4、突入





 翌朝、また頼んでもいないのにタイミングよく現れてくれたアビーとバートが仕入れた情報によると、〈血の儀式〉の決行は今日、四つ目の鐘が鳴った時であるとのことだった。〈儀式〉はレナードを中心としたディルトス民主国家の研究員たちを中心として、城の中にあるヴェールの力のもとともいえる聖域で執り行われる。
 その時、聖域までは立ち入れないにしても、キャスティス皇国全土の人々には城下町へ集まり、〈儀式〉の成功を祈るようにとの命が下されたそうだ。キャスティスの城下町では既に国民たちが続々と集まり始め、ちょっとしたお祭り騒ぎの様相を呈しているらしい。その情報に結局お礼を言ってしまったアステルは、またもや法外な報酬の賑々しい請求からなんとか逃れながら、いつものようにラボ一階の卓についていたみんなのほうへと、向き直る。
 それから、短くひとつ息を吸って、言った。
「ティアを助けたい」
 ほか六人は、何も言わなかった。
 何も言わずに、ただアステルのことを、見ていた。
「〈儀式〉を執り行うということは、いったんキャスティスを覆うヴェールを取り払い、聖域にて再度力を込めるということだ。私の知識は〈光の儀式〉を執り行う場合のものだが、〈血の儀式〉もヴェールに力を込めるという点では同じなのだから、変わりはないだろう。普通はノクの中に生きるものがヴェールの中に入ることは叶わないが、四つ目の鐘が鳴り、〈儀式〉が始まってから暫くの間は……キャスティスの中へと、足を踏み入れることができる。彼女を助けるチャンスがあるとしたら、そのときだ」
「だろうねー。でもさあ、こっちの好機ってことは、向こうの危機ってことだろ? 騎士団にいたキミなら、もう一つ大事なことも、知ってるんじゃないのー?」
「……ああ。無論、〈儀式〉が行われる最中は、騎士団ほかキャスティス全土から集められた屈強な兵たちが、ウロの侵入に備え、国への入り口周辺を固めている」
 ノクへと来ることを堕ちてくるとは表現しても、ルクとノクはそもそも同じ地上の陸続きにある。ただその中にヴェールで覆われた国がルクとして七つ存在するのであって、それ以外の地上にあるすべての土地が、ノクなのだ。もっとも国々はそれぞれヴェールで囲まれているし、国どうしはゲートというもので結ばれていて、直接に瞬間移動することができるようになっている。だから普段は、ルクの住人がノクと接触を持つことなど、まずありえなかった。
 しかしヴェールが無くなるとなれば、ウロやその他外敵――とキャスティスにいたころに言われたときはなんのことかと思っていたが――の侵入に備えなければならない。アステルとて、あの前夜をもし無事に越えていたなら、〈儀式〉の際には騎士団長として国へと入る最も大きな門を守っていただろう。
「その時を狙って国内に入ろうとしても、まず兵たちに止められちゃうだろうねー。ウロじゃないからって手加減してもらえないと思うよー、なにせ向こうはストルの与える道徳に、頭が凝り固まっちゃってる連中だ」
 確かにエドガルドの言うとおりだろう。ここに来るまでアステルは、ウロ以外の侵入者の存在など考えたこともなかったが、仮にそのまま見張りに立ったとして、現れてきたノクからの人間を切ることに、ためらいが生じたとは思えない。ノクに人間がいたことに少しは驚くかもしれないけれど、多分それだけだろう。それだけできっとアステルは、今までのように淡々と、その大剣で目の前の対象を破壊しただろう。「キャスティスの人々を守る」ために。
 それがわかるから、アステルは、言った。
「だから、みんなに力を、貸してほしい。危険だし、なにより、世界中から蔑まれる役だ。国ひとつの人々のいのちを、すべて危険にさらすのを後押しする、ひどい役だ。それに君たちを巻きこんでしまうことになる、けれど……私一人では、まず突破できない。だから」
 そうしてアステルは、深く、深く頭を下げる。ためらいがちになったのは、慣れていないからだった。協力という言葉を今まで知らなかったのと同じように、頼りにするとか、頼むとか、きっとそういう言葉も自分は知らなかったのだろうとアステルは痛感する。あたりまえになってしまうとは、たぶんそれほどには怖いことなのだ。
「オリガ、ノエル、サヤ、モニカ、エドガルド、ヒューイ。」
 それでも、ぎこちなく頭を下げたアステルは、これでいいのだろうかと悩みながら、ひとりひとりゆっくりと、呼ぶ。
「頼む、君たちの力を、貸してくれ」
「やだね。誰がテメェなんかのために働くもんか」
 間髪入れずに答えたのは、円卓の上に頬杖をついたまま、むっつりとした表情を浮かべていた、切り込み隊長役のオリガだった。
 ただ、それに思ったほど落胆していないことのほうが、アステルにとってはちょっとした驚きではあった。彼女は頼りになるけれど、彼女がいないからといって、アステルの決意は変わらない。ひとりではできないことだけれど、ひとりでやる覚悟もあった。めちゃくちゃな考えなのに、それがアステルの心を温かく、強くしていた。
 ただ、ちらりとアステルのノヴァを見つめたオリガの言葉は、それで終わりではなかったというだけで。
「勘違いすんじゃねえぞ」
「えっ?」
「だから、勘違いすんじゃねえぞ! あたしはな、前々からそのレナードってやつが気にくわなかったんだ。あたしが行くのは、ヤツに一発かましてやるためだからな。アステル、テメェなんかのためじゃ、絶対にないからな!」
「……オリガ、君」
「んだよ」
「もしかして、ものすごく恥ずかしがりやなのか?」
「ぶっ飛ばすぞ!?」
 顔を真っ赤にして襲い掛かってきたオリガは既に自分の得物を取り出しており、しかしそれにやる気満々で嬉しいよ、とは追加で言わない方がいいのだろうなということだけはなんとかわかったアステルだった。
 いろいろ気になるところはあるにしてもとりあえずそこの判断だけは間違っていなかったと言えるだろう、いくらラボの床がそれなりの衝撃には耐えうる構造をしていたからといって、オリガの本気の一撃を受けて耐えきれる素材など、この世にそう多くはないだろうから。
「あーはいはい、およしなさいなもう……ところでアステルさん。助けに行くのは、キャスティスの第一皇女様なんですわよね? もちろん、それなりに超豪華な財宝を、それなりに超たくさん、お持ちでいらっしゃるということで、よろしいんですわよね?」
「え? あ、ああ、うん、まあ、そうだ」
「乗りましたわ。ええ、彼女のお部屋へ侵入して助け出す役目は、このノエル・ベル・シャルパンティエにお任せくださいまし!」
 いや実際テオフィリアの部屋は位からすると信じられないほどに質素だったのだけれど、嘘がつけるというのは、もしかするととても便利で、どちらにとってもある程度幸福だという一面も、あるのかもしれない。アステルはなんとなく呑気にそんなことを思って、まだ見ぬ財宝に目を輝かせる少女を見て、少しだけ笑った。
「んっと……ねえ、アステル。アステルって、貧血ぎみ?」
「いや? 私の身体は至って健康だ。元気な体を維持するのも騎士のつとめだったからな。それにモニカのあの料理を毎日食べていて、貧血にはならないだろう」
「あ、うん、だよね……うん、よかった。じゃあ、わたし、行く。……ね、アステル」
「う、うん?」
「楽しみに、してるね?」
「あー……ええと、サヤ。少しは手加減、してくれよ?」
「ふふ、うん、努力する。大丈夫だよ、あんまり痛くは、しないから」
 アステルにとっては初めて見るようないたずらっぽい笑顔で、サヤはそう言った。その二人の顔をいぶかしげに見つめていた、サヤを守る会と言っても過言ではなさそうなノエルとオリガのことも若干気にはなるが、それよりもまず鉄分の多い食事をとることを考えたほうがいいのかもしれない。
 アステルはおいしいもんね、と様々な誤解を引き連れてしまいそうな発言については、あとからなんとかフォローを入れておくとして。フォローのしようがあるのかということについては、まあさておくとして。
「んふふ、しょーがないわねえもう。愛の逃避行と聞いたら、黙ってられないじゃない! 運転手役なら、このアタシにお任せよ!」
「愛の、とは、かなり違う気がするが……うん、頼むよ、モニカ」
「イェッサー。お礼はアステル、アンタとそのティアって子、二人からのチューでよくってよ?」
「いや、私が二回することになってでもそれは阻止させてくれ、すまない」
「なによぅ独占欲! 嫉妬深い女は嫌われるわよ!」
 それじゃあせめてハグは許してよ、とウインクするモニカに、それは問答無用でさせられてしまいそうだ、ティアに気を付けておくよう言ったほうがいいのかもしれないな、などと思いながら、アステルはそのばっちんという衝撃から身体をねじって逃れた。
 そうしてモニカがテオフィリアを助けた後のことを、ぼんやりとでもアステルの頭に描かせてくれているのだというところまで気がつくのは、もう少し時間がかかりそうだけれど。
「おー、みんな結構行くムード? そっかー……」
「一人でも人手が欲しいんだ。君にも、頼めないだろうか?」
「うーん、めんどうだなー」
 へらりと笑って言ったエドガルドに、アステルはそうか、と言って俯きかけた、が。アステルの視線が床に落ちるよりも早く、エドガルドは慌てたように言い直した。
「あ、いや。違うんだよ、アステル」
「えっ?」
「いやさー、めんどうなことにね。俺も今回ばっかりは、行きたいって思ってるんだなー、これが。〈血の儀式〉で発現するヴェールは、確かに赤のヴェールなんだろ?」
「ああ、そう聞いていたが……」
「うん。じゃあ、俺の都合でちょっと、そこには顔を出したいんだよなー。ま、あんまりお役には立てないと思うけど、ついていくよ」
 何かあるのかと聞きたい気持ちもあったが、俺が堕ちてきたのはディルトス民主国家からなんだ、と言ったきり口を閉ざしてしまったエドガルドに対して、アステルはそれ以上踏み込むことができなかった。けれども、普段は完璧な笑顔を装う彼の目元が、今はまったく笑っていなかったことだけがわかった。
 血の気しかない乱暴娘のオリガ、ごうつくばりのノエル、くいしんぼうのサヤ、愛にあふれすぎのモニカ、サボることにすらやる気のないエドガルド。それぞれの思惑は、そんなふうにしてばらばらなかっこうを呈していた。そしてそのどれもがほんの少しだけ恥ずかしそうに、自分の目の前に並べ立てられている。ただひとつ確かなことがあるとしたら、彼らはみんな、アステルのほうをちゃんと向いてくれていた。それだけだ。
 アステルが最後に向いた彼は、くすぐったそうに鼻先を擦っていた。先生がものすごく嬉しいときにする仕草よ、ということを、モニカがちょっと耳打ちしてくれる。
「アステル。こういうときなんて言えばいいか、知ってます?」
「……ありがとう、かな、ヒューイ?」
「そのとおり! そしたらみんな、そんなこと言わなくていいって言いますから」
 変ですよねえ、と笑ったヒューイは、アステルのノヴァをつんと指先でつつく。それに応えるように、アステルの茜色の心は、ほわりと温かい光を返した。彼は口の中だけでもごもごと何か言った。いい顔ですね、と言われたような気もするし、いい色ですね、と言われたような気もする。多分どちらでもいいのだろうなとアステルは結論付けて、少しためらったが、ヒューイのつんつん頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
 これで、全員だ。決められたわけでも、勧められたわけでもなく、選び取ってそこに立っている七人、全員。
「で! つまりなんだ、あたしらはその入口を守ってるっつー連中を、まとめてぶっ飛ばせばいいってことか?」
「ああ。私ができるだけ素早くティアのもとへとたどり着けるように、派手にやってくれ」
