあかりを灯していたのだろう。といって、今更、どうでもいいことなのだけれども。



 私がゆっくりと記憶を辿り終えたころ、漸く柳は落ち着いてきていて、しかしひどくぼんやりとした顔をしていた。頬には痛々しいほどはっきりと涙の跡が残っていて、今もまだその上を、壊れた人形みたいな顔をしているその上を、ぽたりぽたりと雫が落ちていた。それでも、まだ押し付けられている彼女の身体がとても温かく感じられていたのは、多分周りが凄く寒いからだったんだろう。深夜を越えて、辺りが明るくなるような時間の空気は、一番冷たい。頬を射すような冷たさは、しかし、触れ合っているところだけの温かさを、顕著に感じさせてくれていた。
 彼女の、柳の温度を、誠実に、感じさせてくれていたのだ。

「……柳。話せるか」
「………」

 もう柳の肩は震えなかった。代わりに、ゆるゆるとした速度で柳は息を吸って、それからもっとゆっくりと吐き出してから、小さく小さく頷いた。掠れた声で話せます、とも呟いた。すぐに話すかと思ったら、その前に柳は手を伸ばして、私のそれをそっと握った。指を絡めて、一本一本ゆっくりと絡めて、できるだけ触れ合うように、できるだけ温かくなるように、柳は私の手を握った。示す体は恋人のそれで、だけど彼女の握り方はもっと悲痛で、彼女の表情は、もっと、もっと、ぞっとするほど生々しかった。

「お父さんを、殺しました」

 そうして、彼女は話し出したのだ。


「うん」
「そんなつもり、なかったんです……でも、気がついたらわたし、お父さんが大事にしてた灰皿を握ってて」
「うん」
「灰皿……あの、硝子のやつなんですけど、あれ、きらきらしてて、綺麗だったのに……綺麗だったのに、あれ、真っ赤になっちゃって、ぬるぬるしちゃって」
「うん」
「それ、お父さんの血で、あの、シャツにもいっぱい血がついてて、お父さんが床に倒れてて」
「うん」

「頭から血が……血がいっぱい、いっぱい、流れて……床、血だらけで、あの、それで……それで……」

 手が強く強く握り締められる。柳は指先が白っぽくなるほど力を込めていて、綺麗に切りそろえられた爪先は私の手の甲に刺さって、血が滲んだ。鈍い痛みが私の脳を刺激する。でもきっと、もっと、もっと多くの血が、柳の目の前では流れたのだろう。

「大丈夫か、柳」
「……っ、はい……」
「そうか、じゃあ……もう少し詳しく、話して」
「はい……」

 柳はしっかりと返事をしてくれて、私は奇妙なほどそれにほっとしていた。気がつけば私は、必死に柳の手を握り返していた。どうしてだかはわからない、どうしてだかは全然わからない。でも、彼女の話を聞きたいと思ったのだ。そのまま口を閉ざさないで欲しいと思ったのだ。もう一人では持ちきれないと、苦しくて苦しくて堪らないと、崩れそうな彼女を見て私は、話して欲しいと願ったのだ、どういう意味でも言葉は、ひとを独りにはしないから。それが例えどれだけ仮初の安心であったとして、世界がそれを許さなかったとして、今の柳に、それは関係ない。

「どうして、お父さんを殺したんだ……?」
「……お父さん、き、今日は、とっても怖くて……い、いつもはそんな、そんなんじゃ、ない、のに」
「うん……酷かったのか?」
「っ、き、昨日……昨日、お母さんから、電話、きて」
「うん」
「昨日から……おとう、さん、おかしくって……わ、わたし、部屋に……篭って、あの、出たら、殴られるから、きっと」
「ああ……だから学校、来なかったんだ」
「はい……それで、でも、でも、ドア、開いて、お父さんが……っ、わ、わたし、コロサレ、ルって、思って」
「……うん」
「覚えてないんです、ほんとに、全然覚えてないんです、そんなつもりじゃなかったんです、そんなつもりじゃなくて……違う、わたし、わたし、殺すつもりじゃなかったのに、なんで、なんで、あぁ、あ、あああああ」

「……柳。落ち着いて」
「だ、だっ、だって、だって、だってだってだって」

 話しながら、彼女の頭の中には、恐らく鮮明にそのときのことが甦ってしまっているのだろう。血だらけになった父親が、それとも、自分がだろうか。どちらにせよ、それは恐らく、彼女を壊してしまうに足るもので、そして壊れそうな彼女は、懸命に私の手を握っていて。
 私と一つしか違わない彼女は、それなのに酷く小さく見えた。小さく幼く、そして今にも崩れ落ちてしまいそうに見えた。止まりかけていたはずの涙は、記憶が拍車を掛けてしまって、またぽたり、ぽたりと私の腕に哀しい道を残す。私はだってだってと壊れた機械みたいに呟き続ける彼女にかける言葉もなく、ただ、ただ、手を握っていた。柳の指先はとても冷たかった。とてもとても、冷たかった。
 柳はそういえば、どちらかといえば泣き虫な方だったと思う。こんなにゆがめられた顔を見るのは初めてだけれども、私は彼女が泣くのを、この短い付き合いの中ででも、何度か見たことがあった。

