ねえ愛しい人、あなたが私を憎めばいい。



 みれんがましい話をしよう。


 姉はきっと、あたしのことが嫌いなのだと思う。
 ここのところのあたしの目覚めはというとだいたい背筋に異様な寒気を感じてぞっとしたあげくに目が覚めるという、良いか悪いかといわれればそれなりに悪い方に傾いているのではないかと思えるもので、ただあたしがもっとも眉をひそめたくなる瞬間はといえば、青い顔をして首だけでどうにかやっと振り返れば、背中にひたりとくっついてすうすう寝息を立てている彼女がいるという、その一点だった。
 毎朝毎朝これではそのうちあたしは風邪を引いてもおかしくないと思うのだけれど、姉がいうにはこの冷たさはそういうものではないらしい。とはいえそれがくっついて眠っていい理由にはならない。自分の部屋で寝ればいいのに、ていうか寝ろとあたしは何度も悪態をついた覚えがあるし、言い聞かせた成果あってか夜のうちならおとなしく自分の部屋へ向かっていくのだけれど、気がつけば朝はいつもの定位置だ。ちなみにその場合姉の言い訳としてはだってあなたとわたしの寝室は隣だし、ベッドもちょうど壁を挟んでいるだけだから、気がついたらこうなっちゃってるのよ、だそうで。なにが気がついたら、だ。
 いくら――いくら壁を通り抜けられるからって、毎朝毎朝、計ったように正確に、人の背中にぴったりくっつかれてたまるものか。

「あー……ったく、ちょっとー、起きてよ、姉ちゃん」
「んー、なあにぃ、薫、こんな朝早くに……健全な女子高生なら、ちゃんと土日は惰眠を貪るものよ……」
「いやぜんっぜん朝早くねーし、つーかもう昼だし、わけわかんないこと言ってないで、とっとと離せ、寒い!」
「いやー、薫あったかいんだもん」

 眠たいくせにやたらとはしゃいでいる姉は、あたしの額やら頬やら肩やら腰やらに、やたらとぺたぺたくっついてくる。だからあんたがあったかいぶんだけあたしが冷めているという貴い犠牲を、なぜ彼女は理解してくれないのか。思いはしても、あたしが振り回す手やらばたつかせる足やらは、むなしく空をかくばかりである。本当に不公平だと思う、なぜ向こうはあたしにこうも簡単にさわれるのに、こちらからはなにもすることができないのか。
 おかげでいやんふかふかーなんて人の胸に頭など埋めてくる、失礼通りこして変態な姉を、あたしは引っぺがすこともできず、あげくの果てにはどたばたうるさいなんて一階でテレビでも見ていたらしい母から床をたたかれる始末だ。ほうきで天井ついたら埃が落ちるのにという愚痴は、しかしあたしに向かって吐かれるべきものなのだろうか、はなはだ疑問だ。おまけにあたしのせいじゃないのに、下に行けばまた休日だからってごろごろして、なんて言われるに決まっているのだ。だって母には、あたしの背中に多分そんなときも張り付いているこの面倒な物体が、見えないのだし。

「物体ってひどいなあ、薫……」
「っさい。妹にとりつく姉の幽霊なんざ、呼び名としちゃ物体Aくらいでちょうどいいっつの」
「むぅっ……そんなこと言う悪い妹には、とうっ、ゴーストパンチ!」
「うひゃああああ冷たっ!? やめろっ、ぞわぞわするっ、ぞわぞわするから人の体に手ぇ貫通さすなっ!!」