「やなこった。誰がテメェの指図なんか受けるかよ」
 巨大な槌を振り上げたオリガの横で、同じく巨大な剣を背負ったアステルは、そうして自分よりもずっと小柄な少女と並ぶ。初めにかち合ったのは瞳どうしだった。目を逸らしたのはオリガが先だったけれど、手を差し伸べたのも同じく彼女が先だった。一方は渋々といったふうにため息をついて、もう一方は困ったようにくすりと吐息を漏らして、彼女たちは、それからがちん、と拳をぶつけた。
「いって!」
「あいった!」
「……あなた方、手加減という言葉をご存じでして? それとも、二人ともお脳が筋肉でいらしゃるのかしら?」
「わぁ……それ、なんだか強そうだね、ノエルちゃん」
「サヤ。サヤ、あなたのそういうところが、わたくし時々、とても心配」

 出発前からそんな調子だったのが出発後になって急に緊張感を持つようになるものかというともちろんそんなことはなく、しかしこれがいつも通りといえばそうだな、と思い始めている自分に、少しあきれてしまうアステルだった。いくらなんでも緩み過ぎなのだけれど、この連中と一緒にいると、どうにもおかしくなってしまう自分がいるのだ。
 そもそもピクニックなどとは程遠いというのになぜモニカがそれじゃあお弁当を作るからと言って台所へ去っていったときに、自分は止めに入らなかったのだろうか。しかもモニカがなぜかやたらと張り切ってしまったせいで出発は大幅に遅れ、またもやアステルはジープの荷台にてがくがくとはげしく脳を揺さぶられる羽目になっていた。ヒューイを乗せるバイクの運転手をエドガルドから奪い取れるだけの能がなかったことが、今更ながら悔やまれる。
 ちなみにモニカ特製のお弁当は、この揺れの中でもまったく動じずに食欲を発揮し続けるサヤの胃の中へ、ちゃくちゃくと収まりつつあった。いったいいくつ具が入っているのか怪しい、爆弾級のおにぎりをほおばっているサヤを見ていると、しかし少しだけ心が和んでしまうのもまた事実である。ひとそれを絆されているという。
「ん……見えてきたわよ、みんな!」
「あ、あれが……キャスティス皇国なのか……!」
 モニカの言葉に思わず身を乗り出したアステルは、その後また段差に乗り上げるかして浮遊したジープの後部座席に顎を強打する羽目になったが、めげずに目を見開いた。
 そこに広がっているのは、黒く、ただ黒い、そういうかたまりのようなものだった。昨夜モニカと共に見た、自らの濁りのかたまりを思い出す。あれをとんでもなくばかでかいものにしたならば、目の前のものができあがるだろう。そう思って、アステルはぞっとした。ヴェールに囲まれているということは、濁りを外へ逃がすということは、外側から見ると、こういうことなのだ。ここからではまったく様子の伺えない国内のことを、しかしアステルは、鮮明に思い出していた。
 モニカの運転が正確で、ヒューイが作ったという地図の通りだとしたら、ここはちょうど作戦の決行場所となる、城に最も近い門の近くということになる。他国へとつながるゲートがこの近くにはあり、だからこの門を越えた通りは、城下町の中でも特に交易が盛んな場所として賑わっているはずだった。きっと今も商人たちのために建てられた宿屋が立ち並ぶそこでは、物売りが客の呼び込みをする元気な声が響いていることだろう。
 そこからたった一枚薄い薄い膜を隔てた向こう側で、老婆がぺったりと薄く茶色になったお腹を、骨ばった幼児の足に踏みつぶされている。錆びついたナイフを宝物のように握りしめた少年が、古びた樽の向こう側で、ひとを呪う言葉を祈りのように呟いている。目的地が近づき減速し始めたジープの上で、アステルは彼らの瞳だけがやたらと深い輝きを放っているのを見た。闇は純粋になればなるほど、うつくしい光へと、少しく近づいてしまうのだろう。
 それがもし本当に光と背中合わせになってしまったとしたら。彼の胸元のノヴァの光が、アステルの瞳の中に、消えそうな光をふと焼き付ける。
「おい、コラ。アステル」
 が、そうかと思った時にはもう、アステルの目の前には、金色の光があった。
「ヴェールに近いこの辺は、特に濁りが酷ぇんだ。ぼさっとしてっと、テメェまで飲まれちまう。妙な同情心とか、起こすんじゃねえぞ」
「……ああ。わかっている。ただ」
「ただ、なんだよ」
 オリガの光は、いつもなんだか掴みかかるようだ。そんなに心配しなくても、そう簡単にはどこへも行かないのに。彼女の強さはもしかしたら弱さから始まったのだろうかと思いながら、アステルは静かに一つ、頷いた。言葉を発する準備だった。特に何か言おうとしているわけでもないのに、ふっと言葉が唇から零れてくる。不思議な感じだった。
「ただ、ついでに、と思ったんだ」
「あ?」
 並走するジープとバイクを少年がいつまでもいつまでも見つめていたのだとしても、おそらく自分には彼に手を伸ばす権利がない。それはよくわかっていた。だって彼のことを責任もって最後までかわいそうがるだけのものを、アステルは持ち合わせていないから。スープの温かさを知った人間がまた寒空の下に戻る落胆は、いっときの幸福という言葉と天秤にはかけられないけれど。
 だから、ただ、ついでに。どんどん遠くなってゆく小さな影からふいと目を逸らしながら、アステルは続ける。
「私がティアのことを助け出してしまったら、キャスティス皇国を覆うヴェールは、なくなってしまうだろう?」
「……まあ、そうだろうな」
「そうしたら、なにもここばかりが、濁りが濃い場所ということにはならないか、と思って」
「…………」
「私は私の都合でティアを助けに行くだけだし、彼らを助けようなどとはこれっぽっちも考えてはいない、いや、考えてはいけないが……ただ、私が勝手にそうするついでに、彼らがそれで、ほんの少しでも救われたとしたなら」
 それは少しだけ、いいことだと思ったんだ。
 息だけつくようにそう言って、自分でも驚くほど自然に、笑ってしまっていた。そんなアステルを見てオリガは一瞬目を見開いたが、それからそのままの、しいて言えばいつも眇めた目をしている彼女にしてはちょっと可愛らしい、いわば年相応というような表情のままで、後部座席のノエルの方へと目を移す。
「なあ。なあおい、ノエル」
「なんですの、いいかげん静かにしてくださいな、オリガ」
「いや、いやいや、ちょっと聞けよ、なあ。このバカについての話なんだけどよ」
 アステルが横目に見ると、彼女のそばかすだらけの頬のあたりは、どんな顔をしたらいいかわからない、といったふうに、むずむずしていた。
「どーもシュミットのガキども助けに行くっつったときから、このカタブツ、なんっら変わってねぇ気がすんだけど……こいつは一体、どういうことなんだよ?」
「あら。そんなの、簡単ですわ」
「あ?」
「アステルさんの心とはもともとこういう、人を巻き込んでしまうような、ほんっとうにはた迷惑なお人よしであったと。つまりそういうことでしょう」
「……は?」
 涼しい顔で言ったノエルに、オリガがずるっと頬杖から頭を落っことして、ノエルの隣のサヤが、ぷっと吹き出していたそのとき。
 ヒューイが、ようやく声を上げた。
「みなさん。そろそろ、時間です」
 彼の両手には、硝子でできたフラスコの中に、針と文字盤のセットが七つ浮いているという不思議な機械が握られていた。事前に聞いておいたことには、それはノクとルクの七つの国々それぞれの時間を示す装置なのだそうだが。
 フラスコの中でふわふわと浮いている一つ、「1」から「15」までの文字盤を示したヒューイは、その針が「4」のところにかちり、と合わさると同時に、目の前にあった闇のかたまりを指差した。
「……〈儀式〉の、始まりだ」
 ヒューイたちの目の前で、半円形に国中を包んでいたヴェールが頂点から真っ二つに割れる。中からは、目も眩むほどの光が、光が、光が。

 それを合図にアステルたちが初めに行ったのは、これもヒューイの発明品だというゴーグルを一斉につけることだった。
 アステルがこちらに堕ちてきたばかりのころがそうだったように、ルクとノクの明暗の差に慣れるのは、かなりの困難を要する。最悪目を潰されてしまうこともあるかもしれない。それをかなり軽減してくれるゴーグルだと聞いてはいたが、一応保険のためにゆっくりと目を開けたアステルは、瞳に映った光景に、さすがに舌を巻く気分だった。
 驚いたかといえば、驚かなかったのだ、逆に。つまり、違和感がまったくなかった。それこそ、しいて言えばノクと違って周りが明るいから足元が見やすそうだ、というくらいで。渡されたゴーグルのレンズが無色透明に見えたから少し不安もあったのだが、むしろ四角く広いレンズでしっかり確保された色のついていない視界は本当に、普段通りのもので。
「えへへ、けっこう苦労しましたよー、これ。あ、でもいくら普通に見えるからって外さないでくださいね、危ないです、これほんと」
「なるほど……ヒューイ、君は本当に、天才発明家なんだな」
「いまさらね」
「いまさらだろ」
「いまさらですわ」
「いまさら、かな」
「いまさらだねー」
「いや君たち、こういうときにだけ団結するのはやめてくれないか!」
「ま、アステルがちょいタイミング読めないタイプなのはわかったとして。とにかく、無駄話してる場合……」
 じゃない、とおそらく言おうとしたのであろうモニカの言葉は、しかしそこでぴたりと途切れてしまった。
 言葉が急停止したついでに急ブレーキも踏んだらしく、ジープに乗っていた面々の身体が、仲良く同時にがっくんとつんのめる。
「っ……てぇなモニカ! テメェちゃんと前見てんのかコラ!」
「いや、見てるわよ。見てるから止まったのよ」
 一番後ろの荷台であわや首が吹っ飛ぶかという甚大な被害を受けたアステルや、後部座席で側頭部を強打し痛み分けしているサヤとノエルに比べれば、比較的ダメージの少なかったオリガが即座に声を上げる。
 が、モニカの返答は至って真面目なもので、しかも並走していたエドガルドのバイクまでもが同じく急停車していたことが、全員に異常を伝えた。
「んー、これはいったい、どーういうことだろうねえ」
「あなたはもう少し緊張感というものを持てないものかしらね……」
「えー? だって、この状況で緊張してもねえ……俺たちにできることっていったら、きょとんとするくらいなんじゃない?」
 ノエルは悔しそうに歯噛みしていたが、しかし何も言い返せない程度には、エドガルドの言は正しかった。
 それはたとえば侵入者から国を守るという使命に燃える兵士たち相手に、刃を交わす一歩手前の緊張したやり取りをするでもなく。ただ呆然とするしかない状況、言ってみればそんなまぬけなものが、いざ突入と意気込んでいたアステルたちの目の前には、広がっていたのだ。
「……おい、アステル」
 もっとも情報を持ち、しかしだからこそもっともこの状況に対して驚くしかないアステルに対して、おいうちのようにオリガが声を掛ける。
「こりゃあいったい、どういうことだよ」
 私が聞きたい、という言葉をどうにか飲み込んで、アステルはゴーグルの中で目を凝らしてみた、が。
「なんで……誰も、いないの……?」
 サヤがぽつりと口にしたように、ヒューイ特製のゴーグルを隔てた向こうに映る、とてもクリアな景色の中には、しかし誰一人として、見当たらなかったのである。
 塵ひとつなく綺麗に掃除され舗装された道路と、等間隔で整然と立ち並ぶ家々と、そして賑やかさの残響だけが浮いている商店だけが、そこにはあった。けれども動いている影などひとつも見当たらなかった、門を守っているはずの兵士たちも、どころか城下町にひしめいていたはずの人々も、誰も。
「……おかしいですわね。静かすぎますわ」
