彼女とあたしの五のレッスン




 落ちてしまうのが怖いなら、空を飛びたいなんて思わなければいいのに。

 蕗姉とあたしがまるで姉妹のように育つことになった要因といえば、親同士にもともと付き合いがあった、ということと、その両方の親が両方ともシングルマザーで忙しく、あたしと蕗姉がいつも児童施設でほったらかしであった、ということの二つが挙げられるのだろう。
 でも、どうかな。もしそうでなかったとして。あたしはたまにぼんやりと考えることがある。もしあたしと蕗姉がぜんぜん別のところで、別の出会い方をしていたとして。

「わたしは、ふき。小中井蕗。あなたのお名前は?」
「なるみ……おおば、なるみ」
「鳴海……じゃあ、なるちゃん、だね」
「なるちゃん?」
「そう、なるちゃん。ね、なるちゃん、わからないことがあったら、なんでも聞いていいからね」
「なんでも?」

「うん、なんでも。なんでも、教えてあげる。」

 そうだとして、あの柔らかな笑みでふくふくした手を差し出されていたら、それでもやっぱりあたしは、その手を握って、そして離さなかっただろうと思う。ずっと離せなくなっていただろうと思う。例えば、それから今までのように。
 当時四歳だったあたしにとって八歳の差というものがどういうものか正確な想像ができるはずもなかったけれど、結果的にはそうやってわけもわからないまま、十二歳の蕗姉が声を掛けてくれたあのときから、あたしの中で蕗姉はある種絶対的な存在になっていたのだと思う。もちろん、とろんと垂れた目元だとか、ゆるく垂らしたサイドテールだとか、ふっとこちらを見つめたときの柔和な笑い方だとかからは、絶対的な、なんて強い表現は似合わないようでもあったけれど。
 ひとを引っ張っていくタイプのお姉さんではなくて、ひとを包み込むタイプのお姉さんだった。そう記憶している。もっとも、彼女がお姉さんとして振る舞ったのはあたしの前でだけだったらしい、が。もうそんなのは、確かめようのないことになってしまったのだろう。絶望というにはあまりにぼんやりとした、無形の寂しさから、あたしはたまに、抜け出せなくなる。
 蕗姉の与えてくれるそれは、ゆるい首輪とよく似ていたのかもしれない。ゆるくて弱いゴムの首輪と、とてもよく。抜け出そうと思えば抜け出せたかも知れないのに、あくまでも優しくまきつくそれはあたしをちゃんと捕らえたままで、あたしも或いはあたし自身の意志で、それに捕らわれ続けるのだ。

「ん、どうかしたの、なるちゃん……?」
「あ。や、なんでも……なんでも、ない」
「そう……? あの、いやだったら今日はもう、やめる?」
「ううん……いやじゃ、ない、ないから」

 おねがいだからやめないで。そこまでは言わなくても、蕗姉には伝わってしまったようだった。幼ななじみというのはこういうところが便利で、そしてとてもめんどうくさい。蕗姉はそう、ととても優しい声で言って、ちからぬいてね、と続けた。白いシーツの上に広がる蕗姉の黒髪はほんとうにきれい。できるならそれだけ考えていたいのに、どうして今日は、こんなに昔のことをたくさん思い出してしまうんだろう。
 蕗姉のうっすら汗ばんだ肌に吸いつくみたく身体を寄せて、あたしはちょっと頭を振りたくなった。そうすると蕗姉の大きくて柔らかな二つの膨らみが思い切りあたしのことを押しつぶして包み込んでくるから、ちょっとだけ頭は白くなってくれるのだ。考えたくないことがたくさんある。そういうことはあれからずいぶん増えてしまった。きっとそれほどには大人になってしまった。まだまだなるちゃんは子どもだよって、なんにも変わらないみたいな顔で蕗姉は笑うけれど。確かに十八歳は大人じゃない、でも、まるきり子どもってわけでも、ないんだよ、蕗姉。
 さっき足でストーブをけっ飛ばして消してしまったから室温は下がる一方なのに、そしてあたしたちはお互い一枚も服を着ていないのに、真冬の夜、あたしたちは暑くてしょうがないみたいに汗をかいていた。さっきまで辿っていた思い出とは異なってふんわり毛先がカールしている横髪が、彼女自身の首筋にぺったりと張り付いている。それに魅入られたように額を押しつけたら、くらくらするほど濃い蕗姉の匂いがした。

「ふッ……ん、ぁ」
「ん、いたい……?」
「ううん、っ、たく、な……ぁうっ」
「あ、ここ……?」

 蕗姉はとにかく「あてる」のがうまい。病的にうまい。蕗姉の手つきはいつもとても穏やかで、激しさなんてちいとも感じられないのに、あの柔らかな指で弱いところをくすぐられるようにかき回されると、あたしのお腹の奥あたりは、きゅうきゅうと切ない痛みをおぼえてしまうのだ。
 吸った息が飲み込みきれないままかってに吐き出される。けものかなにかみたいな浅い呼吸。それは蕗姉のむき出しの肩にふわっとかかってから、そのままあたしまで跳ね返って降りかかる。そういう骨ばってしかるべきところだって、蕗姉はなんだかとっても柔らかそうだ。自分の吐息の温度で半分とろけた頭で、そんなことを考える。もっともその直後、蕗姉の指がそっと奥まで押し込まれたので、あたしはちょっと、それどころでは、なくなったのだけれど。

「わかる……?」
「わか、っあ……! ふ……ふき、ね、もっ……あ、たし」
「うん……じゃあ、いくよ?」

 ほら、つかまって。蕗姉の手がいつものように差し出される。辿った記憶のものよりもだいぶ大きくなって、だけどその柔らかさと温度はいつまで経っても変わらない。なじんで、なじみすぎて、もう半分あたしの中に溶け込んでしまったみたいな蕗姉の手。でも今はすっかりぬかるんだ口で一所懸命蕗姉の指をくわえこんでいるのだから、比喩じゃなくそういうことになっているんだろう。自分の思考に自分で赤面する。羞恥がお腹の中のさざめきを強める。泡立ってるんじゃないかってくらい熱を閉じ込めてぱんぱんになったような肌の上を、流れ落ちてきた蕗姉の髪の毛先がちょんとくすぐった。

「ちゃんと、おぼえててね」
「ひっ……んぅ、あ、あっ!」

 もう何度目になるのだかぼやけてしまった台詞をホワイトアウトする意識の奥で聞きながら、あたしはその一瞬、蕗姉の柔らかな手を壊してしまいそうなほど強く強く握った。達するときはいつもそうで、終わった後に見ると蕗姉の手の甲にはあたしの爪の後がくっきり残っていて、ひどいときは血まで滲んでいることだってあるのだ。それが申し訳ないから握るのはやめようと思うのに、そのたび、そのたび、同じことを繰り返している。それはきっと手を離せないというだけではなくて。
 でも、だって、ほんとはそうしていたって、やっぱりこわくって。自分のものじゃないみたいに弓なりに反る身体をもてあましながら、しびれたように震える足先をぎゅっと丸くしながら、あたしはぼんやりとひとりぼっちになる。わかるかな、わかったかな、ちゃんとおぼえててね。蕗姉の声がこだまする。最中ただの一度も、なるちゃん、とは呼んでくれない蕗姉。抱きしめられているはずなのに、まるでひとりきりな気分のあたし。さびしいあたし。レッスンの時間は、もう、終わり。
 でもそれは、しようのないことなのだ。もう、どうしようもないことなのだ。これはすべて蕗姉にとって「わかるため」のもので「おぼえるため」のものでしかない。でも、もう、どうしようもないことなのだ。のぼりつめた後の倦怠感を泥のように引きずったまま、あたしはどうにか汗だくの腕を、口元を押さえるような形で持ち上げる。瞬きをしたらいつの間にか瞳を濡らしていた涙がはたりと落ちて、蕗姉はあくまでも優しい手つきでそれを拭ってくれた。
 蕗姉の手はとてもあたたかい。そしてすごく綺麗だ。ねえでも、もう一滴手を濡らしたのは違う意味の涙だったってこと、蕗姉はきっと、気づいてないよね。

