「ああもう、このひとは。」




 こんなに従順なひとも初めてだけど、こんなに思い通りにならないひとも、初めてだったのだ。

 馬鹿馬鹿しい言葉遊びのようなそれがふと浮かんだのが癪で、まだロックの氷が溶けてもいないグラスの中身を、一気にあおる。隣のクラスメイトが微妙な顔で笑いながら、溜息でもつくみたいにメニューを差し出してくれる。適当に目についたものを注文すると、彼女は一度これね、と繰り返してから、幹事の男子にそれを流した。幹事である彼も一度私を見てから、微妙な顔で笑う。でも何も言わない。誰も何も。
 高校生がこっそりと開く飲み会という場にあたって、私が完全に浮いてしまうほど泥酔状態であっても、誰もそれを咎めない。そういう空気があるからだ。そういった会にはただの一度も参加したことがなくとも、突然飛び込んできたのが「私」なら、誰もが自然に迎え入れてくれる。そういう空気が、あるからだ。
 なんでも思い通りにしたいなんて望んだことはなくて、実際そうしなくとも周囲は私に優しかった。私は私に付けられた名称と、与えられたポジションに満足していた。それがいつもどおりで、いつだってそうだったというのに。私は私が性格や能力的にある程度恵まれた人間であることを知っていて、それを上手に活用できている自信ですら、あったというのに。
 そんな私に――あの人は、桐香さんは、たとえば「切望」だなんていうことを、なんともかるがると、焼き付けてくれるのだった。

「ひ、姫ー? なんか、目ぇ、据わってきて……」
「うわわ、おまっ、やめとけって、打ち首とか割とあり得るぞ、あの様子じゃ」
「……ねえ、お代わりまだ?」
「えっ!? あっ、えー、っと、も、もうすぐくるんじゃないかなー?」
「そう。」

 打ち首獄門、なんて言ったら、それでもやっぱり、頷くかな。そう思うと笑えて、笑えて、そのうち喉が苦しくなって、下を向いた。どうしたってあっちこっち苦いような気がするのは、飲み慣れてもいないアルコールのせいだ。気を紛らわすためにあると思っていたものが、こんなに舌に優しくないものだとは思わなかった。まあ、それでも、意識をぐらつかせてくれるなら、もうそれでいいけれど。頭の中で回路がぶちぶちと断絶され始めている感覚は、私に少しの安心を与える。
 今まで酒にも飲み会にも興味を持ったふりすら見せなかったから、私にかかった声というのは完全に偶然の産物であったのだろうけれど、現在の私にとってそれはひどくありがたい申し出になった。酔った経験はないが、確かにこのまま頭がゆるくなっていくなら、記憶が飛ぶという例の話ですら、この身を以て実証できるかもしれない。願ったりな話だ。おずおずと目の前に差し出されたグラスを、何杯目だか数えるのが面倒になったグラスを、引っ掴む。
 心の奥底にひりりと焼きついたその記憶が、最後の最後まで残るであろうことを私は予測していた。だから今日は無理をしなければならない。熱を増幅する液体でお腹の中が気持ち悪い。景色がゆっくりと斜めになって、いや、斜めになっているのは、私の身体、か。遠くで、とおくで、柏木か誰かが、ひめ、と呼んでいた。姫。私につけられた名前。なんだって、気がつきもしないくらい、思い通りに生きてきた、私。

「なのに、どうして、あのひとは――」
「うわ、姫!? ちょー、誰か、姫の面倒!!」
「あちゃあ……やっぱりちょっとでも止めとくべきだったかなあ……」

 居酒屋の喧騒は急速に遠ざかって、側頭部が酒臭い畳の上に軟着陸したのをにぶく感じ取ったのを最後に、私は意識を手放した。



 先週末の話をしよう。
 土日を桐香さんのマンションで過ごすにあたって、それを未だに気にしているのなんて、桐香さん一人だけだった。親御さんが知ったらなんていかにも先生らしい心配をしてはくれるのだけれど、私の性質を知り尽くしてなおそのままにしているような親が、今更私が週末家を空けようがどうしようが、それを気にかけるはずもない。どころか最近では金曜の夜にうちに帰ると、にこにこと笑う母がお泊りセットを用意しているくらいなのだから。
 大体、そうはいってもこのひとは、私がソファに腰かけると、暫く考え込んだ挙句、何も言えなくなってしまうような人なのだから。私はここから動きません、という意思表示があれば、それだけでいい。桐香さんにはいつもそれだけで十分で、それからいくらもしないうちに、歓迎の意とも取れるような暖かな飲み物が出てくる。この人は、そういう人だった。目を合わせると桐香さんは少しまぶしそうに笑う。首を傾ぐ仕草はへんに幼くて、この人はなんだか真っ白だ、と、そのたびに思わされる。

