「優しい優しい、嘘。」




「るーちゃんるーちゃん、ね、るーちゃんったら!!」
「な……なに?」
「今日は何の日か知ってるっ!?」
「……あ、今日うちの犬の誕生日」
「マジで!! うわーおめでとうっ、お祝いに何か持って……って、違う違う違うから!!」
「ええ? えーっと……あ、そうだ、明日から十一月だから……衣替え、もうした?」
「うんもうばっちりです、どんとこい寒波! ……って、だーかーら!! 気づけば明日の話になってるし! なにそれ、天然!? いやるーちゃん天然だけど!!」
「えぇ、ひどい……っ、あ」
「おっ、思い出した!? なになにもう、あんまり焦らさないでよるーちゃんたら、このこのー!」

「おーい、皆川ぁ。それはにか、お前、挑戦か? より強い者へのあくなき挑戦か、ん?」

「……糸井先生来てるから、そろそろ座った方がいいと思う」

 輝かんばかりの笑顔でわたしに話しかけていた中学からの友人は、わたしと、それから教壇にやってきていた先生の言葉でぴしりと表情を固めた。そしてゆっくり振り返って、先生に向かって愛想笑い。そんなつくり笑顔でも、純がするなら、ちょっと綺麗だ、思いかけて、頭を振る。違う違う、そうじゃなくて、さ。ふざけた調子で話しながらも、先生の眼差しはなぜかいつも真剣だ。へこへこと頭を下げながら、純は大人しく席にまで戻っていった。

「あらー、最近の子って素直。みんなも先生みたいにやんちゃしてもいいのに。まあいいや、君たちはあと二年もしたら大学生っつー人生の夏休みに入るしね……。てなわけで、そんな素敵な夏休みを迎えるために、この冬の時代を超える勉強をしますよー。今日は、えーっと……29ページ、はめんどくさいから、30ページから」

 なんだか物凄い言葉が聞こえた気がしないでもないが、この先生はそういう先生だと半ばみんな理解しているので、大人しく30ページを開く。めんどくさいとか言って、先生はいつもそうして、教科書より分かりやすい順序で授業を進めたりすることが多々ある。だからうちのクラスの英語の成績はいつも良い。たぶん能力の高い先生なんだろう、流麗な発音からもわかるように。あと性格が少々変わっているというか、つかみ所がないので、そういう意味でも糸井先生は人気だ。
 ぱらぱら英語の教科書をめくりながら、わたしはちらりと純の方を見ていた。純は――純も、わたしの方を、見ていた。つまり、必然的に、目が合うわけで。ぱたん。そんな音がして私は一人肩を震わせた、机の上、めくっていたはずの教科書が倒れていた。手から力が抜けていたらしい、慌ててめくりなおし。既に先生の流暢な英語による説明が開始していて、自分の出遅れを嘆いている暇もなかった。ついでに、くすくす笑っていた隣の純の顔を見る暇も、なかった。前者はよくないけど。後者は、良かったと思う。

 多分、見てたら、授業どころじゃない。

「はい次のページ――Simply put, it's a kind of one-man show. A storyteller sits on a stage and creates an imaginary humorous situation just by acting out a dialogue...」

 それでも先生の声は少し遠かった、握り締めた教科書、俯いて呼吸を整える、それぞれに授業を聞いているはずのみんなから、一人切り離されたような気分。自分と他人について考えたらまるで世界を浮遊しているかのような感覚に陥る、だけどわたしは浮遊しながらも縛り付けられているのだ。隣の、皆川純に、わたしは。ときに重い重い鎖のように、ときに細い細い糸のように、彼女はわたしを縛る。縛る、というよりは、絡まる、いや、絡まってる? 彼女がではなく、わたしがか?
 よく、わからないけれど。その、よくわからない感覚に、わたしはずっと悩まされていた。前から、ずっと。といっても、今思えばそうだったというだけで、その時その時わたしがその鎖に糸に、気がついていたかといえば、そうではないけれど。

 ただ、生きていくうちに、友人とはいえ、彼女の背中ばかり追いかけるのはおかしいことである、と知った。
 手を繋いだり抱き合ったりするたびにいちいち過剰に反応するのは、同性間では妙なことである、と知った。
 彼女の伸びやかな声を、柔らかい匂いを、全部刻み付けるように覚えているのは変なことである、と知った。

