「だいっきらい。」




 ついこの間までうだるような暑さだったくせに、少し肌寒いくらいの風が、いたずらみたいにさらりと頬を撫でる。八分じゃなくて長袖でも着てくれば良かったかな、なんて思ったけど、そんなことを思いつくほどの猶予を与えてもらえなかったってことを思い出した。
 駅前、集合は今から30分後、だなんて、そんな連絡のせいで私は服をじっくり選ぶ余裕なぞなかったのだ。そもそもとして集合時間にきっちり間に合ったこと自体が殆ど奇跡みたいなものである。にしてもやっぱり寒いかも。

「……帰りたい」

 激しく。心から。心のまま思ったことを呟く。携帯電話を取り出して、開いて、時間だけ見て閉じる、という、一連の動作。さっきからこれを10回以上繰り返しているわけだが、いつまで経っても連絡が来るわけでもなく、ただ一つ一つ増えていくのは時計の数字だけ。いいかげん嫌になってきたので、数字があと二つ動いたら帰ることに決めた。もう決めた。
 大体、人をこんな急に呼び出しておいて自分が10分以上遅刻するとはどういうことか。距離と時間の計算くらいできないものだろうか、高校生にもなって。そりゃあ小学校の頃から数字が得意なのは私で文字が得意なのは彼女だったけれど、そういう問題じゃなく。つまるところ彼女には常識的な考え方ってものが多分に足りていないんじゃないかと、それは小学校の頃から私は思っていた。もう一度開いた携帯は、見ているうちに数字を一つ動かした。あと一つ。まだ来る気配は無い。
 ひょっとするとそのうち電話が掛かってきて、えへへびっくりしたどっきりだよーんなんてことを言い出すんじゃないだろうか。有り得なくはない。何せ彼女は突拍子も無いことをまるで思いつきで実行してくるのだ、例えばこの突然の呼び出しのように。まったく、あんたの家からの方が確実に駅前まで遠いのに、私がぎりぎりで、あんたが間に合うわけ無いでしょうが。

 と、その時、後方からたったか駆けてくるような音がした。私は携帯をもう一度だけ開く。あ、数字動いてる。ということは、だ。私は後ろの足音が近づいてくるのと、何時もの甘ったるい声が飛んでくるのを全部無視して、回れ右をした。何の躊躇もなく歩き出す。一度決めたことはやっぱりきっちり守るほうがいいと思うんだよ、そのほうが誠実だし。

「ちょっ、と、もう……待ってってば、湊!!」
「ぐわっ」

 ……変な声出た。人を吹っ飛ばすような勢いでぶつかってきやがる後ろの彼女のおかげで、私は慌てて踏鞴を踏むことになる。なんですか、あんたは集合時間に遅れた挙句人を圧死させる気なんですか。ていうか腕ががっちり首に回されて苦しい、寧ろ絞殺ですか。しかも自分だけちょっとあったかい格好してやがる。白い薄手のジャンパー袖が目に入る。

「あーっ、重い!! つか、抱きつくな、うっとおしい!!」
「重……ひどっ、せっかくダイエット成功した友人にその一言は無いんじゃないかなぁ……」

 そうじゃなくてあんたは恐らくその二つぶら下げてる脂肪が重いんだよ、ってことはまあ言わないでおくとしよう。自分が悲しいから。ダイエットなんかするなってこともやっぱり言わないでおくとしよう。それもこれも自分が悲しいから。
 私が思うに、女性は食べた分の脂肪が素敵な部分に運ばれていくタイプとそうでないタイプがいる。振りほどこうとしてもいっこうに離してくれない彼女が前者の典型的な例で、私は後者の典型的な例だ。それにしてもさっきからそろそろ周りの人々の視線が痛い。痛いのに混じってちょっと羨望の視線が混じってるのもまた私を苛々させる。羨ましいですか、そうですか、まあ、これだけの美人に抱きつかれてますからね、私。
 ひとしきり私が暴れると、漸く離してくれた彼女は困ったような顔で笑いながら少しだけ距離を取った。でもすぐに私の手を取って、明るい表情で歩き出しながら、あの甘ったるい声で、言う。