「っ、は……はぁ、はぁ、ぅー……」
「あ、だ、大丈夫、なるちゃん……?」
「ん……だいじょぶ、へーきだよ、蕗姉」

 もう今日の分のわがままはきっと使い果たしてしまったろうから、あと一回だけキスしてくださいなんて、言えるわけもない。ほんの小さなことでもよかったといいながらふわりと笑える蕗姉は眩しくて、垂れた目元を覆うしっとりと長いまつげが、とても綺麗だと思った。
 やわらかそうな肩から流れ落ちてきた髪が、まだむき出しだったあたしの肌をくすぐる。

「身体、つらくない? 少し寝ておく?」
「ううん、起きれる……う、っしょ」
「よしよし、えらいね、なるちゃん。じゃあそのまま、シャワーね。汗たくさんかいたから、気持ち悪いでしょ?」
「ん、あんがと、蕗姉」

 蕗姉はあたしの両肩に、自分のものであろうワイシャツを羽織らせて、それからバスタオルとフェイスタオルを握らせた。額に熱なんてちいとも感じさせない唇がほんの一瞬だけ触れる。慈しむというのが、きっと見合う形の情。

「いい子。いってらっしゃい、なるちゃん」

 そのままそっと頭を撫でられて、思うに、蕗姉にとっては記憶の中のあたしも今のあたしも、同じかたちをしているのだろう。押し殺したかった本当が、喉笛に噛みついてくる。
 残酷なほどに甘い疼きの残る身体を冷たい水に晒しながら、あたしは何度も何度もわかっていたことを、それなのに何度も何度も期待してしまうことを、また噛みしめる。浴室にもバスタオルにも蕗姉の匂いが充満していて、あたしはむせかえるような気分だった。わかってる、わかってるよ。蕗姉だけが、はじめから何も変わってない。

「ああ――また、やっちゃった」

 ねえでも、なんでも教えてくれるっていうのは、いくらかひどい言葉だったと、思ってしまってもいいですか。



 蕗姉と会ってから程なくしてあたしは児童施設に通わなくなった。それはあまりあたしにお金を掛けたくないと思った母親の意向でもあったのだろうが、別段その件について不満があったわけではない。だってあたしには蕗姉がいた。同じく母親に言いつけられでもしたのか、中学にあがっても高校に上がっても何の部活もせずにまっすぐ帰ってきて、近所に住むあたしの家のチャイムを鳴らしてくれる蕗姉がいた。だから。(ちなみに、それが現在のような同居状態に移行するまでだって、大した時間はかからなかった。)
 多分にあたしも蕗姉も母親から放棄されていて、だけどそれはあたしたちにとっていくぶん幸せなことだったのだろう。あのときはまだ子どもだった蕗姉と、子どもどころか自我も芽生えきっていないようなあたしの二人ともが、およそそのころ考え得る限りもっとも大きいであろう親の保護という枷を付けていなかった、そういうことになるのだから。

「んん……蕗姉、ここ、ここわかんない」
「どれ? ああ、ここの計算はね、」

 そして蕗姉は、宣言通りといえばいいのか、聞けばなんでも教えてくれた。単なる年齢差もあったろうが、蕗姉はそれ以上に博学で、それこそ幼い頃のあたしがなんでも知っている人、という印象を持つのにそう時間はかからなかったと記憶している。だからあたしだって何でも聞いた。勉強、運動、本の読み方、生きていくための知識のすべて。
 小学校に通うようになってから友達連中に蕗姉のことを話すと、お姉ちゃんって言うよりお母さんだね、という指摘をよく受けていた気がする。それは、半分は正しかったのだろう。毎日のご飯を作ってくれたのも、怖い夢を見たとき一緒に寝てくれたのも、休日にショッピングに連れて行ってくれたのも、およそすべての思い出には柔らかに笑う蕗姉が隣にいた。色んなことを教えてくれながら、あたしの手を引いてくれていた。

「うええ……っ、ふ、蕗姉ぇ……」
「どうしたのなるちゃん、そんなに泣いて……あ、手、どうかしたの?」
「き、きっちゃっ、て……ど、どうしよう、血、止まんないぃ……」

 怪我をしたときだって、そばにいたのは蕗姉だった。恥ずかしい話、あたしの泣き顔を世界中の誰より知っているのはもしかしなくても蕗姉だろう。そのときだって、鼻水やなんやでぐちゃぐちゃだったあたしの顔を、ポケットから取り出したティッシュでさっと拭ってくれた蕗姉は、あたしが泣きながらぎゅうぎゅう抑えていた手をとってくれた。
 そうして、何で切ったのかはもう覚えていないが、ともかくその時点ではまだ脈打つように痛んで血が溢れていたそこを、蕗姉はなんの迷いもなく咥えたのだ。あたしはかなりびっくりしてしまって、泣くのも忘れてしまった。
 まあもしかすると、びっくりさせて泣きやませるっていうまでが蕗姉の計算だったのかもしれないが。確かめたことはないけれど、それ以降も手を怪我するとよくこうして治療されたから。あたしがぽかんとしている間にも蕗姉は血が止まるまでその治療を施してくれた。そうして終わると、いつもの柔和な微笑みで、手は大事にしないとだめだよ、と言うのだ。

「ん……はい。どう、なるちゃん?」
「あ、うん……えっと、だ、だいじょぶ!」
「うん! いい子ね、なるちゃん」

 いい子、というとき蕗姉は必ずあたしの頭を撫でてくれるから、あたしはそれが、小さい頃からとても好きだった。だってそうすると少なからず蕗姉はかがむことになるから、その拍子に揺れたサイドテールから、蕗姉のとてもいい匂いがするのだ。
 そしてそれを思い出すたび、記憶の中というにはあまりにも鮮やかすぎるその匂いを思い出すたび、友達が言っていたことはやっぱり半分正しくて、でも半分しか正しくなかったのだろうとあたしは確信する。時間が経って、十八になって、考えたくないことがたくさん増えた。それだけ、わかってしまったことも増えたから。

「なるちゃんって、」
「うん?」
「小さい頃からそうやって、わたしの髪をいじるの、好きだよね」
「んー……そだね。ね、蕗姉、結んでみてもいい? どうせ今から寝るんだし、括るでしょ」
「いいけど、編んだりはできないよ? わたしの髪、変な癖ついちゃったから」
「そ? 毛先カールしてんのって可愛いと思うけどなぁ。なんか蕗姉によく似合ってる感じ、ふわふわーってしてて」

