「わたしのきれいな、おひめさま。」




 私がその一瞬の風景を絵画のようだと思ったのは、多分にその子のあだ名のせいもあったのだろうし、ちょうど教室の窓の向こうから射し込んでくる夕陽が、爛々とした赤を燃やしていたせいも、きっとあったのだろう。

 でもそうやって、ひとつひとつ、いわば思い浮かべようとして思い浮かべたものは、そうやって並べ立てたものは、どうしたってただの言い訳にしかなってはくれないのだ。彼女の指定席でもある、窓側一番後ろの席に腰かけて、頬杖をついて外を眺めている彼女を見たその瞬間に、いのいちばんに感じてしまった絶対的なひとつの前では――彼女が、とても、とてもきれいだった、という、そのたったひとことの、前では。
 反射のきつい天板の上にのせた肘で、細い腕で、寄りかかる鬱屈とした体のすべてを支える彼女は、不安定な瞳そのすべてを、教室の中に溢れるそれと同じかもしくはもっとひりひりと澄んだ色に染めていた。薄く開いたくちびるでは、生存には少し足りないだけの微かな呼吸が繰り返されているのだろう。その証拠に、アップにまとめられた髪の後れ毛が、すうと通った鼻すじから垂れてはいても、ほんの少しも動いてはいなかった。
 なにかが綺麗だという思いは言葉と理屈を飛び越えて、私の足をそこにただ縫い付ける。瞬きを忘れた瞳の中で、赤く光る世界が滲む。息を止めていると気がついてしまう程度には苦しかったけれども、ただ、そのままでいられたなら、と思った。だってほんの一息でも吸ってしまったら。このかみさまが手ずから描き上げた絵の中に、そんないらない色が混ざってしまったら。

「注意」
「……え?」

 そんなよくわからないことをぼんやり考えて、酸素の足りない頭をぐらつかせていたら、外を眺めていたはずの彼女は、いつの間にか振り返ってこちらを見ていた。
 どんな表情を浮かべていたか、はっきりと見えたわけではない。太陽を背負った彼女に、幾分か私の眼は勝手に筋肉を緊張させなければならなかったのだし。でもそんな逆光の中ででも、どうやら彼女が薄く笑っているらしいことは、たしかにわかったのだった。
 なぜって、彼女のそういう薄い微笑みは、私の記憶の中に残っている情景と、簡単に結びついてしまうから。

「注意。しなくてもいいんですか、先生?」

 校則違反でしょう、と遠目からでは見えなかったイヤホンを、わざわざ細く長い指先にひっかけてこちらに掲げて見せる彼女の、そういう、どこか挑戦的、とも取れるような微笑みは。それは、おとなとこどもの間にある、危うい美しさのようなものを、あまりにも、あまりにも暴力的に、孕んでいる。そのように見えて、私は、あまり、好きではなかった、から。
 好きではなくて――だからこそ、どうしても気になって、良く、見ていたから。

「……もうすぐ、下校時間だから。特に用がないなら、早く、」

 帰るように、というのは、たった今零れていくはずだったそれは、いったいどこに消えてしまったのだろう、こんなにも早く。
 けれども私は次の言葉を探すことすらも許されずに、そうして彼女は私の目の前にいた。ああ、この、何の迷いもなく距離を詰めてくるところも、切れ長な瞳も、挑発するような目つきも、私は、好きでは、ない。彼女の、ほとんどが、私はきっと、好きではない。だから、気に、なる。頭を振りたかった。振って思考を追い出したかった。しかし彼女は、胸を合わせるほどに接近した彼女は、それすらも許さない。
 彼女が細身なのは見ればわかるけれど、まさか足音もないだなんて。実際のところそんなわけはなくて、私が鈍くなっていただけだったのだろうけれど、ともあれ私がぴくりとも動けないような位置に、彼女はもう来てしまっていた。幸い私は小柄な方ではなかったために、彼女から見下ろされるなんてことはなく、寧ろ距離が近くなればなるほど、私の方が威圧的な位置に立てはする。
 そうだと、いうのに、彼女の目線は、とても下から見上げてくる、だなんてかわいらしい表現が似合うようなものでは、なかった。化粧気は一つもないのに、嘘みたいに長い睫が、ひとつ、艶やかに、瞬きをする。その空気の動きすら感じ取れるほどに、彼女は、私のすぐそばまで、来ていた。本当に、すぐ、そばまで。
 彼女は、それから、とん、と背伸びをして。何の迷いも、ためらいもなく、吐息が感じられるほどに、近くまで。

「―――っ」
「それ。いい曲でしょう?」

 思わずぎゅっと瞑った目に、暗い世界に、初めて届いたのは、耳元をふっとかすめた冷たい手の温度、と。
 それから、どこのだれが歌っているのだかちっともわからない、そしてこの静謐な空間には似合いそうにもない、歪んで、破壊的な、音楽。

 私がその爆発的なボリュームに目を白黒させている間に、彼女はいつの間にか私のポケットにその携帯音楽プレーヤーを放り込んでいたらしい。だから彼女の手が触れたときよりもずっと唐突に離れていっても、そのイヤホンは私の耳に残ったままだった。遮音がきつくて、音ばっかりが爆発して、さようなら先生、という彼女の挨拶は、口元のうごきでしかわからなかった。
 もちろん、張り替えたばかりでぴかぴかしている廊下の板張りを、軽やかに歩き去っていく彼女の足音だって、ちっとも。

「先生に没収されたの。校則違反だって」

 数日後に彼女の友人が、音楽プレーヤーをどこにやってしまったのかと尋ねているのに対して、彼女はあの薄い微笑みを浮かべて、こう答えていた。すると友人たちは苦笑のような、あきらめたような笑みを私に一度向けてから、姫かわいそう、と口々に言う。
 彼女は完全にこちらに気がついていて、私はそれを無視して立ち去ったけれど、彼女は、あの姫は、どんな目で私の背中を、見送っていたのだろう。あの、姫は。
 姫。というのが、彼女の、なかなかに歴史の長いあだ名だった。



