「今頃気づいたんだ。」




 小学四年生のときに転校してきた女の子が可愛くて、私はその子に恋をした。社交的なほうではなかったけれど、一生懸命話題を探して、共通の趣味を探して、懸命に近づいて、いつしか私はその子の親友になっていた。九才だった私にとって、彼女の隣に居られること、彼女の一番であることは単純に幸福だった。抱きつくのも手を繋ぐのも日常茶飯事、でもその些細なことは私をどんどん幸せにして、そして現実を忘れさせてくれた。彼女も女の子で私も女の子であるということを、私は恐らく事実としては理解していたのだろうけれど、同性であることと恋愛感情を抱くことの関連性まで理解するには、私は幼すぎたのだろう。
 だけど現実はどこまでも唐突に残酷に九歳の私に突きつけられることになる。端的に言えば、その親友のことを好きだと言い出す男子が現れたのだ。その男子はなんとも運の悪いことに校内一の人気者で、サッカー部のホープで、頭が良くて顔も良くて、つまり彼女がその彼からの交際申し込みを断る理由などどこにもなかった。最後に残っていたはずの気持ちの問題すらいとも簡単に解決してしまった。そもそもそういう夢みたいな出来過ぎ君から真摯な好意を向けられて、気が向かない九才女子はそういないだろう。
 案の定彼の告白から二日も経たないうちに彼女は彼のことが好きなのだがどう返事をしたらいいかなどということを、位置として親友であった私に相談しだし、その瞬間に私の初恋は終わった。勿論私は彼女の相談にあくまでも誠実な回答を返したし、数日後二人が付き合うことになっても私は何も言わず、嬉しそうな彼女にただおめでとうと言った。何度も頷いて笑う彼女は可愛くて、幸せそうだった。それが最初の失恋。

 最初と言えばやっぱり次があるわけで、中学一年生の時には同級生、中学二年生の時には部活の先輩、中学三年生のときにまた同級生と、私は次々に恋をしては失恋した。なぜならば全員が同性であり、全員がいつしか私に現実を突きつけてきたからだ。思春期だったのが悪かったのかもしれないが、初めの二人はあっさりと恋人を作ってしまったし、最後の一人は言い出せもせずに卒業した。
 好きな人が居るか居ないか聞かれるたびに私は曖昧な答えを返す。居るような居ないようなね、居るといえば居るんだけど、それって君のことだよなんて誰が言えるだろう。そうしている間に、小学生の時はわからなかったことが、中学になって、高校になって、段々とわかるようになってきた。それだけ回数を重ねれば、いくらなんでも分かる。恋愛は、普通は男と女がするものなのだと、現実から裏づけされた一般的な恋愛というものの条件を、私は知った。

 ――といって、知ったからとてどうなるものでもなく、自身が異常であることをなんとなく理解したままで、私はまた、恋をする。




「先輩……青葉先輩」
「ん……なに? できたの?」
「はい、できました。よかったら添削お願いします」
「どれ……」

 言われて、彼女がこっちに向けてきたノートパソコンの画面を覗き込む。画面はワードで、内容は彼女がさっきからぽちぽちと拙いキータッチで書いていた散文だ。長さにして20ページ、読んでいた本を置いてそちらの文字を目で追い始める。彼女はそんな私の方に目をやりながら、なんとなく不安そうな面持ちで一緒に画面を覗き込んできた。もうすぐ三年生になる後輩の彼女だが、未だにパソコンの扱いに慣れず、誤字が絶えないことを気にしているのかもしれない。
 そもそも家にパソコンが無いせいで、遅くまで残って文芸部の備品であるノートパソコンで書いているわけで、そうまで気にする必要はないと私は思っているのだが。それにしてもあんまり見られると読むほうに集中できないんだけどな、と思いつつ、くっつかれるのはまんざらでもなかったりして、何も言わず私は画面上の文字を追う。今回はファンタジーに挑戦したらしい。書く媒体に不慣れであるとはいえ、生み出される元が彼女であることに変わりはなく、やはり内容はよく煮詰められた、読みやすい作品だった。ファンタジックな設定の割に、無理を感じさせない。情景も浮かびやすい。なにより、誤字が無い、それが一番の成長点。といったら怒るかな、なんて思いながら、最後までざっと読んで、私は彼女のほうに向き直った。