 いつかのあたしの間違いは、今や半分どころの話ではなくなってしまっていたのだろう、多分、おそらく、まちがいなく。つめたい毛先が指の隙間を流れ落ちていったときにふと感じる爽やかな匂い。体育で汗を流したあとの甘酸っぱい匂い。青いエプロンの背中から漂う夕ご飯の匂い。そういうものをその名の通り体で覚えてしまっているあたしにとって蕗姉は、「お母さんの代わり」でも「お姉ちゃんみたいな人」でもなかった。どうしようもなく、そうでなかった。
 酸素だけで生きていけるわけではないなあとおよそ関係ないようなことを考えてしまう自分がいる。あたしが吸い込む空気の中に、最も必要な成分。あたしが呼吸をする理由。どうしてこんなことになってしまったんだろう。いつからこんなことになってしまったんだろう。あたしの中っていうだけでは、最初からかな。蕗姉は言われるがままにあたしに背を向ける。シャワーを浴びたばかりで濡れた髪が、緩やかな曲線を描く背中を覆っていた。

「んん、こんなおばさんに可愛いなんて言ってくれるの、なるちゃんだけだなぁ。嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいね」
「何言ってんの、蕗姉はさいこーに可愛いって。だいたいまだ二十六でしょ、それ自分で言いながら微妙に傷ついてない?」
「あはは、ばれたか。でもそんなの誰にでも言ってるんでしょ、っていうところかな、これは。なるちゃんはもてもてだからねー、きりっとしててかっこいいし」
「それこそ他の誰にも言われたことないよ、あたし」

 でも別に、他の誰に言われなくても。ええ、どうかなあ、とおどけた様子で頭を揺らす蕗姉は、背中を向けているからわからないに決まってる。向かいに鏡があったなんてへまもやらかしていない。髪を結ぶふりをして。滑らかに手になじむ湿ったそれを、まとめあげるふりをして。
 濡れた髪に触れた鼻先がしんと冷たい。胸が苦しい。呼吸が浅くなりそうになるのを必死にこらえてこらえて、できるだけ短い間に、胸いっぱい吸い込む。蕗姉の、におい。

「ひゃっ」
「わ。え、なに、蕗姉?」
「あ、もう、知らんぷりして……なるちゃん、今わたしのこと、くすぐったでしょ?」
「あー……くすぐったわけじゃないよ、別に。くすぐるっていうのは、さ」
「ぅんっ、あ、こ、こらっ、なるちゃ……っ、ひ、あは、あははは!」
「こーいうのを、いうんだー!」

 くすぐったがりな蕗姉が髪を結んでいる途中なのも構わずベッドに寝転がってしまって、追いかけたあたしも一緒に足をばたばたさせるいきおいで暴れる蕗姉をくすぐった。お腹まで寝間着がめくれたままで、蕗姉は涙を流さんばかりに笑っていた。
 こんなに無邪気な顔をしてベッドではしゃいでいるひとが、明日の朝になったらどうしてものんびりした印象になる垂れた目元をごまかすために濃いアイラインを引いたり、足が痛い痛いと嘆く割りにぎりぎりあたしより背が高くなるようなヒールを履いたりして、それじゃあ行ってくるねなんて会社へ出かけていくのだ。そう思うと、なんだかあたしまで笑えて笑えて。

「はー、もう、お腹痛くなっちゃったじゃない、なるちゃんたら」
「蕗姉が変なこと言うのが悪いんでしょー。さ、もう寝ようよ。明日も仕事なんでしょ。あたしは春休みだから、寝坊し放題だけどさ」
「こらこら、勉強はいいの、新三年生。ん、でもそうだね、おやすみ、なるちゃん」
「まだ新学期じゃないし。はい、おやすみ、蕗姉」

 だから電気を消すまでは、それでごまかしきれたと思うのだ。しまったって顔なんて、せずにいられたと思うのだ。胸に残る匂いの残響が、あたしをころしにかかってくる。そんな苦しさを一人で噛みつぶすのになら、もう慣れたから。さっき蕗姉の首元をくすぐったのはあたしの吐息だった、と思う。吸い込んだ以上吐き出さないといけないのは身体構造上仕方のないことで。
 吐き出すそれすらもほんの少しもったいないと考えてしまうあたしは、ほんとのほんとに、どうしようもない。



「ねえ、蕗姉」
「うん? なあに、なるちゃん。受験勉強でも詰まった? 大丈夫だよ、高校入試なんて、そんなに緊張するようなものでもないんだから」
「勉強じゃないけどさ。わからないことは、なんでも聞いていいんだよね?」
「えっ? ああ……すごい、そんな昔に言ったこと、よく覚えてるね」
「いいから。ねえ、ほんとのほんとに、なんでもなんだよね?」
「う、うん、まあ……えっと、どうしたの、なるちゃん……?」
「じゃあ、キスのしかたも?」

 どうしようもなくなったのは最初からだと先刻は言ったけれど、契機があったとすれば、今から三年前だ。あたしは十五歳で、中学三年生で。蕗姉は、二十三歳で。あたしと蕗姉の間に横たわる埋まらない距離を知るには、とてもちょうどいい年齢だった。つまりそういうこと。
 蕗姉は一瞬あたしの言ったことが飲み込めなかったように、ぽかんと口をあけていた。きす、って。ひとりごとのような調子で繰り返した蕗姉は、おそらくは仕事であろう書類をキッチンのテーブルにそうっと置いてから、帰宅したまま鞄も降ろさずリビングに突っ立っているあたしの方に、おそるおそるといったふうに近づいてきた。顔には困ったような笑みが浮かんでいる。なるちゃん、どうしちゃったの、とつぜん。
 ただ、そのおそるおそるといった足取りでたつほんの微かな足音にですら飛び上がるほどびっくりしていたのは、あたしの方だったのだ。浅い呼吸を懸命に飲み込みながら、崩れそうな膝を空っぽの気合で支え続けた。蕗姉がなるちゃん、とあたしのことを呼ぶ。困ったように呼ぶ。その響きが恐ろしかった。あたしを導くために見えないほど前から手を伸ばされているようで恐ろしかった。だから、続きの言葉を、聞きたくなくなった。
 十五歳のあたしは必死だったのだ。必死で、無謀で、馬鹿で、とても真っ直ぐだった。久々と言っていいほど顔を見ていなかった蕗姉の母親が唐突に見合い話を持ってきたこととか、昨日初めて告白された名前もよく覚えてない男子の顔とか、アッコとこの間読んだエロ本のヒロインが蕗姉ととても良く似ていたこととか、のんちゃんが教えてくれた自慰ってやつにこっそり挑戦しようと思ったときに一瞬で浮かんだ顔が馴染み深すぎたこととか、ともかくそういうことを全部抱えてぐるんぐるんになりながらも、あたしは真っ直ぐ蕗姉に向かっていたんだ。
 ただ、曲がり始めたのがそれからだったって、まあそれだけでさ。

「ねえ、どうなの?」
「なるちゃん、でも、それは」
「な、なんでもっ! 教えて、くれるんでしょ……?」
 
 一度なにか言いたそうに口を開いて、そして閉じた蕗姉はきしり、きしり、と床を鳴らして、あたしのすぐそばまで寄ってきた。柔らかに垂れた瞳がほんの少し揺らいでいたように見えたのは、あたしの勘違いだっただろうか。ぐらついているのはどっちかっていったら、あたしのほうに決まっていたから。
 ただそんな時ですら、ああまだ少し蕗姉からは会社帰りの匂いが、煙草と香水と人ごみの匂いがする、なんてことだって考えていたから、あたしってやつはわからない。蕗姉の伸ばした両手が、あたしの頬を包み込む。くいと目線を下ろすことになった。三年前の時点で、あたしは蕗姉よりも目線が高くなりつつあったのだ。
 もっともそうしたらラフな部屋着から覗く谷間に目がいってしまった、のは、その、思春期真っ盛りだったからな、あのときのあたし。あと蕗姉の身体も(主にあたしの)教育上あまりよろしくない成長を遂げていたというか、もともと肉付きの良い方ではあったのだけれども、良くも悪くも年相応だったあたしにはなかなかの刺激だったのだ。

