その宝石には色がない




 作戦をとどこおりなく遂行するためには、障害に対してなるべく早く手を打っておくことが大切だ。そんなことは、あのベールにえらそうにサングラスの位置のひとつもなおしながら言われなくたって、自分はちゃんとしっている。だいたいマーモもそうだけれど、年寄りというのはどいつもこいつも自分だけがものをしっているような顔をして、それだけならまだしもそいつをひけらかしたがるっていうんだから、まったくもって手におえないのだ。
 だいたい二人とも階級はぼくとたいしてかわらないくせに、ちょっと年上だからってえらそうにえらそうに。どちらかというと、そうやってなにを言ってもかっかしやすいところを完全におもしろがられているとはあまり気がついていないイーラは、そうはいってもまだあどけないからだつきには不似合いなほどの大股で、ずんずんと基地内を闊歩し、ついにはえいっとばかりに外へと飛び出した。夜、家々の灯りがぽつぽつと消えはじめ、星のあかるさがはっきりとしはじめるころのことだった。
「まったく、なんでこんなことになっちまったんだ」
 足元にちりばめられた窓の明かりたちをふみつぶすように闇夜を飛ぶイーラは、噛み潰すようにつぶやく。どうにもこの世界の空気は、闇色にとざされていようがやたらとすがすがしく頬を撫でつけてくるものだから、悪態をつかずにはいられない。もっとしめっぽくて、じっとりと重たい空気のほうがいい。いい、いいって感覚は、実のところいまいちよくわからないけれど。でも、そういうふうな価値観を持っていたほうがいいのだ、ということは、イーラにもなんとなくわかる。だからイーラは晴れの夜が嫌いだ。高く澄んだ星空も嫌いだ。
 けれどもその嫌いななかに、いやがおうでも飛び出さなければならないだけの理由が、今のイーラにはあった。月の色とよく似た銀髪がめちゃくちゃになびくほどスピードを上げて、少年は夜を駆ける。これも作戦のためだ、しかたがない。だいたい、ただでさえここのところ失敗続きで、こっちの鬱憤も限界に達しているのだ。これ以上じゃまされると、たまったものではない。だから。
 目的地まではさほど時間がかからなかった。ぼくにかかればこんなものだ。下調べだってちゃんと事前に済ましておいたのさ、と誰がみているわけでもないのに満足そうに笑ったイーラは、そうして、いかにも今風に角ばった外装の家の二階で、ぴたりと止まった。
「……え?」 
 多分、たった今、眠ろうとしていたところだったのだろう。
 窓の明かりは消えていたが、その部屋の持ち主である少女は、窓際に沿って置かれたベッドで、大きく目を見開いていた。あともう少しで閉められるところであったろうカーテンの向こうで、彼女の瞳が、半分隠れた月明りをうける。むろんその光を遮っていたのは自分の身体であり、少女が眠るための最後の準備だったのであろう、はずした眼鏡をベッドに置くこともできず、ただただ驚いているのを見て、イーラは口の端をすこし吊り上げた。
「おい、キュアダイヤモンド!」
「は……っ、」
「今日こそは"それ"、わたしてもらうぞ!」
 そうして、窓枠に両足を乱暴について着地するやいなや、ガラスをひとつ隔てた部屋の中で愕然としている少女に向かって、言い放ったのだ。

 音をつかって攻撃するジコチューを生み出したことがある。ぞろぞろぞろぞろといったいどこから湧いて出てくるんだか、あのこしゃくなプリキュアが、ついには四人にまで増えてしまったときのことだ。その時の音波攻撃はあえなくキュアロゼッタによって阻まれてしまったのだけれど、ひょっとするとあのときロゼッタが現れていようがいまいが、結果はかわらなかったのではないだろうか。
「い……いやあああああああっ!!」
 と、いうことを耳鳴りのようにしみじみ考えてしまったのは、非常にわかりやすく言えば、少女の腹の底からの悲鳴という、ある意味での兵器を、そのときのイーラがまともにくらってしまったからに他ならない。
 耳をつんざくなんてものでは足りない、ものすごい叫び声を上げた。変身もしていないのにこの破壊力である。耳を塞ぐ手があと半拍遅れていたらいったいどうなっていたことやら、いや現時点でもけっこうどうにかなりそうなのだけれど。頭の中に針金でも突き刺してぐるんぐるん掻き混ぜたような衝撃が、じゅうぶんに襲ってきているのだけれど。
 しかして、イーラが金色の目をぱちぱちしばたかせながら耳鳴りに耐えているあいだに、どうやら向こうのほうは息切れを迎えてくれたらしい(やっとのことで!)。――が、イーラが安心できていたのもつかのまの話だった。
 彼女がふつうの女の子だったら、ここであと一度悲鳴のひとつでも上げながら、窓のカーテンを勢いよく閉めきってしまうところだったろう。でも彼女は、いくら変身していないとはいえ、いくら無防備きわまりない寝間着姿であるとはいえ、それでも伝説の戦士の器たる少女なのだ。当然のことながら、そんなお可愛らしいオチなど待ってはいなかった。
「え、ちょ」
 思わず焦った声を上げてしまった、のは、窓枠にしゃがみ込んでいた自分の目と鼻の先に、ぐいっと彼女の顔が近づいてきたからだ。
 先ほど悲鳴を上げたとは思えないほど強い煌めきを湛えた瞳がイーラを射ぬく。透明な壁ひとつでは、とてもではないがその力を削ることなんてできやしない。そうだ力だ。チカラ。こいつの、目には、なにか得体の知れない、なにか、ぼくを変に縫いつけてきやがる、みょうなチカラが、あって、
「えいっ!」
「うわっ!?」
 ふっと意識を遠のかせていたせいで、突如開け放たれた窓を避けようとして失敗し、イーラはその場でくるんと空中回転をきめることになってしまった。
 視界の上下がめちゃくちゃになる。空を飛ぶのは慣れているはずなのに、やっぱりみょうなことだった。そんなふうにどっちが上やら下やらわからなくなっているのに、ついに隔絶をなくした向こうから、あいつがこっちを見てるってことがやけにはっきりわかってしまうこともふくめて。ちくしょういったいなんなんだ、そのみょうなチカラは! 揺さぶられた脳味噌では、悪態をつくこともできやしない。
 だがイーラは、この時点で自分はもっとしっかりと中の様子を確認しておくべきだったと、この数秒後に後悔するはめになる。ああそうしたら、ここに留まっていたりなんかしないで、すぐにも逃げ去っていたっていうのに。
「ちょっ……お、おま、お前それ、」
「……っ」
 じわり。少女は開け放たれた窓の向こう、少年との距離を詰める。飛び込んできた夜風が彼女の長い髪をすこし巻き上げて、ともすれば深い藍の髪にかくれてしまいそうだった瞳が、イーラをもののみごとにその場に縫い付けた。どういうチカラかはちっともわからないのに、イーラはそれにあらがえない。そして少女の手には椅子。椅子である。彼女自身のものであろう、勉強机の椅子である。強い瞳を凛とこちらに向ける彼女は、その椅子を両手に持っている。持っている?
