先生。相談、あんだけど。





 信じられない話かもしれませんが、一応このわたしにも、女子高生時代というものがあったのです。

 わたしの通っていた学校は共学の、さりとて頭がいいわけでもなく、初めから選ばれていた二割が上等な大学に進み、初めから落っこちていた二割が就職をし、どちらでもない六割がなんとなく私大に行ったりお金のかからない地元の公立大学に行ったりするところでした。校内全教室に冷暖房が完備されていたり、バリアフリー化が進み四階建ての中にエレベーターが設置されているわけでもなく、カビのうっすら生えたクリーム色の校舎が、数百人の生徒を毎日飽きもせずひっくるんでいました。
 春には新入生歓迎の浮ついたムードに一瞬だけ包まれ、夏には運良くうっかり大きな大会まで出てしまった部活を応援して大仰に喜びつつも概ね最終的にはがっかりな結末を迎え、秋には体育祭と文化祭でいっときの熱に人生の汚点を量産し、そして冬には一年の総決算学力テストや先輩の卒業なんかに悲喜こもごもをあふれさせ、そしてまた春がくるとそれら一切合切をすぽんと忘れてしまう。そんな、ふつうにふつうの公立高校に、わたしもかつて通っていたわけです。ふつうにふつうで、そしてそのひと自身たった一人にとってだけ、目を覆うほどに目映くて特別な。
 高校三年生に上がった時でした。わたしが、しのづかさんと同じクラスになったのは。
 二年生までは学習以外にも等しく力を入れる生徒こそを評価したい、部活にも勉強にも学校行事にもみんな頑張る生徒は立派だなんてことを仰るわりに、三年生になると面白いほどに手のひらを返してくるのが義務教育でない高校教育らしいところです。なにしろ彼らにとって教育はビジネスですから、進学という出荷は慎重に行わねばなりません。相手側の発注と違うものをお届けしてしまっては、信用と評価に大きく関わります。要するに、頭の良い子悪い子普通の子、をはっきりと分けなければならないのが、三年生という時期でした。勉強以外のことも頑張って、それなりの成績を取りつつ青春を満喫したあとには、それなりの結果しか待っていないというわけです。
 そんな適切で残酷な選別の結果、わたしたちの学年約三百人は理系文系就職希望者に分けられ、さらにその中でも成績順に上から三十五人区切られ特進クラス、下から四十人区切られ叩き上げクラスなるものが作られる運びとなっていました。良い子、悪い子、普通の子。
 今となっては自慢でもなんでもないのですが、わたしがいたのは、良い子の集うクラスでした。みんなで一緒に受験を乗り越えようね、などと言い合いつつ、その実テストの答え合わせが一人だけ違う子を胸中で嗤い、受験科目に使用しない授業は堂々と無視をするような、そんな四十人の仲間入りを、十七歳だったわたしは果たしました。
 そして、しのづかさんも。
「ね、篠塚さん! クラスみんなでLINEのグループつくろーって話してるんだけどさ。よかったら、ID教えてくれない?」
「あ、ごめん。私、LINEやってないから」
「そうなの? えーっ、便利なのに! いいじゃん、この機会に初めちゃえば?」
「いや……ごめん、いい。ごめん」
 しのづかさん。名前は全部で篠塚実里さん、といいましたか。
 彼女は、もう時効なので歯に衣着せぬ物言いをしてしまえば、わたしの、非常に苦手とするタイプの人間でした。
 短いやり取りで三度もごめん、と繰り返されてしまった、クラスの中心人物たるかんざわさんは、あ、そう、と力が抜けてしまったかのように言い、彼女の席から立ち去ってゆきます。彼女はとても人当たりがよい子で、なにより人気者でしたから、当然すぐに新しい話し相手が見つかりました。「あっ、ねえねえ三原っちー! 今さあ、クラスのみんなでLINEのグループつくろーって話してんだけど」「おっ、いーねいーね! あたしのID送ればいい?」「そうねー、てか番号教えてよ! 交換しよ?」「ほーい、おっけー」
 そうするとしのづかさんは、かんざわさんが話しかけに来る前そうしていたのと同じように、机の上に覆いかぶさるようにして頬杖をつきます。しのづかさんはたいへんに背が高く、どのくらいかというと机がやたらとちゃちに見えて、まるで小学生用のものに狭苦しく腰掛けているかのように見えてしまうくらいでした。ですから彼女が日焼けした天板の上で頬杖をつこうとすると、奇妙に背中の丸まった、覆いかぶさるような格好になってしまうのです。床に落ちていた彼女の影はひどくいびつで、不格好であったことを、わたしは今でもよく覚えているのです。
 その、とにかくこの場に、約七十二平方メートルの王国にうまく噛み合っていないようなところも全部ひっくるめて、わたしはしのづかさんのことが苦手でした。
 しのづかさんは、彼女は、いわゆるひとつの集団に馴染めないタイプの人間でした。悪気があるのかないのか知りませんが、多分に後者なのかもしれませんが、彼女はとにかく無愛想なのです。早ければ小学生でも身に着けているだろうという愛想笑いを、彼女はあろうことかまったくといっていいほど身に着けていませんでした。というか、彼女はいつもひたすらに、それこそ頑丈に貼り付けてしまったかのような仏頂面をしていて、それを全くといっていいほど崩さないことで有名でした。