「えっと、どう? ココア、それくらいで、いい? 甘すぎない?」
「シェフじゃないんだから、砂糖一つまみ分がどうとかなんて言ったりしませんよ。そんなにわがままに見えますか、私」
「わがまま……ん、と……ど、どうだろう」
「……正直がいつも美徳、というわけではありませんよ、先生」

 その真っ白さが、初めに私の目を惹きつけたのではないかと、最近思うようになった。といってもそれは後付けかも知れなくて、スタートがどこだったのかは私の中でぼんやりしていた。いつもほんの少し頭を垂れて歩いている、うちのクラスの副担任。それだけならよかったかもしれない。今更、だけど。いつの間に長い間見つめていたのか、桐香さんはどうしたの、と伺うように瞬きをしていた。背も高くて、私より八つも年上なのに、この人の瞳は病的なほどにあどけない。
 目つきの悪さなら一級品の私と比べると、まるで歳が逆転したような印象を受けるのも、無理のないことだ。前髪を払いのけてみたいとも思ったけれど、手控えた。まともに見ると、とらわれる。でも桐香さんは、顎のあたりでふらりと迷っていた私の手を取って、自分の頬にあてがってくれた。これで、いいのかな。目で聞いてくる。このひとは、いつも、そうだ。冷え性気味でいつも冷たい私の指先が、遠慮なく触れたって、このひとは少しの嫌悪も顔に出しやしない。あなたの頬は、こんなにも、あたたかいというのに。

「先生、」
「ん……浅野、さん? っあ、じゃなくて……」
「もう、遅いですよ。」

 だからほら、その先だって、いともたやすく、手に入る。べつに、名前を呼ばなかったおしおきだなんて、こどもっぽいこと、考えてるわけじゃ、ありませんけど。先に触れたのは額で、びいだまみたいな桐香さんの瞳が、まぶたの裏にすっと隠れた。ココアの匂い。ひとりごとのようなかすかな呟きが漏れたくちびるは、いつも静かに、静かに、私を受け入れる。底なしに沈んでいけるような気になる。それが頭のどこかではほんの少し怖いくせに、私の腕はしっかりと桐香さんの細い首に巻き付いてしまって、もう離れられない。本当はもっと前から、離れられなかった、たぶん、そう。
 まだ温まり切らない部屋の中で、喉の奥から引っ張り出されたような吐息が、ほうと白く溶けていく。どっちのだかはもうわからなくて、ココアを飲んでいたのは私の方だったのに、舌先が甘いのも多分私の方だった。桐香さんの姿勢がきついことは肩がごく小さく震えているところからもわかるのに、自分では座ろうともしない。こっちだって、そんな、余裕あるわけじゃ、ないんですよ。なんて言うわけにもいかないから、首にしがみついた腕を回して、ソファの上に引き倒した。
 私の髪が、桐香さんの頬や首筋に流れ落ちて、絡み付く。髪の先は冷たい。鎖骨に触れた毛先がくるりと元に戻ったのを契機に、桐香さんの喉が、こくり、と、ゆっくり、鳴った。
 
「……え、と、いずな、ちゃん」
「なんでしょう」
「その……私ね、まだちょっと、仕事が、残ってて、ね?」
「何を期待してるんですか、先生?」
「え? え……や、あの……う、ううん、なんでも、ない。なんでもない、から」