 二年五組の浅野いずなは、その一風変わった名前にもかかわらず、彼女が入学したその時からついていたあだ名の印象が強すぎて、本名がなんだったか教師陣からですらよく忘れられていたという不思議な生徒だ。といってもその"姫"というあだ名だけは学校中を響き渡っていて、五組の副担任を任されるよりも前から私は彼女の話を聞いたことがあったし、顔を見たことだって多々あった。
 生徒会や部活動の長といったなにがしかの役職についているわけでもなく、また行事の時も自ら表立った活動をしていることはほとんどないのに、どういうわけか浅野さんは目立つのだ。どこにいてもわかるのだ。現代文の教師である担任教師は面白がって、本文中にアウラの下りが登場した段で彼女のことを引き合いに出したそうだけれども、そんな話が納得できてしまうほどに、彼女はいつも奇妙に神聖な雰囲気で以て、そこにいた。
 だからなのか、前述のように特定の仕事を引き受けるタイプではないというのに、寧ろその特定の役職についている人間のほとんどが、彼女を頼りにしていた。といってもその頼り方は実に奇妙なもので、なんというか、裁定を委ねるのだ、浅野さんに。仕事をするのは自分たち。それを決めるのが浅野さん。そういう不文律が生徒の間には生まれているようで、だから彼女に具体的な仕事としてこれをしてほしいなどと頼む生徒は、示し合わせたように一人もいなかった。

「姫、タテカンのデザインなんだけどさあ。こっち悠乃っちが描いた方で、こっち飯野さんが描いた方なんだけど。どっちがいいと思う?」
「うちらはもう、トーゼン悠乃っちのほうっしょ、って感じなんだけどぉ」
「そう。描くのは……ああ萩尾ね、じゃあこっちお願い」
「お? おお、了解、姫。いいデザインじゃん」
「て、悠乃っちの方は無視!? えー、飯野さんのって、なんか暗くなーい?」
「……あなたたち、田辺と飯野の人間を比べて、どちらがいいか私に聞いたの? それとも、デザインを比べて、どちらがいいか聞いたの?」
「や、えーっと、デザインです、姫」
「じゃあ断然こっち。私が決めるならね」
「ま、まあ、姫が決めたなら……ねえ?」
「うん、その……文句とか、うちらは、ねえ?」

 いくらなんでもそんな眉唾物の噂を鵜呑みにしたわけではないけれど、九月の文化祭準備の時点で上記のような会話を目の前で繰り広げられたら、それはさすがに、信じざるを得ない。
 ちなみに件の飯野まどかがデザインした立て看板はものの見事にデザイン賞を獲得し、それを機に性格が暗い暗いと敬遠されがちだった彼女の周りに人が集まるようになった、という夢のようなその後がこの話には存在するのだけれども、そんなこと浅野さんにとってはどうでもいいことであったようだ。なぜって、それから飯野さんが彼女のところへお礼をしにいっても、ああそう、のひとことで片づけられたそうだから。

「それじゃあ、問三は、浅野……おーい、姫はどこに行かれたんだ、姫は」
「あ、姫なら保健室で大殿籠られてますよ、先生」
「なんだ、姫はお休み中か……にしても吉本、お前、ここで発揮するだけの古文知識を、授業でも使えよ。というわけで問三、おまえやれ」
「うえ、俺ぇ!? くっそ、マジかよ村元先生、勘弁!!」
「予習なしできついだろうけど、諦めろ吉本」
「そうそう、姫の後片付けは、下々の役目だからな」
「……待て吉本、貴様、予習していないとぬかすか……!?」
「ばっ、おまえら、余計なこと言うんじゃねえ!!」

 敵が多そうなポジションにあることを私が無意味に心配していたのはごくごく初期のことで、実際はあまりにも突き抜けた性格をしているので、怒る方が疲れてしまうようなのだ。まあ、姫だから。しょうがないよ、姫なんだし。教師陣ですら生徒と一緒に口をそろえてそんなことを言ってしまうのだから、浅野さんときたらすごい。
 聞くに保育園の頃からそうだという彼女のあだ名はなるほど確かに浅野さんのことを実に上手に言い表している言葉で、特定の誰かが名づけて呼び始めたというわけでもないのだから、なんだか信仰にも近いものがあった。そういうふうに、理由と理論を置き去りにして、彼女はみんなのお姫様だった。
 年頃の女の子らしく特定の誰かと四六時中つるむでもなく、かといって孤高というわけでもなく、どこからも外れないのにどこよりも高く在る彼女は、そう、綺麗だった、のだろう。たぶんいつでも、きれいだった。確かに彼女は、触れたら切れてしまいそうなほどに鋭く整った容姿をしていたけれども、私が彼女を見たときに綺麗だと思ったのは、多分にそういう、彼女の立ち姿に、どこか感慨深いようなものを、覚えていたからなのだろう。

 二限の古典から、私の担当科目でもある四限の英語になってから漸く戻ってきた浅野さんは、だけどまだどこか眠たそうな目で、お決まりのポジションである窓側一番後ろの席で、つまらなそうに頬杖をついて、教科書に目を落としていた。彼女はいつも、至極つまらなそうに授業を受ける。新任の先生なんか一度はそれに噛みつくけれど、大概周囲生徒の恐ろしいまでの一致協力と、彼女自身の頭の良さによって、完膚なきまでに叩き潰されてしまうのが常だ。
 それが姫に対する教員の顔合わせ試練みたいなものだ、と彼女と付き合いの長いらしい担任の村元先生は、笑って話していた。恐らく村元先生が私にそれを話したのは、彼女のいるクラスで英語の新担当になった私が、同じような洗礼を受けることを半ば期待してのことだったのだろう。教師ながら浅野さんの持つある種の小気味よさに魅せられる人は多く、一年から彼女の担任だという村元先生は、その最たるものだった。
 もっとも、そんな彼の期待は、私の初回授業にて、早々に打ち砕かれることになるのだが。

「……以上で授業を終了します。英語担当の人は、職員室のクラス棚に課題プリントが入っているので、配っておいてください。提出期限は土曜日の自習終了までです。号令」
「きりーつ。きをつけ、礼ー」

 号令、の一言でざわめきが起こったのはあの初回授業が最初で最後のことで、今日も滞りなく、チャイムぴったりで生徒たちは顔を上げる。
 彼女の挑発的な態度にただの一言も言及しなかったのは、これまで十数人といたであろう彼女の新担当の中では、私だけだったそうだ。だからといって、どう、というわけでも、なかったのだけれど。
 だって、特に彼女に――姫に"逆らう"理由など、私の中には、これっぽっちもなかったのだし。



