「ちくしょう、だまされた。」



 それは思うに手紙と呼ぶにはあまりにも冷淡であったし、案内と呼ぶにはあまりにも粗雑であったろう。
 私をしてそう思わせたのは、送り主である旭の字が変わらず汚いままであったことももちろんあったのだろうけれど――彼女が唯一懐いていたところの祖母から名付けてもらったというので、彼女にとってもある程度思い入れのあるであろう名前の「旭」の漢字ですら、その「日」が上手に乗っかっているところを私は見たことがなかったのだ――ただただ、内容がたった一文しか無かったから、というのが最たるものだった。

「……、え」
 一文、たった一文。そこには、"結婚します"、と、書いてあった。


 物心つく前から親のつてで私と旭は知り合いで、字を覚える前から悪戦苦闘していたことも知っていた。でもそれはあまりにも昔のことになってしまったというのに。そうだというのに、旭の文字は何ら変わらないような、時間の流れを感じさせないような感覚を、私に与えてしまう。まるで何事もなかったかのように。
 忘れかけていたことが一気に蘇ってくる。どうしたってへんとつくりのバランスが保てないのだ、旭は。でもやっぱり、どうあってもやっぱり、私がそんなことを言っては旭を怒らせてしまっていたのはもう二年以上も前のことで、それきり私は彼女の字どころか後ろ姿すら見る機会を得ず、得ようともして来なかったというのに。そうだと、いうのに。
 言葉というのは当然ながら、定量的に測れるものではない。書かれていたのが便箋の中心を埋めるのにも満たないような文字数であったとしても、それは私の足をつき動かすに足りた。足りすぎた。きっと彼女自身も、旭も、そのことをわかっていたに違いない。だからこんな。電車が完全に停止する寸前、私は部屋着の上から羽織っただけのジャンパーのポケットの中で、その便箋を握りしめた。
 宛名を見たときの驚愕ですらうまく伝えられる自信がない。内容についてはもっと。そんなふうに迷いに迷っている中で、足だけが素直だった。
「でも、なんで、こんな」
 疑問に答えてくれる人はいない。ため息のような音と共に開いた電車のドアから、転がるように飛び出す。走る。走る。走る。女子サッカーのスポーツ推薦で大学へ行った私の体力が人並み以上であることは間違いなかったとして、それでも膝のあたりを泡立つような疲労が襲う。気がつけば家を出たっきり私は走りっ放しだった。
 ただその疲労感にすら私はどこか懐かしいものを覚え始めていて、思うに、もうその時には私の時計はすっかりと針を戻していたのだろう。懐かしい、という甘やかないたみで包まれた感情が、足から脳天まで突き抜けていく。私がどんなにそれを忌避していたとしても。私がどんなにそれを、恐怖していたとしても。
 私は思い出してしまうのだ、この道、この坂、あの街頭。道端から顔を覗かせる、背の高い雑草。
 私が旭と、歩いた道。


 旭の家までは電車を出てから三十分ほど長い長い坂を登らねばならず、自己の浪費を何より嫌う――身も蓋もない言い方をすればわがままなのだが、旭自身はどちらの言葉でも涼しい顔をして受け入れていた。そんな細かな言語に拘ることすら、彼女にとっては浪費だったから――旭が中学から高校までの六年もの間この坂と付き合い続けたことは、なかなかの驚嘆に値する、と彼女を知る人は言う。
 ただそこにちょっとした齟齬が生じていることを知っているのは、私だけ。私にとってそれは齟齬ではなく普通のことだったから、あまりにも普通のことだったから、とくに他人に話すこともしなかったのだろう。つまりそれだけ私にとっては、帰り道でも何でもないこの坂を旭に毎日付き合って登り、家に着くまで彼女の荷物をもってやることは、平素のことになってしまっていたのだ。今ではその異常性に気が付ける。それが、ほんとうはとても、幸せだった事にも。
 おかげで体力がついたんだよなあ、体力だけだけど。ああ、そういえば、旭は勉強家だったから細い腕からは考えられないような重たい鞄を毎日持ってきていて、よくそれで、だから小さいままなのだとからかわれていたっけか。可愛がられていることがいたく気に食わないらしい旭は、自分の成長ばかりが止まるのはおかしい、ひよりも停止して然るべきだ、とよく理不尽な事を言い返していたし、確かに私は反発でもしたかのようにめきめきと背ばかり高くなったけれど。
 でも私が旭を本当に追い越したことなんて、きっと一度だってなかった。どんなに背が高かろうが、どんなにそれでコンパス差が生まれようが、どんなに私の持たされる荷物が重たかろうが、ただの、一度だって。
「……あさ、ひ」
「久しぶりね、ひより」 
 旭は、彼女はいつだって、私の三メートル前から私を見下ろしていたから。
 たとえば、こんなふうに。