 それだけ、頬赤くしといて、かすれた声して、なんでもないってことも、ないでしょうに。と、私が言うわけでもなく、はたまた、頬の熱を振り払うように頭を振って、仕事用の鞄へとふらふら歩いて行った――足に力も上手に入れられていないくせに――桐香さんが、言うわけでもなく。
 机の上に並んだよくわからないがややこしそうな書類と桐香さんが睨めっこを始めたのは、それからいくらもしないうちのことで、ただ不似合いなほどに濡れていた桐香さんの瞳が渇くまでは、随分と時間がかかった、と、思う。それはいつまでも私が細っこい肩の上から頭をどかさなかったからなのだろうし、そのせいで左手には相当の負担がかかっていたことだって想像に難くはないのに。どかそうともしないし、まさにされるがまま、というのが、一番正しい態度を、このひとは取り続ける。染みついたように、取り続ける。
 書類への記入といった型通りの仕事が得意らしい桐香さんは、私がうとうとする頃にはそれをもう片付けてしまったらしく、しかしひくりと奇妙な形で動きを止めたのに私が気がついて目を開けなかったら、そのあと、どうしていただろう。しかしそれを考えきる前に、ちょっと情けない音が、空腹を訴えてしまった。ああ、もう、これだから成長中の身体は、嫌なのだ。桐香さん、ばれてます、笑ってるの、ばれてます。

「っ、え、えっと、ご飯、すぐ食べられた方が、いいよね。外、行く?」
「そうですね。桐香さん、作るの遅いし」
「うーん、もともと器用な方じゃ、ないから……でも、あんまり変な形に野菜切ると、いずなちゃん、怒るし」
「変な形なのを怒ってるんじゃなくて、切り方が大雑把すぎて火が通ってないことに怒ってるんです!」
「う、うん、だからそれを治そうと、ね……? あっ、待って、いずなちゃん」
「……なんですか」
「外。寒いから」

 そう言って首に巻かれたマフラーからは、ゆるりと溶かすように甘い匂いが、した。ココアとか、ミルクとか、そういうのが、似合う。ただし、基準値みたいなものを軽々と超える量の危険物質が、依存物質が、含まれています。あなたの精神的健康を損ねる恐れがあります。吸いすぎには注意しましょう。

「ん……いずなちゃん、それ、変な匂いでもする?」
「……そういう、後ろ暗いことでも、あるんですか」

 それはないけど、と困ったように笑ったあなたは、あなたはきっと、私がどんなにかひっしに言い返していることに、気がついても、いないのだ。
 あなたの瞳から消えてしまった熱ですら、今も私の体の中で燃え残っていることにだって、きっと、いくらも。ぜんぜん。
 
 まともに味がわかったかと言えばそんなことはなかったのだけれど、とりあえず胃だけは膨らませられた状態で、私たちはまた桐香さんのマンションへの道をたどっていた。そうそう店に長居をしたつもりはなかったが、冬の夜は私の予想よりも早く空気の鋭さを増していて、セオリー通り冷え切った両手に息など吐きかけてみるが、そもそもこれは一瞬のぬくもりの後に湿度で余計冷えるということがすでに実証済みだった。
 とはいえどうしてもそうせずにはいられない程度には私の冷え性は酷くて、擦り合わせたところで、一人では、何の効果も。

「な……ん、ですか?」
「あ、うん……手、寒そうだったから」

 ない、と思う前に、はっとするようなあたたかさが、手を、包んだ。桐香さんの手は大きいわけではなかったけれど。ただ本当に私の手を暖める、という理由のもとにあてがわれていたから、じつに誠実に、手のひらから指先のひとつひとつまで、それはあたたかかったのだ。そう感じることを、私は与えられていたのだ。そう望んだから。マンションまではあと五分も歩かないほどのところで、私は足を止めてしまっていた。先生は私の、半歩先にいた。
 このまま、握って帰ろうか。桐香さんがそう口にする、あの包み込むように、絡み付くように優しい穏やかな声が、頭の奥で痺れるように鳴る。でもきっと、ちょっとだけ小指の先を絡めてきているこのひとは、私がそのまま全部を欲してしまっても、拒否はしないでいてくれるのだ。そういつだって、拒否は、しない。桐香さんはいつだって私に従順だ。どんな言うことだって、聞いてくれる。