 ――好きな人、と言われて、いつまで経っても純の顔が頭に浮かぶわたしは、ある程度異常である、と知った。

 だからわたしはそれに名前を付けるのをやめた、異常なものをいちいち定義づける必要もない、そんなものは、ふたをして、忘れてしまえばいい。純といると体温が微かに上昇したように思えるのも、彼女が触れた指先から痺れたように震えてしまうのも、ふと笑いかけてくる顔が頭をよぎるのも、全部異常だから。

 なのにまるで突き刺すようにわたしの感覚を揺さぶったのはやっぱり隣の彼女で、へたっぴなウインクと一緒に小さな紙が回ってきたのを、わたしは何度か失敗しながら受け取ったのだ。おかしく震えている指先を彼女がどう思っただろうかと考えかけてやめた、きっと気付いてない、彼女はわたしが彼女を見るほどに、わたしのことを見てはいないから。ほっとするような、ちくりとするような言い訳を浮かべてから、小さな紙を教科書の影で開く。ノートの切れ端、罫線の中に小さく、丸文字が踊っていた。

『今日は、ハロウィンだよ。美味しいお菓子持ってきたから、お昼に一緒に食べようね!』

「…………」

 読んで、何度も読んで、理解してから、弾かれたように彼女の方を向いた。純は先生の方を向いていた、けれど、教科書を持っている手が、ピースサインだ。そしてわたしがぼうっとそれを見ている間に、その長い指先をきれいだと思っている間に、彼女はちらりと目だけこっちにやった、口元が少し緩んでる。
 秘密の会話、声のないキャッチボール。席が隣同士だと、彼女はたまに、こういう小さな紙を渡してくる。その中に、わたしに向けたメッセージを託してくる。内容は9割以上がくだらないことで、それなのに捨てられなくて、部屋にあるわたしの机の抽斗は、今やちょっとばかりの惨状を呈していた。思い出してわたしまで笑える、それは笑顔じゃないけれど。ただの、自嘲だけれど。
 でも隣の席でよかったなんて一瞬でも考えてしまった、偶然じゃないくせに。先週行われた席替え、そこには小さな不正があった。でも林さんはだって、石白くんの隣がいいって言ってたから。別にわたしが持ちかけたわけじゃない、彼女の隣のくじを欲したわけじゃない。ほんとは全部言い訳、わかってる、林さんの持っている番号が19番だったから、後方席で喜んでいる純の隣だったから、わたしはするりと自分の7番を渡したんだ。





「ね、ね、手紙見たよね! 今日は、ハロウィンなんだよ、るーちゃん! トリックオアトリートっていう発言で誰にでも悪戯が仕掛けられる素敵な日だよ!」
「うんと……大分解釈が間違ってるって言うか、その、それ、そんな怖い脅し文句だったっけ?」
「ふっふっふ、甘いね。るーちゃんが今日を忘れていたように、日本人にはちょっと疎遠な行事だから、今日に備えてお菓子を持ってきている人は少ないはず! だから今日はこの純さん、悪戯し放題!! たとえばぁ……そこの中嶋さんっ、ちょっとストップ! 私のためにストップ! トリックオアトリートだよっ!!」
「あ、うん、一応作ってみたんだけど、お口に合うといいな」
「まーじでー! いやいや彼方ちゃんが作ったものなら何でも合いまくるって! ちょー嬉しいです、さんくす……って、ちょっとー!! なにそれ、なんなのそれ!!」
「……うん?」
「純、純ってば、中嶋さん困ってるから、凄く困ってるから……」
「いーやーだー!! 悪戯したかったのに!! 悪戯とかこつけて女子同士にしかできないめくるめく世界を広げてみたかったのに!!」
「……えっと、私、なにか悪い事したのかな」
「ご、ごめん、気にしないでいいから、ほんと気にしないでいいから」

 何がそんなに楽しいのか、昼休みになった瞬間異様なはしゃぎ具合を見せた純。彼女がこれ以上他人に絡む前に、とりあえず教室の席、わたしたちの席まで引っ張り戻す。たまにというか、常時というか、彼女の会話のペースについていくことは困難だ。こればっかりは、いくら付き合いが長くても上手くやれている気がしない。わたしの場合その上に、会話の合間見せる弾けるような無邪気さをもった笑顔やなんかに見惚れてしまうから、余計だ。