「……わかった。なるちゃんが知りたいなら、教えてあげる」
「あ、う、うん……あ、りがと、蕗姉」
「ただし。」

 だったら言えばよかったかな。そんなふうに、まだ一緒にお風呂に入っていたころからどんどん膨らんでいった胸に目を奪われたりとか、未だに怪我をすると咥えられていた指がたまに触れた舌の感触を忘れられなかったりとか、してるくらいなら。
 もうその時点で、およそ「姉と妹」だとか「お母さんと子ども」だとかいう関係のままでは絶対にいられなくなっていた自分のことを、ちゃんとわかっていたのなら。言えばよかったのかな、あたしさあ、蕗姉とキスしたいんだけどどうかな、って、最初から全部、ちゃんと。

「なるちゃん。ファーストキスは、ちゃんと好きなひとと、しなきゃだめだよ?」

 ――言えばよかったかな、なんて、ふざけるな。
 少し早口でそう言った蕗姉は、ふくふくあったかい手のひらをあたしのまぶたにそっとのせて、目を閉じさせた。その瞬間泣きそうになったのを我慢した。我慢、も、それが最初だったと思う。蕗姉のあまいあまい吐息が、ふっと唇にかかる。とても穏やかな感触が、した。
 穏やかで、穏やか過ぎて、すぐにでも忘れてしまいそう、そんな感触が。

「ん……はい、なるちゃん、」
「もっと」
「え?」
「もっとっ……もっと、教えてよ、蕗姉」

 もうだめだ。もうだめだから、全部だめでいい。投げやりに近い衝動で蕗姉の柔らかい背中を爪をたてるみたいにかき抱いた。あたしにとっては気がつかないうちに切り札のようになっていた言葉を囁きながら。なんでも聞いていいんでしょ。なんでも教えてくれるんでしょ。あたしたちの間にあった、とても優しくて残酷な決まり事。あたしはそれに縋りついたのだ。蕗姉はすっと目を閉じる。わかった、教えてあげる。
 その年齢になればよっぽど綺麗な生活を送っていない限り性知識のあれこれは耳にも頭にも入ってくるわけで、あたしはどちらかというとそういう意味では汚れた方にあったろう(だって、同居人が同居人だ。煩悩いっぱいだよ、もう!)から、その後何がくるかくらいは予想がついた。
 でももちろんのこと、往々にして予想や期待は裏切られるためにある。

「なるちゃん」
「な、なに……?」
「……苦しかったら、ちゃんと、言ってね」
「え……っふ、ぅんっ」

 たとえば傷の治療の時のように咥えられた指先でちょっと感じるだけと、ほんの少しでも身体の中に侵入されるというのでは、根本から話が違った。つまり、蕗姉らしく優しく、だけど確実にあたしの咥内に這入ってきたそれの濡れ方なんてあたしはちっとも知らなかったって、そういうことだ。こんなに、あついん、だ。脳内麻薬がどっと出てくる音を、冗談じゃなく聞いたような気がした。
 そのころにはもう、なんでも知っている人なんて印象を持つほど、あたしも純粋ではなかったけれど。息継ぎのタイミングとか、歯列をくすぐる舌先の遣い方とか、口蓋をちょっと刺激するやり方、とか、いったいどこでこんなってくらい、蕗姉はなんというか、上手だったのだ。経験があったなんて話は聞いたことがないし、実際蕗姉に相手がいたということもなかった。さすがにそれを見逃すほど、あたしもばかじゃない。でもそんなこと考えてる場合でもないほど、あたしは蕗姉の湿った舌に絡められて、溶かされて、どろどろだった。

「んんっ……ぅ、っぷあ、はあ」

 あたしの口の端からだらしなく零れていた唾液を蕗姉はこれで最後というみたいに舐め取って、それからあたしの息が整うまで待ってくれていた。たぶん、そうだと思う。正直もうよくわからなくなっていたのだ、あたしの方はといえばすっかり蕩けてしまっていたから。
 だからそうやって、十分すぎるような「知識」を、蕗姉は発揮してくれていた。見せてくれていた。
 
「……なる、ちゃん?」
「な、なに……?」

「うん……これで、わかった? キスの、しかた」

 見せてくれていた、そして、それだけだった。
 上がった熱が急速に冷えていく。だけどあたしは理解していたのだ。最初から最後まで、あたしはそうするしかなかった。教えてくれるのが蕗姉。教えてもらうのがあたし。役割は、初めからとてもはっきりしている。そしてそれだけのことなのだ。

「……うん、わかった」
「そっか。いい子だね、なるちゃん」

 だいいち、先にそれに甘えたのは、それを切り札にしたのは、他でもない、あたしだったのだし。その切り札を、ゆるい首輪を、繋がるための手段として利用した。蕗姉のいつも包み込むようだった優しさと、あたしの唯一持っていた立場を使った。蕗姉はいつものように優しい笑顔で、いつものように締めの言葉を言って、あたしの頭をそっと撫でる。
 それからあたしの要求する事柄がどれだけエスカレートしていっても、蕗姉は戸惑うことなくすべて優しく「教えて」くれた。あたしが「聞いた」ことはすべてきちんと。だからそう、戸惑っていたのはいつもあたしの方。戸惑って、彷徨っていたのはあたしの方。蕗姉の揺らがなさであたしは揺らいでいた。
 ほんとは困って欲しかった。そんなことできないって、せめて一度でいいから、言って欲しかった。そんなの教えられないよって、いっかいで、いいから。

「わかった。知りたいなら、教えてあげる」

 けれどセックスのしかたを教えてよって言ったときだって、蕗姉はちょっとだけ困ったような顔で微笑んだだけでさらりとそう言うから。あたしはそんなとき、はまったままのゆるい首輪が、ゆるりゆるりとあたしの喉を締めるのを、感じてしまうのだ。
 自分で引っ張っていただけなのかもしれない、でもそんなのわからないし、わかりたくもない。考えたくないことがたくさんある。初めの一回は痛いってしーちゃんも一花も言っていたけれど、蕗姉のはそんなことなかった。自分に同じものが胸にくっついてるだなんて信じられないような柔らかさに埋もれながら(ほんとに埋もれてた、比喩でなく)、あたしは唇だけじゃなくて全身溶かされた。
 蕗姉はいつだっていい匂いで、あったかくってきもちよくて、どきどきして、さいこうのきぶんで。

「いい子だね、なるちゃん」

 だからそれがどんなにか好意を含まないただの空っぽな行為であっても、そのゆるくてとても心地よい首輪から、あたしが抜け出せるわけ、なかったんだ。



 どうしようもないことっていうのはだいたいがとこどうにもならないまま続いていく。自分で自分につけていくどうしようもない傷が間延びした痛みを緩やかに緩やかに積み上げて、もうすぐてっぺんまで届きそう。でもそうやっててっぺんなんてどこにもないのになんて思い返しながら、昨日の夜の熱がまだ残響を残す体を抱えて、あたしは一人台所で洗い物を片付けていた。その日の蕗姉はとても珍しいことに、日付が変わってもまだ家に帰ってこなかったのだ。
 しかして、蛇口から流れ出す水だけが延々と沈黙を作り出していた家の中に、突如として勢いよく玄関扉が開く音が飛び込んでくる。

