勘違いが、とまらない。




 これは、神様のいない世界の話である。

 白い女神、と呼ばれているひとがいた。人類文化学部四年生の、白井涼香だ。白井女神、だから、白い女神。読み方を少し変えただけというおそろしくくだらない道程をたどりつくられたというのに、あだ名というのは不思議なもので、くだらなければくだらないほどすごい速さで拡散していく。だから彼女が所属している天城研究室内の人間はもちろんのことだが、それ以外の学部すら同じでないような人たちからですら、構内ですれ違いざまに白い女神さん、だなんて呼ばれることがあるらしい。もっともそれは、白井さん自身の知名度がそれなりに高いことも、おおいに関係しているのだけれど。
 白井さんがそのようなあだ名で呼ばれるに至った正確な経緯を、今年の春に天城ゼミに今年入ったばかりの私は良く知らないが、おおむねそれは聞かなくともわかる範囲に属することなのだろうということは簡単に予想できた。うんまあ、かみ砕いて言えば、かわいいのだ、白井さんは。ゆるいウェーブのかかった栗色のボブカットが大変良く似合う小顔で、ついでに小柄な白井さんは、清楚な服装と雰囲気をいつもまとっているひとで、彼女の柔らかな微笑みを見たとあっては、あのC評価量産機と呼ばれた伏見教授ですらもAA評価を叩き出すと謳われたほどの容姿の持ち主なのだった。
 ちなみにそう書いてあったのは、去年の大学祭で配布されていた、ステージ発表の方ではなくもう少しコアなファン層をねらった(よくわからないが)という、写真紹介のみのミス・コンテスト・チラシ版でのことだった。白井さんの知名度の高さは、だいたいこのあたりに起因する。そのコンテストの常連入賞者らしい白井さんは、しかしチラシ自体の微妙なアングラ感も手伝って、一部学生から絶大な指示を得ているらしい。と聞くとちょっと怖い感じがしなくもないが、それはむしろ神聖化に近いものがあり、不可侵条約なるものまで締結されているというのだから驚きだ。大学生というのはどうしてこうヒマなのだろう。
 まあ、ともあれ、二年冬のゼミ見学にて天城研究室を訪れた際、居心地が良すぎて住む学生が続出した結果、薄汚れたニトリの毛布が転がっていたり(私の部屋にも同じものがあるのですぐわかった)、砂糖塩醤油あたりだけならまだしも鶏ガラスープのもとやら豆板醤やらといった種々の調味料とともにそっとフライパンが置いてあったりするというなかなかに凄惨な様相を呈していた部屋の中で、その白井さんは、確かにまるで地上に舞い降りた女神のごとく、輝いて見えたのであって。そうなると、実は友人に付き添いを頼まれただけの私が、いくら突然姿を現した教授から質問の嵐を浴びようとも、全て押し通してその場で申請書を提出してしまったのも、また仕方がないことだといえよう。

「くぉら鷹野、何をぼんやりしてる、視線はこっちだって言ってるだろうが」
「いやあの、高畠さん、この炎天下ですと、ぼんやりしたくなくとも意識が飛びそうなんすけど……もう白い女神どころか真なるお迎えが来そうなんすけど……」
「そう思うんだったらとっととイメージ通りに動いて撮影を終わらせるんだな」
「さっきから方向性ぐいぐい変えてってるの高畠さんの方じゃないすかぁ、もう勘弁してくださいよー!」
「うるさい、現場のインスピレーションの価値の前には事前の計画なんぞクズ以下なんだよ。いいからさっさと言われたとおりの動きをする!! 鰻丼奢ってやった恩を忘れたか!!」
「あれは鰻じゃなくて同じタレを使った茄子丼だったじゃないっすか……」
「鰻丼なんてタレがありゃ鰻丼だろ」
「それには断固抗議します!! スタミナも何もあったもんじゃないですよ、こんなに暑いのに!!」

 いえようが、しかし、それと後悔しているか否かという話は、それはもうまったく、別問題である。
 こういう話によくありがちなオチそのままに、私を誘った友人は結局別のゼミへと行っており、しかもどう考えても彼女のほうが英断を下したとしか考えられないのだ。だいたいゼミ説明会の時点から、屈指の変人教授と名高い天城教授が例の板垣退助もかくやといった髭面でぬっと現れ、何をしようが自由であるが、何かを成さぬ者はいらぬなどという胡散臭い言葉だけで終えたのだからもう嫌な予感しかしなかったというもので、こうなるとやはり友人のほうに一言もの申したくなってくるのだからつらい。なにがつらいって彼女はここにいない。しかし言わせてくれ、君、何を思ってこんなところの見学に行こうだなんて思ったんだ!
 結果的にその魔窟へ単身乗り込むこととなった私がどうなったかといえば、ある時は教授の出してくる五ヶ国語を混ぜ合わせて書かれたという小説を五冊の辞書に埋もれて悲鳴を上げながら徹夜で読み、またある時は上記のように先輩のよく言えば前衛的な映像撮影に詐欺まがいの報酬を押しつけられたあげく炎天下の中半日付き合わされ、もはや私は私自身がどこに行こうとしているのかちっともわからない、人生の迷子街道を驀進中なのであった。しかも不純な動機というものはだいたい後でしっぺ返しをくらうもので、目当ての白い女神は、どうも三年ゼミとは研究室に来る曜日が全く合わないらしく、普段から話しかける機会といえばほぼないに等しかった。ひどい。癒しすらも許されない。

「暑い……暑い、暑い、暑い、溶解する……」
「おお、しろしろ、ダリっぽくていい画が撮れそうだ。それにしてもお前もうちょっとこう、キリッとした顔ができんのか? 背筋だってもんとぴんと伸ばせ、スタイルはいいんだから、生かそうとしろよ」
「ははは、背なんて……背なんてあったってねえ、安アパートの電灯で頭をぶつけるくらいなもんすから」
「そう卑下したものでもないぞ、なにせ俺の映像イメージにはぴったりだ」
「あっ、たった今さらに自分の背丈が嫌いになりましたね、はい」

 このあたりからももう薄々と感じ取れると思うが、私はとにかく、運がないのだ。ゼミの一件もそうだけれど、生まれたときからツキに見放された人間というのはいるもので、小さいところなら後ろがつかえているときに限ってSuicaのチャージを忘れているから始まって、目の前の信号は示し合わせたように全部赤、駅に着いたとたんに目の前を電車が過ぎ去っていき、乗った電車は線路に石で停車する。大きいところでは大枚はたいて買った今どき流行りのiPhoneが三日で水没した。その次の日にケースが届いたというのだから極めつけである。
 だから、前述のように講義内ではもちろんのこと、その外でだって、白い女神とお近づきになったことは、春から研究室に足を運ぶようになってからはや三ヶ月、一度だってありはしない。教授の講演会を手伝いに(驚くべきことに、白井さんはあの気難しいという範囲からもはや逸脱している天城教授のお気に入りであり、ちょくちょくそのような遠出に付き合っているらしい)行ったときのお土産を一人一人に配り歩いていたとき、私は風邪を引いて部屋で一人虚しく寝込んでいた。ゼミの新歓があったときだって、どうしても抜けられない用事があったとかで白井さんが遅れて会場にたどり着いた時にはもう、私はこの高畠さんにとっ捕まってすっかり潰されていた。
 挙句の果てには彼女が取っていると噂に聞いた宗教学だなんてまったく興味を引かれないジャンルの講義を受講してみるも、最大六百人が収容可能な大教室にみっしりと学生が詰まっているその授業では、白井さんの姿を見つけるのがやっとだった。出席が評価において高い割合を占める授業はこれだから嫌なのだ。しかも往々にしてあることだが、出席が厳しい授業は内容がつまらない。高確率で私とは真逆の方向にある席につく白井さんを、しかし我ながら毎度毎度上手に見つけて眺めるだけの九十分は、まあ、無為と切り捨てられたものでも、ないのだけれど。