 柳が初めて私の前で泣いたのは、確か、彼女が図書部に入部してきてから、そして私が月曜と木曜とだけ彼女に会うようになってから、三ヶ月も経ったころだったと思う。月曜日に、いつものように私は、赤く染まっていた図書室に足を運んだ。柳の姿を探しに行った。その日はやけに天気がよくて、夕焼けは鮮やかに鮮やかに赤々と燃えていて、柳の影はくっきりと長くて。
 それが小さく丸まっていて、微かに震えているのを見た私は、初めに彼女に何と言ったのだろうか。どうしてだか、それだけが思い出せない。

「ごめ、ごめんなさい、すぐ……すぐ、泣き止みますから、あの……っ」

 何か一言掛けた私に対して、柳は開口一番謝った。そうだ、泣いているとき彼女は何時も、私に謝っていた。いつだって、今日だって。
 とにかく少し落ち着こう、と言って、私は彼女を椅子に座らせた。床に座り込んでいては、話も聞くに聞けないと、思ったから。ところで後から考えてみれば、私はあの時あまりにも自然に彼女の話を聞こうと構えていたが、今になって考えてみれば、それは少し不思議なことだったように思える。なにしろ私は、泣いている友人を気遣うとか、そういうことから殆ど無縁に暮らしてきたわけだから。
 座って、また暫く泣いて、柳は漸く口を開いた。いや、口を開く前に、制服のボタンを一つあけて、その下にあるものを見せた。その下にあるものと言えば、無論柳の肌であるけれども、私の目に飛び込んできたのは、歳相応に綺麗なそれではなく。それでは、なく。痛々しい火傷の跡が、点々と残っているそれであった。その頃から大人の間で働いていた私だからわかったのかもしれない。
 それは、煙草が押し付けられた跡だ。

「それ……は」
「……お父さん、が」

 柳はすん、と小さく鼻を啜って、そして話した。彼女は普通の十六歳だったが、少なくともそれは、普通の内容ではなかった。

「いつもじゃないんです。時々だけど……お父さん、は」
「…………」
「ごめんなさい……気持ち悪くて、ごめんなさい」

 その時私は、どんな顔をしていたのだろう。小さく小さく謝る彼女を、痛みをいくつもいくつも抱えていた彼女を抱いたまま、私は。勿論私は覚えていないし、目に入ってきたのは赤い赤い図書室ばかりで、鏡なんてどこにもなかった。それに、柳は私の腕の中に居たから、私の表情など誰も見てはいない。覚えていたのはぼんやりと柳の笑った顔を思い出していたことで、感じたのはどこまでも誠実な不条理だけで。
 ちっとも思い出せないんだ、私は一体、どんな顔をしていたのだろう。

 柳は、父親と二人暮らしだった。いわゆる父子家庭、というやつだ。なんでも、柳が小学生のときに、母親が一方的に家を出て行ってしまったらしい。勿論柳は悲しんだが、それに一番悲しんだのは父親の方だった。多分それくらいお父さんはお母さんのことが好きだったんです、と柳は言う。それでも月日が経てば悲しみは段々薄れるもので、柳が高校生になるまでは、どうにかこうにか上手くやってきた。お父さんは優しい人だから、わたしも寂しくなんかなかったんです、それにわたしもお父さんが好きだったから、と柳は言う。
 柳の父親は、どういう意味にせよ、愛情の深い人間であったのだろう。母親に向いていた愛情が、漸く柳の方に向き始めたのだ。無論柳は、母親のいない寂しさも相俟って、無条件で父親が好きであったのだろうし、だから二人は、きっとうまくいっていたのだ。
 しかし話は、柳が高校生になってから一変する。

「わたし……凄く似てるらしいんです、お母さんに」

 柳は、笑っているのか泣いているのか分からない顔をしながら、寧ろ自嘲するような笑みを浮かべながら、言ったのだ。らしい、ということはつまり、父親が柳にそう言ったのだろう。その顔も、声も、髪も、目も、立ち居振る舞いも。生き写しといっても過言ではない、らしかった。そして高校生ともなれば容姿は完成されてくるため、柳が高校生になった頃、父親の居なくなった母親に対する慕情は、どうやら爆発してしまったらしいのだ。
 父親は愛情の深い人間で、なによりも母親をどこまでもどこまでも愛していて。父親のつのる愛情と、それによって生み出されてしまった憎しみは、そこにいない母親の影を持つ柳に、母親の代わりに、真っ直ぐに向いた。それからだった、父親の崩れてしまった愛情は、たびたび柳を傷つけるようになったのは。されたことを詳しく聞いたことはないし、そんなことを話させる気にもならなかったが、目に見える傷は隠しようが無い。流れなかった涙も、柳の中にいくつもいくつも溜まっていく痛みも、消えることは無い。

 そうして彼女は、柳あかりは、決壊したのだ。

 私は、そんな柳の姿も、何度も見てきた。時々、体のあちこちを青く腫らしてくる彼女を、痛みではない何かで泣く彼女を、何度も何度も見てきた。歪みきった父親に傷つけられるのを、何もせずに見てきた。赤く赤く染まった図書室で、私と柳は、そういう時間を過ごしていた。
 何日も、何日も。





 

 

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