「なるちゃーん、ただいまーぁ……」
「うわ!? えっ、な、なん、蕗姉……と、こ、こける、こけるってば!」

 そうして玄関先から駆けてくるなり後ろからひとの腰に思い切り抱きつくという所行であたしの心臓を三回くらいひっくり返した張本人は、しかしにこにことやたらご満悦そうな笑みをあたしの耳元で浮かべるばかりであったのだ。さらに抱きついたまま振り回してこようとするのだから、あたしは一人蹈鞴を踏むばっかりで、振り返ることもままならない。
 だがとりあえず腰からお腹辺りに回された蕗姉の腕を見る限りでは、まだスーツのままであるどころか、鞄すらも降ろしていない。それもかなりの異常ではあったが、あたしが明確な答えを得たのはやはり鼻腔からの情報だった(警察犬というふざけたあだ名は伊達じゃない、が、その能力はほぼ一人にしか発揮されないので、このあだ名には頭につく「馬鹿」が省略されている)。
 振り回すのに疲れたのか飽きたのか、ともかくあたしの腰をしっかり捕まえたまま間延びした声であたしの名前を歌うように繰り返し呼ぶ蕗姉。その身体から漂う、ほろ苦い香り。これはもしかして。できればはずれていてほしい予想というか記憶が、頭を掠める。

「蕗姉、もしかして、飲んだ? ていうか飲んだよね? 相当飲んだよね?」
「相当、じゃ、ないよー……ほんの……ほんの、四、五杯くらい……」
「蕗姉は一杯で真っ赤になるタイプじゃん! お正月の御神酒一杯でダウンしてあたし神社から蕗姉のことおんぶして帰ったんだけど!?」
「を、二件くらい」
「ハシゴかよ! 最悪だよ! あああもう、お水、いいからお水飲んで!」
「んん、でも眠いよ、なるちゃん……」
「いくらあたしがでかいからって、ひとの背中を枕にしない! ちょっ、寝るな、寝るな蕗姉!」
「おっきくって……あったかーい、よね、なるちゃんは……」
「そういうこと言ってごまかそうとしないでね!? 半分くらいごまかされそうだからほんとにやめて!」

 寝かせないために話しかけるついでに事情聴取じみたことをしてみた結果、社長の奥さんがどうのとかいう話が出てきたので、どうも今夜の会社の飲み会にはなにか不穏分子が混ざっていたらしい。今にも眠気にとろけそうな声が、飲めないです、いえ飲めます、ごめんなさい、ちゃんと飲みますとかぶつぶつ繰り返している。やばい、半分意識があっちだぞ、この二十六歳。そもそも強くなんてないくせに無理やったんだろう、お酒に丸飲みされている。この状態でよく電車にと思ったが、よくよく思い返してみれば、玄関が開く手前でエンジンの音がしたような気もする。なるほど、タクシーに収容されたか。
 頬の一つでも叩いて起こしてやろうかと思いはしたものの、腰に抱きつかれた体勢からすでに状況は悪化済み、今や蕗姉は全身をあたしに預けるような形でしなだれかかっており、蕗姉に向き直るどころかあたしはしっかり立っていることすらままならなかった。お辞儀でもしているような姿勢のまま、とにかく足を一歩踏み出して重さを分散させる。完全に弛緩した人間の体というのはとにかく重いのだ。

「あ、今重いって言った、傷つく……それはまあ、わたし、脂肪がつきやすい、あふ、タイプ、だけ……ど……」
「えっ、ああ、主に胸のあたりにねってだからねーるーなー! 蕗姉、ほら、水……っと!」

 女子に片っ端から恨まれそうな会話を展開できたのもつかの間、どうにか冷蔵庫までたどり着きミネラルウォーターをグラスに注いだまでは良かったが、タイミングの悪いことにあたしがコップをとろうとした瞬間、あたしの背中にのっかっていた蕗姉が少しずり落ちた。どうやら持っているというよりは手にぶら下がっていると言った方が正しい状態であった鞄が、ついに重力に屈服してしまったらしい。
 いきおい空を掻いたあたしの手は、グラスを床にたたき落としてしまう。やってしまったと思う間もなく、かちゃん、と儚い音を立ててイチゴ模様のガラスが散った。

「あてっ」
「ん……なるちゃん……?」

 そこであわてて拾おうとしたのが間違いだった。唐突な鋭い痛みで思わず上がった声に、肩でがっくりと垂れていた蕗姉の頭が上がる。その半分焦点の定まっていない視線は、あたしの顔を向き、それからゆるりとあたしの手の方へ。ひときわ大きな破片で切ってしまったらしく、あたしの中指から膨れた血の玉は、あっという間に弾けて流れた。ああ、参ったな、床が汚れてしまう。出血はしたもののたいして深くもなかったので、あたしの頭を掠めたのはだいたいそのような心配が最初。
 さすがに目が覚めたのか、とにかくいったん降りてというあたしの一言に蕗姉は大人しく頷いて、そのままずりおちるような形でガラスの散っていないあたりの床に座り込んだ。血の筋があっという間に手首まで伝った右手を適当にかばいつつ、さっさと破片を拾い集めて、こぼれた水で濡れた床を拭く。その間蕗姉は一言も発しなかったので、眠っているのかとはらはらしながらたまにそっちを見やっていたが、俯いているだけで特に船をこいでいるということもなかった。イチゴ柄のグラスは蕗姉のお気に入りだったから、もしかして、気落ちしちゃってるのかな。

「あの……蕗姉? ごめん、グラスは今度、同じの、買って……」

 けれど、あたしは蕗姉の顔をのぞき込むことも、その続きを言うことも、かなわなくなってしまうのだ。

「あ……」

 数秒で、いやもっと短い間で、熱くなった。どこがって、どこも、かしこも。
 きっと今のたった一瞬で出血量は増えたんじゃないかと妄想するが、あたしがその真偽を確かめることはかなわなかった。なぜって出血箇所たるあたしの中指の先は、すでにあたしの目に届かないところにあったから。それはたったさっきから、蕗姉の口に、くわえられてしまっていたから。でもそういえば、手を怪我したときはいつも、こうしてもらっていたっけ。記憶は時間差でやってくる。
 でも、でもどうなのだろう。なぜかあたしはそのとき、懐かしい気持ちになれなかったのだ。幼い頃からよく蕗姉にしてもらっていたのと、まったく同じ治療を施されているというのに。なぜか今のあたしは、ぼんやりとした手つきで右手を支えられながら、蕗姉のあたたかく湿った舌が傷口に触れる疼痛を感じながら、それを懐かしいだなんて思うことが、ちっとも、できなかったのだ。
 ――だって。

「ん……っく、ふぁ」
「っ、ふ、ふき、ね……」

 蕗姉の白い喉が、こくり、こくり、と見せつけるようにゆっくり動く。蕗姉の唾液と、あたしの血液が入り交じったものが、細っこい喉を通って蕗姉の身体に入っていく。指先から手の甲、手首までと血の道筋を辿って、口の端についた分まで丁寧に舐めとって。渇きを癒すみたいに、蕗姉は貪欲に舌を這わせた。そう、這わせた、というのがきっと、一番近くて。濡れそぼった右手が台所の明かりを反射して鈍く光るのを見つめながら、あたしも蕗姉と一緒に喉を動かした。ごくり。いつの間にか、瞬きを忘れていた。
 ちゅ、と、音が立って。もっと、もっと、もっとくださいってねだるみたいに、蕗姉は何度もあたしの傷に吸いつく。いや、蕗姉が唇を押しつけたのは、もう傷だけじゃなかった。指先、第一関節、第二間接の裏、指と指の間。舌で舐めて濡らしては、淫靡な音を立てるくらいに吸いついて。グロスやルージュのあとがついたのは初めだけだった。もうそんなの全部蕗姉の唾液で溶けた。
 これを、この「治療」をして、どうして懐かしいだなんて、思える、だろう。