「だーかーら、暗い顔をするなと言ってるだろ!! もっと毅然としていろ、追い風に向かって立つような感じでいけ!」
「だったら前に扇風機でも置いといてくださいよ……」

 きっと彼女は私のことを覚えていない、きっと彼女は私がどう思っているかなんて知らない、きっと彼女は、私の苗字すらも知らないんだから。
 なんだかそんな情けない歌があったような気もすると思いつつ、雲ひとつ見当たらないやけくそみたいに晴れた空を見つめる。空を見上げたり上を向いて歩いたりするのは私のちょっとした癖であるが、それは別に、涙がこぼれないようにというすてきな理由があるわけではない。

「……よし、未だ影なーし」

 単に、落ちてきたら十中八九くらう糞害を、避けるためだ。


 しかし日本語がおおむね広義を示す言語であることを鑑みても「運がない」という言葉の範囲が示す意味といえばなかなかに曖昧なものであり、例えばこれまで幸福というものをまったく知らないような人間が唐突に身に余る幸福を雨霰と与えられたとして、果たしてすっかり幸不幸のメータがおかしなことになってしまったその人間がどう暮らしていくのかということを考えるに、初めにかの身に降りかかってきたものを果たして幸福と言えるかどうかと問われれば明確な答えはないのではないだろうかという、えっとだから、つまりその、あれだ。
 身に余る幸福もある種の不幸となり得る、現状の私を言い表すとしたらそれだった。私はそんな混乱の極致にいたのだ。これはいったい、どういうことなのだ。

「しろ……っじゃなくて、白井、さん?」
「はい?」

 自分に向かって話される、というのは、やはり、単に声を耳にする、というのとは、決定的に違う何かが、ある。私が白井さんの滑らかに落ち着いた声を向けられたのはそれが初めてで、だから私はそんなことに、あっさりと打ちのめされる。ひとの喉を通った言葉には、力があって。自分に向かって話されるというのは、そのエネルギーを、まともに受け取ってしまうことなのだ。いやまだ会話とか全然成立してないんだけど。扱いの悪さというよりは古さのせいで無残にカバーが外れかけているソファの上でも、ある種の神気を纏っているように思えるほどの雰囲気を放つ彼女は、私が声を掛けたのに当然の反応として振り返って、返事をしてくれただけなのだけれど。
 高畠さんの鬼のような撮影は結局日が傾ききるまで続いて、ようやく解放された私は研究室にUSBメモリを忘れていたことを思い出して泣く泣く取りに来た、そこでのことだった。入口の扉を開け放った格好で固まっていた私は、彼女の目に、いったいどんなふうに映ってしまっていたのだろうなんて、考える余裕も、なく。そこには白井さんがいた、白井さんだけが、いた。ふわふわの栗色ボブカットをわずかに揺らしてこちらを向いてくれた、ナチュラルメイクとギンガムチェックのワンピースも眩しい、白い女神。

「鷹野さん、でしたよね。なにかお忘れ物ですか?」
「へっ!? あ、いや……あの、えっとそう、USB、挿しっぱなしで」
「あ、五番機のでしょうか、もしかして。こちらですよね?」

 と、たいした戸惑いも滲ませずあっさりと私の名を口にするといういっそ畏れ多いことをやってのけてくださった白い女神さまは、そうして私に向けて探し物であったUSBメモリを、わずかにこぼれたくすぐったそうな笑みと共に、差し出してくれた。私はそれを恐る恐る伸ばした手で受け取った、健康的な桜色をしている、ちまっこくてかわいい爪が、かびくさそうな蛍光灯の下なのに、随分ときれいに光って見えた。
 でも、いや、あれ。彼女が平素浮かべてたくさんの無差別爆撃を加えているのはくすぐったそうなそれではなく、もう少し柔らかなものではなかったか、と考えたときにはもう遅い。これだからついていない人間というのはいやなのだ、はっと白井さんの顔を見た時にはもう、彼女はごめんなさい、と言いつつ、肩を震わせている最中だった。ああもう、いくら容量残っているのがなかったからって、これはなかったんじゃないのかね、数日前の自分よ。そんな突っ込みももはや手遅れ、私は白井さんが保護しておいてくれたその、いわゆるひとつのいくらのお寿司を象ったUSBメモリを、赤面を感じつつ鞄へしまった。

「く、ふふっ……ごめ、ごめんなさい、でも、なんだか、おかしくって……わたし、飛びあがりそうになりました、見つけたとき」
「あー、それはなんというか、どーも、驚かせてしまってすいませんです……」
「いえ、楽しかったので。ふふ、お好きなんですか、お寿司?」
「好きっていうか、憧れっすね。一人暮らし始めてからこっち、もー金なくって金なくって。たまに酢飯だけ作って、こいつを眺めながら食べるっつー」
「ふ、あはっ!! な、なんですか、それっ……!」

 あ、結構笑ってくれる人なんだ、なんて、一度ツボに入ったら止まらなくなるらしいという白井さんの可愛らしい性質すら話に聞いていただけだった私は、目の前になんの予兆もなく、それこそ突然降り注ぐようにぶわっと広がったその光景に、ただ、ただ圧倒されていた。だってとっとと冗談ですって言わないと白井さんの中の私像(なんてものがあるのだかは知らないが)がおかしなことになってしまうのは明白で、それだのに私が次に零せたのは、むずむずするような笑い、たったそれだけで。
 しかし、白井さんがあいた、と微かに呟いて、ソファの上で体を縮めたのは、そのときのことだった。

「あれ……白井さん、足、どうかしたんすか?」
「はい、ちょっと……その、そこの箱、教授が研究で使われたものなんですけど、戻しておくように言われてて。ここまで運んできたまでは良かったんですが、最後に躓いて、足をちょっと捻ってしまったみたいで」
「うわわ、それは災難だ……えっと、この箱を、どちらに?」
「その棚の上に……あ、ごめんなさい、使ってしまって」
「いえいえ、これくらいなら全然ですよー。寧ろ使ってくれた方が、無駄にでかいだけじゃなくて良かったっていう」
「あら、でも高畠くんがモチーフに選んでましたよね? 今日の撮影も、すごく長引いたんでしょう……お疲れ様です、本当に」
「ご、ご存じだったんですか……いやーあの人は逆に、私のこと使うことしか考えてないんじゃねっていう」
「ふふっ、でも、高畠くん、すごく鷹野さんのこと気に入ってるんだと思いますよ」
「えー、そうっすかー……?」

 うっかり喉から滑り出そうになった、白井さんは、どうなんですか、というのを、何が入っているんだか全然わかんないけど、とにかくがしゃがしゃとうるさい荷物と一緒に、奥へ奥へと押し込める。教授が研究で使ったものだと言ったけれど、そうなるとこれがもう一度日の目を見ることはまずないと言っていいだろう。使い回しの利かない道具ばかりを使い、しかも同じ実験を二度とはしない我らが教授どの。だからこれはこのまま、棚の奥でゆっくりと、ただ埃をかぶっていく。中身もわからないまま。そうであればいいのにな、と思いつつ、でも少しだけ、噛みしめる。白井さんはどうですか、私のこと、気に入って、くれますか。中身がわからないがしゃがしゃしている私の中の何か。それがどうかただ埃をかぶっていくものであらんことを。
 なんでこんなことを考えるかなあと思いつつ、探しても出てこないものは揺り籠と墓石くらいのものではないかと言われる研究室をふと見まわして、目に留まった救急箱を白井さんの腰掛けているソファの前のテーブルへと引き寄せる。ドイツ語の雑誌とティッシュと最近流行らしいアニメキャラクターのカード数枚をよけて確保した場所に、湿布とテープと鋏を置く。そこまでをきょとんとした顔で見守っていた白井さんは、あ、と口を開くと、慌てたように足を引っ込めた。もともとちっちゃい白井さんが、もっとちっちゃくなった。ああ、ちくしょうどうしよう、かわいいぞ、このひと。