「ですね……これは、みんなが黙ってる、とか、そういう静けさじゃない。この場に、ひとがいないときの静けさだ」
 車を徐行させながらしばらく城へと続く道を走ってみたが、城までの道程を半分ほど越えたところで、結果は変わらなかった。まるで国民をそのまま消し去ってしまったかのような。駆け巡った嫌な想像を追い出すように、アステルは頭を振った、が。
「っ、待て……! なんだ、あれは……!?」
 そのとき彼女は、前方から、いや、あちこちから近づいてくるなにかに、やっと気がついた。前触れもなかったが隙もなかった。アステルが気づいて声を上げた時にはもう、全員が警戒態勢に入らなければならないほど、いやな空気があたりには蔓延していた。
 その機械的なまでに周到なことの進め方を見て、先ほどノエルとヒューイが言ったことが最悪の形で的中したという確信を、アステルは苦々しい思いで噛みしめる。この場にヒトはいない。それは本当だ。
 ではあれは、やはり、ヒトではないもの、ということになるのだろう。着実に、堅実に、距離を詰めてくるいくつもの影を見回しながら、アステルは思う。けれどもはっきりと言うことはできなかった。
「ありゃあ……ウロ、か……!?」
 そしてそれと同じように、オリガの言葉に確証をもって返答を発するものは、誰一人としていなかったのだ。近づいてくる影たちは、みな一様に――ヒトなのか、それともウロなのか、判別しがたい姿をしていたから。
 アステルが、そしてオリガが、彼らを呼ぶにあたって迷ったのも無理はない。ある程度かたちに個体差があるところを含めて、近づいてくる彼らの姿はヒトのそれと同じだった。子どものような姿をしている者もいるし、女性のようにしなやかな姿や、またあるいは筋骨隆々の男らしき姿をしている者もいる。
 ただその他の特徴を見れば、まるきりウロと変わらなかった。つまり、ヒトと同じかたちをしている彼らの身体は、しかしみな一様にウロと同じく黒く塗りつぶされていて、顔の、目があったであろう場所にはぼっかりと空洞だけがあったのだ。
 だが、それでも彼らをウロと断ずるに引っかかる要素が、彼らの胸元に、ひとつ残っていた。
「だ、だけど、おかしいよ! なんで、ウロが……ストルを、持ってるの?」
 サヤは、戦いに備えてあらかじめ準備しておいたらしい血の入った小瓶を取り出しはしたものの蓋も開けないままで、戸惑いに震えた声を上げる。それに応えられる者は、いない。
 サヤの言うとおり、彼らの首に提げられているものは、どう見てもストルだった。ノクの住人となってしばらくが経つとはいえ、たとえばアステルがルクにいたのはまだついこの間のことだから、その見解が間違っているとは思えなかった。
 けれど、ともアステルは思う。もしあれがストルなのだとしたら、いったいあれは、どういうことなのだろう。
 あの――石の周りを丸く覆う、赤い膜のようなものは。
「……あれが、赤のヴェールが持ってる力の一つだよー。赤のヴェールっていうのはねえ、ストルのひとつひとつにも、ああして影響を及ぼすものなんだ……そしてああなってしまったら、ウロと違ってもう二度と、もとに戻ることはない」
「え……? 待て、エドガルド、何を」
「き、来ますわよ!」
 エドガルドが妙なことを口走っていたような気がする、が、もはやそれにかまけていられる余裕はなかった。ヒトの姿をしたウロたちは、出てきたときと同じようになんの前触れもなくそれぞれの武器を取り出し、そして攻撃を仕掛けてきたのだ。
 ウロが、武器を。闇に蠢き、光を憎むだけでしかない存在であるはずのウロが。その思いがほんの一瞬、それなりに戦闘経験のある面々の判断を鈍らせる。
 そこで金属的な音がアステルの耳を掠めたのは、半ば奇跡的なことだったといえる。
「みんな、車から離れろ!」
 アステルが鋭く叫び、ジープに乗っていた全員が外へと転がるように脱出したと同時に、大人の男らしいかたちをしたウロが、ジープに向けて手のひらに収まるほどの丸い何かを投げた。手榴弾だ。ジープのボンネットで数回跳ねて転がったそれは、はげしい閃光を放ち、そして爆発する。ジープのガソリンに引火し起こった連鎖的な爆発、それによる衝撃と熱風が、アステルたちに襲い掛かる。
「く……っ!」
 飛びのいてなんとか距離を取ったアステルは、爆風が到達する手前でどうにか大剣を自分の前に突き刺して盾にするが、幅広く磨き上げられた刃を以てしても自分と、すぐ後ろに隠れたノエルを守るので精一杯だった。ピンを抜く音を聞いていなければ、ことはもっとひどくなっていただろう。
 なんとか片目を開けて確認したが、ごうごうと燃え続けるジープの座席に誰もいなかったことは、不幸中の幸いだった。どうやらジープに乗っていた全員は脱出に成功し、バイクのヒューイとエドガルドも逃げられたようだ。
 しかし、ほっとしている時間はない。
「っ、アステルさん、横!」
 声を上げるが早いか、アステルの後ろでどうにか爆発を凌いだノエルは、煤が舞う空気をひゅっと裂いてレイピアを抜いた。きん、と澄んだ音がアステルの耳元で鳴る。打ちあわされていたのは、二つの刃。ノエルのレイピアと、壮年の女性のかたちをしたウロが構える槍だった。
 アステルは大剣を軸にして低い姿勢で身体を回し、地面から剣を抜くと同時に横へ飛び退る。それで相手が決まった。ノエルと槍のウロは、お互い距離を測るように刃を向い合わせる。
「ふっ……ざけるな、コラァッ!」
 刹那、まだ爆発の余韻を残していた土煙をも巻き込むように大槌が一振りされ、地面を大きな衝撃が揺さぶった。それが誰かは考えるまでもない。アステルは視界の悪い中、大剣を担いで声のするほうへと走った。その視界に初めに映ったのは、金だ。オリガの怒りを爛々と示す、彼女の心の、金色だった。
 今度は少し形状の異なる爆弾を構え、素早く身をひるがえすウロに対して、オリガは何度も何度も槌を振り下ろす。その苛烈な戦場の向こうに、彼女の怒りの原因はあった。
「サヤっ!」
 逃げ遅れたのか。いや、違う。アステルは即座に理解する。ここから見てわかるだけでも、サヤがいつも着ている真っ黒なワンピースは、裾が燃え、あちこちが破れていた。素早く駆け寄ったモニカの影になってすぐ見えなくなったけれど、その下からのぞいていた傷が、少女に与えられるにはあまりにも激烈であったことは一瞬でわかった。そんな凄惨な状況のサヤと比べ、あそこで、なにかに追い立てられるように走りながら槌を振り上げているオリガには、ほぼ傷一つない。
 切りかかってきた兵士らしいかたちのウロ二人を大剣でいなして、サヤのもとへと急いで駆け寄ったアステルにはそれがわかって、口の中でだけ悪態をついた。
「アス、テル……」
「喋っちゃダメよ、サヤ! いいからじっとしてなさい、アタシがこんな傷すぐに塞いだげるから!」
 叫ぶように言ったモニカは、それも準備してきたらしい、大きなガーゼでサヤの左肩あたりを必死に抑えていた。それがあっという間に鮮血に染まるのを見て、アステルの頭の冷静な部分、戦闘にしか使いたくもない部分が、どうやら爆発の時にでかい破片か何かを直撃させたらしい、という判断だけを冷たく下す。
 ごめんね、と謝りながらサヤの左袖を引き裂いたモニカは、取り出した包帯でガーゼを傷口に当てて縛り付けた。サヤは苦悶の表情を浮かべはしても、一言も声は上げなかった。むしろ泣き声を上げたのは、モニカのほうだ。
「なんで……!? ウロってのは、武器を使うおつむなんてないはずでしょっ、なんでそんな奴らが、爆弾なんか!」
「わからない、だが……っ!」
 振り向きざまに、アステルは大剣を横一閃に振るった。それは背後から忍びよってきていた剣のウロ二体の切っ先をやすやすと飛び越え、彼らの手元を正確に捉える。切るというよりはまとめて薙ぎ払うように巨大なアステルの剣は振り抜かれ、刃どうしがぶつかる甲高い音を立てたのち、ウロの持っていた武器はあっさりと空を舞った。
 それが地面に刺さると同時にアステルは足をぐっと一歩ウロたちのほうへ踏み出し、身体を持っていかれそうな重い力をものともせずに、手首を返す。平たく構え直した剣を今度は逆に振り抜いて、今度はウロ二体の身体を弾き飛ばした。
「……だが、こいつらが私たちの明確な敵であり、越えなければならない障害であることは、確かだ」
 短く、細く息をついて、アステルは即座に体勢を整えた。両刃の剣と盾を持ったウロが一体、手に鋭い鉄の棘が施されたナックルをつけた、屈強そうなウロが二体。オリガが相手をしている爆弾のウロ、ノエルが相手をしている槍のウロ。すべてヒトのかたちで、全員が武器を構えているウロが、五体。それらすべてを、今から越えて、先へと進まなければならない。
 両手にかかる重みを感じながら、ただ怖くはない、とアステルはひとり呟いた。いや、怖くないというのはおかしいかもしれない。怖いのは無くなってはくれないし、今だって手の中にはいやな汗をじっとりとかいている。ただ、逃げ出したいというのとは少し違う、それだけか。情けないが、それが私か。アステルは思いながら、愛用の大剣を構えた。
 ウロが来る。剣と盾のウロ、それからナックルのウロが二体、計三体。澄んだ音が絶え間なく聞こえているのはノエルの戦っている音か。繰り返される爆発と大差ないとすら思えるオリガの一発が、地面を揺らす。怖い、怖い、怖い。戦場に立つのが怖い、傷ついてしまうのが怖い、心が弱るのが怖い、ウロになってしまうのが怖い。怖い、怖い、
「……アステル・グラディ、」
 でも、ティアのことを守れなくなってしまうことが、君を失ってしまうことのほうが、私はなによりも、怖い。
「推して参る!」
 アステルは大地を強く蹴って、緋色の髪を風に躍らせ、身体ごと回転させながら剣を振り抜いた。大剣の重さが、回転速度に一気に拍車をかける。ぶおう、と鈍い音をたて風と衝撃を引き連れてきた剣は、ナックルを構えたウロに攻め込む隙を与えず、構えられた盾を銅鑼のように甲高く打ち鳴らした。
 アステルの両腕にはびりびりと強い衝撃が走るが、彼女が剣を取り落とすことなどない。どころか攻撃の手をゆるめることすらなかった。立ち止まりたくない。立ち止まってしまう自分のままで、あのひとの隣に立ちたくない。
 私はただ、しっかりと顔を上げて、彼女の隣に立っていたいのだ。
「はあっ!」
 背後まで振り抜いた大剣の勢いを利用し身体を反らせたアステルは、そのまま背中じゅうのばねを使って、唐竹割に真っ直ぐ刃を振りおろす。地面を叩いたそれは三体のウロを二体一に分断し、アステルはすかさず剣と盾のウロに横一閃の追撃を加えた。
 それを左肩にまともに食らったウロは、建物の壁まで軽々と吹っ飛ばされる。剣と盾が地面に散ってぐるぐると回転し、砂煙を巻き上げた。
「はっはー、さぁっすが元騎士団長……っと、アステル後ろ、危ない!」
 叫んだモニカの投げた瓶が、アステルの背後をとっていたナックルのウロ一体に命中する。甲高い音を立てて割れた瓶から散った、琥珀色の液体が、ウロの顔に直撃した。
 剣を背負うように構え直したアステルは助けられたことに気がつき、汗を散らしながらモニカのほうを振り向く。
「礼を言うぞ、モニカ!」
「そんなのいいわよ、ほらとっととやっちまいなさいっ」
 なんの薬だかはわからないが、どうやら沁みたらしく、たまらずといったふうに頭を押さえたナックルのウロの腹に、逆手に持った剣の柄で一発をねじ込む。通常考えられないような太さの柄を真っ黒な腹にめり込ませたウロは、がくん、と一度大きく身体を震わせ、そのまま糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
「あとは、お前だけだっ!」