「うん、いいんじゃないかな。碓井はどんどん上手くなるね。これで安心して居なくなれる」
「そんなこと言わないでくださいよぉ……寂しいじゃないですか。もー、なんで卒業しちゃうんですか、先輩ってば!」
「なんで、って……まずそこは祝ってくれるところじゃない? こんなに部活バカだったのに留年も浪人もしないで済んだ先輩をさ」
「留年かあ……してたらあたしと同い年ですね。青葉先輩じゃなくて青葉ちゃんって呼んでもいいですか?」
「だから、留年してないでしょ。立派に明日卒業です。……さて、用事は添削だけだったよね? じゃあ、私はそろそろ帰らなくちゃ」
「えー、もう帰っちゃうんですか? もうちょっと語り合いましょうよー、明日卒業式なんだし」
「明日卒業式だからこそ、もう帰りたいの。さっきから親がじゃんじゃか連絡してきてるんだから……こんな日に何してんだって」
「むぅ、そりゃそうですけどぉ……」

 碓井詩織は至極つまらなそうに頬を膨らませ、何か含みのある目線でこっちを見てきた。そういうときの彼女は大概私になにかわがままを言おうとしている。大体今日の添削だって、他の部員にしてもらえばいいのに、引退してしまった私――しかも明日卒業を迎える三年生に頼んできたあたり、相当めちゃくちゃを言っているのだが。まだなお彼女は満足していないらしく、帰り支度を整える私の手首を掴んだ。多分引き留めようとしたのだろう。しかしそれがあまりにも唐突な行動だったせいで私はうっかり筆入れを取り落とし、チャックが緩くなっていたそれからは中身がばらばらと飛び散った。

「ちょっ……あーもう、なにするの……」
「あ、す、すいません……でも、だって」
「だってじゃないでしょ、もう六時過ぎてるんだよ? わがままもいい加減にしなさい、もうすぐ十七歳なんだから」
「……ごめんなさい」

 碓井は素直に謝って、飛び散ったペン類をとっとと拾って筆入れに入れてくれた。私はとりあえずお礼を言って、筆入れのチャックを閉め、鞄に詰め込む。卒業アルバムや置きっ放しだった教科書の詰まった鞄は重くて、持ち上げるのは億劫だった。と、また、鞄を持ち上げようとした手に、碓井の手が重なる。今度は掴もうとする手では、なかった。含みのある目線もなく、ただ彼女は、俯いていた。
 彼女の手は相変わらず小さい。小さくて、少し冷たくて、でもどこか。いや、ひたっている場合ではない。

「なに? 本当にもう、行かなくちゃいけないんだけど」
「もうすぐ、って……先輩、あたしの誕生日、覚えててくれてるんですね」
「…………」
「あ、違いましたか……? すいません、あたし早とちりで」

「覚えてるよ。……三月八日。まだ、覚えてるよ」

 ――だって私は、君の恋人だったんだから。漏れかけた言葉はどうにか喉元で押し止められ、重苦しい塊になって私の胸に落ちた。

 去年の三月八日の記憶は鮮明で、卒業も入学もまだ関係のなかった私と碓井は、高校生の恋人らしく、碓井の家でささやかなお祝いをした。安っぽいけど奮発した指輪をプレゼントした。碓井は恥ずかしそうにそれをつけて、似合いますかと言ったのだ。思い出さなくてもいいことまで思い出してしまう。三月八日のキーワード。私の記憶のロックは緩い。何せ、忘れようとし始めたのは、ほんの一ヶ月前からだ。ほんの一ヶ月前、彼女に別れを告げられてからだ。
 碓井はごめんなさい、それだけなんです、と微かに悲しそうに笑う。引き留めてごめんなさい、手間かけましたね。碓井の手が離れる。小さな感触が消える。手が震えているのを見つけなければ良かったと、私は後悔した。なんでそんな顔するの、なんでそんなに寂しそうな、悲しそうな、苦しそうな顔をするの。私の目線に気付いた碓井はふっと目を上げて、何か言いたそうに唇を開いて、でも、何も言わなかった。

 だって、さよならって言ったのは、君じゃない。
 別れましょうって言ったのは君じゃない。
 私はそんなこと一言も言ってないのに。君だってずっと幸せそうだったのに。
 いきなり君は、私に、ごめんなさい別れましょうさようならって、言ったんじゃない。

 なんで、泣きそうな顔をするの?


