「だからきっと、走れるよ。-after-」






大学生になったとき驚いたことの一つとしては、お金の使い方についてかなり自由だってことがある。
こんなあたしでも一応バイトは週に三日ペースでこなしているわけで、最低賃金が物凄いことになっている田舎出身からすればびっくりするような時給を貰ってもいる。
そりゃあ大学生なんだからいつだって金欠ですよ、でも高校のときとは考える桁が段々違ってきたっていうのは確かにあるのだ。
未だに親から甘やかされている大学生であるあたしはそこそこの額の仕送りを毎月貰っているけれど、今の仕送りと高校のときのお小遣いは、やっぱり何か違うのだ。
こういうのを経験して自立っつーやつを学んでいくんですかね、なんて柄にもなくあたしは考えたりもする。え、どうしてって?

やだなあ、現在の状況によって意識が半分あさっての方向にすっ飛んでいるからに決まってるじゃあないですか。



「ちい……ちい? どうしたの、次降りるよ?」

「っ、あ、あぁはいっ!!」

「わ、え、なに?」

「なっ、なんでもないっす、なんでもないっす! いやほんと全然!」



漫画だったらこの先に、『別に雫さんに見惚れてたなんてことは全然ないんですからね!』って続くんだろうなってまたあたしのどうしようもない頭が考えてる。脳がかなり使い物にならない。
そんな状況ってどんな状況かといえば、ざっくり言うと、花火大会に行く途中の電車の中。あ、でも今降りる駅に着いて扉が開いたから、花火大会会場近くの駅ってことになる。


でも問題はそこじゃなくって、詳しく言うと、朝から会って浴衣を購入して、おまけにお店の人に着付けてもらってからの二人で花火大会。
誘われたのは二日前、なんだかんだで毎晩してる緩いメールの中に、大分下にスクロールして書いてあった。
クールっぽい性格である雫さんにしては珍しい、彼女からの誘いで、あたしは驚いて、驚いたその勢いでうっかり了解ですなんて送ってしまったのだ。
いや別に花火大会に行くこと自体が嫌なわけではない、全然ない、寧ろ嬉しすぎる、じゃなくって、問題はその前にあった文。
『一緒に浴衣買ってから、花火大会に行きませんか?』――ここだ。一緒に、浴衣買って。大事なことだから二回言いました。もう一度言ってもいい、あのときのあたしに言い聞かせられるなら。



誘われたことそれ自体に浮かれて、そんなときだけ無駄に早起きして早朝のニュースをぼーっと見たりしてから家を出て、集合場所には10分前に到着して。
雫さんも5分前にはちゃんと来た、ちい来るの早過ぎだよって苦笑されたのは恥ずかしかったけど、雫さんの頬も仄かに赤くて、息は上がってて、走ってきてくれたんだってなんだか嬉しくなる。
そうここまでは良かった、あたしの心の中は初デートですやっほいなんて花火大会行く前からお祭り騒ぎだった、予想外の展開はここから。



「で、そう……ええとね、駅ビルの地下に、セールやってるとこがあったから。とりあえずそこに行こう」

「……んっ? え、なんのセールっすか?」


「なにって……浴衣、だけど」



きょとんとしているあたしを早く行こうって雫さんは促して、あれおかしいなって思いながら、そうか浴衣買うのかってなんとかあたしは飲み込みかけていたのだけれど。
無論、そんな薄っぺらいあたしの理解が覆されるのには、ものの10分もかからなかったわけで。




何が言いたいかって、すぱっと物事を決めていくタイプである雫さんが浴衣を選んで着付けてもらうまでは、ものの10分もかからなかったんだけども。



「うん……これにしようかな」

「………」



いや、ほんとにね、黒髪美人に浴衣ってさ、多分永遠の反則技だと思う。



髪まで上げてもらえちゃうって凄いサービスだとも突っ込みたくなるが、これはでも、誇らしげな店員さんの気持ちが良くわかる、なにこれなにこれすげぇ綺麗なんですけど。
この間見た雑誌で浴衣特集とかやってて、なんかランキングがどうたらでランクインした浴衣美人さん方の写真が並んでたけど、正直目じゃないってくらい。
黒地に淡い青の睡蓮の浴衣が、雫さんの落ち着いた雰囲気を包み込む。少し切れ長の目でどうかなって言うみたいにこっちを振り返られたら、あたしはもう、見惚れるしかなくて。




こんなの一人で街歩いてたら女のあたしでも声かけるよとまで考えた時点でそういやあたし恋人じゃんって突っ込んで、一人顔を赤くする。
それなりのお値段だろうにぽんと会計を済ませた雫さんを見てから思考は冒頭に繋がるわけだけれど、つまりはそっから電車降りるまであたしは放心状態だったってこと。
だっていくらなんでも、こんなきれいなひとが隣に居て、しかもそのひと、あたしの彼女だよ。あっこらこっち見んなあたしの彼女だぞって言えちゃうんだよ、あたし。