 そんな、亡くなってしまってから、そしてあたしにとりついてからもうすぐ一年が経つ、姉の幽霊は。しかし幽霊のくせに、布団も敷いていないベッドなんて堅くて耐えられない、と言って毎朝あたしのベッドに潜り込んでは人をあまりよろしくない目覚めに導いてくれたり、起きたら起きたで人が抵抗できないのをいいことに、その青白い手をぺたぺたくっつけてきては、生前からは信じられないほど明るい笑い声を、きゃあきゃあたてたりなど、して、ああ楽しい、などと、言う。
 伸ばした、というよりは伸びてしまった、ざあと長い黒髪をなびかせて、ひどいくらいに見慣れた淡いグリーンの入院着姿から、枯れ枝みたいに細い手足を、ちらちらとのぞかせて。あたしはそうすることができないから、ただ考えるだけだけれど、きっと間違っていない。あのぶかぶかの袖をまくり上げれば、変色した点滴のあとがまるで鱗みたいに点々と現れるに決まっているのだ。笑顔を浮かべる姉の顔は、少し頬がこけている。
 けれど姉は、それでも今が一番楽しい、だなんてことを、しょっちゅう、言う。

「ねえ、薫。今日はどこに出かけるの?」
「なに、その、あたしがすでにどっか出かけることは決定している的な言い方……」
「なに言ってるの、健全な女子高生なら土日はちゃんとショッピングやカラオケでお金を浪費するものよ?」
「あんたのそのケンゼンなジョシコーセーイメージを作ったのはどこのどいつなんだ……んな毎週毎週出かけられるわけないでしょー、あたしのお財布力は姉ちゃんのおかげでずっと底辺レベルだよ」
「そうねえ、今日は、釣りとかしてみたいわぁ」
「話聞いてましたかー!? なに、幽霊って音声まで通り抜けちゃうわけ!?」
「ふふっ、だって、やってみたかったんだもの! ね、ね、行きましょうよ薫、あなたのその無駄に育ったないすばでーが生きるときよ!」
「無駄にとか言いやがったし、そもそもあんたはなにを釣りに行くつもりだ!? あーっ、こら、引っ張んなっつの、冷たいっ……!」

 まだあたしは着替えてもいないし、だいたい惰眠をむさぼれなんてことを言ったのはそっちの方だというのに、早く早くとひとをベッドから引きずり出す、霊障にしても悪質すぎる姉は、この一年の間で十八年間のすべてを取り戻そうとするかのようにいろいろなことへとあたしを引っ張り回した姉は、言う。

「ああ、身軽に動ける体が手に入って、ほんとによかった!」

 それを聞くたびに、あたしは、たまらなくなるのだ。

 触れることができないにしても、その他諸々の差はあるにしても、死んだ人間が生きたままの姿で自分の目の前に姿を現し、話をしてくれるというのは、あるいは幸せなことなのかもしれない。けれどもあたしが初めて幽霊としてあたしの前に姿を現したとき、あたしは多分、短いながらもこれまでの十六年間の人生のうちで、もっともひどい泣き方をしたと思う。
 そう、あのとき、まだ生前の控えめな面影を青白い顔のうえに残していた姉が、一迅の生ぬるい風とともに現れて、おずおずと話しかけてきたとき。それが姉だと認識するまでは早かった、なぜってあたしは姉が死んでから幽霊としてよみがえってくるまでの数日間ずっと、姉のことを頭の中から消したことは、一瞬たりともなかったから。だからあたしは姉が自分のことをどうにか話そうとその薄い唇を開くよりも早く、体の奥がかあっと熱くなって、あたしはそれから、多分とても長いこと、ひどく泣いた。
 姉はあたしを驚かせてしまったと思ったらしく大変に焦って弁明してみせたのだけれど、そうではなかったのだ。むしろその逆だったと言ってもいい。あたしはどこかでそうなるのではないかと思っていた、幽霊としてよみがえってくるだなんてことは予想できていなかったにしても。あたしはどこかでちゃんと知っていた。姉が、この世にどうしようもないほどの未練があるということを、あたしはちゃんと、知っていたのだ。
 あたしに対しての――憎しみ、という、未練が。