「ごめんごめん、待った?」
「待った。15分待った。超有り得ない。ていうか帰りたい、寒い」
「もー……湊、ちょっとはムードとかそーゆーの考えようよ、ほんと」
「あんたと一緒でムードもへったくれもあるかっての。手ぇ放せ」
「寒そうだからあっためてあげてるの。たまには凪さんの優しさも感じなさい」

 にしても待ったって聞いたら今きたとこって返すのが常套でしょなんて軽口を叩きながら、凪はいっそう強く私の手を握ってくる。その握り方といったら慣れたもので、強すぎず弱すぎず、手のひらの柔らかさがちゃんと伝わるくらいで。彼女の手は、温かく私の手を包む。

「るさい、放せ」

 私はそれをぱっと振りほどいて、一生懸命早歩きして先を行った。どうせすぐ追いつかれるけどね。この程度の速度差が障害にならない程度には、私と凪の身長差は大きいのだ。だから、ああ、ほら、追いつかれた。また困ったように笑うのが目に入る、見たくなくて、私は目を逸らす。意味もなく遠くを見る。だというのに肩がぶつかるくらいの距離を凪は好むから、どうやっても彼女を視界から外せない。近いって言っても、凪は離れない。離れたとして、私が例えば肩を押しでもして突き放したとして、凪は絶対に戻ってくるのだ。そして困ったように笑うのだ。
 隣から感じる体温も、誰もが振り返る美人顔も、上手な握り方も手に残った温かさも甘ったるい声も、いつも浮かべる困ったような笑顔も。私は全部全部気に入らなくて、全部全部嫌いで、つまり琴平湊は西尾凪のことが嫌いで嫌いでたまらなくて、だから、苛々して。小学校の頃から今までずっと私は苛々しているのに、いくら突き放しても突き放しても凪が着いて来るから、私はもっと苛々する。

「なーに、手くらいいーじゃん、友達じゃん」
「そういうのうっとおしいからやめろ……」
「またそういうこと言う。素直じゃないなぁ、湊は」
「悪うござんしたね」

 だって私はあんたのことなんか大嫌いなんだから、とか、言ってもどうせ、こいつは、何も感じないんだろうな。



「で……用は何? とっとと済ませて帰りたいんだけど」
「相変わらずつれないなー、湊ってば……ほら、ステンドグラス好きでしょ、湊って」
「え、うん、まあ……」

 返事が少しだけ遅れたのは、凪がそのことを知っていたのにやや驚いたからだ。そんな話、仲良しの子にしかしてない。こいつとは仲良しというよりもただの腐れ縁、しかも今や一方的に向こうが引っ張って繋いでる縁。それ縁っていうより犬の鎖かなにかだよねって、そうだ、どっちかっていうとそれに似てる。じゃあ私飼い犬役か。それは嫌だな。
 なんて思いながらふんふんと聞き流しているうちに話が進行していたらしく、つまりはそういう雑貨が置いてある店が出来たらしい。まあ突発的に行きたくなったから着いてこいと言われるに際しては、そこまで気分が悪い場所ではない、のかな。最初の時点で大分話が破綻しているような気がしなくも無いが、考えないことにしよう、そういうやつだ、こいつは。突拍子も無いことで私を驚かせたり、スキンシップしてきたりして、私をからかうのが、恐らく西尾凪の趣味なのだ。


「えーっと、こっち曲がって……あ、これこれ。ね、綺麗じゃない?」

 そんなわけで案内された、駅前から少し裏路地に入ったあたりにあるお店は、確かに私が好きな雰囲気のところで、苛々が少しは和らぐ。こういう場所にある個人経営っぽいお店は、商品だけじゃなくて内装にもかなり凝っていたりするから、居るだけでも楽しくなる。それは凪も同じなのか、にこにこと満足げな笑みを浮かべながら、いいとこでしょ、なんて言った。

「……うん、いいとこだと思う」
「おっ、やった!! 湊が笑った!」

「……はぁ?」

 それの何がそんなに嬉しいのか、聞く前に彼女は軽い足取りで店の奥の方へと行ってしまって、私は一人首を傾げた。笑った、って、そりゃ、漫画か何かに出てくるような子じゃあるまいし、私だって生きてたら笑ったり怒ったりしますけど。頭のいい人間が考えていることはわからないというか、彼女ほど成績が良かったりすると別の世界でも見えてくるんだろうか。なんだかあまり考えたくない世界だ、ぼんやり考えながら、店内飾られた水槽に浮かぶ、赤い硝子のボールをつつく。水滴を纏いながらくるんと回って、それはぷかぷかと、遊泳した。