 その言葉を合図にしたかのように、ナックルのウロ最後の一体が連撃を加えてくる。刃に手を添えて前方へ構え防御するが、それでも受けきれなかったナックルの尖った刃が、アステルの肩や頬を裂く。一気に後退を余儀なくされたアステルは、ついには追い詰められ、壁に背をぶつけた、が。
 アステルが待っていたのは、止めの一撃だった。こちらの力量を相手が高く見積もっていればいるほど、しっかりと息の根を止めてやろうと、どうしても振りが大きくなる。アステルはその一瞬の隙をついて、ふっと姿勢を低くした。ウロからすれば、まるでアステルがその場からまばたきのうちに消えてしまったかのように見えただろう。
 だがそれに気がついた時には、もう遅い。下に低く構えた剣を、アステルは勢いに任せて一気に振り上げ、その切っ先はウロの顎をまともに捉えた。
 骨の砕ける生々しい音が、刃を伝ってアステルの手に響く。高く打ち上げられたウロの身体は空を舞い、そして地面へと投げ出される。
「よおっしゃあ! やったじゃないアステル、アンタ、かっこいいわよ!」
 ぱちんと甲高く指を鳴らしたモニカに軽く手を上げて答えたアステルは、しかし真剣な面持ちで戦場に向き直った。あと二体ね、という嬉しそうなモニカの言葉に、振り返って答えてもよかったはずなのに。
 アステルはほんの数秒の間それができなくて、そのほんの数秒の間に、事態はひどい方向への急速な落下を決めたのだ。
「な……によ、あれは……!」
 飛びあがらんばかりに喜んでいたはずのモニカが、絞り出したようにやっとそれだけ言う。
 オリガの攻撃でぼろぼろになった通りの向こうから、建物の隙間から、屋根を飛び越えてから。続々と、同じくヒトのかたちをしたおびただしい数のウロたちが、集まり始めていたのだ。
 アステルは唇を強く噛みしめた、が、すぐに放した。よけいな力を使っている場合ではない。やることは変わらない。事実だって変わらない。現実はいつも冗談みたいに不条理で夢みたいに滑稽だが、しかし確かに目の前にあるのだ。
 だから、立ち向かわなければ。
「……アステル。だめ、だよ」
「サヤ! 待て、まだ動いては……!」
「だいじょうぶ」
 からんからん、という、軽い音がして。
 空瓶が転がる音だったと少し後で気がついた。ということはそれまでずっと、とらわれていたのだ。気がついてからアステルは、喉元までせり上がってきていた生々しい塊を、慌てて飲み込んだ。見ていたら、きっと、またとらわれてしまう。
「ここは、だいじょうぶ」
 唇の端に伝っていた血の雫を拭った、サヤの、紅い瞳に。
 短くそれだけ言ったサヤは、深く息を吸うように目を閉じて、そして、わずかに反らした身体をゆっくりもとに戻すと同時に、走った。いや、跳んだ、のかもしれない。もう誰にもわからない。もう世界中の誰一人として、彼女に追いつける者はいない。
 そうしてまた、戦場を駆ける風となった彼女は、攻撃範囲の差によりじわじわと追い詰められていたノエルのところへと行った。ついに壁を背にしてしまうところだったノエルだが、彼女を狙った槍がその矮躯を貫くよりも早く、疾風と化したサヤの手が、しかし優しく彼女の両肩を掴んで、引いた。
「ひゃ……!?」
 そのまま彼女たちは二人とも、戦っていた場所から半ば飛び降りるようにして離脱した。驚きのあまりあわやレイピアを取り落すところだったノエルに、サヤは背中からそっと、語りかける。
「ノエルちゃん」
「っ、サヤ! あなた怪我を、」
「ノエルちゃん、違うよ」
「え……?」
「ノエルちゃんは、そうじゃないよ」
 ね、と、戦場から一時撤退しているだけなのが不思議なくらいにまるく微笑んだサヤを見て、ノエルは何を思ったのだろうか。はっきりと表情が変わったことに驚いたアステルだが、想像がつきそうにもない。
「……ありがとう、サヤ。そう、でしたわね」
「うん」
 しかし、元気に頷いたサヤの、少し汚れた頬にそっと手を当てたノエルは、すぐに表情を引き締めて走り出したのだ――なぜか、以前の戦闘が嘘のように息も絶え絶えになっている、オリガの、ところへ。
 そうして彼女は、
「こぉの……すっとこどっこいの、おたんちん!」
「ぶへぁ!?」
 なんというか、非常に貴族らしからぬ罵声と共に、オリガの身体に、跳び蹴りをかましたのだった。
「ノエル……! テメッ、いきなりなにしやが、」
 る、と続くはずだった言葉は、しかしアステルたちのところまで届くことはなかった。それよりも先にオリガの背中で散った爆発音に、掻き消されてしまったからだ。
 オリガは驚いたようにそちらを一瞬見て、そしてすぐにノエルのほうへと向き直る。小さく口を開いて、だけどすぐに閉じた。そばかすだらけの頬が、みるみるうちに髪と同じ色になっていった。
「目は覚めましたか、オリガ」
「…………」
 彼女たちについてわからないことはやたらと多いが、ただそのときオリガがノエルに何を言おうとしたのか、そしてどうして言えなかったのかは、少しだけアステルにも、分かった気がした。
 だが顔を真っ赤にしているオリガに対して、フン、と軽く鼻を鳴らして肩にかかった銀髪を払ったノエルは、高慢ちきな態度でさらに重ねて言い放つ。
「あなた、爆弾の種類が変わったことに気がついていませんでしたの? おそらく時限式の爆弾ですわ。だというのに敵の誘導にあっさり引っかかってまあ、あなたときたら突っ込むことしか考えていませんのね」
「う、うるっせえよ! テメェのほうこそ長物相手にだらだら長引かせやがって、間合いはかられたらこっちが不利になるに決まってんだろが、力が足りてねぇんだよ力が! オジョーサマ気取りでお上品に攻めてんじゃねえぞコラ!」
「なんですって!?」
「んだよやんのか!?」
 しかしよくもまあ、この状況であれだけ本気の言い合いができるものだ。とあきれているつもりが、通り越して少しだけ笑えてしまっていた。そのアステルの表情にいち早く気がついた、というよりはほとんどそうなることを予想していたようだったサヤは、振り返っていたずらっぽく肩を竦めてみせる。ね、と言うみたいに。
「上等ですわ、庶民にんじんに馬鹿にされたままで、引きさがっていられるものですか。シャルパンティエの名にかけて、あなたよりも素早く! 優雅に! 敵を倒して差し上げることを、ここに約束いたしますわ」
「いちいち口上が長ぇんだよこのしらた貴族が。いーからテメェは黙ってそこでダンスでもしてろ、あたしが全員まとめてぶっ飛ばしてやっから」
 しかして、背中合わせに立ち上がったよく口のまわる二人の下へと、ウロの放った槍は真っ直ぐに飛んできたのだが。
 一息すらも乱れぬタイミングでぐるりと位置を取り換え、ノエルの剣先が槍を弾く。と同時に屈んだ頭上で、オリガの槌が勢いよく槍を打った。文字通り、打った。槍は飛んできたときとまったく同じ軌道を逆に辿って、ウロに直撃する。
 それを見て先発組としては最後に残った爆弾のウロが、建物の屋根の上から初めに投げたものと同じ爆弾を、二人に向けて投げつけた。しかしそれが地面に当たって爆発するころには、ノエルもオリガももう走り出していたのだ。ちょうどウロを挟むように。
「左!」
 ノエルが短く叫んだのとほぼ同時にオリガは得意のジャンプを見せて、一気にウロとの距離を詰める。距離を取ろうとウロが身を引くのに合わせて右から槌を振り抜くと、たまらずウロは左へと跳んだ。そこで待っていたのは、もちろん銀のレイピアの切っ先で。
 逃げ場はなかった。少なくともそこには。その一瞬の停止を見のがさなかったノエルとオリガは、そうして二人同時に手をつきだし、ウロの背を押す。屋根から真っ逆さまに落ちたウロを待っていたのは、オリガとの戦闘時に設置していたのであろう爆弾だった。
 轟音と共に上がった黒煙を見下ろしながら、ちぐはぐの二人は並び立つ。
「けっ、どーだ、火薬のお味はよ」
「あなたはもういい感じに味付けされてますものねぇ」
「るっせ! それよかノエル、提案だ提案。聞け。つーか聞け、従え」
「人はそれを命令と言いますのよ、オリガ。でもあなたにしてはちょうどいいタイミングですわね、わたくしも提案がありましたの」
 目配せした二人のところへと、サヤは駆けてゆく。なぜなら血に飢えているかのように初めに切り込んでいくのは、サヤの持っている、欠かせない役目なのだから。
「向こうからぞろぞろやってきてるやつら、」
「どっちが多く倒せるか」
『競争だ!』
 そしてあとを引き受ける背中合わせの二人が、ぎゃんぎゃんと言い合いを続けながら、ケンカの邪魔だとばかりに、そこらの連中を軒並み吹っ飛ばしていくのだろう。ずっとそういうふうにやってきた。ずっとそういうふうに、勝手にやってきたのだ、彼女たちは。
 それが今も変わらずできていれば。確かにだいじょうぶ、だな、と、アステルはサヤの背中に、もう見えないけれど、きっと風の吹いているあのあたりにいるはずのサヤの背中に向かって、頷いた。
「……あの三人が怪我したら、アタシがすぐそいつらまとめてミイラにしてあげるから」
「モニカ……」
「だから! アンタはもう、後ろのことなんか、気にすんじゃないわよ」
 いつものように、ばっちんという少々頼りになりすぎるモニカのウインクを苦笑で受けて、アステルは顔を上げる。行かなければ。
 どいつもこいつも勝手な連中に、蹴り飛ばすように後押しされて。
 そうやって、転びながら、泥だらけになりながら、ひとりでは届かない場所まで、行くのだ。
「アステルっ!」
 エドガルドの運転するバイクに乗ったヒューイが、こちらへ向かってしっかりと手を伸ばしていた。

「いやー、やっぱり戦闘要員たちは違うねえ。とてもじゃないけど近づけなかったから、焦った焦った。ノエルがまたうまいこと戦場をずらしてくれたんだろうねぇ」
「ごめんなさい、すぐに行けなくて。ずっとこのあたりを走っていたんですけど」
「いや、来てくれてありがたい。このまま城へ飛ばしてくれ……だがその前に、エドガルド」
「あー。やっぱり、気になる?」
 呑気な調子を崩さないエドガルドだが、ハンドルを握っている両手にも、そして表情のどこかにもわずかに緊張が滲んでいることは、もはや隠せていなかった。後ろにアステルを乗せ、そして足元のわずかなスペースにヒューイの小さな体を潜り込ませたままバイクを駆るエドガルドは、敵の目をごまかすように細い道を潜り抜けながら、ふっと短く息をつく。
「赤のヴェール。あれさー、開発したの、俺なんだなあ、実は」
 そうして彼は、そのままため息をつくように、ぽつりと零した。
「な……っ、き、君は、研究施設にいたのか!」
「うん。残念ながら、俺って、ディルトス始まって以来の、天才だったんだよ」
 疾走するバイクのエンジン音が一定だからなのか、彼の言葉はひどく淡白に響いた。ただもっと激昂しながら語られればよかったのにとすらアステルは思っていたのだ、そのほうが、禍々しい予感に身を震わせずに済んだだろうから。
 エドガルドは固さを押し殺した笑みを貼りつかせ、あくまでも今日の天気の話でもするかのような口調のままで、続ける。
「ヴェールに力を持たせ続けるために、キャスティスだけじゃない、すべての国が、いろんな儀式を行っているのは知ってるだろ。俺はね、その儀式をしなくてもいいように、なんとか永劫力を失わないヴェールが作れないかって、ずうっと実験してたわけ」
「……神気維持装置計画、か」
「お。さーすが元皇国騎士団長だねぇ、アステルくん」
 儀式に頼らず、人の技術のみでヴェールの力を保持し続けられるようにする計画があるということは、確かにアステルも耳にしたことがあった。〈儀式〉に大きく関わってくる技術だからといって、キャスティス皇帝も興味を持ち、テオフィリアを引き連れて中央研究施設を訪問したことがある。その当時騎士団員として護衛をつとめていたアステルも同様に、計画の成功に国を挙げて燃えるディルトス民主国家を訪れてはいた。
