ねえ愛しい人、一回しか言わないからよく聞いてね。




 ひみつの話をしよう。


 小学校高学年の時、私は自転車に乗っていて、トラックに撥ねられそうになったことがある。私たちが暮らしているそこはとにかく田舎だったからか、適度に信号がないと車というのはどこまででも速度を上げてしまうものらしいのだ。 もっとも、それだからといってそこにぽつんと設置された信号は、なんだかやけにあぜ道の続く風景から浮いていて、かわいそうなことにお笑い種になってしまったのだけれど。私のせいかなあと思うとたまに申し訳なくなるので、ほとんどのひとが見向きもしないその信号を、とりあえず私だけは守るようにしている。
 道が交差しているところで左右確認をせずに突っ切ろうとした私も私だったけれど、いったいあのデコトラは何キロで突っ込んできていたのだろうか、考えるだに恐ろしい。ただそれをこうしてぼんやりと思い出せるくらいだから私は幸いと何事もなく無事に済んでいて、被害はというとあぜ道から田んぼに突っ込んだので乗っていた自転車といわず私の服といわずどろどろになってしまったということくらいだろうか。慌ててトラックから飛び降りてきた髭のちくちくしていそうなおじさんは、それでも私を心底心配して、トラックに乗せて病院に運んだ挙句家までも連れ帰ってくれたので、それも含めて私はかなりついていたのだと思う。
 だから、あまりにもなんともなかったせいでどちらかといえば服を汚してしまったことを叱られた記憶の方がはっきりしているそれが、まさか私にわりと甚大な被害を残していただなんて、その時は、思いもしなかったのだ。少なくとも、それから数日後、どろどろになってしまった自転車が修理から帰ってきて、いつものようにそれに跨って、遊びに行こうとするまでは。つまりそう、いってきますなんて言ってペダルに足を掛けて漕ぎ出したその瞬間まで、私は、それから自分がまた田んぼに突っ込んだ挙句、あんたはいったい何度やったら懲りるのかなんてお母さんに怒られることを、まったく知らなかったのだ。
 わかりやすく言えば、私は自転車に乗れなくなっていた。まったくと言っていいほど。ペダルを漕ぐ間もなくよたよたとバランスを崩してしまう。足をつくのが間に合うならまだいいが、もともとそこまで運動神経がいい方でもないので、反応が間に合わなかったらみっともなく倒れてしまう。そうはいってもこのド田舎だ、自転車がなければ不便なことこの上ないので、私も暫くはあがいたが、生傷だけが増える一方で、小さい頃に乗る練習をしたときとは違い、ほとんど改善の兆しを見せなかった。泳ぎや歩くことと同じように、自転車はなぜ乗れないのかということがとにかくはっきりしない。膝小僧を何度もすりむきながら、私はとにかくたくさん泣いたけれど、だからといってまた乗れるようになることはなかった。
 結局私には選択肢がなかったのだ。諦めるという以外の選択肢が。諦めた結果私は歩く速度を上げ、走れるだけの体力をつけ、走り続けられるだけの体力をつけるしかなかった。その結果として中学に上がってから陸上部に入り、長距離部門で活躍できるようになったというのだから、人生というのはよくわからないなあとは思うけれども。やっぱり、しゃあっと軽い音を立てて私の横を走り去っていくクラスメイト達の背中を見ると、なんとなく、なんとなくだけれど、あれ以来傷跡が残ってしまった膝が、ちょっとだけひりひりしてしまうような気がして。
 だから私は、成瀬高を選んだ。トップクラスの成績を有する、というだけでなく――その敷地も、そのままの意味で県内トップに位置する、成瀬高校を。

「ったく、この坂ってばほんと、どーにかならんのかねえ……」
「それはだって、入学したときからわかってたことでしょ、せっちゃん」
「ミヤはいいよ? その黄金の両足があるから」
「……ねえ、その恥ずかしい異名は、どうにかならないのかなあ」
「ならんでしょ。人のうわさなんてそんなものだよ、ミヤくん」