「わ……うーん、やっぱり結構、混んでるね」

「ぽいっすね……一応ネットで穴場とか調べたんすけど、思えばネットに乗ってる時点で大して穴場でもないかなって」

「あ、ちい、調べてくれてたの?」

「えっ!? あ、ま、まあ、はい、いや、ちょっと気になってっていうか、うん!」


「そっか……ありがと、ちい」



そいで、二人並んで歩きながらさ、こんなこと言われながらさ、何時もはきりっとした顔がふっと緩んだのなんて見せられたら、あたしはもう、この人しか見えなくなる。
好きだといったらその分だけ好きになるっていうのは話でしか聞いたことが無かったけど、今なら納得できる、絶対出来る。
いつか一目惚れしたときのあたしより、伝える前のあたしより、伝えたときのあたしより、昨日のあたしより。いつのあたしよりも、今のあたしはずっと、雫さんが大好きで。
大好きで、大好きで、たまらなくなる。喉の奥がつんと苦しくなって、雫さんの足元でからころ鳴ってる下駄の音がやけに耳に染みる。とくんとくんって音と一緒に、体の中、響き渡る。
嬉しかったり泣きそうだったり甘かったり苦かったり、いろんなぐるぐるがあたしを取り囲んで、そうしてあたしは、雫さんでいっぱいになるんだ。



「もう少し、歩いてみようか。そしたら空いてる場所、見つかるかもしれないし」

「はいっ! あ、売店見つけたら何か食べるもの買っておきましょう!」

「うん。焼きそば食べたい、かも」

「あー、いいっすね、焼きそば。そういやはし巻きは売ってるかな……」

「はし巻き? って、何?」

「へっ!? え、あれ、これローカルトーク!? あのー、なんつーんですかね、こう、お好み焼きをぐるっと箸に巻いたような……そういうもちもちしたアレです」

「へえ、見たことはないかも……でも、食べてみたいな」

「あ……じ、じゃあ! こんどっ、一緒に、その」


「うん……いつか、ちいの家にも行ってみたいし。そのとき……えっと、はし巻きだっけ、食べさせてね」


「わ……は、はいっ!」



自分でも馬鹿なくらい元気に返事したなって思ってたら、それが雫さんもおかしかったのか、雫さんはくすくす笑っていた。
それがまた綺麗で、どうしようもないくらい好きで、あたしはもっともっと雫さんに溺れて、でももっとどんどん溺れたくなって。








暫くうろうろした結果、車の通行がすっかり止まっている道路の上、花火の観賞用にシートが敷かれているそこに、二人して腰掛けることにした。
隅っこの方だったから初めはそう混んでいないくて楽だった、時々食べ物をつまんだり、サークルやらについて雑談したりしながら時間を過ごして。

だけど花火が始まる時間が近づいてきた頃には、すっかりこっちの方まで人が押し寄せてきていて、あたしと雫さんは、必然的に身を寄せ合うことになる。
といって向こうのお兄さんお姉さんもあっちのカップルもこっちのバカップルもくっついてるから、同性のあたしたちがくっついてたって、特に目立つものでもないが。
しかしまたもや問題はそこではなく、どこだってあたしの脳内とか心の中とか理性とか、なんか、そういう、ね、アレだよ。どうしよう、また頭が、使い物にならない。


ぽんぽんと気の抜けた音と一緒に、暗くなった空に白い煙のようなものが上がる。あれが合図だねって雫さんが呟いた。吐息まで感じられそうな距離だった。
雫さんが言ったことは本当で、次にさっきから何事か言っていたアナウンスがもう一度鳴って、花火の開始を告げた。

直後、甲高い音と一緒に光は夜空を上って、大輪の花が咲く。



「ふわぁ……」

「すごい……」




歓声と拍手が、辺り一体を包み込んだ。






雫さん曰く、ここで開かれるのは、隅田川のそれには叶わないにしても、数ある花火大会の中でもそれなりに有名らしいそうで。
あたしも今ではすっかりその話に納得していた、故郷である田舎で開かれていた小規模なのしか見たことないあたしには、ちょっと感動である。
さすが都会、職人さんには事欠かないというか、色から形から多彩な花火が次々と上がる、8千発だなんて想像もつかなかったけど、この勢いで一時間半だ、それも頷けた。
あれは何尺球だねえって付近に座っていた物知りそうなおばあちゃんが、隣で二人並んでいる高校生くらいの子達に言っているのが聞こえて、次に上がったのは確かにでかかった。迫力である。
しかしあんまりでかいから驚いたのか、おばあちゃんの隣の子はびくっとしていて、それを宥めるように、もう一人の子が肩を叩いてやっているのが見えた。