 研究や開発のことはアステルにはよくわからない。ただディルトス国民全体が、新しい技術の開発に燃えていた空気だけはなんとなく感じ取っていた。それがどれほどルク全体の人々に待望されていたかということも。
 そして、もうじき悲願を達してくれそうな天才がいるらしい、ということも。
「で……国のために、ルクの人々のためにって、毎日研究に真面目に勤しんだ俺が立てた理論が、赤のヴェールだったんだ」
 しかし、その話をテオフィリア自身から直接聞いたこともあったアステルは、思わず息を呑む。それと同じようにして、聞いたことがあったのだ。その、画期的で、誰もから称賛されるはずだった計画の、悲惨な末路を。
「なんだ、簡単じゃないかって思ったね。ようは内側からも外側からも濁りが襲い掛かるから、ヴェールが疲弊してしまうんだ。じゃあ、内側からの濁りをなくしてしまえたら? 単純に考えてわかると思うけど、たったひとつの能力に秀でたモノを作るっていうのは、そう難しいことじゃない。たとえば、ひとを殺すためだけの武器ってやつなら、案外作りやすいようにね」
 そして残念ながら俺は天才だったんだと、半ば吐き捨てるようにエドガルドは言う。上等の頭脳と国の期待、そして自らの探究心に燃える彼は、そうして赤のヴェールの理論を完成させた。完成させてしまったのだ。
 ストルはそれだけならば、きちんと道徳の光に守られている。それが外部のものたちと触れ合い、揺らがされてしまうから、濁りが生まれてしまうのだ。そう思った彼は考えだした。
 外側から与えられるものを、心に影響を与えるものを、「すべて」拒絶する赤のヴェールを。
「すべて、とは……どういうことだ?」
「すべて、は、すべて、さ、アステルくん。国々を覆う赤のヴェールは、外側から襲い掛かる濁りを、すべて拒絶する。まあ、ここまでは普通のヴェールと変わらないけれど……さっきも言ったように、赤のヴェールはストルひとつひとつにも有効なんだ」
「それ、は……つまり」
「赤のヴェールで覆われたストルは、外からの影響を受けることがまったくない」
 それがどういうことかわかるかい、と、エドガルドは言った。
「それがどういうことか、わかるかい、アステルくん。心が、周囲とのつながりをまったく断ち切ってしまうということが。ただ、万人のためにある道徳にのみ、ひたすら従い続けるということが。どういうことだか、わかるかい」
「………っ」
「俺はね、わからなかったんだよ。」
 天才が聞いてあきれると、エドガルドはその時初めて、わずかにふるえを孕んだ言った。そのふるえのなかに込められた感情をほどくことは、アステルにはできそうにもない。
 ただそのときの自分は、新しく画期的な、そしてきっと「みんなの役に立つ」であろう理論を打ち立てたことに歓喜していたのだ、と彼は言う。既にエドガルドの研究はディルトス民主国家全体の援助を受けていたから、立派に義務を果たそうと燃える彼は、国の代表者にだって激励の言葉を貰った。実験が成功したら籍を入れようと約束していた相手もいた。青い髪がすごく素敵な美人だったんだよ、と、彼は言う。
 そして彼は初めて、理論通り完成した赤のヴェールを使った実験を、行なったのだ。その役を自ら嬉々として買って出た、もっとも長い間彼の研究を手伝い、認め、称賛し、そして応援し続けた最大の協力者である親友を、実験台にして。
「実験は大成功だったよ。これ以上ないってくらい、ね」
 そう、実験は大成功だった。エドガルドの親友のストルは外との関わりをまったく断ち、濁りを発することのない、赤い膜に覆われたストルを、いつまでも輝かせ続けたそうだ。
 たとえば彼がそのときずっと片思いしていた女性を目の前に置いたって、少しの動揺も見せやしなかった。普段なら彼女が話しかけてくるだけでそっけない態度を取ってしまって、持ったってしようのない後悔でストルを濁らせていたのに。その様子はいかにも馬鹿馬鹿しかったのだとエドガルドは言って、けれどその彼は、そのときにはもういなかったのだ。
 そして彼は。常に穏やかな微笑みを絶やさず、濁らぬ光を発し続けた、彼は。
「彼は、ヒトガタになったんだ」
「ヒトガタ……? 待て、それは……もしかして、さっきの連中か?」
 頷きもしない、振り返りもしないエドガルドは、ただ、続ける。
「ウロと、よく似てただろ」
「……ああ」
「性質が似てるんだよ。空っぽなんだ、ウロもヒトガタも。でもヒトガタのほうがもっとひどいかも、いや、ひどいね。ウロは自分の心の濁りに、とらわれてしまった結果だけれど……ヒトガタは違う。自分の心そのものが、なくなってしまった存在だ」
「心が、なくなる……?」
「そうだよ。……そうだよ、アステルくん」
 後ろからでもわかるくらいに頷いたエドガルドは、ひとつ、ゆっくりと、息をつく。
「心って、いうのはね。自分の頭の中にじゃない、胸のどこかにじゃない。たったひとりの、どこかにじゃない。ひととなにかの間に、ひととだれかの間に、はじめて生まれるものなんだ」
 そこにしか、ないものだったんだ。
 最後の言葉を、どこか自分に言い聞かせるようにして呟いたエドガルドは、少しアクセルを強めた。後ろのほうでは、戦いが激化しているらしい轟音が響いていた。もう外と関わることのできない、ウロのように求めていた光に照らされもとの心を取り戻すこともできない、心を失った、空っぽのヒトガタたち。それが今、ここにはどのくらいいるのだろう。
「ヒトガタは空っぽだ。そして空っぽのヒトガタは、たったひとつだけ……ルクが、その道徳に即して下す命令にだけ従って、行動する。言ってみれば、〈議会〉の人形みたいなものさ」
 たとえば今背後にいる彼らが、外からやってきた侵入者であるアステルたちを、ただひたすらに倒そうとしているように。たとえばエドガルドの親友が、その場で自らの努力のおぞましい結晶である理論を破り捨てたエドガルドを、迷いなく〈最高議会〉へと引き渡したように。
 エドガルドはその後少しだけ黙った。バイクのエンジン音だけが、沈黙を貫き続けるヒューイと、エドガルドの背中をなんとなく見つめ続けるアステルとの間に流れる。ただ口を開いてはいけないと思って、アステルは呼吸もできるだけ抑えていた。
 そうして、親友を失い、研究を投げ出し、怠惰の烙印を押されてノクへと堕ちたエドガルドは、ぽつりと、ひとってのはさ、と言った。
「ひとってのはさ。めんどくさくなくちゃ、だめなんだ、多分。他人って何考えてるかわかんないだろ、自分が何考えてるかなんて誰もわかってくれないだろ、言葉は無力だろ、温もりは裏切るだろ、一人じゃ生きていけないのに、ほんとはいつもひとりぼっちだろ。でもさ、そうじゃなくちゃ、いけないんだ。俺たちは俺たちのこと、ひとと触れ合うってことをさ、最後までめんどくさがらなくちゃ、いけないんだ。そうやって、めんどうなくらい、身体じゅうのエネルギー、全部振り絞って……ひとを想いながら生きていかなくちゃ、だめなんだ」
 いつの間にか口調を呑気なものに戻していたエドガルドは、はは、とまた乾いたような、軋むような笑いを、零す。
「だから俺は、このとんでもない俺の発明品を、最後の最後まで、めんどくさがるよ」
 そう決めたんだ、めんどくさいけど。彼らしくそこまで続けたエドガルドは、低く沈めた声で、どこかの誰かが理論を穿り返して利用したというのなら、そいつもまとめてめんどうくさがるさ、と独り言のように締めくくった。
 胸元のクリーム色のノヴァが、それだけは希望と使命に燃えていた時代の名残だったのかもしれない彼の爽やかな顔つきを、ふと照らしだす。
 城門はもう、目の前にまで迫っていた。

 キャスティス皇国の城壁は国そのものの象徴としてよく取り上げられているだけあって、純潔の巫女として生まれた者のストルがすべてそうであるように、純白に塗りつぶされている。生きている人間が他に誰一人として見当たらない空気の中でそれを見た時、アステルの背筋はやけにぞわりとした。
 そういえばノクの壁には好き勝手に落書きがしてあったり、卑猥な言葉が書きつけてあったりしただろうか。ラボの高い塔の形をした煉瓦の壁にも所狭しと落書きがしてあって、かなり驚いたことをアステルはよく覚えている。そしてその落書きのほとんどが、誰かの名前であったことも。
 堕ちてきた人々の間に生まれた子どもは、ノヴァを与えられるために最初にヒューイのもとを訪れるが、その時つけた名前をここに記していくことがあるのだと、モニカが壁を見上げながら教えてくれたことがある。それからよくよく注目してみると、ノクにあるほとんどの落書きがそうであったことに、アステルはやっと気がつけたのだ。
 そう、ノクの落書きはそのほとんどが、自分の名前だ。きちんとした教育など受けてこなかった人間が多いから、だいたいは綴りがめちゃくちゃだ。けれども文字がまったく書けない子ですら、自分を示すシンボルを、懸命に考えて描く。あちこち、ほとんど手当たり次第と言っていいほどに描く。その理由を尋ねた時に、だって今日しかないかもしれないじゃないですかと、ヒューイは言っていただろうか。
 そんなものがノクの壁には溢れていて、ただそれと比べたら、ひとの手あかがぺたぺたと残っているものと比べたら、城壁はとても冷淡で。
 だがアステルが冷水を掛けられたような気分になるのは、まさにこれからのことだったのだ。
「こ、れは……!」
「んー……もしかしなくても、キャスティス皇国の、人たちだよねえ?」
 鳥肌が立つような光景、だった。
 城の前にバイクを停め、ぴったりと閉じられていた城門のわき、兵士用の出入り口の鍵を壊して侵入したアステルたちは、それから城の入り口までにある広大な庭園が目に飛び込んできた瞬間に、息を呑むように立ち止まってしまっていた。庭園には、まさに隙間なく敷き詰めたように、人間がいたから。右端から左端まで、先端から後方まで、入口から出口まで、全部、ヒトヒトヒトヒトヒトヒト、で、ぎゅうぎゅうだったから。
 庭はもはや庭と呼べるようなものではなかった。緑眩しい木々に囲まれ、丁寧に手入れされた季節の花々が咲き誇っていた城の庭は、いつも澄んだ空気が満ちていた。けれど今それは、むせかえるような、ずっしりと体中にまとわりつくようなものに変わってしまっていたのだ。
 人間がいない空気がひえびえとしているのだとしたら、人間がいすぎる空気はきっと、えづくほどの熱を孕んでいる。そのくせさっきよりもずっと冷たくなった手を握りしめながら、アステルは目を閉じて、開いた。見つめなければならない。それだけが木霊していた。
「全員……ストルを、取られていますね」
 エドガルドを挟んだ向かい側、ヒューイが彼にしてはとても厳しさを感じさせる声で言った通り、几帳面な仕事の結果といったふうに敷き詰められている人々は全員、ルクの人間ならばいつも胸元に輝かせているはずのストルを、誰一人として持っていなかった。心と魂を身体から引き離された彼らは、一様に人形のような表情を浮かべて、ぼうっと前を向いていた。
 前方の人間の後頭部が鼻先を掠めるような、横の人間と二の腕がぴったりくっついてしまうような、ひとりの人間であることを保つには息苦しすぎる距離で、ただ、前の景色を、硝子の瞳に映していた。
 その光景の異様さに喉を詰まらせていたアステルは、しかしどうしてだか引っかかって、目の前の光景以外のところに意識を集中させていた。ぼさぼさの白髪に隠れた瞳で自分と同じようにか、もしくは少しだけ違うふうに目の前の景色を映しているであろうヒューイのほうを横目に見ていたのだ。どうして彼は。
「仕方ありません、押し退けて行きましょう。早く赤のヴェールの装置を止めないと……サヤたちにばっかり、負担をかけるわけにもいきませんし」