「あっ、あの、大丈夫ですよ、わたし……暫くすれば痛みも引くと思いますし」
「でもそれまで待ってたら、帰るの遅くなっちゃいますよ。我らが白い女神さまにそんなことさせたとあっちゃー、私明日から顔上げて大学歩けないですって」
「……そのあだ名、鷹野さんまで知ってたんですね、もう……あの、じゃあせめて自分で」
「いやいや。私こういうの慣れてるんで、どーぞ任せちゃってください。右足首ですよね?」
「そうですけど……あの、ほんとに、いいんですか?」

 もう一度の確認に、私が出来る限りの笑顔を浮かべて頷いて見せると、白井さんは少し黙ってから、じゃあ、と気恥ずかしそうに右足をこっちに伸ばしてくれた。きれいだなあ、などという、大変好意的に言えば素直な、でも率直に言えば多分に馬鹿馬鹿しい感想が、あぶくのようにふわりと浮かんでは弾ける。弾けて皮下をさざめく、柔和なむずがゆさに変わる。
 怪我の治療に慣れているのは、単についてないからよくすっ転んだりぶつかったり上から物が落ちてきたりするっていうだけなのだけれどついてないって言葉はやっぱり広義だなと改めて思う。こういうのも、怪我の功名、なんていうのかね。多分にあほらしいことを考えながら、白井さんの足を掲げるように持って、ちょうど一段下で向かい合うように、私は膝をついた。あ、なんだか、と思う。なんだか、これはほんとに、ちょうど、かみさまに、跪いているみたいだ。
 宗教学で妙なビデオを見させられすぎたかなと心の中だけで苦笑して、とっとと治療を始めることにする。患部に湿布を貼って、まずはくるぶしから少し上の辺りに、テープを巻いて。繊細な足首に触れるのが妙に躊躇われたのは、それがあまりにたやすく折れてしまいそうだったからで、多分それは、おかしなことだった、と、思う。白井さんの足は、名前の通り、なんて言ったらおかしいけれど、白くて、ちっちゃくて、そしてひんやりしていた。くすぐったがりなのか、たまに私が持ち手を変えたりすると、そのたびにぴくっと律儀に肩が跳ねるのが見える。
 なん、だろうな。ふつりとそんな言葉が浮かんだのは、二本目のテープを切ったときだった。なんだろう、これは、なんだろう。何を話そうかなんて、ほんの少しも考えていなかった。いつも遠くから、その眩しい姿を見るだけだったひと。かわいいとこ、すごいとこ、すてきなとこ、全部話に聞くばかりだったひと。遠い、遠い、かみさまのような、ひと。だけど私にとっては困ったことに、彼女はほんとの女神さまなどではなかったのだ。困った、ことに? なにが? なんだろう、これは、なんだろう。
 ゆっくりと頭の中を巡り始めたそれから、まるで目を逸らすみたいに、私は少し乾きつつあった唇を押し開いた。

「それにしても、私の名前、よく覚えてましたね? ほとんど話したことないんで、絶対知られてないと思いました」
「あ、それは……えっと、気を悪くしないでくださると、嬉しいんですけど」
「はい?」
「その……聞いたんです、教授に」

 白井さんは、たとえば、子どもがずっとずっと大切に隠していたたからものを、きゅっと握った両手の隙間、こっそり見せてくれるように、話してくれた。
 がさつな誰かに見つかってしまわないように、ほんとに自分がそれを大事にしていられるようにと、ひみつにしてきた、ちいさなこと。それをようやく、一粒ずつならべていくように。

「高畠くんが気に入っている子がいるっていうのは、知ってて……でも、わたしの方が先に見つけてたんだぞって、ちょっと悔しくなってたんです、実は」
「は……えっ、と? えっ?」
「二年生の時、うちに見学、来てくれてましたよね。あの時天城教授に、あんなにぺたぺたにやられてたのに、ちっとも小さくなってなくて」
「い、いやあ、吊し上げられるのも昔から慣れてるっていうか、不純な動機もあったしっていうか、その、なんていうか……」
「その時から、面白そうな子だなって、思ってたんです、ずっと。それなのに、運が悪かったんでしょうね、全然話す機会がなかったから、名前も聞けなくって」

 いやもうなんか運が悪いというのは白い女神であるあなたのような人が口にするべき言葉ではないわけで、ぶっちゃけ全部私のせいに間違いがないわけで、でも私はそんなことをただの一言も口にすることができないまま、終盤に差し掛かっていたテーピングの手すらも完全に止めていた。もしかしたら、呼吸も、半分くらいは止まっていたのかもしれない。そうだというのに体の中はやけにうるさかった、どくどくうるさかった、かっこうのせいで見下ろすようになっている白井さんの、穏やかな視線を受けているという光景ですらも、脈打っているように見えた。
 ああ、なんだろう、これは。なんなんだろう。右手にテープを持っていなかったら。左手に白井さんの足を持っていなかったら、思うに私はきっと、胸を鷲掴みにしていた。そのまま心臓を、握りつぶしたい気分になっていた。きっとそしたらさぞかし元気に血が噴き出るだろうなあと怖いことを考えるも、そうできるはずもなく、私はただ呆然とその場に居続けた。その場にいて、くすっと、はにかんだように笑う白井さんの目線を、ただひたすらに、たとえば暴力的に降り注ぐ太陽のひかりみたいに、受けていた。
 白井さんは笑う。聞いているのとはちっとも違うように思える微笑みを浮かべる。だから、教授に頼んで、名前、聞いたんです。

「高畠くんよりも、先に……悠さん、って、呼んでみたくて。」

 ちょっとずるかったですよね、と、いたずらっぽく肩をすくめてみせる彼女は。
 彼女、は。

「………っ」

 なんだろうって、ただそれだけ繰り返し続けていられたなら、良かったのに。どうしてひとは答えを欲しがるのでしょう、どうしてひとは感情に名前を求めたがるのでしょう、どうしてひとは、そうやって、そのおそろしいものの概形を、掴んでしまおうと、するのでしょう。懺悔のような言葉が、どくどくと私の胸から発せられる赤い赤いなにかのように、あふれ出してくる。なんだろう、がどうしよう、に変わる。興味津々に覗き込んで、取り返しがつかないことをしたと泣きじゃくる。
 やっぱり私はついてないなと、かみさまに見放されているんだなと改めて思う。いや、そもそも、かみさまなんてものは、きっとどこにもいないのだ。だけどそれだから、私はひどいことになる。かみさまなんてどこにもいなくて、白い女神はほんとの女神なんかではなかったから、私はひどいことになる。いつも穏やかに微笑む、白い女神と呼ばれる彼女は。彼女は、だけど、女神などではなかった。
 もっと届かない人だったらよかったんだ。もっと遠くて眩しくて、たくさんの人に幾重にも囲まれてしまったずっとずっと向こうにいて、だからこそ、もしかしたら手が届くかもしれないなんて期待を、そんなとんでもないものを、砂塵みたいに吹き飛ばしてくれるような存在だったらよかったんだ。
 そしたら私はひどいことを考えずには済んだかもしれないのに、私のそれはどこかで埃をかぶったままでいられたかもしれないのに、そうじゃないような気が一度でもしてしまったから、私は、あなたの瞳の中に、立ち止まる。どうしよう。
 どうしよう、このひとのことを、好きになる。
 そんなの、あっていいわけ、ないのに。

