3、儀式





 *

 城の近くに最近建てられた小さな診療所の評判は、既にキャスティス皇国中で囁かれていたといっても過言ではなかった。
 ヴェールの力は日に日に弱まり、襲撃の数もその分増えていた厳しい現状。城に配属されている医師団は、ここのところ騎士団や他の国からやってきた助けの兵士たちで手いっぱいで、一般の国民たちにとってこの診療所の存在は、いわば最後の希望のようなものであったのだ。
 しかし、これほどまでに診療所の噂が広まっているのは、きっとそのせいだけではないのだろう。そこでひとり医師をつとめるテオフィリアは、夜、つかの間の休息にカルテを整理しながら、ぼんやりと考えていた。
「……テオフィリア様、いかがなさいました?」
「えっ? あ……ああ、レベッカさん。ごめんなさい、なにかご用でしたか?」
「いえ、お茶をお持ちしたのですが……」
 言った通りに盆の上に湯気の立つカップをのせていた看護師のレベッカは、おずおずとテオフィリアの前にそれを差し出した。勤務中でなくともレベッカは前髪をきっちりと二つに分けて留めているので、鳶色の瞳がじっとこちらを伺っていることが、はっきりとわかってしまう。
 受け取って一口飲んでから、美味しいです、と一応微笑んではみるが、レベッカの心配そうな表情は変わらなかったので、おそらく自分はまた呼びかけても暫く返答しなかったのだろう。ここのところそういうことばかりが続いていて、そのたびに彼女に迷惑を掛けてしまっている。テオフィリアは、レベッカに向けていた笑顔を少し苦いものに変えて、そっとカップを置いた。
「また、考え事をしていらっしゃったのですか?」
「ええ、まあ……少しだけ」
「例のことで?」
「……はい。」
 他の看護師たちと違って、テオフィリアと同じく診療所に泊まり込みで働いてくれているレベッカは、やはり過ごす時間の長さなのだろう、テオフィリアの機微にとても敏感になっていた。見透かされているのなら仕方がないと、テオフィリアも素直に頷く。
「テオフィリア様……どうか、あまり深くお考えにならないでください」
「そう、ですね。そうしようと、わたしも思っているのですが」
「例のことは、テオフィリア様が頭を悩ませる必要のないことなのです。考えない方が、いいことなのです。何も迷うことはありません、何も悩むことはありません。あなたは今、皆のためにとても立派にやっておられます、そうでしょう?」
 例のこと。というふうにしか、レベッカは、いや、それだけではなくここを訪れてくる人すべてが、「それ」については語らない。
 それなのに、なんと痛ましい、だとかどうか気を落とされませぬよう、だとか、涙は流さないにしても精一杯あわれみを込めた表情での言葉を、テオフィリアはこれまで何度も受け取ってきた。でも人々は、なにかとてもひどいことがあったのだ、としか言わない。
 だからなにかとても、とてもひどいことがあって、自分は純潔の巫女としての資格を失い、こうしてほとんど城から追放されるような形で、診療所を開くことになったのだ。そういう認識しか今のテオフィリアにはなかったし、それについて考えを巡らせようとするたびに、自分のストルがわずかに濁ることを、彼女は知っていた。
「……ごめんなさい、レベッカさん。心配をかけてしまって」
 そうなると、考えない方がいいことなのだ、というレベッカの言は、彼女が城から派遣されたテオフィリアの目付け役も同時に担っていることを抜きにしても、きっととても正しい。監視という任を帯びてはいるものの、レベッカがいつも自分にとても丁寧に尽くしてくれていることは、テオフィリアだってよくわかっていた。それに、ストルが赦さないということは、それは間違ったものであるから。みんなのため、に、ならないものだから。
 だから、考えてはいけない。知りたいと思ってはいけない。
「もうお休みになられてはいかがでしょうか? 連日働きづめですから、きっと疲れていらっしゃるんですよ。明日は休診ということにするのも」
「いえ、診察は続けます。毎日何件もウロの襲撃があって、国民が怪我をしているのは事実ですし……わたしには、それを手助けする義務があります」
 そう口にしてから、自分で喉を滑らせたはずの言葉が、妙に空っぽに響いてしまったような気がして、テオフィリアはまたはっとする。かすりと心が軋むような音がするのだ、そんなのどこでも鳴っていないし、鳴ることだってないはずなのに。そうだというのに、その違和感に、これまで何度苛まれたことだろう。
 あれは事故だったのだからと責任を追及されることはないし、ルクの人々はみんな優しいから、決してテオフィリアのことを悪く言ったりはしない。そう思うことすらないだろう。でも許されているというのと許していいというのはまた別で、自分が生まれ持った使命を果たせなかったのは事実だ。だから、純潔の巫女として人々の役に立つことができなかった以上、何らかの形でそれを償うだけの行動を国民のためにするのは、正しい義務なのだ。
 テオフィリアは確信する、何度でも確信する。はたしてそれを確信と呼んで良いのかということがじわじわと膨らみ始めていることに気がつきながら、また確信する。これは、わたしの義務。常に万人のためにあるルクの住人として、当たり前の義務だ。義務だ。――義務?
「義務、が……」
 頭を掠めるのは、診療所を訪れた人々が、決まって口にする、感謝の言葉で。
 ご立派ですと、よく言われるのだ。もはやそれが診療所の評判の要であるかのように。あのような痛ましい事件があったにも関わらず、国民のために尽くそうとするテオフィリア様は、本当にご立派だ。ご自分の義務をきちんと果たされている。今も人々のためにあろうと努力なさっている。国民の鑑。ルクの住人の鑑。
 常に、全体の幸福のため、正しく義務を果たす。わたしはそのために医術を。わたしはそのために診療所を。わたしはそのために、
「……わたし、は」
「テオフィリア様?」
「わたしは、そんな、ものの、ために、――っ!」
 その恐ろしい言葉の続きは、あっという間に掻き消されてしまった。
「テオフィリア様!」
 鋭く呼ばれた、と思ってはっとしたもうその頃には、数秒間の思考が抜き去られてしまったことだけしか、テオフィリアには理解できなかった。理解することが赦されていなかった。今感じているぽっかりとした空虚感だって、そのうちにきっと忘れてしまう。それがあったということすらも、きっと忘れてしまう。
 でもどうしてだろう。
「……とにかく、明日も、診察は続けますから。戦力も残り少なくなり、国は少しずつ疲弊してきています」
「しかし……しかし、テオフィリア様」
「大丈夫。わたしは、大丈夫ですから、レベッカさん」
 でもどうしてだろう、騎士団が苦戦しているという話を聞くたびに、気がつけば手をぎゅっと握りしめてしまうのを、どうして自分はやめられないのだろう。彼らが任を終えて傷ついた体を引き摺るようにしながら城へ戻ってゆくのを見る時、何を探しているのだかもわからないのに、どうして目を凝らしてしまうのだろう。
 何度逃がしても、何度消されても、何度空っぽにされてしまっても。わたしの心からいつも満ちては溢れだして、ざわざわとせめぎあう、なにか。
 そう、だから、ずっと昔から思い描いていた夢だったはずの医師になったというのに自分は、なんだかいつも迷子のようで。いつもなにかを、なにかもわからないなにかを、ずっと、探している、ようで。
「――素晴らしい。まったくもって、素晴らしい」
「っ!?」
 ぽん、ぽん、とやけに仰々しい拍手が廊下から聞こえてきたのは、その時のことだった。
「誰です!?」
 レベッカが鋭く声を上げたが、しかしその闖入者はまったく意に介していないようだった。そうして暗い廊下から姿を現した長身の影は、拍手をしている手元から足先まですっぽり覆ってしまうような長い白色のローブを身に着けていた。その首元にある紋様が示す意味をとっさに読み取れなかったことについては、テオフィリアも驚いていたのだと言うほかない。
「素晴らしい。さすがはキャスティス皇国第一皇女テオフィリア様だ、なんと美しい奉仕の精神でしょう。純潔の巫女の名は、まったくくすんでいらっしゃらないようだ」
 驚くテオフィリアとレベッカをよそに、十三回目の鐘が鳴るのも目前といった非常識な時間に訪ねてきたその人物は、鋭く整った顔に微笑を浮かべて拍手を続けながら、テオフィリアたちのいた診察室の中へと入ってきた。
「あなたは……もしや、〈最高議会〉の、レナード議長……?」
 そのおそろしいほどに美しく長い白髪に、切れ長の瞳に見覚えのあったテオフィリアは、頭に閃いた名前を、しかし半信半疑で口にする。とてもではないが、城の外であり、かつちっぽけな診療所であるここにいるべき人物とは思えなかったから。けれどもようやくはっきりと頭の中で意味と名前がつながったローブの紋様が、テオフィリアの言葉を後押しする。
「覚えて頂けて光栄でございます。直接お会いするのは少々お久しぶりですね」
 そうして彼は、ルクの道徳の決定機関でもある〈最高議会〉議長レナードは、恭しくテオフィリアに向けて頭を下げた。
「お元気そうでなによりです、テオフィリア皇女」
「……ええ、あなたも、レナード議長」
 自身も会釈したあと手の甲への挨拶を受けるテオフィリアだったが、初めて彼を目にした時からずっとそうであったように、そのときもわずかに体を強張らせていた。それを緊張している、という一言で片づけてよいものかどうかは、未だに答えが出ていない。
 テオフィリアの方はまだろくに言葉も話せなかったような幼い頃から会っているというのに、レナードの外見はその初めて会ったころの二十代前半男性のものから、ほとんど変化していなかった。〈議会〉発足の時点から議長を務めているという噂もあるが、本当のところはまだ誰も知らず、しかしよけいな詮索をしようとする人間はルクにはいない。何よりレナードは、法の決定機関たる〈議会〉の最高権力者なのだから。ルク全土の道徳と正義を体現したような人間として尊敬を受けないはずがない存在であり、それはテオフィリアにとっても同じことである。
 ではやはり、その素晴らしい人と対峙していることからのただの緊張なのだろうか。そう思いつつ身を固めているテオフィリアに、レナードはあくまでも穏やかな微笑で、話を続ける。
「夜分に突然お伺いしてしまって申し訳ない。ただディルトス民主国家の方から朗報が入りましたので、早急にお伝えせねばと思いまして」
「ディルトス……? というと、中央研究施設が、何か新たな発見を?」
「ええ。しかも、テオフィリア皇女、誰よりもあなたにとって、素晴らしい報せですよ」
 ディルトス民主国家といえば、〈勤勉〉を世の理とする、研究開発が非常に盛んな国である。なかでも中央研究施設と呼ばれる場所では、ディルトス国内だけでなくルク中の天才たちが集められ、人々の生活をより豊かにするための研究が日夜行われている。それについてはテオフィリアも聞き及んでいた。
 もちろん皇女として父に連れられ、研究施設の中を見学させてもらったこともある。確かそのときは、ヴェールが力を失わないようにする実験計画に国を挙げて燃えていた時期で、ただその計画は途中で頓挫してしまったらしいが。
 そんなことをつらつらと思い出していたテオフィリアは、レナードに両肩を掴まれ、思わず彼の顔を見上げる。笑顔をより深くしたせいで、彼の目はさらに細く、細くなり。
 しかし、その向こうからわずかに覗く瞳の光は、
「テオフィリア皇女、お喜びください。あなたはまだ、純潔の巫女としてその力を発揮することが可能なのです!」
 まるで、氷のよう。

