「しろ」




 ゆっくりゆっくり意識を引き上げていると、途中でかつんとなにかに引っかかってしまったようで、首を傾げたらくしゃみが出た。でもそのおかげで、ぼくはやっと目を覚ます。まばたきしている間にも、おばあちゃんの怒った顔が大写しになっているのは、もうほとんど慣れっこになってしまった。
「そんなことに慣れるもんじゃないよ、まったく」
「ふわ、い」
 あくびを噛み殺す、などという誠実な表現がまったくもって似合わない程度には伸びをしながら、ぼくはおばあちゃんに返事をする。そうはいっても、昨日お母さんと電話したとき、なかなか起きられない話をしたら、それはあなたが私に似て低血圧だからなんじゃない、と生誕十八年にして衝撃的な事実を教えられてしまったものだから。
実際のところぼくはこの低血圧という免罪符をどのようにして使えばいいかまだわかっていなかったが、お母さんはぼくと同じころ、つまり大学に通いながら一人暮らしをしていたころ、毎朝起きられない理由はそれであったと語っていた。おかげで随分友達には苦労を掛けたなんて、自慢とは程遠いような内容を、お母さんは電話口の向こうで二十代みたいなきいろい笑い声を立てながら、ぼくに話してくれた。おばあちゃんが握りつぶした紙みたいな渋い顔をしているのが、なんだかおもしろかったのを覚えている。
お母さんは一般的に見てとてもいいお母さんであったから、ぼくが何をしなくとも定期的にお金も食料もその他諸々も差し入れてくれたし、もちろんぼくの元気を確認するための連絡だって欠かさなかった。だからびいだま荘に来てからでも、ほったらかしの携帯がめげずに着信アリでぴかぴかできたのは、全体的にお母さんのおかげということになる。
でもそういうときはたいてい、元気でやってるの、から始まってほとんどぼくの話ばかりするし、させられるのだ。だから、昨日みたくお母さんの思い出を聞いたのは、ぼくにとっては奇妙なくらいに、鮮やかなことだった。
「あお……あお、もう起きました? 朝ごはんですよ」
「あ、うん、すぐ行くよ」
 まだ鈍い耳を緩やかに揺さぶって、部屋のドアがノックされた。少し間遠で、前よりもずっとずっと控えめな音。ましろの音だ。そう、二週間くらい前からだろうか、ぼくをこうして起こしに来る役は、ましろに変わっていた。そこにどんな話し合いがあったか、ぼくは知らない。
手の大きさとか、手首のスナップとかと、ぼくをノックでたたき起こすためのコツらしき話を、朱理さんが二代目起こし役であるところのましろへ得意そうにしていたのは覚えている。あれはつまり、ぼくがちっとも起きなかった日の朝。初めてましろが起こしに来た日の、朝のこと。
でもまさか、つい昨日まで遠慮会釈なく飛び込んできていたノックがそんなふうに変わっていただなんて、思いもしなかったから。だいたいぼくらは、ベッドに入って目を閉じるときに、もう一度目を開けたら同じ一日が連続していると、あまりにも無防備に信じすぎてしまうのだ。
ちなみに困り果てたましろはその日、久々に鴇さんのマスターキイというものの出番を生み出したそうだ。しかしぼくにしたって目を開けたらおばあちゃんじゃなくて目を開けたらほっとしたような顔のましろ、というのはとてもとても慣れてしまえそうになかったので、低血圧云々の話はあっても、とりあえず自分で起きる努力だけはしてみよう、とその日から決めた。努力が報われない時は、大概おばあちゃんに何とかしてもらっている。神様を目覚ましに使うとはなんたる、なんて憤慨されたけど。
「おはよ、ましろ」
 ぶつけてしまわないようにそうっとドアを開けると、クリーム色の少し大きい長袖シャツを着たましろが、おはようございます、と朝特有の少し掠れた声で、でもげんきに言った。朝夜はもうだいぶ冷えてきたから、と鴇さんが昨日貸していたシャツだった。
ちなみにぼくはというと、高校のころに部活で使っていたジャージなんかを羽織っている。どうでもいいけれど、学校指定のジャージというやつは、どうしてこう原色を使いたがるのだろう。そのせいか、ましろが纏っているクリーム色は、井戸水みたいに乾いた目に染みた。
「学校のだったら、あおはそれ、何枚か持ってきてるんですか? ここにも?」
「え、うん、まあ……なんで?」
 廊下に出るとパンの匂いがしていた。朱理さんがいつか買ってきた米粉パンにすっかり興味がわいたらしい鴇さんは、今朝もはりきってくれたらしい。あれはとても食べごたえがあるから、あおにはぴったりですね、と笑っていたましろは、ちょっとだけ振り返って、でもまたすぐ前を向いてしまう。
「わたしにも一枚、貸してほしいなって」
 前を向いたっきりそう言ったましろに、ぼくは半分寝ている頭で、どんな返事をしただろうか。よくは、覚えていない。
「……だめですか?」
 ただ振り返った彼女が首を傾いで照れたように笑っていたので、そのあとそんなに悪い返事をしたなんてことはないだろう、と、思う。
 聡いわりにそこまではなかなか手が回らないのか、ふわふわの白い髪が、寝癖でちょっとおかしな方向へ跳ねていた。それがましろの頬をくすぐっていることを、ぼくは寝ぼけ眼で、ぼんやり見ていた。

「海に行こう!」
「行こーうっ!」
 朱理さんと若菜さんが二人仲良く拳を振りあげて、しかもわざわざ椅子から立ってまでそう言ったのは、朝食もそろそろ食べ終わろうか、という頃のことだった。
直後に訪れた沈黙に耳が痛くなる。とにかくこの二人は住人の中でも相当に元気な方に入るから、一方が騒ぐだけでも大分賑やかだというのに、騒ぐときは大概二人一緒なのだから困る。特に若菜さんの隣の千草さんと、朱理さんの隣のぼくの被害は甚大だった。
もちろん若菜さんの方はといえば、即座に千草さんが裾を引っ張って頭をはたきつつ座らせていたので、すぐ静かになってしまったけれど。もしかしてぼくもそうした方がいいんだろうか、と思って朱理さんの方を見ていたら、どうやらすでに向かいの鴇さんの視線で着席を余儀なくされていたらしい。朱理さんの隣なばっかりに、ぼくまで射殺すような視線を半ば受けてしまって背を冷やす羽目になったのは、まあ、運が悪い、の一言で片付いてしまうのだろう。