「ひ……っ、う」

 ついに声が漏れた。肩が跳ね始めていたのはもうずいぶん前の話。背筋から走り出した熱が脳髄を溶かしはじめたのも、もう手遅れなくらい、前の話。あたしの中指がほとんどふやけてしまっているのもかまわず、蕗姉は「治療」をやめなかった。水音はどんどんひどくなって、台所はもうみだらな音でいっぱいだ。
 蕗姉ってばほんと酔ってるんだ、ひっどい飲み方したに決まってるんだ、だからこんな。そうに違いないしそれだけに違いない、わかってる、わかってるんだけど。言い聞かせなければいけないことはとてもはっきりしているのに、主に自分の放熱のせいであたしの思考回路はもうずたずたで、艶めいた曲線を描く唇から透明の糸が引いているのを見たりなんかしたら、そんな警報なんて簡単に飛んでいってしまう。伸びた糸を拭い取る蕗姉の舌、ぬらりとした光に翻弄される。くらくら、する。
 くらくらして、くらくらして、蕗姉のとろけた光を揺らめかせる瞳と、うるさい呼吸音が三つ響く間見つめ合ったのが、終わり。切り札って、縋りついている間のことはあんなに長いように思えるのに、燃やしちゃったら、一瞬なんだな。三年間一度も伸ばさなかった意味の手を伸ばしながら、あたしは最後にそんなことを考えた。ゴムの首輪に、手を掛ける。さよなら、だいすきなひと。おわりをはじめよう。

「んむ、っ」

 次に少し苦しそうな声を上げたのは、蕗姉の方。
 ぐちゅり。ぬめった音、と感覚。その二つが靄がかかった思考の中で鮮やかすぎるほどに閃く。もっと、もっと、ほしかったんでしょ。言われてもいないようなことにあたしは応えた。ほら、こっちも、この指も、あげるから。中指のおこぼれで濡れて冷えたぶんの指先が、蕗姉の口の中の温度に、一気に染まる。

「んんっ、な、なる、ひゃんっ……んくっ」

 蕗姉の呆けたようだった目に、正気の光が瞬いたのを確かに見た。その向こうに今映ってるはずのあたしはどんな顔をしてるんだろう、きっとひどい顔だね、それだけはわかるんだ。名前を呼ぼうとした蕗姉の舌を二本の指で挟んでぬるぬる弄ぶ。苦しそうな声が上がるのも構わずに、少し奥まで突っ込んで、唾液を掻き出しては中をぐちゃぐちゃにする。蕗姉はもちろんさっきよりも大胆に口を開けることになったから、いやらしい音はいっそう甲高く響くようになった。だから、蕗姉の肩がぴくんと動いたのだって、正しい反応なんだろう。
 どうして。一度ぎゅっと閉じられた瞳の向こうで蕗姉がそう言ったのだけはわかって、だけどあたしは応える言葉も持たないまま、蕗姉のあったかくって柔らかいとこを、いつもあたしを治してくれていたそこをめちゃくちゃにするのに必死だった。ひっし、だった。言い訳はもうできない。あんなに縋りついてきた切り札は、たったさっきあたしの手であっさりと灰になった。だからもういい。
 それよりこれから、どうしようか。口の端から唾液をとろとろ零しながら、今にも泣き出しそうなな目であたしのことを見る、だいすきな、だいすきなひと。触れたかったという、ひどい裏切り。蕗姉、ふきねえ、だいすきだったよ、ごめんなさい。あたしはもうきっと今すぐにでも全部壊れてしまって、蕗姉はあたしの手を離してしまうだろうと覚悟して、この熱の後にやってくる冷たさはきっとすごくつらいんだろうなあって考えて、
 
「えぅ……んっ、んん、ん」
「っ……!」

 考えて、いたから、蕗姉があたしの腕をきゅっと引き寄せて、自分からあたしの指をもっと深く咥えこんでくるなんて、思うわけない。

「なるひゃん……なる、ひゃ、んんんっ、ぅ」
「うあっ、ちょ、ふ、ふきねえ……いっ、た!」

 痛い、までは、いかなかったが。というよりも驚いたのだ、だって慌てて引き抜こうとしたあたしに気づいたらしい蕗姉は、もっと信じられない行動をとった。噛まれたのだ。甘くだけど、とても甘くだけど、蕗姉はあたしの指を噛んだ。歯型がつくかつかないかってくらい。蕗姉の前歯って、ちっちゃくてかわいいんだ、って、そんな場合じゃないのに妙に平和なことが浮かぶ。いや、平和じゃないな、おかしくなってるんだ、あたし。おかしくなって、蕗姉のことしか、考えられなくなってんだ。

「はぁっ……はぁ、ふ、うんっ……んむ……」

 さっきよりもずっと激しく、多分ものすごく乱れたふうに、蕗姉の舌先はあますことなくあたしの指をくすぐるように舐めて味わった。味わう、とか、堪能する、とか、そういうのが一番似合ってる。水音の隙間で漏れる吐息がどうしようもないくらいの多幸感を増幅させる。だけどおかしいな、なんだか幸せそうな顔をしてるって、あたしが自分で自分の顔のこと思うわけなくって、ということは。
 中指、人差し指、薬指と親指、最後に小指。爪のふちをなぞって、関節のあたりを甘く噛んで、唇どうしでしごくみたいにあたしの手を咥えていた蕗姉は。そのまま唾液でべたべたに濡れたあたしの手に頬を擦り付けて、毛先がふわふわカールした髪を汚した蕗姉は。

「なるちゃん……なるちゃん、なるちゃん、なるちゃん、なるちゃんっ……」

 しあわせでしあわせで、いまにもしんでしまいそうって顔を、していたのだ。

「なるちゃん、ごめん、ね」


 
 さっきまで淫靡な音を立てていた口をふさぐように手を当てた蕗姉は、わたしはほんとうにほんとうにさいていのおんななのとくぐもった声でぽろぽろ泣きながら言った。アルコールのせいで真っ赤なほっぺたが、もうなにで濡れてるんだかわかんないようなことになる。台所の床でうなだれた蕗姉は今まで見たことがないくらい小さくなってしまっていて、ふっくらした体のラインが余計にそれを助長させていた。
 あたしはどうしたらいいか全然わかんなくって、とりあえず濡れていない方の左手で蕗姉の涙を拭おうと頬に触れたのだけれど、蕗姉はそれを両手で大事そうにたった一瞬触れてから、すぐにぶんぶんと首を振ってあたしの手を振り払った。そしたらよけい辛そうな顔をしていたから、あたしはもう、なにもできなくなる。ごめんね、だめなの、わたし、だめなの。
 ――なるちゃんの手、だめなの。

「だって、だってなるちゃんは、いつもっ……知りたいから、わたしに聞いてる、だけなのに」
「……え。え?」

 とんでもないことを聞いた気がするしとてもとても気のせいであって欲しいのだけれどどうやらそうじゃない。蕗姉はあくまでも綺麗な涙をひとりで流し続けて、しゃくりあげながら続きを言う。

