「あお」




飛び降りるつもりなんて、なかったんだ。
 でも気がついたら周りは全部青くて暗くて、体中は思い切り叩かれたみたいな衝撃でじんじんしていた。落ちたんだって気がついたのは、ふわりと身体が一回転してからのことだったと思う。ああそうだ、ちょうど、こんなふうに。ところでこれは夢だろうか。そうだとしたらあのときの、つまりは昔の夢か、もしくは、もっと身近ななにかだろう。力の抜けた身体、勝手に両手が高く高く持ち上げられていく。
 濁って沈んでいく視界の向こう、空がどんどん遠くなるのが見えた。ぼくはあれから名前を貰ったらしい。そんな話を聞いたことがある。誰からだったか思い出せないのは、小さい頃のことだからだろうか。それとも、話してくれた人が、もうぼくの側にはいないからか。浮遊し始めた意識が、鼻といわず口といわずなだれ込んでくる重い液体と一緒に、疑問をない交ぜにしていく。教えてくれた誰かは、ぼくの名前を呼んだこと、あったのだろうか。あお、と、誰でもない声が聞こえたような気がした。たぶん、気のせいだ。
 そうしてぼくの目の前をごぼりごぼりと立ち上っていく泡は、綺麗だった。とても、綺麗だった。膜を張ったような瞳でもちゃんとわかったんだ、水面に向かって揺らいでいく泡は、太陽の光を受けてきらきらと、ぼくが名前をつけることなんて到底かなわない、そんな色で輝いていたのだ。
 泡は水の中をゆっくり遊ぶように跳ね回っては、ぼくの、まるで何かひっしに掴もうとしているように伸ばされたぼくの手を、なんの感触も残さずに、ただすり抜けていく。指の隙間から、ぼくがあ、と思う間もなく、見えないようなところまで遠く、遠く。ぱちんという音を聞いただろうか、あの名前のない綺麗な色は、弾けて空へと散っていっただろうか。ぼくにはもう、それを知ることは、かなわない。沈んで沈んでいく、ぼくには。
 考えながらゆっくりと手を握りしめるとそれはとても冷たくて、肺から気管までを埋めた水はがぼりという一泡を最後に、ぼくのすべてを冷たくて重い青で以て塗り潰す。
そうして――。
「…………」
 そうしてぼくは、目を開けた。
 ぱち、ぱち、と、二回瞬きをする。日光よりも激しく降り注いでくるのは、これは、蝉の声か。そういえば建物の裏は森だった。重い身体を起こしたそのころには、もうどんな夢を見ていたかなんて、どうでもよくなってしまう。たいがい、そういうものだ。
「――ちゃん、あーおちゃん。そろそろ、朝ご飯だってさ」
「……はい」
 だってどうであれ、扉を叩く音でぼくは引き上げられたけれど、胸のあたりがずっしりと重いのは、目を開けていようが閉じていようが、なにひとつ、変わらないのだから。
 窓の外には、いつか水の底に沈みながら見たときと同じかそれ以上に遠い、空が。
空が、空が、空が。

 川に落ちてしまうほど、あるいは自ら身を投げたくなるほど、何か重大なことがぼくにあったかといえば、そんなことはない。そういう意味でぼくは全然、特別なんかではなかった。
 順当に義務教育をこなして、大多数に漏れず高校に行って、それなりの努力をして、そこそこの大学に受かった。十八歳で、大学生で、一人暮らしだった。成績が飛び抜けていいわけでもないけど、仲のいい友達がそれなりにはいて、母親は片親だからか、それとも一人娘だからか、ぼくのことをよく心配しては手紙をくれていた。明日の食事に困らない程度のバイトを繰り返しながら、疲れて眠ってまた目を開ければ、昨日とだいたい同じような今日が、しかしてちゃんと連続していた。
それだけ。なにもかも、それだけだ。言ってみればぼくは、ごくごくふつうだった。おそろしいほどに、ふつうだったのだ。
 そうです、ぼくはふつうです、ふつうで、きっと、それは、幸せなことだったのでしょう。
そんなことを羨ましそうに言われただろうか、きみはふつうでいいねって、言われただろうか。ふつうで、へいわで、しあわせで、いいね、なんて。
 でも本当に、特別痛いことがあったわけでもない「ふつう」なぼくは、トクベツな人たちとは違って、辛かったり苦しかったりする人たちとは違って、当たり前の暮らしがちゃんと約束されていた。ふつうになれない人にとっては、そんなふうに約束されている生活はまさに夢のようなもので、だから。
 ――だから、その約束を破り捨てたぼくは、ただのどうしようもないやつだったんだ。何一つ言い訳なんて許されていない。だって、ぼくは、ふつうだったのに。
 例えばサークルの先輩に「お前はすぐ落ち込む」なんて言われるのは、そこら中に溢れているようなことだ。例えば友達に「お前ははっきりしない」なんて言われるのは、毎日どこででも繰り返し起きているようなことだ。実際それは飲み会か何かでのほんの些細な会話の一端だったり、肘を突きながらくすくす教授の文句なんか並べてたうちのその一言だったりして、きっと言った方はもう覚えていないに違いないようなこと。路傍の石を蹴とばしたって、そんなこと、いちいち覚えてるわけがない。だってみんな、そんなにヒマじゃない。
 なにもかもが当たり前のことばかりで、笑い話にもならない。どうして人の言葉が怖いんですだなんてことを言えるだろう。どうして自分の気持ちがうまく言えないんですだなんてことを言えるだろう。どうしてそれが、そんな当たり前のことが、きっとだれでも当たり前のように苦しんでちゃんと乗り越えられているようなことが、ぼくにとっては苦痛の原因です、だなんて、言えるだろう。つまりぼくはトクベツなんかではなくて、ただ人よりもほんの少し弱かったのだ。そして多分に怠け者だった、それだけでしかない。誰もが蹴とばしたり、踏み越えたり、或いは気が付きもしないまま通り過ぎていく路傍の石に、ひとりでつまずいた、それが、ぼくだ。
 ああ、そして、たったそれだけのことでふつうの生活を、ひとによっては夢みたいに幸せな生活を破り捨ててしまったぼくを、誰が許してくれるっていうんだろう。誰が憐れんでくれるっていうんだろう。ひとりで地面の砂を噛むのは、悔しくて、情けなくて、やってられなかった。そのくせいつまでもいつまでもひりひりする痛みが、ばかみたいに全身をつつくのだ。ぼくはそれで、膝を抱えて頭を抱えて、ことばが、ことばが怖いんです、なんてどうしようもないことを、ひとりでぶつぶつと、掠れて削れた泣き声で、こどもみたいに呟いているのだ。
 ぼく自身ですらもぼくを許したくなんてなかった、毎日見知った誰かに会っているだけなのに、ふつうの会話を繰り返しているだけなのに、擦り切れて、削れてしまったような息をつくのが、嫌で嫌でたまらなかった。予定のない休日は、具合が悪いわけでもないのに一歩も部屋から出られないような自分が、それで自身に向けられるすべての言葉から逃げようとしている自分が、嫌で嫌でたまらなかった。
 そうだというのにぼくはずるずると、ずるずると、遅刻するようになり、欠席するようになり、外に出なくなってしまった自分については、もう、かんがえたくも、ない。そこだけ突出していた自己防衛の機能が、ぼくを守って守って破壊する。外に出たら自分の弱さが重くて重くて疲れ、中に居たらいらだちのようなもので頭がぱんぱんに腫れ上がる。だからぼくは目だけぎゅっと閉じて、ふつうなのにごめんなさいって最後に呟いて、ずるずると、ずるずると。
 挙げ句の果てには、ぼくは学校の帰り道に毎日通っていた川をふと見つめて、ここから落ちたらどうなるのだろう、なんて馬鹿馬鹿しいことをふっと考えて、それをどうにか笑い飛ばそうとしたその瞬間、足を滑らせたのだ。
 落ちる一瞬手前、さかさまに見えたまるい夕日は、不思議なくらいに綺麗だった。
 それだけが、やけに、記憶に焼き付いている。