「きれいだな……」

 趣味がいい、また今度来たい。残念ながら今は財布の中身が乏しいので叶わぬ願いだけれども、何か一つ買って帰りたいくらい。と、手軽な値段のものは無いかな、と思いながら視線を動かしていたら、アクセサリー類が置いてある場所が目に留まった。
 ネックレス、ストラップ、指輪、それからイヤリングにピアス。どれも丁寧なステンドグラスの装飾が綺麗で、思わず溜息をつく。ちらちらと値段を確認しながら一つずつ手に取っていたら、偶然取ったブレスレットが、いい色で。
 寒色系のほうを私はどちらかというと好むけれど、ブレスレットにあしらわれたグラスは綺麗な紅色で、でもやっぱり綺麗。空気が澄んでいるとき、雲から覗く夕日は、確かこんな色をしていたと思う。なんだか、そんな夕日を見た覚えがある。そんなことを思いながら手にとって眺めた、店内照明を反射してキラキラ光るのに、余計惹かれた。

「1250円か」

 安くは無い。だろうな、と思いつつ、私はそれを戻さなかった。だってギリギリ足りてるんだよね、財布の中。そりゃちょっと生活は苦しくなりますけど、言っても勉学主流の高校生、家に帰ればご飯はある、お金が無くても生きていける。そう色々と頭の中で言い訳つけて、よし似合ってたら買っちゃおうって私は決めて、とりあえずつけてみることにした……したんだけど。
 一旦フックを外して、色とりどりのアクセサリが飾ってある卓に伸ばして置いた、その上に手首をのせて。端っこと端っことをそれぞれ手首の上に持ってきて、あとは片手でフックを引っ掛けるだけ、だけなんだ。

「くっ……」

 だけなんだってば、ちょっと、もう少し頑張れ、自分。つるつる滑り落ちる端っこを何度も何度も手首の上にのせなおす。のせなおしながら、左手に持ったフックで一生懸命鎖の上を引っ掻くけれど、中々うまく引っかかってくれない。一人で付けられないと意味が無いのに、と思いながら、ブレスレットと格闘する。細かい作業は苦手なんだ、悪いか。

「ふふっ、湊、なんか面白いことしてる……どれ、貸してみ?」
「え」

 触れたのは白い指先。覚えてる温度。ぬるま湯みたいな、私の嫌いな温度。綺麗な手が、私の左手から、するりとブレスレットの端を抜き取る。突然聞こえた声と、思いもしなかった行為に、私の頭は一瞬混乱して、思考が止まる。ええと、あれ、これ、なに。
 左手だ、そう、だから、これは、後ろから。次に彼女の右手が反対の端を持つ。背中に、体温。ぬるま湯。肩にのせられた顎、凪の長く垂らした髪が、さらさらと、私の首元を、流れ落ちていく。

「こうかな……よいしょっ、と……あ、はまった」

 凪はいとも簡単に人が格闘していたブレスレットを私の右手にはめた、得意そうな笑顔は、私の真横で。混乱していた頭が漸く回りだして、背中に感じる感触と頬に緩く掛かる呼吸までわかった瞬間、私は反射的に一歩横に避けた。流石に硝子があるところで暴れるわけにいかないと凪もわかっているのか、あっさりと私を手放す。

「な……なに……なに、してんの、あんた」
「え? や、困ってたみたいだったし。あ、似合ってるよ、それ!」

 なんでもないような言葉を発しながら、凪はくすくす笑って私の手を取る。寒色ばっかじゃなくて、こういうのもいいよ、湊は。そうじゃなくて、そうじゃないだろって言いたいんだけど、喉から言葉は出てこない。凪の指先が、優しくブレスレットを、私の手首を撫ぜる。だから、飲み込んだ言葉のぶんだけ、何も言えないぶんだけ、私は苛々した。頭の中がかあっと熱くなる。ああ、くそ、なんだよ、これ。
 凪が私にそういうことをするたびに私は頭の中がぐしゃぐしゃになってしまう、今だって、手首を見れば、凪の手ばっかり浮かんでくる。似合ってるかどうか確かめたかったのに、これじゃブレスレットなんて見てる場合じゃない。あ、似合ってたのに、なんて不満気な彼女を無視して、私は若干苦戦しながらそこは自分でブレスレットを取って、元の場所に戻した。