「あ……ご、ごめんなさい、やっぱりだめですよね、突然は。そう、突然すぎますよね、わたしたちまだ、ほとんど話したこともないですし……その、でも、ゆっくりでもいいですから、なんというか……えっと、仲良く、してもらえたらな、って。こんなの、頼むっていうのは、本当はおかしなことなんですけど」

 私が黙っていたからなのか、白井さんはいつもの穏やかな口調はどこへやら、丁寧さだけは失っていないものの、いつかの発表のときに見せていた凛とした佇まいで手に持った原稿に少しも目を落とさないでいた様子からは考えられないほどに、まるでつらつらと思いつくままに話しているような戸惑いかたを、見せていて。優しい曲線を描く髪を所在なさそうな手でいじくっている白井さんは、少し、頬が赤くなっていた。
 でもあなたはきっとそんなふうに、揺らいだ様子など、私に見せるべきではなかったのだ。責任転嫁も甚だしいことを、それでも私は考える。ひどいこととわかっていながら、それよりももっとひどいことがあるから、考える。まばたきを、した。ながい、ながい間の空いたまばたきを。でも視界が滲んだのは本当にそういうわけだったのか、私にはよくわからない。ただ、こころと関係ないところの涙が、こんなにも脳髄を締め付けるものだったとしたら、人間はもっと早く死んでしまったのではないか。
 そんなことばかりをぼうっと考えていて、でも考えたまま、白井さんのことを見上げていた。目をそらすことが、どうしたってできなかった。どんなにエネルギーをかきあつめたって、身体を動かすことが、どうしたってできなかった。白井さんの、緊張のせいなのかくっと指が縮こまっている足だってちっとも、離せなかった。仮に、それが――それが、吐息がぶつかって返ってくるほどのところまで、みるみるうちに、近づいてきていたのだとしても。

「え……?」

 ああやっぱり、ひんやりしている。かわいらしく丸まった指のどこか、ほんの一瞬だけ押し当てた、唇。鼻の奥がしんとつめたくなったのは湿布の匂いのせいで、でも頭の奥がしんとつめたくなったのは、きっと違う。
 そうして少しだけ考える。鷹野悠、という、私についた記号を、とりたてて素晴らしいとも、好きだとも、思ったことは、ないけれど。もしあなたが呼んでくれるのだとしたら、私はそれに対して、言ってみればたった二つの音でしかないそれに対して、新しい意味や感情を、付け加えることも、できたでしょうか。それはあたたかだったでしょうか。それは優しかったでしょうか。
 まあ、どちらにせよ、私には、もう縁のないことだけれど。関係のない、ことだけれど。

「あの……ゆ、」
「あー、やっちゃったよこれ!! いやーすいません、高畠さんにもお前は突拍子もないことばっかよくやらかすって言われるんですけど、私ってば疲れてんのかな!! それかあれっすね、宗教学。あのクソつまんないビデオであったじゃないすか、こういうシーン」
「宗教学……?」

「そうそう、それに出てきた――崇拝の気持ちを表す、っていうやつ」

 そうして私は女神さま、と呼んだ。彼女のことを、敬謙な祈りを呟くようにして、或いは笑い飛ばすようにして、ああ女神さま、と呼んだ。美しい女神さま。どうぞ、私のようなみにくい人間を、惑わせるのは、おやめください。
 必死に誤魔化すふりをして、私の頭はいたって冷静に稼働していた。ひどいことになったからといって、しかしどうということもない。ひどいことなんて世の中にはそこらじゅうごろごろしている。そのひとつひとつに躓いては倒れていたら、私たちのよわっちい体なんてあっという間にぼろぼろになってしまうではないか。だからギリギリのところで、踏みとどまらなければ。バランスを取りなさい、上手にバランスを。右手に抱えた心の重さに、負けてしまいそうになったなら。左手に抱えた現実の重さを、もっとちゃんと思い出せばいい。
 そうなると、例えひどいことに打ちのめされた結果として身体が動かなかったのだとしても、私がその時まで白井さんの前に跪き続けていたことは、そう、私にしてみれば珍しい、幸運、ということになるのだろう。だってきっとそれだから。

「そんなそんな、私なんかと仲良くなりたい、だなんて。こっちが畏れ多いっすよ、白井さん」
「そんな、こと……」
「いやあ、だって白井さんとお近づきになりたい人なんてそれこそ星の数ほどいるわけでして。とりたててそんな、私みたいなみそっかすの人間に気を裂く必要なんて、まったくないわけですからして」

 だってきっとそれだから、私は、彼女にとってのなにものかになってしまおうだなんて望みを、捨て去ることができるのだ。
 名前に意味なんて与えられなくていい。白井さんの目に映っているのは、私でなくていい。私が持つ感情にだって、特別な名前なんてなくていい。女神のような彼女が、ほんの微かな興味を私に向けてくれていたのだとしても、だからといってどうということもない。まあそういうこともありますよね、道端にある小石に目を留めたくなる瞬間だってあるのが、人間の面白いところですよね。でもだからって、ずっとそのまま見ていてほしいなどという願いを持てることが、どうしてあるだろうか。
 テーピングの仕上げを淡々と終わらせた。条件反射的に染みついた動作というのは、こういうときに楽だった。さあ終わりましたと立ち上がれば、ちっこい白井さんの表情は、一気に見えなくなる。いくらのお寿司のUSBを取りに来ただけの私は、怪我をしていたみんなの女神さまを見つけて、畏れ多くも治療させていただき、しかしその畏敬のあまりに、崇拝の気持ちを込めて口づけをせずにはいられなかったのだ。馬鹿馬鹿しくはあるが愛すべきストーリーを頭の中で組み立てる。それが愛すべきものであるならば、彼女もきっと、埋没してくれるから。どうかそうであれ。

「……でも、」
「はい?」
「でも……悠さんって、呼んでも、いい、ですか……?」

 私はもう考えない。どうして白井さんはそんなことを聞くのだろうなんてことを、私はもう、考えない。意味がないことだからだ。
 不幸であるがゆえに、生まれた時から今まで二十年間ついていなかったがゆえに、私は私の失態を笑って許してくれる人がいるのも知っていたし、最後まで私のことを責任もって可哀相がってくれる人など一人もいないことだって知っていた。でも誰が悪いというわけでもないのだ、それは。誰だって誰かを助けてくれるほどひまじゃない。私だってそう。目の前で痛んでいる人がいればそれは手を伸ばすけれども、その人の明日や明後日や昨日なんて知ったこっちゃない。知る由もない。白井さんの家庭環境も知らない私は、彼女がこの後家に帰ってからのことを知らないし知ることもできない。そういうものだ。
 思うに、ひどいことがそこらじゅうごろごろしている中を一日一日歩いていくために忘れてはいけない大切なことのうちには、きっとこういうのが含まれている。つまりそうだ、人はいい意味でも、悪い意味でも、他人のことを、そんなに気にしちゃいないのだ。それを忘れると、またひどいことに躓いてしまう。誰も助けてくれないなんて勘違いから生まれた寂しさの中に、立ち尽くすことになる。そもそも誰かが手を伸ばしてくれるって、期待するほうが間違っているのに。もしかしたら彼女は私の話を聞いてくれるかもしれないだなんて、男女の分け隔てをしないタイプの人かもしれないだなんて、ひどくて勝手な思い込みだというのに。花が咲くことを期待して水ばかりを与えたところで、きっとただ腐るだけ。だから、はやく、はやく、捨ててしまわないと。