 ここのところ曇りが続いていたのが嘘みたいに天気が良かった。そのくせいい風も吹いているから、外に出るには絶好の日和。それと季節のせいも相まって、釣り堀にはそれなりにたくさんの人がごった返していたので、あたしたちはけっこう隅の方のあまり良くないポイントにしか行くことができなかった。と、いうことを、多分全く気にしていない、姉である。

「へえええ、釣り竿って持っていなくても借りられるのねえ」
「ううっ、ここまでの交通費とこの貸出料金とで……くっそぉ、あたしの貯金プランが……っ!!」
「薫って、がさつなわりにそういうところ妙にまめなのよね……それで、どうするの? これを垂らしてたら、釣れるの?」
「いやいやいや、どんだけバカだよあんたの中でのお魚サンは。餌使うの、餌。ほら、さっきもらったでしょ」
「やだ、このすごい臭いの!?」
「どーせこれからあたしらも潮くせーことになるっつう……あーもう、またお母さんにどやされるよ、これ」
「ふふふ、まあまあ、わたしも一緒に怒られてあげるから、ね?」
「いやあんたのせいだし、あんたはあたしの背中でにこにこしてるだけだろうがよ!!」

 しかし姉の言うことはなぜか半分くらい正しくて、ちょうど群れがきているところだったのか、あまり撒き餌をしていないのに、こんな場所でもあっという間に三匹の鰯がかかった。バケツに入れておいても最後の力を振り絞ってびちびちと跳ねる鰯は姉の興味を引いたらしく、釣りにきたというのにほとんど竿はあたし任せだ。もっとも、あたしに任せない方法もないのだけれど。そんなふうにしてあたしは、これまでと同じように、姉の言うことに付き合う。
 もとが、つまりは姉が生きていた頃のあたしたちの雰囲気の話だ、それがもともとこんなふうだったから、ほとんど毎日のように繰り出される姉のわがままに、あたしは一応、あらがうふりをするのだけれど。お金がなくなろうが、たまらない気持ちにさいなまれようが、あたしに選択権などほとんどないのだと思う。一度も本気で否定しようという気持ちにならないのは、きっとそういう呪いなのだとたまに考える。あたしはきっとそうやって、このひとに呪われているのだ。死んだ姉にとりつかれて、相応の償いを、求められているのだ。

「そらっ……おっと、なにこれ多っ、キモッ」
「すごいすごい、五匹も!! 今夜は鰯祭りねえ、薫」
「いや、そもそもあたし、魚ってそんなに好きじゃないんだけど……」

 あたしはそれを拒絶しない。姉には、あたしを振り回す権利がある。あたしから残りの人生のすべてを搾り取る権利だって、きっとある。姉はなぜ自分がこういう形でよみがえったのか理解していないようだったけれども、あたしはその理由を知っていた。そう、姉はきっと、あたしを道連れにするために、あたしのところへやってきたのだ。自分を殺した妹のところへ、同じものを差し出すように求めるために、やってきたのだ。
 だからあたしは、口では普段通りの、多分それなりに仲が良かったのであろう姉妹を演じながら、姉の憎しみに、必死になって応える。どうあがいても応えきれないであろうことに、応え続ける。あたしには、それしか、ないから。