 ああもう、だから来るの、嫌だったんだ。
 時計が二つ動いた時点で帰ってればよかったのに、私。またぐるぐるする、また苛々する。
 凪なんて大嫌いだ。嫌いで嫌いでどうしようもなくて、凪が嫌いな気持ちにばっかり捉われて、また今日も眠れない。


「かえる」
「えっ? え、いやいや、ちょっと、湊!?」
「もう帰る。帰ってゲームする」
「……湊、そんなんだから目どんどん悪くなるんだよ、たまには外に出てさぁ……」
「出るなら、あんた以外と出るよ」

 言い捨てて私は店を後にした。扉についたカウベルがからから虚しく音を立てる。何も買えなかったな。今度一人で来ようと思ってたけど、どうやら無理そう。学校近くのCDショップ、バス停にあるマック、ビルの二階の本屋。また、行けないとこが増える。凪と出かけるたびに私の地図は黒く塗りつぶされていく、通行禁止、通行禁止。極度の苛々につき、通行禁止。
 駅まで一回も振り返らないで歩いたのに、凪はずっとずっと追いかけてきた。ずっとずっと、あのいつもの足音は、いつものように着いてきた。ベルが鳴り響く電車に慌てて乗り込み、がらがらなのに私の隣に腰掛ける。そして私の顔を覗き込んでは、また困ったように笑うんだ。
 私は、だから、あんたのその顔が、大嫌いなのに。がたんごとんと揺れる電車に運ばれながら、外の景色が流れていくのを見つめながら、私は苛々がどんどんどんどんつのるのを、感じて。



「みーなーと……そんなに怒らないでよ、ちょっと」
「……うるさい」
「あーもう、ごめんってば。ね、今度アイス奢るから」
「もう寒いっつの」

 私に話しかけるなと言い捨てて、どうせがらがらだし席を移動してやろうと思ったら、肩に重みが掛かって、私は動けなくなる。電車はゆっくり止まって、数少なかった客を吐き出した。この車両にはもう、私と凪だけになった。なのに私は、動けない。柔らかな匂いがそっと香ってくる、鼻腔から吸収したそれは私の中でちろちろ燃える苛々の火に油を注ぐ。焦げるような気分だ。手でどけようとしても、強情に右肩にのしかかってくる凪の頭はどかない。
 ほら、また、こうだ。

「……なんなの、あんた」
「ん? なに、湊」
「なんでいっつもいっつも私のことからかってくんの」
「からかってなんかないよ」
「からかってんじゃん。いっつも人を馬鹿にして。困ったみたいに笑って。私はあんたに近づいて欲しくないのに。苛々するのに。」

 がたごと走る電車に、揺れる電車に押し出されたみたいに、私はぽつぽつと喋りだす。
 凪の顔は見えない。私の横に頭があるんだからそりゃそうか。でも顔なんて見えたってもう関係ない。
 どうであろうともう私は言わなくちゃいけないんだ。

 ――あんたなんて大嫌いだって、今日こそ言ってやるんだ。



「小学校の頃から、凪はずっとそうだった」
「…………」
「いっつもいっつも私からかって、楽しんで、私はずっと苛々して……苛々して、苛々して、こっちくんなって、何回も言ったのに」
「…………」

「なんで、私なわけ。なんで、私ばっかりな、わけっ……あー……もう、くそっ、むかつく、っ……!!」

 別に私じゃなくてもいい、凪は私じゃなくてもいいじゃん。友達、いっぱいいたじゃん、昔っから。みんな私よりいい人だったじゃん。彼氏だっていっぱいいたじゃん、亮佑も孝も紀之もみんなみんなどうして振ったの、あんなにあんたのこと好きだったみたいなのに。
 続けたかったのに、声にならない嗚咽でかき消される。喉が痛い。ひき潰されるような勢いで、目から水分が押し出される。ぽたぽたと流れてくる。拭っても、拭っても。車両の中に誰も居なくてよかったって考えながら、私は乱暴に袖で目元を擦りまくった。赤くなるな、これ。絶対そう。