 届かないものは遠く見えて、どこまで離れているかわからない星のまたたきに対して抱く想いと同じように、遠いものはなんだって綺麗に見える。だから、いわば私にとっての彼女もそういうものなのだと、結論付けることは容易だった。私の決して届かないであろうところに、浅野さんはいるのだ。だから彼女はとても綺麗で、ただその美しさは、私にとってまたどこか根源的な嫌悪を呼び起こすものでもあった。
 持てる者さえいなければ、持たざる者はずっと幸せであっただろう。幸せな人が妬ましいのではない。不幸な人が羨ましいのでもない。認識論の話だ。目の前にあるそれが「私」にとってどうであるのか。隔たりはない方がよくて、埋もれられればそれでよかったのだ。
 私にとってはそれだけが大切で、浅野いずなは眩しすぎた。初回授業を終えて、教室中に充満しきっていた姫の洗礼への期待が敗れ、行き場のないそれが話し声となって生徒の間を飛び交っている中で、姫本人である浅野さんだけが、私から目を逸らしていなかった。
 そしてその目線が、未だに私は忘れられないのだ。浅野さんの特徴ともいえる切れ長な瞳から鋭く届いていた、あの、ひどい熱を含んだ、攻撃的な目線が。彼女のあの目線を正直に受けなかったことは、まったくの英断であったと当時の私を褒め称えたい気持ちになる。ただ願わくは、もっと早くあそこを立ち去っていればよかった。生徒の声に押し込められそうになどならないで、足など止めないで、もっと早く、できるだけ早く、教室を出ていればよかったのに。
 とはいえ忘れられないものは忘れられなくて、忘れられないまま、私はたまに考える。一体何が気に入らなかったのだろう、と。洗礼がどうだというのは周囲がそう言っているだけで、浅野さん自身がそこに固執しているなどということは、ないように思えていたのに。それなら、あの遠く眩しく煌めいて、いつも美しい浅野いずなは、一体私の何が、気に入らなかったのだろう。
 だって私は、言うとおりに、しただけなのに。あなたは持てるもの、私は持たざるもの。決まってしまっていることなら、私はそれに逆らわない。言ってみれば、それだけだったのに。
 じゃあどうして、あの子は、

「キリ? どした?」
「え……あ、ああ、ううん、なんでもない」

 ちょっと眠いだけ、と答えると、彼は――私の恋人、ということになっている矢谷くんは、疲れてるのか、とだけ返して苦笑した。彼は自分の話を聞いてもらえないのが好きではない。私は急いで浅野さんのことを頭から追い出して、さっきまで彼と並んで観ていた映画のことを思い出そうとする。これが案外、難しい作業。
 ただ私の中でそれが難航しているということに気づきはしない彼は、つらつらと自らの感想を並べ始めてくれた。

「なんていうか、すげー映画だったよな。遺品整理、とか、あんな仕事もあるんだなあ。てか、死体って放置するとあんなんなるわけ? 俺、さすがにあんなぶっとい蛆がわいてるのはちょっと……あ、キリは虫、苦手じゃないんだっけ。あんまり悲鳴とか、あげないよな」
「うん、まあ、それなりには平気。悲鳴あげるほど苦手じゃ、ないよ」
「そっか、ならさっきの映画で良かったよな。やっぱ感動系が好きだろ?」

 矢谷くんはそれ以降も興奮気味に死体処理について語っていて、彼の紅潮した頬と弾んだ声は、人間の誰しもがどこかに眠らせている、グロテクスな欲望を思い起こさせた。遺品整理という特殊な仕事を通じて心を通わせる男女の物語は、彼にとっては私をこの映画誘う為の口実であって、たぶん、それだけでしかなかったのだろう。
 好きだろ、という問いに期待されているのはあくまでもイエスだけであって、それ以外を排除するためにその言葉はある。彼はいつでもそういう話し方をする。先刻は彼の言葉を問いと言ったけれども、正しい名前をつけるならばそれはいつでも確認で、食事をするにあたっても店に入ってからここでいいだろ、と確認を取るのが、平素からの彼の振る舞いだった。
 ただ私は矢谷くんが欲望に対してある程度素直な性質の人間であることを理解していたし、それでいいとも思っていた。というより、言及しても仕方のないことだ。私より二つ年上の彼はすでにそのままの形で成熟してしまっていて、今更その性格を変えることもできないだろうし、なにより私自身がそんなことにはに興味がなかった。
 
「あと俺、あの台詞好きだな。あの、元気ですかー、ってやつ。なんかこう、ぐうっとくるっていうか、元気出るよな! キリは好きな言葉とか、ないわけ?」
「好きな言葉……うん、と、それは、映画の中で?」
「いや、なんでもいいけど。あ、それ嫌いだろ、俺んとこやりなよ」
「あ、うん、ありがとう」

 別に、嫌いというわけでは、ないのだけれど。まだ彼の前でどう振る舞うべきか見当がついていなかった時、あまり笑えずにいた私を見て、あなたが勝手に、勘違いしたのだけれど。どっちにしてもくれというならあげる。なんだってそう。
 そう私は、一般的に言ってわがままな男という範囲に区分されるであろう彼と、それなりにうまくやれる性質をしていたのだ。彼から愛を告白されて、付き合い初めてから二ヶ月の私たちは、とてもうまくいっているだろう。どこから見ても、そのような形をしているだろう。
 お互いに仕事をちゃんと持っていて、忙しい合間を縫って週末には会って、矢谷くんはいつも笑顔を浮かべている。キリはとても付き合いやすくて楽しい、と言ってくれる。思い通りになることはなんだって楽しい。自由に動かせる玩具は面白い。子どものころから知っているようなことだ。

「Show must go on.」

「え?」
「好きな言葉。かな、うん、たぶん」
「……へえ。なんていうか、さすが英語教師、って感じだなあ、キリは」

 それ以上言及する気が起きなかったらしい矢谷くんは、皿に盛られたチャーハンの山を切り崩しにかかった。食べ終わったらどこへ連れて行かれるだろうか、まあ、どこでも、いいかな。あなたの行くところならどこでもいいよ。可愛い女のようで、酔いたくなるほどいつも通りだ。
 私は、いつもそうで、そうだけど、いつだって、それでよかったのだ。自由に動かされればいい。ただ従順であればいい。言われたことには、逆らわない。