 *

「……なんだって?」
 勝手に喚きたてたあげく法外な報酬をふんだくるというアビーとバートの手に、アステルとてシュミット家の一件以来さすがに懲りていた。しかし、彼らがまたいつものごとくラボの扉をけ破るようにやってきてから好き好きに撒き散らしていたテオフィリアに関する情報、それを聞いた時ばかりは、声を上げずにはいられなかったのだ。
 その独り言のようにしか響かなかった言葉を、しかし情報屋という職業柄耳は鍛えているのか、あっさりと拾った双子は、アステルの周りを取り囲む。
「嘘は言わない、ぼくはバート!」
「早くて正確、あたしはアビー!」
「それがぼくらのモットーだ、ホントのことだよ、アステル・グラディ!」
「テオフィリアはまた巫女になれる!」
「みんなのために、いのちを捧げる!」
「ディルトス中央研究施設が、新たに見つけた〈血の儀式〉!」
「テオフィリアはまた、みんなのための贄になる!」
「今日が終わって、明日になったら!」
「血の純潔を、捧げるんだ!」
「もういいっ!!」
 もう、いいから、やめてくれ。
 空気をざらざらと震わせる二人の声を遮るように、喉を引き裂くほどの大声を上げたアステルは、二度目にそう零したとき、不思議なことだが、これが、と思っていた。
 ああ、これが、泣き声なのだ、と。やけに静謐な心に響かせながら、そう思っていた。
「えーっと……でも、それ、おかしくないかい?」
 ラボにしては珍しいと言っていいほど凍りついた空気の中でも、あくまでものんきにそう言ったのは、やはりというかなんというか、エドガルドだった。どうやらアステルが堕ちてきたとき、かなり詳しい話を半強制的にこのこうるさい情報屋から聞かされたらしい彼は、いつものように微笑みを絶やさないまま、腕を組み直して続ける。
「いや、だってさー。なんにせよ、儀式のためにはそのテオフィリアさんが、純潔を守っていることが必要なんだろ? それって確か、アステルくんが奪っちゃったんじゃなかったっけ? だから君はノクに追放されたんだって、そう聞いたけど」
「……ああ、そうだ。テオフィリア様の身体の純潔は、確かに私が奪った」
「だろ? それなら彼女にはもう、儀式の巫女になる資格はないはずじゃ……」
「しかし血の純潔は、私にはどうあっても奪うことができないものだ」
 即座に言い返したアステルに、エドガルドは、彼にしては珍しい虚をつかれたような表情をした。それを見てアステルは、笑いそうになる。くつくつと、笑いそうになる。
「……どういうことですの?」
 だから怪訝な顔をしたノエルが口を開いた時だって、アステルの胸はあくまでも、ぞっとするほどに軽かったのだ。それは次の言葉についてだって、きっと同じことで。
「それは、男女による営みでしか、奪えないものだろう?」
 ああそれにしても、いつだって口にしてみるとあっさりとしたことなのに、どうしてこんなに私の喉は渇いているのだろう。そんなことを自分でも驚くほど淡々と、やけに静まり返った頭の中で、やけにうるさい身体を抱えながらアステルは考えていた。それから周囲の全員が、あのアビーとバートまでも含めた全員が、沈黙に包まれていることに気がついて。
 とうとう、小さく笑ってしまった。――否、哂ってしまった。
「まあ、そうじゃないかとは、思ってたけどね」
 だがアステルよりも先に口を開いたのはモニカの方で、全員の目が向いたのもモニカの方であった。視線を一身に受けたモニカは、実はとてもたくましい肩をひょいと竦めると、あのねえ、とアステル以外の面々に向けて、その事実を口にする。
「アンタたちね、よく考えてもごらんなさいな。アステルはね、その身の純潔がとぉっても大事なお姫様の、唯一無二の側近だったのよ? どうあっても間違いが起きないように気を付けるんだったら、そんな立場の人間に……男なんて、据えると思う?」
 一気に空気がびりっと自分に刺さったのを感じて、アステルはよけいに哂えてしまっていた。なぜだかよく見えないが、妙に視界がぼんやりしているが、ともかく場にいる全員が、自分のことを見ているのだろう。
 でも別に彼らの顔がよく見えなくたっていい。その瞳に何が浮かんでいるかなんて、知っている。ずっと前から、知っている。鏡の向こうの自分の目が、ずっとそうだったから。
 それは、そうだ、驚愕と好奇と憐憫と。
 そして、あってはならない狂気を、恐れる目だ。
「アステルくん……君、もしかして」
「ああ、そうだ」
 だからあっさりと頷くことができたのかもしれないと、アステルは。
「私は女だ」
 ――彼女は、思う。
「私は女だ。女のくせに、それを見込まれて彼女の側近に選ばれたくせに、私はそのすべてを裏切って、彼女のことを想い、焦がれてしまった。彼女のちいさな夢を、守りたいなどと望んでしまった」
 今にもぷっつりと切れてしまいそうなほどに沈黙が張り巡らされた室内で、アステルの声だけが、滔々と響く。
「そうして私は、彼女にキスをしたんだ。」

 ところが、まるで初めからそこにあったかのように、それからずっと長い間大事に保たれてきたかのように思われた沈黙が壊れてしまうまでは、意外にも短かったのだ。それこそその沈黙を作り出したはずのアステルが、少し驚いてしまうくらいには。
「で、それで。あなた、どうなさいますの?」
 初めにあっさりとそれを破ったのはノエルで、驚いていたせいもあってわずかに反応の遅れたアステルは、とりあえずおうむ返しにどうとは、とだけ聞いた。しかしノエルの方は、いらいらしたように銀髪を払う。
「ですから。このままですとそのテオフィリア皇女は、あなたの想い人は、〈血の儀式〉の生贄になって、死んでしまうのでしょう? あなた、それでいいんですか?」
「それで、よくない理由があるのか?」
 ほとんど反射的にアステルはそう答えていて、ただ他でもない彼女自身が、そのことにとてもほっとしていた。少しだけ怖かったのだ、ここの連中は誰も彼も規格外だから。見たこともないような顔で笑って、考えたこともないようなことばかりを言うから。
 もしかしたらほんの少しでも自分は、惑わされてしまっていやしないかと、怖かったけれど。
「……でも、アステル。あなたは一度、テオフィリアを、〈光の儀式〉から救ったんでしょう?」
 「救った? ヒューイ、何を言っているんだ」
「だって。あなたはそうやって彼女が、夢を叶えられずに死んでしまうのを、防いだんじゃ」
「違う。私は私の罪を理解しているよ、ヒューイ」
 小さな手をまたいっぱいに広げて、滑稽なくらい必死に語りかけてくれるヒューイに、しかしアステルは緋色の髪をさらりとなびかせ首を振る。それが滑らかに首筋を這う感覚ですら、彼女のことを安心させた。
「私はただ、彼女のことを脅かしたのだ。自分勝手に、彼女の純潔を奪って、彼女の義務を踏みにじってしまった。ひどい、罪だ。最低の、間違いだ」
 そうして、間髪入れず答えられる自分に、アステルはひどく、ほっとしていたのだ。
 よかった、「正しさ」はまだ、揺らいでいない、と。
「だから、むしろこれは、私にとっては朗報なんだ。喜ぶべきことなんだよ。テオフィリア様が、また皆のために、死ぬことができるというのは、」
 アステルは今度こそ反応できなかった。
 拳が腹に深く深くめり込むのを見るまで、いや、反転した世界を、床に伏して眺めるまでは。
「ぐ、ぅっ……!! きさ、ま」
 内臓が暴れ回っているような痛みに、目に映る世界すべてがどくどくと真っ赤に脈打っていた。口内にいやな味のする液体が満ちてきて、飲み込みきれなかった分が口の端からだらしなくこぼれてゆくのがわかる。そのアステルを見下ろしていたのは。
「おう、立ち上がんのか? ちったぁ丈夫にできてんだな」
 憤怒の少女、オリガだ。
「いいぜ、どんどん立ち上がってくれ。その方がぶちのめし甲斐があるからな」
 腹にずくずくと響いている痛み以外は感覚がなくなってしまったかのように、滲んでぼやけた視界。その中で、たった今自分を殴りつけたものと同じには思えないほど小さな手を、余裕を示すかのようにひらひら振っているオリガが見えた。
 それはまたあっという間に拳に固められ、ぎりりと軋む音がする。起き上がり次第もう一発が飛んでくることは、きっと間違いがないだろう。
 しかしアステルは、肘をついて、手をついて、胃液なのか唾液なのかよくわからないものをどうにか拭いながら、立ち上がる。
「だいたいなぁ、気にいらねぇと思ってたんだよテメェは、最初っから!!」
「………っ!」
 そしてまた倒れ伏す。今度殴られたのは顔だった、左目が開けられなくなって、鼻から鉄臭い味がねっとりと降りてきた。痛い。痛い、痛い。でも一番痛いのは、きっと身体じゃない。
 景色が歪んだかと思えばアステルはもう膝をついていて、しかし血の飛沫を浴びた拳で、オリガはアステルの胸ぐらをつかみあげる。
「儀式だの、巫女だの、義務だの、なんだの! どーでもいいんだよそんなのは、テメェが女だったってことと同じくらいな!」
 鈍った視界でも怒りに満ち満ちているのがはっきりとわかるほど、それこそ瞳どうしの光をぶつけ合うほどの距離まできていた。
「それよりもだ、おいアステル、テメェはいつまでその、クソつまんねぇ正しさなんぞの話を続けるつもりだ? なあ、おい、なんとか言えよ、アステル・グラディ!」
 オリガはアステルの襟元をぐしゃぐしゃにしながら、自分のよりもずっと大きいはずの体を何度も、何度も揺さぶった。身体じゅう、奥の奥まで届くくらいに、何度も。
「テメェは! いつまでその、くっだらねー全体への奉仕の精神ってやつを、ぶら下げてるつもりなんだよ!!」
「……っ、まれ」
 だけどそのたびに。
「あぁ!?」
「黙れと言っている!」
 アステルの心は、あるいはそれを覆う鎧は、どんどん固く、冷たく、強くなってゆく。
 腹が重く痛んでいた。左目のまぶたはもう腫れてきて、口の中には錆びた鉄のような血の味ばかりが広がっていた。だけどアステルは床を片足で踏み鳴らすようにして立ち上がり、オリガの手を、振り解く。
「どうでもいいのだろう。つまらないのだろう。くだらないのだろう。お前にとっては、いや、ここにいる全員にとって、ルクでの精神は、そういうふうに映るのだろう」
「ああ、そうだよ、まったくもって馬鹿馬鹿しいね」
「だけど! 私にとってそれは、いつだって支えだった!」
 ふらつく足をその場に縫い付けるようにして、血だらけの顔で、片目で、しかし射抜くように、アステルはオリガを見ていた。その立ち姿は力強かったのだろう。痛切なまでに。
「私が、それを守っていれば……それさえ、守っていれば。私は、ティアの側にいられたから!」
 血と唾液が濃く混ざりあったものを吐き出して、アステルは、元キャスティス皇国騎士団長にして皇女テオフィリアの唯一の側近だった、史上最悪の大犯罪者アステル・グラディは、言う。十九年分の想いをこめて。
「なあ、オリガ。お前に私の、何がわかる」
 ――ティア。
 伝えたいことは、いつだって胸の中いっぱいに、溢れていた。
 いつの間にか彼女の背中に呼びかけるくせがついていた、そのころにはもう長い間呼んでいなかった、彼女のたったひとつの愛称が、いつか二人で考えたそれが、頭の中にじんじんとこだましていた。ティア。ティア、ねえ私は、君に伝えたいことが、あって。
「女だからと託された義務で、女なのにと云い続けた私の何がわかる」
 いつだったかはわからないがアステルの中にはひとつの残酷な確信があったのだ。仮に自分がそうしたとしたら、きっと彼女は振り返ってくれただろう、ということだ。もしもアステルがその、どんどん優美になっていった背中に呼びかけたら。もうそのような呼び方をしてはならないと言った時、そうですね、と少しだけ寂しそうに笑っていた彼女は。きっと彼女は、振り返ってくれただろう。そうして子どものころと少しも変わらない無邪気な笑顔を見せてくれたかもしれない。わずかに肩を竦めて、はにかんで。
 それはとてもあたたかな想像で、それはとてもやさしい夢で。
 だけど、だから、アステルは一度だって、それを現実にしたことは、なかった。
「想いを何度も打ち消して、絶対的な正しさに縋りつくしかなかった私の、何がわかる」
 だってそうしたら、終わってしまうから。彼女も、自分も傷つけて、終わってしまうから。
 それのなにが悪いのだと毎日どこかで思っていたのだ、ルクの道徳はそれをただ立派なものに塗り替えてしまって、ほんとうのところに気がついたのはたった今のことだけれど。でもちゃんと知っていた。
 自分がただ、ただ誰もの模範になれるほどに、その想いは正しくないと突きつけ続けるストルの奴隷になっていたのは、そうしていれば明日も、これからもずっと、彼女の側にいられるから。たったそれだけで、でもたったそれだけのことに、アステルはずっと、殉じてきた。
 寝坊なんて生まれてこのかたしたことがないくせに、アステルのノックを律儀に一日の始まりにしているような彼女に。夜更かしは苦手だと言うわりに、アステルに気がつかれないようにと必死になって、頭を振ったり頬をつねったりしては、話をする時間を持とうとしてくれる彼女に。
 ただ彼女に、なんにも変わらない明日を、届けてあげられるように。昨日もそうだったように、今日もそうだったように。明日も、アステル、と、呼んでもらえるように。
 そう、自分が、いつも「正しい」ルクの住人で、ありさえすれば。

「世界中から! その感情は間違っていると言われた私の、何がわかる!!」

 ティア。ティア、きみを傷つけてしまう、くらいなら。
 私はいつも笑顔で、私の心を、踏みにじろう。
 原型も残らないそれに、正しさという太い柱を立てて。
 それを私の、墓標にしよう。