「もう……じゃあはい、次るーちゃんね」
「え?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ちょっと、るーちゃん、なに沈黙返ししてるの」
「なに、って……なに?」
「手紙読んだでしょ!! なに、焦らしプレイ!? るーちゃんそんな悪女になっちゃったの!?」

 それ以前に、純が一体どこでそんな言葉を覚えてくるのか知りたいよ――と返したら、なんとなく状況が進行しない気がしたので、飲み込むことにする。純の頭の中では、次、というのがちゃんと意味を持った言葉なのだ、わたしがそれを理解できないのは、純の中での思考過程を理解していないから、か。こういう考えに辿り着くのは、ある意味では付き合いの長さによる慣れだな、と思いながら、何かをうずうずと待っている純を見て、少し考える。
 ええと、だから、手紙。ハロウィン。お菓子を持ってきたから。中嶋さんへのトリックオアトリート不発、それから、次はわたしの番。

「えっと、純」
「んっ、なんだいなんだい、るーちゃん!」
「トリックオアトリート?」
「よくぞ言ってくれましたぁっ!! 見て見てこれ、可愛くない!? 可愛すぎない!? 可愛いランクゴールドじゃないっ!?」

 どうやら彼女の満足がいく解答を導き出したらしい、先ほどまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、純は眩しいくらいの笑顔で鞄から一つの包みを取り出す。椅子を少し引いて、彼女の机まで近づいた、そうして机の上に置かれた包みの中を覗き込んだ。彼女のものではない、ほかの甘い匂いが、優しく鼻腔をくすぐる。
 包みの中身はココアとプレーンのクッキー、純が興奮しているように、一つ一つ形が凝っていて、確かに可愛かった。成分表示のシールがあるあたり、どこかの店で買ってきたものらしい。別にシールなんて確認しなくても、恐らく純が作ったんではないんだろうな、ということくらいは予想できるけれど。純の料理の腕の話はしないでおこう、誰にでも向き不向きがあるものだ。

「ね、食べよう食べよう!! るーちゃんと一緒に食べようと思って買ってきたんだよ、朝!」
「朝……あ、だから今朝居なかったんだ」
「そ、びっくりさせようと思って。ね、ね、食べてみて食べてみて!」
「えっと……うん、いただきます」

 朝が弱い彼女だから、待ち合わせに現れないことも日常茶飯事、それはそうだったんだけど。今朝もそう思っていた自分が、少し憎い。今日のこと、もっとちゃんと知っておけばよかった。
 たまに彼女はこういうことをするのだ、こういう、私には全く予想も出来ないようなことを、するのだ。それで私は、こころがまた、縛られてしまうのだ。ずるいよ、純はずるい、いつだってずるい。わたしのことなんて、そんなに見てもいないくせに。彼女はまるで知らないくせに、わたしが一番嬉しいことをする。無意識や無関心はいつだって罪だ。だから悪いのは彼女だ、そんなひどい理由を付けて、心にぽっと灯がともるような、その異常さから、わたしは目を逸らす。ぎゅっとして、ぎゅっとして、そうだというのに、どういうわけかわたしは温かいような気がしてしまう、錯覚のような、幻のような、淡いそれ。
 わたしはそれにどんどん捉われてしまう、そして彼女はいつだって無意識なのだ、何も知らないうちに、彼女はわたしをがんじがらめにしてしまう。純はそんな、自分勝手で、それなのにどこまでもあたたかい魔法を、わたしだけに使うんだ。

 また手が震えてるのを押さえつけながら、わたしは純が嬉しそうに差し出してくるクッキーを一枚手に取った、食べるのが勿体無いくらい可愛い、ネコの形。
 ココアパウダーが練りこんであるのか、黒猫だった。齧るのもなんだかかわいそうな気がしたので、一気に一枚食べてしまう。