 あと一点で勝てたかもしれなかった野球部の地区大会決勝、最後の最後でフライをセンターのだれとかくんが落としてしまい、惜敗にむせび泣く野球部員にみんなが心打たれ涙を流したときも。はたまた、力の入った体育祭での全員リレー、バトンを落としてもなお歯を食いしばって走り続けた先輩が奇跡の三人抜きを果たし、紅組テントが大歓声で包まれたときも。しのづかさんはひたすら仏頂面を崩さず、泣く子に縋りつかれようが笑い声と共に肩を組まれようが、「あ、うん、残念だったね」「うん、よかったね」といったようなものでした。ここまでくると、それはもはや不感症です。そういう病気なのだとすら、わたしには思えていました。
 蓼食う虫も好き好きとは言いますが、しかし病人は須らく隔離されて然るべきです。ふつうにふつうの高校に通う、しかし頭の良い子たちと分類された彼ら彼女らだって、それをよくわかっていました。しのづかさんはクラスで孤立していました。ぼっち、コミュ障、ハブ、空気。呼び方はさまざまあるように見えますが、そもそも個人という生きた対象をそういった区分けで語ってしまうというのも、なんだかおかしな話です。
 わたしには、どうだっていいことだったけれど。わたしだって、しのづかさんのことをそのどれかで呼んでいたけれど。
 いえ、ですから、何度も言いますが、わたしは苦手だったのです、しのづかさんのことが。
「さってと、あとはー……あっ、海老野ちゃん! 海老野ちゃんもLINE教えてー!!」
「あっ、うん! ぜひぜひ入れてー!!」
「おっけおっけ。てか今スマホ持ってる?」
「うん、あるある」
 だってあなた、病人だからって、それで許されていいとでも思っているのでしょうか。
 欠落があるということ、不出来であるということ、それが「かわいそう」であるということ、それがすべての免罪符になるとでも思っているのでしょうか。みんなと違ってもいい、みんなとうまくやれなくたっていい、それは個性だから、それも大切なあなただから、なんて甘い言葉に守ってもらえると、本気で思っているのでしょうか。そんな言葉が今もって現実の社会においても正しく機能しているだなんてこと、ありえないのに。
 人の身体というものは、若干の大小の違いはあれど、白い骨を皮と肉で覆った、概ね似たような形をしています。けれど、それを動かしているところのたとえば魂だとか、たとえば心だとかは、目に見ることはできません。目に見ることはできませんが、それらが個々によってあまりにも違った形をしていることを、わたしたちは生きていくうちで理解します。目の前にいる、このわたしとまるで同じような形をしている物体は、その実わたしとまったく違った中身だということを、どうしようもなく突きつけられる日が必ずやってきます。絶対的不理解性の理解です。
 そんなに気味が悪いことってあるでしょうか。まるで同族であるかのような、仲間であるのような、親しむべきものであるかのような形をしたものたちは、見えず、触れもしない中身をぱんぱんに覆って、自分の前に立っているのです。そんなにおぞましいことってあるでしょうか。あるのです。それが他人で、それらの他人がひしめくものこそ社会です。親であろうが兄弟であろうがクラスメイトであろうが関係ありません。それらはみな等しく、自分でない、「他」の人間なのですから。
 けれども人間は笑ってしまいそうなことに社会的な動物でありますから、その「他」の人間と、あろうことか相互理解を目指しながら生きていかなければなりません。初めから絶対に不可能だとわかっていることに、死ぬまで挑戦し続けなければなりません。好きなものが同じ人と寄り集まってにへにへ笑い、嫌いなものが同じ人と寄り集まって取り澄ました顔で肩を竦めあい、そして能力が同じ人と寄り集まってちっぽけな自尊心を満足させながら生きてゆかなければなりません。それが人の生きる道ですというよりも、人の生きる道など、もはやそれしか残されていません。だってわたしたちは社会的な動物ですから。ひとりでは決して生きてはいけないように、進化してしまったのですから。
 だから。そんな、人間であるわたしたちは、不可能を可能にするだなんて文字にすれば笑ってしまえそうなほどかっこいいことをやるために、「個」をすこしずつ、折り合いをつけて潰していくことが肝要なのです。
「えっとねー、私のIDは……」
「あっ、ごめん、ま、待ってもらえるかな、管澤さん」
「うん? どしたん?」
 きょとんと首を傾げるかんざわさんに、わたしは首を傾いでおどけてみせました。AppStoreの画面をとんとんとタップして映し出しながら、精一杯無邪気な声を出します。「わたし、このあいだiPhoneにしたばっかりで。まだLINE落としてなかったんだ」
「なーんだ、そなの?」
「うん、でも今から登録しちゃうから。管澤さんのID、教えてくれる?」
「おっけー! 一年間よろしくねー、海老野ちゃん!!」
「よろしくね。受験大変そうだけど、いっしょに頑張ろう」