「……わっかんねぇよ、んなもん」
 ひりつくように喉を嗄らしたアステルに対して、オリガはただそれだけを、ぼそりと呟いた。
 また一歩距離を詰めてきたので、今度こそは甘んじて受けまいとアステルは身構えたが、しかし思ったような衝撃は、身体のどこにも襲い掛かってこなかった。つまりそのようにしてアステルの外側は、いたって平和だったといえる。
 だけどアステルの内側は、そうではない。
「テメェがどんだけ、その正しさにしがみついてきたかとかは、あたしにはわかんねぇよ。ただな、いっこ言えることなら、あるぞ」
「……なんだ」
「アステル。テメェは一度その、必死こいて縋りついてきた正しさってやつを、曲げたんじゃねえのか」
 指先が、あたたまっていたのだ。そのときアステルの中をゆっくりと巡っていた、なにかで。
 それはオリガの首に今も提げられているノヴァからの、なにかだった。いつもごくごく近くにあって、誰もがみんな持っているものなのに、一人としてちゃんと形を知らないなにか。
 それが、オリガのきらきらと燃えているそれが、胸元からじんわりとアステルの中に流れ込んできて、染みわたるように、広がっていた。
「テメェはそのとき、テメェが生まれてからながーいこと、ずうっと従ってきたそいつをよ。あっさり裏切ったんじゃあ、ねえのか」
 ノヴァが熱を発しているのだろうか、けれどもそんな機能があるという話を聞いたことはない。自分が知らないだけなのかもしれないが。でも、きっとそうではないと、どこかでアステルはちゃんとわかっていた。
 これは、このあたたかさは。
「なあ。なんだったんだよ、アステル」
 すぐそばでまばゆい光を放つオリガの心に、照らされているから。
 締め付けられるように、抱きしめられるように、ぶつかるように、照らされているから。
「なんだったんだよ。そうやって、ずっと縋ってきた正しさも何もかもぶち壊しちまって、自分勝手に、うす汚く這いつくばってでも、テメェが守ろうとしたものは」
 ――君が。
 一日一日訪れる、飛礫のようなかなしみにも負けず、時には自身の手を焼くものにすらしがみつき、みっともなく執着して、必死になって守ろうとしてきたものは。
「いったい、なんだったんだよ?」

 彼女がアステルのもとを訪れてきたのはその日の夜のことだった。といってもノクはいつでも闇に閉ざされているし、なおかつルクのように共通の時間を表すためのものがはっきりと存在するわけではないので、正確なところをアステルはよく知らない。
 ただ、むしろ時計がないときの方が人間とは規則正しい生活をするものなのか、寝る時間と起きる時間と食事のために集まる時間だけは七人もいるにもかかわらずきちんと一致していることに、ここしばらくの生活のうちでアステルもそれなりに感心していた。もっとも集まって来なかったら来なかったで、モニカの鬼のような耳元での鍋の乱打が待っているので――主にくらっているのは、その前の日にいつまでも起きていたらしいヒューイあたりだった――自己防衛機能のようなものが働いているのかもしれないが。
 ともかく彼らの生活時間と言えばそのように正確といえば正確であったから、そうしてラボの皆が寝静まったであろう後にあてがわれた自室のドアがノックされたとき、アステルは少なからず、驚いたのだった。
 時間の意外さと、それから、扉の向こうに立っていた人物の意外さにも。
「……サヤ?」
 誰かが立っていた、ということは気配の察知で分かったけれど、一瞬見つけられなかったのは、その誰かが夜に紛れてしまいそうな長い黒髪を、身にまとうように流していたからだ。しかし見上げた瞳の色は、オリガの血を吸ったときほどではないにせよやはり不思議なほどに惹きこまれる紅をしていたので、その名前はすぐ口をついて出た。
「あ……こ、こんばんは、アステル、さん」
 サヤは一度アステルのほうを伺うように見上げてからぺこっと頭を下げて、それからは両手を身体の前でなにやら所在なさそうにいじくる。どうやらまだ怯えられているらしい、というちょっと残念な確信が浮かぶ。
「あの……お、起こし、た?」
「いや、まだ眠ってはいなかったが……」
 正確には、眠れなかったのだが。
 あの後は結局、とにかく寝てみるのだ、こういうときはとにかく一晩寝てみないといっこうに解決を見ないものだというヒューイの言に従って、誰もが特に何をするでもなく、また何を話すでもなくそれぞれの寝室へと撤退していった。ノヴァの開発者というステイタスがあるからなのか、最年少に見えるヒューイに対して、皆の信頼は驚くほどに厚い。
 アステルも初めはとても眠れるような状態ではないと思っていたが、身体は考えていた以上に思考の連続に疲弊しきっているもので、むしろ横になったほうが頭はほんの少しすっきりした。ただ、だからといってどうというわけでもない。だからといって、なにか解決策が思い浮かぶわけでもなく、そもそもなにを解決しようとしているのかもわからない。そんな堂々巡りを繰り返していた。
「その。少し、二人でお話しても、いい?」
「私とか?」
 しかして、思わずサヤが目の前にいるにも関わらず、再度堂々巡りに巻き込まれようとしていたアステルだが、意を決したように発せられたその一言で、ふと引き戻される。ほんの一瞬だけ目が合って、けれどもすぐにふらふらと紅いそれを彷徨わせてしまったサヤは、くっと息を詰めたように、頷いて見せた。
「う、うん……えっと、一緒に、来てくれる?」
「それは、まあ、構わないが……」
「じゃあ、い、行こう。行き、ます」
 サヤはそうして、自分に言い聞かせるかのように何度も頷いてから駆けだした。先導というにはなんだか逃げるような駆け出しかたを見せたサヤだったが、躊躇いがちでも定期的にこちらを振り返ってくるところからして、話をしようという意志だけはとにかく強いらしい。
 これまで同い年らしいオリガやノエルの後ろに隠れがちな彼女とアステルはほとんど関わりを持ってこなかったので、話をするならその二人を含めた四人でというのが、なんとなく妥当な気がしていたのだが。そんなことをぽつぽつと考えて意外な気分になりつつ、この間風のように駆けて行ったにしてはそう速いというわけでもないサヤと、並走を続けた。
 そんな二人の少しぎこちない足が止まったのは、ラボを出てから一つ道を外れ、つぎはぎのトタン屋根を二件分ほど歩き、家と家の隙間を潜り抜けた、その先でのことだ。
「ええと……サヤ?」
「……ここ、なの」
 そこには特に、何があったというわけでもない。しいて言えば勝手に捨ててあるらしいドラム缶がうず高く積まれていただけだった。まさかここにきてやっぱり怖くなったのではなかろうかと、痩身の背中にアステルは思わず声を掛けたが、どうやら杞憂であったらしい。
 サヤはドラム缶の一つにひょいと飛び乗ると、アステルに向けて隣を促すようにぎこちなく微笑みながら、おそるおそる、口を開く。
「わたし、ね。ここで、初めて……オリガちゃんの血を、吸ったんだ」
 ひゅうっと吹いた、たとえばいつかの戦う彼女のような夜の風に、瞳の奥をわずかに揺らしたサヤは、ドラム缶に並んで腰かけたアステルに向け、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。