「そりゃあもう。白い女神さまのお頼みを、どうして断ることができましょう……なんて。じゃ、お疲れ様です」

 だけど私は、それがうまくできない私の弱さも知っていたから、必死にそれを突き放そうと、おどけた仕草で肩を竦めて、あくまでも真っ直ぐと踵を返す。
 傷つくのが怖いなら、見放されるのが怖いなら、期待してはいけない。望んではいけない。押しつけてはいけない。そもそも誰も、お前のことなんて見てはいない。

 だから、あなたが好きですなんてことを、考えるのはやめてしまえ。



 といったようなことの顛末があった以上、自分にも白井さんにも最大限の言い訳をどうにかしておいたのだとしても、暫くはある程度の距離を置いた方がいいのは確かなことで、安全を考慮した結果、それまで無遅刻無欠席だったゼミにすら二ペケがついた。もっとも天城教授は出席よりも課題の方を重視するというか、とりあえず生きていて何かを成しているということさえわかれば後のことは本当にどうでもいいというお方だったので、単位との別れを惜しむことは、今のところないままで済みそうだ。研究室に足を運ばず課題を片付けることには多少の不便をおぼえはしたが、不可能ではなかったので良しとする。新歓も終えていたし季節一つ分の付き合いもあったから、同じゼミ生からちらほらと連絡が来ないでもなかったが、適切な返信をすればそれ以上言及されることはなかった。だからといって忙しいかれらが不義理だなんてことはひとつもない。
 二週間もすればほとぼりも冷めるであろうというか、そもそもこれだけの時間が必要であったかどうかも白井さんの中での私というものを考えてみるに怪しいことであって、その気の払い方ですらなかなかの自己肥大を感じさせる、苦笑モノのイタい私だった。そう思うと、十四日と少しというその期間は、どちらかといえば私にとって必要だったものなのかもしれない。イタい私というのは考えれば考えるほど膨れ上がっていくもので、そういうものだから、まあどうでもいいか、と言えるだけの時間と余裕が、私には必要だったのだ。弱いこと自体は否定されたり糾弾されたりするものではないのだとしても、それは弱さを言い訳にして良いということとは違う。理解しているなら、それだけの対策を講じなければ。自分の始末は、自分でつけなければ。
 ともあれそうして過ごした時間のあとに研究室を訪れた私は、やはりこれといった変化のない挨拶を受け、これといって変わりのないポジションに陣取って相変わらず映像編集ソフトを弄繰り回している高畠さんから見つかって、相変わらず嫌な予感を滲ませる笑みで声を掛けられるのだった。いやまあ、そう毎度毎度あの恐ろしいモデルの仕事を押し付けてくるはずはないのだけれど。とりあえず次に飯奢るって言われても絶対ついて行かないようにしようと決めているけれど。

「おお。なんか久々だな、鷹野」
「どもっす、高畠さん。いやちょっと、自分探しの旅に出てました」
「うわぁ……えー……うわぁ……」
「別に大事なことじゃないんだから二回言わないでくださいよ。つーか可愛い後輩に久々に会った途端に明らかなイタ顔すんのやめてくださいよ」
「俺の知ってる可愛い後輩はそんなところに寝癖を引っさげたまま研究室にはこない」
「げ。え、どこです?」
「鏡見て来い鏡。そして可愛い後輩に戻ったら可愛い感じで作業を手伝え」
「可愛くないんで遠慮しますわ」

 やっぱり狙われていたのかということはさておき、さすがというかなんというか高畠さんは私が手鏡などという女子力の高いものを持ち合わせているわけがないとご存じであり、なんだかそうなるといっそ鞄から取り出してしずしずと寝癖を直してやりたい気にもなったが、ないものはないのだから仕方がない。というかそれ以前にそういう子は寝癖を引っさげたまま堂々と登校しないだろう。くそう、気楽すぎる引きこもり生活が裏目に出たか。普段から寝癖がひどい方というわけでもないのに、こういう時に限ってちゃっかりそういうことになるのも、やはり不幸体質の成せる業か。
 といって、研究室の隣にあるトイレへと足を運んだ私は、そのとき私の身に降りかかっていた不幸の内容が、人前に寝癖さらしたというだけでは終わっていなかったと知るのだ。

「わー、白井さん、そのリップ新しいやつ? なんか高級そう! さすが白井さんって感じだねえ」
「あ、いえ、この間挑戦してみたんです、初めてですよ、こういうのは」

 寝癖を直しにきたというアレな理由でトイレにやってきた結果、中から女子力の塊といっても過言ではない会話が聞こえてきたから、というのではなく、私の足はぴたりと入り口付近で止まった。
 化粧室と名前が付くからにはやはり洗面台があって鏡があるここで身なりを整える女子生徒がいるのは確かに自然なことではあるのだけれど、しかしよりによってこんなところでこんな人とだな、とまで思いついて、あまりにもいつも通りな状況にため息もつけない私だった。出てきた途端に会いたくない人に会うとは、なるほど、徹底してツイてない。極め付けには白井さんと今の今まで会話していたらしい研究室の先輩が、私と入れ替わりに出ていくことで、白井さんの視線が入口で立っていた私に刺さったのだから、もう逃げられない。
 結局私は諦めて、亀の子のように首を縮めて会釈をし、口元に我ながら情けない笑みを浮かべて、鏡の前へと寄っていった。出来るだけ距離を空けたい気持ちはやまやまだが、小さい洗面台がしかも三つしか並んでいないここでは、たいした悪あがきもできそうにない。いやいやしかし、自己肥大はやめようと決心してきたではないか。白井さんが何かを気にしているだなんてことはないはずなのだし、とどうにか並べ立てて、どうやら後頭部に残っていたらしい寝癖を水で整える。

「久しぶり、ですね、悠さん」
「えっ、と……そ、そうですねー!」
「元気にしていましたか? 風邪でも引かれていたんじゃないかと、心配だったんですが……連絡しようにも、悠さんの連絡先を知っている人に、ほとんど会えなくて」

 なるほど、だからゼミ外で同じ授業を取っている友人たちにノートを見せてくれるようにお願いしても、軒並み曖昧な微笑みで誤魔化されたのか。連中まで揃って巻き込み私と白井さんの接点を失くそうとしてくるあたり、私のツイていない具合もなかなかのものだ。しかもこの場合はいっそ都合がいい。ただし単位は落ちる。くそう。
 それにしてもこのひとときたらいっそ罪作りであるなと思いつつ、二つ隣の洗面台で件のリップを手にしているらしい白井さんの方に、ふと目をやる。なるほどなんだか、見るからに高級そうだ。ものの違いがわかるというにはものを知らなさすぎる私にもそれが理解できたということは、一見して目につく特徴があったからで、それはスティックタイプではなく指にとって塗るタイプだった。それをリップクリームではなくリップバームと呼ぶことすら私は知らなかったが、十円玉くらいのサイズのケースは純白で、茶色い蓋に金文字が躍っていたようだが、なんと書いてあるかはここからだとわからないが、先の先輩が仰っていた通り、なんだか高そうである、ということくらいはわかる。
 白井さんはそういうのを使う人だったのだろうか、納得できるような、意外のような。