 言い訳にもならないことだけれど、その日どうしてあたしがあんなに不満を爆発させたのか、実のところあたし自身でもよく理解していないところがあった。姉の体が弱かったのなんてあたしが生まれるよりも前からのことで、つまるところあたしの世界が始まった時点で姉というのは体が弱くて、自由に出歩くことも殆ど許されない人、として位置づけられていたのだ。今でこそこんなふうにじゃれついてくるけれども、あたしが持つ姉についての一番古い記憶では彼女は清潔で、清潔すぎていきもののにおいが何もしない部屋でぼんやりと遠くを見るように真っ白なシーツにくるまっていて、あたしは子どもながらにそれを生きている、と呼んでいいものかどうか、激しく迷った記憶がある。人はきっと、呼吸をしている、というだけで生きている、といってはならないのだ。
 ほんの数回だったと思う、あたしが姉と外に出たことといえば。それも大体病院から徒歩十分圏内の話で、やっぱりあれを外出と呼んでいいのかどうか、あたしは疑問だった。姉は結構、どこでも、楽しそうにしていたのだけれど。例えば病院から道を二本外れたところには数メートルの桜並木、と言ってどうかも怪しい、花見客なんて全然いない、まあ言ってみればただの道端に数本桜が並んで植えてあるだけの場所があったのだが、姉はまるで楽しみにしているみたいに毎年そこへ行こうとあたしを誘った。しかも桜が枯れてしまうまでに何度も。あたしの方はというといい加減見飽きていたそこに足を運ぶたび、なぜあそこの桜が綺麗だよなんて初めに教えてしまったのだろうと、微妙に後悔したものだ。それでも姉が笑うのが、あたしには不思議でたまらなかった。
 とにかくそんなふうに、姉は生まれた時からあたしが小学校に上がって、中学校に上がって、高校に上がるまで、ほとんど病院から出たことのない生活をしていたから。壁を叩いたのはあたしの手のひらだったけれども、あたしは手のひらがじんじんとうずくのを感じながら、どうしてこんなことをしているんだろうって、同時に思ってもいたのだ。姉の体調があまり良くなくてお出かけがお流れになるなんて、だって今まで何度でもあったことじゃないか。

"っ……なに、それ"
"か、薫……あの、ごめん、ごめん、ね?"
"ごめんじゃ、ないっ"

 どうしてだろう、どうして、だったんだろう。考えたって仕方のないことだけれど、それだからこそたまに立ち止まりたくなるほどにあたしはそれを思い出すのだ、目が痛くなるほどに白い病室に、驚きすぎて何も言えなくなっているらしいお母さんとお父さん、そして、当事者であり一番の被害者だというのに、なんとか事態の収拾をつけようと、あたしに向かって弱く笑いかけていた姉。壁を叩く前にあたしが床に投げつけたパンフレットがぱらりと一枚めくれて、目にまぶしいくらいの海の写真が広がった。
 大きな手術を控えていたのだ。もうすぐのことだった。危険もあるけれど、それがうまくいけば、完治するかもしれないという話だった。でもそれからしばらくは外出どころか起き上がるまでもかなりの時間がかかる、ということだったから、出かけるとしたら今のうちで、姉の容態は今までになく安定していて。だから、と言い出したのはあたしだった、姉が知っているのはほとんど春の風景ばかりだったから、じゃあ、夏の風景を見に行こうと提案した。お母さんもお父さんも、なにより一番姉が乗り気だったと思う。なにしろ入院患者どうしのコネクションをつかって、良さそうなところのパンフレットを集めてきたのは、ほかでもない姉だったのだ。もっともそれは、あたしの足元でばらばらめくれるばかりになってしまったのだけれど。

"……いいよ、だいじょうぶ、わたしは、大丈夫だから。ね、みんなで、行きましょう?"

 だから、姉をしてそう言わせたのは、いくつもいくつもめくっては映し出された青すぎる風景で、手をびりびりさせながら、肩で息をしていた、あたしで。
 姉の容態が急変したのは、行きの車にいざ乗り込もうとした、そのときのことだった。くずおれる姉と騒然とする近所と立ち尽くすあたしの頭上で蝉はわんわんとわめきちらしていて、しかし姉が目を閉じた瞬間、それらは面白いようにぴたりと止んだ。あたしが目にしていた蝉はちょうどそれが最後の一声だったようで、びっくりするほどあっけなく木からぽとりと落ちるのを見ていた、気がする。その次の瞬間にはもう、車に担ぎ込まれていたけれど。
 なにもかもが豪速球であたしの目の前を過ぎ去っていったから、その後のことを子細に順序立てて思い出せと言われても、あたしにはきっとできない。断片的な映像や感覚ばかりがいつまでも頭の隅に絡み付いている。良い子だったのに良い子だったのにとなぜかそればかりを繰り返しながらわめきたてる母親。姉の見たこともないくらい明るい笑顔の写真を抱えて乗った車から見上げた空が、なぜだかとても、綺麗だったこと。ひとを焼く窯から聞こえた、お腹の底にいやに響く音。細く細く立ち上っていく煙。学校みたいにみんな一様の服を着ていた親戚たちの、囁き声から聞こえた、あの子よ、という、声。あの子よ。あの子の、せいらしいのよ。続きは聞かなくてもわかる、なによりあたしがそれを、正しく知っていた。
 だから、姉はあたしのことが嫌いなのだと思う。憎んでいるのだと、思う。
 きっと――死んででも、ころしてしまいたい、くらいに。