 一歩下がって後ろを着いていくのが大和撫子の美徳である、だなんてことを教育されてきたわけでもなく、どちらかといえば優しい両親のもとに育っただけの私は、多分にただの怠け者だったのだろう。頷くのを覚えるのと同じようにして、私は人に従うことを覚えて、それがとても楽だということを、思うに人より少しだけ早く気がついてしまったのだ。
 言ってみれば程度の差で、積極的自由がある程度の苦痛を伴うことくらい、私でなくても知っている。でもみんなそこに喰らいつく。私はそれができなかったし、しようともしなかった。持たざる者。選ぶ権利はない。代わりに、道は誰かが引いてくれる。あとは歩く方法を知っていればいい。
 そうやって素直な子、真面目な子と良い意味でも悪い意味でも言われ続けて、矢谷くんと同じように、私も完成していたのだ。思うに成熟に模範形などはなく、それで岬原桐香が完成してしまったのら、それを以て形と成す。ショウ・マスト・ゴウ・オン。役割を演じよう。そうあるべきもののために、そうあることを続けよう。

 べとついた空気が充満していた中華料理店から外に出ると、さっきよりもずっと低いように思える気温が、身体をびしびし叩いた。不釣り合いに町ばかり明るくなっていくのは今が十二月だからで、そう思えば、矢谷くんが唐突に足を止めたのも、十二月だから、という話にしてもよかったのかもしれない。
 
「なあ、キリ……キリって、一人暮らしだった、よな?」
「そうだけど。どうしたの、いきなり?」
「や、その、まあ……なんだ。そんなら、泊まりに行く、とか、ありだよな? 急だけどさ、一人暮らしなら……あと、キリの部屋って、いつも片付いてるしさ」

 随分と唐突な彼の一言は、しかしなかなかに正確な回答を与えてくれる。白い息が、どこか爛々としている矢谷くんの瞳を覆って、またふと消えていく。なるほど彼は、私と寝たいらしい。
 付き合って二か月。もった方だ、というえらく冷えた言葉が浮かんだ。でも、彼の人柄を考えて、そして失礼ながら彼の性別を考えれば、その通りではあった。できるだけ避けたいことといえば、そうだ。そういう雰囲気になるのを意図的に避けてきたというのも、きっとあるだろう。
 でも。もうそれも、終わりらしい。考えるふりをして詰めた空気は、肺の奥でちくちく尖って、あっちこっちに穴を空ける。彼は返答を待っている。訂正、彼は確認を待っている。ショウ・マスト・ゴウ・オン。わたしは、だれにも、さからわ、ない。

「あれ、先生じゃないですか?」

 ――頷くためにしかできていなかったはずの筋肉は、そうして、ぎしりと、固まったのだ。

「やっぱり。岬原先生。ですよね?」
「浅野さん……どうして、ここに」

 浅野いずなが、無邪気のステロタイプのような笑みを浮かべて、こちらに手を振っていた。

 それはどうやら私のごく近くまで身を寄せていた矢谷くんも同じようで、だから自由に体を動かせていたのなんて、彼女一人きりだった。私と彼の間に流れる雰囲気が読み取れるだけの年齢と聡さは持っていただろうに、浅野さんはなんの躊躇もなく私と彼の間にずかずか入り込んできて、この人誰ですか、などと、くすくす笑って尋ねてくる。くすくす。浅野いずなが浮かべるには、あまりにも信じがたい笑い方だった。
 次に回復が早かったのは矢谷くんで、自己中心なままで生きてきただけはある、彼の自己に関する危機回避能力は一級品だったのだろう。この新たに登場した、私の生徒と思しき人物の前に、これ以上姿を現しているのはまずい。瞬時にその判断を下した彼は、他の何も匂わせない態度で、曖昧に笑ってその場を立ち去っていった。後で電話か何か来るかもしれないが、それもすべて、ほとぼりが冷めてからの話だろう。彼は、そういう人間で。

「先生」
「………?」

「趣味、悪いんですね」

 彼女の笑い方は、こうだ。
 浅野さんの瞳が普段通りにきゅうと細まるのを見て漸く私はすべてを理解する。これだからこのくらいの歳の、大人と子供の間の子は、厄介なのだ。境界の曖昧さに悩んでいるのならまだ可愛い方で、上手な切り替え方なんて覚え出した日には、手に負えない。例えば先刻までの彼女のように。
 大人びた服装すら無視させるような笑みで体よく矢谷くんを追い払ったかと思えば、口紅とは全く違う澄んだ赤味のさす唇にリップクリームを塗り直している姿は、とても高校生には見えない。色彩は鮮やかに、瞬間的に変わる。魅せられる、ほどに。

「あ……」
「ねえ先生」

 だから、彼女の冷たくて繊細な指先が、考えられないくらい強引に私の手を引いたとき、私はどうしてここに、とか、こんな時間に、とか、そんなことを、ただのひとつも、考えることが、できなかったのだ。

「それでもわたし、先生のこと、面白い人だと思ってるんですよ」
「あさの、さん……痛っ」
「ほら。痛い、って言いながら、わたしの手、振りほどこうとしないんだもの」
「なん……何の、話?」

「つまり先生、あなたは、誰の言うことでも聞いてしまうんでしょう?」

 悟る。彼女はすべて見抜いている。外はこんなに寒いのに、彼女の頬はこんなに赤いのに、私は全身から汗が噴き出してくるような思いでいた。ずくずくと脈動が大きくなっていたのは、ばつが悪かったからだろうか。それとも手が、振りほどくことを許されていない、そしていつの間にか振りほどき方を忘れた手が、強く強く食い込んできた、その痛みからか。
 浅野さんはじつにたのしそうにたのしそうに笑っていて、それはぞくっとするほど冷たくて、綺麗な笑い方だった。ああ私は、この、笑顔が。浅野さんはたのしそうに私の腕にぎりぎり爪を食い込ませながら、それを自由に引っ張る。玩具みたいに、引っ張る。歩き出す。

「それで、どっちなんですか?」
「痛い、浅野さん、ほんと……っ、え?」
「先生の部屋、ですよ」

 決まっているでしょう。
 私の不理解は彼女を――この姫を、苛立たせたらしく、ただ眇められた瞳は、私の胸を一太刀で切り裂く、鋭い美しさを放っていた。


「誰の言うことでも聞けるのなら、わたしの言うことだって聞けますよね、先生。」


 