「……手、繋いで、歩いて」
「うん……繋ぐ?」
「っ、そ……そんなことして、誰かに見られたら、どうするんですか」

「あ、そっ、か……そう、だね。」

 ごめんね、じゃ、ないですよって、言える私だったら、良かったんですか。ねえ、どうして、そこで、簡単に手を、放してしまえるんですか。
 温かさに触れた後の空気がこんなに冷たいだなんてこと、今刻み付けなくたって、いいのに。せめてものお詫びなのか知らないが、やけに準備のいい桐香さんが、鞄の中から使い捨てカイロらしきものを取り出して、私に差し出してくれた。笑えばいいのかもわからないまま、私はそれを受け取って、ポケットに突っ込む。突っ込むだけ。使ってなんて、やるものか。 でもやたらめったらデザインが可愛らしいのが気になりはしたので、ちょっとだけ聞いてみるのもいいかと思って話を振ったら、生徒に分けてもらったものだそうだ。本当に、本当に、このひとときたら。反応も返さずに黙って歩いたら、機嫌を損ねたらしいことだけが伝わってしまって、桐香さんはまた困ったような顔をした。どうも、桐香さんの眉が八の字で固まってしまわないかが、目下のところの懸案事項なのかもしれなかった。今は、どうでもいいけれど。
 ねえそれよりも、あなたは。あなたは、ただのすこしも、握っていたいだなんて、思わなかったんですか。聞けるはずもない言葉を、どんどん先に行く道の中で、私は必死に踏みつぶした。思うに、怖かったのだ。だってもしも聞いてしまって、もしも、そうだよ、って、簡単に頷かれてしまったら。ありえないことではないという思いのほうが、頬を切る風よりもずっと、冷たかった。

 だって桐香さんが私のことを特別に好きだなどという保証なんて、どこにもありはしないのだ。何でも言うことを聞くし従順だというのはこの人が誰にでも取り続けてきた態度で、それだけでしかなかった。聞くまい聞くまいとしてきたのにいつしか私から話題を振ってしまっていた、あの矢谷という男性とだって、求められたから付き合った、ということを、淡々と桐香さんは語っていた。この人はいつもそうだ。いつだって、そうなのだ。
 求められたから応える。拒否されたからやめる。桐香さんは実に単純で精密な機械のように決まった反応を返してくる。それが欲しかったのかと言われれば、初めは、そうだったのかもしれない。それこそ言うことさえ聞いてくれれば、何もかも思い通りになると思っていた、から。私の言うとおりにしてくれるんだったら、それだけでこのひとが、手に入ると、思っていたから。それが実に愚かな考えであったと、しかし皮肉なことに、この人に従ってもらうたび、私は思い知ることになる。
 思い知る。従順さに意味なんてないと、思い知る。それはこの人にとってあまりにも普段通りのことで、それだけでしかなくて、それは私の欲しかったものではない。私だけのものでは、ない。桐香さんはいつだって従ってきた。親にも教師にも友達にも、彼氏にも、あの矢谷という男性にも。その延長線上に、私が居る。目下のところに、私が居る。

 それだけじゃ、いや、なのに、すきなのは私だけではないはずだって、自分で言い聞かせる根拠が、私にはなかった。桐香さんの中にも、見つからなかった。
 
 部屋に戻って湯を借りて、眠る手前になるまで、口をきかないままでいた。桐香さんはそういうとき少しだけ俯き加減で、ただひたすらに待ち続ける人だった。嵐が去るのを、私の機嫌が直るのを、ただひたすらに、待ち続ける。今日ばかりはそれが私の頭を余計に苛立たせることに、気づいているのかいないのか、どちらかは、知らないけれど。どっちにしたって、この人が取る態度は変わらない、それだけのことなのだろう。
 だけど、そんな今日になっても根負けしてしまうのはいつも私の方で、明日朝早く到来する大寒波の予報を告げるテレビが、背中を押してくれた。明日の朝は、寒そうですね。ぱっと顔を上げた桐香さんが、そうだね、と少し、考えるように視線を巡らせる。気づいてください。気づいてください、いや、でも、気がついてもらうところまでは、わりといつも、うまくいくのだ。それはこのひとの、得意分野といっても、差し支えはない、のだから。
 ほら今だって、桐香さんは、ちょっと頬をあかくしながら、笑って、口を開いて、くれる。お姫様、望みは、こちらになりますか。

「いずなちゃん、結構、冷え性だし……風邪引くと、いけないし」
「…………」
「ん、と。今日は、一緒に、寝る?」

「……こどもじゃ、ないんですけど、私、」

 そう、だから、もう今は、これで、


「あっ、あ、う、うん、そうだよね。ごめんね、変なこと言って」


 ――ああ、もう!