「い、いや、ちょ、鴇サン、ほんとすいません……あ、でも、嘘じゃないよ? 本気本気。海行こうよ、海」
「そうそう、明日みんなでっ!」
「明日? また随分と急な話なのね……朱理、仕事はいいの?」
「ふっふーん、ばっちり休みとってありますってえ」
「一人でつっぱしっといて胸張るなって……急すぎるし」
「まあまあせんせい、びいだま荘って海目の前ですし、そこにお出かけするのにメンミツなケーカクなんていらないですって! 行きましょうよ、鴇さんもっ」
「どっちにしろ若菜が綿密な計画練ったことなんてない気がするけど」
 食事中は座っているというルールを守っている以上発言を聞いてはくれるらしい鴇さんが、それからしれっと酷いことを言うのが相変わらず得意らしい千草さんが、カレンダーに目をやった。明日。九月、二十九日だ。
 あ、と思って、思ったころには、二人の視線は、ぼくのほうに集まっていた。いや、集まるというほどのものでもなかったろう、たぶん。ほんの一瞬目が向いた、それだけ。気が付くと気が付かないの、間のような時間のことだ。
「……うん。いいんじゃないかしら、海」
そうして鴇さんは、若菜さんにポテトサラダを取り分けてやりながら、穏やかに言った。あおちゃんもどう、という問いに、ぼくは頷いて答える。ポテトサラダの残りは、ぼく一人がもらってしまうには少し多すぎるような気がしたけれど、鴇さんは全部ぼくの皿に分けてくれた。ひんやり冷たいそれを、スプーンに山盛り掬う。胡椒の匂いがした。
「ま、原稿も無事上がって、しばらく暇だし……眞白は?」
「えっ? あっ、は、はい、わたしも賛成です」
 ぼくのスプーンの音かなにかをじっと聞いていたらしいましろは、慌てて何度も頷いた。かなり小食らしい彼女にとっては、ぼくが食べるご飯の量は相当に不思議なものみたいで、最近だとあおはきっと一口ごとの量も多いんですね、なんて見解まで持ちつつある、らしい。隣の席で研究でもされているんだろうか、ぼく。
「よおし、じゃあ決まり、明日! 一気に準備するぞー、若菜!」
「はい、そしたらまず鴇さんになにが必要かお伺いを立てますね!」
「はっはっは、ノリと勢いって感じの中でも朱理さんはぐっさり刺されるんだね……?」
 といって朱理さんが肩を落としている間にも、向かいの鴇さんは隣の千草さんと具体的な話を進めているあたり、いろんな意味で慣れたもの、なのだろう。ぼくは黙ってその会話を見つめる。自分の目の前でぽんぽんとやり取りされる言葉を眺める。もっともぼくが「視える」のはおよそ自分に向けられた言葉だけらしいので、それは本当にぼんやり眺めている、というだけなのだが――ともあれ、ぼくは、それがきらいではなかった。たぶん、たぶん、だけど。
 見ているだけじゃつまらないだろう、とたまに朱理さんあたりが巻き込んできたりするけれども、そういえば、特につまらないと思ったことはない、気がした。端で交わされる会話を見ているだけなら何かが視えることはないから、最初と同じように、それでほっとしているだけなのかもしれない。そうしているのが好き、というほどのものでは、たぶん、ない。
「昼はやっぱり肉焼くか、肉。鴇さんときもやったけど、食べ盛りもいることだしいいっしょ!」
「そうね。それじゃあ、バーベキューセットの運搬はお願いね、朱理」
「え、あ、はい……あと涼しくなったって言ってもまだ昼間は日差しキツイし、パラソル要るな、パラソル! 若菜、たーっと倉庫行って探してきてくれる?」
「りょーかいですっ、見つかったら朱理さんに渡せばいいんですね!」
「なら私も行って折り畳み椅子あたり探してくるから、それもってことで」
「うん、待とう待とう! まずいったん落ち着いて、あたしの手が何本あるのかってのと、常人女性の積載量についての見解を一致させよう!」
 そう、だから言ってみれば、ぼくもただ慣れてしまっていたんだ、と思う。
 後片付けのために立ち上がった鴇さんが、朱理さんのせなかのほうでくすっと笑った。皿をまとめた若菜さんが、千草さんを引っ張って急かしていた。
「なんだよー、二人まで笑うなよなー、年少組」
 おおげさなくらい情けない声を上げた朱理さんを見て笑っていたのは、ましろだけかと思っていた。
だから、よけいに笑えた。

 それからしばらくしていろんなことが決まっていった中で、鴇さんがぼくとましろの二人に言い付けたのは、町に出ての買い出しだった。なんとなくそうなるんじゃないかと思っていたので、メモを貰うときに、ぼくは自分でも気が付かないうちに大きく頷いていたらしい。メモをくれた鴇さんが、ちょっとびっくりするほど満足そうにしていた――というのを、おばあちゃんが楽しそうに教えてくれた。おばあちゃんの笑顔は、ちょっと意地悪そうにも見えた。
「おばあちゃんって、そういうとこ、朱理さんと似てるよね」
「朱理? あらあら、そんならばあちゃん、まだまだ若いってことだね」
「その受け取り方が、もう若いよ……」
メモの端っこには相変わらず、鴇さん作画のタヌキのような、イヌのような、ともかくよくわからない生き物が、こっちに向かってにいっと笑っていた。おばあちゃんはあっちからこっちから覗いている。どうしても鴇さんのセンスについていけないらしい。まあ、それはぼくも同じなのだけれど。
 と、一瞬それに影がさして、耳のあたりで真っ白な髪がくすぐったく揺れた。仄かに甘い匂いがはじける。身を引くようにして振り返ると、ゆるりと視線を動かしたましろが、屈んだ姿勢のまま、こっちを見てちいさく笑っていた。屈むと鎖骨がくっきり浮き出るんだ、つつくとすぐに、壊れそう。そんなことを考える。ちょっとびっくりした。
「そろそろ行きましょうか、あお……それ、かわいいキツネですね」
「あ、うん……これ、キツネなんだね……」
「え? あおにはそう見えないんですか? わたしには、そう思えましたけど」