「わたしね、テンペスから、堕ちてきたんだけど。テンペス同盟が、いろんな種族から成る国だって話は……聞いたこと、ある?」
「ああ、ある……が、テンペスは、ほとんど他国との国交を絶っていただろう。本当に必要なとき以外は、みずから関わってこないというか」
「うん、あの中には……なんていうか、わたしみたいな変わった種族、たくさんいるから。ほかのひとが、びっくりしないように……できるだけ大人しく。外の目に、触れないように。それが、国中の、決まりで。〈節制〉、だね」
 創世神話でしか聞いたことのないような話を思い出せば、開闢の神ファーガスが人々にストルを与え、七つの国を作ってヴェールで覆うまでは、世界中には様々な種族が、まさに人種のるつぼといった体で、人狼や竜人といった獣人一族なども世間に混在していたという。
 といってもアステルが自分の目でそれを確認したことなど一度もなく、またルク中のほとんどの人が、同じように人間以外の種族と実際に出会ったことなどはないだろう。その種族たちを集めて同盟国家を作ったのがテンペスであるという話は聞いたことがあるが、テンペス同盟の情報はルク中で最重要機密として扱われ、国民どころか国の位置すらも知らない人が多い。だから、人外種族などの話は、もはや物語の中のものといったほうが認識としては近かった。
 それを内側から見てよく知っているのであろうサヤは、びっくりしたよね、と弱く笑った。シュミット一家の一件でオリガの血を吸ったことを言っているのだろう。即座に首でも振ってあげられれば空気としては良かったのかもしれないが、アステルは残念ながら、そういう嘘が上手につける性格ではなかった。
「そう、わたし……わたしは、吸血鬼。ほんとに、純粋な力を持った、吸血鬼。お父さんとも、お母さんとも……チエ姉とも、ヤマブキ姉とも、カスガ兄とも、違って」
「……どういうことだ?」
「あのね、アステル。わたしたちが、ヒトじゃないわたしたちが、大人しく、目立たないように、控えめに暮らすために……大事なことは、なんだと思う?」
 ふと投げかけられたその問いにアステルは沈黙で返してしまったが、もとより返答を期待していなかったのか、サヤはすぐに口を開いた。
 人外のものたちが、節制を保ち、暮らすために必要なこと。
「それはね。人間らしくすること、だよ」
 たとえば竜人一族の背中には必ず二つ大きな傷があるの、とサヤは言う。人間らしくするために、そうできなくてもそうできるふりをするために、彼らは生まれたばかりの時にまだ柔らかい翼を、両方とも切り落とすのだ。
 サヤが事実をありのままに話す時の口調として淡々と告げたそれが、いったいどんなことなのか、アステルにはわからない。でも、わかったと言うことすら、きっと許されないことだった。それだけはわかる。だってアステルは、翼を繰って空を駆けることを知らない生き物なのだ。彼らとは違っている。
 違っている、はずなのに。
「それと同じように、わたしたちも……血をね、吸わなくても、いいように、生きてきたの。ううん、そういうふうにしないと、生きて、いけなかったの」
 吸血鬼の一族はかつてたいへんに長命だったと、サヤも母親から聞かされたことはあったらしい。ヒトの生き血を飲むことで、以前の吸血鬼たちは通常のヒトの三倍程度は生存することができたそうだ。また血を飲んでからしばらくのあいだは、驚異的な身体能力や、そのただでさえ鋭い爪と牙のさらなる増強効果を得ることができる。
 だが、まったく血を飲まなければ、顔色がだんだんと青ざめて体温が低下し、最悪死に至る。熱を失う、とサヤは表現して、サヤがそうなったときもここ数日のうちで見たことのあったアステルは、そう言われて合点がいったような気がしていた。大体その場合、一気に不機嫌そうになったオリガが、どこか隅の方へサヤを連れて行ったものだが。
 ともかくそうして、彼女が吸血行為をしている場面に立ち会ったことのあるアステルは、吸血鬼という種族自体の持つ特性がそういうものなのだろうと思っていた。けれども、もう違う、とサヤは小さく首を振る。
 今はもう、吸血鬼は、血を飲まない種族なのだ、と、彼女は続けた。
「ファーガス神が、現れて……わたしたち吸血鬼の、ご先祖様にも、ストルが与えられて。それで、テンペス同盟が、できたあと……とにかく、血を吸うことは、いけないことだって。たくさん、たくさん、仲間が削られてしまったから。わたしたちは、そうして、生きてきたの」
 血を吸わないでもいいように、普通の食事だけで生きていけるように。人間らしく、いられるように。
 血の誘惑は常にストルによって振り払われるが、痛みを逃がしてしまうということは、逆に言えば、痛んでいることに気がつけないということでもある。そうやって危機感を得るサインを失われたまま、限界まで渇いていたことにすら気がつけず、仲間は死んでいった。彼女自身も人伝だからというだけで片づけるには、少し淡すぎるような声で、サヤは言う。
 そうだからこそ、削られた時点で既に三家族しかいなかった吸血鬼一族は、それからまた長い時間と、そして多大な犠牲を払って、からだを作り変えてきたのだ。
「寿命は、だいたい、ヒトの半分くらい。これでも伸びたほうなんだって、お母さん、言ってた。力も、ヒトよりはちょっと、弱い、かな……あ、これは、血を飲んでいない時のわたしも、そうだけど。でも、とにかくそうして、血を飲まないでもいいように、なれて」
 多くの仲間が削られ、ついには最後になってしまったトキミネ一家は、ようやく血の誘惑を克服した。そうして短命で虚弱ながらもどうにか細々といのちを繋いできた、ちょうどその時のことだったという。
 サヤが、生まれたのは。
「わたし、だけだったの」
「……サヤ」
「わたしだけ、すっかり、もとみたいに……なんで、だろうね。もとの、人間のふりができない、ただの吸血鬼だったの」
 吸血鬼の少女、サヤは、小さく開いた口からそっと絞り出すように、話しつづける。
 アステルはそのとき、彼女の話し方がたどたどしいのは気が小さいからだと思っていたが、それは誤解だったのかもしれないと気がついた。多分彼女は、彼女がこわごわと話すのは。
 うっかり口を大きく開いて、その、吸血鬼であることの象徴ともいえる鋭い牙を、見せてしまわないように、気を付けているから。
「五つになったら力が発現する、その時からずっと……定期的に血が飲めなかったら、どんどん、どんどん冷たくなって、すぐに死んじゃう――ただの、吸血鬼。わたしは、それだったの」
「サヤ……」
 名前を、呼ぶだけではなくて。アステルは喉元を鷲掴みにされているような苦しさをはっきりと感じながら、強く思う。それだけではなくて、膝をぎゅっと抱えるようにしている、世界中から突き刺されているみたいに縮こまっている、彼女のその小さな肩に。
 せめて、触れてあげられたなら、いいのに。
「でもね。お母さんは……ううん、家族みんな。なんでだろう、なんでだろうね、よろこんで、くれたんだ。血が、飲みたくて、飲みたくて飲みたくてしょうがなかった、おかしいばけものだったわたしを、見て」
 だけどそれは絶対にできない。胸の痛みと同じくらい痛切に、アステルはそう思っていた。届くかどうかが問題なのではない。届いては、いけないのだ。触れては、いけないのだ。そうできると思っては、いけないのだ。
「良かったって、言ったの。それで良い、間違っていたのはわたしたちのほうだった、って。おまえは、それで良いって」
 だって、サヤの痛みは、サヤだけのものだから。
 どうあっても、誰かに渡すことも、誰かが受け取ってやることも、できないものだから。
「わたしが吸血鬼になった次の日、朝起きたらね、家の中に、誰もいなくて。色々探したら、うちね、お庭の裏に、その時はもう使ってなかった、古い貯蔵庫があったんだけど……そこの鍵が、あいてて。中には、ね。おっきな樽が、五つあったの。それで、わたし……ひどいよね、お、おいしそうな匂い、が。するなぁって。……思って、て」
「血の、匂いか」
 サヤはそこで一つ息継ぎをして、渇いた唇をそっと舐めた。同じひとつのドラム缶に二人という距離は、なにか隠しごとをするには近すぎたのだろう。だから、彼女の吐息がそのときかすかに震えていたことだって、はっきりとしたふるえとして、アステルには伝わってしまう。
 サヤは話しつづける。ふるえた声を絞り出して、話しつづける。
「うん。お父さんと、お母さんと。チエ姉とヤマブキ姉とカスガ兄、五人分」
「そう……そうか。家族が……いのちをかけて、お前に、残してくれたんだな」
「うん。……うん、そう、だね。そうしないと、わたしが生き残れなかったから。だから、死んでくれたんだよ、ね」
「……いや、それは」
「ううん、そうなんだ。だって……そうなんだ。わたし、だって、それを飲んで、生きてきたから。貯蔵庫から、ほとんど出ないで。じっと、生きのびて、きたから」
 父親と母親と兄と姉と、家族のいのちを貪って、彼女はずっと、ひとりで生きてきた。
 そんな彼女の静謐な時間を、節度がないと断罪することはさすがのストルにもできず、サヤの家族はきっとそれも、それすらも、考慮に入れていたのだろう。ならばそれを尊いことだと喝采して褒め称えるべきなのか。間違っていることだとは思わなかった。ただそれは、だからといって正しいことだということでもない気がしていた。
「でも、血も、無限じゃ、なかったから。わたし、どうだろう、けっこう食欲、あるほうなのかな……十五の冬に、ちょうど全部、飲みきって」
「それで、どうしたんだ……?」
「数日は、ガマンしたよ。飲みたい飲みたいって、考えても、考えても、ストルが、逃がしちゃうから。たぶん、いちばん危なかったの、あの時だと思う」
 そのときの寒さを思い出したかのように、サヤは自分の両肩を抱きしめていた。その手に、爪が少し長い以外は、きっとラボの誰よりも華奢な手に、アステルのそれよりも二回りは小さな手に、ぎゅっと力がこもる。
 でも、と、彼女は言う。
「でも……わたし、とうとう、ひとを襲ったの」
「襲って……血を?」
「うん。吸ったよ。それで、捕まっちゃった。もちろん、すぐに最高刑、だったよ」
 ずいぶんと、糾弾されたらしい。罪のないテンペスの国民を襲ったこともそうだが、彼女の家に調べが入ったことでようやく判明した、十一年間行われてきたおぞましい所業についても。生きるためににんげんがにんげんの血を吸うなどとは。ただ自分が生きるためだけにひとのいのちを奪うとは。
 そんな正しい言葉がか細い身体を抱えて立つ彼女の頭上には降り注いでは疚しさもなく断罪し、だから彼女の中には一つの明確な真実が刻まれたのだろう。そうか自分は死ぬべきだったのだ、と、とてもわかりやすくて揺らぎのない正しいことが、はっきりと。誰も傷つけずに済むよう、誰のいのちも奪わずに済むよう。ただ生きているというだけでひとを殺す存在なんて、許してはいけない。〈議会〉がそう告げた以上、サヤ自身も、そう断じざるをえない。
 ストルとは、そういうふうにできている。
「だから……何も、良くなんかなかったんだって。やっぱり、間違ってたのはわたしだった
んだ、わたしは、間違ったいきものなんだって。ここに堕ちてきてからも、ずっと、思ってた」
 そしてその思いは、彼女から、生きるための食欲を遠ざけた。
 アステルの時と同じく情報屋の双子から聞いて、サヤが吸血鬼であることを知っていた当時のラボの面々は、サヤに血を飲むよう再三勧めてくれた。けれどもそれをずいぶんこっぴどく断ってしまったと、サヤはにがく笑って言う。特にその時からサヤを心配してくれていたノエルとオリガには、ひどいこともきっとたくさん言ったのだ、と。
「それで……その拍子にね。わたし、生きたくないって。ひとの血を飲まないと、いけないくらいなら。わたし、そんなことしてまで、生きたくないって、言って」
「…………」
「そしたら……オリガちゃんから、叩かれちゃった」
 そうしてまたふっと空気がふるえたとき、アステルは少しだけ、はっとした。
 そのときやっと。今夜顔を合わせてからやっと、サヤが、ほんとうに笑ってくれたような気が、していた。
「なんだ、サヤ。君もオリガには殴られていたのか。じゃあ、私とはお仲間、だな」
「うん、だね。アステルさん、顔に傷もあるのに、まぶたも、腫れちゃって……あ、でもわたしは、パーだった、よ。うん、ビンタ、だった」
「なに、そうだったのか? なんだ……奴も手加減することがあるんだな」
「それは、どうかな……痛かったよ、すごく」
「……そうだな。痛い、な。オリガの、一発は」
 力が強いからではなく、乱暴だからではなく、ただ、ひとがいつだってどうにか固く保とうとしている固い表面を突き破って、柔らかくてとても弱いところまで、しっかり届いてしまうから。
 きっと彼女はいつもそうやって、自分の許せないものには、迷わず拳を振るってきたのだろう。自分よりもずっと身体の大きいアステルに対しても、そして、大事に気にかけていた友達である、サヤに対しても。もしかしたら、ここへ堕ちてくる前も。
「痛くて……すごく、痛くて。わたし、泣いちゃって」
 泣いている間に手を引っ張られて、気がついたらここにいたそうだ。これは秘密の話だけど、と前置きしてサヤが教えてくれたことには、ここはもともとオリガが堕ちて最初に目を覚ました場所で、それからずっと気に入って、よく訪れているのだという。
 そのときはオリガちゃんひとりの秘密の場所だったのに、今はもう三人だね、とサヤは言った。なるほど確かに、ばれたと知るや否や半殺しにされそうな内容だ。特に後半には気をつけよう、と思いつつ、アステルは続きを目で促す。
「でも、もっと泣いたのは……多分、そのあと。あのね、オリガちゃんが、いっこだけ……それならお前は、なんで今まで生きてきたんだって、言ったの」
 ほんとうに死にたいと思っていたのなら、どうして、大好きな家族がいのちがけで残した血を飲むなんてことを十一年間もたった一人で続けたのか。ほんとうにそうまでして生きたくないと思っていたのなら、どうして、罰せられるとわかっていながら、名前も知らない誰かの首筋に、噛みついたのか。
「どうしてだ、ほんとか、ほんとか、って……何回も、何回も、聞かれて。わたし、もう……なんか、わけ、わかんなくなって。答えられなく、なって。そしたら」
 ほんとってなんだろう、どうしてだったんだろう、そんな疑問に深くまで沈められて、もうすっかり冷たくなってしまっていたサヤの肌に、ぎくりとするほどあたたかい手が触れたのは、そのときだったという。オリガの手が添えられたのは、そのときはすぐにでも折れてしまいそうだった、サヤの細い首筋だった。
 そうしてオリガは、ほとんどなんの躊躇も、そしてわずかの迷いもなく、両手に力を込めて、それを、絞め上げた。
「生きたくないのに生きているなんて、すごい、ムカつくって。オリガちゃん、怒ってた、な」
 すごく、すごく苦しくて。目の奥がちかちかして、身体から力が抜けて。どこか遠く、掠れてしまったような声でぽつぽつと続けたサヤは、でも、とひとつ小さく、息を吸って、吐いた。
「でも、そのとき……死んじゃう、ほんとに死んじゃうって思ったとき、わたし、気がついたら、オリガちゃんの手、掴んで、引きはがしてた。その拍子に、爪が、刺さって……ざりって、皮膚がね、削げて。オリガちゃんの手から流れた、血を、見たら」
 もう、がまん、できなくなって。そのとき、まるで当時のことをはっきりと思い出すかのように語っていたサヤの瞳の紅が、ふっと濃くなったことを、アステルは見逃さなかった。
 鋭い爪で、牙で、肌を切り裂き、生き血を吸う。そうして生きる、彼女は、吸血鬼。
 だから。
「わたしは、それを吸ったよ。噛みついて、舐めて、吸いだして。いっぱい、いっぱい、飲みこんで。――そうやって、生き残ったの」
 オリガの血を飲んだ後、サヤは、土砂降りみたいにぼたぼた泣いたそうだ。濃くて塩味のきついバターのような味が体中に充満して、それが全身に力をみなぎらせているのを感じながら、彼女はずっと泣いた。その時彼女が何を思っていたのか、彼女は語らなかったし、アステルにはもう、知ることはできない。
「多分、ううん、ぜったい、すごく、痛かったと思う。そのときも……その後の、何百回、も」
 そもそも吸血鬼として彼女のことを導いてくれる人はいなかったのだから、噛みついて血を吸うということに関して正しい方法をサヤが知らなかったのは当たり前のことだった。だからいわば試したのだとサヤは言う。どこに噛みつけばたくさん血が出てくるのか。どのくらいで飲むのをやめればいいのか。モニカに頭を下げて、ラボに置いてもらうようになってから、彼女はずっと、オリガを使って試してきた。
 あどけなさの残る細い首を穴だらけにしながら、青白い顔で倒れ込んでくるのに泣きそうになりながら、ひとつ、ひとつ、実験して、調査して、記憶してきた。
「今はもう、そんなこと、ないけど。でも、今も……わたしはオリガちゃんから、血を貰っている、よ」
「…………」
「自分が、生きるために。大事な、だいすきな、友達のこと……いつも、傷つけてる。」
 サヤは、藍色のノヴァをそっと抱えたサヤは、言う。家族みんなのいのちを食いつぶして。大事な、大事な友達の血を、痛みと共に何度も奪って。お前は間違ったいきものだと世界中から突きつけられて、でも、それでも生きているサヤ。
「ひどいこと、してるって、思うよ」
「……サヤ」
「今でもね、わかんなく、なるの。ううん、今も、わかんない。これでいいのかなって」
 たとえば艶やかな肌の上に血が滲むのを見た時、たとえば唇にこびりついた赤黒いかたまりを見た時。一瞬一瞬、いつだって、忘れる暇がないほどに、正しさは誰もに襲い掛かる。それはいつでも自分の心の中にあるものだから、きっとどうしたって逃げられないのだ。
 そうしてサヤは毎日天秤にかけているのかもしれない。自分が生きる、ということと、誰かを必ず傷つける、ということ。その二つを毎日、彼女は、自らの手で公正な天秤にかける。
「でもね。多分、わかんなく、なりながらじゃなきゃ、だめなんだ」
「わからなく、なりながら?」
「うん。きっとね、わかんないってこと、わかってないと、だめなんだ。そうやってちゃんと、自分で、考えるの。自分で、考えて、ちゃんといっぱい、考えて、それで」
 そうしてひとつ、深く、深く息を吸った彼女は、呼吸をするように、ふるえるように胸元の藍色を明るくした彼女は、そうだ。
 きっと毎日、その天秤を自らの手で粉々にぶち壊して、たいせつなものを、掴んでいる。
「わたしは、わたしのいのちがたいせつだって。ちゃんと、自分で、決めないと、だめなんだ」
 それで傷つくことになっても。それは悪いことだって責められても。誰かに、許されなくても。その、痛かったり苦しかったりする、暗い向こうで、彼女が必死に掴み取った大切なことは、今も彼女の手のひらの中、煌々と燃えている。それがどんなにみにくくても、汚くても、濁っていても、それはたったひとつ、自分で握っておかなくちゃならない、守っていかなくちゃならない、たいせつなこと。
 座っていたドラム缶から飛び降りた彼女は、ぱんっと一度スカートをはたいてアステルの方を振り向き、それから少しだけはにかんだように笑った。こんなにたくさん話したのは久しぶり、と独り言らしい言葉は空気をくすぐったく震わせて、アステルの身体を少しつつく。
「わたしは、そんなに、強くないから。ちゃんと、自分で、そうしないと……きっと、すぐ、立っていられなく、なるから」
「……うん」
「だから、毎日、ちゃんと、目を開けるの。目を開けて、おおきく、息を吸って……わたしにとってたいせつなこと、忘れないように」
 だってわたしは生きたいから、とサヤは、しいて言うならばつが悪そうに、ほろりと零した。サヤは毎日目を開けて、ひとつずつちゃんと見ている。モニカの作ってくれるあたたかな料理がとてもおいしいこと。オリガとノエルの言い合いを眺めては、少し巻き込まれてみるのが好きなこと、エドガルドが気まぐれに教えてくれる勉強が面白いこと、ヒューイの突拍子もない発明に付き合わされるのが楽しいこと。
 すべて、サヤは毎日ひとつずつ、たいせつに、抱きしめている。
「わたしは、明日も生きたい、です。生きて、それで」
「うん……?」
「……アステル。できればあなたとも、もっとたくさん、話したい。」
 そのときサヤの浮かべた極上の笑顔を、アステルはずっと、忘れられはしないだろう。
 彼女はきっと、と、もの柔らかな笑顔を見つめながら、アステルはふつふつと思っていた。サヤはきっと知っているのだ。自分がどれくらい弱くて、みにくくて、どうしようもないいきものなのかを知っている。ヒトを食いつぶしながらでないと生きていけなくて、そのくせ、その恐ろしさにすら毎日負けそうになってしまう、生きることからふと逃げ出したくなってしまう、弱い、弱い、自分の心。
 でも彼女はもう一つ知っていた。それはずっとアステルが知らなかったことだ。それが正しいことだと決められれば、許されていることだと安心できれば、従って遂行してきた「良い人間」には、どうやっても知りえないことだ。
 自分の弱さと向き合って、みっともなさと向き合って。それでも、と這いずって、ちっぽけな両手を必死に重ねて、たったひとつしがみついたとき。
 ひとはきっと、何度倒されても、吹き曝しになっても、強く立ち上がる力を、手にする。
「アステル、手……出して、くれる?」
「うん? こうか、」
 言ってなんとなしに差し出した瞬間、ブツリ、と鈍く醜悪な音がして、アステルは人差し指の先に鋭い痛みが走るのを感じた。その傷口のごくごく近くで戦慄を禁じ得ない彼女の牙が煌めいたことを見て、思わず引っこめるところであったが、そうもいかなかった。アステルの手首には、爪が食い込みそうなほどしっかりと、どこか縋りつくようなサヤの手が、絡み付いていたから。
 そうしているあいだにもみるみるうちに傷口からは血が滲んで、指の腹をとろりと伝い、ねっとりとした雫を膨らませる。
「つ、っ!」
「ん……」
 そうして流れ落ちる一歩手前、サヤの小さな舌が伸びてきて、掬うように舐めた。もう一度、舐めた。低い温度の舌はゆるやかな跡を引きながら指先まで這って、そちらははっとするほど小さい前歯が、甘えるように傷口を噛む。
「……ごめんなさい。オリガちゃんにも、ノエルちゃんにも、黙って出てきちゃったから。足りなく、なっちゃった」
 痛かったよね、と肩を竦めたサヤは、もう一度、耳をひりっと焼くような声で、ごめんね、と言って、口元を拭う。
「でも、おいしかった」
 そうしてかなしそうに笑った彼女は、アステルの肩に、とん、と小さな頭をのせた。
 優しい匂いがゆっくりとアステルの周りを取り囲むそのころには、サヤの、あたたかに燃えはじめた体温が、腕の向こうから、伝わってきていた。