「そのジャンパー、似合わないわ。」

 いらいらしたように、空気をさっと一撫でするように――ぞっとするほど私の記憶のままに、彼女は、笑った。


「ほんとに、久しぶりね。二年、いえ、もうすぐ三年かしら? 少し痩せたわね、ひより。いいえ、というか……そう、そう、スレンダーになった、かしら。余計な肉なんてつかないんでしょうね、今のあなたの生活では」
 あ、どうしよう、機嫌が悪い。反射的にそう気づいてしまう私も私だが、彼女の妙な饒舌さが不機嫌と直結していることは、残念ながら紛れもない事実であった。私が言うんだから間違いないなんていうのは、もう馬鹿馬鹿しい話だけれど。彼女の機嫌を伺うことにかけては一家言あったと自負しているが、彼女の機嫌を損ねることに関しても同様のことが言えるので、結局鶏と卵の関係なのかもしれない。
 旭は細い肩にひっかけたカーディガンを直していた。指先が真っ赤に染まっている。今日はとても寒くて、旭は小さなころから寒いのが苦手だった。そうなると小柄な彼女にとってのっぽの私が着ていたロングコートは、格好の風よけ場所であって。もっとしっかり役目を果たせと腕を引っ張られたっけ。あの同じ色をした指先で。
 どうしてその温度なんて、覚えているのだろう。もう、なにもかも、
「……なに、黙りこくっちゃって、ひより」
「う、うん……その、旭は……変わらない、ね?」
「今あなた、わたしのどこを見てそう言ったのかしら」
「へっ? あ、え、ええっと」
「返答次第では坂から突き落とすわ」
「なっ、なんでもないっ! お、大人になった、そう、いやぁ大人になったよ、見違えちゃったなぁ、旭!」
「どうしても壊したくないものがあるならその辺りに置いていきなさい。突き落としたあとで入念に踏みつぶしてあげるから」
「一分の隙もなく救いがないね!?」
「心配しなくても財布の中身くらい救いあげてあげるわよ」
「かすめとっての間違いじゃないかな多分!!」
「大丈夫よ、キャッシュカードの暗証番号は把握済みだから。よかったわね、あなたがコツコツ貯めてきたバイト代はちゃんと日の目を見るわ」
「そこじゃない!! もうどこから手をつけていいかわからないくらいそこじゃない、旭!!」
 それにしたって、まだ気にしてたんだ、背が低いこと。足が大きくなれば背も大きくなる説の信奉もまだ辞めていないらしく、サイズが合っていない靴でかぽかぽアスファルトを蹴る旭は、やっぱりいらついているように鋭い目をこちらに向けた。嘘、彼女は最初からずっとそうだったんだろう。私が今の今までまともに見返せなかっただけで。
「…………」
「……黙りがちね、ひより」
 そんな顔をされたら、まるでわたしがわるものみたいじゃない。昔みたいな会話は少しだけ続いて、でも少しだけだった。結局目線に押しつぶされるようにして、私の視界はアスファルトの上に這いつくばる。似合わないと旭がものの見事にのたまったジャンパーのポケットに、彼女と話さなくなってから買った服の中に、手を突っ込む。きっとそうして、逃げ道を探していた。
 似合わない、か、うん、私も、そう思うよ。
「二年以上、よ」
「……うん」
「うん、じゃないでしょう」
「っ、う」
 喉元から押しつぶしたような声が勝手に漏れた。
 他でもない彼女の手によるものだった。これだけの体格差、だなんて、そんなものに彼女が負けるはずもない。旭は何にも負けないし、絶対的に歪まない。だから彼女がひょろひょろと長いだけの私を締め上げるなんて、昔から簡単なことなのだ。
 動いたら、どうなるかわかっているでしょうね。声を出さずに旭は低く低く囁いて、瞬間的に引かれた襟が呼吸の道筋をあっけなく塞いだ。ゆさり、と頭が振られて、気が遠くなる一瞬前に息だけはつかせてもらえたが、咳き込む私に彼女はただ、続けた。底冷えするほどに綺麗な声だと思った。
「よくもまあ、長い間ほったらかしてくれたわね、ひより」
 そうだね、私は今までそうやっていろんなものを振り絞っては彼女から逃げ出してきた。間違いの、ないことだ。
 けれど息同士がぶつかるほど近くまで躊躇いもなく距離を詰めてきた旭の、長くうつくしい睫に覆われたつめたい瞳と、懐かしすぎる温度で私の襟元を捻り上げてくる彼女の手から、もう逃げ出すことなど、できるはずもない。そうだとしたら、私が言えるのはもう、たった一言。向き合うしかない。向き合って曝け出すしかない。このひどい、私のことを。
「ごめん」
 眇めた瞳を青白い月明りに照らされる旭は、とても、とても、綺麗だった。