「ええと、ぼくには……こう、いろんな動物に見える、かな……」
「へえ? なんだか便利ですね、それって」
「そう……えと、そう、なのかな?」
 ましろはどういうふうにして絵を感じているのかが少し気になったけれど、後ろに組んだ手に持っていたらしい麦わら帽子をかぶった彼女は今にも歩き出す気でいっぱいに見えたので、ぼくはただましろの隣に立つことにする。鴇さんに借りたのだという麦わら帽子は少し大きいように見えて、ただ白にはひどく映える。麦の色は夏の色だから、まぶしいものと相性がいいのだろう。そんなことを考える。いちど振り返ると、おばあちゃんが部屋の中で、ひらひら手を振っていた。
ところで、ましろのものの見え方というのは、聞いてもぼくにはわからないことなのだろう、きっと。ましろの見ているものは、ましろだけのものだ。目が見えないとはどういうことなのか、なんてことがぼくにはちっともわからないから、余計にそう思う。そう思っている、くせにぼくはそんなことをよく考えてしまうので、それがすこし不思議だった。
「びいだま荘の中の段差は、柔らかくていいですね」
「ん……そうなの?」
 ぼくの肘の上あたりを握ったましろは、そのくらい近くなければ気が付かないほどに、小さく頷いた。それ以上の説明はない。ぼくもぼくなりに足先へ意識を集中してみるけれど、やっぱりよくわからなかった。そういうものだ。
そういえばもうましろは、びいだま荘の中でならぼくが言わなくても、自分で段差やなんかの障害を越えられるようになっていた。ならば最初はどうだったかって、とにかく彼女は、ちょっとびっくりしてしまうほど歩き慣れていない様子であったから、同じくこういうひとの扱いなんて知っているはずもないぼくがしたことといえば、今考えると顔を顰めたくなるほどひっしに、障害物の位置を伝えること、だった。
もうちょっとで小さい段差、二つ。あと少しで階段。扉まで、あと何歩。
「うん。残ってるんです、きっと」
「残るって、なにが?」
「ふふ、なんでしょう、ね」
 白い肌の上でぽつりと桜色にひかるくちびるから漏れたのは、おんなじ桜色のことばだった。けれどましろはそのあとすぐに俯いてしまって、もうぼくからでは帽子のつばで、ましろの顔は見えなくなる。ただ、ほそい肩がちょっと竦められていたのは、わかった。
 びいだま荘を出て少し歩くと、町に出るバス停にたどり着く。夏の間じゅう数えて、ここからバスに乗った回数は、やっと両手で足りるくらいだろうか。それはそのまま、ぼくが一人で町の方へと出かける用事があった回数に相当する。
朱理さんが免許を持っているということで、ましろと出かけるときはいつも、朱理さん運転の軽トラックだった。まあ、いくつも停留所に止まって遠回りをするバスと比べたら便利は便利だったのかもしれないけれど、このびいだま荘に昔からあったのだという軽トラックがなかなかのくせもので、とにかく古くてガタがきているものだから、ものすごく、それはもう激しく、ちょっとしたアトラクションなんじゃないかってくらいに、揺れるのだ。
おばあちゃんにその話をすると、ああそうだそうだ、懐かしいねえなんて笑っていたけれども、こっちは酔うわ酔うわでそれどころじゃなかった。ましろは平気そうどころか、たのしそうにころころ笑っていたのが、ぼくにとっては永遠の謎である。運転している朱理さんですら辛そうだったというのに。
「でも、わたし、今日は酔うかもしれません」
「え、なんで? 確かにバスも結構揺れるけど……比じゃない、と思うよ?」
「そういう予感、です。ね、あお、なにか酔わないようにする方法って、知りませんか?」
「方法かあ……んん」
 停留所でそんな話をしていると、幸いそんなに待たずにバスはやって来た。乗り口のステップはさすがに少し高いので手を貸しながら、お母さんに言われたことなんかを手繰り寄せてみる。ぼくは小さいころ車に良く酔う性質だったのでたくさん教えてもらっているはずなのだけれど、そういうのって、ちょっと歳を重ねただけで、言われた方はすぐに忘れてしまうものだ。
「ある……けど、これはなあ」
 だからそのときぼくの頭にやっと浮かんだのもたったひとつきりで、しかもましろに教えるには、あまりふさわしくない方法のように思えた。でもがらがらの席でぼくと並んで座ったましろは、ぼくの腕を取ったままで首を振る。そのまま傾ぐと、つばの向こうから、ぺかっと光る瞳が見えた、気がした。
「なんですか、あお? 教えてください」
 バスは大きなため息みたいな音を立てて、走り出す。なんとなく言い返せないような気がして、ぼくは白状せざるをえなくなった。ましろがこうしてこだわる部分がわからないことは、初めてではなかった。そんなときいつも彼女は、少し幼い顔で笑うのだ。
「その……できるだけ、遠くを見るように、するんだ。山の稜線とか、あと、水平線とか」
「遠くを、見る……」
 ぽつりと繰り返したましろは手を伸ばして、ぺた、と指先をバスの窓につけた。やっぱり、びいだま荘あたりの海は、綺麗。たぶんひとりごとだったけれど、ただ彼女と窓の間にはぼくがいたわけで、それはほとんど耳元で囁かれたようなものになってしまった。今日は特に天気が良くて、波も穏やか、だから。
「青が、深いですね」
「へ……あ、う、うん」
 少し、どきりとする。
びっくり、にはあんまり近くない、みょうな気分だった。それなりにややこしい名前をしているので、こんなことはよくあった。でもほかの人が言ったって、呼ばれたような気なんて少しもしなかったのに。視えたからだろうか、やっぱり桜色をしているそれが、弾けて沁みたたからだろうか。
そういえばましろの言葉は、最初はなんだかとても薄い膜みたいに儚くって、今ぶつかった、ということくらいしかわからなかったけれど、思えば少しずつ変わってきていた。彼女との毎日が緩やかに連続していると、気が付けないようなことだったのだろう。でも彼女と一緒にバスに乗ったせいなのか、ぼくの頭の中の時計は、少し時間を戻していた。だから、なんとなくそう思った。どう変わったのかと言われると、自分の中でだって、うまく説明がつかないが。