「あら。あらあらあら、あらー?」
「ひゃうっ!?」
「わぁっ! ……も、モニカ! 君、いつからそこにいたんだ!?」
「ちょっとぉ、なによぅ、二人してひとを幽霊みたいに」
 失礼しちゃうわ、と闇の中でも口紅が濃く引かれているのがはっきりわかる唇を尖らせたモニカは、本当にいつからそこにいたのか、アステルたちの腰掛けていた二つ隣のドラム缶で、異様なまでに長くしなやかな足を組み直した。すごいわたしより足綺麗、とうっかりサヤが呟いていた。一瞬にして頭をよぎったいろいろなことへどうにか突っ込みを入れずにいられたことに、我ながらびっくりしているアステルである。
 しかし彼女たちがそうして戸惑っているのをまったく意に介さないかのように、モニカはかつんといい音を立ててドラム缶の上に飛び乗り、呆然としていたアステルの腕をぐいっと持ち上げた。補足しておくと、すごい力だった。
「い、いたたた! 痛いぞ、モニカ、なんだ!」
「アステルったらぁ、いくらサヤが可愛いからって不純異性行為はめっ、よー? うちの下宿ではそういうのお断りなんだから……ってアンタ女だったわね、この場合なにかしら、不純同性行為? ま、どっちでも構やしないんだけど。こーんなお子さまに手ぇだすくらいなら、おねーさんとイイコトしましょうよぅ」
「違う違う違う、ただ話をしていただけだ! ちょっ、ほ、本当に痛いんだが、モニカ、君は戦闘要員ではなかったはずだよな!?」
「そうよぉ、アタシってば非力でカワイイみんなのアイドルお母さんなんだから」
「属性を付加しすぎて何が何だかわからなくなっているぞ……」
 しかしなんだかんだと言って気がつけば思いつくがままに突っ込みを入れているアステルを心配そうに見上げながら、サヤもおろおろと立ち上がった。
「あ、アステル、ラボのメンバーの中で、突っ込み役に回っちゃったら……その、わ、わたし、アステルが心労で死んじゃうの、やだよ?」
「……ありがとう、精一杯死なないよう努力しよう、っひゃあん!?」
「あらま、かわいー声! やだアステル、アンタってばお耳弱いの? やーだもー、騎士団長サンったら、エッチなんだからぁ」
「や、やめろ、本当にやめてくれ! ていうか君ほんとに何なんだ!」
「だからぁ、さっきから言ってるじゃない。アステル・グラディさん」
 そうして、いつものおちゃらけた調子のやりとりを交わしながらも、アステルの腕を拘束する万力のような力を一向に緩めないモニカは、またアステルの耳元に口を近づける。
 まさか先ほどのようにまた息を吹きかけられるのではと、今度こそ死ぬ気で振りほどこうとした直前の事だった。モニカが、少し低めた声で、囁きかけたのは。
「ちょぉっと、アタシとデートしない?」