 途端、ふわり、と、優しい味が口内に広がった。


「……あ、美味しい」
「でっしょー!! いや、ここの店のお菓子美味しいんだよほんと!! 最近良く食べるようになったんだけどさ」
「へえ……なんてお店?」
「んーっと、御園3丁目のでっかい交差点曲がったとこにあるんだけど。"トルテ"ってお菓子屋さん」

 言いながら彼女自身も一枚口にしていた、体いっぱいでんーおいし、なんて満足している純。聞いたことのないお菓子屋さん、わざわざ朝から買ってきてくれたクッキー。甘くて優しい味は、まるで彼女みたいに、そっと舌先から、わたしに染みこんでいく。そうしてまた、わたしを一杯にするのでしょう。

 もう抜け出せないことも逃げ出せないことも知っている、ただどうしたらいいかだけがわからない、そこには出口がない、わたしはそれを持ってない。限りなく出口には近づけるのに、そこから抜け出すことが、わたしは絶対にできないのだ。生まれ変わりでもしない限り、それは、絶対に。だから諦めたり、蓋をしたりしながら、わたしはただその場で溺れ続ける。純がいるなら、まだそこに純がいるならって。
 言い聞かせてきたはずの言葉はいつの間にか願いの言葉になっていた、願いの言葉は祈りの言葉になっていた、純にここに居てほしいから。もしもの話わたしが無理に出口を目指してしまえば、彼女はきっと居なくなる。友達の先がないわたしたちなら、それはぷつりと途絶えてしまう。だからいくら彼女に縛られたとして、わたしはもう、出口を探したりは、しないのだ。
 小さくて、でも切実な決意と一緒にわたしは一枚一枚クッキーを飲み込む。飲み込む。飲み込む。

 それからわたしたちは、昼休み中ずっと、結局英語の30ページはいつやるんだろうとか、そういえば数学は小テストだったとか、部活はどうするとか、そういう他愛ない話をした。手に手にクッキーをとりながら、たまに声をかけてくる友達にも分け与えながら。クッキーがなくなるたび時間が一つ流れていくようだった、じゃあなくならなければいいと思った。彼女と居る時間だったらずっと続けばいいのに、クッキーの中身がなくならなければいいのに、あと三枚、あと二枚。時計が動く。

「あ……これで最後かあ、ちぇっ」
「結構中身あったね。わたしもう、おなかいっぱいだよ……」
「……私はもうちょっと食べれたもん。るーちゃんは小食だからなぁ」
「そ、そうかな? あ、最後は純が食べなよ、買ってきたんだし」
「ん、んー……」

 あと一枚、最後のクッキーを手に取った純は、それをなぜかこちらに差し出してきた。


「え……な、に?」
「……るーちゃーん、私の数年間にわたる躾の意味はなんだったのさぁ」
「し、躾? されたっけ、そんなの……」
「しょーがないなぁ、もう。純さん優しいから、直球いってあげるよ」


 ――あれ。


 わたしはふと違和感を感じた、そんなにはっきりしたものじゃない、きっと普通だったら見逃してしまう、でも確かにそこにある、ひずみ。純の表情にすべて名前をつけたことなんてないけれど、せめて彼女がどんな顔をして笑うかくらいは知っているつもりだった、それは覚えてるつもりだった。だけど目の前の彼女が今している、口元をゆがめた顔は、わたしの記憶、というよりもっと根っこの部分に染み付いているそれと、一致しなかった。
 ねえ、純は、こんな顔、するっけ?


「あーんだよ、るーちゃん。口開けて」


 ねえ、純はこんな、壊れそうな顔で、笑ったっけ。
 疑問は口に出せないまま、わたしは頷く代わりに小さく口を開けた、わたしにとっては躊躇うべき行動だったのに、そのときはそこまで頭が回っていなかったのだ。指先で弄ぶように、純はクッキーをわたしに咥えさせた、たべさせたかった、のかな。多少混乱している頭は、ぼんやりとそんなことを考えて。
 彼女はその笑顔のまま、今にもひび割れていきそうな笑顔のままで、囁くように、ねえ食べてよ、と言った、教室のざわめきが少しだけ、遠い。わたしはその言葉に操られたように、人形みたいな仕草でさくりとクッキーを噛んだ、小さな欠片が甘みを、毒のように、舌先へと体へと広げる。
 純はわたしに食べさせたかったのかとわたしは予想したけれど、それはどうやら外れていたらしく、彼女はただ一口食べさせたあとはクッキーをわたしから取り上げた。そして、小さく書けたそれを見つめながら、妙に揺らいだ瞳で見つめながら、呟く。

