「十二時の鐘がなるまでは」





 私の口癖と言えば、一体いつからだったのかわからないくらい、それこそ物心つく前からだったんじゃないかってくらいずっとずっと、「めんどくさい」であった。といって私の「めんどくさい」というのは人とは少しポイントが異なっていた、らしい。本当のところは分からない。ただ幼馴染が――このはが、そう言っていたから。これまた上手く歩けもしない頃からずっと一緒だったその幼馴染は、いつものように私の腕を引っ張りながら、ケイちゃんは、だって、勉強がめんどくさいって言わないでしょ、と笑った。ちゃんとすれば普通に、ううん、ケイちゃんはそれよりもずっとずっと上手にできるのに。めんどくさいなんて言わなかったら、きっと、人気者なのにね。
 それが彼女にとってはちゃんとした説明になっていて、けれど私はよくわからなくて、首を捻った。だって勉強しない方がずっとずっとめんどくさい、と私には思えるからだ。とりあえずある程度の成績を維持していれば、親や教師に目くじらを立てられることも無い。大学まで流されるがまま来た方が、人生に於けるめんどくささはぐっと減る。だけど例えば聞きたくも無い話を聞いたって面白くないし、笑いたくも無いところで笑うのは疲れるし、そうやって他人のために泣いたり怒ったりすることは、そんなのよりずっとずっとめんどうだ。
 そうやって、私はめんどくさいって呟きながら、なんとなく、なんとなく、地面の上に虚ろな像を結びながら、今まで生きてきたわけで。

 というような反論をぼんやりと述べるとこのはは暫くなにか考えるようにしていたが、改札を抜けた辺りで売っているたい焼きのいい匂いが流れてきた時点で、彼女は思考をやめたらしい。なぜなら私の腕を引く力がぐっと強くなったからだ。食べることすらたまにめんどうになってしまう私と違って、彼女は女性らしく、甘味を摂取することで満足を得られるタイプである。そして抵抗するのだってめんどうだった私は、気がつけば引っ張られるがままにその屋台の前まで来ていた。ぷんと甘い香りが、外気で冷えた頬を暖める。
 たい焼き食べよう食べよう、何にしようか、カスタード美味しそう、でもたまにはつぶあんもいいな、チョコバナナってどんな味だと思う。このはは財布を出しながらきらきらと言う。私は私で、いつもどおり選ぶのがめんどうだったので、このはと同じのでいいよ、とだけ告げた。その回答にも慣れたらしく、すぐにこのははじゃあつぶあんふたつ、と店員に告げる。値段が150円で、財布を開くと50円玉が無かったので、ああめんどうだと思った私は相変わらず財布から金を探すのが遅いこのはの横から手を伸ばし、300円を払った。
 このはがなにやら抗議の声を上げるのを聞き流しながら、店員からあたたかい包みを二つ受け取る。ケイちゃん。ちょっと、中河景さんってば。フルネームとは、どうも機嫌が悪いらしい。それに応答するのが億劫だったのと、下校ラッシュに差し掛かる駅がごった返しつつあったから、とりあえず私はたい焼きを二つ持ったまま、駅を出た。

「もうっ……待ってってば、ケイちゃん!!」
「寒いから早く帰りたいんだよ、私は」

 それと、あまりそこで立ち止まっていたら、危ないよ。そういう意味も込めて言ったけれど、このはは既に後ろから急ぎ足で出てくるサラリーマンとぶつかった後だった。両手をポケットに突っ込んだひとが、流れ作業みたいな会釈をして、また足早に去っていく。しょうがないから、傍まで行ってあげた。めんどくさかったけど。
 車内や駅の構内ではガンガンに効いている暖房で、温まった体はうっすらと汗ばんですらいたりして、逆に外の寒さが余計身にしみる。ああ、すっかり真冬の空気になってしまっている。冬は怒りん坊だね、とこのはが言っていたのは、小学生くらいの頃だったろうか。だって皆を縮こまらせるほど怖いんだよ。白い息を綿のように吐き出してあの頃そんな不思議なことを口にしていた彼女は、しかして今その冬よりもずっとしかめっ面をしているのであった。

「ケイちゃん、ずるいよ」

 包みを差し出すと彼女はひじょうに不満そうな顔をしながらそう言って、しかし受け取ってはくれた。また腕を引っ張られる。そうでもしないと歩けないのだろうか。たまに思う。思うけれど、思わないようにして、私は殆ど習慣のようになっているそれを甘んじて受けつつ、片手でたい焼きの頭を少し齧った。まだ餡子に辿り着かない。頭なのに不思議だ。まだちょっと熱い。思わず、私の左腕にせっついている彼女を横目で見る。猫舌は、大丈夫だろうか。熱いものといったら火傷する彼女のイメージは、十数年来のものだ。しかし横目で見た彼女がしかめっ面をしていたのは、別にたい焼きが熱かったからではなくて――だって彼女は一口も食べていなかった――私にまだ何か物申したかったから、のようで。