「……もう、詩織って呼んでくれないんですね」


 部室を出て行く直前、私は彼女の呟きを聞いた。多分私に向けた言葉ではなかったが、私はそれを聞いた。またそれもロックの対象になるが、未だに鍵が見つからなくて、どうしようもない。ほんとはずっと前から、どうしようもなくなってた。代わりに碓井の居る部室から一刻も早く離れようと、息が上がるくらいのスピードで歩いた。歩いて、ついには駆け出した。それで彼女との記憶が全部落っこちてしまえばいい。だらしなく残る思いを振りほどけられればいい。
 願って走って家まで帰って、そうだというのにどこもかしこも私は彼女の思い出でいっぱいだった。私も彼女でいっぱいで、落としても落としても、溢れても溢れても、なくなってくれなくて。



 ――異常なんだと思いながらも、私は結局高校二年生のときに碓井詩織に恋をした。
 彼女は私の所属する文芸部に入ってきた新入生で、誰か友達を誘うでもなくたった一人で文芸部室の門を叩いた彼女は、一週間たっても馴染むことなく黙っていた。基本的に雑談に興じることの多い部活だったが、彼女が会話に積極的に参加することは殆どなく、後から聞けば、やっぱり人見知りしていたのだという。初めは、単純にそれがなんとなくかわいそうで声をかけた。せっかく入った部活なのだから、馴染んで楽しんでもらいたい、と思っていたから。

「ウスイさん……で、読み方あってるよね? えっと、緊張してる?」
「えっ? あ、は、はい、ちょっと……」
「そっか。でも、うーん、みんなただの本好きとかばっかりだから……リラックスして、好きな雑談して、いいんだよ。なんだったら私、お相手します」
「えと……」

 碓井詩織は、暫く呆けたような顔をして躊躇っていたが、私がなんとなく手を差し伸べてみると、おずおずとそれを握って、そして、笑った。さっきまでの緊張した、固まった面持ちが嘘のような笑顔。思わず次の言葉を聞き逃してしまいそうなほどの、眩しい笑顔。もともと可愛らしい顔立ちの子だとは思っていたけれど、幼くくしゃりと笑う彼女は、私の目を奪うには充分すぎた。

「すいません、ありがとうございます。……えっと、ミヤタ、先輩っ」

 思えば、一番好きだったところというと、あの笑顔だったのかもしれない。





「宮田先輩、宮田先輩! 聞いてくださいよ、もー中間テスト最悪で……!」
「あー、その話題か……まぁいいや、座りな、碓井。あ、春木が持ってきたお菓子あるけど、食べる?」
「食べますっ! ありがとうございます、春木先輩っ!」
「いいよいいよ。しっかし、すっかり明るくなったな、碓井は」

 同級生の春木が言うとおり、碓井はそれから一ヶ月もしないうちには、すっかり部活に慣れていた。元来明るい性格だったのだろう、学期二回目の中間テストが終わったそのときにはすっかり部活の人気者。なんにでも素直に、可愛らしく喜ぶので、言いながら春木の口元は緩んでいる。それを見つけて、なんとなしに面白くない気分になっていたが、何時ものように碓井が私の向かいに座ってとりとめもない話をするのを見ると、そんな気分すぐ忘れていた。
 これでも同性に恋をし始めて九年だったから、その時点で既に私は私が碓井に好意を向け始めていることを理解していたと思う。毎日話せるのは嬉しくて、テストで会えなかった期間は寂しくて、春木と話しているのを見てると面白くなくて。仲の良い後輩、から、徐々に徐々に気持ちが動きはじめているのを私は理解していて、それから、多分、押し留めようとしていた。だって結末なんて、どうせ決まってるんだもの。それでも抑えるのは難しくて、碓井と話したいことはたくさんあって、私は彼女と会話する。

「それで? テスト、失敗か何かしたの?」
「ん、これうまいっすね……って、あー、そうなんですよ! いやあたし、三日目の科目って数?のほうだと思って、前日とかめっちゃ勉強したんですよ! なのに当日学校行ったら……」
「あー、数Aだったんだ?」
「そう、そうなんです! 休み時間行ったらみんなAの教科書持ってて、確率がどーのとか超話してるんですよ。もうあたし一人でパニックで……っていうか、なんでわかったんですか……?」
「私も一回やったの、それ。たまに間違えるよね」
「いや、俺間違えたことねえけど……お前ら頭の構造似てんじゃね?」
「マジっすか! 褒められてないけど褒め言葉に聞こえますそれ!」
「え、なんで?」
「だって宮田先輩と同じ頭脳構造なんて素敵じゃないですか! わー、なんか超嬉しい!」