「どうしたんですか。先生の部屋なんでしょ、上がればいいのに」
「え? あ、う、うん」
「早くしてくださいね、寒いんですから」

 私が鍵を開けたとみるやいなや、浅野さんは何の遠慮もなくドアを開け放って、私よりも先に部屋へと上がっていった。私はというと、彼女に声を掛けられるまで突っ立っていたのだから、多分相当に間抜けな家主であったのだろう。寒いから、という理由がなんとなしに彼女らしい、と思っている暇もなく、また一瞥が飛んできたので、慌てて中に入って扉を閉めた。
 なにか特殊な趣味や性癖がある人間であることは期待されていなかったらしく、殺風景な部屋でも彼女は面白そうな輝きを湛えたままで、私の部屋を見回していた。所在なく突っ立っているのもなんだったので、帰ってきた時の週間の通りにテーブルの上に携帯を置くと、その脇に置いていた音楽プレーヤーを、目ざとく見つけたらしい。

「気に入りましたか、それ」
「……返そうと、思ってたの」
「いいですよ。先生にあげたつもりだったんですから、それ」

 ここまできて初めて、いったいどうしてこんなことになってしまったのかを一瞬考えて、考えたけど、答えは出そうにもない。その答えをとっくのとうに忘れてしまっていることを、私はもう思い出せなかった。
 やらなかったことは、やろうとしなかった間に、いつしかできないことになる。病的に染みついた従順さが剥がれない。この子は私の、生徒だというのに。その言葉のひどい響きに背筋を震わせている私を気にもとめずに、浅野さんは部屋のソファにとんと腰かける。彼女が目で私を呼びつけているということだけ、私は恐ろしく素直に理解した。
 ぎしり、と軋んだのは、彼女が微かに腰を浮かしたソファだったか、私がそろりそろりと踏みしめていた、リビングの床の方だったか。いつの間にか点けられていたストーブが鈍い音で沈黙を増幅させる中、それはひどくいびつに響いた。
 なにかがおかしくなり始めていることに私は気がつくべきで、たとえばそのときにはもう私の心臓は奇妙な早さで脈打っていたから、脳に回りすぎた酸素は、毒になりつつあったのだ。綺麗なものに、焼かれるほど綺麗なものに、魅せられるのは恐ろしい。私はそれに気がつくべきで、気がつくべきだったけれど。

「――ほんとに、面白い。」
「え、あ、あさの、さんっ……!!」

 なにもかも、手遅れ。
 もう、彼女のうねる手からも、つめたいくちびるからも、私は、逃げられない。

「ふぁ、んっ……」

 あめやつぶてがふるように。一度合わせられたそれに驚いている暇なんてなかった。静謐な曲線を描いていた浅野さんのあの唇は、今私の同じモノを濡らしきるためだけに、怪しく脈打っていた。吐息すら飲み込めるような、すぐ、そばで。
 最初は肘だった手がすぐに肩をつかんで、ソファに引き倒されるまでは本当にあっという間だった。でもそのあいだただの一度も私はまともに呼吸することを許されなくて、背を勢いよくクッションに叩きつけられた拍子に咳き込んだ時は、すっかり頭がぐらついていた。酸素過多と呼吸不足の振れ幅に翻弄されて、くらくらして、のし掛かってくる彼女を押し返すだけの力は、もう残っていなかった。

「んっ、んん……あ、さのさ、だめ、こんな……っ」
「……わたしのせいにばっかり、しますけどね、先生。部屋に上げたのも、さっきから本気で拒まないのも、あなたですよ?」
「だ、だって、それはっ……ん、む」
「ほら、あなたはわたしに、逆らわない」

 浅野さんのキスはたぶんとても、誰と比べることもできないくらいに上手で、押し付けるよりも噛みつくよりももっと獰猛なそれは、恐怖に一番近い、だからとても強い陶酔で、私を急速に満たした。いきができない、くらくらする、でも、でも。ぴくりとでもしてしまったら私が何を思っているか露呈してしまうのは明らかだった。抑え込まないといけないものだった。
 だから、こたえないように、うごかないように、していた、のに。

「ふ……先生、ちょっと、いい加減にしてください」
「はぁ……っえ、な、なに……?」

 狂気じみた熱を帯びた彼女の細い吐息。私の浅くてなさけないそれをおしこめて、肺からからだの奥深くまで、焼きつくす。
 持てる者は持たざる者の優位に立つのが当然で、銀糸を引きながらも片方だけくっと吊り上げられた唇から、その絶対的な命令は、降る。言われなくちゃ、わからないんですね。笑っているのか、怒っているのか、彼女の境界はいつだって曖昧で、それは、私を、惹きつける。

「次は、口を開けるんでしょう?」
「ん、く……!! う、っ」
 
 あまいといきも、ねばつくだえきも。ぜんぶ、ぜんぶ、おしこまれる。浅野さんの舌はあくまでも絶対的だった。私のこたえなんて最初から求めていないし、だから、私は、わたしは、なんだっけ。深く中まで押して押して押して、それからやっと引いていく浅野さんの髪、冷たい毛先が、頬を撫でる。それがあんまり冷たかったから、私は、自分の頬がみっともないほど熱をおびていることに、気がつくのだ。
 でもきっと咥内で話が済んでいたのは、まだましだった。私の身体がすっかり弛緩していることに満足した、この獰猛な姫の目的は、きっとそこにあったのだ。飲み込んだ分も、口の端から零れようとして、彼女の指に拭われて押し込まれた分も、いったいどっちのだかわからないし、もうそんなのはどうでもよくなってしまった。無邪気な赤をぺろりと光らせて唇を舐めた彼女の仕草は、残酷なほどにかわいらしい。見惚れる暇は、与えられない。

「ひっ、ぁ……さの、さ、んんっ、や、やめ……」
「どこもかしこも弱そうですよね、先生は」

 ぞっとするくらいすてきに声を弾ませる彼女の唇は、耳と首筋と、いつの間にか剥き出しにされていた肩口と、と降るたびに、ひどくいやらしい水音をたてて、それは多分わざとだった。吸いつく湿った音が響くたびに、私のあちこちがどうしてもちいさく跳ねてしまうことに、彼女は気がついているのだ、きっと。
 だいぶ前におかしくなってしまったなにかが、浅野さんの鋭くて熱っぽい視線で増幅していくのを少しでも止めよう、と身を捩ると、すぐに気づかれて、そのたびに歯を立てられた。いたいって、いった、いったけど。もう噛み跡がついていない箇所の方がめずらしいであろうことは明らかで、浅野さんの犬歯は点々と散らばったそのすべてから、皮下から泡立つような疼痛を呼んだ。
 特につよく噛まれた首のあたりは、気でも違えたんじゃないかと思うように速い鼓動にあわせて、ずくり、ずくりと脈打つ。吸い付いた音が、ぬめった舌が、それをもっと悪化させる。