「ああはいはい、ごめんごめん」
「……いま、言い争うのがめんどくさいから謝ったよね?」
「よくわかったね」
「わかるよ、ケイちゃんのことだもの」

 言って溜息をついている彼女を見て、特に言い返すことも思いつかなかったので、三秒考えて何も思いつかなければ思考をやめるめんどくさがりな私は、ただたい焼きを齧った。そういうとこ、ほんと変わらないのね。たい焼きはまだ熱かった。しかもまた餡子に辿り着けなくって、ただぱさぱさに乾燥している空虚な味だけが、口の中に広がる。


 私と言えばいつも大体こんなふうで、このはが言わんとしている特殊性については良くわからないけれど、とにかく私は、ひどいめんどくさがりだったのだ。なんだかんだで大学生になり、来年は成人する私であるが、19歳にもなれば、いやそうでなくたってある程度生きていれば、その人物を構成する要素は決まってくる、と思う。根っこが決まる、とこのはは表現していた。根っこ。自分の行動や考えの基本となるもの。そして、だいたいが、どうあってもおよそ変えられないもの、だ。めんどくさいめんどくさい、生きていくのはめんどうなことだ、私は根っこではきっといつもそう思っている。私の行動はそこから形成されていく。私という人物はすべてそこに回帰する。
 だからそんな私が、人とのコミュニケーションをめんどくさがってしまうというのは、ほとんど自然なことと言ってもいいくらいだった。ひとりの方が気楽だなんてことは例え私のような考えを持っている人でなくても知っているようなことで、それを、そんなふつうの人よりずっと楽を求める私が実行しない理由は無い。気がつけば私の周りには友人と呼べる友人はまったくと言っていいほど居なかったし、ついでに言うと大学に進み家を出たことで、親とも随分と疎遠になった。奨学金とバイト代で生活する私は、特に帰省をすることも無いまま、もう丸一年だ。たまに電話が掛かってくるけれど、本当に時間があったときに2分ほどしか会話しない。
 3つ子の魂百までというが、19の魂が今更になって変わるはずも無く、また変えるつもりもないまま、私はゆるやかな孤独に埋もれながら、静かにただ呼吸していた。生きているとは呼吸することではないとは、誰が言ったのだったか。まあ、私が定義として生きていようが死んでいようが、そんなのは別に、どちらでもいいことなのだけれど。
 とまれかうまれ、私はまた、ああ、めんどうだなあ、と頭の中で終始呟きながら、ただ沈むように、呼吸していたのだ。


「ケイちゃんのことなら、わたし、きっと一番詳しいよ。意外とたい焼きとか、そういう甘いもの、嫌いじゃないってことも」
「……嫌いじゃない、と、好き、は、イコールじゃないよ、このは」
「でも、手はあったまるでしょ?」
「まあ、ね。熱いくらい」
「そのくらいがちょうどいいの。ケイちゃん、冷え性だから」
「…………」

「ね。ちゃんと、知ってるでしょ?」

 このはは言葉通りになんだか誇らしげな顔で笑った。もうすぐ成人するというのにそんなときの彼女の目はいつかと全然変わらないみたいにきらきらとしている。得意気なとき、嬉しいとき、それから美味しいものを食べたとき、このはの半ば鳶色に近い瞳は、こんなふうに輝くのだ。普段はちょっとすましたように、大人しく垂れているのだけど。考えなくても、そんなことは頭の中にふつふつと浮かんでくる。ああ、そうだ、私も、このはのことを、そのくらいは知っている。昨日会った人の顔だって、覚えてない私が。覚えてないくらい昔から一緒に居る彼女とは、数え切れないくらいの時間を一緒に過ごしていて、虚ろに結ばれた像の上に色があるとしたら、それは、このはの色。


 めんどくさいという言葉と自分にふかくふかく埋没している私は、そのままどこかへ流れていったとしても、きっと誰にも気がつかれない。私はそんな、酷く、うすっぺらいにんげんで。そうだというのに不思議だったのは、不思議だったのは、そうだ。