「おい、おいおいおいやべーって、あれ、先生じゃね? もしかしなくても、先生じゃね?」
「は? んな、馬鹿な……っうわ、マジだ、岬原サンじゃんか! おいおい、撤収……」
「……男子、諦めたがいいって。先生確実、こっち向かってるから」

「あ、やっぱり……あなたたち、飲酒は、成人してからだよ」

 焦ったざわめきで目を冷ましたら、気が抜けた炭酸みたいな注意しか飛んでこなかったので、私のことを支えてくれていたらしいクラスメイトが、ちょっとずっこけそうになっていた。知らないと思うけど、あの人は、ああいう人なんだよ。言ってやろうかと思ったけれど、呂律が回らない。桐香さんが、いやこの場合は先生が、何か一言二言、生徒に向かって続けていた。ぼんやりとした意識の中で、断片的な言葉だけが浮かんでは消える。気を張った「先生」の声で話すあのひとは、どんな顔を、しているだろう。瞬きもままならなくて、よくわからない。
 けれど先生の小言はというと本当に一言二言で終わってしまって、幹事の男子にもう二度としないということだけ約束させてから、あとはさっさと全員を解散させてしまった。それこそ、じゃあもう時間も遅いんだから、気を付けて早く帰ってね、と言われた生徒側の方が、ぽかんとしてしまうほどあっさりと。

「あ……介抱は、いいから。あなたも早く、帰りなさい」

 だから、自分はどうすべきか戸惑っていた、私の面倒を見ていた女生徒にそう告げたことだって、そのうちに自然とあるなにかでしかなく、特別な響きになんて、聞こえやしなかったのだ。先生としての声は、少し澄ましていて、おもしろい。高く細く消え入りそうな声だって知っている私は、なんだかおかしくなって、くつくつ笑っていた。笑い声は、泣き声に、いつも少しだけ、似ている。
 それからまたしばらくの間私は意識を手放していて、身体は完全に弛緩していた。力を入れるのも、めんどうだ。考えるのも、ちょっと、めんどうだ。諦めなのか、鬱屈なのか、良く解らない何かが、体中に充満している。目を開けたくない。このまま眠って、忘れてしまいたい。でも、それが、どうしてだか、できない。ミルクのような甘い匂いがする。白い匂いがする。胸の中、はちきれそうに吸い込んでも足りない匂いが、する。
 定期的で静かな振動。頬にぺったりと吸い付いたぬくもり。よいしょ、と、小さな、声。ゆっくりと、目が、開いていく。夜道だ。寒い、いや、寒くは、ない。体の前が、溶けるくらい、あったかい――。

「……せん、せい?」
「あ、気がついたね、浅野さん」
「っ……! お、おろ、おろして、くださいっ」
「わ、わ、あ、暴れないで、浅野さん……落っことしちゃう」
「だからっ、降ろしてくださいって、言っ……う、」
「だいぶ、回ってるみたいだから……まだ歩くのは、無理だと思うよ?」

 だからってどうしてあなたが私を背負っているんですか、なんてよくわからないことを考えてしまう辺り、私の思考回路は、まだだいぶ使い物にならないようではあった。それでも自分の状況確認だけはとても上手にできてしまって、先刻も一番消えてほしい記憶の夢ばかり見たあたり、お酒が嫌いになりそうだった。だって一番消したいことばっかり、上手に残していくんだもの。しかも、しかも目が、目というより、認識されうるすべてのなにかが、ぐらぐら、する。言うとおりだと認めるのはひどく癪であったけれど、確かに降ろされてしまったとして私が上手に歩けないであろうことは、自分が一番良く解るようなことではあった。
 だけど、それだからって。それだからって、どうせ、あなたは。

「ど、どうせ……わた、私の言うことならっ、なんでも、聞いちゃうんでしょう!?」
「あさ……っ、いずな、ちゃん」
「降ろしてくださいよ、降ろしてくださいっ!!」
「でも……」