 どうして彼は、ストルを「持っていない」ではなく、「取られている」と、言ったのだろう。
 だがアステルがそれを尋ねるよりも早く、ヒューイは小さな体を人々の足の間に潜り込ませながら、城へと近づこうとしていた。エドガルドが上からそれをサポートし、周囲に警戒しながらアステルはその後を追った。
 意志のない人間の身体はぐにゃぐにゃとしていて、邪魔するでもなく、押し退けられれば逆らわないのに、進むアステルたちの肌にただ生ぬるく絡み付く。人間どうしであっても、ひとりひとり体温は違う。それとなんの意志もなく触れ合うことが、こんなに気味の悪いことだなんて思いもしなかったが。
 やっとのことでひとの森を抜け城に入った途端、熱気のせいだけではなさそうな汗を垂らしながら、エドガルドが悲鳴を上げた。
「うへぇ、暑かった……でも城の中まではいないみたいだね、よかったぁ。えーっとそれで、キャスティス城の聖域に向かえばいいんだっけ。それ、どこにあるんだい、アステルくん?」
「聖域は地下の、一番奥の部屋にある……階段はこっちだ」
 らせん階段を下りたアステルだが、城の地下施設は、基本的には城内部の、しかも高位の者たちしか立ち寄ることのできないものばかりだ。キャスティス皇国のヴェールを発現させている装置がある聖域だけでなく、閲覧に注意が必要な書物庫やキャスティスに代々受け継がれてきた秘宝のある宝物庫など、とてもではないが近寄れもしない施設が居並んでいる。
 アステルとて例にもれず、階段まではテオフィリアの付き添いなどで来たことがあったが、地下施設が並ぶ道を越え、最奥の聖域へと続く廊下まで足を踏み入れたのは、もちろんこれが初めてのことだった。足が妙に重たいのもそのせいだろうかと思いながら、大理石のように澄んだ音を立てる床の上、アステルは軍靴をかつりと鳴らす。
「静かだな……」
「だねえ。あ、でもこの中では、ゴーグルとっても良さそうだよ。ね、先生?」
「えっと、そうですね……にしても、ここの光源はなんなのでしょう? 不思議な灯りが……」
 聖域へと続く狭い廊下は、息が白くなりそうなほどに冷えた空気の充満していた。角まで綺麗に切り出された石が整然と組み上げられた壁で囲まれており、全体が淡く青白い光で満たされている。アステルたちが一歩そこへ踏みこむと、三人分の足音が奥のほうまで反響した。
 ずっとあたりに警戒を配っていたアステルはそれでわずかに心臓を跳ねさせながら、しかし隅々まできっちりと目を走らせる。だが、青白く照らされた廊下から、その向こうの聖域の入口らしき扉に至るまで、動くものなど誰一人として、もしくは何一つとして見当たらなかった。
「……このあたりには、ヒトガタは配置されていないのか?」
「というよりも、配置できないんじゃないかなー。ほら、先生も、見てごらんよ。光源って、これのことだろ」
「うん……? これが、どうかしましたか?」
 エドガルドが指し示したのは、廊下の両側の石壁に点々と間を空けて設置されている、青白い光を放つ石だった。なるほど地下だというのにぼんやりと明るいのは、これに照らされているためのようだ。
「これは、心の生み出す光の中でも、特に神聖ってことになってる……んー、無償の愛とか、美しい友情とか、そういうものの結晶なんだよ。これには闇や濁りを弾く強い力があって――」
「その通り、だから貴様らがこれ以上足を進めることは許されない」
 ――瞬間。
「な……っ!?」
「ノクの汚らわしい者どもめ。よくもまあのこのこと、こんなところまでやってきたものだ」
 最奥より荘厳に轟いたのは、冷笑を押し殺したかのような、声。影の正体を掴もうと目を凝らしたアステルだったが、しかしその視界は、瞬く間にはげしく揺さぶられる。
 外側からの力ではなく、アステル自身の内側から沸き起こった、激痛によって。
「ぐあ、っ……!」
 痛い。痛い痛い痛い痛い。一瞬にしてそれだけが、アステルの頭の中を支配する。
 身体じゅうを締め付け、何度も串刺しにするような痛み。それが、たとえば鼓動のそれとはまるきり異なる、完璧に統制された一定のリズムで襲い掛かってきていた。はげしい痛みで勝手に硬直した身体は、なすすべもなく床に崩れ落ちる。しかしその後も痛みは休むことなく身体を苛み続け、苦しみのたうつあまり思わず咥内のどこかを噛み千切ってしまったらしく、呼吸もできないアステルの舌に、鉄臭い味だけが沁みる。
 電流、いや、これは、拒絶だ。虫のように床を這いずりながら、アステルはそう直感した。理解よりも素早く素直で、そして切実だった。名前を付けるとしたら拒絶。ここにあってはならないものを押し退けるための、消し去るための、純粋な痛み。それが今、身体じゅうで暴れまわっていた。
「ふん、なるほど、アステル・グラディか……おおかた、テオフィリアのことでも聞きつけてやってきたのだろうな。無駄なことを。愚の骨頂だ、欲望の化身めが」
 ひどい耳鳴りが喚き始めた中で、かつん、とあくまでも冷然とした足音が、一歩近づくのが聞こえた。視界に映ったのは、白い、白い、色。〈議会〉の人間が着る、ローブの色だ。
「それにしても、まったく、いちいち規格外の連中だな……あれだけのヒトガタをたった四人で食い止めるとは、恐れ入ったよ。心が人間を捨てたかと思えば、身体も人間を捨てたのか?  ふん、笑えない話だな」
 火がついたような全身で聞くには、その声はあまりにも温度差がありすぎたのだろう。一気に鼓膜が麻痺してしまったような気分に襲われて、痺れた頭に文章というよりは単語としてしか、それは聞こえてこなかった。
 だからそれを誰が発したものか判別することなど、仮に声自体には聞き覚えがあったとしても、アステルには到底できそうになかったのだが。
「レナー、ド……っ!」
 ただその答え合わせは、意外な人物によって、意外な形で済まされた。
 いや、彼の言う通りではあったのだ。そこに立って、アステルたちを、侮蔑以外の情念など欠片も籠っていないかのような絶対零度の瞳で見下ろしていたのは、レナード・ファーガス、〈最高議会〉議長に他ならなかった。けれども、ひとがひとの名前を呼ぶということは、彼の中での相手の存在を、思った以上に明確に示す。
 だから彼は、ヒューイは、痛みに締め付けられた声とはいえ、やはり意外というのが正しく思えるふうに、レナードのことを呼んだのだ。ルク中の規範の決定者であるレナードのことを、なんの継承もなく、まるで親しみを込めて肩を叩くかのように、呼んだのだ。
 しかしそれもまったく想定の範囲内であったかのように、レナードは応える。
「やあ、ヒューイ。相変わらず癇に障るくらいに元気そうだな。二度と会いたくなかったよ」
「ぼくは……っ、とても、会いたかったですよ、レナード」
 ばしん、と、とても重々しい音がした。ヒューイが手のひらを石壁についた音だった。それがどんなに震えても、壁を引っ掻くように鷲掴みにして、ヒューイは決して手を離さず、そして痛みが暴れる中で、足を、ついた。起き上がったのだ。
 そうしてヒューイは、汗だくの顔で、がちがち歯を鳴らしながら、でもあの無邪気な笑みを、浮かべてみせる。
「だって、ぼくたちは……たった二人の、兄弟じゃ、ないですか」

「……黙れ。」
 静かに言い放ち白い長衣をひらめかせたレナードがこちらへ片手を向けると、壁の石は一気に輝きを増した。
「っ、う、あぁああああっ!」
 その途端に、身体で暴れる痛みのリズムが早くなった。打ち鳴らされ、弄ばれているかのように。痛い。痛い。痛い。頭の中をまたたったひとつの単語だけが駆け巡って、気が狂いそうになる。逃げ出し、たい。ただそこまで考えがたどり着いてしまう前に、アステルは自分で頭を床に強く押しつけた。額が石と擦れる鈍い音がして、でも少しだけ頭が冷えた。痛い。痛い。痛い。でも、逃げたくない。
 逃げたくない、逃げたくない、助けたい人が、いるんだ。そのときアステルは自分でも気がつかないうちにノヴァを握りしめていた。どうしてだかそうすれば、少しだけ痛みが和らぐと、勝手に思っていたのだ。そしてそれは奇跡的にも概ね正しく、停止させられていた呼吸がわずかに楽になった。やっと取り入れられた新鮮な酸素に、ぼやけた視界がはっきりとしてくる。
「黙る、もんかっ……!」
 しかしてそこに、ヒューイは立っていた。物心つく前から戦いに身を置いていたアステルですら息を止めるような痛みの中で、小さな背中の、ぶかぶかの白衣を着た少年は、まだ、立っていた。
「黙るもんか、レナード! もうこれ以上、心を弄ぶのは、やめてください!」
「黙れと言っている」
 ああ、ひとの身体が壊れる音というのは、どうしてこんなにいやな響きなのだろう。
 それは床に叩きつけられたヒューイの頭が割れる音だったのか、その後躊躇なく踏みつぶされた小さな背中が折れる音だったのか、わからないが。ただ思わず耳を塞ぎたくなる崩壊の音だったことだけは確かで、床に散ったヒューイの血が、滲む視界の中でどす黒い光を放った。
 せめて彼に近づければと切望しても、指一本動かすだけで、激痛がアステルの身体を支配してしまう。エドガルドもおそらくは同じ状況なのだろう、苦悶の表情を浮かべたまま、冷徹な表情でヒューイを見下ろしたまま、踏みつぶす足に力を込めるレナードを、ただ見上げていた。
「俺は貴様が弟などとは認めない……貴様がファーガスを名乗ることなど、俺は認めない」
「ファー、ガ、ス……?」
 しかして、レナードがたやすく口にした、アステルがこわごわと繰り返した、それは、神の名だった。ストルを生み出し、ヴェールを生み出し、世界の人々の幸福を護り、そして人々の頂点に立つ、神の名だった。
 ふっと思考を止めてしまったアステルの痺れた脳に、続いたレナードの言葉が淡々と響く。
「貴様が神の領域に達しているなどとは、甚だ傲慢だぞ、ヒューイ」
「その、通りですね。ぼくは、神様なんかじゃ、ない……だけどレナード、ぼくは、ヒューイ・ファーガスだ。そして、あなたは……っ、レナード・ファーガスだ」
 床に這いつくばりながら、上から惨めに踏みつぶされながら、それでもヒューイは、レナードの靴底をぼろぼろの手で押し退けて立ち上がる。たったそれだけは、彼の胸元で、瞳で、身体じゅうで、いつまでも爛々と輝き続けていた。神々しいくらいに、あるいは、惨めに。
「あなたも、ぼくも。そして父さんだって、ただのグラハム・ファーガスで……誰も、誰一人として! 神様なんかじゃ、ないんです!」
 今度は蹴られた。道端に転がっていた空き缶のように。ヒューイの小さな体が廊下の外へと吹っ飛ばされて、階段の二段目までごろりと転がった。彼が聖域の拒絶が働く範囲を脱したことを見て、自分でそうしておきながら、もしくはまったく興味がないのか、ただ運がいいな、と、レナードは呟く。
「神を愚弄するか、ヒューイ。さすがは傲慢の罪で堕ちただけはあるな。そこの連中がみっともなくぶら下げているもの、あれはお前の発明か。神の猿真似とは、醜悪だな」
 痛みが無くなったといってもヒューイの白髪は前髪のあたりだけ真っ赤に染まっていたし、もう一度立ち上がっても彼は虫のように身体を丸めていた。そうしなければ身体を起こすこともできないのだろうと容易にわかるほど、ぼろぼろだった。
 ただそれは、ヒューイにとってはなんの関係もないことなのだろうと、アステルは思う。
「神様なんかじゃない! ぼくも父さんも、レナードも……ただの、発明家じゃないですか。ただ、グラハム父さんが、ストルを造って……レナード、あなたが、ヴェールと〈議会〉を造った。でも、たったそれだけのことじゃ、ないですか」
「たったそれだけのこと? 俺は父の拙い発明を完全なものにして、人々に永劫の幸福を与えた。光に満ち溢れた世界を作った。――開闢の神の名に、相応しいではないか」