 いや、構えている。
「ま、待て、待て待て」少女はひゅうっと短く息を吸った。気の流れを落ち着けでもするかのように、いやいやふつうの女の子じゃないってだけならまだしもなんなんだこいつは格闘家かなにかなのか気とかって通常の人間に登場するワードじゃないはずだろ、「はっ……!」いや気合の声がたいへん勇ましかった、そうなのかもしれない。そういえばあのキュアハートってやつもよくよく思い出してみればなかなかの肉弾戦っぷりだったはずで、いや待てそんなことを考えている場合じゃなかったあれこれぼくちょっと現実逃避してないか、「お、おいっ!」ぶうんとおおきく振りかぶって、
「やああっ!!」
「うわあああああ!?」
 ――投げた!!
「……っ、とぉっ!」
 のを、なんとかキャッチした。
 イーラとしても拍手喝采のファインプレーだった。といっても褒めてくれそうな相手が、目の前の椅子を豪快に投げた時の格好のままで肩で息をしている彼女しかいないのだから、無為な話だったが。
「はあっ……はあ……な、なにすんだおまえ、いきなり……!」
「そっ……れは、こっちの台詞よ……!」
 気丈に言い返してくる彼女に腹はたったし、いっそこのまま椅子を投げ返してやろうかとも思ったけれど、今までもそこそこ騒ぎ立てているのだ。どうやらありがたいことに、この家にはこいつしかいないみたいだから現状はこのままで済んでいるけれど、これ以上ばかでかい音をたてたら余計な連中が増えるかもしれない。やじうまが現れるくらいならまだいいが、こいつの仲間でもやってこようものならやっかいなことこの上ないのだし。特にいちばんやっかいそうな桃色頭が、よりによってこのすぐ近くにいるのだ。これ以上騒いでもらっちゃあ、困る。
 なんとかそう自分に言い聞かせたイーラは、ゆっくりと飛んで窓から部屋の中へ入り、窓側にあったベッドの上に着地し、椅子をそのあたりにとんと下ろした。とたんに少女は、窓とは反対の壁にあるクロゼットに、背中がぴたりと張り付くまで飛び退る。そっちに目を遣りながらも、イーラはついでにベッドの上であぐらをかいた。正直不意を突かれすぎて、まともに立っていられるかどうかが怪しかった、わけではない、ないって言ってるだろ。うるさいなあもう。
「……何をしにきたの?」
 そうしてしばし流れた沈黙を破ったのは、少女のほうだった。
 警戒の色が濃く滲んだ声で尋ねた彼女に、こいつ全然話聞いてなかったのかよ、ジコチューなやつだ、となかば皮肉めいたことを考えながら、イーラはあぐらをかいたひざの上で、頬杖をついた。
「何って、最初に言っただろ」
「最初って」
「だから、それ!」
 ぱん、とひざを叩いてやると、クロゼットにはりついている彼女の肩が、わかりやすいほどびくっと跳ねる。さっきまであんなに勇ましかったり、へんなチカラを持ってたりするくせに、そういうところはほんと、そのへんにごろごろしてる連中みたいなんだ。ほんと、わかんないやつ。
「そ……それ?」
「そう、それだよ」
 でもこいつに関してとびきり難解なのは、そんなところじゃあなくて。
「おまえのその、キラキラして、ふわふわしてんの、よこせって言ってるんだ」
 今度彼女が浮かべた表情に名前をつけるとしたら、愕然、ではなく、呆然、が、きっとぴったりだっただろう。

「きら……は、はあ?」
 ぽかんとしたついでに緊張の糸が切れたのか、わりに凛と澄んだ声のほうが耳に残っている相手にしてはめずらしく間の抜けた声を上げて、彼女はぺたんと床に座りこんでしまった。そしてまた沈黙が流れるが、イーラとしてはこっちの用事は全部伝えたということになっているので、自分から口を開くつもりは毛頭ない。
 とにかくそいつが邪魔だってことはわかるんだ。イーラは遠慮のない視線を、じいっと向かいに注ぐ。すっかり困りはててしまっているらしく、今はなんだかためらいがちにこっちを見上げてきているばかりだけれど。でも、そうやってしおれている少女が、さっきみたいに、いや、さっき以上にへんなチカラを放つ瞬間があるということを、イーラは知っていたのだ。それはなんだかひどくまぶしくて。射抜くようで、包むようで。とにかく、ぼくを、そこから動けなくしてしまうのだ。
 それがなんなのかは、正直なところよくわからない。でもそれをこいつが持ってるってことと、そいつは必ずぼくの邪魔をするってことだけは、ものすごくはっきりわかってる。だからとにかくはやくはやく、そいつをうばってしまわなければ。現状、イーラにとってもっとも迅速に遂行されるべき作戦が、つまりそれだった。
「……あの。あなたが何を言っているのだか、私には全然わからないんだけど」
 しかしあろうことかその張本人は、そう言い張るのである。
「わかんないってことはないだろうが。現にさっきだって使った!」
「使ったって、椅子? 椅子はべつにそんな、キラキラしたような飾りなんてつけてないけど……」
「ちっがーう! おまえだおまえ! おまえ自身が、とにかくなにか、隠し持ってるだろ! いいからそれ、早く出せ!」
「だ、だから、なにも持ってないったら!」
「でもさっき使ったじゃないか!」
「だから使ったのは椅子!」
 みごとに平行線だった。