 にっこりと語りかけてくるかんざわさんの、シュシュで括られた髪ばかりに焦点を合わせながら、わたしもにっこりと笑って握手に応じます。かんざわさんの手は冷たくて美しく、しかし中指にはペンだこの剥けたばかりと見える赤い痕がありました。大学教授の父親に医者の母親を持っている彼女が、三者面談のたびに無茶なレベルの大学ばかりを親からあげられているらしいというのは、もはや二年生のうちからもっぱらの噂です。
 彼女はきっと、LINEのグループでちんたらくだらない話題を飛ばし合い、いちいち既読の数字を気にしている場合ではないのでしょう。でもかんざわさんのお友だちはよよぎさんとくすはらさんで、二人ともさほど勉強に必死にならずともよい、あとはのんびりスマートフォンでも弄りながら三年生を過ごしたいたちの人間でしたから。だから、かんざわさんはさりとて知りたいわけでもないのであろうわたしのLINEのIDをメモしようと、ポケットからかわいらしいケースに入ったiPhoneを取り出しています。そうすることが、生きていくということだから。
 それから、わたしだって。
「ええっと、これでいいのかな? iPhoneの使い方って、まだまだよくわかってないところが多くって……」
「うん、だいじょぶだいじょぶ! はいっ、登録完了ね。あとでグループ呼んどくから! すっごくかわいいスタンプとかみつけたら、そっこー共有しちゃうから!!」
「わかった、楽しみにしてるね」
 わたしだって、いつもわたしより早く家を出て、わたしより遅く帰ってくるお母さんに、友だちには不自由しないほうがいいものねなんて、悲しそうに笑って言って欲しくなんか、なかったけれど。今もって手作業の仕事ばかりをいくつも掛け持ちし、背中に湿布を貼って腰にコルセットを巻きながら、二世代も前の携帯電話で電話しかしたことのないようなお母さんにスマートフォンの話をして、ごめんねお母さんそういうのにうとくて、なんて言って欲しくなかったけれど。「よくわからないけど、かずちゃんはそれがあったら、お友だちから外されずに済むのね? じゃあ大丈夫よ、お母さん、そのためにお仕事してるんだから」
 だけど、それでも、お仕事を休んで校長室まで呼ばれ、清掃業務にうす汚れた手をわずかに震わせながら湯飲みを不安そうに握っていたお母さんの姿なんて、わたしはもう見たくなかったのです。中学時代の担任や学年主任、おまけに教頭先生にまで周囲を囲まれ、すっかり縮こまった小柄な母の頭上に、「残念ながら現在の状況は娘さんの側にも多少問題があるとしか申し上げられません」などという言葉を、もう二度とは降り注がせたくありませんでした。申し訳ありません、申し訳ありません、なかなか話を聞いてやる時間も持てずに、すべてわたしが至らないせいなのです、申し訳ありませんだなんて、あのぴかぴかに磨かれていた校長室の机に額を擦り付けそうなほど頭を下げるお母さんの姿なんて、もう見たくありませんでした。
「かずちゃん、ごめんね。あなたはいい子なのに、本当にいい子なのに、ごめんね」
 いいえ、すべて悪いのはわたしでした。わたしの努力不足が、絶対悪で、たったひとつの取り除かれるべき病理でした。
 みんながふつうにできていることをふつうにできないというのは、その時点で既に努力が足りていないという証拠です。わたしはもっとうまくやれるはずでした。先にこのりちゃんを無視しようなんて話を出したえりかちゃんのほうが悪いと思うなんていう、「わたし」がそう思うなんていうことはあの場において心底どうだってよく、ただヒエラルキーが圧倒的に上であったえりかちゃんに従っておくべきでした。すべてそういうことの連続です。努力努力努力。社会に加われないのは、すべて自分の努力不足です。わたしが、みんな悪かった。
 だからわたしは高校に入って精一杯努力をしました。勉強をして、おしゃれをして、共通の話題に関するアンテナを必死に張り巡らしました。適切なタイミングで笑い、ここぞという時に涙を流し、共感し、滅私することを覚えました。もちろんわたしにはかんざわさんほどの天賦の才はありませんでしたし、残念ながら彼女ほど美人なほうでもありませんでしたから、クラスの中心まで上り詰められたわけではありません。血のにじむような努力の結果は、いつだってとても正しく現実に則しています。しかしクラスが変わっても、わたしには友だちがいました。話をすることのできる友だちが、いました。
 でも、しのづかさんは、その努力を放棄しています。
 頑張っていない人間が頑張る人間を哂うな、という美しい言葉がありますね。では言いかえれば、頑張っている人間は、頑張っていない人間を哂う権利があります。わたしやみんなは、努力をしていました。だからわたしやみんなは、しのづかさんを弾劾する権利も、それから「いないもの」として扱う権利も、持ち合わせていました。べつにこちらから拒絶したわけではありませんし、それなりの誠意や能力を見せてくれればこちらだって歓迎する準備はあったのに、彼女はそれを拒絶した。それは、徹頭徹尾、彼女が悪い。
「……何か用? 海老野さん」
「え? あ、ううん。なんにも」
「そう」
 なのにさりとてそれを気にしたふうでもない、相変わらずの仏頂面を見せてくる、というところも含めて。
 わたしは、彼女のことが苦手でした。