「海の夕暮れって、なんか、すごく、いいのね」
「……語彙、足りなくない? あんだけ本、読んでたのに」
「そうねぇ……じゃあ、綺麗、って言っておきましょうかしら、一応」
「一応って……」
「わたしもね、たくさんのこと、知ってるつもりでいたんだけど。目の前にすると、そういうのってほとんど、ふっとんじゃうのね。薫は笑うかもしれないけど、ほんとに、なんて言ったらいいか、わからないの」

 少しだけ恥ずかしそうに笑いながら、姉は言った。姉の細い体は鈍く透明で、姉が今見つめているのであろう同じ景色が、靄がかかったようにあたしにも見えた。それはなんだか、不思議で、でも多分少しだけ、いとおしいことだったのだと思う。三人家族で消費するには多すぎる釣果を、しかも釣竿を貸してくれたおじさんの好意でたっぷりの氷と共にぶら下げているあたしの左手は、ぼんやりと痺れていた。
 あとどのくらいだろう、と、たまに、考える。このままでいいわけはないということは、はっきりとはしないにしてもわかっていることであった。このままでいいわけがない。幽霊に宿るのが魂なのだとしたら、今、姉の魂はいつまで経っても地上に縛り付けられたままなのだ、あたしの、せいで。生まれ変わりとか輪廻転生とかを頭から信じ切っているというわけではないけれど、とにかく次の何かというものが姉には用意されているはずで、あたしには姉の要望を果たす義務があるのと同時に、姉を早く成仏させてあげなければいけない、という義務だって、きっと、あって。

「海がね、見られて、ほんとに良かった。心残り、だったから」
「ん、ああ……うん、まあ、じゃ、よかったんじゃないの」
「うん。ありがとうね、薫」
「べっつに……晩御飯どころか、こっから先数日分の食料手に入れたから、お母さんも少しはお小遣いはずんでくれるかもだし」
「そうね。それで、たっぷり貯金なさいな」
「ん……う、ん?」

「ありがとうね、薫。いままで、ほんとに、ありがとう」

 そんなふうに、終わりをいつも、考えていたようなくせして。
 実際、目の前にそいつを突きつけられた瞬間、あたしの頭は、冗談みたいに、真っ白になったのだ。

「な……っ、え? なん、なに、言って」
「もう、いいの。もう十分だから、薫」
「なに……なに、何言ってんの、なに、言ってんのさ、姉ちゃん、っ」

 姉は。
 ほんとに、これで終わりみたいに、何もかもすべて吹っ切れてしまったかのように、身体のふちをきらきらと、きらきらと、輝かせた姉は、穏やかな顔で、笑って。いやなことを思い出した、すごくいやな顔だ。姉が、息を、止めた時の顔だ。あたしは姉に駆け寄った、それが無駄なことだってわかっていたのに。だって姉からあたしの頬をそっと触れることはできても、あたしは姉に触れられなくて。ああほんとうにひどいことだ。向こうからは手が伸ばせるのに。向こうからは、そこにいるって、教えてくれることが、できるのに。あたしのほうから、ここにいるんだねって確かめることが、できないなんて。
 でもおかしな話だった。やっぱりおかしな話だった、姉が死んでしまった時のように。だってついさっきまで海を見ながらあたしは考えていたばかりじゃないか、いったいいつ終わるんだろうって。この、途方もない償いは、途方もなかったはずの償いは、いつ終わるんだろうって。いつ、姉は、あたしのことを許してくれるんだろう、って。だから今姉がもういいって言ったのはそのままあたしが赦されたということとイコールでもあって、それならばあたしが次に発するべきは安堵のため息のはずで。