 死ぬつもりなんてないし、そうする勇気も多分無かった。生きている自信が自分にあったかどうかは、よく、わからない。夏も目前に迫っていたおかげで川の水はたいして冷たくもなくまたそう深いわけでもなかったので、奇跡でも何でもなく、ふつうにぼくは通りがかった人に助けられた。
それは実にどうしようもないぼくらしく中途半端な逃避で、逃げ切るだけの気概もなかったけれど、意識を取り戻した時にぼくはほんの少しだけ、がっかりしていた。眠りにつく前に、このまま目が覚めないとそれはとってもいいことのように思えるのだけれど、などということを考えるのは、ほとんど習慣づいていたようなこと。
 そうして目を開けたら病院にいて、廊下でお母さんが誰かと話しているのが聞こえた。お母さんは、どんな話を聞いて、どう思って、ここへやってきたのだろうか。考えてはいけないことのような気がした。でも頭を振ろうとしたら、首が軋んだ。体がかちこちに固まっている。
どうにか寝返りを打つ、と――頭の下で、かさり、と音がした。
「……え?」
 枕の下に入っていた手紙に気がついたのは、そのときだ。
おっかなびっくり体を起こして、どこか古ぼけているようにも見える紙を、破れないようにそっと取り出す。日に焼けた紙って、ちょうどこんな感じなんだ。
指先で開いてみると、流してさらりと書いたようなのに、奇妙なほど整った品のある字で、そこには住所のようなものが記してあった。そう、あと、それから。
『いつでも待っています  祖母より』
「………?」
 最後に書かれた一言を見て、勝手に眉間のあたりがきゅっとなるのがわかった。
――祖母より、だって?
お母さんはまだ外で話をしている。ぼくは少しだけ痛む身体をゆっくり起こして、もう一度、枕の下から出てきたメモを、読む。何度も読む。祖母より。
 何度、読んでも、読み間違いではなさそうだった。
「……なに、これ」
 だけどそれはすごくおかしな話で、ぼくの口からは思わずそんな言葉がこぼれていた。指先で紙の上に書かれた文字を辿ると、端が掠れて、少し延びてしまう。そうまるで、まるで本当に、誰かの手によって、濃いめの鉛筆でさらさら書かれたみたいに。おかしな話だった。
 それからお母さんが帰ってくるまで、ぼくは一人で手紙を見つめたまま首を捻っていた。まるっきりおかしな話だった。祖母より、だって、そんなの、あるわけない。はっきりと言いきることができる。だって。
 だって、ぼくのたった一人のおばあちゃんは、去年、亡くなってしまっていたのだから。

「誰かのいたずらかな……?」
 とりあえず最初に頭を掠めた予測はそんなものであったけれど、予測というよりはとりあえずの言い訳に近かった。目覚めたばかりのぼくは、あまり難しいことを考えるに向く状態ではなかったのである。とはいえ一応、本人から、という選択肢は一番に除外される。
 と、そのとき病室の扉はゆっくりと開かれて、どうやら話が終わったらしいお母さんが中へと入ってきた。なんとなく見られてはいけないような気がして、慌てて紙を枕の下に隠す。お母さんはそれを見ていなかった。
と、いうよりも、ぼくを見てすらいなかった。
 ぎゅっと俯いていたお母さんは、深々とお医者さんだか看護婦さんだかにお辞儀をして、それから振り返るほんの一呼吸の間だけ、とても、とても疲れた表情を、浮かべていた。若くて元気だなんてよく言われるお母さんだったのに、目元に深く刻まれたしわが、そのときばかりはぞっとするほどにありありと見て取れた。
「…………」
きっとそれは、ぼくに見せたくなかった表情だ。きっとそれは、忘れた方が良かった表情だ。頭のどこかが律儀に警告を鳴らす。そう、ぼくの誰よりも優れた防衛機能がサイレンを鳴らしていたのだ、きけん、きけん、きけんだぞ。見てはならない、考えてはならない、少しでもそんなことをしてしまったら、ぼくは。冷たい命令が、ぼくの体のスイッチを切った。かつんと音がしたら、ほら、何も聞こえなくなる、見えなくなる。耳の奥の奥の方で、静かな水音がこだました。まるで呼んでいるような音。ここに、戻ってきたいのかい。
ちがう、ぼくは、だから、飛び降りるつもりなんて、なかったのに。いやそれでも、何か言わなくちゃ、そう思うけれど。ごぼりごぼりと覚えのあるくるしみが、耳の奥から喉の方まで浸食し、ぼくから声を奪っていく。どこか懐かしくて残酷な、青に染まる。
だめだ、お母さん、が、壊れそうに笑うのを、ぼくは、見ては――。
「……おかあ、さ」
「ぐあい、どう?」
 掠れて、ほそくやわらかな声で、お母さんは、そう言って。
「っ、え」
 しかして、ぼくの喉からは、引きつぶされたような戸惑いが、漏れたのだ。

 ――なに、これ。

 目の前には、そう、たぶん、泡みたいなものが、ふわり、と浮いていた。
いま、これ、お母さんの、口から。口から、出てきた、よね。現実は確かに目の前にあるのに、それを受け入れることは頭が思い切り拒否していた。
真っ赤な色をちらちらと鮮烈に放つ泡は、呆然としているぼくの方へ。
ゆっくりと、ゆっくりと、飛んで、きて。
 そうして、ぼくの胸のあたりで、音もなく弾けて、消えた。消えた? 
いや。
「う、っ……!?」
 瞬間、かっと熱くなった胸に、鋭利な痛みが走る。消えたんじゃない、これは、中に、入ったんだ。理論ではなく本能で理解する。ぼくの手は考えるよりも先に胸のあたりを鷲掴みにしていたけれど、当然のようにその上にはなんの傷もない。まっさらな皮膚だけ。それなのに、痛い、痛い、熱い、爪でひっかいたような痛みが、止まらない。
 どのくらい苦しんでいたんだろう、たぶんそんなに長い間のことではないのだろうけれど、心臓がほかの生き物みたいに脈打つには、十分な時間だった。変な音がすると思ったら自分の呼吸だった。ぼくの頭は、もうぐしゃぐしゃだった。なんだ、今の。
なんだったんだ、今の、しゃぼん玉、みたいなの。
「あおちゃん……? どうしたの、突然、どこか痛むの?」
「え、あ、いや……っ!」
 まただ。
 また、ほら、やっぱりこれは、お母さんの、口から。なんとか応答しようとしていたのがあっと言う間に引っ込んでいく。さっきよりも幾分濃い赤のそれは、ぼくの身体が固まっている間にも、すっと、近づいてきて。
「……っ、つ」
 そうして音もなく、ぼくの体の中、霧散する。今度のはそこまで熱くもなく、また、痛みもさっきよりはだいぶ弱いものであった。けれどそれは、存在のリアルさをぼくに伝えるには、十分だった。見間違いではない。勘違いでもない。お母さんには見えていないようなのに、それは確かに、そこにあった。
 それにしても、こんなことは初めてだというのに、不思議だった。ぼくはその痛みに、奇妙なほどに覚えがあったのだ。考え込むぼくの横で、お母さんがなにか言っていた。泣きそうな声で語りかけてくれていた。看護婦さん呼ぼうか、かなにか、ぼくをひっしに心配してくれている。ぼくは首を振る。なにか、言えれば、いいのに。
 ちゃんと言えないから、だから、きっと理不尽で馬鹿馬鹿しいであろう理由で呼び出されたお母さんに、謝ることもできないままなんだよ、ぼくは。路傍の石に転ぶのは一人だけでいいっていうのに、うっかり地べたにへばりついた手は、誰かの袖を引っ張ったりして、さ。
「あ……」
 ――ああ、そうだ、ぼくは。
ぼくは、知ってる、知ってた、この、痛み。
いっそしんでしまうくらいに深ければいいのにって願ったけれど、それはいつでも笑ってしまうほど大したことない傷でさ、そのくせ、ひりひり、ひりひり、いつまででも、痛くてさ。
「……は、は」
「あお、ちゃん……?」
「なんだよ、これ」
 その日からぼくは、今まで逃げてきたはずの全部を、切実な温度といきいきとした痛みそのすべてを、まいにち、まいにち、溢れそうなほどに、突きつけられることになる。