 とりとめもない話をして、たまに可愛らしいことを言う彼女にふっと幸せになったりして、確かに私は彼女に恋をしていたが、それが一般的には認められないものだと私は知っている。きっとまたすぐ現実がやってくる。碓井詩織にも新しい恋人か、好きな人が必ずできる。私はどうやら彼女が一番懐いている先輩という位置を手に入れていたが、そこから先が私には無い。
 幼馴染、友達、親友、憧れの先輩、同性が手に入れられるポジションはどうしても決まっていて、それ以上には進めない。いや進めないのではなく、それ以上が存在しない――だって、おかしいんだもんね、こんなのは。

「そういえば……宮田先輩って、下の名前なんていうんですか?」
「はぁ!? おっまえ、このタイミングかよ……最初に全員自己紹介しただろうが。そんとき宮田もフルネーム言ったろ」
「うっ……だ、だって、緊張しすぎて耳の機能が停止してましてですね……ああああの先輩、怒りました? ち、違うんですよ、あたしはただ」
「怒ってないよ。春木も、君だってどうせ私のフルネームなんて覚えてないでしょうに」
「……因みに俺のフルネーム言えるか?」
「春木権兵衛。えっとね、青葉っていうんだけど……あんまり女の子らしくない名前でしょ」
「あおば……宮田青葉、ですか! うわー、いやいや、すっげぇ綺麗です! 先輩にぴったりです!」
「そうかな……? 私は詩織って名前の方が好きだけどな。こっちの方が綺麗じゃない?」
「いやいやいやいや、あたし詩織って面でもないですし。綺麗は先輩がぴったりなんです!」
「……ところで完全に突っ込むタイミングを見逃したわけだが、俺は春木芳人といいます」
「ああうん余裕があったら覚えておきますね!」
「暇があったら覚えておくね」

 それでも碓井はどうしようもなく可愛い後輩で、私は気がつかないうちにやっぱり碓井に溺れていて、会話の中にある些細な言葉が、なんだか嬉しかった。綺麗、がお世辞であっても、碓井が言えば私は嬉しかった。
 懐きに懐いている碓井は毎日毎日私の真向かいに座って、そこはすっかり碓井詩織の指定席で、名前でも書いとけばって他の部員はからかって、それもくすぐったくて、嬉しくて。まんざらでもなかったらしい碓井は次の日に本当に名札を作ってきて机に貼ったりして、それはうっかり今でも残っている。あれ、明日剥がすのかな。剥がして、くしゃくしゃにして、捨てられちゃうのかな、そうだろうな。
 私と碓井は既に部活の先輩後輩というだけの位置しか、もう残されていないんだから。初めから持っていたそれは、そして多分明日消えてしまうだろう。私は明日女子高生でなくなる。卒業して、この部室に来ることも、もうなくなる。

 そこから先にはどうしても進めないと私はどうにか知っていたが、受け止めることは多分できなかった。好きな気持ちは、好きな気持ちのまま。でも、どうしたってそこからはどうにもならないから、どうにか満足する。どうにもならないから、一番好かれる先輩、の位置を必死に死守した。それ以下にはなりたくなかった。可愛い後輩として、可愛らしいことを言って貰って満足する、そんな位置を、私は守ってきた。
 たくさんくだらない話をして、たくさん彼女と時間を持った。プレゼントをやりとりしたり、書いた散文を二人で推敲しあったり、私は私ができる努力を惜しまなかった。その度にこれでいいのだと言い聞かせる、笑ってもらうたびに、ふっと幸せになるたびに、これでいいんだ、これ以上望んではいけないと私は一生懸命私に言い聞かせる。