「……あの?」
「へっ!? あ、ああ、いや、すいません、なんでも」

 ほんの一瞬、目が、合ってしまって。慌てて鏡の方に目線を戻したが、視界から完全に外れたわけではなかった、というのが、よくなかったのだろう。
 本当に良くなかった。白井さんは少しの間こっちを見ていたようだったが、すぐに視線を手元に戻して、細い中でもとくべつ繊細に見える小指の先で、乳白色のそれをちょっと掬い取る。そうして、鏡に目を向けた。
 丁寧な手つきで、クリームを薄く広げて。つやつやとなめらかな光が、ゆっくりと白井さんの優美な曲線を描く唇の上、描かれていく。軽くマッサージをするように塗っているらしく、わずかな力が押し当てられた唇は、そのたびにみずみずしく沈んでは、圧し返す。上唇の端から、ちいさな桜色が縁をなぞって。ふに、と軽くくちづけるように、下唇へ。
 見つめたことがなかったかと言われたら、嘘になるけれど。でもそのときのそれはなにかもっと、もっとおかしいくらいの熱を孕んだ視線だったと思う、視界の隅に捉えていただけなのにもかかわらず、私の全身のベクトルはいっそ真摯なほどにその一点に集中されていた。塗り終わったらしい白井さんがケースの蓋を閉める音が、やけにひりひりと耳に染みる。こくりと、なにか、なにかすごく熱いかたまりが、喉を、下りていく。
 そんなことしてないでそろそろちゃんと息をしろって爆音を鳴らす心臓が責め立てるけれど、無理難題もいいとこだった。仕上げのように鏡を覗き込んだ彼女が、一度、自分の唇どうしを、食むようにあわせて。ふるん、と、薄く光るそれが、揺れる、揺れる。身体の中の時間が変だ。だって白井さんがこっちを振り向くの、こんなにゆっくりのはずがない、から――。

「……悠、さん、」
「っ!!」

 あるわけないのに、白井さんが一歩こちらに近づいてきたそのとき、クリームの、しっとりとした柑橘の匂いが、鼻をくすぐったような気がした。
 だから私はそれから逃げ出すように、固まっていた足がぎしりと軋むのも構わず後ずさったのだ。名前以上に私を呼ぶみたく光る唇から目が逃げられなかったから、せめて、身体だけでも。そして私のその行動は、後のことを考えれば、それなりに正しかったということになるだろう。外を歩けば棒に当たると名のある私の足の踵が、当然のようにトイレの床の上で華麗に滑ったときは、とてもそんなふうには思えなかったが。本当にいつも通りに、あっツイてない、ツイてないよ私、と思ったくらいだが。

「うあっと!?」
「わ、だい……きゃあっ!?」

 悲鳴が上がった、二つ上がった。
 まさかここで思わず倒れ込んだ方向が白井さんのいる方向で、気が付けば押し倒す体勢になってしまっていてここから手垢にまみれたドキドキ展開、ただしかなり不衛生、だなんてものが待っているとは不幸体質であるがゆえにまったく思えなかったが、しかし若干頭を掠めたと言われれば言い訳できない私のよこしまな願望は、かなり意外な方向から叶ったといえなくもないのかもしれない。
 なぜって滑ってバランスを崩した私の手は狙い澄ましたかのような手刀を水道の蛇口へと叩き落とし、「不幸なことに」古くなっていたらしい蛇口はそれはもういい音を立てて外れ、結果勢いよく噴き出した水は私も白井さんもそしてトイレの床も壁も、すべて平等に惨状へと巻き込んでくれたのだから。いや何が言いたいってそれはほらあなたなんていうか、今、夏じゃないですか。青い空、白い雲、白い女神、白いワンピース、の下の、薄紫色の、

「わああああ!! すっ、すいません!!」

 いや、落ちつけ、私。


 しかしまあ何度か思っていることではあるが、一口にツイていないといっても意味は広範にわたるわけで、会って話をしたいけれども顔を合わせるのはちょっと気まずいような気もするという矛盾した願望に対し、この付きまとう不幸は果たしてどのように対抗してきたのかといえば、端的に言うと全部盛りできた。つまり、顔を合わせるだけは合わせさせておいて、気まずい思いをたっぷり味わったあげく、まともな会話はまったくさせてもらえずにツイてないとしか言えない事柄が起きてその場を立ち去る羽目になるという、神も仏もあったものではない展開を何度も味わった。ケーキも納豆も好きだけど納豆ケーキはちょっとないみたいなことになっていた。もはや私の不幸体質の対応力がすごいことになっている気のする最近である。
 そうして、今までにはなかった授業でばったりやら研究室でばったりやら寧ろ着替えにばったりやらというばったり五段活用くらいは味わい、精神的に疲弊の一途を辿った結果、どうにか立て直しを図ってTSUTAYAに通い引きこもり体勢を整えていた私のもとに、ある日一通のメールが届いた。誰かと思えば同じゼミに属する友人の一人からで、授業で小テストが行われる時ですら連絡をくれなかった彼は、しかしなぜだかその日だけは這ってでも研究室に来いとの旨を寄越してきたのだ。来ないと一生後悔するぞという脅しじみた文面が躍っていたわりに理由が明記されていなかったので、そこについて質問してはみたのだが、とにかく来いの一点張りで、まったく話を聞いてくれそうにない。
 嘆息しつつ渋々家を出て研究室まで辿り着いてみれば、相変わらず異様な、だがどこか居心地のいい雰囲気の蔓延している我らが第三研究室棟五二二の中は、ちょっとしたお祭り騒ぎの様相を呈していた。

「ちわーっす……あれ、いったい何が……?」
「おお、鷹野!! おいお前、わざわざ呼んでやった俺に感謝しろよ、アイスとか奢れよ! ガリガリ君リッチとか奢れよ!」
「ソーダで我慢してろよ貧乏学生。なにこの騒ぎ?」
「なにって、白い女神さまだよ。お前ファンだったろ」

 さらりと人の痛いところを突いてくれた彼はそんなこと知る由もなく道を空けてくれて、目に飛び込んできたのは騒ぎの中心、白い女神。小柄な方である彼女の状態をそう明確に見られたわけではなかったが、それでも状況理解には十分だった。十分だった、ので、鞄を手から落とした。あっ今なにかペキンっていった絶対いった、なにか割れたなこれ。と頭の隅では考えつつも、目はもはや淡い神気通り越してまばゆい光を放っていると言っても過言ではない白井さんに五寸釘あたりで釘付けになったままなのだから、どうしようもない。

「それにしても珍しいよねー、女神がそういう服って。いつもなんていうか、清楚系? だったし」
「んーでもこうして見るとそれももったいなかったかもね、女神足めっちゃキレイだよ。これ国宝級だよ。もっとこういう系どんどん着ていってもいいんじゃない?」
「そ、そうでしょうか……偶然見かけて、安かったので、買ってみたんですけど」
「いいじゃんいいじゃん、もっといっちゃいなよ! ね、高畠もそう思うでしょ?」
「ん? ああ、そうだな、エロいな」
「最低だよあんたは!」
「おお、居たのか鷹野」

 いかん、思わず突っ込んでしまった。図星をつかれると人間焦ってしまうというか、いや別に高畠さんは私の心の中を読んだってわけではないのだろうけれども、いやなんていうか、その、すいません、私もそう思います。ああ、白い女神よ、あなたはいったいどのような紆余曲折を経て、そのように短いスカートなぞ身に着けようとお考えになったのでしょうか。ある意味祈るような口調が頭を掠めるくらいには、神聖な光景だった。神聖で艶めかしかった。どっちだ。どっちもだよ背徳だよ!
 膝よりも上を今まで白日の下に晒したことがないのではないか、と噂される白井さんがその日にしていた格好はといえば、私をそんな戸惑いに突き落とすには十分なもので、つまり、つまりだ、黒のフリルミニスカートから覗く張りのある太腿のまぶしさときたら、なかったのだ。神々しいとはまさにこのことで、呼び出してくれた彼などもはや拝み始める勢いである。いや君、いったいいつの間に白い女神信仰に入信したのかね。私が買ってきたカタログを見せてやったのが良くなかったのだろうか、などと人の心配をしている場合でもない。