 思うにこれはことばなのではないか、というのが、数日の後にぼくがたどり着いた結論だ。まったく馬鹿馬鹿しいもののように思えたけれども、常識は経験に勝った。いや、ぼく自身が一番勘違いであったらいいのにと願っていたのに、それは結局何日過ぎようと、ぼくの目の前から消え去ってくれたりはしなかった。つまり水の底から引き上げられ、目を覚ましたあの日から、ぼくは――ことばを、「視る」ようになったのだ。
 いや、視るだけではなくて、多分それをもっと深く感じるようにも、なってしまっていた。ことばそれ自体に温度や色があるなんて考えたこともなかったけれど、もしもそういうものがあるのだとしたら、たぶんぼくはそれを、感じていたのだろう。
「本当に、もう、大丈夫なのね?」
「うん」
「そう……」
 だからぼくは、逃げられなくなった。呟いたお母さんの口から漂ってくる、そろそろ見慣れてきた、血のように赤いしゃぼん玉。心の準備をするよりもちょっと早く、ぼくの体の中、ぱちん、と染み込んでいく。
 同時にやっぱり襲いかかってくる熱さと、痛み。それが何を示しているのかは、まだぼくにはわかっていない。ただ、ただ、お母さんが呟いた言葉が、ひどく悲痛であることだけは、それこそ全身で理解させられる。そうしてきっとこれからも、逃げられなくなるのだ。
 だってどんなに目を背けて耳を塞いだって、ぼくは感じてしまう。今までずっと怖いからって逃げてきた、疲れたなんて言い訳して隠れてきた、ことばを。痛みの記憶は、なによりずっと正直だ。胸の上に手をやらなくたって、ありありと思い出せる。たとえばお母さんのひどくひどく疲れた顔。見たくなかったもの。ぼくが今まで、逃げてきたもの。
それはいつでも頭の中から離れてくれずに、今もまだ燃え続けている。思うにぼくは今までたっぷり逃げてきた。薄い膜を自分の周りに張るのと同じようにして、高性能な防衛をずっと働かせながら、できるだけひとりの部屋に閉じこもってきた。
 だけどもう、今のぼくには、そんなこと許されてない。ぼくはもう、どこにも行けない。
「だいじょうぶだよ、お母さん」
「…………」
「ちゃんと、ここでひとりで、やれるからさ」
 そう、と言ったきり俯いているお母さんに、寝耳に水な飛び込み事件の挙げ句、ずっと挙動不審に見えたであろうぼくをひどく心配しているお母さんに――もしかするともう、ぼくに絶望したくなっているかもしれないお母さんに、ぼくは、重ねて告げる。
 多分、言いたいのは、そんなことではなかったけれど。でもそんなのは、口にできるはずもない。唇の隙間からふっと漏れた青い泡のようなにかをぼくは飲み込んで、代わりに、無色透明のそれを、吐き出した。
どんな意味を持った色かは、わからない。わかるのは、むなしくって、からっぽなこと。
 そうするとぼくはいつもどこか懐かしくすら思えるような、重い液体に身体を浸食されていくあの感覚に溺れてしまうのだけれど、だからといって、ぼくは、どうすれば良かったんだろうか。こんなわけのわからない痛みだとか苦しみだとかなんて理解してもらえるはずもないし、いや、そもそもだ、ぼくは最初から、水の中深く深く沈んでいくよりも前からずっと、いわばどうしようもない、徹頭徹尾、甘えきったようなやつで。
 だから、ここでなくても、どこであっても、そんなどうしようもないぼくの行くところ、なんていうのは、ないのだ。ぼくは、きっとそれを今、いまのいまはっきりと突きつけられているって、ほんとは最初からそうだったって、もしかしたら、それだけじゃ、ないかな、なんて。
「……お母さん」
「うん?」
「その……ちょっと、行きたいところが、あるんだけど」
 ぽつりと言って、ぼくはあの小さな紙を、有り得ない差出人から届いた手紙を、ポケットの中、そっと握りしめる。森閑としていた下宿の周りでは、いつの間にか蝉が元気良く鳴き始めていて、もうすぐ、夏休みだった。お母さんは、きょとんとした顔でこっちを見ていた。
 頭の中、いつでも待っています、ということばが、燃えかすのようにこだましていた。


 ぼくが最後におばあちゃんと会ったのは多分小学生だかの頃で、大学生になってから突然の訃報が届いても、正直どんな反応をしたらいいかよくわからなかった覚えがある。
 自分の親を亡くしたことになるというのに、お母さんはやけに無機質な受け答えばかりしていて、だからぼくもほとんど、それに倣っていた覚えがある。最後におばあちゃんと何を話したかと聞かれれば、ぼくは答えられない。お父さんが居なくなってしまってから、ぼくらはもとのおばあちゃんの近くから一度住まいを移したのだけれど、それよりも前から、あまり会ってはいなかった。理由は知らないし、これからもきっと知ることはないのだろう。つめたい棺桶を見ながら、そう思ったことはある。
 手紙か何かがそれなりの頻度で届いてはいて、ぼくが小さい頃に好きだったらしいみかんの缶詰を送ってくれたとか、新しくどこぞで下宿を始めたとか、相変わらず元気にしているだとかいうことを、たまにお母さんが、ぽつぽつと教えてくれたくらいだろうか。
 思い出はぼんやりとあるけれど、それだけといえばそれだけだった、ぼくのおばあちゃん。しわしわの手で頭を撫でられた、ような、気がする。いや、はたかれたんだっけ。記憶はやっぱりどこか怪しい。
「おうい、あおちゃんったら! そろそろ本気で鴇サンが怒っちゃうぞ」
「……はあ」
 そうして、小さなメモとお母さんが教えてくれたいくつかの情報を頼りに、特急新幹線にそれでも長い長い間揺られて、四・五十分ほどえらく乱暴な運転のバスに揺られて漸くたどり着いたのは、おばあちゃんが生前自らの手で開いたというこの下宿、「びいだま荘」だった。
 正直なところ、ぼくは、ここが逃げ場所にならないだろうか、なんて都合のいいことを、心のどこかで期待していたと思う。自分のどうしようもない弱さと奇妙な能力によってぼくは多分に追いつめられていて、ことばを視るのも温度を感じるのも痛みをおぼえるのももういっぱいいっぱいで、きっと逃げ出すどこかを探していた。できるだけ、平和なところ。誰にも会わなくたって、咎められないところ。ぼくがぼくのままでも、どうにか呼吸できるところ。
「今日の朝ご飯はおいしいヨーグルトが出てるぞー、食べなきゃ損だぞー、早くおいでっ」
「…………」
 そうだというのに、ここはまったく、どうだろうか。
ぼくが思わずこぼしたため息を知ってか知らずか、夏の間だけぼくにあてがわれたやたらめったら日当たりのいい部屋の中、ノックの音はぽんぽん跳ね回る。お隣の西野さんだ。今朝も起こしに来た。
「おうい、あおちゃん、あーおちゃん。たまには君も、素直に出ておいでよねえ。どうせ、最後の最後じゃあたしが引っ張り出す羽目になるんだからさあ」
 リズミカルに、なんだかくすくす笑ってでもいるみたいに扉を叩く音。いや実際、あの人だったら笑っているかもしれない。ああ、それにしたって西野さんときたら、毎朝毎朝、ほんと、良く飽きないものだ。
 彼女の言っていることがまるきり冗談だったなら、ぼくはすぐにでも扉に背中を向けて布団にもぐってしまったろうけど、彼女ときたらどうも管理人さんととても仲が良いらしく――いや、もしかしたら管理人さんが命令してるんだろうか、それもあり得なくはない――マスターキーなぞあっさり持ってきて、本当に人を布団から引っ張り出してくるのだから、ひどいのだ。
「その、ぼく、具合がちょっと」
「まあまあ、仮病はやめて。一応ここではそれが慣習ってことになってるんだからさ」
 ぼくがため息を禁じ得ない理由の一つといったら間違いなく毎朝のこれで、付け加えるなら朝だけではなく、食事のたびにこれなのだ。
これ、つまり、住民みんなで集まって、食堂で食事をとること、である。
正直なところ人に会うのも外に出ることもひどくおっくうだったぼくは、その習慣に全く馴染める気がしなかったし、馴染みたくもなかったし、たぶん、馴染めるはずもなかった。だけどそんなぼくのことなんて知らないで、それでも扉は叩かれ、そして、
「さあ、さあ、いい加減におしよ、この寝ぼすけ……さんっ!」
 西野さんの快活で少し低めの声とは全然違う、嗄れているけれど、すっきりと芯の通った声がそう言うのと同時に、ぼくの背中には、ちょうど手のひら型の衝撃が、思いっきり走ったのだった。寝起きだからというのもあって、勢いのままにぼくは、扉の外へ投げ出される。
「っ、うわ!」
「おうっ!? ……っと、なぁんだ、やっぱり元気なんじゃないか、あおちゃん」
 じんじん痛む背中をさする前に、うっかり飛び込んでしまった西野さんの、大きいけれど華奢な体からあわてて離れた。西野さんのことばは黄色。お母さんのそれよりもいくらか早く、飛んでくる。できるだけなにも感じないようにしているけれど、奇妙な生ぬるさだけはどうしても消えない。そうだと、いうのに。
「痛いよ、おばあちゃん……」
「ん? なんか言った、あおちゃん?」
 思わずぼそりとこぼしたが、しかし西野さんは、不思議そうに首を傾げる。予想できた反応で、予想できた反応だから、ぼくはまた、辟易する。
「……いえ。すぐ行きますので、先にどうぞ」
「ああ、はいはい。ほんと急ぎなよね、みんな待ってるから」
 念を押すようにぼくの頭をかきまぜてから西野さんは一階の食堂へと向かっていって、ぼくはまたひとつ、ため息をついて――いや、つこうとして、やめさせられた。ぱしん、と、また、今度はさっきよりも幾分軽く、背中が叩かれた。
「はい、おはよう、あお。さあさあ、顔洗っといで。今日は水が冷たくて、しゃっきりするよ」
「…………」
おはよう、あお、だって。
 ぼくが明らかに鬱屈した表情を浮かべている、というか、できれば伝わってくれないかとばかりに顔をしかめて見せているというのに。それをまったく気にもかけずに、そのひとは、ぼくににっと笑いかける。ぼくの大仰なため息だって、いいねえ、朝の空気はたっぷり吸っておきな、なんて、あっさりかわされた。
さて、そろそろ説明させてほしい、西野さんも行ってしまったし他の住人たちは全員もう食堂に集まっているはずなのに、いったいさっきからの声の主は、そしてぼくの背中を朝っぱらから散々ひりつかせてくれているのは、誰か、って話。
「ほら早くしな、朱理が言ってたろう。ご飯だよ、ご飯」
「わかってるってば……」
「気のない返事だねえ、なんならついてって、水ぶっかけてやろうかい?」
「いい、いいって……それより、ひとのいる前でぼくのこと突き飛ばしたりしないでよ、おばあちゃん」
「それはだって、お前がご飯食べにいこうとしないから。ここじゃあ、ばあちゃんが決めたルールは、しっかり守ってもらわないとね」
「…………」
「なんてったって、ここの神様は、このばあちゃんなんだから」
 ――どうやら、そういうことらしい。
 そう、つまり、おばあちゃんだ。どこからどう見ても、おばあちゃん。最後に見たのが遺影だなんて信じられないくらい生き生きした顔で、だけど、死んでいるおばあちゃん。そのおばあちゃんは、ぼくがこのびいだま荘の一室に部屋を借りるやいなや姿を現し、呆然としているぼくに構いもせず、よく来たねえ、あお、なんて言葉と一緒に、頭をいい音させてぱしん、とはたいたのだ。
 そういうことってどういうこと、つまりってなんだよ、なんて疑問はもう、この数日の間で頭の中を巡りすぎて、いい加減溶けてしまった。解けたわけではないけれど、そこはそれ、多分もう、不公平ながら気にした方が負け、というやつらしい。人間一週間もすれば奇妙なことでもどうにか順応できるのだな、と、妙なところでぼくは感心していた。思うところといったら、もうそれくらいか。
 初日はそりゃ騒いだし、管理人さんでありみんなの食事の世話なんかもしている皆川さんへと必死に訴えてみたりもした。でもどうやらこのおばあちゃんはぼくにしか――足がないというわけでも、なんとなく透けているというわけでもなく、本当にごく普通の人間に見えるのに――見えないようで、それならもう証明のしようもないわけだから、ぼくが納得するしかない、といえばそうだったのだ。もしかすると、あきらめることはそれなりに得意なのかもしれない。だめなやつだと、そういうとこ、妙にうまくなるんだ。
 にしても幽霊、いや自称この下宿「びいだま荘」の神様だけど、そういうものなんだったらぼくに触れられないという方が理にかなっているはずなのに、どうしてぼくは毎朝背中やら頭やら尻やらを叩かれては、部屋の外に出される羽目になっているのだろう。
「ほら、ぐずぐずしない!」
「あいたっ」
 ああ、ところで、先刻も言ったようにぼくは、おばあちゃんが生前ぼくとどういうふうに接していたかほとんど覚えていなかったけれど、ここにきてわかったことが、一つある。
「痛いよ、おばあちゃん……」
「はい、はい……まったく、おまえはほんと、小さい頃からおおげさなんだから」
 絶対、小さい頃も頭は撫でられてたんじゃなくて、はたかれてたんだ、間違いない。
 おかげできみょうに懐かしい痛みを引きずりながら、ぼくは渋々身なりを整えて、階下へと向かった。足は重いしいつだって頭も重いけれど、あそこにいると、おばあちゃんに蹴り出されるから。まあ、だからといって、どう、というわけでも、ないのだけれど。ぼくにとって唯一の救いといえば、このおばあちゃんのことばは視えない、ということだったが、それがなければこんなところ、とっくに逃げ出していたかもしれない。
「いや……もう逃げたい、けど」
 どこへ?