 お世辞にも我慢強いとはいえないイーラの沸点は、もうすぐそこまで来ていた。けれど、いくらなんだってここで沸騰してもしかたがないことくらいは明白だったので、めったにしないタイプの努力の結果、イーラは湯気みたいな長いため息をつく。こっちはとっとと、力ずくでもうばってしまいたいのはやまやまだっていうのに。形もなにもわからないんじゃ、それもできない。かといってこうして叫びあっていても息が切れるばかりなのは、目に見えている。
 ということを(ありがたいことに)察してくれたらしい彼女は、だいぶ警戒の色を薄くしながら、もしかして、と切り出した。
「あなたが言っているのって、プリキュアの力のこと?」
「……ん?」
「だからその、き、キラキラで、ふわふわって……確かにその、あの衣装は、そういうふうに見えるっていうか……マナやありすのなんかも、すごくそういう感じだし」
「ちがう」
 短く言って、でも、それが自分の口から零れた言葉だったと、イーラは後から気が付いた。そうしようと思ってしたことではなくて、けれどもそれだから、なによりも素直な言葉だった。
 ちがう、違う、のか? 形も色も力の出所も、そもそもちゃんと姿があるものかどうかってことすらもよくわからないのに、やけにきっぱりと言い切っている自分が、自分でもすごく不思議だった。
「ほかのやつらも持ってるやつだっていうんなら、それは違う。絶対、違う」
「ち、違うって……でも現に、プリキュアは私だけじゃないし」
「でも、違うんだよ!」
 さらに言葉を継いでしまう自分は、もっと不思議だった。
「おまえが持ってるんだ。とにかくおまえだけが、持ってる。ほかのやつらは、持ってない」
「な……なに、それ」
 それはこっちが聞いているっていうのに、頭がいいんだか悪いんだか、よくわかんないやつだ。
 嘆息してしまいそうになりながら、けれどもそれをおしのける勢いで、イーラは続ける。
「おまえだけ、なんか……キラキラして、ふわふわしてるんだ」
 自分がわりととんでもないことを言っているのにも、ついでに言えばわりととんでもないことを言われているのにも揃って気が付いていない二人は、そうしてまた、黙り込んだ。結局ずうっと平行線で、あげくの行き止まりだった。その前に二人して立ち尽くしていた、そんな気分。
 沈黙がもっと居心地悪いものであったらよかったのに、深く沈んだ夜の色と、あたりに揺蕩う静けさはあまりにも相性がよすぎたから、イーラはただぼうっと座っていても、これといったもどかしさを感じられずにいた。思い通りにいっていないのにそんな気分になるのは初めてだったと、それが初めてであったがゆえに、イーラはまだ、気が付くことができずにいる。
 なあ。なあ、おまえだけなんだよ。それ、いったい、なんなんだよ。途方に暮れたように、床に座って抱えた膝の前で、手を組んだりほどいたりしてばかりいる少女をじいっと見つめながら、いやに静謐な胸の中で、それだけを呟いた。口には絶対にできないくらい、とても、真摯な響きだった。イーラは口をつぐんだままで、なんだか奇妙なことになってしまったわとでも言いたそうに、形のいい眉を垂らす彼女を、ただ見ている。
 彼女の髪の色は、夜とおなじ色をしていた。

「ひとりだけキラキラしてるっていうのなら、それはきっと人違いだと思うわ」
「は?」
 どのくらい黙っていたのか、それがわからないくらい黙っていたころに、ようやく彼女は口を開いてくれた。が、手持ちぶさたここに極まれりといったふうに、はだしの指先でラグをつまんでいた彼女が言ったのは、イーラの予想とはおおいに外れたものだったといえる。
 素っ頓狂な声を上げたイーラに向かって、ひざに顔を半分埋めたまま、すこしくぐもった声で彼女は続ける。通常は戦うときに叫びあうだとか、そういう力の入った場面でしか彼女と言葉を交わしたことのないイーラとしては、そのすこしあどけない声がやたら耳に絡みつくのが、ちょっと居心地悪い。が、まさかそんなことでむずむずしているとは知らない彼女は、だから、とひざの向こうのままで言う。
「だから、キラキラしてたのって、それ、私じゃないと思うわ。……ねえ、それ、いつの話?」
「いつって?」
「その……あなたがそういうふうに、キラキラしてる、とか、ふわふわしてる、とか思ったときよ。それって、いつだったの?」
「そりゃ、おまえらがいちいちぼくの邪魔をしてくるときに決まってるだろ」
「じゃあやっぱり、間違いだわ。」
 きっぱりした声だった。まるでさっきの自分みたいだ、とふと思い当たる。まるでさっきイーラが否定したときのように、彼女はきっぱりと首を振った。頭ではないどこかがしっていることというのは、そういうふうに外に出てくるものなのかもしれない。でもほんとうにあるかどうかはお互いわかっていないのに、それは違うってことばかりがちゃんと言えるというのも、なんだかおかしな話だった。まるで、ほんとはずっとそこにあるのに、自分で目をふさいでるみたい。
 じゃああいつは今、それがおかしくて笑ったんだろうか。思った以上にちっぽけなひざこぞうのあいだ、ふふっとかすかに空気がくすぐられたのをみて、イーラはなんとなく、そんなことを考える。
「だって私がそうやって、あなたのお邪魔をしているときは、必ずそこにマナもいたでしょう?」
「マナ、って、あいつか。キュアハート」