「でも、どうしていきなり海、なんでしょうか?」
「え? あ、え、なにが?」
「明日の話で……いえ、反対、とかじゃなくって。ただ、もうだいぶ水温も下がってきてますから、泳ぐことはできないでしょう?」
「ああ、うん……そうだね」
 まったく別のところにいっていたせいで出遅れた頭が、ましろの疑問をやっと理解し始める。ここはだいぶ南の方とはいえ、九月も終わるころになれば、何かの訓練でもない限り泳げるような水温ではないのだ。若菜さんあたりはそれでも飛び込みそうだけど、今回海に行くという目的は、それではない。きっと、それではない。
 それきりバス停二つ分くらいの間黙ってしまったぼくの隣で、窓を触ったまま、ましろは不思議そうにしていた。彼女が今そうして見ているバスの窓からの景色を、ぼくはあの日初めて、ちゃんと見たのだ。初めて来たときは、自分で言ったくせにわけもわからず荷物の重さだけ感じていたあのときは、たぶん顔なんて、上げてなかったから。
でもそれから気がつけばぼくの夏の日はたくさんたくさん過ぎ去っていて、気が付けば住民みんなのことを、名前で呼ぶようになっていた。鴇さんの料理で美味しかったものは、そろそろ数えきれなかった。朱理さんが、ハンモックの上手な乗り方を教えてくれた。ましろと一緒に何度か千草さんの部屋へ行って、若菜さんの海の絵が完成していくのを、十枚と少し見た。
ましろはあまり、謝らなくなった。おばあちゃんは、あまりぼくに付きまとわなくなった。
「みんな、やさしいから。たぶんぼくのこと、考えてくれてるんだ」
「あおの、こと……?」
「うん」
 それから、それから、ぼくはやっと、そういうことが、わかるようになった。
「ぼく、明後日、あそこを出るから」
 ――そうして、たぶんいろいろなことがあったぼくの夏休みは、もうすぐ、終わる。

「……え?」
 たったひとこと。どころか意味すら認めにくい、一文字。そうだというのに、くらっときた。久々のことだった。この、ことばは、重い。それだけが駆け抜ける。
色を見ている余裕も、おまけにましろの顔を見ている余裕もなくて、ぼくは思わず頭を抱えそうになるのだけ、どうにか耐える。いくら薄い膜みたいなのから変わってきていたからって、ましろからこんなのは、初めてだった。ぼくが彼女の側を離れずにいられたのは、今はどうであれ、最初は多分にその希薄さが、気楽さが理由であったから。
つまり、こんな、ぐらぐらするようなこと、彼女はぜんぜん言わなかったから。
「あおは、びいだま荘、出るんですか?」
 ぼくの回復よりも、ましろが口を開く方が早かった。次に発せられた言葉は、しかしちっともくらくらしなかった。ほんとにちっとも、そう、まるっきり。
「う、うん。ぼくはもともと、学校が夏休みの間だけ、って話だったから」
「そうだったんですか……ああ、でも、考えてみればそうですよね。そうか、あおは、大学生ですもんね」
 どこの大学なんですか。どんなこと勉強してるんですか。友達、多いですか。ましろはすらすら喋る。数えきれないほどの言葉が、ぼくの胸で押し合いへし合いしながらぱちぱち弾ける。もういくつになっただろう。いくつがぼくの中に消えていったのだろう。
 そのすべてを合わせても、さっきに足りないのは、どうしてだろう。
「あれ……あお、ここで降りるんじゃないですか?」
「あっ、う、うん、降りる」
 バス停に差し掛かったあたりで慌てて降車ボタンを押したせいで、バスは一度大きく揺れてから止まる羽目になった。でも、おかげでどうしてもここで降りたいというめいわくな乗客はぼくらだということは車内全体に伝わったし、なによりましろの様子が、誰もに道を空けさせた。それに気が付いているのかいないのか、ましろは促すようにぼくの腕をまた取る。
「あのときは」
「うん?」
「手、でしたね」
 言った彼女のことばは、なにもかもを塗りつぶしてしまうように、或いはすべてに溶け合うようにしてぼくの中消えて、腕に感じているたしかさと、それはきみょうに対立していた。
 降りた駅前ひとつ前のバス停から大きなスーパーまでは、随分と近い。そこに着くまでそこそこの時間を要したのは、ましろに歩調を合わせたからだ、と思う、たぶん。正直よくわからない。あとになって考えたら合わせていたのかもしれないけれど、腕を取られていると、それがそのまま、ぼくの歩調のように思えてしまうのだ。
「それって、ほんとはすごいことなんですよ?」
「そう……そう、なの?」
「はい。あおはね、すごいんです」
 なんだかそう言われるのは違うような気がしたけれど、何度も自分で頷いてしまうましろは案外と言うことを曲げないので、ぼくは唸るような返事だけした。彼女がぼくに対して持つ見解のほとんどが、ぼくには納得できない。そういうものなのだろうか。たとえば今だって、多分に初めて目が見えない人と歩くぼくがうまくやれているなんてことはないのだろうし、それならすごいのは、いつだって彼女の方だと、思うのに。
そうこうしていると、やっとついたスーパーの自動ドアが開いて、ちょっと空調がきつすぎるようにも思える人工的な冷気が、すうとぼくらの間を走る。びいだま荘は空調要らずだから、冷房の感じは久々だった。ましろもそうなのだろうか、ぷるっと肩を震わせたり、深呼吸をしてみたりしている。
「ひとも、ものも、ひしめいてる、って感じですね、まさに」
「ん、うん……確かに、あのあたりに比べたら、まあ」
「え? それじゃああおは、もっとすごいの、知ってるんですか?」
「ぼく、一応学校が都心の方だから。人とか物は、とりあえずいっぱい、あったよ」
 非常にびっくりしたような顔で何度も何度も頷いたましろは、もしかして生まれてからずっと、郊外に居たのだろうか。聞いたこともなかったし、聞こうとしたこともなかった。でも、やけに世間知らずだなあ、と思うことは、そういえば多々あったような気もする。