 そうして今日も私は、成瀬高校のある山の、校門前まで続く長い長い、本当に途方もなく長い、しかも急勾配の坂を、雪華と共に、上っていくのだった。下から田んぼで作業をしていたおじさんたちが、今日も登山がんばれよぉ、と呑気な声を掛けてくれる。成瀬高校に通うことを、内部の人にせよ外部の人にせよ、登校や下校などという呼び方をしない。それは登山であり下山であり、私たちはいわば毎日のようにちょっとしたハイキングをしているのであった。県内でも成瀬高校だけだろう、濃霧注意報で外の部活が中止になったりするのは。
 学校がそんな場所にあるせいで、いくら山にたどり着くまではなだらかなあぜ道が続いているからといって、自転車で通ってくる生徒はほぼいない。みんな私と同じく、泣く泣く徒歩で通っている。ちなみに山、というか坂の入り口まで自転車でこようなんて真似も許されない、学校というのは大体がとこ無粋なものだから、例えばそれで駐輪場でないところに自転車を停める生徒がいやしないかという、ずるをしそうな場所を見越して、必ず先生を配置しておくものなのだ。遅刻管理とかなんとかいって。
 そうなると、仮に坂の入り口まではなだらかなあぜ道が続いているとはいえ、みんな普通に歩いても二十分以上かかるそのきつい坂の全行程を、自転車を押して上がろうなどという気には、だいたいなれないもので。

「ぐあー、あっつい……やばい、朝から背中が汗だく、ヤル気が蒸発していくぅ……」
「蒸発したら、ちょっとは体温下がると思うよ?」
「くっそぉ、他人事だと思って……ずりーぞミヤぁ!! あんたもこのくっそ重い鉄の荷物を運べー!!」
「だから、私は自転車に乗れないんだってば」
「知ってる!! でも運べ!!」
「なに、その気持ちいいくらいの不条理は……」
「いーだろ、そこはアレだよ、幼なじみの痛み分けと思ってだな」
「幼なじみとしてだったら、もう明日から自転車登校をやめなよってことだけおすすめするよ、せっちゃん」
「やーだね。あたしはこの苦難を乗り越え、快適な帰り道をゲットするんだっ……!!」
「じゃあ黙ってその苦難を乗り越えなよ……」

 そんな馬鹿なことをしているのは、たとえばこの雪華のように、よくわからないほどのこだわりを見せて自転車に乗り続けることを選択し続けるような、物好きなだけなのだった。
 私の幼なじみである雪華には、昔からなぜかそういうところがあって、とにかくひとつのことにこだわったら絶対にそれを曲げないのだ。私が自転車に乗れなくなったときも、最後まで練習に付き合ってくれたのは雪華だった。もっとも、私の膝に傷が残ってしまったのを知ったとたんに、今度はやめなよやめなよといって聞かなくなったから、結局私は練習を辞めてしまったのだけれど。
 成瀬高に行くと決めた時もそう。私は私の持つくだらないコンプックスを解消するためという、多分にくだらない理由でここを選んだというのに、雪華はそれを聞いてから、自分もここに行くといって聞かなかったのだ。成績なんてクラスでいつも底辺を彷徨うくらいのレベルだったくせに。親からも先生からも大反対を受けて、塾で受けた模試ではいつも綺麗なE判定の整列を喰らっていたくせに。試験の当日どころか発表のある日まで雪華は自分がここに来るってことをちっとも疑っていなかったみたいで、寧ろその自信にはいっそ拍手を送ってしまいたい気分になったものだけれど。
 ともあれそんなわけで、今日も雪華はきいこきいこと苦労の音をたて、朝っぱらから汗だくになりながら(そして教室についた途端に制汗剤をふりまくので、隣の席の私はたまったものではない)自転車を押して、長い長い坂を上る。せっちゃんはほんとに強情なんだからというと、それも知ってたことでしょ、なんてなまいきな言葉が返ってくる。両手がふさがっているのをいいことに脇をくすぐってやったら、手のひらにちょっと雪華の汗のにおいが残った。なんとなく甘酸っぱくて、ちょっと、とくんとする匂いだった。


「おおっしゃぁ!! 今日もやってきたぞ、あたしの時代!! マイ・エイジ!!」
「せっちゃんの時代って、五分ちょっとで終わっちゃうんだね」
「そうそう、ちょっと豪華なカップ麺作る時にちょーどいいってな、おいてめぇ顔こっち貸せ、ミヤ」
「え、なに……っ、いひゃい、いひゃいいひゃい、せっひゃん、いひゃいー!」
「なこと言うのはこのおかわいらしい口か、あぁん!?」