 なんとなく予想できた事態ではあったが、もちろん疑問形で効いていたからといってモニカがアステルの返答を待っていたなどということはまったくなく、つまり気がつけば有無を言わさず引っ張られていた。完全にサヤ一人をドラム缶広場に置き去りにしてしまう形となったが、モニカが言うには、サヤがベッドを抜け出したことなんてノエルかオリガのどちらかがまず間違いなく気がついているだろうから、心配はいらないとのことらしい。確かにそうかもしれない、というか、むしろ心配なのはわが身なのかもしれない。そんな予感にアステルはわずかに身を震わせた。全体的に先刻のやり取りのせいである。
 どこへ向かっているのか、というよりもほんとうに目的を持った歩みなのかもよくわからない足取りで、アステルの半歩先を歩く。こつこつと異様に高いヒールを器用に鳴らしていたモニカは、そうしてふっと口火を切った。
「野暮だし、詳しくは聞かないけど。サヤの罪の話を、されてたのかしら?」
「……ああ、そうだ。多分……彼女なりに、私を、導こうとしてくれたのだろう」
「あっはっはっは、言い方が大げさよぉアステルちゃん。あの子はあの子の、したいようにしただけなんだから……って、サヤだって言ってたんじゃない?」
 その質問にはとっさに頷けなかったが、アステルの記憶の中にも、そして胸の中にも、まだちゃんとその残響はあった。サヤにとっていちばん、たいせつなこと。生きていくということ。そのうちにほんの少しでも自分のことが関わっていたからこそ、彼女は話をしてくれたのかもしれない。指先にまだわずかに残った疼痛を、アステルはそっと包み込む。
 でも、たったそれだけのことだ、とモニカは言ったから、その言い方があまりにも自然だったから、その次に、尋ねずにはいられなかった。
「……では、あなたは?」
「へ、アタシ? やだわアンタなに言ってんの、アタシのストライクゾーンは二十代前半までのカワイイ坊やよ、サヤはちょっと外れてるわねぇ」
「いや、そうではなくて! ……あなたは、どうしてここに? どうして、私と話をする?」
「愛のためよ」
「……は?」
 あまりにもさらりと返されたので、あまりにもまぬけな反応を返してしまった。
 けれど、鳩がミサイル弾を喰らったような顔をしているアステルに対し、モニカはあくまでも真剣だった。ばっちり決まったメイクの向こう、ブルーアイをぴかぴかに輝かせて、とても真剣だった。
「だぁから、愛よ愛、ラーヴ! このモニカ・スタングレイを動かすのはいつだって、アタシのサイッコーに素敵な身体いっぱいに満ち溢れる、愛!」
「あ、あい」
「おさるさんみたいな返答してんじゃないわよ。アステル、アンタそんなキョトン顔じゃイケメン台無しよぉ? ちょっとツバつけとこうかと思ってるくらいなのに、んふっ」
「なっ!?」
「やだもう、ジョーダンよぉ!」
 かんらかんらと鈴というよりは釣り鐘を転がしたかのようにモニカは笑って、アステルの背をからかうように叩いた。ちょっと、いやものすごく痛かった。戦闘系ではないと言い張るわりに、モニカの筋力はわりと底が見えない。
「あっはっはっは、まあ、そういうクソ真面目なとこがカワイイんだけどね、アンタは!」
「ちょっ、や、やめろ、痛い、本気で痛いぞ、モニカ!」
 そういえばこれ邪魔だから早く片付けなさいよなどと言って、オリガとアステル両方のばかでかい武器をやすやすと同時に持ち上げていたような気もする。半ば涙目になりながら抗議の声を上げると、モニカはけろっとした顔で両手を軽く天に向けてみせた。
「はいはい、ごめんごめん――でも」
「な、なんだ……?」
「愛のためっていうのは、本気よ」
 ねえ少しだけ昔話をしましょうか、と言って、モニカはアステルに笑いかけた。
 どぎつい化粧で、ショッキングピンクの髪をしているモニカの笑い方は、けれどもどうしてだろうか、不思議と、誰より一番、優しく見える。アステルがたった今ようやく、しかもぼんやりと気がついたことは、他の全員が既に知っていることだった。
 それを今は知らずにいるアステルの一歩前、歩みを進めながら、モニカは、ゆっくりと語り始める。
「昔々、あるところに。〈忍耐〉の精神を最も強く説いている、ぺイシス連邦という国に、この世の女性の誰より一番美しく、かつこの世の男性の誰より一番カッコイイオカマがおりました」
「すごく自己評価の高い主人公だな……」
「うっさいわね、黙ってお聞き! そのオカマは名をモニカといい、生まれた時から体中が愛に満ち満ちていたモニカは、もちろんその愛をたくさんの人に平等に、そして惜しみなく与えていました」
「押しつけていたの間違いではなく?」
「ふん、おあいにくさま。その突っ込まれかたは既に五回経験済みよ」
「ラボの全員が同じ感想を持っているんじゃないか……」
「細かいこと気にする女はモテないわよ、アステル」
 別にモテたいなどと思ったことはない、と言い返しかけたが、やめた。今にもからかってやろうとするのが見え見えな底意地の悪い表情を、モニカが浮かべていたからだ。アステルは取り繕うようにひとつ咳払いをして、渋々続けてくれ、と促す。
「そしてモニカはついに、深く愛する人を見つけたのです。その人は、二十代前半のとぉってもカワイイ坊や、」
 半ばあきれたように黙っていたアステルだが、次にモニカが話したことは、彼女の予想を少しだけ踏み外した。初めは、ほんとうに、少しだけ。
「……ではなく、仕事もなければ妻も亡くした、もう四十にも手が届きそうかという、二人の子持ちの、冴えない男でした」
「えっ?」
 アステルはそこで、思わず茶々を入れるのをやめて、モニカの方を見上げた。それがわかっていたかのようにモニカもこちらに目をやって、ちょっと肩を竦める。
 しかしそのおどけたような仕草の向こうにこそ、モニカがまったく嘘を言っていないということを、アステルは見てしまったのだ。
「なによ、そんな驚いた顔しなさんな。そういうね、気の迷いや勘違いって思えるくらいの出会いが、むしろこれ以上ないってくらいの運命の相手だったりするものなのよ?」
「そう……そういうもの、だろうか?」
「そういうものよ、覚えときなさいな、アステルちゃん。でももちろん、あのしちめんどくさいストルは、ルクの道徳というルールは、アタシの愛を許してはくれなかったわ」
 ずくりと、胸の奥が膿んだような気分になる。傷というのは多分いつでも、そんなものなのだ。治ったように見えていても、乗り越えられたように思えていても、気がつけば見えないどこかでじいっと息をひそめて、悲鳴を上げる時を待っている。
 だからそうだろうな、と答えた声は、きっと冷たくなってしまっただろう。モニカには申し訳ないことをしたけれど、アステルはすぐに謝ることができなかった。
 しかしさして気にしていないかのように、モニカは続ける。
「だから賢いモニカは考えたの。忍耐、そう、忍耐よ。アタシは忍耐の精神に基づいてそうしているということにすればいいと、そう思ったわけ」
 一人で二人の子どもを育てられるだけの能力がない以上、モニカが愛した男が援助を必要としていることは確かだった。だからモニカは、「見ず知らずの家族に対して援助を進んで引き受けている善人」として、みずからの心に、ストルに決着をつけたのだ。
 きっと何度でも追い出されたのだろうと、ほとんど同じ経験をしているアステルは思う。モニカがその男性に向けた気持ちは、きっと何度でも濁っていると踏みにじられ、消し去られてきた。だからいつだって言い訳が必要なのだ。濁っていないものとして蓋をするために、嘘をつくことが必要だったのだ。
 でもそれをしてはいけないと、ヒューイはあのとき、言っていただろうか。ずっと悲鳴を上げていた傷がいつの間にかゆるやかに眠り始めていたことに、アステルが気がついたころには、モニカは続きを話し始めていた。
「彼と一緒に住むことはできなかったわ。同じテーブルでご飯を食べたことも、もちろん睦言を交わしたことなんて一度もないわね。んふふ、ま、それはまず、ぶきっちょなあの人にできたかどうかのほうが疑問だけどねぇ」
「…………」
「でもね、彼が仕事を探している間、アタシは子どもの面倒を見て。帰ってきたとき食べられるように、ご飯作って家を出ていくって……アタシ、それで幸せだったわよ。少なくともあのときアタシは、心からそう思ってたわ。そのつもりだった」
 たとえばアステルがひたすらに道徳に準じることでテオフィリアの側にいることだけをし続けたように、モニカは無償の、距離も関わりも求めない道を選んだのだろう。仮にみずからの気持ちが偽られてしまったとしても、消されてしまったとしても、ただ同じものを彼に、与えられるように。
 それを愛と呼ぶのだろうか、それも愛と呼ぶのだろうか。それも幸福と、呼ぶのだろうか。輪の中の人々がみな一様に笑顔だったからといって、それを正しく幸福であると断ずることができるのだろうか。たとえば今この時だって、変わらず濁りを目に見えぬところへ捨て続けている、どこかの国々のように。そう考えてしまうほどには、今のアステルはもう、たくさんの色を目に映しすぎていた。
 そんなアステルの様子をおそらくはまったく気に掛けずに、モニカはきついグロスがてらてらしている口先を、つんととがらせる。
「しっかしアイツときたら、とにかくぶきっちょでさぁ。オマケに年だもんだから、仕事の紹介口もどんどん減ってね。でもそのくせちょー頑固なのよ、アタシが働いてんだからそれでいいじゃない、もっと子どもと一緒にいてやんなさいよって、いくら言っても聞かなかったわけ。ほんっと、バカな男だったわよ」
「はは……愛していたと言うわりには、結構きついんだな、モニカ」
「そりゃね。やぁっと見つけた仕事中に荷物の下敷きになって死ぬような男、もっとボロクソ言っても足りないくらいだわ」
「っ、え?」
 はっとして、だけどモニカは、どうせ堕ちてくるのだったらやつの墓場につばの一つも吐き掛けておけばよかったわ、などと憤慨していた。ただそれだけだった。
「だってアイツったらねぇ、その次の日に子どもたちに、アタシを夕食に招くようにって言いつけてたのよ。信じられる? どんだけアタシが目ぇつけられないように頑張ってたか、んもう全然わかってないの。そんなのオール無視で、アタシが子どものおねだりに逆らえないこと知っての強引な呼び出しなのよ!」
「それは……なにか、重大な用があったからじゃ、なかったのか?」
「はあ? アタシの誕生パーティーのどこが、重大な用だってのよ」
 アステルはそこでやっと、足を止める。モニカも立ち止まってくれないかとどこかで期待していたが、それは裏切られてしまった。
 モニカは立ち止まらなかったし振り返らなかった。名前を呼んでも、風が吹いても、絶対に。
「もっさりしたツラのくせに、柄にもなくケーキだの飾り付けだの買っちゃってさぁ。あんまり飾り付けのセンスがないもんだから、子どもたちったらアタシが彼の訃報を持っていくまで、ずうっと梯子持って家中うろちょろしてたのよ? 次男坊なんて、父親の死体見に行く時まで、背中に飾りの輪っかひっつけたまんまだったんだから」
 でもそれだから、ばさばさ揺れるショッキングピンクを追いかけながらアステルは理解してしまったのだ。モニカがどうして、自分の半歩先を歩き続けていたのか。
 歩幅にわざと差をつけて、向かい風を切るようにして、モニカは歩き続ける。ただ鼻を啜る音だけはばかでかく聞こえてきたので、この人も隠し事は下手なのだろうな、とアステルはなんとなく思った。恋人とは、得てしてどこかそういうふうに、似通ってしまうのかもしれない。誰かと共にあるということは、そのひとの存在そのものを、身体のどこかに、染みつかせてしまうものだから。
 大きな手のひらでぐしゃぐしゃと、盛大に顔中を擦ったモニカは、は、と大きく息をつく。
「バカよ、大バカ。そんな大バカが遺していっちゃったのもさ、どうせバカに違いない息子二人だから……アタシがぜーったいついてやんないといけないってのに、ね」
「できなかったのか? だって……今まではずっと、モニカが育ててきたんじゃないか。もう、親代わりみたいなものだろう」
「違うわよ。さっきも言ったけど、アタシはただの、通りすがりの善人。他人よ、他人。家族でも、なんでもないわ」
「し、しかし」
「しかしもカカシもありません。だから、〈忍耐〉の国らしく、涙ぐましいくらいきちんと整った里親制度に、もちろんあの子たちも出される羽目になったってわけ」
 そしてモニカははっきりと、自分と自分の愛した男の子どもがまったくの他人であったと、叩きつけるように思い知らされるのだ。制度上。世界の常識を鑑みるに。――他人。
 内側から守るのはこんなにも難しいのに、外側から壊されるまでは本当にあっという間だ。なんだってつかめそうな気がしていたのにね、と、おおらかな手のひらを持つモニカは呟く。そのふたつをしっかり広げて握っていたはずの、淡い青と明るい黄色の子供服。その切れ端が指先から零れ落ちて、砂にまみれたそのときだった。
 手で掴めなければ足で追い付けばいいと、モニカが顔を上げたのは。
「報せはキャスティスまで流れてきてたんじゃないかしら? おぞましい恰好をした男が、里子に出された子ども二人を誘拐して、立てこもって……おおかたこう報じられたんでしょうね、男は国が放った追っ手から逃れるために、子ども二人を盾にした、って」
 あった。確かに聞いたことが、あった。そしてその時自分がどんな目で犯人を見つめていたかも理解していたから、アステルはぐっと黙ってしまう。
「ほら見たことかってアタシ、ちっちゃい死体二つも抱えてさあ、思ったわよ。ほら見たことか、バカな男の息子二人も、やっぱりバカじゃない。血筋って怖いわよね、まったく」
「モニカ……」
「しかもこの二人の最後の言葉がねぇ、また傑作なのよ。まだちびすけのくせにさぁ、生意気だって思うでしょ、痛い痛いなんて喚きもしないで。そのくせでっかい一粒だけ泣いて……誕生日おめでとう、なんてね、笑顔で言うのよ、アタシに」
 そんなこと言われたらね、と、モニカは。
 そこでやっと、アステルのほうを、振り返った。
「そんなこと言われたらね。後悔するしか、ないじゃない」
 ねえだっていつでもこの両手は、たいせつな誰かを抱きしめるために、あって。きっとそれだけでよかったはずなのだ。正しい嘘も大義名分も立派で美しい言葉もそこには必要なかったはずで、ただすべてを置き去りにして抱きしめてやる、たったそれだけのことが、どうして、できなかったのだろう。
「今までしてやれなかったこと、ほんとはもっとずっと一緒に居られたかもしれなかったこと、もっとやりかたがあったかもしれないってこと……後悔して、後悔して後悔して、あきれるほど後悔しまくって、さ」
 嫌いなのかもしれないと、アステルは少しだけ思った。全身隙がないほどにメイクが施されているわりには、あちこちあかぎれが残ったままになっているモニカの手を見て、もしかしたらモニカは、自分の手が嫌いなのかもしれないと、少しだけ、思った。
 けれども彼女は、ぎゅっとそれを強く握りしめて、言う。
「でも、そんで、その全部背負って。今度こそはって、歯ぁ食いしばるしか、ないじゃない」
 化粧が剥がれ、アイシャドウの染みこんだモニカの笑顔は、とても美しいとは言えなかったけれども。そうではなかったからこそ、やはりモニカの笑いかたは、ほんとうに優しかった。
 ほんとうにおぞましくて、だけどそれだから、世界で一番、きれいだった。
「だからアタシは決めたのよ。アタシはね、愛に生きるの! あたしのこの身体も、胸でずっくずっく鳴ってる心臓も、それからこのハートも。アタシは全部、愛で燃やすわ!」
 モニカは長い長い腕をばあっと広げる。ものすごく豪華なバラの模様が描かれたつけ爪が長いぶんだけ、それはもっともっと広大だった。七人くらいなら軽々抱きしめられそうなくらいには。それをそのまま口にしたら、モニカはばちん、とまた思わずのけぞってしまいそうなウインクをする。
「あったりまえじゃない。ごらんなさいな、アタシのハートの、このあったかい色。アタシの両手はね、アタシの大好きなやつらを、抱きしめるためにあんのよ!」
 そうしてモニカは桃色に輝くノヴァを、どちらかといえばものすごく頼りがいのある膨らみかたをした胸を張って、アステルに見せる。
 捕まったモニカは、やはりすぐに最高刑の執行が決定し、目が覚めた時はノクだった。目の前にはヒューイがいたのだというが、二人の間にどんなやり取りがあったのだかは、結局教えてもらえなかった。
 しかしそのときから、ヒューイがいたラボの横には下宿所が建て増しされ、以来モニカはここでずっと、住んでいる人々の世話をしているのだそうだ。特にルクから堕ちてきた者は、初めに必ず一度ここを訪れ、ノヴァを与えられる。それからラボに残るか出てゆくかは自由意志に一任されるが、今でも頻繁に子どもが生まれたからノヴァがほしい、という連絡がくる以上、彼らも元気にしているのだろうとモニカは言った。多分、とても嬉しそうに。
「ま、しぶとい連中だからね、なにせ世界を追い出されるような大犯罪者たちだもの。おかげで起きた途端暴れ出すようなやつもいてね、危険なことなんてしょっちゅうだったわ。でも、それでもね、アステル」
「……ああ」
「それでもアタシがこんなことを続けてるのは、アンタみたいな子に、出会いたいからなのよ」
 その時自分に手が伸ばされたことをアステルは確かに理解したのだけれど、大きさとぴかぴかのネイルがはっきりとわかるほど広げられたそれがどんな役割を以て自身に伸ばされたのかは、すぐにはわからなかった。なにせ久々だったのだ。
 ひとに、こんなふうに頭を撫でられることなど。
「アステル。アタシはね、今ラボにいる連中みーんなのこと、気に入ってんの。どいつもこいつも自分勝手で、どーしよーもないとこもあって……でも全員、おっそろしくバカだから。あたしはあいつらのこと、だぁい好き。もちろん、アステル、あんたのことも」
 人の好みって変わらないものね、と大げさにため息をついてみせたモニカは、アステルの頭を撫でながら、いや、もういっそぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜながら、笑って言った。
「んっふっふ。アステルちゃん、思いっきりおせっかいやいたげるから、覚悟しときなさい。アタシの愛は、そりゃあもう重いんだから!」
 そうして、とうとうくしゃくしゃになってしまったアステルの緋色の髪を、今度はとても優しい手つきで梳いてくれたモニカは、アステルの両頬を大きな手で包むと、ぐにぐにと回すように弄んだ。つけ爪がかちかちぶつかる音がして、化粧のなんとなく粉っぽい匂いが鼻をついた。それがなんだかくすぐったくて、アステルは少しだけ、子どものように笑った。
「だから、まずアンタは……アンタが一番後悔しない道を、選びなさいな」
 そうされると否が応でも視界いっぱいに広がるモニカの化粧崩れ顔ときたら、精神的外傷を負いそうな程度にはすごい見た目をしていたことは間違いがなかった。けれどもそうだというのに、どうしてそのとき無理にでも振りほどいて逃げ出そうとしなかったのかは、アステル自身が一番聞きたかったことだ。
 もちろん、ついでに頬にキスをしようとしてきたときは、さすがに逃げたが。
「もー、ホンットにつれないんだから……まあ、ちょうどいい頃合ね。ほらアステル、見てごらんなさいな」
「えっ?」
「あっち。集まってきたわよ。」
 モニカが指差した方向を見つめて、アステルは目を見開く。
 そちらからゆっくりと近づいてきていたのは、