 するとぼくのそんな思いをどこかで感じ取ってしまったのか、なんだか恥ずかしそうに俯いてしまったましろは、麦わら帽子のつばをほそっこい指先でいじりながら、でも、だって、と言った。
「わたしは……その、あまり外に出たことがないんです。ほら、こんな身体ですから、どうしても出不精になってしまって」
 やけに早口でまくしたてているように思えたのは、恥ずかしがっていたからだったのだろうか。ましろが焦っているのは、そういえばすこし、珍しい。初めて見る表情、かもしれない。そう思うと、ぼくはなんとなく足を止めたくなった。
 ほとんど同時に、ましろも足を止めた。
「でも、ましろ、ひとと歩くの、上手なのに」
「どうしてそんなこと、わかるんですか?」
「え……だって、それは」
 だって今ですら、こうじゃないか。そう言いたくなったけれど、ましろがあんまりじいっとこっちを見ているものだから、思わず飲み込んでしまう。白濁した瞳なのに、やけに強く光っていた。今日のましろは、なんだか、たくさん珍しい。
「ひとと歩くのがどうかなんて、わかりません、わたし」
 そのくせ、次に彼女から漏れた言葉は拍子抜けしてしまうほど弱々しかったのだ、ぼくが視えるもの、つまり例のあの泡のような何かがすぐ消えてしまう、というのとは全く別のところの話で。語気とか、声量とか、たぶんそういう、もっと単純な、誰にだってわかるレベルの話。だから、ぼくにも、ぼくにだって、わかったのだ、きっと。じいっとこっちを見ている、白く濁った瞳。いっそ澄んでいたら、たとえばそんなふうに一目であっさりと見渡せてしまっていたのなら、ぼくはもっといろんなことがわかっただろうか。ぼくは考える。また考えている。
いろんな種類の調味料が並んでいる棚で、甘そうだったり辛そうだったり酸っぱそうだったりするなかで、ましろの濁ったそれは、ぼくの目からゆっくりしのびこんで、どんなにか濃い味よりずっと喉をからからにしてしまった。千草さんがこっそり挑戦して、こっそりぼくに味見させたあのものすごいスープより、それはぼくのあっちこっちから水分を奪っていった。欠落感。なにかが決定的に足りていないような気がして、でも、それがなんだか、わからない。
目の前にあるようで、すぐに手が届くようで、圧倒的に遠い、なにか。
「だって歩いたのは、ほとんど、」
 言葉を切ったましろから、くい、と腕を引かれる。経験からすると、それはもう歩き出して良い、という、合図だった。
 でも、そのときはどっちかっていうと、もう歩き出してほしい、の方が、近かった気がする。

 そうはいってもましろが珍しかったのはそこまでのことで、あとは普段通りだった。まあ、あんまり珍しいばっかりだとぼくが戸惑うばかりになってしまうので、それはいいことだったのだろうが。
「あおって、試食コーナーのおばさま方に大人気ですよね」
「そ……う、なのかな」
「ええ、もう。あおって実は、なんでもおいしそうに食べる才能があるんじゃないかって思うんです、わたし」
「え、なにそれ……っていうか、それ、才能なの……?」
「ひとを喜ばせられることなら、なんだって才能なんじゃないですか?」
 こともなげに言ったましろは、いい匂いがするとかなんとか言って引っ張った挙句、ぼくにだけたっぷり試食をさせて楽しむという奇妙な遊びにさっきから興じていた。気のいいおばさんに大体二人分以上食べさせられていたぼくの顰め面を知ってか知らずかましろは、でも胃がいっぱいになったなんてことはないでしょう、ところころ笑う。まあ、確かにそうだけど。
鴇さんに頼まれた分の買い物は終わってしまって、もうあとはレジを通って帰るだけだというのに、おかげでぼくらはちっとも店の奥の惣菜コーナーから抜け出せずにいた。暗くなる前に帰っておいで、なんてことを朱理さんが背中に向かって言ってきたのは、ぼくらの年齢を考えても多分にからかいを含めてだったのだろうけれど、時計が気にかかりはじめてはいる。
それに、時計以上に気にかかっていることも、あった。ましろの足だ。ただでさえ――もっとも、これを言ったらおまえが言うなと全員から突っ込まれたけれど――ほそっこいというのに、なによりましろはあまり歩き慣れていないし、ハンデもある。だから体力がないというのとはまた違う点で、歩くことそれ自体によって、ひどく疲れてしまうのだという。こまめに座って休むようにはしているんですけど、と困ったように笑っていたのは、一緒に歩くようになってからしばらくして、突然しゃがみこんでしまったときのことだった。
そういえば、あのときぼくは、どうしたっけ――。
「あお、持ちましょうか、それ?」
「え? あ、ああ、いや、いいよ」
「そうですか。」
 神妙な声で聞いてきたわりにあっさりそう言ったましろは、またちょっと笑った。冗談だったのか、それならぼくが真剣に答えたのが面白かったんだろうか。もしくは、思い耽っていたぼくの顔がなにかおかしかったのか。よく、わからない。すぐそばで空気がくすくす揺れる。中に入ってしばらくしてからましろは麦わら帽子を脱いでいて、だからそれはあそぶようにぼくのほうまで流れてきてしまって、頬のあたりがむずがゆい。
食材やら飲み物やらがたっぷり入った籠は確かに重かったけれど、ましろに持たせるわけにはいかないし、片腕は空けておかなければならない。そうでなければならないのだ。それは別に誰が決めたわけでも、もちろんぼくが決めたわけでもないことだ。そう、思っていた。そうして荷物を持ったまま、ぼくらは商品棚の列を、またひとつ越える。
「……あお、」
「へ、っ?」
そのときましろが突然立ち止まって、ぼくは少し慌てる。重いものを持っているせいか、ぐっと体が前に振られてしまって、うっかり足を前に出してしまわないよう必死だった。思うにぼくはそのために歯を食いしばってだいぶおかしな顔をしていたのだろうけれど、とりあえずそれをましろが見ることはないのだし、気にはしないことにした。
した、が、さすがに正面に回ってこられたときは、思わず手で口元を覆った。我ながら、顔を見せないためにはあまりに稚拙な方法だったと思う。