 
「ごめんなさい、旭。私、旭に、ひどいこと」
「どっちかっていうと、ひどいことなったのは新田の方だったけどね」
 満足したのか私をぱっと介抱した旭は、どうでもいいことのように軽い口調でそれだけ添えた。実際その通りだったので、私は何も言い返せなくなる。でも旭にだってなにがしかの迷惑をかけた。だってあれきり――あんなに足繁く彼女の下を訪れていた男子生徒たちは、めっきりとその姿を消してしまっていたのだから。
「そうね。確かにあの後、休み時間と移動中がとても静かになったわ」
「……ごめん」
 もともと綺麗な子だというのもあるけれど、態度はやたらと尊大なのに体格上誰からも見下ろされ、結果的に愛玩的な意味で旭のことを可愛がる人間は男子含め多かった。そして旭自身もそれをある程度気に入っていた、と、思う。そのように見えた。
 ともかく彼女の態度からすればまったくの無視という手厳しいあしらい方も考えられないではないのに、彼女は絶対にそれをしなかったのだ。どこか律儀に見えるくらいに、相手が誰であろうときちんと掛け合いに応じてやっていたし、スキンシップも取っていたと思う。もっとも、もともと彼女は寂しがりなところがあるから、私がそれを特に不思議に思うことはなかったのだけれ、ど――。
「いてててててててっ! い、痛い、痛い旭、さすがに真冬に雑巾絞りは辛い、しかも罰の方法がちょっと懐かしい!!」
「ババチョップでも良かったのだけれど」
「鞄から出した分厚い辞書はしまってください……旭、大学ではドイツ語勉強してるんだね……」
「おーまーけーのーブールードーッグー」
「いひゃいいひゃいいひゃい!! ふぁ、ち、ちぎれた、今確実に頬のどこかがぶちって言った……ちょっと鉄の味がするよ……!」
「あなたの人生はいつも辛酸味だからいいじゃない」
「舐めるまでもなくそのものがなの!? 逃げ場はないの!?」
「逃げたじゃない。――寂しがり、と言っておきながら、あなた、逃げたじゃない」
「あ……」
 最後にしっぺが飛んできた。デコピンはなかった。期待外れというわけではないけれど、彼女の表情は予想外だった。風に削れてしまいそうな横顔が、妙に胸の奥をざわざわさせる。旭の頬のラインは、こんなにもすっとしていただろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら手を伸ばしかけたら、払われた。当然のことだった。ぱしんという威勢のいい音が、冬の夜に木霊する。
 好意も悪意もベクトルである以上、二つは割合簡単に転換する。彼女の場合もそれによって引き起こされた不幸な出来事、と言ってしまえばそれまでだろう。他人の解釈一つ一つにまで責任など持てるものかといくら旭が言ったところで、新田達志にとってはすべてが特別であったし、そうでない振る舞いを彼女がするのが許せなかった。
 良くある話だ。本当に、良くある話。それで彼が不満を爆発させて、憎しみに転換させたところまでも、良くある話。どこか病的に細くて小さな体に容赦なく掴みかかっていく彼の様子や形相といったものは明らかに異常を呈していたけれど、むき出しの感情なんてものはみんな異常を孕んでいる。それは、彼も、私も、同じこと。
「まあ、確かに、英雄的に立ち去るには足る、いいパンチだったわ」
「……殴った私の手の方が、肉体的な被害は甚大だったと思うけどね」
「精神的な被害が甚大だったのは、明らかに新田の方よ。わたしの付随物でしかなかったようなでかいだけの女に、公衆の面前で吹っ飛ばされたんだから。仮にも彼、運動部よ? 何部だかは忘れたけど」
「酷い言われようだなあ、私……そして覚えてあげてないんだね、部活」