「ねえ、るーちゃん」
「……ん?」

「トリック・オア・トリート?」

 少しだけ、かすれた声だった。細くて弱い声だった。まるで、届かないようにって願ってるみたいな。
 変だった、確かにそのときの彼女の様子は変だったんだ、まるでいつもの純じゃなかった、元気で奔放で、なににも縛られていない、いつもの純じゃ。だけどその声があまりに弱かったから、あまりに細かったから、聞いてしまった私は、答えざるを得なかったのだ。

「お菓子、持ってないよ、わたし」
「そ。じゃこれ、もーらいっ」

 言って、わたしが一口だけ食べたクッキーを口に放り込んだ彼女は。

「おっとぉ、次体育じゃん!! 行こうるーちゃん、みんなの下着晒し大会が始まっちゃう!!」
「着替えがそんな卑猥な大会だとは知らなかったよ、純……」

 まるでいつものような顔で、笑ったのだ。







 そのあと数日経って、日曜日、どうしてわたしが「トルテ」という名前のお菓子屋さんを捜しに出掛けていたのかといえば、正直なところは、よくわからない。彼女に貰ったクッキーの甘さがいつまで経っても舌先に残っていたからか、それとも、結局悪戯もされなかったがろくにお菓子もあげなかったからか。ただ理由を考える前にわたしはなにか、引っ張られるように家を出ていて、気がつけば電車を二つだけ乗り継いで、彼女の言っていた町まできていた。

「御園3丁目、の、交差点……これかな」

 田舎なせいか人通りの少ない交差点を一人横断しながら、彼女が言っていた店の名前を探す。一応何かを売っているのだから、それなりにわかりやすい看板はあるはずだ。少し肌寒いのに軽く肩を震わせながら、交差点の角をひとつひとチェックしていく。どの角かは聞いていないので、とりあえず虱潰し。
 と、その日は少しだけ運でも良かったのか、二つ目の角を曲がった時点で、綺麗な筆記体で「Torte」と書かれた看板を見つけた。なるほど、あのクッキーにふさわしいというか、可愛いもの好きならたまらない外装だ。そうでもないわたしですら、なんだか入りたくなる。
 店先には小さな庭でもあるみたいにたくさんの花が飾られていた、秋でもこんなに綺麗な花が咲いてるのか。小物なんかにも凝ってあって、思わず見入る。そして花の向こうにある、緑のロッキングチェアーには、店員さんだろうか、人の良さそうなおばあさんが座っていた。大きな本を膝の上に広げて読んでいたおばあさんは、わたしに気がつくと、被っていた小さな帽子を取って、くしゃりとした笑顔で軽い会釈をくれる。わたしもあわてて礼を返した。

「いらっしゃいませ。初めてのお客さんかしら」
「えっ、あ、はい……その、友達に聞いて」
「まあ、そうなの? どうぞ、ゆっくりしてらしてくださいね」

 終始優しい笑顔でゆっくりとそう語りかけてくるおばあさんにぺこぺこ返しながら、わたしは店の扉を開いた。少し古めかしいドアベルの音。内装は少し落ち着いた雰囲気で、だけど悪戯心も少し混じったディスプレイにまた惹かれた。しかも奥にはいくつか椅子とテーブルがある。メニューには紅茶の名前が羅列してあって、多分、買ったお菓子と一緒にここでお茶が飲めるんだろう。わたしはお菓子を眺めつつ、店の中を見渡した。並ぶ可愛いお菓子たち、どれも純は好きそうで、これはなにを買おうか迷いそうだ。幸いそこまで値段が張るものばかりじゃなかったのでよけいに。財布と相談もできない。
 これなら彼女も一緒に連れてくればよかったな、でも日曜日に純が暇かどうかなんて、わからないから。学校帰りに寄るには、少し遠かったし。でもどうせなら純が食べたいものをあげたいし、今度一緒に行くように言ってみようか。考えると少し焦る。どんな言葉で誘おうかなんてことを真剣に考え始めてしまう。どんなって、ふつうでいいんだよふつうで、って笑い飛ばせる自分も、ちゃんといるのに。いつからだったかな、話しかける前だって、勇気が必要になったのは。光に近づけば近づくほど影は濃くなっていく、時を重ねれば重ねるほど蓋をしたいことは増えていく。揺れるわたしを、わたしは毎日、綱渡り。