「あ……え、な、なに?」
 つめたい。ましろの手、だ。でも、ぼくが覚えているのより、或いはずっと感じていたのより、もっと冷たいような気がした。冷房のせいで冷え切ってしまったんだろうか。
夏の終わりに降った雪みたいなそれは、ぼくの手を荷物ごとそっと、籠を床に下ろさせるところまで、押した。理由は知らないが、とりあえずぼくに籠を降ろしてほしいのか、というひとつのことがやっと閃いてくれたので、そうしてみる。
考えてもわからないことのほうは数えきれないくらいあったけれど、とりあえずそのときぼくは、正解だったらしい。でも、正解だからといって、なにかがわかったというとそういうこともなく、しいていえばよけいに混乱する羽目になった、だけだった。
「あお、ここ」
「う、うん?」
「あとが、残ってますね」
 そう、言ってみればそのとき彼女はぼくのことを気にかけてくれていたのであって、だからましろの新雪みたいな指先が、つめたいつめたいそれが、重い籠が食い込んでくっきり残ったあかいあとの上を滑ったからって、びっくりするようなことではなかっただろうに。
「へ、平気、ぼく、これくらいは」
「あ……」
 ましろがかくんと揺れる。それはぼくのせい。くすぐったかったんだ、そういうことにしておこう。もし聞かれたら、そういう言い訳をしよう。頭の中ですでに自分へそう言い訳しながら、ぼくは手をさっと引っ込めた。籠を持ち上げて、さっきまでと全く同じ姿勢に戻った。
「……もう、行きましょうか」
 ましろの閃きは、ぼくのそれよりずっと速くて、ずっと正確だ。ゴムひもで首のうしろにひっかけていた帽子をかぶって、ましろは、ぼくの腕を引く。商品棚の列をくぐった。彼女の足は真っ直ぐレジの方へ向かっていた。
 歩調を緩めたのは、ぼくのほうだった。自分自身の目線で、ぼくはその場に縫い付けられた。
 懐かしくて、懐かしすぎて、思わず目を瞑りたくなる色が、ぼくの胸をかすめる。それは弾けもせず、沁みもせず、ただ、ぼくをさっとかすめて、消えていった。
 やあ、きみはどこから来たんだ、なんてことも聞けないまま、ぼくは音のない言葉を、視て。
「……あお?」
「ん……ううん、なんでもない」
「ふふ、おかしにでも目が止まりました? もうすぐ、晩御飯の時間ですもんね」
「ぼ、ぼくはさっき食べたばっかりだから、大丈夫だって」
「あおには足りてないです、絶対」
 ぱちんぱちんと、ましろから発せられるよくわからない色をしたそれはたくさんたくさん弾けて、でも、だから、よけいに――よけいに、たった今麦わら帽子の隙間から漏れた、ちいさなちいさな青い言葉が、ぼくの頭の中に、くっきりとした影を残す。
「さ、早く帰りましょう」
 インスタントラーメンがいくつもいくつも並んだ棚を潜り抜けるまで、ましろはぼくの腕を引っ張るのをやめなかった。
「ねえあお、あおは、普段はどんなお部屋に、住んでるんですか?」
 また、だ。
「……うん、ぼくは」
 また、そのすべてを合わせても、さっきに足りない。

 いくら晩御飯時くらいの時間になっていたからといっても空があんまり暗すぎると思っていたら、あと停留所ひとつでバスを降りる、というその時点で、雷鳴と一緒に大きな雨粒が窓を叩き始めた。ましろがびっくりして、窓に触れていた手を離す。一気に本降りの、豪雨。
その日は夕立になりそうな気温ではなかったはずで、もちろんぼくらは傘を持っていなかった。洗濯に大きくかかわる天気予報には鋭い目を光らせている鴇さんだって、そういうことには妙に勘が働くらしい若菜さんだって、誰も予想していなかった雨。
「きれいな音が、してますね」
「いや、そんな場合じゃないと思うんだけど……ぼくら、荷物も多いし、傘もないし」
「うん……そう、ですね」
 バスを降りてからそれなりに真剣に考えているぼくの横で、ましろはえらく呆けていた。ともかく屋根のあるバス停だったからよかったものの、そうでなければ今頃びしょ濡れだっていうのに。もっとも屋根は穴だらけだったから、どちらにせよそのうち同じ運命は辿りそうだが。
びいだま荘にいると必要ないから、なんてほったらかしていたら、ぼくの中にはすっかり携帯電話を持ち歩くという習慣がなくなってしまっていたらしい。携帯が便利なのってこんなときだったっけか、などと、ぼくまでもが呆けた考えを浮かべ始める。慌てて頭を振った。
雨はいっこうに止む気配を見せない。どころか風まで出てきて、バスが行ったきりあとはなんの影も形も見えない道路の上で、雨のカーテンだけがごうごう揺れていた。ましろは、麦わら帽子のつばを手で押さえながら、風に向かって立っていた。けれどぼくが思うに、今一生懸命濡れたアスファルトを踏みしめている細い両足はきっともう限界で、だから彼女を走らせるなんてことは、目のことを抜きにしてもできるはずがなかった。
「ましろ、あのさ」
「はい?」
「ぼく、ちょっと走って行って、迎え呼んでくるから。だから、えっと――」
 刹那、大きなナイフみたいな突風はなんの前触れもなくぼくらの間に飛び込んできて、ましろの麦わら帽子も、それからぼくの次の言葉も、何もかも巻き込んで、灰色に荒れる海へと放り込んでしまう。あ、と言う暇もない。掴もうと手を伸ばす暇もない。なんだって奪われるときはあっという間だ。探すのにも見つけるのにも、それなりの時間がかかるのだとしても。
 そのくせ、夏にしてはひんやりしていた風は、ぼくの頭をきりっと冷まして、醒ました。
「あの、あお……えと、今、なんて」
「のって」
 吹き付ける風が、大きな雨粒を自由に走り回らせる。屋根の下ですら、ほとんど関係がないみたい。それだったらきっと、傘を持っていようがいまいが、濡れるのは同じことだ。それに、そう、ええと、それにぼくは、朱理さん運転のトラックに乗るのが、そんなに好きじゃない。だって、すごく酔うし。それから。それから。
 自分にいくつも言い訳できるのが便利だと思ったのは初めてで、でもましろの濁った眼を見つめているとなにか要らないことを言いそうな気がしたから、ぼくは背を向けてただ屈んだ。