 もちろんそんなしのづかさんとわたしが話をするに至らなかったというのは想像に難くなく、予想外の出来事などそうは起きることもなく、残り短くなった高校生活は淡々と終わりへ向かってゆきました。いつものとおりの春が過ぎて、夏が過ぎて、秋も深まってきたころ。最後の体育祭と文化祭、というなんでもかんでも「最後」をつけがたるうちでもいっとう面倒な二つを乗り越え、その夢と熱からさめればあとは受験と現実との戦いとばかりが待っている、そんなころのことです。
 わたしは、しのづかさんの秘密を知りました。
 十月の、終わりのことでした。
「あれ? 海老野っちー、帰るの?」
「ううん、図書室。ちょっと……ええと、調べものがあって」
「そっかー。海老野っちは努力家さんだもんねぇ。今度数学教えて!」
「数学はわたしより管澤さんのほうが得意だよ、きっと」
「んなことないってー。んじゃ、がんばって!」
「うん、ありがとう」
 わたしはどちらかというと教室よりも図書室で勉強することを好む人間でした。二人の、わたしがいつも一緒にいる友だちがいるときは、いわゆる「問題の出し合い」や「教え合い」に参加せねばなりませんでしたからそうもいきませんでしたが、二人が塾で先に帰ってしまったとなれば話は別です。図書室はなにより静かだし、同じクラスの削り合いを余儀なくされる人間たちに囲まれ、刃を研がなければならないという状況が、わたしには多少息苦しく感じられていたのです。そんなわたしにとって、図書室での勉強はなかなかに心安らかなものでした。
 それにわたしには、一年生のころからちょっとお気に入りにしていた席というものがあったのです。図書室は入ってすぐのところに新刊の書棚があり、そこから分類別の書棚が連なり、と広がっているのですが、その書棚を抜けると円卓があり、ここでは主に読書を楽しむ生徒たちが利用しています。そしてそのさらに奥に入ると、なんと個別に仕切りの衝立がたてられた机が、六列ずつ並んでいるのです。集団塾の自習室なんかではよく利用されている形と聞きましたが、塾に行く余裕のないわたしにとって、そこはこの上なくぴったりな学習場所でした。
 左手奥、一番端の席が、わたしの勝手に決めた指定席でした。うちの図書室は本の日焼けを防ぐためか窓が少なく、しかもあったとしてもカーテンで遮られてしまっているところが多いのですが、その左手奥一番端の席からだけは、窓から外が見えるのです。なんとなく見てみたところ、カーテンレールが一個外れてしまっているというのがその原因のようでした。わたしにとっては幸福なことに、そこは三年間修理されることもなく、そのままであり続けてくれました。もちろん勉強をしに行っているのですから外をぼやっと眺めていた、というわけでもありませんでしたが、人の心というのはたまに目を遣ると青空が見える、というだけでいくらか洗われてくれる、安っぽい作りをしているものです。
「……うん?」
 しかし、その窓の外の変わらぬ光景に、異物がひょっこり紛れ込んできたのです。
「あれ、」
 しのづかさんだ。
 思わず口にしそうになって、わたしはあわてて口元をノートで覆いました。なぜか今彼女の名前を呼んではいけないような気がしたのです、なぜだかは、わかりません。
 今までほとんど空を見るためにしか使っていなかった窓ですが、もちろん空以外にも見えるものありました。それはたとえば、使わなくなったきりほとんど人の訪れることのない、校舎裏のはなれにぽつりと作られた、焼却炉のあたりだとか。わたしはその焼却炉の影、恐らくこの窓からしか見ることのできない角度の位置に、しのづかさんがやってくるのを見ました。
 それから、その後ろを、ちっこい子がぴょこぴょこついてくるのも、みんな見ていました。
「……、」
 きくのさんだ、と呟きそうになるのを、わたしは今度こそきちんと我慢することができました。
 つまるところ、なんのくだらない偶然の一致なのかは知りませんが、わたしはしのづかさんだけでなく、彼女の後をついてきた子のことも、一応知ってはいたのです。なにしろ一年生の時は同じクラスでした。きくのさん、菊野芽衣さん。でも彼女、今は確か、クラスどころか教室棟すら異なる就職クラスにいるはずなのに、どうして。わたしはそこまで考えてやっと、その場所が進学クラスの教室棟と就職クラスの教室棟の相中にあたる場所であることを思い当たります。毎日通って、見ているところでも、見方を変えなければ見えないことのほうが多いものです。
 きくのさんはわたしの覚えている限りですと非常に内気な子で、あの子はあの子で、努力がへたくそすぎるという点で一種苦手な子でした。話をしようとするとすぐつっかえてしまうし、話題についていくのも苦手。二つ前に話していたことについてを、にこにこと話題に上げ、白けた空気にしょんぼりしてしまう。頭の回転が遅いタイプ、というのが素直な、そしておそらく正当な評価でありました。世の中も彼女にそうレッテルを貼るであろう、という意味で、正当な。
 しかもああいうタイプは厄介なことに男子の庇護欲と女子の攻撃性を同時に煽ってきますから、ある意味しのづかさんよりも全体には悪影響を及ぼします。彼女のいる現在のクラスでも概ね予想通りの状況に陥り、わたしたちのように進学に忙しくない就職組の女子たちは見事にきくのさんへの嫌がらせ、という飽きない暇つぶしを手にしたそうですが、まあここにおいてはどうでもよい話でしょう。
 わたしにとって重要なのは、うちのクラスで孤立しているしのづかさんと、就職組のクラスで虐げられているきくのさんが、どうして今現在、あんな人目のつかないところで会合をしているのかということ、ただその一点でありました。なにしろものごとには必ず原因があって結果が存在するわけですから、仲が良いらしいという噂すら耳にしたことのなかった彼女たちが二人きりでそこにいる、ということには、きっと誰も知らない理由があるはずなのです。そして、それをつい気にしてしまう程度には、わたしにもいやらしい野次馬根性が染みついていました。
 わたしはカーテンの隙間から自分の身体が見えないよう机に近づきつつも、しかし窓には顔を近づけて、状況のさらなる把握を計りました。それにしても、ちぐはぐな二人です。しのづかさんは先ほども言いましたとおりやたらめったら背の高い子でしたが、きくのさんはその逆で、背が低いというか発育が悪い子です。痩せぎすで、あまり凹凸のない彼女の身体は、理科の植物の成長に関する実験で、養分を与えられず水と光合成だけで育ったたよりない姿を思わせました。その点しのづかさんは走るのに邪魔っけそうなものを二つぶら下げているタイプの、女の子というより女性に近い体つきになっていましたから、本当に真逆です。
 そんな彼女たちが何をしていたかといったら、まあ、有り体にいって、話をしているようでした。それはまあ、女子というのは誰かの発する言葉を食べて生きているのではないかと思うほど、お喋りを好む生き物です。遊ぼうよという誘い文句がそのまま遊ぶことを指しているのは女子の場合遅くとも小学校高学年までのことで、あとは遊ぶイコール適当なお店で飲み物でも片手にひたすらだらだらとお喋りをする、というものです。だから社会で生きていくための努力のひとつには、喋る能力というものが大いにあるわけです、が。
「………。」 
 能力、という点では、しのづかさんにせよ、きくのさんにせよ、まったく基本水準には達していなかったはずです。しのづかさんは零点でしたし、きくのさんは赤点でした。そのはず、でした。
 そのはずだったのに、なぜでしょう。
「………。」
 なぜ彼女たちは、あれほど楽しそうに、話をしているのでしょう。
 なぜきくのさんはやせた腕を振り回したり、時折可愛らしく首を傾げたりして、せいいっぱい話ができているのでしょう。ついていけなくてすぐに黙り込み、曖昧すぎる笑みで相槌も打てないのが、あなたではなかったのですか。それに。
 それに、なぜしのづかさんは、口元に、
「――っ、」
 その、いつだって描いたような真一文字に引き結ばれていた口元に、笑みを、微笑を、浮かべていたのでしょう。あなたは。
 あなたは、なにがあったって表情を変えない、そういう努力をはなから放棄した、そんな人間では、なかったのですか。
 カーテンの隙間から、ほとんど片目、左目だけで映す光景は、わたしにとってただただ信じがたいものばかりでした。知らないものばかりでした。左目だけがやたらめったら明るいせいでわたしの右目は一瞬機能を失い、赤黒いなにかだけをぱちぱちと弾かせるガラス玉になってしまいました。頭の左側が、ほんの少しだけ痛んだような心地がします。
 どうにか機能している左目の向こうでは、しのづかさんの大きな筋張った手がぎこちなく伸ばされ、きくのさんの頭をくしゃりと撫でてやっていました。