「そう、その子。多分あなたは、私とその子を勘違いしてる」
 ちいさく笑いながら、彼女はいう。
 内容におかしなところは、一応ない。自分と彼女が初めて顔を合わせたときからずっと、確かにあの桃色頭もそこに居合わせていた。大貝中学校の校門ちかくでも、ポストの前でもそうだ。
 なるほど、こいつはどうやら、それなりに頭のよく回るやつみたいだ。イーラは直感的にそう思った。言うこと自体に筋が通ってはいるからだ。イーラの言うようなことを思ったとき、いつもそこにはこの少女と、そしてもうひとり、少女の大事な友だちがいて。
「キラキラしてたり、ふわふわしてたり……それってたぶん、マナのことよ」
 だからまるでわかりきったことのように彼女はそう言ったけれど、もちろん、それが正しかったわけではない。ひとにとってのあたりまえが、自分にとってもそうだなんて、だれが決められるものか。
「……ふぅん」
 たださっきみたいにそれは違うときっぱり言い切ることもできずに、イーラはそれだけ言った。納得してもらえたのかと思ったらしく、彼女はすこしほっとしたように顔を上げていたが、べつにそういうわけじゃあない。とにかく彼女は、正しいわけではないのだ。
 だってさっきから言ってるじゃないか、それを持ってるのはおまえで、おまえだけなんだって。たった今頭の回るやつだと評したばかりだけれど、これは訂正すべきかもしれなかった。なにせそれなりの時間沈黙していたとはいっても、今日の今日自分が言ってやったばかりのことを忘れるとは、なかなか見上げたばかであるとしか言いようがないからだ。
 でも、だからといって、おろかな彼女の言がすべて間違っていたとも思えないというのが、なんだかおかしな話だったのだが。
「そいつ、そんななのか」
「ああ、マナ? そうねえ。少なくとも私よりは元気っていうか、生き生きしてるし。特にああいうふうに、ひとをなにかから守るときのマナは、すごく輝いて見えると思うけど」
 だって、キラキラしていたから。
 こいつのいう、そのマナってやつが、ではない。そんなやつのことは、ぼくはしらない。
「なんていうか、そういう子なのよね。危ないとこでも構わずすぐ突っ走っちゃうところが、玉にきずだけど……まあ、そういうマナだから、力を認められたっていうのもあるんでしょうし」
 でも、キラキラしていた。
 いま。いまだ。その目だ、その声だ、その、たったいまのおまえのすべてだ。人差し指でも真っ直ぐ向けているかのように、そう思う。キラキラしてる。ふわふわしてる。さっきよりずっと、とんでもないチカラを感じる。それをぶつけられたら、きっとぼくはここから動けなくなるって、考えなくてもわかりそうなくらい。胸のどこかがちいさくふるえているような気分なのは、きっとそれがおそろしいからだ。イーラはそう決めつけている。
 その形はわからない、その色もわからない。でも、その出所だけは、いまわかった。いま。いまだ。いまこいつは、まぶしいくらいキラキラした目を、こっちまで包んできそうなくらいふわふわした声を、している。ぼくにとってはだれでもない、そのマナってやつの話を、しているとき。つまり、そういうことだ。
 こいつにとっての、マナ、ってやつが、多分、このおかしなチカラの全部を、つくりだしているのだ。
「ふーん。それで?」
「え? それで、って……なに?」
 そして、わかったことが、もうひとつ。
「その話、続けろ」
「マナの話? な、なんであなたに」
「いーから! 続けろったら」
 おそらく。噛みつくように叫び返したのとは裏腹に、ぞっとするほど落ち着いているどこかで、考える。
 おそらくだが、これは。
「な……なんなのよ、もう」
 これは、きっと、うばえない。
 たぶん、なにをしても――どうやっても、うばえない。
 その、いやになるくらい確信的な予想を振り払うように、両足を縞模様のベッドに投げ出して、窓辺に背中を押しつけて、イーラは腕組みをした。傲慢に話を聞いてやる体勢だ。ぼふっとかかとで叩いたシーツのすきまから、ゆるく甘い匂いがはじけたせいで、ちょっとだけその行動を後悔したことは、どうにか押し隠せただろうか。そんなことがどうして気になるのかも、目的がもう果たせないとわかったのにどうしてここに居座ってしまったのかも、なにひとつちっともわからないまま、イーラはそれでもそこにいた。
「続けたら、今日はそれで帰ってやってもいい」
「……そもそもそっちが突然押しかけてきたくせに、どうしてそんなに偉そうなのかしら」
 クロゼットに、今度はすこしゆったりと背をあずけた彼女は、はあっと短いため息をついていた。でも多分話しはするだろう。なにせ彼女は、こちらの自己中っぷりなら、いやというほど知っているはずだから。なんにも知らなくたって、それだけは、知っているはずだから。
「マナの話をしろって……なにあなた、惚れたの?」
「あのなぁ……そんなわけないだろ」
 マーモみたいなことを言うなよな、とうっかり続けようとしたが、どうせ伝わらないし、細かく聞かれてもめんどくさいので、適当に誤魔化して首を振った。でも絶対の本当だから、食い下がったって無駄だ。そうだ、そんなことあるわけない。
 ぼくは、
「……そんなわけ、ないだろ」
 ぼくは?