 でもとにかく誘ってみよう、こんなに素敵なお店ならわたしももう一度行きたいし、きっと勇気も出るはずだから。余計なことは、頭を振って忘れてしまおう。だからとにかく今日は、せっかくきたんだし、純と来たときの予習でも、って、考えて。

「何かお探しでしょうか?」
「あ、えと……っ、え?」
「はい?」

「え、あ……」

 考えて、初めは、考えてたからだと思った。
 さっきから純のことばっかり考えてたから、だからだ。だからそう、これは、わたしが異常だから、見間違ってしまっただけで。
 笑っちゃいそうなくらいめちゃくちゃなことを考える、でもそのくらい、目の前のことはわたしにとっては驚くべきことだったのだ。

「あの、なにか?」

 わたしがあまりにも食い入るように見つめていたからか、そのひとは、笑顔を少し困ったような色に変えて、そう尋ねてきた。傾いだ首にかかる黒髪。笑顔の作り方。
 違う、これ、似てるとかいうものじゃ、もうない。

「……純?」

 そこには、純みたいな、純にそっくりなひとが、にっこり笑顔を浮かべながら、いたのだ。






 目の前、おそらく制服であろう緑のエプロンを身につけていた店員さんは、わたしにとっては、見覚えがありすぎるほどあった。彼女は純にそっくりだった、いや、もう、純自身だと思えた。大別すれば似てる顔とか、そっくりさんとか、そういうもの以上の一致。違うとしたら、物腰くらいか。いつも元気いっぱいな彼女からしたらその人はやけに落ち着いていた、でも純だって店番中あそこまで元気よく客に絡むことはないだろうし。
 しかし店員さんは首を傾げたままだった、その瞳の中には疑問の色しか伺えない。わたしの呼びかけに彼女は返答しない。なんか、混乱してきたぞ。

「え、あの、純……です、よね?」
「いえ、違いますけど」
「え、えええ……?」
「ああ、もしかして」

 すると彼女は、まるで純本人みたいな彼女は、ぽんと手を叩いた。

「姉のお友達ですか?」
「は……あ、姉……?」
「そうか、なるほど、納得です。それなら仕方ない」
「え、あの、ちょっと、どういう?」

「あ、申し遅れました。私、皆川純の双子の妹で、蓮といいます」

「ふ、双子……?」

 聞いたことなかった、そんなの。ミナカワレンという名前もだが、双子の妹がいたなんて話も全然。第一純の家に遊びに行ったときは、妹なんて影も形もなかった。明らかにあれは、父母と一人娘、それから祖父の四人家族しか暮らしていない家だったと思う。何度か行ったことがあるから、それくらいははっきりわかる。というように、わたしがあまりにも訝しげな顔をしていたからか、皆川――蓮さんは、私だけ県外の中学に通っていたんですよ、というようなことを口にした。

「高校は、この近くの女子校に通ってて……下宿しながら、ここでバイトしてるんです」

 言われてみれば確かに、ここからうちの高校までは距離がある。だからここで純がバイトするのは、不便すぎるとは思ったが。それにこの付近に女子校があるのも、本当だ。なるほど中学から別々に住んでいたなら、まあ、話を聞かなかったり姿を見なかったりするのも、あり得るといえばあり得るのだろうか。信じ難い話だが。

「あ、もしかしてまだ信じてません? んん、一卵生にしても似すぎだもんな、私と純って」
「はあ……似すぎっていうか、本人、ですよね、もう」
「もう、違いますってば。私、姉ほど奔放じゃないですし……あ、そうだ、ちょっと待っててくださいね」