 ――聞き入れられなかったのはどうしてかと言えば、他でもない彼女が、碓井詩織が、その言葉を打ち消すようなことを言ったからだろう。





「あのー、青葉先輩……ちょっと相談なんですけど」
「ん……どうしたの?」

 いつもどおり部室で雑談をするメンバー達が居る中で、手招きして部室の外に私を呼んだ碓井は、辺りをはばかるような様子を見せながら、こんなことを呟いた。

「先輩は……女の子同士の恋愛って、どう思いますか?」
「…………」

 一瞬、停止する。そうして私は混乱する。ばれた? 私は何かそういう素振りを見せただろうか? ばれた? 彼女は私を気持ち悪いと思ったんだろうか? ふっと気が遠くなるような思考の奔流。落ち着け、と懸命に囁く。まだ、私の話だと決まったわけではない。そういう意味で言ったのではないかもしれないだろう。ほら、ぼうっとしてないで、返答しなければ。彼女は答えを待っている。碓井が不安そうな目で、こっちを見ている。
 私はからからに乾いた口の中を潤して、つっかえそうになるのを我慢しながら、どうにか言葉を搾り出した。声が苦しそうだったとかは、もう、知らない。考える余裕も無い。

「どう、か……まぁ、難しい、よね。恋愛は、普通男女がするものだし」

 ふつう。恋愛とは一般的に男と女がするものである。誰がということもなく、そう決まっているのである。自分で言った言葉が深く刺さる。刺さって抜けなくなる。痛い。私は今どんな顔をしている。碓井は、こっちを、見ていない。良かった。
 碓井は俯いている。ふつうは、男女がするもの。私の言った言葉を小声で繰り返したが、それはとても機械的で、私はなぜかそれに、少しだけほっとしていた。彼女の、まるで納得していないかのような態度に、少しだけ私は、ほっとしていたんだ。

「友達が……あ、名前は内緒で……女の子が好きだって、言い出したんですよね。どうしたらいいってあたしに相談してきて」
「そう……でも、ほら、思春期ってそういうこともあるみたいだよ?」
「知ってます、はしかみたいなものっていう説ですよね……でもその子、なんかちょっと本気っぽくて」

 そうか友達の話か、混乱が徐々に解けていく。だけど頭の奥はびりびりと痛い。染みるように痛い。言葉の一つ一つに、攻め立てられているような気分だ。でもどういうわけだろうこれは、私を攻め立てているのは私の言葉で、

「あたしは……本気なら、気持ち次第だって思うんです、恋愛って。だって好きなら好きで、もう変えられないじゃないですか。それが、その人の気持ち。それで全部だって思うんです」

私を救ってくれるのは、碓井の言葉で。




 そうして気がつけば私は碓井の肩に頭をあずける格好になっていて、焦った碓井の声が聞こえるのをぼんやりと聞いていた。聞きながら、ゆっくりと視界が滲むのを、私は心地よく感じていた。
 自分勝手な寂しい粒が目の端から零れて、零れて、碓井の制服に染みていく。でも、溢れているのは、優しくて。私がどうやら泣いていることに気がついたらしい碓井は、わけがわからなかったろうに、そっと頭を撫でてくれていた。その手が優しくて、私はもっと寂しい塊になる。碓井に寄りかかって、彼女という存在に縋って、私はどんどん剥き出しの塊になる。醜くて、汚くて、どうしようもない私になる。

「あおば、先輩……? え、あの、大丈夫ですかっ」
「うん……うん、っ、ごめん、ごめんね……」
「え、あ、いや、別にその先輩なら涙でも鼻水でも涎でも全然おっけーです、受け止めるっす……あ、でも涙以外の場合あたしのティッシュって選択肢も考慮に入れて欲しかったり……えっと、大丈夫ですか、マジで……?」

 言葉までもが無条件に、多分少し無責任に優しい碓井。私は溺れる。もういい。守らなきゃいけない位置、進めない場所、そんなのもう、どうでもいい。踏みとどまらなければいけないものは、堰を切って流れ出してしまったんだ、きっと。私は勝手に、どこまでも身勝手にそんな言い訳を自分にしながら、泣いた。碓井の肩で散々泣いた。

 ――そうして、言った。

「ほんとに……気持ち次第だって、思う?」
「はいっ!? え、あ、あぁ、さっきの話ですか……? えと、はい、あたしはそうです」
「ほんとに? 女の子同士、だよ。普通じゃないよ」
「うーん、そもそもあたし、普通って概念があまり好きでないっす……って言ったら部員らに怒られますかね、あの人ら概念とかいう言葉に敏感だから、あはは……」
「私が碓井を好きでも?」
「……へ?」