「へえ、やっぱりオトナなんですねえ、先生。ちゃんとえっちなカラダ、してるみたい」
「あ……や、だめ、だめだよ、ほんとに、も……っ、ぅあ、ん!」
「あはは、やだ、おっきい。手だと収まりきらないですね、ちょっと……まあ先生は、口でされる方が、お好きみたいですけど」
「ちがっ、あ、あさの、さぁん……やぁっ!」

 いったいいつ脱がされていたのだか知らないけれど、勝手に弓なりに沿った背を、彼女にあそぶように引っかかれて初めて、私は自分がほとんど裸であることをやっと理解させられる。いくらストーブががんばっているといっても今は真冬なのであって、そのくせちっとも気づかないほど、手遅れなほど、私の全身の火照りはひどかったのだ。
 いっそのこと思考なんて全部麻痺させてくれればいいのにと思ったけれど、私がふわふわと浮き上がるのを見ては、意識を引っ張り戻すような乱暴さ、たとえば痛みを与えて、彼女は私を何度も何度も繋ぎ止めた。おもしろくないから、と言う。彼女は私がせめてもの抵抗にと首を振ると、ふくらみに歯を立てては、たのしそうに笑った。恥ずかしがってくれないと、もっといやがってくれないと、おもしろくない。
 頬にひとつキスをするという、どこか優しげにも思える行為からは考えられないようなことを彼女は言って、濡れた瞳はいつも以上に私を裂いた。そのほか与えられる快感なんてたくさんあったのに、見下ろすその目線でいちばん、お腹の下あたりがきゅうとして、いよいよ私はおかしい、と思った。もしかしたら、それは最初からだったのかもしれないけれど。
 
「こっちも触っちゃいますよ、先生?」
「………っ」
「そろそろ、だんまりはやめませんか。ほら、こっちを――」

 浅野さんの手が私の顎に這ったそのとき、湿っぽくて生々しい空気に不釣り合いな、無機質なコール音が、けたたましく鳴り響いた。
 私の携帯、だった。



「矢谷、くん」

 思わずこぼした言葉に一番びっくりしていたのは、ほかでもない私自身だ。彼がこんなに速く連絡をよこしたことも意外だったけれど、それ以上に、あんなにおかしくなってしまっていたのに、ほんの一瞬で私が平素の私に戻ってきたのが、驚きだったのだ。浅野さんはというと黙って、呼び出し音を叫ぶ私の携帯を見つめていた。目線の拘束力はなくなっていて、私の自由は急速に戻りつつあった。
 いや、けれど、どちらにしたって、私に自由なんてものは、ないのだろう。力の入りきらない身体をどうにか起こして、携帯が放られているテーブルに、半ばはいつくばるようにして手を伸ばす。みっともない格好だったろう、と妙なことを考えた。今までだって十分みっともなかったのだろうから、手遅れなことだというのに。こんな、誰の言うことだって聞いてしまうような、どうしようもない私は。
 そういつも、いつも私は、みっともなくて、みにくい。きれいなあなたとは、きっと、正反対なんでしょう。

「出る気ですか?」
「……うん」

 それでも、結局、どうしようもないことだ。ショウ、マスト、ゴウ、オン。従うことを続けなければ。彼は私が電話に出なかった理由にこだわる。仮に忙しかったとしてだ、なにがどう忙しかったのか教えてくれないとわからないじゃないか、と唇をとがらせる。そして私は嘘をつくのが得意ではない。
 論理がちぐはぐどころかめちゃくちゃであることは私もどこかでわかっていて、それでも、私の手は真新しい携帯電話まで届く、のだ。

「やめて、ください」

 だって結局、呼び出し命令を止めたのは、私の手から一瞬にして携帯電話を奪い去った、彼女の手だったのだから。
 彼女はそれを叩きつけるようにテーブルの上へと戻して、ソファに身を沈めた。膝を抱えるようなかっこうは、なんだか不似合いに、彼女のことを小さく見せる。私はそれをぼんやり見つめたまま、ソファに戻ることもできずに、テーブルとの間、床の上にぺたりと座った。私は糸を切られた人形だった。やめてよ。掠れた声で、浅野さんは繰り返す。
 だって。でも、なにが、どうして。あなたは全部、知っているんでしょう。それで、私の従順さを、生徒にこんなことをされても逃げない、逃げられない、逃げ方も忘れた私を、面白がっていたんじゃ、ないの。ああ、いや、そうか、もしかしたら。

「それも、お姫さまの、命令?」
「……先生に」

 そのとき、彼女は、

「先生にそう呼ばれるのは、きらい」

 あどけない、拗ねてさびしそうな目を、した。


 私は間違えたみたいで、でもなにが間違っていたのかわからなかった。思うに全部、お姫さまの気まぐれ。はじめの授業で私を見つめていたのだって、音楽プレーヤーを渡してきたのだって、今日、私を、抱いたのだって。従順さしか身につけていない私をからかってあそぶ、お姫さまの退屈しのぎ、それだけじゃ、なかったの。
 膝を抱えたお姫さまは――浅野さんは、どういうわけかなきだしそうな目でこっちをきっと睨んでいて、確かにそれは歯を立てて噛みつくのとよく似ていたけれど、どちらかというと、すがりつくのに近かった。そんな気が、した。そぶりはみたことがないけれど、姫と呼ばれるのが嫌いだったのだろうか。いや、どうもそれも、違うみたいだ。