 言って彼女は一旦店の奥に消えていくと、またすぐぱたぱたと戻ってきた。それにしても自由な職場だ、そう混むわけでもないらしいが、こんなに客と雑談するとは。先ほどから彼女以外の店員が見あたらないので、おそらく店先にいたおばあさんが店長さんなのだろうか。なら、少々ルールが緩いのも頷けはするが。などということに思いを巡らせている間に、戻ってきた彼女がなにをしていたかと言えば、手に持った携帯でなにやら操作していた。桃色の携帯だ。ミサンガのストラップが一本。純が持っているのは空色のはずだし、確かストラップがジャラジャラついていたはずだから、見間違えようもないけれど。

「はい、これ。これで、信じてもらえます?」
「あ……え、あ、これ、純だ……」

 見せられたのは、一枚のプリクラ。そういえば最近のは携帯電話にも画像を転送してくれるらしい。撮りに行かないから知らないけれど。純は連れて行きたがっていたけれど。画面に映っているのは「じゅん」「れん」などと落書きが踊っている一枚で、それぞれの名前の上で、全く同じ顔のように見えるが、確かに二人が、違う表情で写っていた。不機嫌そうにしている純と、まるで同一人物みたいだが、笑顔にしているもう一人。なるほど、こうして見れば、顔は本当に同じだけれど、雰囲気は全く違う。
 信じてもらえましたか、と携帯を仕舞いながら笑う蓮さんは、確かに純の影は感じさせるけれど、その笑顔は、純が決して浮かべたことのない、穏やかな微笑みだった。いくら良く似た双子でも、生活そのものが違えば、雰囲気くらいは違いが出るものだという。それを感じさせる笑みだった。これはもう、疑う必要がないようだ。わたしはそう判断して、目の前の彼女――蓮さんの質問に答える代わりに、こんな言葉を発することにした。

「……お姉さんの好きなお菓子って、どれですか?」

 蓮さんは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐわたしの意図が伝わったらしく、信じてもらえてよかったです、と言ってから、純が好きそうなお菓子を、教えてくれた。





「プリンか……うん、いいかも。じゃあ、これください」
「はい、ありがとうございます……昔ですけど、純ったらいつも私の分まで食べちゃってたんですよ、プリン。ひどいですよね」
「ふ、あはは……純らしいな、なんだか」
「そうかもですが……」

 言いながら彼女はわたしが注文したプリンを丁寧に袋に詰めてくれた、慣れた手つきだ、ここでの勤務は長いのかもしれない。120円、はなかったから百円玉二枚を財布から取り出しながら、お互いレジの前に立つ。この店オリジナルの袋、これも可愛いですよね、と言いながら包んで。80円のお釣りをレシートと一緒に手渡して、わたしが帰ろうとする前に、彼女はそうだ、と思いついたように呟いた。

「少し時間、あります?」
「え?」
「お茶、飲んでいかれませんか。おごりますよ、私。純から、たくさんあなたの話、聞いてたので。一度話してみたいと思ってたんです。あ、もちろん私は店番しながらなので、そちらには座れませんが……そう混み合ったりすることもないし、オーナーはああですし。ね、どうですか?」
「……じゃあ、少しだけ」

 思わずわたしがそう返してしまったのは、別に奢られるものならなんでもって思ったのでは、なく。元から紅茶にこだわったりするタイプではないし、コーヒーも飲めないし。そうではなく、ただ、気になった。気になってしまった。純はわたしのこと、どういう風にこのひとに話したんだろうなんてことが、気になってしまったから。
 純はわたしが思うほどわたしに興味を持っていないことは知ってる、だけどやっぱり、彼女の中に居るわたしを少しでもいいから見てみたい。彼女はわたしをどういう風に移しているのかが少しでいいから知りたい。大丈夫、誘ってもらったのに答えたんだから、寧ろいいことだよって懸命に言い訳する。求めすぎないように。欲さないように。手を伸ばしてしまわないように。例え崩れかけた、無駄な言い訳でも、それはわたしにとっては必要な儀式なのだ。大事にされていることはいつだってくだらない。

 嬉しそうに笑って、じゃあ最高の一杯をお持ちしますね、なんて言いながら彼女はまた店の奥へとぱたぱた歩いていった、わたしは窓側の席に腰を下ろす。重たい鞄を脇に置いて、深くひとつ息をした。町はどこか静かで、世界は騒がしい。サボテンが飾ってある窓、柔らかな日差しが差し込んでいた。








 

 

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