それでなんとなしにあたしは雫さんの方を横目で見れば、色とりどりの光に照らされた、綺麗な横顔が、そこにはあって。



「あ、赤……うん、緑も綺麗だね、ちい」

「っ、は、はい、そっすね」



少し呆けたような声でそう言うのが、服装も関係してるのか、妙に色っぽく聞こえて、あたしは思わず花火そっちのけで俯いてしまった。アスファルトがぬくいからじゃなくて、顔が熱い。
花火も見たいんです、一緒に見て綺麗ですねって感想も言いたいんです、それもあるんだけど、それよりあなたが綺麗で、綺麗すぎて、あたしは、ああ。



「ほらちい、上がるよ、6尺玉!」

「えっ? あ……」



どおん、と、びりびり震えるような音がする。
だけどあたしが聞くことができたのは、音だけ。見ることができたのは、一瞬辺りを照らした光だけ。



――あたしの気をいちばん引いてたのは、触れ合ってる手。





どんどん上がる花火を見逃しながらあたしはぐるんと思考に溺れる、ほらあれって指差す瞬間に雫さんはあたしに近づいた、だから今、隣に居るだけであたしと雫さんの手は触れてる。
小指と薬指のあたりに、柔らかな雫さんの手が、そっと。まるで偶然に、そっと。微かな感覚、だけど、あたしはそれにぐいぐい引かれる。
力が抜けそうになる顔をどうにか押し上げて、心から花火を楽しんでいるらしい雫さんの言葉に笑顔を返しながら、あたしも花火を見上げようと努力する。
それでも気になるのはたまに触れあう場所が変わったりする手で、あたしの全神経はとうとう左手に集中し始めていて、瞬きも忘れそうで、視界がたまに霞んだ。
ぱらぱら火花が柳みたいに舞い降りてる、すごいねっていう言葉と一緒に、もう少しだけ近づく手。もうほとんど手の甲どうしは、くっついてる。
あれ、ハート方かなって雫さんは空を指差した、空には赤と桃色の花、今度は肩まで、触れ合って。


あ、もうだめ、零れる。




「……雫さん」

「あれは、何の形……ん、なに、ちい?」


「あのっ……怒らないで、くださいね」



言ってからあたしは震える指で雫さんの手をつかまえて、それから、目を瞑るのと一緒に手を繋いだ。次に触れ合ったのは、手の甲同士じゃなくて、手のひらどうし。
いつかのような、手を引かれるかたちじゃなくて、恋人のかたちである、それ。2、3度握りなおしてから、あたしはきゅっと、力をこめる。
次の花火の準備があるらしく暫く空が無音になっているのがやけにしんしんとして、周りの雑談は耳に遠く、ただ、手のひらから伝わる優しい感覚が、あたしを枯渇させた。
もっと、もっと触れたい、あたしは溺れてる、ぐるぐるだった気持ちが零れてる、好きです、あなたが、大好きなんです。



「……ちい」

「そのっ! い、嫌だったら……放して、いいです、から」



なんて言いながらいっそう力をこめてるんだからあたしはずるい、口では逃げてもいいなんて言うくせに、逃げないで下さいって願いながら、あたしは雫さんを捕まえてる。
こんな綺麗な人をどこにも行かせたくない、あたしのそばにおいておきたい、あたしを好きでいて欲しい、できたら触れて、それから、それから。
枯渇したあたしは強欲で、手を伸ばして、手を伸ばして、手を伸ばしていた。醜くて、懸命で、切実に、あたしは、雫さんの全てが欲しかった。

だけどどうしたってふるえる、どうしたらいいんだろうって思っていたら、手のひらはまるで咲き誇る花みたいに優しく、握り返されて。




「ちい、花火、最後までちゃんと見よう」

「へっ? え、あ……ご、ごめんなさい」


「最後までちゃんと見たら、『遅くなって危ないから』、うちにおいで」



「……っ、え?」



あたしの疑問は、再開を示唆するように大きな音を立てて上がった花火にかき消される。手はしっかり握り合わせたまま、雫さんはまた空に視線を戻した。
混乱するあたしを余所に、立て続けに空は彩られ、周りの人たちはまた歓声を上げ始めて。あたしだけが、すっかり取り残されてしまったようで。



といって、なんだか妖艶な笑みと一緒に、頬に意地悪な感触を残していった隣の人のおかげで、あたしは戻れない、戻れない。




はい、お礼小話1、雫さんとちいでした。
この後はないよ! ないんだからね、ほんとに! 大人の時間大人の時間!
雫さんのキャラがここにきてぐいっと立った気がします。どゆこと。

ちいはひたすらに雫さん大好きでいればいいと思う。
そして雫さんにぐんぐん溺れていけばいいと思う。



 

inserted by FC2 system