「私が碓井を好きでも、変じゃないって、思う?」

 碓井は、ちょっと笑ってしまうほどぽかんと口を開けて、まじまじと私を見ていた。私は彼女の目を見返す。綺麗な目だ。まだ光が幼くて、瞳の奥に闇の見えない、綺麗な目だ。きっとこの目は、嘘をつかない。勝手な決めつけが頭に浮かぶ。
嘘じゃないよね碓井、ねえ、気持ち悪いなんて、言わないで。君まで現実を私に突きつけないで。おかしいってわかってるよ、自分でちゃんともう、わかってるから。だからもうどうか、言わないで。
 わかってる、全部わかってるけど、だったら私はどうしたらよかったの? 人を好きになっちゃいけなかったの? 全部わかってるって諦めなくちゃいけないの? 同性への恋は、恋とすら認めてもらえないんですか? だって、私だって、ちゃんと好きなのに。

「私は……碓井のこと、好きだよ。そういう意味で」
「…………」

 だって本当に好きなんだ。碓井の隣に居たいって思う。碓井の一番になりたい、碓井を独り占めしたい、愛したい、それから、愛されたい。仲良しの先輩後輩っていう位置じゃ、やっぱり、ダメなんだ。私はもっと君に近づきたい、手を繋いで、キスをして、甘い言葉を囁いて、二人で二人を補い合って、そんな関係に私もなりたい。君が笑顔になれることを、私もしてみたい。それが私が笑顔になることとイコールであってほしい。寂しいときは傍に居て欲しいし、泣いてるなら傍に居たい。一番傍に、君のいちばんに。
 ――私にはそう願うことすらも、許されないの?

「気持ち悪い……? やっぱり、変だよね、こんなの……ごめんね、ごめん……あぁ、うん、いいよ、忘れて……えっと、わたし」
「ちょ、ちょっと。ちょっとちょっとちょっと、先輩、青葉先輩」
「うん、ごめん、すぐ消えるから……」
「ちょっとおー!! 言ってない、あたしまだ何も言ってないっす、暴走自転車ですか先輩!」

 泣いて、泣いて、わけが分からなくなっていた私の両肩を、碓井はがっしりと掴んだ。その時私はやっと、まともに碓井の顔を見たような気がした。彼女はどこか、揺らいだ瞳で私を捉えていて。
 でも、彼女の言葉ははっきりと、まっすぐに、私のこころに向かって飛んだ。

「だから、おかしいなんて思わないです! それが先輩の気持ちなら……あたしは、嬉しい! それがっ……それが、あたしの全部です!」
「……ぜん、ぶ?」
「そう! えっと、えっと、だからですね、あ、あたしは……ってか、あたしも! 好きです、青葉先輩が大好きです!」

 彼女は、詩織は、確かに私に向かってそう叫んだ、因みに内容は部室内で聞いていた文芸部員達全員が証言してくれたので、間違いもなさそうだった。
 私は後になって聞いたって、信じられなかった。目の前で碓井がぼそぼそ何かいいながら真っ赤になって俯いているのも、彼女が今は弱々しく肩にのせている手の感触も、わかってくれる人が居たことも、それがこんなに嬉しかったことも、恋人が出来たことも。
 全部、全部、とても信じられるようなことじゃなくって、私は寝て起きたら全部夢なんじゃないかって、何度も何度も疑って。






「…………」

 実際その一年と四ヶ月後には本当に寝て起きたら全部夢になっていたわけで、私は頭を振って、重たい体を起こした。何もこんな日に見なくてもいい夢なのに。ベッドから降りて、ハンガーにきちんと掛けられた制服を見る。今日私が、高校生として恐らく最後に袖を通すであろう制服を見る。そうかこれが最後かと私はぼんやり考えて、今日が卒業式だったことを頭の中で確認した。それがどうでもよくなってしまうほどには、私は、ショックだったんだろう。とっとと制服に着替える。もう三年間も同じことをしてきたのであって、思いにふけっていようが何しようが、私は機械的にそれを身に付けることが出来た。
 キッチンでは母がにこにこと私を迎えてくれたが、大事な式を迎えたにしては不機嫌そうである私を見て、奇妙な顔をする。体調を気遣う質問に私は曖昧に微笑んで返し、朝ごはんを飲み下して家を出る。とにかく一箇所に留まっていたくない。考えるのはもうたくさんだ。ずっと昔からあんなに考えたのに。わかろうとしたのに、まだ、わからない。まだわからないよ、やっぱり、いけなかったの?