「同じように、従わないで」
「おなじ、ように……?」
「みんなと同じように、従わないで。誰にでも従うのは、やめて」
「……浅野さん」

「私にだけ、従ってください」

 お姫さまだからじゃなくて、従順だからじゃなくて。
 そうじゃ、なくて。


「ねえ、私だけのものに、なってください、先生」


 それは、愛の告白と呼ぶには、あまりにも不器用で、尖っていた。
 でも、尖った言葉を吐き出す彼女は、自分のそれですらずたずたになってしまいそうなほど、幼く見えた。浅野さんは。姫と呼ばれた、彼女は。呟くような声で、欲しいんです、と続けた彼女は。
 あなたはいつも、その鋭くて綺麗な瞳で、ただ私を見て、くれていたのだろうか。従順さではなくて、その利便性ではなくて。あるいは、それを含めてどこか病的になってしまっている、"私"を。

 ――そんな、ことって。 

「あ……その、浅野さん」
「…………」

 すん、と鼻を鳴らされると、信じ難いことに、彼女は泣いているように見えた。やっぱり、拗ねてる。それが一番近い。なんだろう、胸のあたりが少し、ぽうとあたたまったような気がする。どこかくすぐったい気分で、扱いあぐねるようなものであるといえば、そうだった。
 それにしたって、この子、こんな顔も、するんだ。いつの間にかのばしていた手は、だけど彼女の頭にも髪にも届く前に、逃げられてしまった。拗ねて泣いても、彼女はまだお姫さまだったのだろう、きっと。気安く触らせてなどくれないのだ。目の前で揺れる髪の一筋だって、そう彼女は、いつも、綺麗で。
 でもじゃあ、どうしたら、機嫌直してくれるかな。いつの間にかそんなことを懸命に考え始めている私のおかしさに、私は自分で笑いそうになっていた。彼女は私が笑っているのが、とても、気に入らないようだったけれど。ここでお姫さまなんて呼びかけたらきっとまた怒ってしまうだろう、でも、そのへんにとおしいわがままさは、なんだか、それはそれで、大切な、お姫さまだった。

「なまえ」
「うん?」
「名前……どうせ、覚えてないんでしょう、けど」

「いずなちゃん。」

 切れ長の瞳がこんなに丸く見開かれたのを見たのは初めてで、あいにく、私の記憶力は、それなりにいい方だったのだ。
 そのせいで、といえばいいのか、どこか人間らしくないほどに透けるようであった彼女の頬にはぽうと赤が灯って、灯って、浅野さんはばっと目線を床に叩き落とした。あまり勢いよく頭を振ったものだから、耳にかかっていた分の髪が流れて、彼女の表情を隠そうとする。そう、隠れていたんだろうなと思う、仮に私が、彼女の隣に座っていたのなら。
 けれども私はソファに腰かける彼女から、ちょうど足蹴にされそうなくらいは低い位置にいて、床はじんと脹脛辺りを冷やしつつあった。さっきまであんなに怪しく光っていたように思える彼女のくちびるが、ちょっととがっている。言った通りにしてみたつもりなのだけれど、余計に機嫌を損ねたようにも、見えた。
 そこにきて私は漸く、頭ではなく感覚で、自分の頭で、自分のこころで、目の前にいる誰かのことを考える、なんていうことをしてみていたらしいのだけれど、もちろん今までまるきりさぼってきたようなことが、どんなにかその時一所懸命に挑戦したからといって、即座にうまくいくはずもない。

「うん……いずなちゃん、その、足」
「なんですか」
「足、こっち……出して、くれる?」

 だから、すっかりむくれてしまった彼女がめんどうそうに、或いはきまりが悪そうに顔を上げたとき、やっと私が思い付けたことといえば、今までの私らしい解答というものでしか、なかったのだろう。
 ほんの少し、息を詰めるような間戸惑っていた浅野さんは、だけどソファの上でぐっと折られていた膝を、伸ばした。足首の細さに感慨すら覚える。くるぶしあたりからずっと滑らかなラインが引かれているような足先では、丁寧に切りそろえられた爪が、コートだけ塗ってあるらしく、艶めいた光を放っていた。
 それを、なにかひどく壊れやすくて、だけど大切なものを扱うように、そうっと両手で、包んで。冷え切っているのがどこか女の子だと思った、浅野さんの瞳が、静かな輝きを取り戻し始める。その目で、私を、見ていて欲しかったのだ、たぶん。いままでの、ように。
 わたしのきれいな、おひめさま。掲げ持った、その足の甲に、キスを、ひとつ。

 浅野さんがもう一度だけ目を見開いてくれたのはほんの一瞬だけのことで、すぐにまた、あの鋭い眇められ方をした瞳は、あくまでも私を真っ直ぐと、見下ろした。なるほど。低くて、こわいくらいに落ち着いた声で話す彼女は、聡い。私の行為の意味をすべて汲み取ってしまうくらいに、聡い。
 
「なるほど。良い子です、といったところ、でしょうか」
「ん……っ、え? い、いずな、ちゃん」

「でも、おしおきです」

 かすり、という音を最後に、私の耳は、機能しなくなった。
 浅野さんは冷たい微笑みを浮かべている。もう一言なにか言ったような気がする。だけど私はそれを聞くことがかなわなかった。耳、に、なにか。触って確認しようとしたら、がさがさと甲高い音が耳のすぐそばで鳴って、塞がれているそれからは、黒く細いコードが垂れていた。浅野さんが私の目の前で、どこか見覚えのある機械を揺らす。
 彼女にもらった、携帯音楽プレーヤー。イヤホンが、着いていない。鳴ったのは自分の喉で、浅く吐き出された呼吸も自分の口から零れたものだったのに、私はそのひとつひとつに、びくびくしていた。からだのなかの音をはっきり聞くことで、思い知らされる。私は、反応しているのだ。
 ソファから下りた浅野さんは、私の肩を押して、床の上に放った。彼女の乱暴さは絶妙だ。フローリングの上で背をうって、拍子に喉からひゅっと、声と吐息が、はじき出される。それだけ。それだけ、なのに、およそ自分の音とは思いたくなくて、それほどになにか野性的で、勝手に頬が熱くなる。先刻一度昇りつめかけた私の沸点は、もうすぐそこだった。
 さっきよりも、甘えてまとわりつくような、絡み付くような濃いキスが、続く。粘つく音が、部屋で響いているだけなら、まだ逃げようがあった。だけど、咥内から生まれたそれは、外に逃げようとして、蓋をされた耳の中で、弾けて霧散する。そうして、私の脳を激しく揺らす。多幸感を通り越したもっと毒々しい何かが、一気に全身に回っていった。
 浅野さんの手は、だけど侵攻を、ゆるめない。腰骨をかたどるようにまさぐって、太ももまで、たどっていく。ゆるめない。指先がとん、とん、と楽しそうにそこを叩く。
 細い指が、ゆびが、つぷりと沈みこんでくるのは、だけどなんとも残酷なことに、私がほんの少しだけ、身体の強張りから抜け出した、その刹那の、こと。