「のって、って言ったんだ」
あとは雨と風のせいにしよう。それがたとえ嘘でも夢でも、ごうごううるさくって、きっとこの子には、聞こえちゃいないのだから。
ましろはみっつ数えるくらいの間黙っていて、長い長いみっつの間に、ぼくは変な格好で折り曲げた膝に、少しの痛みをおぼえた。それがひどくリアルだった。だけどみっつが終わっても、ましろは口を開いたわけじゃない。
それよりももっと眩しい答えをくれたと思う、つまりぼくの両肩の上に。
「――しっかり、つかまっててね」
 そうしてぼくの首に腕をしっかりまきつけたましろは、すんと鼻を鳴らすようにして、頷いた。ぼくは二つにわけた買い物袋を両手に引っさげて、一度大きく体を揺らしてから、豪雨の中へと飛び出した。
 もちろんのこと体はあっという間にびしょびしょになったし、自慢じゃないけど体力はいつも中の下ぐらいだったぼくは、重い袋と体と、そんなに重くないはずだけど一応人間の重さはちゃんとあるましろの三つであっさり酸欠状態に陥り、みっともなく顎を上げていた。定型句みたいにぼくはましろへしっかりつかまってと言ったけれど、実際しっかりつかまっていなかったら危なかったと思う。そのくらいには、ぼくがましろを背負う姿はぶかっこうだったのだ。
薄く水が張った道路の上を走ると、ぱしゃぱしゃ音がした。そのぱしゃぱしゃというリズムがせめて定期的になるようにと、ぼくは必死だった。おもしをたくさんつけたみたいな足を、何度も何度も振り上げた。だってましろは、耳が良かったから。だから。ぱしゃぱしゃ、ぱしゃぱしゃ、途切れそうで不安定なリズムを、ぼくは鳴らす。それは、背中からどうしてだかひどく真摯に感じられた心臓の音と、とてもよく似ていた。
つめたい雨はぼくらの隙間にかるがると滑り込んできて、ぬるくぼくらをくっつける。ほかのひとの体温はいつだってすごくそぐわないものであるはずなのに、そのときばかりはきっと雨のせいで、つめたいましろの温度は、ぼくに溶け込んでいた。荷物がぶらぶら揺れて、指先はとっくに感覚がなくて、きっと随分気持ちの悪い色をしているのだろう。 
バス通りを真っ直ぐ走って、三叉路を一番狭い道へときつくカーブする。途端に道が悪くなる。でもそれは、びいだま荘が近い証拠だ。鬱蒼と茂ってきた木をくぐっていけば、もうすぐ見える。少し暗いし冷え切った身体ではそう鋭い確信を持てるわけでもなかったのに、とりあえずぼくの足取りは安定していた。
「ましろ、もうすぐだよ」
「…………」
 ましろは黙っていた。頷く代わりに、ぼくの首に回した腕に、もう少しだけ力をこめていた。洗い立てのシーツみたいにさらさらした肌の上を、雨粒がどんどん濡らしていく。ましろはぶるぶるふるえてる。寒いんだ、きっと。答えを望まないまま、ぼくはもうすぐだよと繰り返す。自分で自分の背中を蹴るように。
 泥土を跳ねさせながら、ときどき飛び出した枝に体を叩かれながら、びしょ濡れのぼくらは、或いはなんだかよくわからないこんもりしたぼくは道を走って、走って――視界が、開けた。
「あ……あおちゃん、眞白ちゃん! よかった……!」
「おおっ、やっぱりちゃんと帰ってきたね。な、あたしの言った通りだろ、鴇?」
「……いいから早く、タオル! たくさん! 籠の上に重ねてあるから!」
 見れば、玄関先には鴇さんと朱理さんの二人が立っていた。もうあとたった数メートルだったのに、心配そうに顔を歪めた鴇さんは、わざわざいつものエプロンを少し濡らしてまで外に出てきて、ぼくらに傘をさしてくれる。すぐにぼくから荷物を預かってくれようともしたのだけれど、ぼくの体は多分にその姿勢のままで固まってしまっていて、何か一つずれたら全部崩れてしまうように思えたので、ぼくはとりあえずこのままでとお願いした。
「ごめんね、二人とも、まさかこんな天気になるなんて。迎えに行こうかとも思ったんだけど、途中で入れ違いになったら困るでしょうって、朱理も言うし……」
「で、実際間違ってなかったでしょ、あたしの判断。そーれ、タオルだぞ、いっぱいあるぞー。しっかり拭いたらあがっといで。鴇さん、なにかあったかいもの淹れてあげたら?」
「あ……そう、そうね」
 早々に戻ってきた朱理さんから走り終えたマラソン選手のようにタオル、タオル、タオルで迎えられた時になってやっと、ぼくはうまく手から力を抜くことができた。思わず荷物を落としそうになったのは、朱理さんがさっと拾ってくれる。
「見りゃわかると思うけど、だいぶ心配してたんだよねえ、鴇さん。ま、あおちゃんたちがそれを追い越すくらい逞しくなってて、お父さんは嬉しいぞ!」
「お父さん、って……わっぷ、い、いてて、ちょ、ちょっと痛いです、朱理さん」
「はい、がまんがまん」
朱理さんは荷物を脇に置いてからしばらくがしがしと乱暴にくすぐるように、まだおぶさったままのましろとぼくをいっぺんに拭いた。大きな手だからできる芸当だと思った。ふかふかのタオルからは、びいだま荘の匂いがする。よその家の匂いというものにぼくは敏感なのだけれど、そういうのとは少し違う、気がした。
適当に遊んでいるように見せかけて、案外としっかり雫を拭ってくれた朱理さんは、肩にひっかけていたもう二枚のタオルをぼくに渡した。あとは自分で、ということらしい。とん、とごく軽い音がした。ましろがぼくの背からおりた音だった。背中だけがまだぺったり濡れていて、あっというまに冷える。ということは、さっきまではけっこう温かかった、ということだろうか。触れ合っている間はどうしたってつめたいようにしか思えないのが、不思議だった。
「さっと拭いたら、いったん部屋戻って、着替えといで」
 ひらひらと手を振りながら台所の方へ消えて行った朱理さんは、鴇さんを手伝いにでも行ったらしい。とりあえずタオルを持って振り返った――のとほぼ同時に、ましろは玄関の床に崩れてしまった。
「うわ、わ……だ、大丈夫?」