「なのに、わたし……わたし、たくさん変なこと、考えて。なるちゃんはっ、妹みたいな子、なのに。そうじゃなきゃ、いけないのに!」
「……蕗姉」
「手……なるちゃんの手、ほんとに、きれいで……ごめんね、ごめんなさい、だめなの、触りたく、なっちゃうの」
「…………」
「わたし……わたしっ、なるちゃんの手で……おかしく、なっちゃうの」

 ああ、なるほど。いくつかの思い出とそれに関する見解が少し修正されていく。そっか、だって女同士なのをいいことにほんとに長いこと手繋いで歩いてたもんな、あたしたち。でもよくよく考えてみれば、いつもあたしの手を取るのは蕗姉の方だった。そうすると指先が一度くしゅっと手の甲を撫でてくれるので、それがあたしはちょっぴりくすぐったかったんだけど。でも、そうか。
 ――そう、か。

「ああ、うん、わかった」
「あ……ご、ごめん、なるちゃん、でもわたし、あの、もうぜったい、こんな、」
「蕗姉」
「は、はいっ?」

 なるほどこのひとは、あたしに何でも教えてくれたこのひとは。
 あたしのことを、これっぽっちも、知らないのだ。

「蕗姉は、なんにもわかってない」

 至極あっさりと床に背をつけることになった蕗姉は、まだスーツのままの手首をあたしに押さえつけられながら、なんにもわかっていない目でぱちくりと馬乗りになったあたしを見上げていた。

「だから――あたしが、教えてあげるよ。」


 スーツがしわになっちゃうかなあって思わなくもなかったけれど、他でもないこの蕗姉のおかげであたしはちゃんとアイロンのかけ方だって知っていたのだし、もう別に、いいか。カッターシャツのボタンを必要最低限は外して、あとはほとんど引きちぎるように前を肌蹴させる。白いキャミソールとブラを一気にたくし上げると、さすがに状況理解が追いついたらしい蕗姉が、あわてたようにあたしの下で表情を変えた。なるちゃん、ちょっと。かすれた恥ずかしそうな声で、蕗姉は必死に手で隠そうと身を捩る。
 でもそしたらすでにブラからこぼれそうであったでっかい二つがたゆんと揺れたわけで、つまりこれは、いわゆるひとつの逆効果というやつだ。どうがんばっても手の中には収まりきれそうにないそれに、あたしはやっと触れた。そう、自分の手で、自分の意志で、触れた。なんの言い訳も切り札も用意していない、馬鹿みたいにまっすぐな気持ちで。

「あっ……や、な、なるちゃんっ」
「うわ、すご……でかっ」
「な、なに言って、っあ!」

 あ、はい、言うに事欠いてそれはないだろってあたし自身も思ったけど。正直すぎる感想を口にしてしまったことはさておき、冗談みたいにマシュマロだった。これは、つかみきれないどころか、そのうち包み込まれたまま抜け出せなくなるんじゃないの、あたしの手。一緒にお風呂というのは(あたしが保たないので)結構前にやめてしまったのだけれど、なんだか惜しいことをしたような気もする。だってちっちゃい頃あたしってば蕗姉の胸枕とかしてなかったっけ、お湯の中で。ずるい。そこ代われ。
 愚考を重ねている間にもあたしの手は柔らかな二つを揉みしだくのに忙しくて、まだ肘の辺りに引っかかったままのスーツのジャケットやらカッターシャツやらに半分拘束されたような形になっている蕗姉は、好き勝手するあたしに抵抗もできないで切なく啼いていた。なんだか、な。落ち着いた声くらいしか知らなかったような気もするあたしは、耳が痺れてしまいそうなくらい甘やかなそれを聞きながら、ちょっと考えてしまう。なんだかな、断れないようなことを言ってさせていたとはいえ、蕗姉ってば、あたしのこといじって、楽しかったんですかね。スレンダー系ですいません、どうも。

「た、のしいとか、じゃなくって………んんっ! わ、わたしっ、なるちゃんの、ちっちゃくても、好き、だし……ぁうッ」
「蕗姉って結構天然入ってるよね、知ってたけどさ……で、あたしのちっちゃいのいじくって、蕗姉はずーっと、変な気持ちだったと」
「あ……ご、ごめ、ごめん、なるちゃ……ゃんっ!」
「あのね。そんなのって……そんなの、あたしもに、決まってるじゃん」

 ああでも、たぶん今まで一度もあたしの名前を呼んでくれなかったのって、そういうことだから、だったんだろうな。何度も何度も口にされるそれが、自分のものなのに本当にいとおしいと思いながら、あたしは蕗姉の額にキスを落とした。うそじゃないよ。あたしもずっと、変だったんだよ。同じか、ううん、きっとそれ以上に。
 柔らかな柔らかな中に、ぷっくりと固まった粒が頭をもたげる。指先でひっかくと、蕗姉は少しつらそうに、でもいっそうきゅんと高い声を上げた。上着も下着もひっかけたまま、ぴくりぴくりとえっちに身体をうごめかせて震える蕗姉は、あたしをすっかり毒してしまうには十分で。十分すぎて。今回ばっかりは自分がされてる方じゃないっていうのに、同じかそれ以上に熱くなっているのがわかる。お腹の下あたりが疼いてる。底に甘いのが残ってる。

「あ、っは……ぅんんっ! く、ァ」
「……蕗姉ってさ。もしかして、あたしに引っかかれるの、すき?」

 だってそのほうが、あたしの手がそこに触ってるって、いっそうわかる、から?
 沈黙。したのは、蕗姉がばっとあたしから顔を背けたからだ。巻いた毛先が蕗姉の表情を隠すようにふわふわ流れる。でも、耳が真っ赤になっていることは、それではっきりとわかった。そういう、なんていうか、言ってもないのにものすごくわかりやすい反応をされますとですね、こっちが照れるん、です、けど。しかも極めつけなことには、蕗姉にとってあたしの手がそうであるように、あたしは蕗姉の匂いに弱かった。うなじの間でぱっと弾けた濃い匂いに、ものすごく、弱かったのだ。
 それでだったのか、単純に力の限界だったのかはもうわからないが、あたしは蕗姉の横に崩れるように寝ころんだ。台所の床が冷たい。熱がほしくて、たぶんそれ以上に触れたくて、あたしは背を向けている蕗姉のうなじに鼻先を擦り付けた。ふうと甘えた吐息が自分のそれからこぼれたのがわかる。蕗姉はほんとに、いい匂い。与えられても与えられても満たされなかった分は、与えることで初めて、いっぱいになった。幸せな勘違いかも知れないけれど、そんな気がしていた。
 蕗姉が後ろから回されていたあたしの手を取ったのは、そのときだ。

「っ、……すき」
「うん……?」
「すき……っなるちゃんの、手、すき。なるちゃんの、こと、だいすきなの……ほんとに、だいすき、なの」
「そう、じゃあ」
「ふぇ……っ、んぅ!」