 *

 ディルトス民主国家からやってきた研究員たちは、皆それぞれに揃いの黄土色の長衣を着て、城の中を忙しそうに歩き回っていた。彼らの指示に対し忠実な働きを見せているのはもちろんキャスティス皇国の国民たちであり、普段から城で働いている者たちだけでなく国中から集められた多くの人々が、一様に嬉しそうな笑顔を浮かべながらそれぞれの仕事に専念していた。〈血の儀式〉決行の準備完了までは、もう間もなくだ。それと同時に人々の期待も膨らむ。
 なにせ、〈光の儀式〉の決行が不可能となってからずっと、人々はいつ終わるかとも知れないどころか状況は日に日に悪くなるいっぽうのウロに脅かされる日々を送っていたのだ。そこにやっと飛び込んできた朗報である。しかも、〈最高議会〉の命によってキャスティス皇国全土に向けて打たれた報せによれば、ディルトス中央研究施設が発見したこの新たなる〈血の儀式〉によって発現する赤のヴェールの力は、今までよりもさらに強化されたものになるらしい。
〈最高議会〉議長のレナード直筆のサインが文末に記してあるその文書は、〈血の儀式〉が成功すれば、もはや人々は濁りに怯える必要すらもなくなるだろう、という言葉で締めくくってあった。国民たちはその言葉に大いなる希望を見出し、それを糧に、辛い作業も笑顔でこなしているのだろう。わかりきったことだ。
「……わたしはまた、その希望の象徴に、なれる」
 わかりきったことだと、呟いて、窓の下で働いている人々から目を上げたテオフィリアは、窓硝子にぺたりと手を触れると、その向こうに映る自身の顔を見た。おそるおそる、見た。
 笑顔だった。確かに。両手で頬のあたりを触れてみたらちゃんと左右対称に歪んでくれていたから、きっと間違いはないのだろう。そう、わたしは嬉しいのだ。レナードから報せを聞いて以来もう何度反芻したかわからない言葉を、テオフィリアはまた繰り返す。何度でも繰り返す。言い聞かせるように、噛みしめるように、呪うように。
 わたしはとても嬉しい。わたしはたいへんに幸せだ。この身体が役に立てる、この血が役に立てる、このいのちが役に立てる。人々の役に立てる。なにかがおかしいと思うのだとしたら、わたしは今までの時間の方を疑うべきなのだ。
「わたしは、」
 だから、と、彼女は何度でも、何度でも、繰り返す。
「わたしは。みんなの、ために、なれて――」
 きしり、と鳴った音は、いつの間にか硝子を引っ掻くようなかたちになっていた手元でのものだったのか、それとももっと違う、もっと見えにくい、だけどとても心に近いどこかでのものだったのか。
 一瞬にして眩暈のするような濁りに襲われた彼女には、もう、考えることができなかった。
「つ、ぅ……っ!」
 あまりにもはっきりと表れてきたその濁りは、もはや痛みといったほうが正しかっただろう。そしてテオフィリアがそのあまりにも濃い濁りを目にするのは、初めてのことではなかった。日に日に強くなってゆくそれは、初めはこめかみのどこか遠くから、そして今やもう喉も胸もすべてぎりぎりと締め上げるような強さで襲いかかってくる。うまく息が吸えなくなって、動悸が一気にはげしくなる。身体が内側から脈打って、そのたびごとに痛みが増す。
 耐え切れずに膝から崩れ落ちた時、彼女の胸元で揺れたストルはとうに濁りきっていたけれど、しかしまだ割れることはなかった。例の事件以来、テオフィリアのストルには普通のものよりも強い祈りが込められていたのだ。それはこうなることを危惧してのことだったのだろうと、今のテオフィリアには理解できた。それもまとめて幸福なのだろうということも。
 ではこれは呪いなのだろうかと、痛みに絶叫する頭の端でふと考える。これは自分に起きたとてもひどいことがもたらした、悲劇の結果としての呪いなのだろうか。
 この胸の痛みは、この呼吸困難は、この動悸は、すべてが呪いで――すべてが、消し去ったほうがよいものなのだろうか。
 どうしてそんなことを考えてしまっているのかすら、テオフィリアにはわからない。だけど考えずにはいられない。ここのところ、そんなことばかり繰り返している。でもどうして。
 でも、どうして。
「おや……いかがなさいましたか、テオフィリア皇女」
「ッ、レナード、議長……」
 しかして、くずおれていたテオフィリアに、場違いなほどに穏やかな声はかかったのだ。
 奥歯を噛みしめながらなんとか瞬きをすると、滲みそうな視界に、白くてぞろっと長い影がぼやけて映った。それだけでは議会の長衣を着た人間ということしかわからないはずであったが、キャスティス皇国の第一皇女であり、かつ今や〈血の儀式〉における大切な役目を担ったテオフィリアの自室に許可なく入って来られる人物など、そうそういるわけもない。
 通して良かったものかと戸惑う番兵たちを制するように微笑みかけたレナードは、粛々とした足取りでテオフィリアのもとへと近づきながら、厳かな声で話す。
「目を閉じなさい、テオフィリア皇女。目を閉じ、祈りの言葉を口にするのです。あとはストルに身を委ねれば、すべて――」
「待って、」
 その時テオフィリアは、自分がどうしてレナードの言葉を遮ったのか、本当のところ、よくわかってはいなかった。またどうして、だ。なんだかおかしくなってしまいながら、テオフィリアは額に浮かんだいやな汗を拭う。
 どうして。どうして、と、ここのところ、そんなことばかり繰り返していて。
 だからわたしは、多分、なにかを、探しているのだろう。
「……待って、ください、レナード議長」
 どうして、の答えでもなんでもない、そんなことだけが、吹きすさぶ風のようなすがすがしさを以て頭を掠めた。それはとても小さな、だけど切実な響きを、彼女の中のすごく深いところに、くっきりと残す。
「……なんです?」
「聞きたい……そう、聞きたい、ことが……お伺いしたいことが、あるのです」
 そしてそれは彼女の心の奥底から、とぎれとぎれの言葉を掬い上げた。
 テオフィリアがそう言った途端にレナードの目がすうっと細くなったのは、常日頃から流麗な口調で話している自分があまりにも躓きながらそう口にしたのを、怪訝に思ったからだったのだろうか。よく、わからないけれど。
 まだずっと手探りな気分で、だけど自分がどうも手を伸ばしているらしいということだけは、テオフィリアにもはっきりとわかった。きっと掴みたいものがあるのだ。この、どこかに。彼女の手のひらは綺麗に着つけられた正装をしわくちゃにするほどぎゅっと握りしめられていた。締め上げるような痛みに翻弄されて、呼吸は乱れていたけれど、わずかな隙をついて、テオフィリアはどうにかやっと、口を開く。
「教えて、ください、レナード議長」
 それがきっと、この身体の中いっぱいで暴れまわっている痛みを増幅させることにしかならないと、不思議なほど革新的にわかっていたのだとしても。
 わたしはそうしなければならないと、痛切な決意にふるえる声で、言う。
「ストル、とは……ヴェールとは。ファーガスの、教えとは」
「…………」
「本当に……本当に、人々を、幸せにしてくれるものなのでしょうか?」
 はっとしていた。
 レナードの話ではない。他でもない、その言葉を口にしたテオフィリア自身が、その言葉に一番はっとしていた。ほんとうの言葉とはそういうものなのだと、このとき彼女は初めて、射抜かれたように理解する。用意されたものではなく、こう言うべきだと決まっているものでもなく、他でもない自分自身が、手探りで探した言葉たち、それを口にした瞬間に、それが自分のほんとうになる。ほんとうの言葉で話すというのは、きっと、そういうことだ。わからないと思ったその時が、ほんとうの始まりだ。
 今までできなかったことにふと出会った時の静かな高鳴りが、その時のテオフィリアの中にはそっと渦巻いていた。痛い、のたうちまわりそうに痛い、けれど。彼女は立って、レナードの返答を、真っ直ぐと待つ。
 レナードは鋭く目を細めたままで、口を開いた。
「ふむ……それは、あなたが一番よくおわかりなのではありませんか、テオフィリア皇女?」
「わたし、ですか……?」
「ええ。なぜならあなたは今、そうして濁った気持ちに苛まれ、倒れ伏していたところではありませんか。あってはならないものに、間違っているものに悩まされ、苦しんでいたではありませんか」
「……それは、そう、ですが」
 レナードの言葉は響き渡る。ひたすら厳かに、すべてに平等な救いを与えるように。
「ストルも、そしてヴェールも、人間にとって尽きぬ心の濁りから、苦しみから、救ってくださるファーガス神の加護なのです。人間とはかつてもっと醜く、脆い生き物だった。だが今はどうです。皆が常に皆の幸福のため、迷いを捨て行動を起こせるこの世界は、実に正しいではありませんか。人間とはそもそも助け合い共生していく生き物なのだと、そういう美しい生き物なのだと、ファーガス神は我々に思い出させてくれたのです。だから」
「っ、あ、」
 瞬間、テオフィリアの間近に、冷たく整ったレナードの顔が近づけられる。
「そんなもの、早く捨てておしまいなさい、テオフィリア皇女」
 跪いたのだ、ということを理解するまでにはわずかな隙間があって、その間にレナードはもう目的を達していた。細い細い隙間から覗く瞳と目が合ったと思った時にはもう、テオフィリアの身体は凍りついていた。ひえびえと澄んでいた。
 そうして気がついた時にはもう、彼女のストルは、レナードのいつまでも若々しくしなやかな、そしてぞっとするほど白い手のひらの中に、包み込まれていたのだ。
「捨てなさい、テオフィリア・イ・ル・リーリア。決して叶うことのない想いなど――あなたの負った義務を遂行するに、邪魔なものでしかない」
 そしてみるみるうちに彼の指の隙間から、白い光は溢れてくる。
 それはテオフィリアのストルが発した光に他ならず、彼女の純白のそれは、あらがいようのない力でさっと洗い流されてしまったかのように、どんどん澄み渡ってゆく。忘れてゆく。心の中が少しずつ救われて、だけど同じくらい空っぽになってゆく。
 しかしてレナードが手を離して立ち上がった頃にはもう、彼女のストルはいつものように磨かれて、目にまぶしい光を発していた。
「は……っ、」
「どうです。楽になったでしょう、テオフィリア皇女」
 なめらかに微笑んでそう言った彼の言葉は、霧がかかったような頭の中で、やけにはっきりと響いた。そしてあっという間に霧は晴れていくのだろう。その中に何があったかを思い出させないうちに。
 もちろんテオフィリアの身体じゅうを蝕んでいた痛みはなくなり、くずおれた格好のまま両手を、美しい紋様の絨毯の上にぺたりとついたテオフィリアは、ゆるやかな呼吸を繰り返していた。何を。わたしは、今、なにを。彼女が初めに感じたのは身体の中の静けさで、鼓動はまるで眠る前かのように、穏やかで落ち着いた音を奏でていた。
 でも。
「……も」
「はい?」
「それ、でも」
 それでも、彼女の心に、何度でも削り取られてもうぼろぼろの心に、それでも浮かび上がるのは、みんなのため、という言葉では、なかったのだ。
 けれどそれがなんなのか、そこに自分が必死に刻んできたことはなんだったのか、テオフィリア自身、たった今までわからなかった。それはほんとうだったけれど、賢人であるはずのレナードは一つミスを犯したのだ。
 それは、言ってみれば、世界にとっての大いなるミスだったのだろう。だって彼は、とてもひどいこと、としか言われてこなかったそれについて、ほんの一言でもヒントを与えてしまったから。
「それでも、わたしは」
 決して叶うことのない、想いと、言ったのだ、彼は。
 テオフィリアは、ぶるぶる震えてしまうほどに、床についた両手をぎゅっと、握りしめる。
 そうして彼女がきつと顔を上げたその瞬間、レナードの顔から笑みが消えた。
「皇女……いや、テオフィリア。貴様」
「わたしは!」
 なぜなら、テオフィリアの胸元のストルは、つい先ほど濁りを逃がしたばかりのストルは、渦巻くように、逆巻くように、染みこんで広がって覆い尽くすように。
 美しさの影もないほどどろどろに、濁りきっていたから。
「わたしは、想っていたい!」
 ああ、ほんとうにひどいのはきっと、顔も思い出せないことなのだ。
 その、もはや存在自体が「間違い」になってしまった誰かの顔を、自分がほんの少しも、思い出せないことなのだ。それを悲しいと思うことすら、空っぽの心をどれだけ絞っても、できそうにもないことなのだ。だってわたしの悲しみは確かに、悲しむためにあったのに。わたしのために、ずっとそこにいてくれたのに。
 テオフィリアは漠然と、謝らなければならない、と思っていた。その誰かにだろうか、いや、きっと違う。そのひとにはもはや、謝るべきではない。だけどごめんなさいって、言わないと。たくさん嘘をついて、たくさん踏みにじってきた、わたしの心に。
 ――ごめんなさいって、言わないと。
「……なぜだ。なぜ、なぜ、なぜそんなことを言う。貴様はこれから死ぬのだろう。いや、生まれた時からずっと、死ぬことが決まっていたではないか。それなのに人を想ってどうするというのだ、人と関わってどうするというのだ」
「……そうですね」
「どうせ打ち砕かれる想いならば、初めからないほうがいいだろう。その苦しみから救ってもらえることを、ありがたいと思うべきだろう」
「ええ。まったく、そのとおりです」
 笑顔を消した、いや、もはやなんの表情も浮かべていなかったレナードが、淡々としているからこそ激昂しているよりもきりきりと尖った声で言ったことは、きっとすべて正しかった。きっとすべて正しかったから、テオフィリアはその全てに頷く。
 頷いて、それでもまだ、立っている。
「そのとおりです、レナード議長。想えば胸が、すぐ痛む。わたしは怖いのかもしれません、それとも悲しいのかも。絶対に叶わないとわかっている、砕かれてしまうとわたしがいちばんわかっている想いですから。……でも」
 それでも。
 雨が降っていた、初めて自分に側近がつくという話を聞いた、その前の日のことだった。皇帝である父が話してくれたところによればそれは自分よりひとつ年上の少女で、まだ幼いというのに剣の才があり、その頃の騎士団長から稽古をつけてもらっていたらしい。だったらすごく強いだろうから、もしかするととても怖い子なのだろうか。そんなことを考えていつまでも眠れずにいたことを思い出せる。
 でもお城の庭で初めてあなたに会った時、あなたはせいいっぱい軍人らしくと気張った挨拶のあと、ふにゃりと笑って、なんて呼べばいいかな、と、優しく尋ねてくれて。そう、だから、初めに惹かれたのは、あなたのその声だった。ほそい雨粒のように優しく染みる、声だった。
 あだ名なんてつけられたことがなかったにしても、たかがそれだけにずいぶん時間を掛けてしまったような気もするけれど。でもそのくらいちゃんと考えなければいけないことだったのです、ちゃんと考えたかったことなのです、わたしにとっては。
 だって、あなたのその声で、呼んでくれる名前だから。
「でもわたしは、わからないのです。痛くて、苦しくて、でも、わからない。怖くて、悲しくて、それでも、わからない。あるといやなものは、だけど……ないほうがいい、ということに、なってしまうのでしょうか? ほんとうに、そういうものなのでしょうか?」
 どうして、どうして、のその先が、次々に溢れだしてくる。どうして皇女という立場でありながら医者になりたいなどと言った自分のわがままに、付き合ってくれたひとがいたことを、今の今まで思い出せずにいたのだろう。
 世間知らずで迂闊だった。それは未来の純潔の巫女という立場上外界から切り離されたところにいたから仕方のないことといえばそうだったのかもしれないが、大人の誰もがテオフィリアの行動一つ一つに気を配っているというのに、その大人に医学書で出てきたわからない部分を質問してしまうなどとは、実に愚かなことだった。
 それでも逃げおおせたのは、手を引いてくれる人がいたからだ。ぎゅっと握りしめたその中に、わずかな温かさがよみがえる。今でも。ああきっとこれが、あなたの手の温かさだ。忘れても、忘れても、しっかりとどこかに残ってくれていた、そばにいてくれていたのに。それなのにどうして。
「わたしはたくさんのことを忘れてしまいました。きっと、とても、たくさんのことを。それは確かに、人々のためにいのちを捧げなければならないわたしにとっては、重たくてしようがない、痛くてしようがない、持たないほうがいいものばかりだったのでしょう。でも。でも!」
 立場上まず訪れることがないはずの、兵士の訓練所までの道のりをやけにはっきりと覚えていたことだって、少しも不思議に思わなかったし思えなかった。だけど今なら、靄がかかっているけれど、なんとか少しだけ掬い取れる。成長して行動の自由が利くようになってからは、ほとんど毎日のようにそこへ足を運んでいたのだ。染みつくくらいには。そこに、毎日の訓練を欠かさない生真面目な誰かがいるということを、自分はちゃんと知っていたから。
 もちろん救急セットをちゃんと隠し持って、昨日学んだことなんかを反芻しながら待っていたけれど、おかしいでしょう、わたしは、あなたの顔を見た瞬間、そんな知識はすべて吹っ飛んでしまったような気が、していたのです。詰め込んだ知識も準備していた表情も忘れて、なにかそれよりももっと、もっと、あなたの顔を見て、あなたの笑い方を見て、そうして考えたことを、あなたに向けたくなって。いつも、そうだったはずで。それなのにどうして。
 テオフィリアは問い続ける。考えることすらも許されないとは、そういうことなのだとしたら、それは。それは本当に、幸せなことなのか。
 幸福とは、そういうふうに決められるもの、だったのだろうか。
「わたしは、わからない。わからないのです、レナード議長」
「貴様……巫女という立場でありながら!」
「そうです! わたしは間違っているのです、痛いです、苦しいです、それでも」
 そうだ、わたし、わたしが、医者に、なりたかったのは。
 どこか怪我してしまったら、真っ先に駆けつけて、治してあげたいと思っていたのは。
 ただ。
「この想いは、たいせつな――手放してはいけない、たいせつなものだと、思うのです!」
 ただ、あなたに。