「なに……消えそうに、なってる、の……っ!」

 けっして、みっともなくふるえた嗚咽なんかでは、ない、はずで。

「ごめんね、つらいだけかも、しれなかったけど……わたし、うれしくって」
「っ、は……?」
「薫が、わたしをつなぎとめてくれたのが。ほんとに、うれしかったの」

 幽霊を、この世につなぎとめるのは、未練。
 ここにいたい、ここにいて、いなくなりたくない、いなくならないで、という、未練。
 あたしはそのときになって、やっと、理解する。姉が笑っているのが嫌で、嫌で、ぼろぼろ泣きながら、気がくるいそうなくらいに痛い本当のことを、串刺しにされたみたいに理解する。
 ねえ姉ちゃん、桜が綺麗だから、いっしょに見に行こうよ。ねえ姉ちゃん、もみじの葉っぱを取ってきたよ。ねえ姉ちゃん、雪うさぎってこれで合ってるのかな。ねえ姉ちゃん。姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん。

「ちょうど一年ね、薫」
「ねえ、ちゃん」
「うれしかったなあ、あのときも。ほんとに、うれしかった。わたし、たった一回しか、言わなかったのに。薫、そんなことまで、覚えててくれるんだもの」

 あたしは、それがだめになったってとき、心の底からすごく怒ったんだ、だって。だって、海に行こうよって言った時、姉ちゃんはとってもうれしそうにしてて。あたし、あたしは、だから、ぜったい行かなきゃって。姉ちゃんが、あの、ベッドにいつも横たわっていて、それが仕方ないみたいにしている姉ちゃんが初めて言った、それは、わがままだったから。こうしたい、という、ここにいて、これをしたい、という、未練、だったから。
 ありがとうねって姉は言ったのだけれど、あたしはきっとそれが聞きたかったと言っても良かったはずなのだけれど、どうしてだろう、あたしは耳を塞いでしまいたい気分だった。未練。ここにいてほしかった、という、未練。ここにいてよ、もっといろんなことしようよ、もっといろんなものを見に行こうよ。姉は幽霊だけど今が一番楽しいよって、そういえば、なぜだかいつも、あたしに言い聞かせるように言っていた。ありがとう、つなぎとめてくれてありがとう、おかげでいろんなものが見られて、楽しいよ。
 だけどそれを聞いて、あたしはいつもたまらなくなる。今だってそう。ありがとうなんて聞きたくない。
 そんな、もう満足してしまったみたいなこと、あたしは、聞きたくなかった。

「でも、もう、いいの、もう、十分。楽しかったわ、それこそ、なにもかなしいことなんて、なくなるくらい」

 いっそ。
 いっそ、憎んでくれるのなら、そのほうがよかったのに。
 終わらない憎しみを抱えて、未練を抱えて、それでもあたしの側にいてくれるのなら、それで、よかったのに。

「だから、ありがとう。」
「っ、だめ……だめ、姉ちゃん、姉ちゃんっ!!」

「ばいばい、薫」

 あなたの笑顔なんて、残酷なものを知ってしまったから。
 あたしは涙の中に、立ち止まる。
 
 つらいのは、憎しみを向けられることではなくて、ごめんなさいが言えないことではなくて、ありがとうが言って貰えないことでも、なくて。
 ただあなたが、もうここにはいないこと、たったそれだけ、なのに。

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