 刹那、痛みが、一瞬、ほんの一瞬の間だけだが、アステルの頭から、飛んだ。
 まだ耳から入ってくる情報が生きていたことが驚きだったが、それよりも。レナードとヒューイが兄弟であったことも驚くべき事実ではあったが、それよりも。痛みだけが充満していたアステルの頭の中に、新たな単語が散りばめられる。ストル。ヴェール。〈議会〉。造った。グラハム。レナード。ヒューイ。ファーガス。
 ――現人神。
「違う……違う、父さんは、ストルを造ってしまったことを後悔していたのに!」
「そうだろうな。あんな未完成なもの……父は人間の心が生み出す濁りを、甘く見すぎていた。可視化したからといってそれが戒めになるなどと、研究者として考えが未熟すぎる」
 レナードは、神を名乗る彼は、そうしてとても楽しそうに笑った。それはヒューイの浮かべる無邪気な笑みとぎりぎり似ていて、しかしぎりぎりのところで、まったく別のものだった。必要なのはたった一歩だったかもしれないのに、そのたった一歩が、二人の道をこんなにも隔てたのだ。人間とは得てしてそういうもので、そういうものだから、レナードとヒューイ、たった二人の兄弟の目線は、かち合っているようで、きっとまったく違う色の風景を映していた。
 少年のように笑ったレナードは、自らの首にも提げられているストルを握り、誇らしそうな顔をする。褒められるのを今か今かと待ち構えている子どものように。
「だから俺が、完成させてやったんだ。ヴェールの濁りを取り払い、拒絶する機能と併せてな。あとは〈議会〉という道徳の導き手があれば、完璧だ」
「そうじゃない、そうじゃないんです、レナード!!」
 だが彼の目の前に立つヒューイは、ただ決然と、首を横に振る。
「それはあなたが、あなたの思うとおりに、ひとの心を染めてしまっているだけだ! 父さんが後悔していたのは、濁りが行き場を失くしてしまうからじゃない!」
「……何が言いたい、ヒューイ」
 その時になって初めて、レナードはヒューイのほうを、見下ろすのではなく、蔑むのではなく、ちゃんと真っ直ぐ見た。ほんの少しだけ、そのように見えた。
 幼い身体を荒い呼吸でふらつかせながら、それでもヒューイは立っていた。ストルの開発者、グラハム・ファーガスの息子にして、ヴェールの開発者、レナード・ファーガスの弟。傲慢の罪を犯した、ノヴァの開発者、ヒューイ・ファーガス。
「レナード。父さんが後悔していたのは、そうじゃないんです」
 彼は真っ直ぐ立っていた、目の前にも、そして自分にもぶら下がった神の名を、しっかりと踏みにじるように。
「父さんは、ストルが……ひとの心が生み出す、悲しみとか、怒りとか、欲望とか。そういうものを、濁ったもの、いらないもの、ないほうがいいものとしてしか表せなかったことを、後悔していたんだ」
「……なぜだ。いらないものだろうが、それは。そんなものがあるから、人間はみにくいんじゃないか。悲しみがあるから情けない姿を晒し、怒りがあるから争って傷つけあい、欲望があるから取り合って差が生まれるのだ。父は……そんな人間に、絶望していた」
「そうです。父さんはひとの醜い心に触れて、絶望して、それを嫌って……最終的に、人間すべてを、嫌いになってしまった」
 だけど、と、ヒューイは言いながら。
 弱々しく、崩れてしまいそうになって、それでも一歩、踏み出す。
「だけど……だから、必要だったんですよ、レナード。父さんには、ううん、ひとには、人間すべてを嫌いにならないために……だれかを、ちゃんと、好きでいるために、必要だったんだ」
 引きずるように、一歩、一歩、倒れかけて立て直して、また一歩、一歩。歩くヒューイは、足を踏み出すたびに続けた。
「だれかを嫌うっていうことが、きっと、必要だったんだ。」
 その姿を、アステルははっきりと見ていたわけではない。アステルの視界は痛みでだいぶ鈍ってしまっていたし、ヒューイの影が揺らめいて見えたのは、彼がふらつきながら歩いているからというだけではなかっただろう。
「折れない、濁らない心を持つことが重要なんじゃないんです。ぼくらは神様なんかじゃなくていい。英雄なんかじゃなくていい。良い子なんかじゃなくて、いい。ぼくらは誰も、そんなものにならなくたっていいんだ」
 けれどもアステルは、なんとなく、思ったのだ。
 言いながらヒューイは、笑っているのではないかと、思ったのだ。
「だって、それでもぼくらは、ぜったい、大丈夫なんですから!」
 大丈夫。
 あの無邪気な笑顔をへらりと浮かべながらそう言われたような気がして、ぴくりと指先を動かしてみたら、今度は痛くなかった。どうして、と思って、もはや苦しむ力もなく床に伏したまま目だけ動かしてやっと手元を見てみると、そこはとても明るかった。ひだまりにいるかのように、明るかった。
 ああ、そうだ。アステルは、半ば微笑むように思う。そうだこれは、ヒューイのノヴァだ。
「だめだって、それは間違ってるって、糾弾されることも、あると思います。それがみんなにとってよくないことだったら、利益でないことだったら、みんなはきっと、ぼくらのことを嫌いになるでしょう。なんてやつだって、後ろ指を指されるでしょう」
 それは、モニカが、オリガが、ノエルが、サヤが、エドガルドが、アステルが、そしてヒューイが、そうだったように。
 欲を丸出しにすれば、はしたないと咎められるだろう。悪感情を隠さずにいれば、みっともないと責められるだろう。規範に外れたことをすれば、出て行けと背中を蹴られるだろう。
 でも、とヒューイは静かに凪いだ声で言う。
「でもね。大事なことは、そんなことじゃないんです。大事なのは、顔も名前もない『みんな』に認められることなんかじゃ、ないんです」
 そうでしょう、アステル。今度は確かに名前を呼ばれた。応えることはできなかったけれど、アステルの手のひらが、それであたたかくなったことは確かだ。もはやどこにも力が残っていなかったような手を、ぎゅっと握りしめることができたのは、確かだ。
 そうだ、この手が剣を握ってきたのは、ほんとうは、みんなのためなんかじゃ、ない。
「大事なのは……自分が守りたいものを、自分にとってたいせつなことを、自分自身が、決めることなんだ。自分にとっての光は、自分自身が、決めるんだ!」
 決まりを押し付けられるものではなく、導かれるものではなく、縋るものではなく。立って、歩いて、目を開いて、耳を澄まして、できあがった自分の頭。それを力いっぱい、心の限りでぶん回して、自分自身で、決めたこと。
 それがあればきっと、その光が心に満ちていればきっと、雨ざらしになっても、冷たい床に這いつくばっても、きっと何度だって、立ち上がれる。
 だから、大丈夫。
「詭弁だな。俺は心にそんな可能性があるなどとは思わん。心は弱い。心は醜い」
「ええ、そうでしょう、レナード。あなたがきっと信じないようなことだから、ぼくはそれを信じています。そうしたいと思っています、心の底から、ね」
 ヒューイはそう言って、輝くノヴァに照らされた頬を、にいっと歪める。それは不敵で、不遜で、そしてどこまでも傲慢な笑みだった。
「だってぼくは、兄さんのことなんてだいっきらいだから!」
「……もういい。貴様はもう、喋るな」
 吐き捨てるように言ったレナードは、もう一度ヒューイの腹に爪先をめり込ませた。二人の体格差はあまりにも歴然で、また吹っ飛ばされたヒューイは、とうとう気を失ってしまったようだ。がっくりと崩れ落ちた胸元の光が届かなくなって、ほんの少しだけ救われていたはずの痛みが、身体じゅうに戻ってくる。
「ふん……随分なご高説を聞かされる羽目になったものだな。やれやれ」
 もはや完全にヒューイを見ることをやめていたレナードは、蠅を無視するかのように彼から目を逸らす。そうしてローブの袖に手を入れて取り出したのは、血のように赤く、そして心臓のように脈打つ宝珠だった。
 それを誇らしそうに掲げたレナードは、せめてもの情けのように、神が懺悔を聞き入れるかのように、アステルたちのほうを見下ろす。
「さて……これがなにか、そこのお前ならわかるだろうな、エドガルド・カッサーノ。悪いが貴様の理論を利用させてもらったよ、なかなかのものだ……だが貴様も、神の器には程遠い」
「そりゃ、どうもっ……願ったりな、こと、だね」
 かみさまになんてなりたくもない。息も絶え絶えなエドガルドは殊勝にもそう毒づいてみせたが、レナードはわずかに目を細めただけで、聞こえなかったかのように言葉を続けようと口を開いた。そもそも返答など求めていないのだろう。彼はただ神の座から、まぬけな民衆を見下ろしているだけなのだろうから。
「貴様は実験したとき、この装置にエネルギーを与えるために、自分の血を、いのちの力として使っただろう? それでは未完成だ、未完成すぎる……ヒトガタなどと、あんなみにくい姿になってしまっては意味がないだろう」
 なぜならば人間はその心の醜さが不思議なほどに、うつくしい姿をしているのだから。醜い心の容れ物というには、惜しいほどに。ぞっとするほど冷たい声で言ったレナードは、宝珠を掲げたまま、左足だけを引いた。
「神が教えを与えてやろう、愚鈍な脳に叩きこめ。この装置に必要だったのは、光の力に満ちた血……たとえば、そう。純潔の巫女の血、だ」
 そうして彼がどこか恭しく道を空けているようにも見えた、その向こう。聖域へと続く扉は、ゆっくりと開かれる。
 内側、から。
「そして己が未熟な発明の完成を喜びたまえ、エドガルド」
 澄んだ音を立てる銀の飾りを光らせて、白い、ただ白いローブをその身に纏った、彼女は。キャスティス皇国第一皇女、テオフィリアは、首の横でゆるく束ねた髪をふわりとなびかせて、誰もの息を止めてしまうほどに美しい微笑みを浮かべたまま、レナードのもとに歩み寄った。
 そうして彼女は流麗な仕草で彼と向かい合い、敬謙に屈む。絹糸のように滑らかに流れ落ちた髪の隙間で艶めく光を放つのは、桜色のうすい唇。それがそっと、尊い祈りを捧げるが如く触れたのは、レナードの足先だった。
「――実験は、成功だ。」
 立ち上がった彼女は微笑む。
 その胸元に、赤のヴェールで覆われたストルを、まばゆく光らせたままで。

「………っ!」
 ティア、と呼びたかった、呼べなかった。もう身体じゅうのどこを引き絞っても、そんなエネルギーは残っていなかった。でも仮に呼べたとして、といういやな声が、脈動するようにずぐり、ずぐりと響く。仮に呼べたとして、彼女は、もう。
「彼女は晴れてこの、赤のヴェールの完成に立ち会い、そして初めてそれを使う人間となった。どうだ、下劣な貴様たちにもわかるだろう、この美しさが!」
 それに追い打ちをかけるように、レナードは嬉しそうに続ける。彼はたいへんに幸福そうだった。そのように見えた。理解したくもないし、できるはずもない彼のことについて、少しだけ、言葉が浮かぶ。彼は。レナード・ファーガスは、おそらく。
 人間に、絶望しているのだ。
「もはやみにくい心に惑わされることなどなく、その身を人々のために差し出してくれるだろう。そうだろう、テオフィリア?」
「はい。どうぞわたしの血の一滴までを、人々のためにお使いください、レナード様」
 ならばあとは、集めておいたストルに、同じ〈儀式〉を施すのみだ。レナードは含むように笑いながら言って、それから一度だけアステルたちを見下ろした。もうあとは用済みだと払いのけるような、汚物を見るような目だった。だけどアステルが初めて心の底から痛い、と思った理由は、そんなことではない。
 頼むから彼女にそんなことを言わせないでくれ。どんなに痛みを与えられても、どんなにぼやけてしまっても、決して前を向くことだけはしなければと保っていた視界が、暗い暗い瞬きを、繰り返す。這いずりまわって汚れた頬の上を、冷たくて、だけどそれだからこそとても熱い滴が、ぽたりと伝った。胸の奥がぶるぶる震えて、うまく呼吸ができなくなる。