 ところで、着いた瞬間にも思ったことだけれど、このびいだま荘は随分といい建物だった。特に豪奢なわけではないけれど、作りは素朴で広々としていて、隅々の置物なんかには、おばあちゃんのちょっとした遊び心が加えられているものが多かった。たとえば螺旋階段を下りたあたり、玄関ホールに三つ並んでいる、ちょっとへんてこな顔をした木彫りの人形なんかは、やってきたお客さんの緊張をほぐすには、最適に見えた。
 建物の後ろは森に囲まれていて、そのせいか下宿全体はいつも空気がいい。目の前の道を降りるとすぐに海に出られるし、唯一の交通手段が四・五十分に一本のバスだけという不便さに目をつぶれば、立地もかなりいいんだろう。真夏だというのに、木造建築なのもあってか、ほとんど冷房いらずだし。
 だから、妙な習慣がなくて、おばあちゃんの神様が居たりしなかったら、いい気晴らしになっていたのかも、しれないけれど。そうであって、ほしかったんだけれど。残念ながら前述のようにことはそううまくは運んでくれなかったわけで、おまけにここには、もちろんのことながら、生活を共にしなければならない他の住人も居たのだ。
 そう、まさにここでは、「生活を共に」している。ぼくの中にある下宿のイメージといったら、ついこの間まで住んでいた隣の人の顔も知らない、完全に孤独で自由なそれであったから、よけいきつい。
「おはよう、ございます……」
「あ、あおちゃん、おはよーう。今日も、お寝坊さんだったねえ」
「おはよ」
 真っ先に挨拶を飛ばしてきたのが二号室の幾月若菜さん、かなりぶっきらぼうだったのが一号室の黒井千草さん。二人とも歳はたぶん、ぼくよりもいくつか上。若菜さんは小柄だし童顔な人だけど、大学は卒業したと言っていたから、とりあえず間違いはない、と思う。
 幾月さんは黒井さんのことを「せんせい」と呼んでいて、いつも甲斐甲斐しく世話を焼いている。理由はよくわからない。ついでに言うと黒井さんについては、いつもこんな風にぶっきらぼうなので、もっとよくわからない。どうやら作家の卵らしい、ということは聞いたけれど――聞いてもないのに、西野さんがぺらぺら教えてくれた――それだけだ。
「よ、やっと来たね。さ、座って座って。なんならお姉さんの膝の上でもいいよ、ん?」
「いつも通りの席でいいから、あおちゃん、気にしないでどうぞ。朱理、あなたは朝から馬鹿言ってないで、さっさとお茶を向こうにも回しなさい」
 おお怖い、なんて首をすくめた方が、さっきぼくを起こしに来た人でもある、お隣三号室の西野朱理さん。いつもこんなふうにふざけている、というか、態度が軽い。そしてぴしゃりと西野さんを叱りつけながら、ぼくに優しく促したのが、管理人の皆川鴇さん。いつもこんなふうに、西野さんを叱っている。最初に会ったときから、なんだかお母さんみたいな人だった。あんなんだけど朱理とは仲が良い、と言っていたのは、ぼくではなくておばあちゃんだ。
「はい、それじゃあ、あおちゃんも来たことだし……いただきます」
『いただきます』
 そうして、皆川さんのすすめの後で声を揃えて手を合わせた以上四名が、びいだま荘の住人たちである。
 名前は知っている、顔もいい加減覚えた。だけど彼女たちについて知っているかといえば、多分そんなことはない。食事で引っ張り出される以外では、ぼくはほとんどあてがわれた四号室にこもりきりで、住人とまともに会話をしたことがないから。
「ははあ、なんでこんなに調味料が並んでるのかと思ったら、今日は目玉焼きだったわけね……鴇は醤油だっけ、はいよー」
「あら……良く覚えてるのね、朱理。ありがとう」
「ん? いや、オーソドックスすぎて。やあ、良くも悪くも普通でいいねえ、鴇は! イロモノだらけをまとめる人は、やっぱりこうでなくっちゃ! がんばれ、縁の下の力持ち!」
「あなた、それ、遠回しに私のこと面白味がないだの影が薄いだのと馬鹿にしてないかしら……?」
「やっだなあ、考えすぎだよ、鴇。言外をいちいち読み取ろうとしてたら悩みの種が増えるばっかりだよん? そんなんだから若いのに皺が増えて……っいだ!!」
「ほらほら朱理さん、いいから早くあたしにもケチャップとってください、ケチャップ」
「あ、どうぞ、若菜ちゃん。暫く立ち直れないだろうから、朱理は」
「ひゃー鴇さんつよい……あっ、せんせいはめんつゆです、めんつゆ! ですよね、せんせい?」
「……ん」
 ぼくを除いた四人は、こういう生活が長いからか、それなりに仲が良さそうにしているみたいだった。食事の時間でなくとも、一階にある広々としたリビングになんとなく集まって話をすることだって、稀なことではないらしい。確かに、たまに皆川さんが西野さんを叱っていたり、幾月さんが黒井さんとわりと一方的な会話を繰り広げていたりする声が、ぼくの部屋まで届いてくることがある。
もっともぼくはそれをいつも遠い声として聞いているだけだったし、立っている場所を動くつもりも、なかったのだけれど。視たくないものを視るのも、痛みや温度をありありと感じさせられるのも、ぼくはもう、ごめんだったんだ。
「それで、あおちゃんは? あ、塩かな?」
「つつつ……ちょっとは手加減してくんないかな、鴇……あとあおちゃんに自分の平々凡々っぷりを押しつけるのはやめ、っぐあ!」
「えと……じゃあ、塩で」
 特に好き嫌いがあるわけでもないぼくは、皆川さんがすすめたのを、そのまま受け取る。そうして、会話を打ち切る。下を向く。もう聞かないでもいいように。或いは、もう視ないでも、いいように。
 上では、また一発をもらった西野さんが、情けない悲鳴を上げていた。