 そもそも人を殴るのなんて慣れていないどころか初めてだったし、だからこそ、あの時何を考えるまでもなく自分が身体を動かしてしまったことが、未だに私には信じられなかった。夏になれば蚊くらいは殺すけれど、どちらかといえば軟弱なほうである私が他人に拳を振るうなどとは予想もつかなかっただろうから、ひょっとすると鼻血を噴いていた時点での新田だって、信じていなかったのかもしれない。
 ただ信じられなかったのはそれまでというわけではなかった、どころか、それからですらあったのだろう。自分の"友人"に掴みかかってきた男子を、殴り飛ばした。そこまでは、まあなんとか、いいってことにできた、かも、しれないのに。
「渡さない」
「う」
「あんたなんかに、私の旭は、渡さない、絶対に」
「うう、う」
「あなたにも、あんな人を憎みきった声って出せるのね? ちょっとぞくぞくしたって有名よ」
「ううううう……」
 頭を抱える。正直言って頭が真っ赤だか真っ白だかになっていた私は、自分が何を言ったかなどほとんど理解していなかったけれど、あれだけ派手に殴り飛ばしておいて――椅子や机もいくつか弾き飛ぶ勢いだった、と友人は語る――教室の注目を集めない方がおかしかったのだ。だから彼女が歌うように、からかうように言った言葉には、あまりにも多くの証人が居た。
「で、それっきりね」
「……うん」
 それっきり。
 それっきり私は、旭の前から姿を消した。幸いにもと言えばいいのか、その一件が発生したのは卒業も間近に控えた頃のことであったから、もともと進学先を違えていた私たちがそうなるのはある種自然な流れですらあったのだし、難しいことではなかった。
 新田の側と学校が話をつけてこの件に関しては不問に処されたため、私のスポーツ推薦が揺らぐことはこれこそ幸いにして無く、何の苦も無く私たちは離れ離れになった。私がしたことと言えば、数日一緒に帰らなかっただけ。彼女の重たい鞄を、持ってやらなかっただけ。電車待ちの間に彼女のコートになる役を、放棄しただけ。切ってしまうのは結ぶよりずっと平易だった。当たり前のことだけど。
「よくもまあ、二年の間、逃げて隠れてしてくれたわね。一年ごとに新居に移るなんて、そんな行動力がひよりにあったとは思いもしなかったわ……道理でちっとも捕まらないと」
「……ごめん、なさい」
 二年かかった。二年かかってもできなかった。言えなかった。できることなら、このままであってほしかった。彼女からも記憶からも逃げて逃げてこのままで、もしかすると彼女の中でどこか綺麗な思い出になっているのではないかというエゴイズムに、どっぷりと溺れてしまえたなら。もう手遅れな話だけれど。
「ごめんなさい。旭は、私のものなんかじゃ、ないのに」
「…………」
「渡さない、なんて、おかしな話だよね……ほんと、こんなの……おかしい、よね」
 もう手遅れな話だった。そもそも最初からだったかもしれないけれど、ともかく私は破綻していた。破綻者で、そうでないうちにと逃げ出そうとして。最後の最後で、彼女を助けたっていうヒーローみたいな肩書きを背負って、綺麗な思い出になって、彼女の目の前から姿を消せたなら。二年以上も見続けた都合の良い夢は、しかし目を開けたままで終わる。
「ごめんなさい。旭のことが、好きでした、私」
 終わるのだから、終わったならもう、きちんと、向き合わなければ。
「結婚、するんだね。おめでとう、旭」
 旭ならきっと、いいお嫁さんになれるだろう。婚姻届くらいはきれいな字で書くんだよ、なんなら書き方帳を使ってもいいから名前の漢字を練習するんだよ。結婚式、遠くから見るくらいならかまわないかな。その名の通りにまぶしいくらい綺麗な君に、遠くから拍手を送りたいな、青空みたいなシャツを着て。こんな真っ黒のジャンパーじゃなくて、あの頃私が良く好んで着ていたような色の服を着て。
「……これだから、思い出は嫌いなのよ」
 彼女らしからぬくらい照れくさそうな笑顔で、ちょっと肩などすくめながらありがとう、なんて反応を期待、いや確信していた私に返ってきたのは、そんな吐き捨てるような一言だった。