 なんで、私はこのはと一緒に居るんだろう、っていう、ことで。


 実際私はそれがふと不思議になってしまったことがある。何度も、ある。それから暫くは、理由がちっともわからなかった。だっておかしいじゃないか。このはだって他の人間と大して変わるところがあるわけでもない。寧ろ、やたらくっついてきたり、やたら甘えてくる癖があるのは他よりもめんどくさいだろうに。どうして私は、このはと同じ大学にまで来てしまったんだろう。
 選ぶのがめんどうだから同じところにした、それはあるけれど、本当に他人と関わるのが全てめんどくさかったのなら、このはとだって一緒に居るのは、おかしいのに。例えばこの腕を振りほどいて歩き去ってしまうことだっていつだってできたのに、私は今までずっと、もう十九年になるけれど、それをしなかったのだ。

「ん、あつっ」
「あ……そんな急いで詰め込むから」
「うう、だって、熱いうちが美味しいから……」

 やっぱり猫舌だった彼女に焼きたてはきつかったらしく、舌がひりひりする、なんて言うので、私は思わず漏れる溜息と一緒に、鞄からペットボトルを取り出した。日が傾いた頃寒さに耐え切れず温かい飲み物を買ったのだけれど、その後の講義を受けたりしているうちにすっかり冷めてしまったそれは、今や火傷を冷やすのにだってちょうどいいだろう。めんどくさいと口数が少ないをイコールで結んでしまっている私の不明瞭な意思表示も、さすがに付き合いが長いせいか、このはにはどうにか伝わったらしい。ありがと、とあまり呂律の回らない口でもどうにかお礼を言った彼女は、ペットボトルを受け取ると、舌を冷やすために中に入っていた飲料を口にした。

「うん、ちょっと楽……ありがとう、ケイちゃん」
「さっき言われたからいいよ、お礼は。余りものだし」
「ケイちゃん、お礼は言いたいから言うものなの。そして言われた人は、ありがたく受け取るのも、また礼儀だよ」
「へえ、そうなんだ」
「ああ、またそうやって返答めんどくさがる……」

 言って、ペットボトルを私に返した彼女は、湯気の立ち昇るたい焼きを今度はやけどしないように気をつけて一口齧ると、美味しい、と囁くように言って。そのまま、あったかそうな顔をしたままで、私の腕に、軽く頬を寄せた。寒がりでなかったせいである程度薄着なせいか、それはふわりとした微かな優しさを、運んでくる。めんどくさがる私のことを多分一番良く知っていて、それこそめんどうになってしまうくらい長い長い時間を私と過ごしきった彼女は、そうして、笑ってみせるのだ。

「ふふ、まあ、そんなとこもケイちゃんらしいから、わたしはすきなんだけど」

 そんなことを、とても私のような人間と向かい合ってるとは思えないような表情のままで、このはは、言ってしまうのだ。恐らく、誰もがどきりとしてしまうように、きれいに、きれいに口元をゆがませて。


 ――恐らく私が、この幼馴染と幼馴染のままでいる理由があるとするならば、そこだったのだ、と私は言おう。


 彼女はそういう子で、つまり彼女は危なっかしい子で、時に優しさすらも、彼女の危うさの一因になってしまうことがある。言ってみれば、このはが私のめんどくささをそれなりに理解しているように、私も彼女の持つ危うさを他人よりはある程度理解しているつもりだった。幼馴染の贔屓目なんてものが果たして私に存在するかどうかすら怪しいが、きっとそれを抜きにしても彼女は魅力的だろう。少女から女性になるにつれ、それはより顕著になっていた。天然だと聞いた十人が十人驚愕若しくは嫉妬する、緩くウェーブのかかった栗色の髪を揺らしながら歩いている彼女は、思わず声をかけがたいくらいに眩しい、と、世の人は言う。多分彼女がこの優しく目尻の垂れた瞳で話しかければ、大抵の願いを叶えてくれそうな人は、両手で足りないくらい居るのだろう。そんなわがままを他人に言うこのはなど見たことは無いが。
 しかし、それだけなら別に何の問題もなかったのだけれど、困ったことなのは、だから彼女がそれを考慮した行動をちっともしてくれない、ということなのであって。良い例として引っ張れるのがさっきの発言だ、そんな言葉を笑顔で使ってはならないと、誰か彼女に教えなかったのだろうか。相手が同性の私だったのが、救いだけれども。とかく彼女は誰も彼もに優しすぎる。殆どの人から見放されるほどにめんどくさがりである私の幼馴染なんて出来る彼女の手は、優しいというより最早無謀の域だ。おまけにこのはという子は、さっきやったくせに再度舌を火傷し、涙目でペットボトルを所望してきた挙句、ボトルを取り落として文字通りがっくり肩を落とすくらいには、間が抜けていた。