 さて食事が終了して、皿を下げるとすぐ部屋に戻るのがぼくの常だったのだけれど、そのときばかりはぼくが席を立とうとするよりも先に、皆川さんの手がぽん、と叩かれたので、思わず動きを止めて、そっちを見た。ちなみに視界のはじっこの方では、その点はぼくと同じであった黒井さんが、しっかりと幾月さんに捕まえられていた。黒井さんの世話を一方的に焼いているのが幾月さん、というぼくの認識は、あながち間違っていないらしい。
全員の注目が集まるまで待っていた皆川さんは、学校の先生みたいな調子で話し始めた。
「はい、ええと……ついこの間あおちゃんを迎えたばかりのびいだま荘だけど、また新しく、住人さんが増えることになったの」
「へえ! そしたら、ここもだいぶにぎやかになりますねえ」
「なったらなったで、困るんだけどね」
「まあまあ、そんな暗い顔して引きこもってないで、外に出るのも大事なんじゃないの、千草サン。もしかしたらいいアイディアが落ちてるかもしれないし?」
「余計なお世話」
「ああ、はいはい、最後まで聞いてよ……それでね、突然だったからあおちゃんのときは何もしてあげられなかったし、どうせなら、合わせて歓迎会でもしちゃおうと思ってるんだけど」
「え……」
 突然名前を呼ばれて、ぼくはなんとなく机の上の木目をたどっていた目を、思わずぱっと上げた。皆川さんと目が合う。どうかな、と、にっこり笑われた。緑色が、視えた。
「ほーほー、そりゃナイスアイディア。さすが管理人、よっ、みんなのお母さん、貫録だねえ!」
「ちょっと、朱理は私とひとつしか違わないじゃない、失礼ね……というかそれ以前に、あなたのほうが年上でしょ!?」
「うわー歓迎会っ、いいですねえ、わくわくしますねえ! あっ、あたし、飾り付けやります、 あの輪っかのやつ、いっぱい作りますよ! ねっ、せんせいも一緒にやりましょうよ」
「まあ、そのくらいなら……ていうか、輪っかだけなの、若菜?」
「もちろんほかにもたくさんですけど、せんせいは輪っかだけで!」
「遠まわしに私の不器用を指摘してるよね、キミは」
 至極めんどくさそうにしていたはずの黒井さんまでどうやら弱いらしい幾月さんの発言に傾いてしまって、ぼくは意見的に完全孤立。といって、そんなのいいです、とも言えないままでいるのだけれど。実際ぼくひとりのためだけのものではないから、開催されることそれ自体にぼくが何か意見できるわけではない、それはわかっていた。
 でもぼくとしては、結局この下宿でだろうが外に出られなくてどうしようもないのは変わらないのだから、それならもうなにもないほうがいいやって、ここで過ごす夏はできるだけなにもしないで、腐るみたいに一日一日食いつぶしていきたいなって、そんなことを考えていたのだけれど。
「それじゃあ……主役になるはずのあおちゃんに頼むのも悪いんだけど、頑張ってごちそういっぱい作るから。お買い物、いい?」
「…………」
「ね、たまには外に出たほうが、気分転換になるかもしれないし」
 皆川さんからふっと漏れた、お母さんのそれともよく似ている赤い赤い色のことばは、今にも逃げ出そうとしていたぼくの足をさっと地面に縫い付けて、またずきんとした感覚を、ぼくに与えたのだった。

 部屋に戻るとおばあちゃんが座っていて、ぼくを見るや否や、またずいぶんとしけた顔をしているね、と老いてもなお元気そうな顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そんな顔じゃあ、お店の人も割引する気をなくすってもんだよ、あお」
 どうやら下での出来事も耳にしていたらしく、またおばあちゃんは頭をはたいた。衝撃というほどのものはなかったくせに、ぼくの手からは皆川さんからもらった買い物リストが滑り落ちる。エビ。チーズ。パン粉。その他、いろいろ。まさにパーティーの準備、といった感じのものたち。そして、最後に一言すらりと整った字で、お金は余分に渡しておくので、好きなお菓子をたくさん買ってきていいよ、とある。
「お菓子ねえ。買ったお菓子なんかより、鴇さんが作ったお菓子の方が、ずっと美味しいんだけどね。気を遣われてるみたいだねえ、あんたは。ところで……この絵はなんだい? ネズミかしらん」
「……たぶん、クマ」
 あのひと、皆川さん、絵はちょっと、なんていうか、だめらしい。ネズミのようなクマのような、でもなんとなく猫みたいにも見えるよくわからない生き物は、だけどぼくに向かってせいいっぱい、おどけた顔をしていた。
部屋の前で別れるときには、部屋の片づけといった重労働をだいぶ任されたらしい西野さんが、それでものんきな笑顔で、荷物が多すぎるようなら連絡しといで、迎えにいくから、なんて言い残していった。二階の奥のほうでは、小さな体にたくさんの色画用紙を抱えた若菜さんが転びかけていて、黒井さんが頓狂に声を上げたのが初めて聞けた。ぼくは扉を閉める。
開け放したままの部屋の窓から、柔らかな風と一緒に、誰かの笑い声が運ばれてきた。下の海で誰か遊んでいるのか、それとももっと遠くの声か。ぼくは窓を閉める。
夏休みの間だけ住むことになった部屋には、簡素なテーブルとベッドだけが置いてあって、ぼくの荷物は部屋の隅っこに鎮座している大きなリュックひとつだけ。その隣にゆっくりと腰を下ろす。床ではさっき落とした買い物メモが、かさかさと揺れていた。
扉を閉めて、窓を閉めて、膝を抱えて。あとはどうしたらいいんだろう。目を閉じればいいのか、耳を塞げばいいのか、息を、止めればいいのか。小さくなったぼくに、おばあちゃんは何も言わなかった。
それが少し、不思議だった。
「……追い出さないの」
「さあて。お前が家から出るかどうかは、さすがにばあちゃんにも、管轄外だよ」
 聞こえないんじゃないかってくらい小さくこぼした言葉だたけれど、おばあちゃんはさらりと答えてみせる。でも、部屋からたたき出すことと、びいだま荘の外に出ることの決定的な違いなんて、ぼくにはわからなかった。
だってぼくにとっては、部屋の外だろうが、びいだま荘の外だろうが、たいして変わらないのだから。どちらにせよ――そこにぼくは、居られない。逃げ出したく、なる。そういうのは、家って呼べるものなのかな。あの一人暮らしの部屋に戻ることを帰るだなんて呼んだことは、考えてみれば、一度もなかったけれど。ただいまって言ったことすらないんだもの、当たり前と言えば、当たり前か。
でもそうしたら、ぼくに帰る場所なんて、ないほうが、あたりまえなんじゃあないか。そんなことをぼくはいつの間にか呟いていたのか、よくわからないけれど、おばあちゃんはぼくのほうをじっと見てから、一度だけゆっくりと首を振った。それ以上の説明は、なかった。
隣の空き部屋からがちゃんだのがたがただのとなにやら大きな音と、西野さんの笑い声、それから皆川さんの叱り付ける声が聞こえてくる。扉を閉めても、窓を閉めても、逃げられない。いや、それ以前に、ぼくはいつだってぼく自身からは、それだけからは、逃げられないのだ。
一番逃げ出したいものからは、一番見たくないものからは、絶対に逃げられない。それでも痛いのは怖いから、ぼくはまた背を向けている。買い物メモ、今はどこをふらふらしてるんだろう。行かなきゃいけないのに、そうやってまた、逃げるのか。
「いいんじゃないの、逃げたきゃ逃げたいだけ、逃げれば」
――と、ぽん、と、あまりにも軽く、そんなことばは投げかけられた。