「あ、悠さん! ちょうどよかった」
「へっ? え、あ、わ、私ですか」
「はい。あの、喉渇いてませんか? 良かったら、生協まで行きませんか?」
「あ、ああ、そういえば一人にガリガリ君ソーダを買ってやらないといけない用事が……」
「そうですか! なら、行きましょう、いっしょに」

 結局奢ってやるあたり私もなかなか単純ではあるというか、いや待て、いったいどうしてこの人数が白井さんを囲んでいるというのに私だけが連れ出されなければならないのだろう。一番出入り口に近いところにいたからなのでしょうか、そうなのでしょうか。緩やかな目で見守られているような気がするのは、いったいどういうことなのでしょうか。私の頭を掠めたいくつかのことたちは、しかしてってっと目の前で無邪気に揺れる栗色ボブカットを追いかけていく道の途中に、落っこちていってしまって。いっしょに、という、言葉が、なんだかとてもあたたかに、響いて。
 エレベーターで一階まで降りて、研究棟を出るまで、白井さんは終始何も言わなかった。ので、私から話しかけることもしなかった。口を動かしていない時、それ以外の機能は思っているよりもずっと鋭敏に働く。そばを歩くというのがどういうことなのかを、はっきりと、思い知らされる。二の腕あたりをやわらかにくすぐる気配であるとか。仄かに散っては掴みどころなく空気に溶けてゆく、なんとなく甘い香りだとか。足音、だとか。

「……あれ?」
「あ……気が付きました?」

 そういえば足音が硬質だな、と思わず視線を落とせば、白井さんはすぐに気が付いて、ちょっと肩をすくめてみせた。はにかんだときの、仕草だ。自動ドアを出た途端に、全身に絡み付いてくる夏の空気を浴びながら。見慣れないミニスカートのその先、靴を脱いであがる研究室では気が付かれなかったらしい、彼女に関するちいさな変化、もう一つ。でも身長は届かなかったですね、と小声でちょっとだけつまらなそうに付け足した彼女の、少し高めのピンヒール。
 ああ、そうか、目線が、近くなるのか。生協までの道を辿りながら、あたりまえといえばあたりまえなことを、だけどあたりまえじゃないみたいに、ひとつひとつ抱きとめるみたいに、考えた。道の脇に立ち並ぶ木の、葉の隙間から射しこむ陽光が、ちらちらと白井さんの栗色の髪の上で、表情を変えていく。ミニスカートもピンヒールも、どっちにしたって慣れていないらしい白井さんは、スカートの裾をたまにくしゃくしゃと引っ張りながら、たまに足元をふらつかせるながら、でも決して私の隣と言っていい数十センチの範囲から出てしまうことなく、歩く。
 足音は、心臓の音と、よく似ている。だから、二つ分のそれと、呼応するように、私の鼓動は、早くなっていく。

「……似合わない、でしょうか?」
「あ、いやっ……えーっと、その……似合ってる、と、思います、すごく」

「よかった。」

 意味が、ないから。期待は、無駄だから。私はもう考えない、そんなままで、いられたなら、よかったのに。
 蝉ですらも元気を失くしてしまうほど外は暑くて、背中には早々にじっとりと汗が滲んでいたけれど、私の身体は末端から妙に冷え冷えとしはじめる。よかったってどういう意味ですか。どうしてそんなに嬉しそうにしているんですか。きっと何の意味もない、嬉しそうに見えるのは勘違いだ、わかってる、わかっているけれど。
 わかっているけれど、わかっているって押さえきれないことのほうが、心の中には多いものだから。私は思わず、足を止めた。

「っ、ひゃ……!」
「あ、」

 それがあまりに突然だったから、そして彼女は慣れない格好だったから、あっさりとバランスを崩した。そして今回は、逃げられなかった。逃げられない方が、ツイてないというにふさわしいからか。まったくもって、徹底してるよ、私の性質。
 もはや笑ってしまいそうになりながら、私は、倒れ込んできた彼女のことを、受け止めて。ちっちゃい体だなあと思う、冷たい手だなあと思う。抱きしめたら背中は薄いかなと思う、耳元で鳴るであろう声は優しいだろうなと思う、思う、だけ。

「ごっ、ごめんなさい、わたし……!」
「すいません、私、帰るんで」
「え……? あの、」

「ごめんなさい。早めに戻られた方がいいですよ、きっとみんな白井さんのこと、待ってますから」

 だってあなたにはみんながいて、そう、思うに、人は人が一人や二人いなくなってしまったところで、別段、どうということもない。
 あなたの目に私が映っているなんてことあるわけない、みんなの白い女神さま、あなたにとっての私とは、誰とでも代えがきくし、居ても居なくてもどちらでもいいものだし、言ってみれば「不幸にも」目の前に現れてしまった、小石みたいなものなのだし。
 だから別に躓く必要なんてないのですと、彼女が走るどころか歩けもしないことを知っていながら、私は背を向けて、全力で地を蹴った。数十秒もしないうちに息が切れることはわかっていたけれど、たったその時だけでもそうしなければならないと、全身が理解してくれていた。
 怖い。怖い。
 怖い。



「なにがそんなに怖いんだ、お前」
「……うわー」
「こら、この間人に出会い頭の表情をダメだししてきたお前がその顔とはどういうことだ、この野郎」
「野郎じゃないですし、っていうかなんでこんなとこにいるんですか、高畠さん……」
「まあ、いいだろそんなこと。上げろよ」
「やですよ、部屋散らかってんですから」
「あー、絶対お前は片付けられない女だと思ってたんだ。別にいいぞ、下着くらい見て見ぬふりしてやるから」
「高畠さんてナチュラルに変態ですよね」
「今更気が付いたのか」

 扉を閉めてやろうかとも思ったが、そんなことをしたら靴をねじ込んでやるぞと言われ。あなたはたちの悪い押し売りかなにかかと思いつつも、締めだすことができず。そういうわけで、逃げ帰ってきた私は、どういうわけか自分の部屋の玄関先にて、高畠さんと対面していた。率直に言って、酷い状況である。
 悩みを聞いてくれるなんて柄ではない人だったし、だいいちそんな気もないことは目に見えているのに、なぜか高畠さんは帰ろうともせず、黒いパーカのポケットに手を突っ込んだまま、扉に寄りかかってじっとこちらを見つめている。インターフォンを鳴らすと同時にドアノブをガチャつかせるという心臓に悪い訪れ方をしてくれた高畠さんは、開口一番白井のことだが、と人の傷を一刀両断してくれたのだが、私の反応を見た直後の反応が、以上のようなものだった。怖い、怖いですよ。そりゃ、だって。

「……代えが、きくじゃないですか」
「あん?」
「代えがきくじゃないですか、人間って。特に白井さんとか、人気だし。あっさり見放されるって、目に見えてるじゃないですか」
「……ふむ」
「だから、好きだなんて言ったって、意味、ないじゃないですか。」

 そしてその場合、白井さんには罪はない。人は人のことを、そんなに気にする必要はない。とにかく自分がちゃんと笑って前を向いて生きていくのに精いっぱいであることは、責められるべきことではない。だから期待してはいけないのだ、望んではいけないのだ、押し付けてはいけないのだ。私は私を、そんなふうに思ってしまっては、いけないのだ。
 だってきっと、わかってはいてもほんとにそうなったら、私は泣いてしまうから。いつものようにいつものように、かわいそうに、ツイてなかったね、で納得できる気がしない、生まれた時からそうだったもんね、で飲み込める気がしない、私はきっと大声で、心をぐしゃぐしゃにして泣いてしまう。傷つくってわかっていながら飛び込んで、わかっていたままそうなったって、私はきっと泣いてしまう。それくらいには、好き、だったから。
 だから、私は、私の「かけがえのなさ」を、信じてしまうのが怖いのだ。
 勘違いして、そんなことを思ってしまうのが、怖くて、怖くて、たまらないのだ。