 そんなふうに、このははいつだって今だって、ふらふらと危なっかしい。放っておいたら容姿に目をつけたそこらの面倒そうな輩にほいほいと着いて行きそうだし、放っておかなくても必ず何かしらはやらかしてくれるのだ。


「ねえ、ケイちゃん」
「んー」
「ふふ、もう、間延びしてるなあ……えっとね、このままケイちゃんの部屋まで行っても良いかな?」
「……散らかってんだけど」
「いいよ、別に。それよりも、ほら、朝お布団から出るのって、凄く辛いでしょう?」
「はあ」
「いま、そんな気分なの、わたし」

 どんな気分なのか一応尋ねた方がいいのかと思って見てみれば、彼女はちょっとだけ私の目を見返すと、ふと緩んだ表情で私の腕をぎゅっと組み直してきたりなどしてくる。ふんわりと垂れている瞳から覗く光には何の嘘も見えなくて、それはいつだって真っ直ぐ真っ直ぐとしていて、だから、彼女は、危なっかしいのだ。このははずっとそうだった、あまりにも真っ直ぐと人を見つめすぎる彼女は、あまりにも優しくて、そのくせ間抜けな彼女は、いつだって損を被っては、転んで泣いていて。
 初めて会ったときもそうだった、ともだちのことで一生懸命な子ばっかりだった保育園の休み時間では、他の誰も泣いていたこのはに気がつかなかった。そのころからもうなんとなくめんどくさがりで、ただぼんやり座っていただけだった私以外は。だから、他の誰もこの子の手を取らなかったから、しょうがなく、私がその手を取って、泣き止むまで傍に居た、だけで。

 そう、つまり、めんどくさがりな私が彼女の傍に居る理由といったら、まさにそこにあるのだ、と私は理解している。
 幼馴染であった私は、いつの間にかこのはを、この危なっかしくてしょうがない子を、とりあえず守ってやる、という立場に居たのだ。それは殆ど義務のようなものだった。それが幼馴染の義務なら仕方が無い。めんどくさかろうが、このはのくっつき癖がいつまで経っても直らなかろうが、この子はとりあえず私が面倒を見なければいけないのだから。なんだかんだで損を被ることの多い彼女も、私とはまた違った意味でお世辞にも人付き合いが上手とは言えず、いつも結局最後に頼ってくるのは、私だったりする。別にそれは私が言い出したことじゃなくって、そうだ、ちょっと前にこのはが言ったんだ、やっぱり最後の最後まで頼りになるのはケイちゃんなんだよねって、言ったんだ。

 そう、だから私は、しかたないから、このはを守らなくちゃいけないんだ。めんどくさい、けど――。






「あ……そこ。昨日雨降ったから、滑るよ」
「うん、わかってる。にしてもケイちゃんのアパートって、床掃除する人とか、居ないのかな?」
「さあ。誰もやらないと思うけど、そんなめんどくさいこと」
「だってこんなに苔が生えてたら、ちょっとでも湿気が多いと凄く滑ってあぶ……ひゃあっ!」
「……お約束」

 滑るよ、と告げたけれど、そもそも昨日雨が降って苔が湿っていたというその時点でこのはが転んでしまうのなんてほぼ確定事項みたいなものだった。そろそろ慣れきった私は特に驚くことも慌てることも無く、とりあえず細っこい肩を掴んで、このはの額とそろそろ錆び付いて折れそうな手すりが攻撃的な挨拶を交わすのを阻止する。
 お金も無いことだし、生活水準に関して特に拘りもないしで選んだ古アパートだったが、こんなにこのはが訪問することがわかっていたなら、少し考え直すべきだっただろうか。なんて思っても今更なので、次は気をつけるようにとあまり期待を抱けそうにも無い忠告をしてから、このはが体勢を立て直したのを確認してから手を離した。

「うう、ごめんねケイちゃん……でも、こんなに滑る床っていうのも悪いと思うの……」
「私は滑ったことないけど」
「……転んで立ち上がるっていう動作をするのがめんどくさいから?」
「ご名答」