「え……いや……だめ、でしょ、それ」
 思わずぽやっとしかけたぼくは、どうにかそう絞り出した。一回口に出したら自信も持てるもので、そうだよ、だめだよって、うっかり納得しかけた頭が元に戻る。
 だめだよ、だめに決まってる。健康で文化的な普通の生活を営む義務がぼくらにはあって、そこから逸脱したり逃げたりすることは、特例じゃない限り許されないはずなんだ。
 だから、だからぼくは。ふつうの、ぼくは。
「いいんだよ、別に。ここは、短い間でも、お前の家なんだから」
 それなのにおばあちゃんは、なんでもないことのように、言う。
逃げたいときはいつだってここに逃げ込めばいいし、いたきゃいたいだけここにいていい。ただ家の中でも逃げ回っているのはよくないけれど、とおばあちゃんは説教臭く付け加えた。飯はみんなで食え、手伝いをもっとしろ。だけどその調子はなんだか芝居がかっていて、少しおかしかった。頬のあたりがかすかに緩んだ、気がした。それは笑顔というには、あまりに淡いけれど。
「逃げたいだけ逃げればいいさ、あお」
おばあちゃんはもう一度、かみしめるように言う。しわだらけのたくさん働いた手は伸びてきて、またぼくの頭を、ぱしんとはたく。一瞬――ほんの一瞬、だけど、優しく撫でられたのかと錯覚した。そんなわけ、ないよなあ。そう考えるのも、じつはなんだか、おかしかったが。
「それでもいつか、立ち止まって踏ん張らなきゃいけないときは、お前自身が、ちゃあんと知ってるんだから」
 くしゃくしゃの顔でにいっと笑ったおばあちゃんの歯が欠けていたことに、その日ぼくは、初めて気が付いた。


「行ってらっしゃい、あおちゃん。車に気を付けてね」
「あ、はい……えと、行って、きます」
にこにこと律儀に見送りまでしてくれた皆川さんの後ろでは、おばあちゃんがじっとこっちを見ていた。今がおばあちゃんの言っていたそのときだとは、到底思えない。けれど、あのまま部屋にいるのも、ちょっと違う気はしていた。とはいえ今気が楽なのは、単にこのあたりの田舎では、人とすれ違うことすら珍しいからなんだろうが。
 ところで大体予想していたことだけれど、びいだま荘がある場所からいつも皆川さんが買い出しをしているらしい商店まではだいぶ歩くみたいで、それよりはいっそ、とバスに乗って駅前あたりのもう少しにぎやかなところまで出てみることを提案された。ぼくはこのあたりの状況に詳しくなかったので、皆川さんの言うとおりにするほかない。
びいだま荘に最初に来たときから数えでやっと二回目の乗車になる古いバスは、やっぱり今日も、がたごとひっきりなしに揺れている。海のそばを通った時、家族連れかなにかが、きれいなボールを高く高く上げて遊んでいるのが、見えた。
「いってきます、か」
 渡された大きな買い物袋を握りなおしながら、一度だけ呟いてみる。いってらっしゃい、と言われたら、そりゃあ半ば条件反射のようにして行ってきます、と答えるけれど。だとしたら、買い物が終わってあそこに戻っていくとぼくは、お帰り、と言われるのだろうか。そうしてただいま、と、答えるのだろうか。
挨拶だけはしっかりするようにとぼくはお母さんから教え込まれた覚えがあるけれど、お母さん、それはもしかして、おばあちゃんの受け売りだったんですか。なんとなく、なんとなく、そんなことを考えながらぼくは、海を見て。
「……きらきらしてる」
ああいう青色もあるのだなと、目を細めた。

――そんなふうにして、温かくなればすぐに冷たかったことなんて忘れてしまうけれども、そのあとにくる冷たさは、ひどくひどく真摯に、ぼくらの体を刺すのだ。

「…………」
 どうしよう、と思ったころには、大概のことは手遅れだ。
 気が付けばバスはぎゅうぎゅう詰めになっていた。そういえば、このバスが唯一駅前まで出ているもので、本数も少ないから混むかもしれないって、皆川さんが言っていたような気もする。ぼくは即座に後方に座っていたことを後悔した、後ろから乗って前から降りるようになっているこのバスでは、混雑しだすと後方の人間が降車するのは困難だろう。
きっと、それは、すごく迷惑になるだろう。
ああ、うん、わかるよ、わかる、だからどうしたって話なんだよ、ぼくだってそう思いたかったんだ、思える人に、なりたかったんだ、ずっと。頭の中で口にする願望は、いつだって手の届かない綺麗なコレクションだ。知ったこっちゃないんだよ、例えばそれでうまく抜け出せないまま足を踏んづけて睨まれたって、憎々しげな一言をもらったって、そんなのはだから、どこにだってありふれていることなのに!
「…………」
 でも、だけど、そうやって前のほうに移動するどころか席を立つこともままならないまま、ぼくが降りるバス停はもう次だった。
駅前じゃなくって、その一つ前で降りたら、目の前にでっかいスーパーがあるから。出る前鴇さんに聞いた説明が、どろっと頭の中を巡る。バス停一つ一つの間隔はそれなりに大きくて、ぼくはこのあたりに詳しくない。一つ乗り過ごしたら、そのあとちゃんと戻れる自信はないし、なにより乗客が減って降りられるのがいつかなんて保証はどこにもない。間もなく――運転手さんの眠たげなアナウンスが、タイムリミットを告げる。だめだ、もう、行かなきゃ。
 ぼくは、弾かれたように立ち上がった。まったく降りるそぶりなんて見られなかったんだろう、ぎゅうぎゅうに詰まっていた椅子のそばの乗客は怪訝そうな顔でこっちをちらりと見てから、なんとか狭い道を開けてくれる。停留所はもう、すぐそこだった。人の隙間をどうにか探して、ぼくはじわじわと前に進んでいく。あと、少し、で。
「っ、わ……!」
 ぐらん、とバスの中が大きく揺れた、停車の振動らしい、考えて、なかった。なんにもつかまっていなかったぼくは、思い切り体を前に投げ出される。背中に、足に、かばんに、人にぶつかる、ぶつかってぶつかって、べたりと、バスの床に。
「…………」
 ぼくは黙ったまま体を起こす。みんながこっちを見ているのがわかった。バスの中は何人乗っているかわからないくらいぎゅうぎゅうだったのに、水を打ったように静かになっていて、なんだかすこし、異様だった。空気の抜けるような音と一緒に、降車出口の扉が開く。引っ張られるようにぼくは、顔を上げて。
 ぼくの周りのひとびとが、温度のない目でじっとこっちを見ているのが、わかって。
「っ……」
 ぼくは急いでカバンの中を引っ掻き回して財布を取り出し、ほとんど確認もしないまま小銭を運賃箱に投げ入れた。少し耳鳴りがしていた、だから、聞こえないはずだったんだ。聞こえなきゃいいのにって、一生懸命願ってた。
 