 *

 ゆっくりと近づいてきていたのは、闇だった。
「こ、れは……!」
 いや、ただの闇ではない、あれは濁りだ。濁りのかたまりだ。それがゆっくりと、なにかを求めて這いずるように、こちらへと近づいてきている。
「アステル、アンタさ。ここに来る直前にも、ルクでたっぷり濁りをノクに捨ててきたでしょ」
「あ、ああ、そうだ……じゃあ、もしかして、あれは」
「そう。あれは、アンタの捨てたもの。あんたの捨ててきた、感情とか想いとか、そういうのの、かたまりよ。アンタが捨てた想いは、アンタの心に惹かれて、集まってくるわけ。ノクに堕ちてくる人間っていうのは、だいたいその手前にとんでもないことしてるもんだからね……ま、外ほっつき歩いてたらこういうふうにその濁りにとりこまれちゃって、すぐウロになっちゃいましたー、なんてのが、よくあるパターンっちゃあそうなんだけど」
「え、なん……うわっ!?」
 のんきな調子でさらりと恐ろしいことを告げたモニカは、しかしそれを聞いて後ずさり始めていたアステルに目ざとく気がついたらしく、その大きな手のひらで思いっきりアステルの背中を叩いてきた。痛かった。とても。
 そうしてさながら干された布団のようにいい音を立てて前に押し出されたアステルは、もちろん逃げる隙もなく、近づいてきた濁りに取り囲まれてしまう。
「ちょっ……も、モニカ、何をするんだ!」
「だいじょーぶよ、今のアンタなら。ほら、アタシにかまけてる場合じゃないでしょ」
「くっ……!」
 悔しいが、モニカの言うとおりだった。というよりも、もはやモニカのほうを向いていても意味がなかったのだ、アステルは文字通り四方八方を濁りに囲まれ、身動きが取れない状態になっていたのだから。
 これに呑まれたら、終わり。頭の中であの空洞の瞳が煌めいて、アステルは思わず強く目を瞑った。戦わなければ、戦わなければ、でも、どうやって――?
「う、ん……?」
 しかしアステルは、とにかく何かに備えようとして取っていた体術の構えを、ゆっくりと解いた。そして、自然にそうするときのように、深く呼吸するときのように、ぼうっと立った。なぜ今そうできたのかは、よくわからないけれど。
 ただ、ふわふわとあたりを取り囲んでいた濁りたちは、襲い掛かってくるでもなく、締めつけてくるでもなかった。
「これは……」
 それらは、目を閉じていたアステルの目蓋の裏に、ただ懐かしい光景を映し出していたのだ。
 そうだこの日を思い出していたと、アステルはすぐに合点がいった。ノクに堕ちてきてからあまりにもいろいろなことがあったし、それなりの時間も経っていたけれど。そしてこの記憶から数えたら、本当にたくさんの月日が過ぎ去ってしまったけれど。それでもやはり、手に取るように思い出せる。描ける。テオフィリアと、初めて会った日のこと。
 それは大地を優しく祝福するような雨が降った、次の日の朝のことだった。
「ああ、そうだ……ティアはあの時、なぜだかすごく緊張していて。あんまりふるえていたものだから、なにか言ってやらなきゃって……あだ名をつけるなんて信じがたい行為、よく思いついたものだな」
 だけど自分はそれをたった一人呼べる人間であることを、本当は心から嬉しく思っていた。
 それがすとんと胸の中で響いたとき、アステルははっとする。確かにこれは、ノクに堕ちてくるその直前に考えいたこと、ではあるけれども。決定的にひとつ違う。あの時自分はただ知っている、というだけで、思い出していたのだ。
 だからこんなふうにそのときどんな感情を持ったかなんて、あのときの自分は、すっかり目をそらしてしまっていたはずなのに。
「ティアの家庭教師から逃げたときは、大変だったな……本人には言えないが、ティアは足があまり速くないんだ。でも私の手をずっと、ちゃんと、掴んでくれていた……あんなにティアと長い間、強く手を握っていたのは、あれが最後のことだった。そして、ティアの手を握っていたいと考え始めたのは、あれからだった」
 あってはならないものだとふたをして、間違っているのだと目を逸らしてきた。それでも、毎日しつこく心を満たし続けた、毎日しつこく襲い掛かり続けた、めんどうで、みにくくて、正しくもなんともないような、ただの素直な、自分の想い。
 それをいま、つきつけられている。
「訓練場はたいがいむさくるしい男しかいないし、汗臭いし汚いし、なにより危険だから来るなと何度も言ったのに……いや、でも、強くは言わなかったんだろうな。実際、楽しみにしてたんだ、私は。きついしごきのあと、君の顔を、見るのを」
 ひとつひとつ、つきつけられている。
「君が医者になりたいって言ったとき、先のことを知っていたにも関わらず私は、一も二もなく賛成したけれど。でも多分、私は……私はね、ティア。こういうのはなんだけれど、なんでもよかったんだ。君が、自分で決めて、こうありたいと決めたことなら……なんでも、なんだって。そばで、応援してやるつもりだったんだ。」
 それはアステルの胸で、淡く、風に揺れて消えそうな光のもとへと、そっと近づいてゆき。
 ひとつひとつ思い出してゆくたびに、それが本当はずっとそばにあったことを、ちゃんと想っていたことを、受け入れてゆくたびに。
「……ティア」
 光に、変わってゆく。
「ティア。」
 たいせつなことを、ちゃんと抱きしめよう。

 *

 たいせつなことを、ちゃんと抱きしめよう。
「アステル、」
 ぱきん、という音を聞きながら、自分のおわりの音を聞きながら、テオフィリアは、濁りで砕け散ったストルの欠片を、両手に抱え込む。
「アステル。」
 きっともうこれが最後の一言になってしまうかもしれない、それでも、たいせつなことを。
 自分にとって、絶対に手放してはいけない、ゆずってはいけない、たいせつなことを。
 ちゃんと、抱きしめよう。

『そばにいて。』

 ひとつの言葉はふたつの世界で響きあって、そして、光はどんどん強くなる。
「たとえそれが、世界中を裏切る結果になったとしても。世界中から、間違っていると拒絶される想いだったとしても……私は、君に、そばにいてほしい。君のそばに、いたい」
 濁りのかたまりがすべて無くなったその時を、なにも知らない誰か見ていたとしたら、地上に太陽が昇ったことに、もしかすると腰を抜かしていたかもしれない。緋色の髪をなびかせて、茜色に燦々と輝くノヴァを携えたアステルは、きっとそのような姿をしていた。
「ティア。私は、ただ君のことを、守りたい」
 私にはそれしかなくて、でも、それだけで、いい。
 数百人、いや数千人、数万人のいのちを犠牲にするということなのだろう。騎士団長として今までウロに立ち向かってきて、怪物たちの恐ろしさを十二分に知っていたアステルだから、そうすればどうなるかということもちゃんとわかっていた。武器を持つには幼すぎる手の子どもを、逃げるにはか弱すぎる老人を、身重の女性を、矮躯の男性を、自分はきっとこうして、見殺しにする。テオフィリアの手を握るとはそういうことだ。彼女の身体に縋りついている、数えきれないほどの手のひらを、すべて払いのけるということだ。最初から最後まで、世界最悪の犯罪者。
 そのアステルを、モニカはまぶしそうに見つめていた。まぶしそうな顔は、どんなときよりも一番優しい笑顔と、とてもよく似ている。そんな表情を浮かべて、モニカはそっとアステルの背中を叩く。びくりと跳ねてしまった、そうだ、きっとまだ怖い。わかっている。誰かから否定されるのは怖いし、誰かから断罪されるのは、いつだって恐ろしい。
「んっふっふ、いいじゃなーい。国まるまる一個ぶん危機に晒して、それぜぇんぶ無視した、自分勝手な大恋愛。なぁにアステルってば、色欲に溺れすぎよぉ?」
 でも、ひとりで戦っているのは、自分だけではない。
 モニカは最後に一度大きく振りかぶって、強くアステルの背中を叩いた。そうしていつもの、ばちんという衝撃がぶつかってきそうなウインクを、
「いいわよ。そんならアタシたちが、アンタたち二人のこと、世界中に尻向けてでも、祝福してやろうじゃないの!」
 とびっきりチャーミングに、してみせた。
「……ああ、頼むよ。ありがとう、モニカ」
「あぁら、お礼はここ、このほっぺにチュッとくれてもよくってよ、ア・ス・テ・ルちゃん?」
「うん、それは遠慮しておこうかな」
 もうすぐ、朝が来る。


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