「行ってきます」

 卒業式にはもっといい天気だったら良かったのに、曇り空からは朝日も覗いていない。
 ああ、そういえばあの日は、逆に何かのあてつけみたいにいい天気だった。思い出したくないな、もともと、晴れの日は嫌いだ。


『ごめんなさい』

 思い出したくないなんて言ったって、一回思い浮かべたらもう止まらない。なまじ慣れきった通学路だから、ほかの事に思いを馳せる余裕もある。なければいいのに。いつもより少し遅い電車に乗ったって、乗ってきた三年生が少し浮かれた表情で挨拶してきたって、私はそれを曖昧に流す余裕ができている。代わりに、思考にのまれる。思い出にのまれる。二月の頭だった、もうすぐ受験だった、でもそんなときだから言っておきたくてって、彼女は、碓井詩織は、私の目の前で、別れを告げた。
 呼び出されたいつもの公園、冷たい風の匂い、冬服のスカートが弄ばれる。碓井の肩まで伸ばした髪が、さらさらと、さらさらと、揺れている。車の通る音、トラックだろうか。私はぼんやりとそんなことを考えていて、滲んでぼやけた感覚で、そんなことだけを感じていて。だって向き合うことなんて出来ただろうか。彼女の口から突然零れた言葉に、どうして私が簡単に向き合うことなんて出来ただろう。
 でも彼女は、そんな私にもう一度刻み付けるかのように、もう終わりにしましょうって、繰り返した。

『あたしは……ただの後輩に、戻ります。戻りたいです』

 嘘だよ嘘だって言って、ねえ、君だって幸せそうだったじゃない、あんなに大好きって言ってくれたじゃない、なんでそんなこと言うの、お願い、言わないで。
 一緒に行った買い物も映画も海も、こっそり家を抜け出して会ったりしたことも、君には大切な思い出じゃないの? だって、楽しそうだったよね、私の錯覚じゃないよね? 私たちは、普通じゃなかったけど、幸せな恋人同士だったよね?
 普通を騙らないでよ、君はわかってくれたじゃない、私のこと、わかってくれたんじゃなかったの? それが全部だって、私の気持ちの全部だって、認めてくれたんじゃなかったの?
好きだよって言ってくれたのは、嘘だったの?

『ごめんなさい、さよなら……でも、あたし、青葉先輩のことは好きですから。縁切らないでくださいね?』

 切れるわけ無いじゃない、私はまだ詩織のことが、「詩織」のことが好きなままなんだよ。君は、君はもう、「青葉さん」が好きなわけじゃないんだね、そうなんだね。
 さよならなんて言わないでよって言いたいのに、声にはならない。さんさんと差し込む日の光が彼女の表情を隠す。私は目が眩んでおかしくなる。頭が混乱していく。頭の奥がじんじんする。何も考えたくない、考えたら受け入れてしまう。それでもなんでなんでなんでって、そんな意味のない問い掛けが生まれては私の中ばかりを巡って、何も言わない私を誰も居ない公園に置いたまま、私の恋人だった碓井詩織は私の目の前を去って行った。
 彼女の姿が交差点の向こうに消えていったその瞬間、私はそれが普通だったのだと言い聞かせられた。

 ――ふつう、恋愛は男と女がするものだ。だから、これで、ふつうなんだよ。




 教室に入るとクラスメイト達は今日という日に妙に沸き立っていて、私も半ばそれに参加しながら、どこか浮遊しているような気分の中に居る。なんだろう、なんなんだろう、どうして碓井が居なくなっただけで、私が誰だかわからなくまでならなくちゃいけないんだろう。ああ、バカみたい。
 卒業式は突然で、あまりにも突然すぎて、私はなかなかそれを理解しない。登校して別れを惜しむ言葉をくれる友達に曖昧に返す。まともに会話するのは最後の子もいるかもしれないのに。現実として染みてこないことは、私の目の前を流れるただの風景でしかなくて、私はそれを理解しない。突然すぎる。全部突然すぎるんだ。君の別れだって、突然すぎたんだよ。ねえ、ねえ……もう、言わない方がいい。