 アステルは泣いていた。両目からびいだまのように大きな滴を溢れさせて、ぼたぼた零しながら、泣いていた。久々に、ほんとうのほんとうに、しゃくりあげるくらい、大泣きしていた。
「なんだ、アステル・グラディ……みっともないな。テオフィリア、そうは思わないか」
「ええ。悲しみに心がとらわれてしまうとは、実に醜悪なことです」
 そう答える彼女の、美しい笑顔を浮かべ続ける瞳は、ただの一度も自分のことを映さなかった。だけど、それでも、ただ痛くて、悲しくて、たまらなかった。やめてくれ、頼むから、と、それだけがずっと、木霊していた。
 頼むから、お願い、だから。
 彼女に、死んでもいいなんて、言わせないでくれ。
「っ……だ、」
 でも声は一言たりとも出てこなくて、嗚咽すらも漏らす力は残っていなくて、たいせつな、たいせつな彼女の手を、もう握ってやることは、できそうにも。
「まだ、だ、アステル」
「………?」
 爪のもっと先、ほんの少しだけ。指先が、触れていた。
 エドガルドの、必死に伸ばした手に、触れていた。
「まだだ……まだ、彼女は……心を、失って、いない……っ!」
 心というのは、ひととひとの間にしか、ないものだから。
 来る途中で聞いたエドガルドの言葉が、ふつりと蘇る。赤のヴェールはひとの繋がりを断ち切り、心を失わせてしまう。ヒトガタに、なってしまう。それがもし、避けられない事態なのだとしたら。虫けらがしぶとく蠢いているとあざ笑う、現人神のレナード・ファーガス。もし、彼の言っていることが、間違っていたのだとしたら。
「悪いけど、俺はっ……天才、なんだ」
 苦く笑ったエドガルド、その表情が、光だった。彼にとっても、そしてなにより、アステルにとっても。
 エドガルドの理論に欠陥はなかった。関係しているのは誰の血かということではない、それが誰の血なのか、光の力を持っているかどうかなどということは関係なく、赤のヴェールは心を失わせ、ヒトガタを生み出してしまう。
 では、なぜ今彼女は、ヒトガタにならずに済んでいる。
 なぜ今彼女は、美しい姿そのままで、いられる。
「う……っ、ぐ、ぅ……!」
「そうだ、アステル」
 答えはひとつ、彼女がまだ、心を持ち続けているから。
 切り離されたひとりぼっちの中でも、絶望的に茫漠とした暗闇の中でも、強く、強く。きっと必死に、乱暴に奪い去ろうとする数多の手から逃れて、身体ごとすべて盾にしてでも懸命に押し隠して、たいせつなことを、守り続けているから。
「なあ、アステルくん。……キミたちって、ずいぶん、お似合いだよ」
 最後にいつものうさんくさい、からかうような口調でそう言っていたような気がした。エドガルドはそれきり何も言わなくなってしまったけれど、指先ももう離れてしまったけれど、たいせつなことは、もうわかる。足りない光は、たくさんもらった。
「あ……ぁ、」
 あとは、力を。
 たいせつなひとを、たいせつにするための、力を。
「あぁあああああぁあああっ!」
 アステルは、汗なのか、血なのか、よくわからないものを身体じゅうから噴き出しながら、両足を強く地面に叩きつける。
「――っ、ティア!」
 そうして、たいせつなひとの名前を、呼ぶ。
 想いはないほうがいいなんてもう言いたくない、届かないなんてもう思いたくない。決めたんだ、そばにいるって決めたんだ、泥だらけになって這いつくばってでも、血だらけになってしがみ付いてでも、君を守るって、決めたんだ。
 彼女は、青く煌めく刃の大剣を抜いて、レナードに向けて構えた。青みがかった銀の刃はアステルの吐息でわずかに曇って、それが晴れたときには、冷徹に佇み続けるレナードと、その傍らで紙に描いたような笑みを浮かべるテオフィリアが、はっきりと映っていた。
「そのひとを……ティアを、渡してもらおう」
 痛みは、いつの間にか消えていた。それは自分の胸元が、周囲を照らす石よりもずっとずっと眩しく茜色に光っているせいだなんて、アステルは気がついていなかったけれど。
 だけど今のアステルを跪かせることなど、太陽にだって不可能だ。
「……なるほど。つくづく、規格外の連中ということだな。いいだろう、〈儀式〉が終わるまでそこで大人しく這いつくばっているなら、ここまで来た褒美に俺がしっかり止めを刺してやろうと思っていたが、予定変更だ」
 さして動揺もしていない目でアステルを見つめたレナードは、宝珠を握る手にわずかばかり強く力を込めた。どくん、と一度強く脈打った宝珠は、そうしてテオフィリアに、自身の心を見失ったまま血のヴェールの奴隷となった彼女に、命令を下す。
「奴を殺せ、テオフィリア」
 ナイフを渡されたテオフィリアがアステルに向かって素早く突進したのは、レナードがそう言い終わったのとほぼ同時だった。迷うことなどひとつもない、考える隙など少しもない。
 彼女はただ美しい微笑みを湛えたままで、片手を柄に、もう片方を柄の終わりにかける。テオフィリアのぎらつく刃は、アステルに向けためらいなく襲い掛かってきた。頸動脈。戦闘慣れした目が、恐ろしいほどに真っ直ぐで正確な急所への攻撃であると教えてくれる。それは半ば警報でもあったのだろう。
 ただナイフの描く軌跡はあまりにも直線的で直接的であったから、どうあしらえばいいのかということも整然とした手順としてアステルの頭には浮かんでいた。というよりも、その時にはもはやそういうふうに、戦闘慣れしたアステルの身体は動いていたのだろう。
 けれど彼女は、動きかけた身体を、完全に躱しかけた足元を、反撃に動こうとする手元を無理やりにその場に縛り付けて。
 少しだけ、笑っていた。
「ぐ、ぅっ……!」
 深く、深く、善意と正義と道徳とをのせた刃が、身体を貫き通すまで。
「なんだ、元騎士団長ともあろうものが、あっけないな……それとも、愛する者に刺されて死ぬなら、本望か? 最後の最後まで、愚かな連中だな」
 哂うレナードの声が、動かなくなった二つの身体と、ひたりと触れ合った二つの影の上に、公明正大に降り注ぐ。それに応える者は誰もいなくて、それは彼のことを、はたして満足させたのだろうか。アステルは少しだけ、そんなことを考えて。
 痛いというよりは熱かった、血がどろりと吹き出ていく感覚が、やけにはっきりと感じられた。出発前に貧血ではないとサヤに言ってしまったけれど、あれは嘘になってしまうかもしれないな。それならきちんと謝る言葉を用意しておこう、と、アステルはまたふっと笑う。彼女の胸の辺りでは、彼女のいのちを奪ってしまおうと、粛々と刃がねじこまれていたのに。
 だがアステルは、腕の中のテオフィリアに向けて、ただ下された命令を実行しようとする彼女に向けて、いとおしそうに言う。
「つかまえた。」
 やっと。
 がらんがらんと、甲高くて重い音がした。アステルの両手はもう、剣を握っていなかったのだ。代わりに彼女は、彼女の両手は、もっとたいせつなものを抱きしめていた。ほんとうは最初から、そのためだけにあったもののように。
 アステルはただ、たいせつなひとの華奢な背中を、淡く甘い匂いとあたたかな温度と、彼女の存在すべてを、両手をいっぱいに広げて、抱きしめていたのだ。
「な……にを、している、貴様」
 その時初めて驚愕しきった表情を浮かべるレナードだが、アステルは絶対にティアを手放さなかった。下腹部から血を吹き出しながら、血を失ってだんだんと顔色を悪くしながら、それでも手放さなかった。
「ティア」
 抱きしめながら、名前を呼んだ。
 瞳を覗き込んで、名前を呼んだ。
 髪を撫でながら、名前を呼んだ。
 額を押し付けて、名前を呼んだ。
「ティア、」
 ただ、君のことを、呼んだ。
 それ以外なにをすればいいのかわからない、それ以外に確かなものが、自分の心に見当たらない。なるほどめんどくさいな、みにくいな、よわっちいな。
 だから、悪かった、ずいぶんと遠回りして、ずいぶんと遅くなってしまったけれど。私は多分ほんとうはひとよりもずっと臆病で、ずっとずるくて、よわむしだけれど。
 でも、これだけは、ゆずれない。絶対に、手放せない、たいせつなこと。

「ティア。君のことが、好きだ」

 だからどうかこれからも生きて。
 見えるかな、こっちだよ、笑って、笑って、さあ、もう帰ろう。
 私の光、君のところへ、届け。

 アステルがそう告げて、彼女の首にさがったノヴァが、燦々と光る心が、赤い膜に覆われたテオフィリアのストルに触れたそのときだった。
 ずっと、なんの揺らぎも見せなかったストルの光が、呼応するように、ゆらめいた。
「くそっ……! 貴様、」
 テオフィリアの胸元がおかしな光を放ち始めたことに気がついて、やっと事の異常を悟ったレナードは、重なったアステルとテオフィリアを引きはがそうとした。だが彼は唐突にがくんとその場に崩れ落ちてしまう。
「な、んっ……!?」
 這いつくばったまま、血まみれの汚い手で、みっともなく彼の足元にまとわりついていたのは、歯の欠けた笑顔をにいっと浮かべたヒューイと、そして爽やかに整っていた顔が嘘のように汚れきった、エドガルドだ。
「だめですよ、レナード。あなたが馬に蹴られて死んでしまうのは、困る」
「そうそう。なんせあの二人、やーっとくっついたんだから。まったく、もどかしいったらありゃしない」
「なっ、お前たち、なぜ……っ、なぜだ、なぜだ! 間違っているのは貴様たちの方だろうが、不幸をもたらす汚れた連中めが!」
 二人に片足ずつを掴まれたレナードは、ついには唾を吐き散らしながら激昂した。
「ここでキャスティスがテオフィリアを失えばどうなるか、人々はどうなってしまうか、餓鬼でもわかることだろう! 誰もがお前のことを憎むぞ、その罪を恨み続けるぞ、わかっているのか、アステル・グラディ!」
「……私は、べつに」
 ひどいことを言うだろう。自分はこれからひどいことを言うと、勝手に震えはじめた唇を舐めながら、アステルは確信していた。だからその前に彼女は少しだけ、エドガルドとヒューイの方を見やったのだ。
 彼らなら、自分と同じく世界から見ればどうしようもない、ひとりぼっちどうしの彼らなら、もしかしたら自分のことを、笑い飛ばしてくれるかもしれないと思ったから。
「べつに、顔も知らない誰かに、許してもらおうなんて、思わない」
「な……ん、だと」
「そういう、選択を、したんだ。私が、私自身で、そう決めたんだ」
 世界ではなく、万人の幸福ではなく、常に正しい道でもなんでもなく。
 自分にとってかけがえのない、たったひとりの彼女を選ぶと、決めたのだ。
「だから……それで、誰もに恨まれたって……私は、かまわない」
 なにせ私の剣はばかでかいから、振り回せば十人だってまとめて吹っ飛ばせるくらいなのだから、まあ、きっと、大丈夫だろう。
 ちっとも関係のないようなことを言ったように思えたのだろう。一瞬それで隙を見せたレナードの手から、エドガルドが宝珠を奪い去った。
 後は、あっという声を上げる間もない。彼は奪った宝珠を思いっきり床に叩きつけ、透明な音を立てて粉々に砕け散ったそれを、さらに上から億劫そうに踏みつぶして、笑う。
「そうだなぁ、カミサマ、キミはまず……心ってやつの起こす冗談みたいな奇跡を、あまりなめないほうがいい」
 だんだんと薄れゆく意識の中でアステルが聞いたのは、二人がそう言い放つ、でもやっぱりラボで一番と二番目に呑気な雰囲気の声と。それから、ぱきん、と、薄い薄いなにかが、優しく砕け散る音と。
 でも、自分の名前が呼ばれたかどうかは、正直なところ、アステルはよく覚えていない。


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