 とはいっても、それから彼女が話してくれた内容についてイーラが抱いた感想はといえば、退屈の二文字にすべて集約できるだろう。噛み砕いていえば退屈、率直に言えばおっそろしく退屈。なにしろどうやらキュアハート、というよりも相田マナってやつは、イーラの想像をはるかに超える、退屈すぎていっそ感心出来てしまうような人間であるらしかったのだ。
 重ねて、それにいちいち付き合っているらしいこいつもこいつだ。マナってやつの話だけでこっちは退屈過ぎていっそ面白くなってしまっているというのに、その後ろをばかみたいにくっついていってるこいつのことまで考えてしまおうものなら、もう一周回ってとんでもない退屈だ。もうなにがなんだかわからなくなりそうだった。というより、なっていた。
 だって、大切な指輪を落としたおばあさんがいたといっても、なにしろ他人の話であるから、それが彼女たちにとってもひとしく大切なものであるわけがない。それを日が暮れるまでどろどろになって、公園じゅう探してやったっていうだけでもばかばかしいのに、見つかった指輪は宝石のひとつもついてない、ただのガラスの模造品がくっついてるってだけの正真正銘のがらくただったのだ。となれば当然のようにこれといった報酬ものぞめなかったというのだから、まったく話にならなかった。
「なぁんだそりゃ!? そんなことして、おまえらになんの得があるっていうんだよ!」
 イーラとしては喝采ものの我慢をして、なんとか黙ってそこまで聞いていたが、そこまできてさすがに甲高い声を上げてしまったのは、そういうわけだ。もうこいつらのことなんて、ぜんぜんわかりやしない。
 だというのに、こっちの意見を真っ向から否定するでもなく、むしろそうねえなんて言ってくすくす笑う、いやになるほど物分りのいいらしい彼女は、しかし、必ずと言っていいほどふんわりしたまろい声で、こう続けてしまうのだ。
「でも、マナはそういう子なのよ」
 そういう子、というのには、たいして説明を加えてもくれないくせに。
「あとは、そうね……ああ、これはマナが生徒会長になりたての頃の話だけど、」
 話し続けてはくれるけれど、こっちがいちばん聞きたいことにはどうにも届かせてくれない、誠実なのだか不実なのだかよくわからないことを、彼女は続ける。
 さっきそうしたら吠えたてるみたいに怒られたので、またせり上がってきたあくびを、イーラはどうにか奥歯で噛みころした。じつにめんどうなことだと思う。そっちが言うからこっちは寝ないで話してやってるというのに大あくびとはどういう了見だ、というのが彼女の意見で、主張はまったく正しいといえばそうなのだけれど、退屈なものは退屈なのだから、そんなことぼくに関係あるもんか。あくびの残りかすのように息をつく。めんどうで、それから退屈でしようがないのに、イーラはまだそこにいた。
「それで、まだ就任から何日も経ってないっていうのに、全部活の要望を通しちゃって……」
 大変だったのよ、とか、マナったらほんとにね、とか、苦い言葉ばかりを選ぶようにして、彼女は話し続ける。そういうのばかりをこいつは選んでいる、とどうして感じたのかは、イーラもよくわからない。彼女がどうしてそんなにめんどうなことをしているのかは、もっとわからない。
 ぬるま湯でふやけたみたいになってしまった目蓋のむこうで、それでも彼女は話し続ける。わからないことはさっきから増えっぱなしなのに、特にわかりたいわけでもなかったやつのことが、どんどん自分の中に溜まっていく。考え事をするときのくせなのか、たまに口もとにゆるく握ったこぶしをそっと当てる彼女の唇から、淡い光を湛えたみたいに、こぼれたことの数々が。どんどん、どんどん、積もっていく。
 そのころにはもう頭が半分ぼやけてしまっていたから、イーラはいままで考えたこともないようなことを、ぼんやりと考えていた。なんでだろうなあ、と考えていた。
 なんでこれ、こんなにキラキラしてんのかな。なんでこれ、ふわふわして、へんにあったかいのかな。
 彼女は話し続ける。イーラは考えている。彼女の中にはちきれそうなほど詰まっていたものたちに、押し潰されそうになりながら。それはとてもキラキラしていて。それはとてもふわふわしていて。
 そして、少しだけ。
 ぎゅうっと、くるしくて、いたい。
「……なんで、」
 なんでぼくは、そんなこと、を。
 その言葉を自分は本当に呟いたのか、それともあれは夢だったのか、イーラにはもう、わかるすべがない。