「し、従えばいいでしょ……誰にでも、そうしてきたんだからっ……!」

 筋道が通っていないだとか、はたから見ればただのわがままであるとか、そういうのはもう本当にどうでもよくなってしまっていた。ずたずたになった思考回路は、かくれんぼうしていた願望とか切望とか、そういう、およそどう表に出したらいいか私が知るはずもなかったことを、蹴り飛ばして、転がしてしまう。ほんとうというのはどうしてこう、いつもみにくくてかっこわるいのだろう。桐香さんの細い肩が、私の瞳からぼたぼた流れる情けない滴で濡れていた。
 だけどそれにも構わず、何とかだるい体を起こそうとしていた私を、桐香さんは一度跳ねるようにして、背負いなおす。かくりと折れた腕が、寄りかかるような――或いは、縋りつくような形で、桐香さんのからだに絡む。桐香さんのからだはいつも、ふかふかして、甘やかだ。触れることも、逃げることもできないまま、おかしなかたちで固まってしまった、私の手のひら。


「……ごめんね。いまだけは、ちょっと、従えないよ」


 それが、もういちど背負いなおした、あとほんの一息だけ残っていた距離を埋めた桐香さんによって、かくりと、このひとの上に、落とされた。落ちた。堕ちた。
 ごめんね、と桐香さんはもう一度謝った。そんなふうに思わせてたんだね、ごめんね。困ったように笑っている表情は容易に浮かんできて、思うに八の字の眉が最初に染みついてしまったのは、私の心の中であったのだ。

「あのね……どう、言ったらいい、かな。ごめんね、私、嫌われたくないの、いずなちゃんに。ほんとに……ほんとに、嫌われたく、ないの……ううん、その……好きでいて、欲しいの。うん、たぶん、それがいちばん、正しい、かな……」

 でも、そのためにどうしたらいいかなんて、わからないの、私。
 きっと誰にも嫌われたくなかっただけなのだと話してくれたのは、いつのことだったろうか。そのときもこんなに、消え入りそうな声を、していただろうか。桐香さんが少しひずんでしまっていることにさすがに目を瞑っていられるような私ではなくて、そもそも初めはその病的な素直さに目を惹かれたといえばそうであったのだから、驚くほどのことでは、なかったけれど。ただ、掠れて震えそうな吐息が、白く白く、肩を越えて私の頬まで届いたのに、どきりとした。誰にも嫌われたくなくて、何にでも従ってきた、桐香さんは。
 桐香さんは、わからないの、と、くりかえした。泣き出しそうになって、くりかえした。

「いずなちゃんの、したいって思ったこと、してあげたくて。でも、嫌なことは、したくなくって……だから、言うとおりにするくらい、しか、私は」
「…………」
「えっと……ごめん、ね。へん、だよね、私」

「……ええ、そうですね、その通りだと、思います。先生は、おかしいです。ばかです。」

 桐香さんの背がびくりと固まるのをみとめるより早く、私はだるい腕に残ったわずかな力を振り絞って。いっそ苦しければいいんだって、私のことが、私の気持ちまで全部が、見えればいいんだって、その頼りなげな、弱々しい、だけど私を手放さなかった背中に。

「どれくらい……どれくらい、私が、好きかなんて……ぜんぶ、言われなくっちゃわからないなんて、あなたは、ばかです!」

 思いっきり、だきついた。
 のどからふりしぼった言葉は、だけど嗚咽になってしまう。ぼたぼた、ぼたぼた、肩を濡らした雫は、熱いままで、いてくれただろうか。私の温度を、この人に、伝えたままで、あっただろうか。そうだったらいい。そうでないと、困る。

 そうでなきゃ、だってこのひと、ちっともわかってくれや、しないんだもの!

「え……え、と、いずな、ちゃん……?」
「ばか……っ、先生、ほんとに、ばか。手、繋いでいたかったんですよ、私」
「て……って、あ、あの、この前の」
「いっしょに! 寝たかった、のに、なんで……なんで、そういうの、ほんとに、ぜんぜんっ……ああ、もう、ばか、先生、ばか!」
「……そっ、か……そう、だったんだ」

 桐香さんは、ひとつ、ふかく、ふかく、肩からゆっくり力を抜いていくような、ずいぶんと長いこと溜まった疲れを吐き出すような、そんなため息を、ついた。それはもくもくと白い雲のようになって、冷たい夜空へ、消えていく。そうだったんだ。根が深くて、ややこしくて、そしてなんともばかばかしいわだかまりが、吐息と一緒に、消えていく。