 だってケイちゃんときたらそれで殆ど説明がついちゃうんだもの、と至極正しいことを言う彼女を横目に、そこだけは一応しっかりしている扉に鍵を差し込んで、開けた。古くて狭い部屋の中は、日当たりが悪いせいか外よりもどこかひんやりとしている。暖房はあまり効かない。ついでに清潔にしてはいるつもりだが、湿気のせいで多くの生命が勝手に息づいている。こんな部屋に足繁く通う物好きは一人しか居ないし一人居れば十分で、その一人はお邪魔します、と軽やかに告げるときちんと靴を揃えてから中へと入っていった。
 相変わらず何がそんなに楽しいのか分からないくらいに、機嫌がいい。居心地という点で言うなら、彼女を溺愛して止まない親が家賃を払っているという自身の部屋とは、比べ物にならないだろうに。他の大学生の部屋なんて訪れたことが無いから比較対象を私は持たないけれども、それでも彼女の部屋が凡そいち大学生に与えられるような水準のものではないということはわかっていた。大体いつだったか行った時だって、彼女の部屋の隣から出てきたのはそう慎ましい様子でもない老夫婦であったのだし。探せば三人家族くらいなら住んでるかもしれない。

「わ、ほんとに散らかってるね……」
「レポートやってたのもあるけど」
「ああ、うんうん、環境論Bでしょ? わたしも昨日終わったの……この本面白かった?」
「それなり」
「それなり……ううん、ケイちゃん、『それなり』と『そこそこ』以外の感想も聞いてみたいな、わたし」

 薄汚れた灰色にも似る部屋の中にこのははどこか不似合いで、けれどその不似合いさすらどこか見慣れたものにしてしまう程度には、彼女は足繁くここに通っている。コンクリートの間であろうが、日の当たらない隅っこであろうが、花を咲かせるものは咲かせるの。それと同じ。このははそう言うが、私には良くわからなかった。彼女は詩的な表現に素直に感動できる子で、私はレトリックを読み解くのが面倒だった。

「ねえケイちゃんケイちゃん、何か作ってあげようか」
「料理?」
「そう、晩ごはん。あ、ケイちゃん、いくらめんどくさいからってご飯を食べることはサボっちゃだめだよ」
「サボってない」
「めんどくさいからって嘘つかない。体調崩すことの方がめんどくさいでしょ?」
「崩れないギリギリは理解してるよ」
「……ほんと、ケイちゃんってそういうとこだけ無駄に詳しいよね」

 言いながらもこのはは、私の部屋なのに何故か置きっぱなしになっている彼女愛用のエプロンをつけていた。クリーム色のそれがふわりと揺れる。彼女は料理をするのが好きなのだ。しかしここまでの話からわかってほしいのだけれど、このはが料理なんていう細かい作業を得意とするかといえば、全くそんなことはない。機会は少ないのに私の方がまだマシだとも思える。包丁で手を切るなんていうことは、多分、恐らく、そろそろ、きっと、ないと思うけど。ないってことに、しておくけれど。他にも失敗要因なんて料理って作業には山ほど転がっている、わけで。

「じゃあ今日はね、何がいいかな……そうだ、寒いしスープ、あったかいスープ、つくるね」
「あー、じゃあ、よろしく」

それでも、いちいち言うのもめんどうだし、何より食事の準備を肩代わりしてくれるというのだから、任せてしまおうじゃないか、と私はひらり手を振って彼女に応える。一般的な食材を使って死に至る料理を作るなんてマンガタッチなことをする子ではないわけだし、のんびりと課題でもしながら待とうと決めたのだった。
 今日はね、とこのはが言ったように、またエプロンやその他無くても良さそうな道具が勝手に増えているように、彼女が私の部屋で料理を作るのは初めてではない。尤も今まで一度だって彼女自身が満足のいく料理を作ったことは無いらしいのだけれど。それでも、めげずに毎度毎度よく挑戦するものだ。なんとなしにそんなことを考えながら、鼻歌でも歌っているのか、軽やかに揺れている背中を見つめていると、きらきらしている鳶色が、ふっとこっちを振り返った。左手に玉葱、右手に包丁を持って、クリーム色のエプロンをしっかりつけて、彼女は静かに笑った。
 まっててね、おいしくつくるから、と、言った。






 といって、案の定小一時間も経った頃には目の前にどう考えても胡椒の分量を間違ったと思われるスープがもうもうと湯気を立てていたけれど、作り直すのも面倒な私は、それを全部食べた。向かいで食べている彼女があまりにも申し訳なさそうな目で見てくるので、とりあえず食べられれば私はそれでいいのだ、と告げてみた。真実だったが、不服そうにこのはは口を開く。

「……そりゃあ、ケイちゃんのそういう優しいとこも、すきだけど」
「優しいって言わないと思うよ、これ」
「でもね、そうじゃなくって……もっと……ああもう、わかった、練習する!」
「あ、一人で料理はしないほうが」