 そんな雪華がこれでもかというほど誇らしそうな顔をするのはもちろんのこと帰り道で、なぜって確かに彼女の言った通り、朝に苦労した分だけ、帰り道は非常に快適な時間が約束されているのだった。部活が終わったばかりだというのに、微妙に太腿に辛い坂をのそのそと下山していく生徒たちが多い中、雪華の自転車は爽快な――たまに心配な――音を立てて、さあっと素早く下っていくことができるのだ。
 他に停められている自転車がほとんど見当たらないという、非常に閑散とした駐輪場に私と雪華は並んで歩いていく。雪華は帰宅部なのだから普通ならば陸上部で活動をしてから帰る私とは絶対に時間が合わないはずなのに、彼女ときたらほとんど毎日のように学校で補習のプリントと戦っているから、私がグラウンドから校門へと向かうと、まるでいつもみたいにひらっと手を振る雪華がいるのだった。入るときに奇跡は起こせても、中に入ってからも奇跡を起こし続けられるというわけではないらしい。雪華にとっての勉強というのが私にはよくわからないのだ、こんなんでも留年がかかったテストでは必ず合格してみせるのだから、私だけでなく先生も、そこには首をかしげている。
 雪華の自転車は高校に上がったときに買い替えてもらったのだという赤い塗装も眩しいやつなのだが、毎日思いっきり坂を下っているせいで、タイヤのすり減りだけが随分早い。この間も自転車屋に付き合わされた。もっとも、これについてはその理由の一端を私が担っているという自覚もあるので、特に文句を言えた義理ではないのだけれど。

「よし、ほいじゃ。とっとと乗んな、ミヤ」
「ん、うん……いつもありがと、せっちゃん」
「いーよ、別に。むしろおもりがあったほうが安定するし?」
「……誰がおもりですか」
「いって!! てめっ、その黄金の足が泣くぞ、人を蹴ったりしたら!!」
「だーからその呼び方やめてってば」

 など、など、言い交しながら、雪華はペダルをこぎ始める。タイヤがすり減る理由のもうひとつといえば間違いなくこれで、雪華はいつも私を荷台に乗せて帰ってくれるのだ。これもばれたら目くじらものだけれど、無粋な先生の監視というのは、だいたいにして先生方の都合で一番の抜け道が発生するものだ。有り体に言えば、私と雪華が帰るような時間帯には、部活の顧問の先生か、あとは学校内の施錠をする先生が一人か二人職員室に残っているだけで、外の監視まで手を裂く余裕はないというわけで。
 だから雪華の見た目だけがまだぴかぴかの自転車の荷台には、クッションとタオルがぎちぎちに巻いてある。雪華が巻いてくれたものなのだが、そうなると彼女は初めからこうするつもりだったのだろうか。そういえば、まだ、聞けていない。いつか聞けるのかなと、多分に昨日と同じようなことを考えつつ、生徒たちの軽い羨望のまなざしを涼しい笑顔で受け流す雪華の顔を、後ろからのぞく。中学生のころにテニス部だった雪華の顔は、未だに健康的に日焼けしていて、夕焼けに照らされるとなんとなくぴかぴか眩しい。だけど高校に上がってから勉強についていくのが大変だと悟るや否や、彼女はテニスを諦めた。雪華はいつも強情で、強情だけど、だからこそ、自分の決めたことに必ず責任を持とうとする。
 私はたまに考える。そんな雪華は、強情で、一度決めたことは頑として守り切ろうとする雪華は、私にたいして、責任を取ろうとしてくているのではないだろうかと、考える。漕ぎ出しはさすがにふらつく自転車の荷台に横向きに座って、雪華の顔を見つめながら。雪華のほそっこい腰に、腕を巻きつけながら。甘い汗と、つくりものの制汗剤の匂いがあやういバランスで混ざった、背中の匂いをふうわりと感じながら。私はたまに、あの事故が起こった日、私を遊びに誘ったのが雪華でなかったのなら、どうなったのだろう、と考える。
 たぶん――いろんな無理をしてでも、それからずっと私の側にいてくれようとする雪華のことを、たまに、思って、しまう。