「……え?」
「思い出ってやつは時間が勝手にどんどん飾り立てていくのよ。ひよりにヒーローなんて絶対似合わないっていうのに。澄ました顔でかっこよくなるんじゃないわよ、忌々しい。吐き気すらおぼえるわ。そうよ、実際会ってみりゃこんなもんよ、所詮ひよわなひよりはひよわなひよりだわ」
「えっと……よ、よくわからない……よくわからないけど、なんだろう、すごく傷つく……」
「思い出は嫌い」
 ぴしゃりと言った旭は、また眼光鋭く私をねめつけた。なのに、どうしてだろう。そのときは、逃げたいと思わなかった。
 彼女の突き刺すような視線は、ひよわでぐらぐらする私の、脳天から足先までを真っ直ぐと、真っ直ぐと、貫いて。
「思い出は嫌い、大っ嫌い。背も高いし顔もいいのに性格がただの子犬だし、ひとがふりまきたくもない愛嬌ふりまいてるってのにやきもちの一つもまともに焼けないし、かと思ったら助けに来るだけ来て勝手に勘違いした挙句姿消すし、おまけに」
 突然言葉を切った彼女の手は私のジャンパーのポケットにぐいと押し込まれ、出てきたときに寒さに赤く染まった彼女の手には、確かにあの便箋が握られていた。封筒を破るような勢いでそれを開くと、ずいと私の前に突きつける。右上がりの癖が抜けない雑な字が、短いメッセージをもう一度ぶつけてくる。結婚します。
「未だに、わたしがどこの誰とも知らないような男のところにホイホイくっついていくと思ってるようなバカのことも――思い出の中なら、全部ただの美談になるわ」
「……え、と」
 話が、すこし、見えない。見えるのは、彼女の瞳だった。射抜くような、痛切に優しくひとを突き刺す、旭の瞳だった。私がずっと焦がれていた、彼女の瞳だった。
「だから、わたし、伊塚旭は、戸村ひよりと、結婚します」
「……っ、は、」
 旭は口元をいらいらと歪めて笑ったかと思うと、噛みつくような、いや実際歯を立てた、とても、とても痛いキスをしてきた。冷たいくちびるが彼女らしくて、それを考えるだに私の頭は真っ白になっていた。あなたが立ち尽くしているのって、まさに独活の大木って感じよね。旭の言葉は今日も私に突き刺さる。
 今日も明日も、昨日とずっと同じように、私に突き刺さる。

「悪いけど、かっこいい思い出になんて、してあげないわよ」

 これからもずっと、わたしのそばで、ひよわなままのあなたでいなさい。
 旭、そういうときは、"結婚しましょう"っていうんだよ――なんていうのは、まあ、蛇足になってしまうのかな。



「あー……ちくしょう、だまされた。」

inserted by FC2 system