 胡椒のこともそうだが、とにかくこのはは量を見極めるということが苦手で、今回だって二人分のはずなのにゆうに六食分ほどのスープが完成していた。鍋が二つ使用されているのがミソだ。そんな彼女であるのにこのは自身は非常に小食であり、今だって辛いスープを――もともと辛いものが苦手なのだが――目を白黒させながらどうにかこうにか一人分食べきったとこだった。つまりその料理の後片付けというか、飽きようが多かろうが辛かろうがめんどくさいの一点張りで平らげられる私が居た方が、彼女にとっても都合がいい、と思う。

「……それはつまり、ケイちゃんちに料理の練習しに来ていいってことなの?」
「あー……」

 そう取るか、と思ったが、言い返すのはやっぱりめんどうで、とりあえず軽く両手を挙げておいた。はい、降参。このはは嬉しそうに笑って、じゃあ明日も来ていい、と弾んだ声で言う。私はただ頷くだけにする。でももっと嬉しそうになったこのはが、そのまんま抱きついてくる。このはの腕は白い。胡椒の香りに混じって、どこか甘い匂いが鼻をくすぐる。あんまりよっかかってくるものだからいい加減私の運動不足な背筋では支えきれず、結局気がつけばカーペットの上に二人してころがっていた。このはは、最初私の体の上に乗っていたのに、ころんと器用に隣へ来たかと思うと、そのまま私の肩のあたりに、そっと額を押し付けてくる。ほんとに、くっつくの、好きだよなあ。

 だからこのはは危なっかしいんだと私はいつも思うのだけれど、恐らくそれは私のめんどくさがりと同じように彼女の根っこにあるものだから、私が今更何を言ってもしょうがないのだろう。言うのもめんどうだし、と何時もの言い訳を頭に浮かべると、私はふふ、とこのはがよくそうする、微かに吐息を漏らす笑い方をじっと耳に染み込ませながら、黙るのだ。
 真っ直ぐすぎて、それからそう、きっと人懐っこすぎるこのはは、やっぱり誰かが傍に居て、とりあえずの見張りくらいは、やってあげなくちゃ、いけないのである。そういうわけで、私はその、一応守ってあげなければならない立場に居るのだから、この危なっかしくて、それから甘えるのが好きな子の頭を、とりあえず軽く、撫でてやって。

「……ま、好きにすればいいよ」
「うんっ」

 色々指定するのもめんどうだし、そんなことを言って、外が暗くなったからそろそろ帰るように勧めたのだ。







 ――ねえ、ケイちゃん。

 ――んー、どした、このは。

 ――ケイちゃんって、おうじさまみたいね。

 ――ええ? なに、それ?







「……ああ、またか」

 で、このはをとりあえず駅まで送ってから見慣れた薄暗い部屋に戻ってみると、思わずそう呟いてしまうようなものが、そこには残っていた。つまり、忘れ物だ。
 このはがぬくぬくと温まっていたこたつ、その彼女が座っていた辺り。今度は手帳か、と溜息と共にぼんやり思う。その前は筆箱、その前はノート、そのまた前は時計。そのままにしていると虫が闊歩しかねないのでとりあえず拾い上げ、少し考えてから鞄に入れる。携帯を見るまでもない、多分このはからの連絡はきているとわかるから。忘れ物しちゃったって報告と、それから、それがないとこのはは非常に困るのである、ということと。それだけ書いてあることがわかれば、十分だ。

 私が彼女のことを間が抜けていると思う大きな要因の一つが、この忘れ癖であった。転びそうな場所に行けばほぼ10割の確率で転ぶのと同じように、必ずと言っていいほど彼女は忘れ物をする。それはもう殆ど習慣みたいなもので、特に酷いのが、私の家――もうそれは「私の部屋」になったのだけれど――に遊びに来たときであった。不思議だよね、安心してるからなのかな、という言い訳にもならないことをこのは自身が苦笑して呟いてしまうほどその頻度は高くて、多分忘れ物をしなかったときを数えた方が早い。おまえ、もう何度目だい、ご主人様に忘れられて、このきったない部屋に転がってたのは。鞄の中でかたかたとむなしく揺れている手帳に、思わず憐憫の情をもよおしてしまう。
 そうしてあと一度だけ小さく溜息をついた私は、とりあえず部屋の鍵を手に持って、しんしんと寒い夜の中に、また出て行った。



 彼女が私の家やら部屋やらに忘れ物をしていくのが習慣化しているのと同じように、私も忘れ物を持って彼女の家まで届けに行くという行為にすっかり慣れきっていた。始まりは確か母親がそう私に言ったから仕方なく、だったと思うけれど、それから何回も何十回も何百回も、もしかしたら何千回もそうしているうちに、理由は消えたようだ。ゲシュタルト崩壊の極地とでもいえばいいのだろうか、ともかく気がつけばそうするのが私にとっては最早当然ともいえるべきことになってしまっていて、だから今日も私は彼女の部屋へ向かう。