 もうわからないことはたくさんだとうんざりするように目を閉じて、慣れない我慢の限界なんてとうに通り越していたイーラの目蓋は、それっきり持ちあがらなくなった。

 ところで、こと居眠りにはよくあることなのだけれど、そのあとイーラがぱっちりと目を覚ましたのも、およそ最悪のタイミングであったといえる。
「……っ!!」
「あ、」
 少しだけ見開かれた瞳。飛び込めそうな深い色。睫が長い。ぶつかりそうな鼻先。せっけんとお風呂と、髪、の、匂い。まだ眠りに半分浸かったような頭を、いろんなことが爆速で駆け抜けていく。肩。触れてる。ひくい体温。手。「っ、ち、」暴れ回るそいつらをどうにかまとめあげようと躍起になって、一気に回転数を上げた頭が弾き出した言葉は、しかし思った以上に単純でみっともないものだった。「近い!」
「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げた彼女が、ぽふんとベッドの上を二三度跳ねて。スプリングの軋む音が、やけに大きく聞こえた。あ、と思わず声を上げそうになって、すんでのところで飲みこむ。なんだなんだなんだ。まだ正常にはほど遠というのに、随分酷使される頭が悲鳴を上げる。なんで今ぼく、しまったなんて思ったんだ。自分が知っている彼女はバケモノ相手にもむかつくほどびくともしないはずで、けれど今わずかに顔をしかめているその子は、慌てて突き出しただけの手に押されて、かるがると吹っ飛んでしまったのだ。
 でも、でもどうしてぼくがそんなことで動揺しなけりゃならないんだ。知るもんかそんなこと! 手のひらに残った、やせた肩の感触がやけにまとわりついてきて、イーラは知らずうちに爪がささるほどぎゅっと、こぶしを握りしめていた。なにか。どうしてだかからからに渇いている喉を、ごぐりとむりに動かしてでも、イーラは思う。なにか、なにか、言わなければ。
「な……んだよ、おまえ、」
 でも、言葉はそこで止まってしまう。聞こうとしていたことの答えを、自分で見つけてしまったから。
「いったぁ……なによ、突き飛ばすことないでしょ!」
 こっちだって言い返してやりたいのはやまやまなのに、出鼻をくじかれたせいで言い返せない。だいたい、そう、だいたいだな、わけがわからないってんだもう。だって、憎たらしいほど強い目でこっちを射ぬいてくるくせに、きゃんきゃん吠えるように言いたててくる久くせに、それとおなじ彼女はその手に、淡いグリーンのブランケットを握っているのだ。
「……っ、くそ」
 寝首でもかいてやろうっていうほうが、どんなにかわかりやすかったよ! そっちの方が自分に都合が悪いことは確かなのに、いっそそうであってほしかったイーラは、両手で頭を思いっきり掻き混ぜてでもやりたいような気分だった。だいたいそっちから話せって言ったくせにだのなんだのと、うるさくわめきたててくるこいつは、でも、寝てるぼくに布のひとつもかけてくれようとしたんだって。なんだ、なんだそりゃ。「ちょっと、聞いてるの!?」ああうるさい、聞こえてるったら。
 考えがそこに至ったとたんに、血管が悲鳴を上げそうなほど思いっきり、頭に血がのぼったのがわかった。どんなに握りしめても、手にのこった感触が全然消えてくれやしない。どのくらい吸い込んだのか自分でもわからない、やわらかくて甘い匂いがどこかに残っているせいで、息がうまく吸えなくなる。頭にはもっと酸素が必要なのに。なのにいったいどこが燃えてるんだか、頭とか顔とかはかあっと熱くなるいっぽうで、もう限界だっていうのにぶっ叩かれる心臓がどんどんどんどん熱を送り込んで、ぼく、ぼくは、
「あああああもうっ、うるっさいな!」
 多分頭にきてるんだ、そうに、違いない。
 ぼくは怒りっぽいんだからな、と結論付けると、わけがわからなかったことがひとつ片付いたような気がして、イーラは熱いままの頭をいったん振った。さすがにさっきの剣幕には驚いたらしい彼女は、手にブランケットを握ったまま、ぽかんとこっちを見ている。それを好機とばかりに、イーラは一気にたたみかけた。
「な、なによ、いきなり」
「うるさいうるさいっ、だいたいおまえがつまんない話ばっかりするのが悪いんだろ!!」
「だから、それはあなたが話せって言ったんじゃない!」
「言ったさ、言ったけどまさかこんなに退屈だなんて思わなかった!」