「おおっし、いっくぞー……! しっかりつかまってなよね、ミヤ!」

 快調にタイヤが滑り出してからは、本当に速い。雪華は初めにがあっと勢いよくペダルを漕いで、あとは慣れたものなハンドルさばきで、歩いている生徒の横をすいすいとすり抜けていく。時間が遅いせいで生徒の数はまばらだけれど、とにかく道の隅によって歩くって発想がない田舎育ちだから、自転車だからって車道を一直線、というわけにはいかないのだ。それに雪華は、道に落ちている小石を弾き飛ばしたりしないようにということも、ちゃんと考えているらしい。
 ごうっという音と共に、景色が一気に後ろへ流れていく。スピードを上げる自転車はがしゃがしゃとうるさい音を立てる。タイヤと道がこすれ合う鈍い音と混ざり合って、なんだか私と雪華、いっしょに戦車にでも乗っているような気分だ。カーブを曲がるときは、合図をされなくても雪華といっしょに体を倒す。髪が地面と擦れてしまいそうなくらい。アスファルトにこもった熱が、頬をゆるく撫でて。体を起こすと、また切り裂くような風が、前から後ろへ、後を追う暇もなく吹き抜けていく。
 下り坂の途中、こんもりと上をおおっている木がぱっと開けて、広がる田んぼと、点在する家々を見下ろすことのできる場所に出た。もう夏だから、向こうのふたご山の方に沈んでいく夕陽が目をまっすぐ貫いてくる。まだ春だったころは、ここを通りがかるのは夜だった。まだ春だったころは、ここを通りがかるとき、私はきっとどきどきしていなかった、たぶん、そう。よくわからないけれど。ふと見上げると、雪華はとっても気持ちよさそうな顔をして、風に吹かれていた。

「なー、ミヤ!! あんたもさー、いつかひょいっと、自転車乗れるように、なんのかなー!?」

 また木漏れ日の中を突っ切っていく道になったころ、雪華は声を上げた。このあたりまで来るととにかく自転車と風の音がうるさすぎて、叫びでもしないとまともに会話できないのだ。だから私も、負けじと叫び返す。

「さあ、どうだろー!! 無理なんじゃないのかなー!!」
「そっかー!! もったいないなー!! せっかくこんな、さいっこーに気持ちいいのに!!」

 私は、なにも答えないで、ただちょっとだけ、ほんの、ちょっとだけ、雪華の背中に、ほっぺたをくっつける。あったかくて、しめっぽくて、みずみずしい感触。鼻先を吹き抜けていく風。くっつけた右耳の向こうから、雪華の呼吸と、あと、かすかな心臓の音、が、聞こえる。答えられないんじゃなくて答えちゃいけないんだろうな、と私は思う。それではきっと、あまりにも雪華に不義理だから。多分に、私のことをたくさん、たくさん心配してくれている雪華に言うには、あまりにも不謹慎な言葉だから。それなのにそれが私の本当ってところが、困った話なのだけれど。
 でも、ごめんなさい、それがほんと。ごめんねせっちゃん、私はそれをもったいないなんて、思ったことが、ありません。それどころか、きっと、それどころか私は。それを、都合のいいことだと、よく、考えます。
 せっちゃん、強情で、きまじめなせっちゃん。あなたがもしかして、私に責任を感じて。それでもずっとそばにいようとしてくれているのなら、私は、ごめんね、それはちょっぴり、うれしいことだなあって、考えて、しまうのです。

「――ねえ、せっちゃん!!」
「なんー!?」

 じゃあっという音を立てて、自転車は最後のカーブを曲がる。
 せっちゃん。せっちゃん、一回しか言わないから、よく、聞いてね。
 一回だけ、言わせてね。

「……すき。」

 そして、耳から脳天まで突き抜けるくらい甲高いブレーキの音と一緒に、私の一言は、風の向こうに消えてしまって。
 あとは、私たちの目の前には、真っ直ぐと平らかなあぜ道が、ただ長く、長く、続いているのだった。
 
「あ? え、なんつった?」
「なんでも、なーいよ。」

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