「大地のカモメ」




「早く行こう!」
 彼女はいつもそう言っては、私の手を引っ張る。引っ張るなんて生易しいものではないかもしれない。そのままぶうんと手放されたら、きっと私、空に放り出されてしまうよ。でも彼女はいつだって指の一本一本からしっかり絡めて私の手を握っているから、今日も私は彼女と一緒に大地を走る。ただ、彼女の走り方は空を飛ぶのと似ているのだ。
 たったったったったっ。彼女の足音はもう覚えてしまった。どこからだって見つけられる。私にとっては、そうでないと困る。だって彼女を見つけるのは、いつも私であるし、そうでなければならないのだから。たったったったったったっ。今日も私たちは、ぬくまって灰色に揺らめくアスファルトの上を、滑空する。
「もっと、もっと、もっと早く!」
 むちゃをいうなあ、と思う。もうきみの息は、ほら、すっかり上がりきっているじゃない。折れてしまいそうに細くて、ありえないほどに白い彼女の首筋には、絡みつくように汗の筋がおりている。私がそれを数本数えている間にも、また新しい玉の雫がその上を伝っては、落ちていくのだ。彼女は体力があるほうではなかった。きっと、走っていいほうでもなかった。
 あっ。その時彼女はひとつ声を落として、代わりに一枚の紙が舞い上がった。彼女がポケットいっぱいに――彼女が着ているベストは私の特製で、無数のポケットがくっついてるのだけれど、とにかくその全部いっぱいに――入れている紙切れのうちのひとつだった。紙切れ、と、頭をよぎったのが少し恐ろしい。自分の名づけが少し恐ろしい。
 紙切れなんかじゃないよ。だってこれは。そう思って伸ばした私の指先は、どうにかそれを捕まえることができた。
「はい」
「へへ、ありがとー」
 きょろっと大きなまんまるの目をしばたかせて、彼女は笑った。澄んだ笑顔。なによりも限りなく泣き顔に近い表情。右上ふたつめのポケットに、彼女はそれを突っ込む。それは「昨日の思い出」。
「さ、行こっ!!」
「……うん」
 きっともう残された時間は長くないのだ。それだけがはっきりしている。絶望的なほどに。
 思いながら、私は彼女の手を握り返す。汗がしっとりと滲んでいて、それは私と彼女の隙間を埋めた。彼女が必死にかたどった、ほんのわずかな夢。それでも忍び込んでくる風に、吹き飛ばされてしまうような夢。ゼロ距離なんてあるわけない。彼女の頬は赤いけど、それだってきっと、一生懸命彼女の翼を動かしているからに過ぎないのだ。
 今日も草の匂いは噎せ返るように青い。恒久的な時間を嘯く太陽が、私と彼女の頭に熱を浴びせかける。こんなに必死に羽ばたいているのに、彼女はこんなに命がけで羽ばたいているのに、流れていく景色と自然は、ぞっとするほどにゆっくり、ゆっくりと。
「っ!!」
「…………」
 そしてなんの前触れもなく、あるいは最初からわかっていたように、彼女の足はぴたりと止まるのだ。時間がない。時間がない。時間がない。それだけがはっきりしている。彼女はポケットから――一番右上のポケットから、ペンと紙を取り出した。無駄のないしぐさだった。まるでおとなみたい。おそろしいことだね。そして彼女は描く。今見えるものすべてを。書くのではなく描く。そのほうが効率がいい。言語情報はいつだって重大な齟齬を孕んでいるから。
 時間がない。時間がない。時間がない。彼女にしか理解できない、彼女だけのことばが完成していく。そして右上のポケットにしまって、

「――――」

 その瞬間に、彼女は停止した。
 時間だ。
 時間だ。
 時間だ。


「――お、は、よ、う?」
「おはよう」
 あとは、私の仕事。私はみつけた、と言う。彼女を探して、見つけた、という。ずっと探していたんだよ。そして右上のポケットを指差す。
「それは、今日の思い出」
「きょうの、おもい、で」
「そう。見たら、別のポケットに入れて」
「うん……」
 ぼやけた彼女の汗を、手で拭ってやる。指先をなめる。しおっからくて現実的な味がする。私がそうしていることに、彼女は気がついていない。
「きれいなものを、」
「うん」
「きれいなものを、みたんだね」
「そうだよ」
 そして私たちはたった一度だけ、汗だらけで湿ったくちづけを交わすのだ。濡れた額をくっつけて、彼女の息が整うまで待って、また手を握って。
「それじゃあ。今日は、もっときれいなものを、見に行こうか」
「うん……うん! はやく、早く行こう!!」
 人よりずっと頭の容量が少ない彼女のすべてを、彼女の好きなものだけでいっぱいにするために、私たちはまた、飛ぶのだ。


 ぼくらはどこまで行くのだろう、この遠い遠い空を、ただの一度も見上げもせずに。

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