 もう「ごめんね」は、続けさせてあげないよ。

「じゃあ、あげる」
「くぅ、ンっ……ふぁ、なる、っひゃ」
「あたしの手、蕗姉にあげるから。すきにして、いいよ」

 とかいって、あたしもだいぶん蕗姉のこと、好きにしてるんだけどさ。ほんのり汗ばんだときの匂いに溺れながら、あたしは右手を蕗姉にあげて。左手は、そろそろと下の方へ。スカートのホックを探していたらさすがにいろいろと悟ったらしい蕗姉は一瞬動きを止めて恥ずかしそうにもぞりと動いたけれども、あたしが舌をちょっといじってやると、なんだかすぐおとなしくなってしまった。
 それきりスカートとストッキング、それからショーツ、とあたしが脱がせている間、蕗姉はずっとあたしの手にちゅうちゅう吸いついていて、だめだこのひと、素直すぎる。欲望に、っていうとなんだか響きが卑猥で、十八の脳にはかなりきついものがあった。ああもう、かわいい、な、こういうとこ。あたしが知っていた大人の美しさを露わになった腰のラインに残したまま、蕗姉はあたしの知らない甘えっぷりを指にしゃぶりつきながら見せていて、ほんと、あたしってばいつか、このひとにころされる。

「んふ、ァ……っや、な、なるちゃん……ぁんっ!」

 露わになった白く張りつめた太腿からゆっくり手を伸ばして、とろりと濡れたそこにちょっとだけ触れると、蕗姉は焦ったような、でもすごくすごくとろけた声を上げた。振り返ろうとしたのがわかるが、首元にあたしが頭を押しつけたままなので、できそうにないみたいだ。あたしは白い首筋に唇を落として、ちょっと吸いつく。塩っ辛くて甘くて、癖になりそうな味がする。
 あたしは自分の足を蕗姉のそれと後ろから絡ませて、せめてもの抵抗に懸命に足を閉じようとしているのを、優しくちょっぴり残酷に押しとどめた。とてもかわいそうなことだけれど、体格の上でも力の上でも、あたしは現段階で蕗姉を上回っている自身があったので。リズムも量も乱れた息をあたしの手にぶつけていた蕗姉は、それでも甘えた仕草で手の甲に頬をすり寄せてきた。

「はぁ、あぁあ、ッ……ん、なるちゃ、ん、なるちゃん、なるちゃん……いッ」

 もっとたくさんあたしを呼んでよ。それであたしはうれしくなってうれしくなって、入り口のところでちょっと焦らして、固くなった粒を転がして。ひっきりなしに溢れ出してあたしの指を濡らしてくる蜜が、蕗姉の全身から漂う秘めやかな匂いを増幅させる。あたしはこれでだめになっちゃうんだよね、蕗姉、ふきねえ。

「い、っあ……!」

 つぷりと、沈めた中は、思った以上に狭くて、きゅうきゅうだった。今度はこっちで、しっかりくわえこまれてるみたい。十八歳の脳というのは怖いわけで、こういう自分の頭の中に浮かんだ妄想やらよけいな一言やらで熱を加速させるのだから困る。しかもあたしがそんなふうに頭を真っ白にしていたら、どうやら手の方が疎かになってしまっていたらしく、焦れたらしい蕗姉がおそるおそる腰をくねらせたりなど、するもの、だから。
 苦しさと恥ずかしさに満ちた表情を後ろからでもちょっと見れば、蕗姉は自分ではそんなのわかってないってくらいぎりぎりなのはわかるのに、このあたしの素敵な蕗姉は、とにかくいま、さいこうにいやらしくて。あたしは、なんかもう、だめだめだった。

「ふき、ねえ……ふきねえ、ふきねえ、っ」
「ひぁ、は、んぅっ……なる、ちゃ、なるちゃぁん……!」

 痺れた頭でどうにか命令を出して、中を激しくかき回す。あたしの(長い間そういうふうに「教えて」もらっていたわりには)あまり優しくないそれと、それなのにもっとくださいってねだるみたいに蕗姉が動くぶんで、ぐちゅぐちゅといやらしい音が奏でられる。でもあたし、いやあたしたち、そのくらいには。そうやって、二人しておかしくなってしまう、くらい、には。

「すき……だいすき、蕗姉、だいすき」
「わ、たしもっ……んん、ぁ、っやぁぁ……!!」

 首輪なんてもういらないから、できれば今度は、あなたとあたしの温度でつながりたい。蕗姉のものになった手を指を、しあわせでしあわせで痛いくらいにぎゅうっと締め付けられながら、そんなことを、考えた。


 当然のように寝坊した。あれで話が終わっていれば良かったのだが、三年、もしくはそれよりも前から積み上がった気持ちがたった一度で発散できるはずもなく、有り体に言えばあたしたち二人ともまだ若かったのだ。汗と唾液となんだかよくわかんないいろんな液体でぐしゃぐしゃになって、それでも最高に幸せな気分で笑いあいながら一緒にお風呂して、ついでに浴場で欲情なんつって最悪のギャグをかましている間に朝が来ていたのだ。現実ってやつは実にそっけない。そんなに嫌いじゃないけれど。
 身体はふらっふらだし激眠いが、学校には行かねばなるまい。なんだかんだとあたしに甘い蕗姉だが、それだけはしっかりしているのだ。たぶんあたしの将来のために。もっとも、乱れた髪をぼんやりとした仕草で半分寝ながら整えていた蕗姉は、あたしが居なければよっぽど休みを取りたそうな顔をしていたが。こういうとき年上ってやつは、たぶんすごく不便なのだ。

「蕗姉! あたしもう出るねー、そのまま寝ないでねっ」
「んっ、あ……ふぁ、あ、は、はいはい……あ、待って、なるちゃん」
「へ? ……っ」

 わすれもの。という言葉よりも先に、感触の方がやってきた。主に胸の辺り、ってこの十八歳胸の話しかしてない、ごめんなさい、思春期なんです。だけどあたしが蕗姉に抱きしめられながら、それよりもしっかりと感じて、そして多分に満たされた気持ちになったのは、やっぱり蕗姉の優しい匂いが、したからで。
 そんなに長い間のことじゃなかった、と思う。蕗姉はぱっと離れて、いつものように穏やかに垂れた目をふにゃりと細めて、笑って。

「今朝は、これで満足?」
「っは……え?」

「なるちゃんって。よく、わたしの匂い、かいでたでしょ」

 人が今まさに高校に行こうとした瞬間に、蕗姉はちょっとはにかんだ笑顔で、十八年間最大のカミングアウトを、しかも向こうの方からしてくれてしまって。
 ふくふくした指先をあたしの唇にちょいと当てた蕗姉は、お姉さんというにはちょっとえっちいような顔で、言う。

「自分だけひみつなんて、わるい子だよ、なるちゃん。」

 ――ねえ、あたしは。
 あたしは、このおよそ茹で蛸を通り越したであろう顔色で、いったいどうやってクラスメイトに顔をあわせりゃいいんだろう。
 
 ちょっと、よければ教えてくれませんか、蕗姉。




〜あとがき〜

う、うむ、長い……ですね……w
大変どうでもいいのですがこれを私は母を見送りに行った空港のカフェで書き上げました。
なんというかこう、度胸がつきました。つかなくていい度胸が。

ところで二つ、いや三つ上がっているえろいお話のうち三つともが年下攻め(まあこの話はリバっぽくもあるのですが)ですね。
私年下攻め好きなんですかね。その自覚はなかったな……。
今回は甘えろを書こうとして書き始めたような気もします。
全体的に砂糖を込めようとすると失敗してますね私。……oh!!

あと伝わっていたらいいんですが手フェチ×匂いフェチの子たちでした。
なんでその二つかっていうと私がそうだからです。いらんカミングアウト。
微妙に髪フェチも伝わっていそうで怖いですね。いらんカミングアウトその2。

おろかなふたりがしあわせでありますように。
そんな感じで。柊でした。

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