 慌てて脇と腕を支える。完全に弛緩しているわけじゃないから、そんなに重くはない。どころか、軽いなあ、と思った。つい先刻までぼくの背中とくっついていたせいでましろの前面はまだ濡れていて、クリーム色のシャツはぺったりと彼女の体のラインに沿って張り付いていた。痩せてるんだ、やっぱり。じろじろ見るつもりはなくても、支えるかっこうだとどうしても目に飛び込んできてしまうので、ぼくはましろを玄関先の廊下にどうにか座らせるまで、だいぶおかしな方向へ首を曲げる羽目になった。ちょっと痛かった。
 荒い息、というには弱々しすぎるけれど、つらそうなことだけは確かにわかる浅い呼吸を、ましろは不規則に繰り返していた。瞳の濁りがいつもよりどろっと濃いように見える。疲労の色なのかもしれない。思うにましろの限界はとっくのとうに通り越していた。なにか言う気力も、残っていないみたいだった。
 ただそれは、そのどろどろと濁る硝子玉とかるく顔にかかった熱い息は、ひどく、
「あお」
「っ、え?」
「あっち、むいて」
 ――ひどくおおきく、ぼくの中を、叩いた。

「え、っと……あっちって、こっち?」
 世の中にはあっちと呼ばれる方角がたくさんあるのだという話ではないにしても、とにかくそのときのましろは明確に何かを言ってくれるような状態ではなかったから、ぼくは思い当たった方角、つまりましろに背を向ける方向を指して確認しなければならなかった。といって、そっちを向いてしまえば、それが正しかったかどうかなんてわからなくなってしまうのだが。
それでも否定は返ってこなかったから、やっぱりこっちで良かったんだろうか。それにしてもなんだろう、ああ、歩けるような状態じゃないけど着替えなきゃいけないから、部屋までもう一度おぶさってっていうこと、なのかな。ぼくは適当にぽつぽつ予想を巡らせる。それほどには、なにかしていなければいけないと思った。それほどには、なにかに追い立てられていた。
「まし、ろ?」
 背で空気が動いて、ぼくの予想は半分当たって、半分外れた。ましろはぼくの背にたしかに触れたけれど、それはたとえばさっきみたいにしっかりと腕が巻きつけられたなんてことじゃあなくて、ほんとにごくわずかな、はかない感触だったのだ。それでもどうにかやっと感じられたのは、ふかい、ふかい吐息。もうほとんど呼吸というより、あまりにも丁寧な祈りのことばに近い。そう、思った。だから、けっして動いたりなどしてはいけない、とも思った。
身じろぎひとつしないぼくの背で、濡れそぼった服がわずかにぴんと張る。普段だったら空腹に思いを馳せたりとか、鼻がむず痒いからくしゃみを出したりとかするはずの、つまりは平素ぼくに向いているベクトルのすべてが、今は背中に収束していて、だから見えなくっても、わかった。見えなくたってわかるのだと、ぼくはやっと知った。
ぼくの背にすがるようにひたいを押し当てていた彼女は、たぶん、たぶんだけど、何も握ってしまわないように、或いは何かにつかまるように、その小さな手を、握りしめていたのだ。

「あお。」

 ましろはたった一度、ぼくの名前を呼んだ。なめらかで耳触りのいい普段の声からは考えられないくらい、削れて、ささくれだった響き。しかも、背を向けていたからだろうか、そんなはずはないのに、そんなことってあるわけないのに、ぼくにはそれが、視えなかった。視えなくて、感じることもできなかった。
 ただ、消えてしまったのだ。
 ましろが立ったのがわかって、ぼくはやっと振り返った。止まっているように思えても普通はどこかしらが動いているもので、つまりは異様なほどに完全に停止していたぼくの体は、そのときぎりぎり軋みを上げた。ましろがぼくの手からタオルを一枚受け取ったとき、痺れるような痛みが走ったのは、たぶんそういうことなのだろう。
「……部屋、行こっか。着替えないと、風邪ひいちゃうよ」
 ましろは黙って頷くと、ふらふらするのを懸命におさえて、ひとりで立ちあがった。そうしてぼくとましろは二階へ向かった。なんだかあっという間の話だった。玄関からましろの部屋までの距離は、こんなに短かっただろうか。妙なことが気になりながら、ぼくは彼女が幾度か失敗しながら部屋の扉を開けるのを見る。
 かちゃりと拍子抜けするほど軽い音がして、ましろの部屋の扉は開いた。そういえばましろがぼくの部屋に来たことはたくさんあっても、ぼくはましろの部屋に入ったことがない。ましろはぼくの部屋に来るなり窓を開けては、ここからの海も好きと、良く笑っていたのに。
何度か誘われたことはあるけれど、いつも頷くのが変にくすぐったくて、結局今になってしまった。このままぼくは、ここを去ることになるのかな。そうなればふと中が気になってみたりもするのだけれど、電気もついていない部屋の中を扉とのわずかな隙間から覗くことは、できそうにもなかった。
「えと……着替えても、また下まで降りるの、辛いよね。飲み物とか、ぼく、ここまで持ってこようか?」
 その中へすうっと消えていこうとしたましろに、ぼくは声を掛けた。ましろは振り返って、でも、穏やかに一度首を振って見せた。いらない、ということだろうか。そんなに顔色もよくないみたいだし、疲れ切っているのだから、そのまま寝かせてあげたほうがいいかな。でも少し体を温めないといけないし、栄養だってとったほうがいいと思うんだけど。だいたいましろは少し小食すぎるのだし。そんなふうにして、鴇さんばりにいろいろなことを考えていたと思う、あのときのぼくは。
「……は、」
「ん、なに、ましろ?」
 だけど彼女がひさびさに、本当にひさびさに発したそのことばは、ぼくの頭をたった一色に、塗りつぶしてしまった。
それはつまり、ぼくの名前と、同じ色だ。
「今日は、ごめんなさい」
 それがどんな色だったかぼくがはっきりと思い出すより早く扉は閉まって、ましろはそれっきり、着替えて呼びに行っても、晩御飯になっても、寝る前になっても、出てこなかった。


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