 わたしは彼女たちの仲睦まじい様子にひどく戸惑いましたが、しかし同時に、これは好機であるとも捉えました。既に起きてしまったものごとに狼狽してばかりいたところで、置き去りになるばかりです。置き去りになることは恐ろしいことです。とても、とても恐ろしいことです。わたしは適応しなければなりませんでした。
 考え方を少し変えることにしようと思いついたのが、わたしにとってはかなり冴えたやり方でした。それが、つまりはこれこそ好機である、という考え方です。あの場、あの放課後の焼却炉前以外で二人がまともに話をしているところは、それこそ登下校に至るまで目にすることはありませんでした。それとなくきくのさんの話題を振ってみてもしのづかさんは通常どおりの反応しか返しませんでしたし、きくのさんについての噂は相変わらずいじめに関する尾ひれのついたワイドショーめいたものばかりです。場所が図書室のあの位置から以外は死角になっているところからも推して知るべしでしたが、あの二人は、焼却炉前でのことを秘密にしておきたいのです。誰の目にも触れさせたくない、誰の手にも触れてほしくない。そしてそれほどに、脆く柔らかいところだ、ということなのです。
 これはわたしにとって、しのづかさんを苦手としているわたしにとっては、つまり好機だと言えました。なにしろ彼女たちの秘密を握っているのはわたしだけです。使い道があるかどうかはわかりませんが、大切なのはそれをわたしが知っているということ、その武器をわたしが持っているということなのです。生きていくために武器はとても、とても大切です。たとえそれを揮う機会が一度も来なかったのだとしても、それは平和だったね、で済ますことができますが、仮に害されることがあったとき、害さねばならないとき、手に武器が無くては泣くことしかできません。わたしは、そんなのまっぴらでした。
 だからわたしは、いよいよ本格的に塾に通い始めた友人二人から一人学校へ置いてゆかれることよりも、図書室のあの席でしのづかさんたちを見つけることのほうに重きを置きました。なにしろこの武器は、わたしひとりが持っている、という特徴が除かれてしまえば、一気にその効力を失います。だからわたしはそれからもずっと、ある種彼女たちを見守るかのように、けれども虎視眈々と牙を研ぐように、図書室左手奥、一番端の席で、焼却炉前にて会う二人のことを見つめ続けました。
 そのうちにわかっていった、ひょっとするとどうでもよかったかもしれないことが、いくつかあります。
 たとえば初めに見かけたときこそ二人は一緒にそこへやってきましたが、あれは二人にとって随分幸運な偶然だったようで、関係を秘密にしておく二人はおそらく約束というものをあまりまともに交わしていないようにみえました。というのも、どちらか一方が焼却炉前に来たとてもう一方がやってこない、という状況も、それなりに多く見かけたからです。
 きくのさんだけのときは、有り体にいって非常に落ち着きがありませんでした。あそこが死角であることを重々承知してはいるだろうに、人目をはばかるようにやたらと辺りを見回すし、かと思うとしょんぼりと座り込み、地面を指先で弄りながら体を揺らすという非常に子どもっぽい仕草も見せます。そしていくらもしないうちにまた立ち上がり、小さい頭を振ってあたりを見回し始めるのです。そんな彼女がひとりであそこにいる時間は、平均二十から三十分といったところでしょうか。
 その点しのづかさんは落ち着いたもので、カバンから取り出した文庫本らしきものを眺めているときもありましたし、ひたすらじっと焼却炉に寄りかかり、ジャージ(彼女はあろうことか気温が低くなると制服のスカートの下にジャージをはきます。寒い地方ならともかく、普通に普通な気候であるここであれはありえません)のポケットに両手をつっこみ、いつもの仏頂面で視線を空に放ってばかりいます。ただ彼女の場合は時間が異常といってもいいほどで、一時間経ても、ひどいときは辺りが暗くなってもそこにいることがあります。
 ですからしのづかさんが一人でいるときはきくのさんも後からやってくる、という図を見ることが多く、そんなとききくのさんは、小柄な彼女にとっては山脈のようであろう胸のあたりをぽよんぽよんと拳ではたきます。それをどうどう、といったふうに両手でなだめるしのづかさんの口元や、目元には、もはや苦笑としか呼びようのない、笑顔の一種としか呼びようのないものが、ふんわりと浮かんでいるのです。
 そうやってどうでもよかったかもしれないことをわかっていくのも、しかし馬鹿にはできないものです。焼却炉前で話す彼女たちの吐く息が、雲のように真っ白になるころには、わたしにはある一つの仮説が芽生えていました。しかもその仮説を裏付けるだけのことも、それなりに集まりつつありました。
「あ」
 そして、一月の頭、センター試験も間近に迫ったころ、その仮説は確信に変わったのです。
 その日も長々と飽きもせずきくのさんのことを待ち続けていたしのづかさんは、彼女にしては運がよく、一時間二十分できくのさんと会うことができました。そのころにはさすがにわたしも勉強する際ひざ掛けで足をぐるぐる巻きにしたくなる程度には空気が尖りつつありましたから、下校時刻になるまであんなところで待っていた次の日、しのづかさんはマスクをかけて学校にやってきたりしていましたので。なぜだか席替えで隣になってしまったしのづかさんがそのようですと、わたしにもなにがしかの影響が出ることは考え得るので、それはわたしにとってもありがたいことであった、といえるのでしょう。
 そんなところまで子どものようなつくりをしているのか、鼻の頭だの頬骨のふくらみのあたりだのを真っ赤っかにしたきくのさんは、しのづかさんを見つけてあっという顔をしました。あのあたりになると、就職クラスの今日を楽しく生きてゆくことしか頭にない、いっそ爽快なほどに頭が悪く暇な女子たちも、きくのさんが放課後になるとやたらと早く帰りたがることに気付いていたようです。そんな彼女に対するモノ隠しだの仕事の押し付けだのといった、ばかばかしいながら解決にやたら時間のかかる嫌がらせは主に放課後行われるようになったそうで、わたしがここのところしのづかさんの一人きりのようすばかり見ていたことには、概ねそういった経緯がありました。
 あっといったような顔をしたあと、すぐにきくのさんらしいと思える申し訳なさそうな表情を彼女は小さな顔いっぱいに浮かべましたが、しのづかさんは構わず長い足のたった一歩だけで、彼女との距離を詰めてしまいました。焼却炉をもうっすらと白く覆っていたほのかな雪の上に、しのづかさんの女子とは思えぬ大きな足跡がひとつ残ります。そう、その日は雪が降っていました。わたしたちの街にしては物珍しい、しのづかさんの頭のてっぺんにも微かに積もるくらいの、それなりの雪が。
 しのづかさんの頭にある雪を見つけたようで、きくのさんは両手をすっと伸ばしました。一瞬きょとんとしていたようだったしのづかさんに、若干頬をふくらませたようすのきくのさんが何か言って、すこし弱ったように笑ったしのづかさんは、まるで礼をするかのようにぺこりと頭を下げました。するときくのさんがさっそく小さな手をつかって、ぱたぱたとしのづかさんの頭に積もった雪を取り払っていきます。
 しかしそんなところも不器用なのか、しのづかさんの頭から取り払われた雪は、今度はきくのさんの顔にぱらぱらとかかってしまっていました。許しを得たらしくほんのすこし顔を上げたしのづかさんが、それを見てまたくすっと笑います。わらい、ます。それからしのづかさんは、きくのさんの顔くらいだったら覆えてしまいそうな大きな手の親指で、くすん、とこするように彼女の鼻先を拭ってやって、
「……ぁ、っ」
 ――きくのさんが、すっと背伸びをしたのは、そのときでした。
 見ていました。全部。わたしはぜんぶ、みて、いました。
 きくのさんとしのづかさんの顔の位置が、ほんの一瞬同じ高さになったのも。
 しのづかさんが、いつもぽやっとしていたような目を、ぐっと見開いていたのも。
 いっとき離れたきくのさんが、寒さでない赤さで湯気でも放ちそうなようすになっていたのも。
「あ、……ぁ、」
 そして、ふっと笑ったしのづかさんが、きくのさんの両頬を手で包み、そっと目を閉じながら、顔を傾けたのも。
 わたしはぜんぶ、みて、いました。
 その一瞬でわたしの仮説はすべて確信に変わりました。彼女たちが関係を周りに誰にも秘密にしていたその理由。あんなに寒々しく、しかし人目につかないところを選び抜いて話をしていたその理由。きくのさんがほっとしたように会話をする理由、しのづかさんが見たこともないような表情ばかり浮かべるその理由を、わたしはすべて理解しました。彼女たちは。しのづかさんときくのさんは、恋人どうし、なのです。つきあって、いるのです。
 そして、
「……っ!!」
 ほんの、一瞬。
 うすく目を開いたしのづかさんと、目が。
 ――目が、合いました。