 わめき散らして限界まで吐いてるっていうのに、まだ上手に息が吸えないせいで、にぶい耳鳴りでも聞こえそうなほど酸素不足だった。少しくらくらしてきて、でも叫ぶのはやめてはいけない気がして。
「だいたい……っ、だいたい、おまえ」
 だから、別にそんなこと言おうとしてたってわけじゃ、なかったんだ。ほんとの、とこ。
 もうそんなの、どっちでもいいし、どっちでも、変わんないことなんだろうけど。
「おまえ、そんなにべったりしやがって、そのマナってやつがいなくなったら、どうするつもりなんだよ」
 すごく静かになった。
 すごく静かになったせいで、自分が浅く呼吸する音ばっかりが、やけにうるさく聞こえた。彼女はぴたりと黙っていた。まばたきもしないで、こっちを見つめていた。睨み返してやろうと思って、でも多分、できていなかったと思う。突き刺すように見返せない限り、ひとはそれを睨み返したとは呼ばないのだ。それは、見つめ返していた、というのだ。
 じっと見つめ返すイーラの、金色の光の中で、彼女は、
「……べつに、どうもしないわよ?」
 なんにもとくべつなことなんてないみたいに、ふつうに笑って、答えた。どうもしないわ。凛と張った声。イーラの耳のあちこちに、いやにからみついてくる、声。
 だって私たちはほんとうにおとぎ話の住人ってわけじゃないもの。流れるように続けて、彼女は言う。
「じっさいマナの身体には金箔なんてくっついてないし、あの子は際限なく身を削れるだけの能力だって持ってるもの。私もそう。べつに私は南の島に行かなくたって、ちゃんとひとりで冬を越せるわ」
「……なに、」
 なに言ってるんだ、おまえ。
 一度目は、途中で掠れて、ちゃんと声にならなかった。伝えたいことは、一番そうしたい相手の前では、たいがい、一番うまく言葉にならない。
 でもおまえ、なに、なに、言ってるんだ。ブランケットを両手でそっと握った彼女は、くすりと、すこしだけ笑みをふかくする。
「ツバメの役目だって、そりゃ、いつか終わるわよ」
 それでもめでたしめでたしで終わったりなんかはしないし、あの子にはまた別の、あの子の物語が、待っているというだけ。それは白雪姫なのか眠りの森の美女なのかラプンツェルなのだかはわからないけれど、とにかくひとつ確かなのが、その登場人物の中に、私がいないというだけ。ただ、それだけ。それは、どうやらとてもかしこいらしい彼女が、いつから出しているのか知れない、とても整然とした答えだ。
 頭が回るやつは、うそをつくのが得意だ。イーラはそれを、わりとよく知っている。頭のいいやつはうそがうまい。重ねてうそをつかなければならなくたって、まるで一つのお話でも作るように、うまく繋げてつくことができるから。
 めでたしめでたしで終わることはなくても、みんな物語の中で生きている。彼女だってそれは同じだった。そしてかしこい彼女は、自分の作り出した物語の中で、生きていこうとしている。それがうそだったってことを、忘れられるように。
「……なに言ってるんだ、おまえ」
 でも、あまりにも綺麗に組み上げられたそれらを、鼻で笑えるやつは、残念ながらここにいたのだ。
 ああそうだよ、残念だったな。とても不都合なことだったろうが、ぼくはね。
 ぼくには、どんなに隠したって、どんなにうそをついたって。
 その奥深くが、おまえの心が、くらく濁ってるのが、見えるんだ。
「ほんとは、さびしいくせに。」
 ほら。
 もう、まっくろだ。

 そのとき彼女がみせた、細い枝がぽっきりと折れたような身体の崩れかたがあまりにも軽々しくて、やっぱりもともと知っていたのと同じ人間には、とてもではないが思えない。いつもこんなに弱かったら、任務なんて軽くこなせてしまいそうなのに。そう思っている間にも、ベッドに長い髪をぶわりと散らして倒れた彼女の身体から、まっくろな心がはためいて生まれた。憑代はブランケット。祝福せよ、さあ、新たなジコチューの誕生だ。
「……ぅ、ひっ」
「は?」
 そうして、ちょうどベッドの上にあぐらをかいていたイーラの頭と同じくらいの高さまで、むくむくとふくれたブランケットの中から、おそるおそる顔を出した、のは。
「ひ、ぐすっ……マナぁ……」
「えー……いや、いやいやいや、え、ええええ?」
 なんともなさけない、幼子の泣き顔だった。見たことはないが、なんとなくわかる。そうでなけりゃいいのにって思ったことだから、どうやらそうらしいと確信できてしまう。これ、こいつの、ちっちゃいころじゃないか!