 だってもう嫌なんだ、ぐしゃぐしゃになる、何がなんだかわからなくなる。下手をすれば私は苛々して、どうしようもなく苛々して、ぐっしゃぐしゃの混乱した頭で、凪のことばっかりになるんだ。凪の綺麗な笑顔とか、手の温度とか、甘ったるい声とか、そういうのでいっぱいいっぱいになって、苛々して苛々して苛々して。

 だからもう私に近寄らないでよ、楽しそうに私と一緒に居ないでよ、綺麗な顔で私に笑いかけないでよ、優しい手で私に触れないでよ。甘ったるい声で、私の名前を、呼ばないでよ。あんたなんか、だいっきらい。


「私はっ……あんたでばっかり、苛々して……あんたのことばっか、考えるの、もう嫌だ!!」
「…………」

「凪っ……なぎ、なんて……だいっきらい……!!」

 大体そのようなことを殆ど言葉にならない声で私は言った、言えば言うだけ喉がやけつくように熱かった。しゃくり上げるのも止まらないまま一気に喋ったから、息が荒い。知るか、もう、そんなん。だってもうすぐ駅だ。降りて今度は走ろう、走るのだけは私の方が速い、だから逃げられる。
 もう凪から逃げてしまおう、逃げてしまいたい。ずっと我慢してきたけど、最近どんどん私はダメになってる。苛々するのが大きくなってる。嫌な嫌な、焦げ付きそうな気持ちが、体の中でむくむく大きくなって、もう爆発しそうなんだ。

 だから、このままここにいたら、私は、私はきっと、凪で、おかしくなる。



「……ふふ」
「っ、なに、あんた……なに、笑ってんの!? ほんと、有り得ない、っ……!!」
「笑うよ、こりゃもう笑うしかないって」

 やっと人の肩から頭を上げてくれたかと思ったら、凪はくすくすと笑っていた。綺麗な口元を綻ばせて、くすくすと、笑っていた。
 耳障りなはずなのに、その笑い声でまた私はぐるぐるする。聞くな聞くな、耳を塞げ。手を耳に、やろうとして。

 頬に触れた唇が、私を完全に停止させた。

「かーわいいんだ、湊」

 耳元、いつもと少し調子の違う、凪の声。なんだこれ、なんなんだこれ。今の、今のは唇、そう、凪の唇だ。やわっこいの、いや、違うって。顔を近づけたまままた小さく凪が笑ったから、耳たぶをくすぐった吐息で、私は勝手に肩が震えた。目元がかっと熱くなる。熱くなってるのに、なんでか背筋はぞくぞくして、鳥肌が立ちそうだった。

「わかんないんだね。ま、わかんなくてもいいや……大体、成功してるみたいだし」
「なに……なに、言って」
「ん……こっちの話だよ」
「っ、意味わかんな……あ、ちょっ……!」
「あれ? 湊、耳弱かったっけ……そっか、覚えとこ」

 縮こまったまま、からだが、動かない。ぬるいものが耳に触れる、触れる。これ、えっと、あ、そうだ、また凪の、だ。くちびる、違う、これ、舌だ。熱くて濡れてる。優しくくすぐるみたいに、凪の舌が、私の耳に触れる。体がかってにぴくんと跳ねた。凪はやめない、少し熱い吐息と舌の温度で、私は、多分、おかしくなった。逃げたいのに、逃げたいのに。身体が固まる。
 またいつもみたいにからかってるのかって私はぼんやりしかけた頭で思うけど、私は突き飛ばせなかった。やめろって言えなかった。そして凪はもう、困ったように笑わなかった。