 わたしは跳ねるように立ち上がり、いきおい椅子をひっくり返してしまいました。放課後の図書室にて突如鳴り響いた大きな音に、勉強をしていた生徒も居眠りをしていた生徒も本を読んでいた生徒も、カウンターで受け付けをしていた図書委員も、みんなこっちを見ています。しかしわたしはそれどころではありませんでした。ペンを落っことしながら、筆箱の中身をひっくり返しながらも必死で手早く勉強道具をまとめ、一刻も早くその場を立ち去ろうと躍起になっていました。
 そのまままっすぐ下駄箱に向かうことができたならよかったのですが、残念ながらわたしは電車通学でしたし、そのための定期にせよ財布にせよ教室の鞄の中です。ですからわたしは運動が得意というわけでもないのにぜえぜえ言いながら走って、走って、自習中のクラスメイトたちの居残る教室まで辿りつき、同じく彼女彼らの目も丸くさせながら鞄を取り、やっとのことで学校から飛び出そうとしていた、のですが。
「待って」
「わぁっ!!」
 下駄箱にて靴を履きかえようと伸ばした手を、大きな手に掴まれてしまいました。
「っ、わ、ぅ、」
 わたしの手首をぐるんと一周してなおかなり余っているように見える、こんなにも大きな手を持っている女子を、わたしは残念ながら一人しか知りません。
 しかし予想通りであったからといって、目の前の嫌な現実に打ちのめされない人間など、はたしているのでありましょうか。少なくともわたしはだめでした。そのときのわたしは、ものの見事に、それこそ声も出ないほど、彼女の名前も呼べないほど、滅多打ちにされてしまいました。
「あ、ごめん、海老野さん」
 ほんの少し罰が悪そうな色をにじませ、けれどもいつものような仏頂面だけは崩さずにいるしのづかさんを見て、滅多打ちに、されてしまいました。
 あれほど短く、そしてあれほど長く感じられた沈黙を、わたしはそれまでにも、そしてそれからも経験することはありませんでした。放課後というにも多少遅い、冬の早すぎる夜を迎えた下駄箱前は、まだ薄くしか積もっていない雪にすら端から音を吸い込まれてしまったように、ぴりっと静まり返ります。わたしは、さっきまで走っていたわたしの呼吸の音だけがやたらうるさく聞こえるのを、いっそ耳を塞いでいたいほど聞いていました。
「……見てたよね」
「え、」
「さっき。」
 正直に言って、しのづかさんの成績は良いなんてものではありませんでした。上等な二割の中のさらに一割、選び抜かれた一割に入るのが、彼女という人間でありました。さりとて努力をしているように見えなくともそうでありましたから(だってそれもわたしが彼女を苦手な原因の一つでしたから)、彼女は要するにもともと頭の回転の速い人間なのでしょう。だから、その場における必要最低限の言葉、というのも理解してしまっているのです。
 わたしにできるのは、ほんのわずかに頷くことだけでした。
「そっか。うん、やっぱり学校でっていうのは、まずかったよね」
 ぽつり、と彼女は言って、困った顔で、肩を竦めました。「ったく、メイってば」
 メイ、というのがきくのさんの下の名前であることを思いだすのにわたしは若干の時間を必要としてしまって、いやあれはどう考えても後に本気を出してしまったしのづかさんのほうが悪い気がするとか、そんなことをもんやりと考えてしまって。しのづかさん、きくのさんの名前を呼ぶときだけ、困ったような顔、とかって、表情を変えるんだな、とか、そんなことすら考えてしまって。
 それどころではないと気が付いたのは、残念ながら、既に声を上げるタイミングを逸してからのことでした。黙りこくっていたわたしの代わりのように、しのづかさんは口を開きます。思うに、彼女とまともに会話をかわしたのは、あれが初めてのことだったでしょう。
「強制はできないし、お願いすることしか私にはできないんだけどさ。黙っててくれると、嬉しい」
「……あなたと、菊野さんのこと?」
「うん」
 さっくりと頷いてみせた彼女は、彼女は、わたしに知られているということを、なんとも思っていないのでしょうか。黙ってくれると嬉しいだなんて、そんな頼み方でいいと思っているのでしょうか。いえ、わたしが彼女を苦手だと思っていることなんて、彼女にとっては知る由もないことなのかもしれませんが。それは当然のことだったのかもしれませんが、しかしそのときのわたしにとっては、それがひどく、ひどくひどく、腹立たしいことのように思えてしまったのです。
 だから、なにか。
 なにか、ほんの少しでも彼女を困らせてやるようなことを言ってやれ、と思って。
「付き合ってる、ん、だよね?」
 こじ開けた唇からこぼれたのは、そんな言葉でした。
「あなたと、菊野さん。恋人どうし、なんだよね?」
 それで勢いづいた、と思ったのは、思えたのは、
「うん。」
 彼女があっさりと頷いてしまうまでの、ほんのわずかなあいだでした。
「一年くらい前かな。職員室前で困ってたから、どうしたのかなって思って声かけたら、英語の質問したいのに先生がいない、って困っててさ。私にもわかるところだったから教えてあげたら、なんかすっごい感謝されちゃって」
 そのお礼をさせてほしいとマックシェイクを奢られに行き、なんだか楽しかったからそのお礼のお礼に本屋に誘い、しのづかさんが紹介する本の数々に目を輝かせたきくのさんを家に呼ぶことになり。等々、しのづかさんとしても、それから一般的な話としてもかなり短くまとめられていた話を、わたしはやけに冗長なもののように聞いていました。時間というのは誰にとっても等しく流れてゆくもののはずなので、それはおかしなことだったのかもしれませんが、耳がひりひりするほど冷えていたわたしにとってだけ、その感覚はリアルでした。その感覚だけが、リアルでした。
「わかってるかもしれないけど。私、なんていうか、鈍いんだ」
 不感症。
 自分の遣った言葉が、まるで他人の遣ったもののように、冷たく脳裏をよぎります。
「あんまりみんなと同じように、泣いたり笑ったりとかって、できなくってさ。心が動いてないわけじゃないんだけど、それを顔に出すの、すごい苦手で」
 けれどもきくのさんと話すようになって、それがゆっくり変わっていったんだと、しのづかさんは言いました。「メイは、うーん……そう、いつもね、すごく懸命だから。誠実すぎるくらいに、誠実だから。それに私、多分、すごく安心してるんだろうね」メイ、と名前を呼ぶときだけ、本当に子どものように素直な顔で笑いながら、しのづかさんは、言いました。
「といってもまだまだ下手でさ、今のところはメイのこと、不安にさせてばっかりだから。できればあの子と一緒に、しんから笑えるようになりたいな、っていうのがあって……まあ、海老野さんには関係ないことなのかもしれないけどさ。でも私たちにもうちょっとだけ、時間をくれると嬉しいな、とかって」
 どうせもうすぐ卒業なんだしさ、と。
 おそらく、わたしに見せてくれたのでしょう、ひどくいびつな、顔の片側だけをなんとか吊り上げたような笑みを、見て。
「っそ、じゃ、」
「うん?」
「……そうじゃ、なくて」
 わたしは、かすかすに乾いてしまった喉を必死に、必死に絞って、声を出しました。出さなければなりませんでした。わたしのために。あるいはかんざわさんのために。あるいはお母さんのために。またあるいは、もっと別な、誰かのために。
「そうじゃなくて。あなたが不感症とか、菊野さんがそれで不安になってるとか、そういうことじゃ、なくって」
 一撃必殺の、つもりだったのです。
 わたしにとって、その言葉は。武器の根本にしっかりと刻まれたそれは、出せばすぐにでも彼女たち二人を突き落とせる、弾き飛ばすことができる、それが放つことができるというだけでもう無敵であるはずの、一撃必殺の、つもりでした。「そうじゃなくて、あなたたち、は」
 ――そのつもり、でした。