 信じがたい変貌を遂げてはいるが、ちょうどフードのようにすっぽりとその子頭を覆っているブランケットには、確かにジコチューの証たる黒いハートがくっついているし、覆い隠されてはっきりとはわからないが、背中がもぞもぞうごめいているのを見るに、羽だってちゃんと生えている。間違いない。これは、彼女の心をして生まれたジコチューだ。いちおう。いっそ信じたくないことだが。
「う、うぅ」
 で、いちおうジコチュー、のそいつは、ぱちくりとちいさい子らしく大きな瞳からひっきりなしに雫を零したり、伸びあがるほどいきおいよく洟を啜ったりするばかりで。なんというか、ううん、つまりあれだ、ええっと、その、だから――なんかもう、めちゃめちゃ弱そうだった。
 しかも、なにを思ったかしらないがこっちへと歩いて来ようとしていたらしいそいつは、足元までブランケットを引きずったままなのだから当然と言えば当然なのだけれど、つっかかって転んでしまったのである。それはもう盛大に。
「あうっ」
「お、おお……」
 ぼっふん、とかなりまぬけな音を立ててすっころんだそいつの鼻先は、押し潰されでもしたのかちょっと赤くなってしまっていた。頭を覆っていたブランケットが少し脱げて、頭の横でちんちくりんに短く結った髪が、ひょっこりと顔を出す。
「マナ……」
 小さく唸るような声がして、まるで渇きを忘れたみたいな瞳から、またぽたぽた涙が零れて、ベッドの上でどんどん染みを大きくしていった。まだ起き上がってもいないのに。
 まっくろな心から生まれたそいつは、暴れるどころか、起き上がることもしないで、わめくこともしないで、泣いてばかりいる。
「ひ……っ、マナ、まな、まな、ひくっ、ま、なぁ」
 おなじ、言葉を、繰り返しながら。
 その子は、ただ、泣いている。
「……あのなぁ」
 あぐらをかいたかっこうのままで、器用にすこしだけ浮き上がったイーラは、倒れたまま泣きじゃくるそいつのそばに寄って、とん、としゃがんだ姿勢で降り立った。ベッドがまたすこし軋んで、その音にびっくりしたように、その子はちいさな肩をびくっとふるわせた。
 手のひらにのこっていた感触よりも、もっともっとちっぽけだったから。その肩を握って、なんとか起き上がらせた両手がちっともらんぼうになれなかったその理由を、イーラはとりあえずそういうことにしておく。ぐすっ、とまだしゃくりあげるその子。目を閉じているあいつからそのまま持ってきたみたいに、同じ色の瞳。
 キラキラ、キラキラ、濡れた瞳。
「あのなぁ、おまえ」
「ぅ……まな……?」
「違うよ、ばーか」
 あ、また零れた。喉をぐうぐう鳴らすように、ちいさな身体を泣いて泣いて震わせる、どうしようもないジコチュー。
 まだぱさぱさでやわらかい前髪をよりわけて、あらわれた小さな額を、イーラは指でぴん、とはじいた。
「おまえな。ジコチューなら、もっとジコチューに暴れてさ、もっと騒ぎ立てなきゃ」
「ぐすっ……マナ……マナ」
「だぁから。そんなちっこい声で言ったって、誰にも聞こえるもんか。なあ、わかんないかな」
「……ひっ、く」
「もっと、もっとみんなを震え上がらせてさ、もっと、どいつもこいつも巻きこんでさ、そういうんじゃないと。……ぼくの言ってること、わかるか?」
「まなぁ……」
「……ああ、もう、ばっかじゃねーの」
 だめだな。こんなんじゃ、ジコチューのくせに、なんの役にも立ちやしない。
 そういうことにして、イーラは、ちいさくふるえるだけだったブランケットから、まっくろな心を、べりっと剥がした。
「――、」
 最後に何か言ったか言わなかったか、でもどうせ、同じことしか言わなかったしな、こいつ。
 憑代を失ってあっさりと消えたそいつの響きから、でもイーラは、耳を塞がなかった。最初から最後まで、聞いているのはイーラひとりきりだった。ジコチューがいなくなるときは、いなくなるっていう言葉ですらも、きっと不似合いなのだ。まるで初めからそこにはなんにもなかったみたいに、跡形もなく消え去るから。
「……こんなもん、持っててもしかたないしな」
 態々口に出して、手に持った心を、倒れたままの彼女の身体に、そのまま押し込んだ。一応彼女の中に消えていったみたいだから、それでうまくいくんだかわかんないけど、まあいいってことにしておこう。浄化の方法なんて、ぼくが知るわけないし。
「ん……」
 もう泣き声なんてどこにも残っていないような、しいて言えばしゃくにさわるほど平和なうめきを零して、彼女は寝返りを打った。飛び立つに邪魔だったのでブランケットを適当にそっちに投げたら、うっかり身体の上に広がってしまった。そういうことだ。(「そういうことにしておく」、というのがやけに多いことを、イーラは気にしない。)
 そしてきっと目を覚ませば、彼女は自分が泣いたことを、もう覚えてないのだろう。うすく穏やかに胸が上下している。その呼吸をしゃくりあげて止めてしまわないために、彼女はすべてを忘れてしまう。深い底になにが隠れているかなんてことは、べつに知らなくたって、彼女の日々のうちに支障はないから。眠る彼女は、悪い夢ですらも、きっと見ないままでいる。
「うん?」
 もうさすがに用はないと飛び立とうとして、イーラは最後の最後でぴたりと止まった。
 初めの目的のことを、ふと思い出していた。
 ――どうしてだか一滴だけ、静穏に眠る彼女のまぶたの隙間から、零れた雫を見て。
「……ふん」
 ゆっくりと光っていたそれを、自分でもちょっとびっくりするほど、イーラは丁寧に指先ですくいとった。イーラの長細い人差し指の先で、ただ澄みわたっているそれを、もう片方の手で覆い隠す。まるで、たいせつなたからものを取り扱うときのように。そうしてイーラは、今度こそ本当に、夜の中へと戻っていく。
 すごくいろいろなことがあったような気がするのに、窓の外に広がる街は、なんにも変わらずただ穏やかだ。けれどその中にも、ひょっとするとたくさんのうそが、隠れているのかもしれない。そんなことを、初めて考えた。考えた時には、ふと止まっていた。夜空の海に浮かぶように、イーラは足もとの世界を見下ろす。
 指先がなんだか冷たいな、と思ったら、さっき拭った雫が、まだしぶとく引っかかったままだった。未完成な円を描く月をぼんやりと映して、透明に光っている。
「うえ、しょっぱい」
 その光に引っ張られたように、指先に顔をよせたイーラは、けれどもすぐに、ぺっぺっとそっぽを向いて手を振った。どうしてこんなものが欲しかったんだろう。どうして? わからない。わからないことや、知らないことが、きょうひと晩だけで、いったいどれほど増えたんだろう。
「……ああ、そういえば」 
 そういえばぼくは、あいつの名前も、知らないんだ。
 まあ、あいつもぼくの名前なんて、知らないんだけども。

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