 私と彼女がまだ互いの家を出ていなかったときのように歩いていける距離ならば良かったのだが、駅四つ分離れているとさすがにそうする気にもなれなくて、さっき分かれた駅に舞い戻った。ちょうど塾帰りの学生が増える時間帯なのか、駅のホームはさっきより微かに賑わっているように見えた。そうなるとやっぱり、早く帰らせておいてよかったのかな、と思う。賑やかな中に居ると寂しくなる、なんて、そんなこどものようなことを、このははいつも口にするから。そんな私の隣では、寒くてもめげない、スカートの短い女子高生達がわいわい喋っていた。
 ポケットの中で携帯電話が短く振動する。開く前からわかっていたことだったけれども、このはからの連絡だった。部屋まで行くからそのまま待っててくれていい、とだけ短く告げる。これだけの人がどっと降りていく彼女の駅で合流するのは、なんともめんどくさいことだからだ――と思いながら、携帯を閉じたときだった。ぷしゅう、と電車の扉の開く音、それから。

「あ……中河さん?」
「………?」

 降りるまで後一駅というところで、私はどうやら私の知り合いらしい人から、声をかけられた。

「あれ、家、こっちだっけ?」
「違うよ」
「だよね、俺毎日この電車だけど、見たことないし……何か用事?」
「うん、ちょっと」

 答えながらも、ついつい、ああよせばいいのに、と思ってしまう。だって私がこの、突然話しかけてきた人が誰だか思い出せないのは残念ながら決まりきったことなのだ。そしてもう一つの決定事項として、恐らく数秒もしないうちに彼の居心地が悪くなる、というのがある。よせばいいのに、私に話しかけるなんて。一駅が長く長く感じることだろうに。実際私がそう思って彼を哀れむ頃にはその通りの事態が訪れていて、気まずそうに窓の外を見た彼は、しかしなんと愚かなことか私の隣に立っていたのだ。

「あー……あ、そう、そうだ、環境論Bのレポート、もうやった?」
「うん、終わった」
「そっか……俺まだでさあ。あれ、なんて書いたらいいと思う?」
「さあ……」
「…………」
「…………」

 それで、こういうのがめんどうだよなあ、と、やっぱり私は思ってしまうのだ。実際彼だってめんどうだろう、こんな単語レベルでしか返してこない人と会話を継続するのは。不思議なのは私の受け答えが大して変わらないのに会話を続けられてしまい、かつそのままにこにこと一緒に居るこの手帳の持ち主のことなんだが。こういうときに、三島このはという存在のイレギュラーさは際立つ。私はこういう人間なのだ、ということを、今で言うなら彼の目を通して、確認できるからだろうか。

 そう、私はこういう人間なのだが。
 彼にとって長い長い時間だったであろう一駅ぶんが過ぎ、電車は漸く私が降りる駅に辿り着いた。挨拶ともいえない挨拶を交わして、気の抜けた音を出して開いた扉から出て行く。ついには覚えきってしまった道を歩いて、まだ建物の真新しいアパートに入り、エレベーターで六階まで昇って、隅っこにある部屋の扉を、ノック。数秒もしないうちにぱたぱたと出てきたのは申し訳なさそうに眉を垂らしているこのはで、中からは微かにふわりと、彼女の甘い匂いがするのだ。

「はい、忘れ物」
「うわあ、ほんとにいつもいつもごめんね、ケイちゃん……」

 手帳を受け取った彼女は、忘れ癖のちっとも直らないこの危なっかしい幼馴染は、ごめんね、と、今度はちいさく笑いながら、もう一度言った。ねえケイちゃん、上がっていって。手すっかり冷たいね、暖かいものでも飲んでいってよ。コーヒーも、ちゃんとあるよ。慣れきってしまったその誘いを、私は半ば流れるように、受けて。
 私はこういう人間なのだが、しょうがないから、それは私の義務みたいなものだから、もう理由なんて半ば掠れて消えかけているその行為を、私は続ける。