「どちらも女の子、でしょう……?」

 わたしの言葉に、しのづかさんはきゅっと目を見開きました。
 コンマ二秒くらいのあいだ、だけ。たった、それだけ。

「え? ああ、うん。まあ、そうだね、そういえば」

 そして、それだけだったのです。

 わたしと彼女ら、つまりしのづかさんときくのさんは、それ以上会話を交わすこともないまま、卒業しました。わたしは結局彼女たちの関係を他の誰にも言うことはなく、ただそれ以降も図書室のあの席に向かうことだけは続けていました。わたしがあそこにいなければ、だれかがあそこに座ってしまうかもしれないから。そんなことを考えていたのは覚えているのですが、実際のところなにがしたかったのかはわかりません。彼女たちを守ってやろうだなんていう気はまったくなかったはずだし、彼女たち二人の空間にわたしという目線は全く以て必要なかったように思えましたが、しかしわたしはそこにいました。
 そこにいて、「っ、」――時折、ほんの時折、たとえば待っても待ってもきくのさんが来なかったときなんかに、ちょい、としのづかさんがこちらに手を振るのから、ばっと目を逸らしたりなど、して。
 センター試験が終わって大学受験の結果が出れば、あとは卒業までなんてあっというまです。わたしは地元の国公立大学の教育学部に合格し、しのづかさんは遠くの大きな街の、有名な大学へと進学してゆきました。その街の名前と、風のうわさに聞いたきくのさんの就職先の街の名前が同じであったことに気が付いたのは、三百人と少しいた卒業生の中で、わたしだけだったのでしょう。
 卒業式を終えたあと、学校に居残り写真を撮って回る子たちの中に彼女らの姿がないことに気が付いたのも。
「……ごめん、ちょっと用事出来た」
「え? あ、ちょっ、カズ!! えーっ、今からみんなで先生んとこ行こうって言ってたじゃーん!!」
「ごめん!!」
 ああきっと、みそのちゃんはとてもとても写真の好きな子ですから、一回撮るのに四百円も六百円も取られるプリクラを出かけるたび何回も撮るのが大好きな子ですから、わたしのことを恨んだでしょう。この先も同じ学部で過ごしていかなければならない相手にとって、完全にわたしの選択は間違いでした。
 しかしわたしは走っていました。教室を抜け、非日常的ないっときの賑やかさに溺れる廊下をどうにかすり抜け、どんどん静かになっていく校舎内を走って、走って、それからようやく、目的の場所にたどり着きました。
 焼却炉前の空気は、思った以上に、清浄な色をしていました。
「ほんとに取っててくれたんだね、リボン。メイは男子人気高いから、守るの大変だったろ」
「うーん、まあ、少しだけ……ふふ、ミサトはそのあたり心配なくて、いいよね」
「あ、このやろ」
 言葉を交わす彼女たちの声を聞いたのは、それが初めてのことです。それを、こんなに近くで聞いたのも。しのづかさんの声は普段教室で聞いたものよりもずっとやわらかく、そしてきくのさんの声だって、わたしが覚えているものよりもずっとずっと、力強い響きを帯びているように思えました。
 わたしは卒業証書の入った軽々しい緑の筒を片手に、薄汚れた校舎の壁にぴったりと背を付けて隠れていました。お母さんがせっかく洗濯してくれた高校の制服が、最後の最後でかびをうつしてしまうだなんて。わたしはいったいなにをやっているのでしょう。
「ね、リボン、部屋に飾ろうね。ほら、あのコルクボードのてっぺんに」
「えぇ? や、メイがそうしたいんならいいけどさ。他にも貼りたいもの増えるぞー、絶対」
「いいの。っていうか、それがいいの。いっぱい隠れるくらい貼りたいものがあるほうが、いいの」
「そういうもんかね?」
「そういうもん、だよ。……だから、そうそう、写真もいっぱい撮らせてね」
「写真?」
「そう! ミサトのいろーんな顔の写真。いーっぱい、撮るつもりだからね、私」
「うーむ。……善処するよ、そのあたりは」
「はい、ゼンショしてください」
「意味わかっていってんのー?」
「えっ、ば、ばかにしないでよ!」
 わたしはいったい、なにを。
 なにを、して、
「じゃ、そろそろ行こっか……っと、いっしょに出ちゃまずいか。メイ、先に行っていつものとこで待ってな。五分くらいしたら、すぐ行くから」
「うん、わかった! 帰ったらまたすぐに荷造りだよ、ミサト」
「へいへい、わかってますって」
 ――いままで、いったい、なにをしてきたんだろう。
 彼女たちはごくごく自然な仕草で距離を詰めて、しのづかさんが屈み、きくのさんがまたちょっと背伸びをして、短い口付けを交わしました。彼女たちがそうするのを見るのは、もう何度目になるでしょう。わたしが見ていないところででも、彼女たちは何度そうしてきたのでしょう。何度そうして、気持ちを、思いを、交わし合ってきたのでしょう。
 それらはきっと普通に普通の枠組みの中にも、そして社会という枠組みの中にも、組み込まれてはいないものでした。いびつで、ちぐはぐで、ずれているもののはずでした。理解できて受容できる人間がいるとかどうとかいうのはどうでもよく、それが多数派でないこと、一般的でないということこそが全てにおいての強さです。数は強さです。常識は強さです。わたしたちは、わたしは、いつだってそれに、従わなければならなくて、ならなかったのに、でも、どうして。
 どうしてあなたたちは、潰れずにいられて、笑い合っていられて、それで、それ、なのに、「……れが」
 あなたの背中が遠くなる、それなのに、なんで、わたしは。