「うん。ごめんね、いずなちゃん。」


 こんなにすてきな笑顔を見たのは初めてだったけれど、謝りながら浮かべられたというのは、なんだかそれも、おかしな話で。

「だから……今日、きょう、は……」
「うん、一緒に、寝る。ほんとに、いずなちゃんのしたいように、するよ」
「ん……じゃあ、手……て、も」
「うん。手、握って、寝ようね――」


 すっかりひょうしぬけしてしまった私は、泣きつかれたというのも多分にあって、ことりと、意識を、手放してしまったのだ。



 それで話が終わってくれたのなら、世の中にお酒で後悔するひとはもっと少ないと思うのだが、初めての飲酒にしてその洗礼まで受けてしまうのは、なんだかとても、ついていないことのように思えた。
 なんて落ち着いた思考をその時の私が浮かべられていたかと言えばそんなことはちっともなく、素直に言うと、目を開けた瞬間、悲鳴を上げるかと思った。でも喉が酒焼けで――症状の名称は後から丁寧に桐香さんから習ったのだけれど――それは無理だった。ちかい。たった三文字浮かべるのが目覚めた当初の私の限界で、だというのにすう、という穏やかな寝息がふわりと私の鼻先を掠めたりなどして、あとは悲鳴だ。声じゃなくて、身体の方。つまり、跳ね起きた。だってもうそうするしかないじゃないか、目の前ですやすや眠っている桐香さんなんて、冗談みたいな光景から、抜け出すためには。冗談みたいなのは光景というよりも、私の体の中で鳴っていた音の方だったのだろうけど。
 しかし全身が心臓になったんじゃないかと思うようなそれを鎮める暇もなく、新たな困難が私には降りかかってきた、わけで。二日酔いという名称も症状も知らなかった私は、起き上がった瞬間に頭を鐘つきでもされたんじゃないかと思うようなめまいと吐き気で、なすすべもなく数秒前の場所そのままに軟着陸してしまった。いや違う。それじゃ困る。でも、もう一回起きたら、なんというか、内臓がまずいことに、なる。
 そして悪いことというのは本当に冗談であって欲しいと思うほどに積み重なっていくもので、桐香さんがその子供みたいな瞳をぱちくりと瞬かせていたのは、私がぐったりと起き上がる気を失くしてしまった、その次の瞬間のことであったのだ。ああ、もう、さいあく、だ。

「顔色、悪いね、いずなちゃん……昨日、結構酷い飲み方してたみたいだし……二日酔い、なの?」
「……これを、そういうふうに、言うなら、そうなんでしょうね」
「そっか……んん、ポカリとか、あったかな……お水、とにかくアルコールをね、回さないといけないから。飲みたくないかもしれないけど、そこは、がまんして……」
「あの、先生、なんだかそういう流れになっている気がするので、一応断っておきますけれども」
「うん?」

 しっかり体を起こした桐香さんは、看病する気満々です、と書いてあるのが読み取れるような顔で、ひょいと振り返った。うん、って、このひと、ああもう、このひとは。
 記憶なんて飛びやしないじゃないかって、いったい誰に憤ればいいのだろう。記憶が飛ぶような酔い方の遺伝子を残してくれなかった、両親にか。それとも、昨日言ったことのすべてが私をばしばし攻撃していることに気づきもしない、目の前の、先生にか。

「私、できれば、放っておいて欲しいんですけど」

 桐香さんは、ぐらんぐらんする吐き気の中でどうにかこうにか絞り出した私の一言を聞いて、ううん、と、なんというか、ごくごくまじめな顔で、考え込んで。
 それから、そのままにきまじめな顔を、こちらに向けて、


「それは――ほんとの命令じゃないほうって、思っても、いいのかな?」


 ああもう、このひとは、ほんとに、ほんとに、このひとは!!






〜あとがき〜

そんなこと聞くもんじゃありません、って、誰か言ってやってください、あの先生に(笑)。
続き書いちゃった……読み切りの概念が崩れる……。
でも、この前のは、こう、えろいの書こうって書いたやつだから、日常のあれこれとか、書けなかったしなあ……。

この二人、普段はこんなんなのかあ、って読んでいただけたら、嬉しいです。

柊でした。

inserted by FC2 system