「それじゃあ……」
「泊まっていく?」
「……なんで」
「だって、もう遅いでしょ。それに寒いし。ほらほら、こっちのお布団はあったかいよ」

 暗に私の持っている安物の布団が寒いと言いたいのか、私が来るころにはしっかり寝間着に着替えていたこのはがベッドの上にちょこんと座って、手招きしてきた。そうじゃないと眠れないからと、一年ほど前にさんざん付き合わされた買い物の結果であるところのふかふか布団の上、彼女はじっと私を見上げてくる。ねえ、ケイちゃん。明日は休みだから、一緒にお昼くらいまで寝て、のんびりして、たっぷりご飯食べてってしようよ。そんな休日はあったかいでしょ、とこのはは言う。
 私は返事をしなかったのではなくただ黙っていただけだったのだけど、このははごしごしと一度目を擦ってから口を開いた。だんだん瞼が落ち始めている。

「ねえ、ケイちゃん」
「…………」
「ねえってば」

 夜更かししようが何しようが、鈍いのか大体のところ関係のない私と違って、このはの目はもう睡眠を欲しているようで、口調はいつもより大分緩かった。私が黙っているうちに頭の回転まで鈍くなりつつあるのか、最後はねえ、ねえ、いいでしょ、とか、駄々をこねる子供のようになってしまう。さっきまで座っていたのに今はもう布団の上に横になって、手招きするというよりはただじたばたとしている彼女は、なんだか。

 ――なんだかやっぱり、しょうがないから、助けてあげないといけないような、気がして。

「……はいはい、わかった、わかったから」
「ふふ、でました、めんどくさがりケイちゃん、だいすき。ね、寒いから早く」
「はいはい」

 はやくねえ、と眠たそうに間延びした声が追いかけてくるのを、背中で聞く。
 そうやって折れてしまうのはもうこれで何度目になるのだろうか、数えるのをやめたのはいつからだっただろうか、私の歯ブラシが、洗面台に並ぶようになった頃、かな。このはは来るたびに私の部屋に忘れ物をして、私はそのたびにこのはのところまで届けに言って。そうして、一人暮らしを始めた彼女は、そのたびに泊まっていって、と言うようになった。だから、就寝準備をしっかり整えられるくらいには、私と彼女はこののんびりとしたやりとりを繰り返したことがあって、つまり今日もそのどれかに溶け込むひとつでしかない。
 私や彼女に根っこがあるのと同じように、私と彼女の関係性というものにも、恐らくそんな根っこが存在するのだ。そうやって今日も私は、彼女の言うことに何となく付き合う。




 寒いのか点けっ放しになっていた暖房にタイマー設定をして私が布団に入る頃には、彼女の意識はもう半分くらい夢の世界に引っ張られていた。そのくせしっかりと手を伸ばして抱きついてくる彼女のくっつき癖である。磁石か何かでも入っていそうだ。こんな寒い夜は、磁力三割り増し。このはは小さく欠伸をしている。

「んー……さむいねえ、ケイちゃん」
「冬だしね」
「うん、冬だね……おこりんぼうの、冬だよ」

 今更一緒に寝ることに何を感じることも無いけれど、ただぼんやりと思ったのは、こんなところですら彼女は昔から変わらないのだな、ということ。
 くっつくと眠くなるなんて、そんな部分をこの歳になってまで維持し続けているこのはは、ある意味貴重な存在のような気もしてしまう。私にとっては、危なっかしいだけだけど。吸い付くように寄り添ってくる彼女のからだはへんなくらいに温かくて温かくて、手を伸ばさずとも自分からくっついてくるこのはは、私の隣であくびをしている。そして、そんな彼女がすっかり眠ってしまうためには、もう一つステップが必要だった。

「ケイちゃん……ね、ケイちゃん」
「どしたの」
「ケイちゃんは……おうじさま、みたいだね」

 そのステップを実行しようかとしていたころに彼女がふわりと呟いたのはそんなことで、私にはその意味がよくわからなかった。けれどその言葉を聞いたことは、わりとあった、ような気がする。
 一緒にシンデレラの本読んだこと、おぼえてる。訪ねると言うよりは囁き掛けるように彼女は言う。ずいぶんと遠い記憶で、だいぶん靄がかかってしまっていたけれど。シンデレラ、ああ。私はそれだけしか返さなかったが、このはにとってはそれだけで十分だったようだ。このははそう、と目を閉じながら、柔らかな声で言う。あたたかな指先がゆっくりと、ゆっくりと伸びてきて、そしていっぽんいっぽん確かめるように、わたしの頬に触れた。


「また……ガラスの靴を、届けにきてね」


 きっとシンデレラはうっかりじゃなくて、ほんとは王子様に見つけて欲しくて、ガラスの靴を落としたんだよ。幼い記憶に、彼女がそう言っているのを、聞きながら。私はそんな、危なっかしくて、ちょっぴりわがままで、たよりない幼馴染が眠りにつくように、昔とおんなじ、おんなじように、頭を撫でてやったのだ。




 

 

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