「ちっ」「なに」「あのこ」「一言くらい」「ないものかね」「めいわく」「いたいわぁ」「まったく」
 ぱちん。ぱちん。ぱちんぱちんぱちん。
 
――でも、バスの外に逃げたって、それらはちゃあんと、ぼくを追ってきていたのだ。
重く沈んだ灰色がいくつもいくつも飛んできて、走り出したってすぐに追いついてくる。そうしてまた音もなく弾け、ぼくの全身は、ざくざくと貫かれるのだ。
そこらじゅう転げまわりたいくらい痛かった。たくさんの血が流れ出したみたいにぼくのからだは底冷えして、足からはどんどん力が抜けていく。思わず壁に手をついたけれど、あんまり勢いがよかったものだから、手のひらの皮がすりむけた。熱い。道の向こうのショーウィンドウには、ぶかっこうに立てないでいるおかしな姿が、ちらちら映っていた。
 たったひとことがあればよかったんだよ、と、ガラスの向こうのぼくが、ははは、なんて哂う。そう、たったひとことだ。すいませんとか、ごめんなさいとか、そういう実に簡単な、どんな小さな子どもだって知っているような、たった一言が。それがあれば、よかったんだ。
わかってる、自分でわかってるから、自分で自分にそう言える。痛みはまだ抜けない。あっちこっちが心臓の音と一緒にずきずきと痛んで、早く止まってくれと、ぼくは、何に対して、誰に対して、言えばよかったのだろう。
そんなたいしたことじゃないんだって、いつもそうだ、ぼくはいつも、そうなんだ。こんなのはほんとうにありふれた出来事で、例えばあの乗客たちはもうぼくのことなんて忘れているかもしれないし、あの中の誰かがぼくと同じような状況に陥ったときは、すいませんすいませんと何度も言うだけでも言って、またがたごと揺れるバスは走っていくのだろう。
ねえ、だからさ、そうやってどうしようもないの、いつも、すべて、みんな、全部、ぼくのせいじゃないか。
 苦しくなる。或いはさっき言えなかったことばがこぼれそうになっていたのか、ともかく、またごぼりというあの懐かしい感覚だ。こうして突きつけられるたびにぼくは、たぶんぼくは、こうやって溺れていればよかったんじゃないかなって、思うんだ。
つまり、あのとき。足元になにもなくなって、なにもかもがまっさかさまになって、自分の名前と同じ、重くて冷たい色で埋め尽くされたとき。あそこからうっかり戻ってきたぼくは、なんだかそれを責められてでもいるみたいなものを、何度も何度も視せられた。こんなものに負けてしまうぼくだからって、そのたびに刻み込まれているような気が、していた。このままうまく話せもしない自分の言葉で溺れてしまえ、もともとぼくには自分のもろさなんて馬鹿馬鹿しい重しが、笑ってしまうほどしっかりと、絡み付いているのだから。
 ねえ、それならぼくは、どこへ、帰ろうか。あの冷たいところに、帰ろうか。そうしてずっと、今度こそ浮かび上がったりなどしないようにと、願ってみようか。
「……はは、は」
 そんなことをふっと考えてぼくはくつくつ肩を震わせながら、手の中に握ったメモの内容をぼんやりと思い出していた。笑っているときと泣いているときの人間の声はあまりにも似ていて、だけどぼくにとっては、そんなこともう、どうでもよかったのかもしれない。
ごちそうだって、さ、どうしようかな、どうでもいいか、な。

 初めての場所だというのに案外買い物に手間取らなかったのは、思うに余計なことを何一つ考えなかったからではないだろうか。それなりに大量の買い物を頼まれていたはずなのに、ものの三十分もしないうちに、皆川さんが渡したメモの中のすべてを、ぼくは手に入れていた。出された信号にただ正確に答えるだけの作業なら、こういう時のほうが案外うまくいったりするものだ。人間は割と便利にできている。
 しかして頭の中のすべてを追い出していたぼくはそのとき一体何を考えていたのかというと、いうなれば、最初の一歩目は右足がいいか左足がいいか、なんて、きっとそんなことだったんだろう。いや、別に、走れなくたって構わない。這いつくばることになろうが、転がることになろうが、落ちようが沈もうが、どうだっていい。
逃げられるっていうんなら、もう、もうほんとうにそれで全部、いいや。
 随分と重たくなった鞄を担ぎなおしながら、倒れる一歩手前で足を前に出しているみたいにぼくはずんずん真っ直ぐバス停に向かって歩いた。上り線は目の前なのに、下り線のバス停はスーパーから奇妙に遠いような気がした。いつの間にやら曇天で、アスファルトからはどこか湿った匂いが立ち上っている。たぶん、もうすぐ、雨になる。
逃げたいだけ逃げればいいさ、あお。
 駅前の喧騒の中、地面を転がるように進みながら、ぼくはおばあちゃんの言葉を思い出していた。踏みつけるように思い出していた。逃げたいだけ、逃げれば。おばあちゃんは言外にほかの色んな意図を滲ませたかったのかもしれないけれど、それは今のぼくにとっては非常に都合のいい言い訳を与えてくれるだけにすぎない。逃げたいです。だから逃げます。
はい、ぼくはそういう人間です、だからもう逃げたいだけ逃げてしまおう、もちろんあのびいだま荘になんかじゃなくってさ、もっと、もっと青くて、もっと冷たいどこかへ。
 さあそれじゃあ、ええっと、どっちの足から、踏み出そう、か――。
「……?」
 思って大きく息を吸ったその瞬間、ふわ、ふわり、と、深い深い青をした泡が、飛んできた。
 
ぼくは一瞬見ただけでそれがなんなのか即座に理解したけれども、しかし同時に、少しおかしいとも気が付いていた。だっていつもだったら、どうやったって逃げられないように、ぼくのところまで真っ直ぐ飛んでくるのに。
けれどその泡は、どうして今ぼくが見つけることができたのかちょっと不思議になるくらい小さな小さな泡は、漂うというよりは風に弄ばれながら、罅割れのような軌跡を描きながら、ぼくの目の前を、ふらふらと横切っていく。
当たり前のことだけれども、誰もそれを見ていなかった。すれ違う誰もの歩調はばらばらで、向いている方向もばらばらで、だからそれら全部は入り交ると灰色のノイズとして辺りに溢れる。誰もこの、或いは声と呼ぶのだろう、この小さな声が、いったいどんな色をしているかなんて、気にも留めていなかった。
そう、だから、ぼくが。
ぼくだけが、ゆっくりとそれを瞳に映して、いた。

 なにかしようと思っていたわけじゃ、ない。いや、むしろ、このまま何もないほうが、いい加減耳を塞いで逃げ出してしまおうとしていたぼくにとっては、好都合に違いなかった。それはちゃんと、わかっていたんだ。
「…………」
 なのにぼくは、手を伸ばしていた。掴み取ろうとしていた、というには、あまりにも弱い手だった。だけど軋んだ腕は、指先は確かに、かなしいほどに綺麗な青まで、届く。
 届いたと思うのと同じかそれよりも早く、泡は消えてしまった。何の感触も残らなかった。耳をつんざくような声も、燃えさかるような温度も、刺して抉るような痛みも、何一つ、なかった。ことばが視えるということに関してぼくはほとんど何も知らなかったけれども、それはやっぱり、おかしなことだったのだと思う。最初からおかしかったそれは最後までおかしくて、ぼくはかすかに首を傾げようと、して。
 そうしてふっと、それこそただ、風に吹かれたみたいに、
「……こっ、ち?」
 ぼくは、振り返った。
べた塗りされた灰色の中で、そこだけが、はっとするほどに無色のように、視えた。