「……ッ、くそったれが!」

 ――わたし、だって。
 ちゃんと恋をして、それからちゃんと、失恋したかった。


「と、まあ、わたしの大好きな漫画の台詞を使わせて頂けば、ラーメン食べるついでの話が終わったわけですが」
「いやいやいや、長いし。超長いし。ラーメンどころかあたし、お茶一杯飲みながらおまんじゅうも食べて、もう一杯お茶おかわりしてるし」
 ずうずうしくもわたしの城である保健室に上がりこんできたうえ、ひとがこっそり買い置いていたカップラーメンを「教頭に黙っている代わりに一つよこせ」などとのたまい、さらにはお茶とお茶菓子まで頂きやがりましたいっそ豪胆な女子高生C子ちゃん(仮名)がなにか言っていますね。
「その有名人の友だちみたいな扱いやめてくんない!?」
「はいはい、椎名さん椎名さん。ちゃんと覚えてますよー、苗字だけは」
「椎名佐代里! サ・ヨ・リ! いやもうあたし、時々っていうかわりと毎日、なんで海老野せんせーみたいな人が養護教諭になれたのかマジ不思議だわ……日本の教育制度にモノ申したいわ……」
「そんなことはせめて選挙権を得てから言いなさい、この女子高生が」
 女子高生ってだけで悪いのか、それがなにもかもいけないっていうのか、などと、丸椅子に座ったまま演説のごとく声を上げる女子高生Cをさらりと無視して、わたしはラーメンの後片付けをしにかかります。換気扇をぶん回しているとはいえ、随分芳ばしい醤油ラーメンの匂いが漂ってしまっています。早急に後片付けをせねば教頭先生が嗅ぎつけ、わたしがこの子の話を聞いてやる理由すらなくなってしまうというのに、この子ときたらラーメンの汁を飲み残していますね。
「いやこういうのって全部飲んだら塩分過多で身体に悪いっていうじゃん」
「摂れる栄養を摂れる時に摂らないほうこそ、身体にも頭にも悪いとわたしは思いますがね」
「そーゆーの、びんぼーしょーっていうと思うんだけどな……」
「なんとでもお言いなさい。……それに、そもそもあなた、そんな話をしに来たわけではなかったでしょう」
 保健室の中には水道があるのがありがたいですね。ざぶりと中身を捨てた背中で、女子高生Cの、まあせめて呼んで上げましょう、椎名さんの身体が固まったのが見てとれます。
 あれほど泣き腫らしていた目、は、まあまあましになったので、どうにか見られる顔くらいにはなりましたでしょうか。それでも、ひとがこれほど長きにわたって話をしてやったというのに、その不景気面はいただけませんね。
 まったく女子高生というのは、――人というのは、めんどうな生き物です。
「で、それで」
「……うん」
「なんでしたっけね、椎名さん?」
 長い長い沈黙の後の、だから、その。
 入ってきたときとまったく同じふうに、言葉にかすれて声がのっていないところまでみんな同じに切り出した彼女は、スカートも丸ごとしわくちゃにしながら、ぎゅっと拳を握りしめます。
「なんか。あたし、ちょっと最近変で、いや変っていうか、あの、友だち、しのってんだけど、しののこと、なんか、……みてっと、なんかドキドキしてきて、いやだから、つまり、」
「はい」
 相手、女の子なんだけど。
 どうしたらいいかなあ、というのが、一回め、彼女がその後に続けた言葉、でした。
「それで?」
「それで、」
 それでさ、先生。
 相談、あんだけど。「あのさ、」
 彼女は言います。まるで世の中にある全てから圧し潰されてしまったかのような、しょんぼりと縮こまっていた姿から、すぱんと自分の両足を叩いて。それから、なんとも暑苦しいことにこっちに向かってしっかり身を乗り出しまでして、彼女は言います。
 面倒くさいほど絶対無敵にして、呆れてしまうほど純粋な、恋する乙女の瞳で、彼女は。

「できるだけ短い時間で、あの子をあたしにちょーぞっこんにさせたいんだけど、どうしたらいいですかね!」

 わたしはふっと笑って、空っぽになったカップラーメンを、ゴミ袋の中に放り込みました。

「自分でお考えなさいな、そんなのは。」






〜あとがき〜

好きになった人がたまたま女の子だっただけだよ、とか。
そういう人っていうのも最近増えているらしいよ、とか。
私は気持ち悪いなんて思わないし理解もできるよ、とか。

そういうのは、どーーーーーーーーーーでもいいので、
ただ、恋の話を、しましょう。
あなたの、恋の話を。

そんな感じで、柊でした。

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