「ねえ湊、私は絶対湊から離れないよ」
「なに、それ……っ、ゃ、やだ、みみ、やめて、凪っ」
「……んー、じゃ、耳はやめてあげよう。凪さん、湊には優しいからね」

 離れたかと思えば、凪は縮こまっていた私の両肩をがっちり掴んで、かなり強引に自分の方を向かせた。凪の顔がばっちり目に入る。まともに見たのは、もしかしたら、久々だったのかもしれない。だって、綺麗だな、なんて、考えてしまったから。そんなの絶対いつもは考えないのに、ああ、でも、表情が違うから、なのか。
 いつもはけらけら笑ってるのが、口元は確かに少し綻んでるけど、目がすごく、真剣だった。強く握られた肩が痛い、力加減は上手なくせに、なんだか今の凪は全力で私の肩を握ってきた。電車は私が降りるはずだった駅に辿り着いていて、だけど凪は離してくれなくて、向き合った私たちを乗せたまま、扉はゆっくり閉まる。

 空気が漏れ出るみたいな音を聞きながら、凪の綺麗な顔がゆっくり近づいてきて、そして凪は私に優しいキスをくれた。もうとっくに私の頭には情報処理量オーバー、何も考えてない、何も考えられない。残ってたのは多分苛々だったのに、凪に苛々してしょうがない気持ちだったのに、それもよくわかんないなにかで、ふわふわする。
 あ、凪が、笑った。

「目。とろんってしてるよ、湊」
「…………」

 私が答えないままでいると、凪はまたくすりと笑ってから、もう一つキスをした。軽い、触れるだけの優しいキス。だけどなんでだろう、肩を掴む手から、力が抜けてない。腕が少し痺れてる気がする。電車が、走り出した。
 電車と一緒に体ががくんと揺れて、凪の頭もがくんと揺れて、そして、私の首筋に凪の唇がぶつかった。それは触れたんじゃなくて、ぶつかった。そういう勢いだった、でも多分、偶然じゃない。凪が触れさせたんだろう。彼女の手は、少し震えてる。強く強く掴まれた肩は痛かった、腕がなんとなく痺れているような気がした。

「ね、湊、動かないでね」
「……?」

「でないと、痛くしちゃうから」

「え……っあ、や……凪、っ!」

 ひどい警告の言葉と一緒に凪は、まるで吸い付くみたいに口を開けて、私の首筋にあまく噛み付いた。歯が当たってくすぐったい、でももっと違うなにかで、体がかってにぴくんと揺れる。大きくなったふわふわに包まれるような、変な感覚で、私はいっぱいいっぱいになってしまう。気がついたら、凪の背中で服を握りしめていた。それに凪も気がついたのか、またくすっと笑って、もう一度。あまいあまい噛み跡が、ついていく。
 嫌なのに、突き飛ばしたいはずなのに、ふわふわでいっぱいになってしまった体は、凪が与える感覚にぴくりぴくりと反応するばっかり。抵抗なんて何一つできない、腕からはすっかり力が抜けて、頭の中はぼんやりで、溶けていきそう。

「やめ……なぎ、ぃっ……」
「やめない。」

 それでも弱々しい声を振り絞ったのに、凪はすっぱりと切り捨てた。代わりに、少しだけ強く噛んでくる。
 ふわふわした中に、閃光みたいにふっと強い刺激が走る。

「あ、っ痛……」
「やめない。湊に何回突き放されても、何回拒否されても、ずっと湊から私は離れないよ」

 他の誰でもない、湊から、私は絶対に離れない。ぼんやりした意識の中で凪がそんなことを言うのが聞こえる。電車はがたりごとりと揺れている、その度に凪の歯がへんなあまい刺激を私に与えて与えて、お腹のあたりがきゅっと熱くなる。苛々してた、焦げるような気持ちは、凪の言葉と与えてくる感触で拡散して、ふわふわしたのに変わってしまった。
 がたりごとりと揺れながら、後ろに流れていく景色が世界が、ゆっくりと滲んだ。凪の腕が、私をしっかりと抱き寄せる。何度も何度もあまくあまく噛み付かれて、ゆるやかな痛みと熱い熱い温度で私はきっとおかしくなってしまって、凪で、おかしくなってしまって。

「な、ぎ……凪、凪ぃ……」
「だからね、湊、」

 ――苛々して、苛々して苛々して、私のことだけ、考えててよ。


 とくん、とくん、ふわふわになったからだの中、電車が揺れるより少し早く、音がして。
 いくつもいくつも駅を乗り過ごしながら、私は凪に、溺れていく、溺れていく。









 

〜あとがき〜

……え、なにこれ? ←
 

 

 

 

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