 ああいや、景色が無色だったんじゃないな、と気が付いたのは、そっちを向いてからふた呼吸ほどしてからのことだ。そう、そうじゃなくって。自分でも少し妙に思えるほど、ぼくはひとつひとつ確認していく。違うんだ、みんな同じ顔してるみたいに見える中で、ひとりだけ、あんな――あんな、白を、持っているから。
そう、ぼくが振り返った先には、少女がいた。幾月さんと同じかそれ以上に、小柄な少女。そのひとは、白かった。すごくすごく、白かった。持っている杖も、提げている鞄も、肌の色も、それから、髪も。
ひとりだけ、ぽたりと落ちた絵の具みたいに、彼女はまっしろだった。
声の主はあのひとだったのだろうか、確かめようもないことだ。あれがどこから飛んできたのか、ぼくにはわからない。それに、かつかつとせわしなく地面を白い杖で叩いているあのひとのくちびるからはもう、なんのことばも、漏れていないようであったから。
立ち止まっていたぼくの肩に、どんと誰かがぶつかって、喧騒が戻ってきたその時には、今の今まで静かだったかどうかすら、ぼくにはもう、わからなくなってしまうのだ。
 わかることといえば、白い杖が象徴しているように、あのひとはおそらく目が不自由なのであろう、ということと、うろうろと同じ場所ばかりを回っていたから、どうもなにか困っているらしい、ということくらいか。遠く遠く、目が見えないならきっと存在すらも感じられないであろう距離にぼくは立って、ぼんやりと、その白い色を見つめていた。
 誰もがあのひとの邪魔をしていたわけではない。どころか、点々と続いている点字ブロックの上を歩くことすら無意識のうちに躊躇っているみたいに、いろんな人があのひとをそっと避けていった。ああ、だから、巻き込んで塗りつぶされたりも、しなかったのだろう。だからあそこだけ、あんなにも、白いのだろう。
あのひとの周りは透明なブロックかなにかにしっかり囲まれてでもいるみたいで、誰もがその中に入ろうとはしない。入ってはならないという無言の約束事が、まざまざと映っている。
「あ……行かなきゃ」
 だから、時計を見てバスの時間を思い出したぼくも、あのひとの横を歩く以上それに倣うべきだったのだろう。右足から歩き出して、そのとき身体のどこかがひやりと冷たくなったのは、さあ、さっきから泣きだしそうだった空から、ついに降りそそいだ雫かなにかのせいでは、なかったのか。
 きっと誰一人悪くなんてなかったんだ、得てしてそういうものだと思う。安売りのティッシュを両手いっぱいに抱えたままちらっと見遣っただけで進路をかすかに変えたおばさんも、ちりんちりんと二度ベルを鳴らしてからそっとハンドルを切っていった自転車の高校生も、おしゃべりをぴたりとやめてから足音まで潜めていった仲良し二人組も、きっとみんな、どろどろに優しかったのだ。そうでしょう。そういうものでしょう。根っからの悪人が町中に溢れているだなんて、そんな、世紀末じゃあないんだから。
うん、ぼくの周りの人もみんな優しかった。あとになってから必死に謝ってきたサークルの先輩も友達も、黙ってぼくを送り出してくれたお母さんも、何にも聞かないびいだま荘のひとたちも、みんなみんな、本当に。
 ヒトはいつでも優しいよ、知らなければ知らないほど、優しさはどんどん深くなるよ。それこそ底が見えないように思えるんだ、それはぼく自身じゃないのだから、まったく別の生き物と言っても過言ではないのだから、深さがわからないのはきっと当たり前で、でもだからこそ、きっと無限に優しいよ。
だけど、だけどいつだってその優しさはぼくらにねっとりと絡み付き、いつしかやわらかく、やわらかく、首を絞めていくのだ。だってさ、だって。
「ありがとうって、いくつも重なったらさ、ごめんなさいになっちゃうんだよ、ね。」
 ぼくは声もなく呟いたつもりで、小さな泡は、ぷうと唇の隙間かすかに膨らんだけれども、すぐにぼくの中、吸い込まれていく。優しい人はいつだって優しく優しく、ぼくらに何ができないのかを、教えてくれます。しっかりと教えて、手助けしてくれます、だからぼくらは、できないことがあるのはつらいです、なんて言うことすらも、できなくなるのだ。ただ、それができないのだという事実を、頭の中にくっきりと、焼き付けられ続けるのだ。
 そうしてぼくらは、ありがとう、ありがとう、だめなやつで、ごめんなさい、と。
「……なーんて、な」
 とんとんと鼓動より少し早いくらいの歩調でぼくは歩いて、そのひとの横を、もう少しで過ぎ去るところだった。口にもしない勝手な思い込みはごぼごぼ飲み込む。どんな色をしてたかすら視ないうちに飲み込む。
気づけばきみも居場所がなくなっていたんですか、だなんて、どうしてそんなひどい勘違いを押し付けられるだろうか、ぼくはこのひとのことなんて、何一つ知らないのに。大体にして、ほんとは困ってるだなんてところから、ぼくの勘違いだったんじゃないの。
そう思うとちょっと笑える。食料がいっぱい詰まってる鞄が重たい。もっと早く歩こうか。はて、どうしてぼくの足は、こんなにも重いのか。でもあとほんのちょっとだった。見えなくなればもうそれで終わりだって、何が終わりなのかもわからないのに、ぼくはそう決めてた。あと八歩で終わり。あと五歩。三歩。二歩。いっ、ぽ、
「あ、っ」
 ――しかして、がりり、なんて、なんだかすごく嫌な音は、した。

杖と地面が、いびつに擦れる音。いや、した、と認識するようなひまも、そのときのぼくには与えられていなかったんだ、そう思うよりももっと早く、白い白い影は、ぼくの視界のど真ん中で、揺らいでしまったから。
 それがあんまりにも真ん中だったものだから、たぶんぼくの世界はふと真っ白に染まってしまって、色は空気から地面を伝い、ぼくのつまさきから頭のてっぺんまでを、一瞬にして塗りつぶした。

白くなる。白くなる。白くなる。しろく、しろく、ぼくは、染まって。
立ち止まって踏ん張らなければならない時は、ぼく自身が、ちゃんと知っている。
ぼくは、ぼんやりと、そんなことばを、思い出して。

 そうして、ひどくやんわりとした温度は、ぼくの手に、落ちた。
「……あ、れ?」
「…………」
 あとたった一歩、いや半歩で告げられるはずだったなにかの終わりはどこかへ消えてしまって、気が付けばぼくの手は、白くてかすかに冷たい腕を、しっかりとつかまえてしまっていた。
一応、転びかけたのを支えていた、と言っても、いいんだろうか。よく、わからない。小柄なだけでなくひどく華奢だったこと、ふわりと優しい匂いがしたことは、そのときわかったけれど。或いは、それだけしか、考えられなかったけれど。頭の隅が、へんにあまかった。
「あ、ご、ごめんなさい……ちょっと、ふらついちゃって」
 あ、さっきと、同じ色だ。思わず何も返事ができなかった。それよりも気になることが目の前で起こって、ぼくはおそらく目が見えていない人に、こともあろうに首を振って答えてしまう。そのひとが発したことばは、さっきと同じように、青色だった。
ごめんなさい、とそのひとは、もう一度言う。そのたびに零れる青色は、さっきと同じように、かなしいくらい、綺麗だった。青い青い泡はぼくの胸まで届いて、やっぱりぱちんと弾けたのだけれども、これもさっきと同じだ、あとは、何も、わからない。
声も温度も痛みも、感じなかった。まるでからっぽだった。奇妙だった。
「…………」
「…………」
 とはいえ考えてみればぼくはそんなことを気にしている状況ではないわけで、具体的にいうと、そろそろ沈黙が痛い。向かい合ったきりそのひともぼくも何も話せなくなってしまう。それなら、だいたいにして用なんてないのだから、さっさと歩き出せばいいのに。しかしぼくの体は、ついさっきからまったく言うことを聞かなくなっていた。これじゃあ踏ん張ってるんじゃなくてただ停止してるだけじゃないかって、現在進行形では、笑い話にもできない。
 でも、だからといって、何が。何ができるというんだろう、何がぼくにあるというんだろう、そうだいいから早くここから逃げないと、言いたいことは全部、飲み込んで。
「っう」
「え?」
 ――飲み込ん、で、
「ど……こ、へ?」
 ごぼり、という音とともに、ぼくの口からは、仄かな、夕日のような赤を放つことばが、零れていた。
あれ、とか、ちがう、とか、思うよりもさきに、それは真っ直ぐそのひとに向かって、飛んでいってしまっていた。手を伸ばしてかき消すこともできなかった。言うつもりじゃなかった、また飲み込むはずだったのに。
つまりはそうやってぼくは逃げ出すはずで、だけどぼくの胸の中は、いやもう、身体だって頭だって全部全部、もういっぱいだ。どこが叫んでるんだろう、誰が叫んでるんだろう。こんなにはっきり、声を振り絞ってさ。膨れ上がった頭の中で、それだけが、びかびかとはっきり喚いていた。もうたくさんだ。もういっぱいだ。
もうたくさんだ、もうむりなんだ、もう、飲み込めないよ!
「あの……どこへ、行きたいん、ですか?」
そのひとは多分に驚いた顔でぼくのほうを見ていて、少しピントの合っていない瞳は、そこですらも、白かった。
 一瞬、ぼくが不安になるか、逃げだすかのその最低ラインまで、そのひとは黙っていた、けれど。
「この……この先に、オレンジ色の看板がある店が、ありますか? ごめんなさい、わたし、そこに行きたいんです。ここに来たの、初めて、なんです」
 しろいしろいひととぼくは、ぶかっこうに倒れて支えたときと同じような形で手を触れ合わせて。そうして、じりじりと焼けつくような地面の上、しかし確かな影をふたつ、くっきりと伸ばしていた。
ぼくらはたぶんどこにも行けなかったけれど、しかし、そこにいた。
「…………」
「あ、え? ごめんなさい、いま、なんて……」
「……ぼく、案内します」
 たしかに、そこにいた。




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