 高畠さんは、暫く腕組みをして考え込むように目を閉じていたが、ふっと短く息をつくと、赤べこよろしく何度も頷き始めた。

「なるほど。なかなか面白い考え方をするやつだとは思っていたが、なるほど」
「はい、だから……って、あの、えっ? あのちょっと、痛い、痛い痛い痛い、手、手食い込んでますけど、高畠さん!?」
「なるほど、ということで一度お前の意見を聞いたので、俺は俺の意見を述べさせてもらうことにするぞ」

 しかし、どうやら納得してもらえたらしい、と思ったのもつかの間。いや、そもそも高畠さんを論で納得させようなどということを考えた私の方がばかだったのだ、白井さんのことで頭が混乱してなんてことを失念してしまったのだろう。あれよあれよという間に、サンダル片ちんばで外へと引っ張り出されながら、今更なことを後悔する。聞くだけ聞いたからってこの仕打ちである。実に――高畠さんらしい。
 そんな彼は、安い飯を奢ってくれては、ひとをわけのわからない撮影に炎天下のもと引っ張り込むような高畠さんは、いつものあくどい笑みを、にいっと浮かべる。

「あのな。恋愛ってのは、だいたいがとこ、勘違いだよ。つーか、人間どうしなんて、だいたいそんなもんだ。いいとこ切り取って、張りつけて、繋ぎ合わせて、勝手にいい意味付けたり、悪い意味付けたりして。でもとりあえず、形にしとくわけ」
「そんな……映像編集と、違うんですから」
「同じだよ。いいか、お前が考えているほど誰もお前のことを考えてないっていうけどな、その逆だってあるぞ。お前が考えているよりもずっと、他人はお前の事、考えてる」
「いや、でも……」
「現に俺は、お前のそういうめんどくさいとこが、好きだと思ってるよ」
「は……えっ、はっ?」

「だから、いいからとっとと行って――末永く、勘違いしてこい。」

 なんだかとんでもないことを飛礫のように言われた気がするのだけれど、こういう時に、いつの間にか染みついていた反射というのは、働くもので。
 私は、何度も何度も飯を奢られては彼の言うとおりによくわからないポーズをとり、よくわからない歩き方をし、たまに泳いだりなどもしていた私は、いつの間にか彼の命令に逆らえない性質を身に着けていたらしく、つまり、気が付けば、走り出していた。高畠さんがなんだか馬鹿笑いをしているのを背中に聞きながら、一路、走っていた。
 今度は私があの人に、何かを奢ったほうがいいのかもしれない。ほんとの鰻丼を食べるいい機会かな、などということを、考えながら。


 とか言ってツイてないの真髄をここで発揮して実は研究室にいませんでしたというオチが待っていないだろうかとはらはらしたが、はたして白井さんはそこにいた。そこにいた、が、その、なんというか、いたけど、いなかったとき以上の焦りを感じる羽目になった、私は。いやだって、まさか――まさか、あの白い女神さまが、ソファに腰かけて足にへたくそなテーピング施しながら、可愛い顔くっしゃくしゃにして泣いてるだなんて、思わないじゃあないか!
 奇声を発しそうになったのはどうにか飲み込めたからいいとしても、気配まで消せたなんてことはさすがになくて、つまり白井さんのたっぷり潤んだ瞳は、たとえようもないほどしっかりと私のことを捉えて離さなかったのだ。サンダル片ちんばで、髪とかくしゃくしゃで、服もぶっちゃけると部屋着そのままに近いような、私のことを。

「しっ……し、しら、い、さん、あの、泣いて、」
「悠さん」
「は、はいっ?」

「あなたに、触れてほしくて、少し高いリップを、買いました」

 そうして、すん、と鼻をすすった白井さんは立ち上がって、どうやら先刻のでまた捻ってしまったらしい足をひょこひょこさせながら、こっちに向かって、歩いてくる。

「あなたに見てほしくて、似合わないかもしれないけれど、短いスカートを、はきました」
「……え、と、あの」
「あなたに届きたくて、上手に歩けもしないような、高いピンヒールを、選びました」

 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、たったひとり、「あなたの」ために。
 白井さんの最後の一歩がふらついてしまったのは、きっと誰か、そう。ほんとにいるのだとしたら、ただただ気まぐれでいじわるなかみさまってやつが、私にまたもや送り付けてきた、ツイてないこと。
 だってそれだから、白井さんの、細っこくて、しっとりとあたたかな身体を、みんなが大好きな柔らかい雰囲気ごと抱きとめてしまったから。

「だめ、でしょうか」
「っ、え、あ、」
「どうか――わたしを、見て、もらえないでしょうか?」

 だから、ああ、勘違いが、とまらない。
 あなたが好きで、あなたを好きな私のことを、あなたも好きで。
 そんな、幸せで、ごくごくありふれたばかばかしい奇跡のような勘違いが、あふれてあふれて、とまらない。
 
「……ごめんなさい、白井さん。ごめんなさい、言っちゃい、ます」
「はい……?」

「あなたが、好きです」

 淡い柑橘の匂いがした、あのとき想像したよりもずっとずっとそれは柔らかで、儚くて、すぐになくなってしまいそうな感触だった。
 でもきっと私はそれを、どんな言い訳を使ったって、手放すことができないのだ。ほんのわずかな間重ねあわせて、離れた途端に濡れた瞳と目が合ったときに、心の奥からやってきたふるえみたいに、いっしょにくすくす笑ってしまったこと。それと同じくらい、自然に。もうなにも手放せなくなる、私はあなたを望んでしまう、自分勝手に期待して、あなたもそうであれと押し付けてしまう。それはひどいことでしょうか、きっと、そうだったのでしょう。そんなことを、思いっきり屈んで額どうしをくっつけたまま、くすくす笑いながら、考えた。
 彼女も背伸びしようとしていたのはわかったけれど、それを押し留めて、ソファに戻ってもらった。一応少し前にお手本を見せたとは思えないほどに彼女のテーピングはとんでもなくって、これはもしや白い女神さまの珍しい弱点なのではと思えたほどだったからだ。また申し訳なさそうにするだろうかと思っていたら、暫く考えるような仕草を見せた白井さんはソファにぽんと腰掛けながらこっちを見上げて、極上の笑顔と言っても差支えないものを浮かべて、言った。

「それで背伸びできるようになったら、今度は……その、わたしからしても、いいですか?」

 あれ、女神じゃなくて小悪魔がいるぞ、おかしいな。




〜あとがき〜
Pixivで行われました企画「百合でキス22箇所」に投稿させていただいた作品でした。ちなみにわたしのお題は「爪先・崇拝」でした!
女の子の、「かわいくなりたい」とか「もっと好きになってほしい」っていう気持ちは、なんていうかキラキラしてていいなあって思っていまして、
それだから白井さんには変身(?)してもらったんですけど、もうそれ系統の知識が私の方に本当にないので(汗)、う、うむ。
いやしかし、実際に見せてもらったりもしたんですけど、やっぱりキラキラしてますねー、リップクリームとか、ミュールとか。フフフ……。
なんだろう、がっつりお化粧とかは実はちょっとした個人的トラウマのせいで若干苦手なんですが、こう、少しの背伸び、みたいなものたちはかわいくて好きです。

わたしをかけがえのないわたしにして。
なんか、そんな感じで。

柊でした。

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