「あ……入場だって! 青葉ちゃん、行こ行こ!」
「うん」

 ほんとにこれで終わるんだね、ねえ詩織、私はこれが終わったら、君とも終われるのかな。終わってないのは私だけで、だから、卒業式が終わったら私は高校から居なくなるから、終われるのかな。友達の後ろをふらふらと着いて行った。雨が降り出していた。体育館の外で暫く待って、吹奏楽部が小さく演奏を始めるのが聞こえて、前に進む列に導かれて、私は歩き出す。赤白の垂れ幕をくぐって、拍手をしている先生達の横を潜り抜けて、二年生が座っている席を見た瞬間に、碓井の姿を見つけた。列に混じって、他の二年生と同じように拍手をしている彼女が見えた。そうして卒業式が始まって、私は違う涙で頬を濡らしていた。
 呼名が終わって、卒業証書授与が終わって、こんなときにも長くてつまらない校長の話が終わって、送辞と答辞が終わって、合唱が終わって、卒業式が終わった。あっという間というほどでもなく、だけど、意味を持たない時間になってしまった。これでまともな卒業式をするのは最後だというのになんということだなんて思うと、今度は妙に哂えてくる。隣の友人が肩を震わせているのを見て、私もこういう風になりたいとぼんやり考える。私もこうだったらな。卒業式に感動して、みんなと別れるのが寂しくて、なんて、そんな気持ちで泣けたらな。

 そうか私は普通になりたかったんだろうな、そんな変な気づきだけを残して、私は体育館を去る。これで学校を去るのだとはまだ思い切れなくて、これで詩織を忘れられるとは、到底思えなかった。ふつうになれば、なれたなら、私はこんな、どうしようもない人間には、ならなかっただろうか。詩織の姿を横目で捉えながら、私は、また泣いた。ふつうじゃない涙が溢れて溢れて、止まらなかった。




「ええっと……そいじゃまず春木先輩に!」
「おっ……おお、なんかこうやって改まって渡されると恥ずかしいな……」
「はい、卒業おめでとうございます! 大学落ちても気落ちしないでくださいね!」
「……まだ発表のあってない受験生にそういうこと言うか!? っていうか、お前ら、最後くらい俺に優しくしろよ!」
「やだなぁ、最後だからこそ努めていつもどおりにしてんじゃないすかー」

 ホームルームを終えた後の三年生は、大概所属していた部活生と別れを惜しむのが普通で、例によって例に漏れず私もそうで、文芸部員達は一人一つずつ、ささやかなプレゼントを用意してくれていた。部員四人だからこそできる芸当だな、と思いながら、春木がプレゼントを受け取っているのを見る。一年生二人が渡して、次は二年生。ああ、碓井の番だ。青い包みが春木、色違いの赤い包みは、多分私だ。
 修学旅行の時彼女は春木と私に大分値段と見た目の差のついたお土産を買っていて、春木一人が妙に落ち込んでいたのは、もう笑えない笑い話だった。


「じゃ、次は宮田先輩にっ! うー、寂しいです先輩……また絶対きてくださいね!?」
「うん、そうだね……五年に一回くらいは顔出すよ」
「少ないですよ!? オリンピック開催よりは多くしてくださいよ!」
「じゃあ、次、私から……もっといっぱい教えて欲しかったです、先輩……」
「一年生には、殆ど構ってやれなかったね……いつかちゃんと書いた作品が読みたいな」
「光栄です! あ、これ、賞味期限明後日なんでそこんとこお願いします……」
「ん、わかった……あ、すごい、ヴェルグラースだ……高くなかった? このお店の、好きなんだよね。ありがとう」
「……なあ、最後の最後に言うのもなんだが、お前ら最後の最後まで宮田と俺の扱い差別するのな」
「女尊男卑社会の流れに乗ってみようかと思いまして!」

 一年生と春木がじゃれている横で、苦笑してそれをちょっと眺めていた碓井が、漸くこっちを見る。思わず目を逸らしそうになって、でもそれは嫌で、見返した。多分睨むように見返した。怨んでいるわけじゃないのに、どうしても彼女の顔を見ると、変な思い、ゴチャゴチャした想いが溢れて溢れて、どうしようもなかった。
 わかってくれると思った、なんて、思えばなんて自分勝手な考えだったか知れないのに。

「じゃあ……あたしからです、先輩。卒業、おめでとうございます」
「……ありがとう」

 私はその包みを手にとって、何の感慨も残さないようにと努めて、部室を後にした。
 卒業式が終わってしまったのは本当で、部室には多分もう二度とくることはなくて、私はたったさっきから高校生じゃなくなったんだ。
 私の思いとは裏腹に、時間は流れて、生活は続いて。






 

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