「くぅ、っ……! あ、い、いずな、ちゃ……んんっ!」

 甲高いケモノみたいな声が、行き場を失くしたまま、頭の中で爆発した。吸ったそばから吐き出される息が、もうたぶん呼吸の形を成していないそれが、ノイズのように聴覚を駆け巡る。えっち。口の形だけで彼女がそういったことを悟って、それきり、勝手に溢れる涙で、彼女の顔は見えなくなった。綺麗な瞳も、もう見えない。好きに中をかき回す彼女の指先の動きは強引で激しくて、それはやすやすと疼痛を増幅させる。いたい、けど、いたい、のが、あまい。くねる指は私の思考も嗜好も即座に見抜く。
 だけど私が、喘ぐ隙間で手を伸ばしたら、案外と近くに彼女の細い体はあった。服の中に手を差し入れて、肌に触れて抱いても、浅野さんは逃げないでいてくれた。薄い胸に額を押し付けると、私のだらしない呼吸ノイズをかき分けて、強く脈打つ音が聞こえた。私よりもずっと速いようで、それが、それがなんだか、うれしかったのは、どうしてだったろう。

「う、んっ、いずな、ちゃん、いずなちゃん、いずなちゃんっ……!」

 呼ぶのは、応えてほしいから、で。これはおしおきだと彼女が言ったから、私はこの耳にかかった戒めを、自分で解くわけにはいかないと、知っているけれど。ただ、ただあなたの声が、聞けないのが、私は、わたしはきっと、さびしかった。
 誰の言うことでも聞いてきたし、誰にだって従順にしていられた。私は何にだってなれるし、どこにだっていける。だって私は誰でもないし、どこにもいないのだから。初めから、そういうものだと、思っていたから。好きだから付き合おうと言われれば、そういう「私」になれた。ショウはいつまでも続いていく。続けなければならなかった。
 でも、いつまでだろう、って、考えてしまうよ、やっぱり。誰でもないし、どこにもいない。ショウが終わって、幕が引かれたとき。そのとき私に帰る場所なんて、どこにもなかった。演じて、演じて、演じきって、踊りつかれた私の足は、折れるという選択肢しかない。それは――やっぱり、こわいし、さびしいよ。

 浅野さんは聡い。ホワイトアウトの寸前でふと手を止めるタイミングだって、彼女はちゃんと、知っていた。

「はあ……っ、はあ、ん……いずな、ちゃん……?」
「――――、」
「え、な、なに……?」

 ああ、と思い当たったような顔をした浅野さんは、まばゆい額を、こつり、と私のそれと、合わせた。溶け合うような熱が、いっしょに上がり切った体温が、私と彼女の隙間を埋める。

「……き、です。好きです、すき、です、先生」


 さっきよりもいくらか器用な形になった告白は、だけど彼女自身の声があまりにぎりぎりで、いっぱいいっぱいで、なんだか、やっぱり、不器用で。
 肌どうしぶつけあったまま、浅野さんで私はいっぱいになって、きっとそれは私を、踊り続ける人形だった私を、たとえばこのお姫さまの手の中の糸へと、繋いだのだろう。



 空咳を何度か繰り返してみたけれど、喉にへばりつく違和感は、どうやら取れてくれそうにない。変なところで寝たせいで、体中が痛かった。といって、もっとあちこちが痛いのは、どう考えてもほかの理由があるからなのだけれど。夜は、結局、何回彼女に弄ばれただろうか。若い子の体力って、ついていけない。
 固まった肩をほぐしながらカーテンを開けに向かおうとしたけれど、思い立って回れ右をした。だってソファの上で、お姫さまが寝息を立てている。起こしたらきっと怒るだろう。学校でもそうだったけれど、眠りを妨げられた彼女は、暫く手におえないほど不機嫌になるのだ。寝室から持ってきたケットをかけて、あとは、温かいミルクでも、淹れておこう。
 そうして裸に上着を羽織るという酷い状態で台所に立ったとき初めて、私は浅野さんがはたして甘いものが好きだったかどうかも知らないことに気がついた。それは、まあ、そうだろう。従順さしか持ち合わせていない私は必要以上に生徒にかかわることなんてしなかったし、何よりいつだって彼女は、遠かったから。
 だというのに。一晩明けて夜明けの空の下にいると、だいたいのことは笑い話に変わるようで、その時の私も、気がついたら笑ってしまっていた。

「あ……」

 が、ひとがせっかく極力音をたてないようにしていたのをあざ笑うかのように、テーブルの上でまたけたたましい呼び出し音は鳴り響いてしまった。電源を切っておかなかったことを激しく後悔する。幸い日曜だから、アラームを設定していたわけでもないしと高をくくっていたのが、良くなかったらしい。
 慌てて携帯電話を取りに行くと、案の定不機嫌全開に眉根を寄せた浅野さんが、うるさそうにソファの上で身じろぎしていた。目覚めていないなんてことはないのだろうけれど、目を開けるのもめんどう、といったところだろうか。
 私は彼女の方に目をやったまま、携帯電話を取って、

「……いずなちゃん?」
「…………」

 
「――大丈夫、出ないから。」


 電源を切ってから、フローリングの上に放り投げた。
 私の上着の裾をつまんでいた浅野さんは、ぱたりと手を下ろして、また眠りへと、沈んでいった。


 そのほんのひといき前、ふっと笑ったように見えたのは、気のせいだったかな、そうじゃないと、いいな。







〜あとがき〜

ひどいのができました(開口一番)。
いや、あの、うん、ほら、なんだ。まあ、エロいの求めてくださる方も、いらしたじゃないですか。
だからまあ、なんていうか、ちょっとがんばってみよっかなあ、って、がんばったんですよ。

……ひどいのができました(二回言った)。

あ、でも、いずなちゃんのキャラクタはちょっと気に入ってます、個人的に、ですけど。
この……全然大人じゃない感じが、好き、かも、しれない。

はあ、いやあ、エロはエネルギーつかうわ……。


柊でした。

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